オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

アカンの隠し部屋

2016-05-01 09:31:16 | 礼拝説教
2016年5月1日 主日礼拝(ヨシュア記7:1~5)岡田邦夫


 『明日に備えて自分を聖別せよ』…『イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない』(ヨシュア記7:13新共同訳)。

 小学生の時に、東京の我が家に大阪のいとこが訪ねてきました。いとこといってもずいぶん年上、そして、私より少し年下の娘を連れてきました。私といえばおとなしく奥手、その女の子は活発でませているから、話が合わない。しかもしゃべりの大阪人。すかさず言われました。「邦夫(くん)ちゃん、あかん!」。今日の話はイスラエル人のアカンという人のあかん話です。

◇HOW…侵攻の秘訣
 仕事にしろ、人生にしろ、何しろ、成功の後に失敗があり、失敗の後に成功があるという話はよく聞きます。その典型的なのが今日のところです。
 ヨルダン川を渡って、最初に堅固な城壁に囲まれたエリコを崩し、圧倒的な勝利をし、エリコを手中に収めました。次の町はアイ。まず、ヨシュアは斥候(スパイ)を遣わし、偵察します。少人数で落とせると判断。3千人の兵で戦いを挑んだのですが、敵に圧倒され、城外まで追われ、15人を犠牲にし、逃げ帰るという始末。完全な敗北。このことから、イスラエル人は実は弱いのだと近隣諸国に知れ渡れば、どこも攻め落とせず、撤退か滅亡しかないのです。「民の心がしなえ(心は挫(くじ)け)、水のようになっ」て、全くの戦意喪失、絶望してしまったのです(7:5カッコは新共同訳)。
 ヨシュアはここで民に神の御心としての「くじ」をひかせ、敗北の原因となった人物をさぐります。それで聖絶せよとの命令を破り、欲に目がくらみ、自分の戦利品にして隠していた人物、アカンが原因であることが判明します。証拠品が出てきます(美しい外套、銀二百シェケル、五十シェケルの金の延べ棒)。主の契約を破ったこの大罪に対し、石打の刑が下され、アカンはアコルの谷で処分されます。これで原因が取り除かれたので、戦意(モチベーション)回復。
 そこで、失敗から学んだことを生かし、戦略を立てます。今度は人数をかけるようにし、二手に分け、一隊は正面から攻撃を仕掛けておいて、逃げる。敵は前回と同じように城壁を出て、追ってくるだろう。もう一隊の伏兵は敵兵のいなくなった町を焼け打つ。そして、敵兵を挟み撃ちにする。そうやって、全滅させてしまう。ただし、戦利品の一部を与えることにする。そうして、作戦の通り行われ、アイを陥落させてしまいます。
 敵は前回の成功があだとなり、大失敗、滅亡に至りますが、こちらは失敗を見事に生かし、圧倒的な勝利に導かれました。ヨシュアはこれを自分の手柄とせず、祭壇を築いて、主に感謝し、十戒の写しを石に書き、祝福と呪いの律法を民に読み上げるのです。神の法をもって国造りをしようというわけです。

◇WHAT…深交の秘密
 さらに重要なのはHOWではなくWHATの問題です。「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった」(7:1)。
聖絶のもの=奉納物(口語訳)=滅ぼし尽くしてささげるべきもの(共同訳)。今の私たちにはこの聖絶という概念には何か違和感があります。私のつたない言葉では説明しきれない、何か神の領域のものではないかと考えています。しかし、伝統的な解釈から、深い意味を探っていきたいと思います。
私利私欲の戦いであってはならないことはまず、わかります。
 「滅ぼしつくす」というのは罪びと(敵)に対する神の裁きを契約の民が代行することを意味しているのではないでしょうか。それを代行する者には力はないけれど、その力のない者が神の力を示すのです。ですから、そこでの戦利品は決して人のものではなく、神のものであり、人が神に献げるべきものなのです。それを欲にからんで自分のものにするのは、神のものを盗み取るという「不信」の罪です。それで、神はイスラエルに向かってお怒りになったのです。
 戦いに無残に敗れ、民の心が挫け、水のようになったのも、それを気付かせるためだったのでしょう。ヨシュアは祈ります。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。…あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか」(7:7,9)。砕かれた者の祈りです。 鍾乳洞などで知られている石灰岩、結晶質のものは大理石に使わますが、そうでないのは粉末にして、セメントや白壁から歯磨き粉まで多様に使われています。塊を砕いて、粉末にするとよく水を含みます。その砕いたものを焼くと生石灰となって、大変水を吸収しますので、乾燥剤に使われています。そのように魂が砕かれると神の恵みがたいへん良く吸収しやすくなるのです。挫折を御前に持ってくると砕かれた魂となり、これまで吸収できなかった神の恵みが吸収できる状態になるのです。神のみ思いは人の魂が砕かれて、神の愛と恵みを十二分に吸収してほしいのです。
 私の中の隠し部屋にこれは渡せないというアカンの罪を隠していないでしょうか。強情な自我とか、自己中心の罪というもの、潜めていませんでしょうか。そのアカンをその部屋から追い出す必要があります。きよめられなければなりません。その隠れた部屋には隠れたる神がお入りになるところだからです(マタイ6:6)。
 イスラエルにおけるアカンの罪はアコルの谷で処分されましたが、私たちの中のアカンの罪はゴルゴダの丘で処分されたです。ただし、イエス・キリストが私たちの中のアカンの罪を負って、身代わりに十字架に磔(はりつけ)になり、人々の罵り、呪いという石が投げつけられ、神の怒りという石が降り注がれ、息絶えられたのです。その御子の犠牲の血が私たちをきよめるのです(1ヨハネ1:7)。そこから、本来あるべき、奥深い神との交わりを回復するのです。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(同1:3-4)。

 私たち信仰者の真の敵は見える誰かや、見える何かではなく、見えないサタンです。サタンに敗北したけれど、主によって立ち直ったペテロがこう言っています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」(1ペテロ5:8 -9)。敵はサタンなので、必ず、神が味方でないと勝ち目はありません。イエス・キリストはしっかりと味方してくれるのですから、こちらもしっかり信頼していきましょう。
 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。…罪に定めようとするのはだれですか。…私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ8:31-37抜粋)。
 ヨシュアは勝利後、神の契約(約束)の言葉、律法によって国の形成をしますが、新約の私たちは「み言葉」によって、信仰形成、教会形成をしていくのです。イエス・キリストが公生涯に立つにあたって試みられた時、サタンに対して、み言葉にこう書いてあると突き付け、勝利されたことが、私たちのモデルです。日本刀というのはしなやかでありつつ、ピストルの弾丸も真っ二つに切り裂くほど強靭だという実験結果もあるほどです。職人が火をいれ、たたいて、叩き込んで作り上げていくから強いのです。信仰者も神のみ言葉を心の中に叩き込んで参りましょう。その叩き込まれた「み言葉の剣」こそがサタンに打ち勝つのです。

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