オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

あなたはどこへ行くのか

2015-04-26 00:00:00 | 礼拝説教
2015年4月26日 伝道礼拝(ヨハネ福音書14:6)岡田邦夫


 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ福音書14:6

 この三田市の公園施設で「淡路風車(かぜ)の丘」というのがあります。南仏風の建物と風車が作られています。その奥に「ゴッホの館」があるというので、以前、家内と二人で行ったことがあります。籔の中に廃墟のようにありました。この土地は画家の大野輝一氏が芸術の園“アートガーデン”をつくろうとしたものです。氏はここからの眺めが敬愛するゴッホの地、南仏アルルを思わせるといたく気に入り、人々が本来の自分を回復する場として複製名画の美術館を中心とした施設を構想しました。西宮の自宅から通っては記念碑の建設などをすすめたのですが、美術館にとりかかる前に昭和47年、77歳でこの世を去りました。

◇どこから来て、どこへ行くのか。…問い
 日本人にはゴッホの絵を好む人が多いようです。伝記を読むと人生に苦悩や迷いがあったことが明らかに記されています。彼が師と仰いだのはゴーギャンでした。彼を呼んで同居したこともありました。作風が違いました。ゴッホは事物を見て、その一点に集中して描きますが、ゴーギャンは見ないで描くように勧めます。見たままではなく、それを内面化して、それを総合的に描いていくというものです。違いすぎたかもしれません。別れていきますが、それから、芸術家としてそれぞれの道に進み、多くの作品を残していきます。ゴーギャンは素朴で単純な生活を求めて、1891年に南太平洋にあるタヒチに移住し、絵を描きます。その中の最も有名な大作が“われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか”です。
 ポール・ゴーギャンが自分の人生のすべてをかけて描いたといわれる絵です。アマゾンの原生林に住むヤノマミ族の村の真ん中にある、すべての生活の中心の広場を描いたものです。この広場の真ん中には、この村で生まれた人たちのへその緒(お)が埋められていて、ここを村人たちは「人間の根っこ」とよんでいるそうです。木の根っこが土に根をおろし、土から命をもらっているように、人間もまた、土から生まれて、土に帰るという意味なのでしょうか。
 「われわれはどこから来たのか、われわれとは何者なのか、われわれはどこへ行くのか。」は宗教的問いです。宗教の目的は安心立命、真理探究、苦の解決と分析したりもしますが、このセンテンスが最も適切かも知れません。国際的な大衆説教者だったビリー・グラハムがこのフレーズをもって、訴えかけていました。最後の晩餐で弟子トマスがイエスに尋ねます。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう」(ヨハネ14:5)。それはイエス・キリストがどこに行くのか、わからないと言っているのですが、イエス・キリストはあなたの行く道、あなたの行く所はここですと教えられたのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(14:6)。

◇どこから来て、どこへ行くのか。…答
 中世の神学者アウグスティヌスは若き日に人の道を尋ね求め、たどり着いたのが、父なる神の懐でした。この問いにこう答えています。「人は神に造られたのだから、神の懐に帰るまでは決して安らぎはないであろう」。
 山の話です。北アルプスに四方八方眺めの良い八方尾根があります。今ではバスとリフトがあるので登りやすいのですが、戦前はかなり難しい山でした。今でも白馬の大雪渓(せつけい)(雪の残る谷)が近く、道に迷う危険な山です。ケルンと呼ばれる石積みの目印が要所にあります。第二ケルンには銅板がはめられていて、私が読んだ本には漢字で聖書の言葉、ヨハネ福音書の「わたしが道であり、真理である」が彫られているとありました。続きはこう記されています。
 「じつはこのケルンは昭和十二年のクリスマスの翌日、山にスキーに来ていたクリスチャンが吹雪にあって遭難死したのを記念に、あとの登山者が二度と迷うことがないようにと、お父さんの牧師さんや友人たちが、お金をあつめて建てたものでした。村の人たちもこころよく力をかしてくれ、石やセメントを山に運んでつくりました。リフトのない時代でしたのでたいへんな力仕事になりましたが、失った尊い生命のかわりに建てられたケルンは、あとで多くの人の生命を救う役目をしています。遭難死した人の名前は『やすむ(息)』というので、『やすむケルン』と名付けられました。ひとりの死が多くの人たちのためになることは、イエスさまの死でおしえられます。イエスさまが『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』と教えられたのは、あとから進む私たちに道を示されるためでした。雪の山を歩くと足跡がつき、後からくる人の目じるしになります。先頭になった人はたいへん苦労しますが、後から来る人たちのためを考えると勇気が自然とわいてくるものです。自分の生活や苦難も、他人のためのものということを考えてみましょう」。
 イエス・キリストは迷える羊を安全な場所、豊かな所に、天の御国へ導く導き手です。正しい道、真理の道、命の道に導かれます。また、復活されたキリストがエマオの途上で弟子たちと共に歩かれたように、私たちの上り坂、下り坂、まさか(坂)の人生の旅の同伴者となってくださいます。しかし、それ以上に、「道」そのものなのです。聖書の原語では、道は動詞の「踏む」からきています。踏まれて道が出来るのです。イエス・キリストはユダヤの宗教的指導者に迫害され、ののしられ、踏みつけにされ、十字架にかけられ、踏み殺されたのです。しかし、それは神のみこころでした。神が御子を罪人である私たちのかわりに裁き、踏みつけたのです。復活されて、私たちが神のもとに、天の御国に行けるようにして下さったのです。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とはこのようなことなのです。ある教会の講壇は赤いカーペットが敷いてあります。イエス・キリストの十字架で流された贖いの血を表しているとのことです。私たちの前に敷かれた天国への道は、イエス・キリストの犠牲の血による生きた「レッド・カーペット」なのです。あなたはこれを信じますか。信じた者はまた、イエス・キリストを指さし、この方が真理の道、命の道であると証ししてまいりましょう。

あなたはどこにいるのか

2015-04-19 00:00:00 | 礼拝説教
2015年4月19日 主日礼拝(創世記2:7、3:1-10)岡田邦夫


 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」創世記2:7

 聖書は天地創造の話から始まります。冒頭の句の語順は「初めに・創造した・神が・天と地を」です。初めに出来事ありきです。神とは何か、世界や人間とは何かと定義づけしたりしていないのです。創造論が正しいか、進化論が正しいか、過去を論じさせるものではないし、あるいは性善説か性悪説なのか、判断させようとはしません。神が人に語りかけている書だと私は思います。今、あなたは神の前にどう生きるのかを問いかかけるメッセージの書なのです。

◇蛇の問い
 創世記1章を新約聖書のヨハネ福音書はこう書き記します。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。この方(キリスト)は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた」(1:1-3)。光あれと神の言葉が発せられると光が生じ、すべてが神の言葉によって、世界が造られたのだ、「さあ人を造ろう」と仰せられたから、人が存在しているのです。2章(2:7ー8新共同訳)では「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」。すなおに読めばこうです。人(あなた)は土に塵だ、他の被造物と変わらない存在だ、しかし、神の息=霊が吹き込まれ、神と交わることができる者として造られているのだ、もし、創造者を無視して生きるなら、生きてはいても、本当は生きていないのだと告げているのではないでしょうか。
 神は命じられました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(2:16-17)。神が「われわれに似せて」人を造られたというのは、最高の特権です。神に近い自由意志を与えられたと言っても良いでしょう。この禁止命令に従うも従わないも自由だが、従って欲しい、そのようなことなのでしょう。
 狡猾(こうかつ)な蛇が現れます。サタンです。誘惑してきます(3章)。疑わせます。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」。次に甘い言葉で詰め寄ります。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(3:4-5)。「神のようになる」は罪の罪たるところです。結局、アダムとエバは神の命令を破り、神の言葉を無視してしまいます。一つの言葉だけ取り出しましょう。「神のようになる」は「支配する」ということだと思います。
 今日、紛争のニュースがしきりと入ってきます。武力で支配しようとする。経済で支配しようとする。強い者が弱い者を支配しようとする。ある人種がある人種を支配しようとする。身近な所にもあります。ここで言おうとしていることは、性格を言うのではなく、根源的な意味での支配欲です。上の者が下の者を支配しようとする。親子においても、夫婦においても、友人間においても、支配しようとする。表から、裏から支配しようとする。世界でも身近でも起こっている。時に人は神をも支配しようする。神を利用します。「支配」は諸悪の根源です。アダムは私たちであり、私です。いったい、だれがこの死のからだから私を救ってくれるでしょうか。
 しかし、神はこの人類を救うために働かれるのが聖書の歴史です。

◇神の問い
 神は問いかけます。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」(3:9)。神のかたちに造ったのに、神の息を吹き込んだのに、ふさわしい助け手を与えたのに、あなたの心はどこにいてしまったのか。神に近い自由意志を与えたのに、神の言葉を聞けない所にいってしまったのかと問うのです。
 それは招きの声です。帰ってくるように招いています。神の言葉が聞こえる所に帰ってくるように招いておられます。放蕩息子が身を持ち崩した時、こんな所にいてはいけない、悔い改め、心を方向転換し、父の所に帰って行きました。父は大きな愛で迎えてくれました。私たちは父の懐こそ居場所です。主イエス・キリストはあるべき居場所に帰すために、土の塵である人となられ、仕える者となられ、十字架において、罪の贖いをなし、私たちをサタンの支配から、神の恵みの支配のもとに帰してくださいました。
 主が公生涯に入る前、サタンの誘惑を受けました。サタンは全世界の支配権を与えようという誘惑したのですが、イエス・キリストの答は聖書の言葉でした(マタイ4:1-11)。
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』
『あなたの神である主を試みてはならない。』
『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』
 私たちはこの誘惑にさらされています。無意識のうちに、神のようになろうとします。支配欲にかられます。最も気を付けなければなりません。しかし、私たちは神のみ声の聞こえる所に魂をおくなら大丈夫です。そして、このサタンに勝利されたイエス・キリストにある時に、支配欲という罪の状況から解放され、神の恵みにもとで、神と人に仕える者となっていくのです。
 最後の晩餐のときです。主イエスは弟子たちの前にひざまずき、汚れた足を洗われてから、過ぎ越しの食事をしました。何と真の支配権のある方がそれを放棄して、弟子の足を洗われ、しもべとなられたのです。主は手本を示したのだと告げ、十字架に向かわれました。命の血を流し、全身どす黒い支配欲に代表される罪にまみれた私たちを全くきよめて下さったのです。そうして、きよめられた者は「神のように」ではなく「しもべのように」仕えてまいりましょう。
 あなたは神のみ声の聞こえる所にいますか。あなたは父なる神の懐にいますか。あなたは御子イエス・キリストの血潮の中にいますか、あなたは聖霊によって罪の支配から解放されて自由のもとにいますか。あなたはイエスの手本に倣ってしもべの位置にいますか。あなたは平和の福音を伝えようと玄関口に立っていますか。それともそうでない所にいますか。厳しく問われ、また、優しく招かれています。『あなたは、どこにいるのか』。

始めに、神が

2015-04-12 00:00:00 | 礼拝説教
2015年4月12日 主日礼拝(創世記1:1-5、26-31)岡田邦夫

「初めに、神が天と地を創造した。」「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記1:1、31)

 江戸末期に新島七五三太(しめた)という青年が西洋文化を学びたいと思いを抱き、アメリカに渡航したいと思っていました。しかし、それは国禁を破ることでした。18歳のある時、友人から借りた書の中に漢文訳の聖書をみつけます。目に飛び込んできたのが「創世記」の天地創造の物語。“この世界には真の神がおられて、この天地万物をお造りになり、それらを支配しておられる神がおられるのだ。”それで決心がつき、密航。その船旅で、新島襄と名を改め、アメリカで学び、帰国後、ミッションスクール、同志社を設立するのでした。

◇「始めに、神が」そこから始まる
 話は変わりますが、もし、車に乗っていたとします。おおむね安全だと思って乗っています。タイヤがパンクしないだろうか、ガソリンがもれて爆発しないだろうか、道路が地割れしたり、電線が切れて落ちてこないだろうか等々、心配したり、確かめたりはしません。車のメーカー、道路公団を信頼して、絶対と言うわけではないのですが、おおむね安全だと思って乗っているわけです。
 この絶対確かだと言ってるのが、創世記1章の天地創造の神です。「初めに、神が天と地を創造した。」なのです。森羅万象、すべて世界にあるものの造り手は神。その神は間違いなく確かなお方なのです。この宣言から始まるのです。すべては神から始まったのです。私という存在も、私を取り巻く世界も、神によって存在しているのです。
 もともとは何もなく、混沌としていました。神が「光と。あれ。」と仰せられ、光ができました。こうして夕があり、朝があった。第一日。光が存在へと呼び出されたのです。そうして、“神が「何々」と仰せられた。するとそのようになった。「神はそれを見て、よしとされた」。こうして夕があり、朝があった。”と第六日まで、同じ言い方で、綴られていきます。六日目、人は神のかたちに創造され、神と交われる特別な存在として、造られたことが明記されています。人については次週お話します。最後は「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」で結ばれます。すべては等しく、価値あるもの、非常によいものであるという世界観を示します。すべての人が差別なく、神のお声によって、生へと、存在へと呼び出され、「見よ。それは非常によかった」と神が見ておられるのです。ですから、人はこの創造者に自分の存在を任せ、生きる道をみ言葉、み声に従っていくのが、最も確かなのです。「始めに神は」で歩んでゆく人生(歴史)でありましょう。

◇「始めに、神が」そこに帰る
 人は「始めに神は」でスタートするようにと話しましたが、また、「始めに神は」に戻ってくることも重要なことです。人ははなはだ良く造られたのに、神に反逆し、罪の歴史をたどっていく、しかし、神の御手が伸ばされ、救いの歴史も展開されます。初めがあったのですから、終わりがあります。聖書正典の最終の書、ヨハネ黙示録において、終わりが来て、救いが完成し、現れる新天地はエデンの園のようだと預言されています。エデンの園の回復です。イエス・キリストは最終章で言います。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示22:13)。
 さまざまな問題に遭遇する時、「初めに、神が天と地を創造した。」に戻ってくるのです。ヨブは財産も家族も健康も失い、なぜ、義人が苦しまなければならないかを問いに問い続けます。ついに創造者なる神がヨブに現れ、誰が世界のあらゆるものを創造したかと、恵みをもってと迫ると、ヨブは目が開かれ、出会いの祝福に与ります。試練の中に創造者が現れたのです。
 伝道者(ソロモン)は人生のあらゆる経験をすのですが、結局、何をしても「空の空」、虚しいのです。人も獣も死んだら同じ所に行く、虚しいことだと。そして、自分が信仰経験をしたことから、メッセージします。神なしの人生は虚しい、だから、「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」と。虚無の中から、創造者に目を向ける時、魂が満たされるのです。
 ユダの国にバビロン帝国が押し寄せて、滅ぼそうしている、民族として絶望の危機にある。そのような時、たとえ補囚されても、またエルサレムに帰って来れますとイザヤが預言します。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」(40:26)。絶望の中から、創造者に目を向ける時、希望と力が与えられるのです。
 新約においては復活と重ねて、望みのない者への福音が告げられます。「アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした」(ローマ4:17-18)。私たちは無から有に呼び出され、生きているのです。さらに、死という「無」から復活の「有」へと呼び出され、創造者、救い主のお声に導かれ、信仰を持ってお答えして生きていくのです。救い主を信じた者として、帰るべき所に帰ろうではありませんか。
 「初めに、神が天と地を創造した。」「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記1:1、31)

木には望みがある

2015-04-05 00:00:00 | 礼拝説教
2015年4月5日 復活祭礼拝(ヨブ記14:7ー12、19:25ー26)
岡田邦夫

 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」ヨブ記19:25

 コブシが真っ白に咲き乱れるといよいよ春だと感じます。そして、日本人が愛してやまない桜が華やかに咲きほこり、人生に春が来たような思いにかられます。ヨブ記には次のような言葉があります。「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない」(ヨブ14:7)。桜も一気に咲いて、はらはらと散っていき、葉が出て、夏を過ごすと、秋には葉が落ち、枝だけになる。まるで死んだかのようだが、春が来れば、生き返ったかのように花を咲かす。また、ヨブの言うように、たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがないのです。
 しかし、人はこの華やかに咲き、華やかに散っていくものに、美しさを感じ、深い価値をおきます。(プラスチックのコップよりも、薄いグラスの方が価値ありと思うのも同様で、落とせばすぐ壊れてしまうからです。)人生は儚(はかな)く、短く、すぐ、散っていくのが現実ですから、無意識のうちに、散りゆくものに共感するのでしょう。そして、逆境に立たされると、いっそう強く感じるようになるものです。

◇深い穴の中から光がかすかに見える
 ヨブは大変な財産を持ち、家族に恵まれ、敬虔な信仰者でした。しかし、天上では神と天使たちの会議がなされ、サタンがこれらの物を持っているから、神を敬っている。それらをなくしてしまえば、神を呪うだろうと主張。神の許可が出て、サタンはヨブの財産を奪い、子供たちの命を奪い、健康も奪います。そんなになってもヨブはひるまず、信仰を告白します。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」「幸いを神から受けたのだから、わざわいをも受けなければならない」とみごとです(ヨブ1:20,2:10)。その後から、自分の生まれた日を呪い、嘆きが始まります。友人が励ましに来るのですが、議論になるばかり、ヨブは“正しい者がどうしてこのような苦しみにあわなければならないのか”と訴え、苦悩は続きます。絶望します。「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。 たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか」(14:7-10)。死んだら何もかも終わりだ。しかし、この苦しみ(苦役)から解放されたい。「人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう」(14:14)。矛盾した思いに葛藤します。生き返るという復活の光をかすかに見ているかのようです。
 浅野順一師の「ヨブ記」にはヨブの苦難を「深い穴」に例えています。「健康であった時には知り得なかったことを病弱となることによって知り得る。それはちょうど深い井戸の底には真昼間でも天上の星の影を宿す。その井戸が深ければ深いほどその影もはっきり映るのとおなじではないか」(岩波新書p24)。人は深くて暗い穴の中から、見えないようで、何よりも現実に存在する神が見えてくるのです。真の光が見えてくるのです。

◇暗い墓の中から光が輝き見える
 では、見えてくる神は災いをもたらす怒りの神、裁きの神なのでしょうか、それとも、和らぎの神、救いの神なのでしょうか。こんな災いに遭うのは自分の人生が間違っていたから、自分が悪かったからだと、それこそ死んでも思いたくないのです。「あなた(神)自ら保証人となってください。ほかの誰がわたしの味方をしてくれましょう。」とヨブは求めます(17:3)。さらにこう告白します。
 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」(19:25-26)。だれか困った時に親戚が助けるのを「贖う」というのですが、神が親戚、味方であり、天の神が自らを助けてくれると言うのです。そして、後の日=終末の復活を予感させる言葉が続きます。そして、「神を見る」と。
 ヨブの話は続きますが、復活について述べましょう。ここではおぼろげですが、神の御子、イエス・キリストが地上に来られ、肉体をとられ人となられまして、明らかにされました。病や障害は罪が原因するものではなく、神の栄光を現す目的があると言われます。そして、人間の問題は罪を内に持ち、罪を犯し、偽善に生きていることだと主は裁きの神として言われます。しかし、御子イエスは救い主として、罪という人類の病を十字架において自ら背負い込むことで、私たちの罪を贖い、罪の病をいやし、きよめ、義としてくださったのです。そして、死後よみがえられ、天に帰られました。私も復活にあずからせるためです。
 塩の結晶ですが、食卓塩など小さな結晶です。ほぼ不純物のない塩水からゆっくりと結晶させると大きな宝石のようなきれいなものが出来ます。不純物がなければきれいな結晶になるのです。イエス・キリストによる贖いは罪という不純物を一切とりのけ、きれいな「復活体」に結晶させてくれるのです。イエス・キリストの贖いにより、罪をきよめられてこそ、栄光の体によみがえるのことが出来るのです。贖いにより、目の汚れもきれいにされ、神を見る事が出来るのです。その新約の光でこの聖句を目にする時、輝くみ言葉となってきます。
 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」(19:25-26)。
 新約でパウロは復活の様を復活の章で植物にたとえています(1コリント15:42-44)。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです」。
 ヨブ記的な言い方をすれば、木には望みがあるように、私を贖う方によって、復活の希望がある。私が試練にあったことも無駄ではなく、私の元の元にある罪というどうにも処しがたい神への反逆という罪が十字架の贖いにより、赦され、きよめられたのです。後の日に、主が来られ、栄光の体によみがえり、神の審判があっても、小羊イエスのしるしが額にあるので、新天新地に入れていただける。そして、神と共に永遠に喜びの日が続く、そう、聖霊によって確信する。「私を贖う方は生きておらる」。今通っている試練の穴も無意味ではない。上には光が見える。だから、今をしっかり信仰に生きていこう。