2017年2月26日 わかりやすい伝道礼拝(ヨハネ福音書12:24)岡田邦夫
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ福音書12:24
小学生の卒業文集に私の将来の夢を載せました。「ぼくは将来、科学者になって、空気の中のサンソや炭酸ガスやチッソを使って、たべものを作りたい」でした。あるプロジェクトに参加したことがあります。ガムの原料を化学合成して作るというものでした。上々の出来上がり、その試作品を製菓会社に持っていったところ、頭から断られました。口に入れるものだから、合成はだめ、天然チクルでなければ絶対だめだと…。人の手で無機物から有機物を作るのはほとんど不可能と言われています。しかし、植物の葉っぱはそれが出来る光合成工場なのです。太陽のエネルギーを使って葉緑体が水と二酸化炭素から、炭水化物を作り出し、酸素は空気中に放出します。さらに大豆や黒豆など豆類は空気中の窒素を取り込んで、根っこに運び、小さな丸いこぶに固定し貯めます。それが窒素肥料になるのです。それで、豆はやせた土地でも育つのです。イエス・キリストは神の国の福音を話されるとき、よく、植物にたとえておられます。ここでは「麦」(種)の話です。
◇一粒の麦、地に落ちて
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」。豊かな実を結ぶためには地に落ちる、地にまかれなければなりません。畑を貸してくれている地主さんが「播きさえしておけば何とかなるものだ」と口癖のように言っています。確かにそうです。ただ、タイミング、播き時というのがあります。稲の場合は早い遅いはありますが、黒豆は6月下旬で、天候を見極めて植えなければ、大粒で豊かな実を結ぶことはできません。これは植物の仕組みです。
人生においても、適切にその人の才能の種が播かれれば、「豊かな実を結びます」。稲の場合は胚芽が赤ちゃんで、白い部分の胚乳がミルクです(炭水化物)。適温で水分があれば、発芽のスイッチが入って、胚芽赤ちゃんは芽を出し、ミルクで成長し、スーッと葉を上に伸ばしていきます。しかし、ダイズの種には胚乳がありません。葉で包んでいる状態。発芽のとき、厚みのある双葉が地中から顔を出します。その双葉の中に栄養分がため込まれているのです。それは芽生えを大きくするためです。それから、広い葉の本葉が出て、木となり、大きな実を結ぶのです。人生において、芽生え方は才能によって人それぞれ違うのです。実り方もそれぞれに相応しい特徴があります。
◇一粒の麦、地に落ちて死ねば
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」。地に落ちて死ねば…という強い言い方で主イエスは言われます。自己中心の生き方をやめて、誰かのために、他者のために生きようとしなさいというメッセージです。自分を愛するように隣人を愛する生き方です。他者を生かせば自分も生かされるのです。
ご存知の方もおられるでしょうが、星野富弘さんの話です。彼は中学校の体育の先生でしたが、授業で生徒たちの前で宙返りをした時に首から落ち、首から下の運動機能を失ってしまいました。首から下が動かせないのですから、自分では何もできず、すべて人にしてもらわなければならない。いのちが一番大切だといわれても、生きていてもしょうがない。自暴自棄でした。その失意の中で聖書にふれ、キリストと出会って、救われました。生きる意味を見出したのです。唯一動かすことができる口に筆を加えて絵を描き、それに詩を書き添えました。その作品は多くの人々に感動と生きる喜びを与えています。その詩画集「鈴の鳴る道」に見事な詩が載っています。
「いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」
彼もまた、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」を生きているのです。首から下が動かないことを「賜物」として生かし、その目線で人生や信仰を描いています。
◇一粒の麦、地に落ちて死ねば、豊かな実を結ぶ
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」この一粒の麦はイエス・キリストご自身です。これと同じメッセージがあります。「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません」(ヨハネ15:13)。
三浦綾子著「塩狩峠」は実話に基づいて書かれました。1909(明治42)年2月28日、官営鉄道天塩線(現・JR北海道宗谷本線)の名寄駅を発車した列車は旭川へ向かっていた。しかし、途中の塩狩峠で最後尾の客車の連結が外れて逆走し、勾配を下って暴走した。満員の乗客に死が迫る。そのとき、鉄道職員のクリスチャン長野政雄が線路に飛び降り、その身体で車輪を止め、自らの命と引き換えに乗客の命を救った。「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません」の自己犠牲を実践したのです。
私たちが罪を犯し、滅びに向かって暴走している。イエス・キリストは私たちをその滅びから救うため、私たちの列車に乗り込み、ご自分のいのちを塩狩峠ではなく、ゴルゴダの丘の上に身を投じ、滅びへの暴走を止め、救ってくださったのです。あなたのために注ぎだされたイエス・キリストの自己犠牲の愛、これ以上の愛はありません。
主イエスが一粒の麦として、私たちのために死なれたので、多くの人が救われ、豊かな永遠の命の実を結びました。私はある時、自分が無くなってしまうのではないかという、言うに言われぬ恐怖に襲われことがあります。一粒の麦が死ぬというのはその恐怖にとことん襲われなければならなかったのです。十字架の上で主は叫ばれました。「わが神、わが神。どうしてわたしをおみ捨てなったのですか」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)。主イエスが私たち、罪人に代わって、ご自分の命を捨てるということは、神に捨てられるという地獄の恐怖を全身に受けることなのでした。私たちに代わって…。それゆえに、死後、栄光の体に復活され、私たち、信じる者に復活の命、永遠の命、平安の命の実を結ばせてくださったのです。
ですから、永遠の命を与えられた者はそれぞれの麦の種を自己中心にそのままにしておかず、それぞれの自己犠牲の種をまきましょう。豊かな信仰の実を結ぶことをイエス・キリストは約束しておられます。そのためには、私たちは絶えず、一粒の麦となられたイエス・キリストの自己犠牲の愛を身に受けて、生きていくのが一番です。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ福音書12:24
小学生の卒業文集に私の将来の夢を載せました。「ぼくは将来、科学者になって、空気の中のサンソや炭酸ガスやチッソを使って、たべものを作りたい」でした。あるプロジェクトに参加したことがあります。ガムの原料を化学合成して作るというものでした。上々の出来上がり、その試作品を製菓会社に持っていったところ、頭から断られました。口に入れるものだから、合成はだめ、天然チクルでなければ絶対だめだと…。人の手で無機物から有機物を作るのはほとんど不可能と言われています。しかし、植物の葉っぱはそれが出来る光合成工場なのです。太陽のエネルギーを使って葉緑体が水と二酸化炭素から、炭水化物を作り出し、酸素は空気中に放出します。さらに大豆や黒豆など豆類は空気中の窒素を取り込んで、根っこに運び、小さな丸いこぶに固定し貯めます。それが窒素肥料になるのです。それで、豆はやせた土地でも育つのです。イエス・キリストは神の国の福音を話されるとき、よく、植物にたとえておられます。ここでは「麦」(種)の話です。
◇一粒の麦、地に落ちて
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」。豊かな実を結ぶためには地に落ちる、地にまかれなければなりません。畑を貸してくれている地主さんが「播きさえしておけば何とかなるものだ」と口癖のように言っています。確かにそうです。ただ、タイミング、播き時というのがあります。稲の場合は早い遅いはありますが、黒豆は6月下旬で、天候を見極めて植えなければ、大粒で豊かな実を結ぶことはできません。これは植物の仕組みです。
人生においても、適切にその人の才能の種が播かれれば、「豊かな実を結びます」。稲の場合は胚芽が赤ちゃんで、白い部分の胚乳がミルクです(炭水化物)。適温で水分があれば、発芽のスイッチが入って、胚芽赤ちゃんは芽を出し、ミルクで成長し、スーッと葉を上に伸ばしていきます。しかし、ダイズの種には胚乳がありません。葉で包んでいる状態。発芽のとき、厚みのある双葉が地中から顔を出します。その双葉の中に栄養分がため込まれているのです。それは芽生えを大きくするためです。それから、広い葉の本葉が出て、木となり、大きな実を結ぶのです。人生において、芽生え方は才能によって人それぞれ違うのです。実り方もそれぞれに相応しい特徴があります。
◇一粒の麦、地に落ちて死ねば
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」。地に落ちて死ねば…という強い言い方で主イエスは言われます。自己中心の生き方をやめて、誰かのために、他者のために生きようとしなさいというメッセージです。自分を愛するように隣人を愛する生き方です。他者を生かせば自分も生かされるのです。
ご存知の方もおられるでしょうが、星野富弘さんの話です。彼は中学校の体育の先生でしたが、授業で生徒たちの前で宙返りをした時に首から落ち、首から下の運動機能を失ってしまいました。首から下が動かせないのですから、自分では何もできず、すべて人にしてもらわなければならない。いのちが一番大切だといわれても、生きていてもしょうがない。自暴自棄でした。その失意の中で聖書にふれ、キリストと出会って、救われました。生きる意味を見出したのです。唯一動かすことができる口に筆を加えて絵を描き、それに詩を書き添えました。その作品は多くの人々に感動と生きる喜びを与えています。その詩画集「鈴の鳴る道」に見事な詩が載っています。
「いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」
彼もまた、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」を生きているのです。首から下が動かないことを「賜物」として生かし、その目線で人生や信仰を描いています。
◇一粒の麦、地に落ちて死ねば、豊かな実を結ぶ
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」この一粒の麦はイエス・キリストご自身です。これと同じメッセージがあります。「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません」(ヨハネ15:13)。
三浦綾子著「塩狩峠」は実話に基づいて書かれました。1909(明治42)年2月28日、官営鉄道天塩線(現・JR北海道宗谷本線)の名寄駅を発車した列車は旭川へ向かっていた。しかし、途中の塩狩峠で最後尾の客車の連結が外れて逆走し、勾配を下って暴走した。満員の乗客に死が迫る。そのとき、鉄道職員のクリスチャン長野政雄が線路に飛び降り、その身体で車輪を止め、自らの命と引き換えに乗客の命を救った。「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません」の自己犠牲を実践したのです。
私たちが罪を犯し、滅びに向かって暴走している。イエス・キリストは私たちをその滅びから救うため、私たちの列車に乗り込み、ご自分のいのちを塩狩峠ではなく、ゴルゴダの丘の上に身を投じ、滅びへの暴走を止め、救ってくださったのです。あなたのために注ぎだされたイエス・キリストの自己犠牲の愛、これ以上の愛はありません。
主イエスが一粒の麦として、私たちのために死なれたので、多くの人が救われ、豊かな永遠の命の実を結びました。私はある時、自分が無くなってしまうのではないかという、言うに言われぬ恐怖に襲われことがあります。一粒の麦が死ぬというのはその恐怖にとことん襲われなければならなかったのです。十字架の上で主は叫ばれました。「わが神、わが神。どうしてわたしをおみ捨てなったのですか」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)。主イエスが私たち、罪人に代わって、ご自分の命を捨てるということは、神に捨てられるという地獄の恐怖を全身に受けることなのでした。私たちに代わって…。それゆえに、死後、栄光の体に復活され、私たち、信じる者に復活の命、永遠の命、平安の命の実を結ばせてくださったのです。
ですから、永遠の命を与えられた者はそれぞれの麦の種を自己中心にそのままにしておかず、それぞれの自己犠牲の種をまきましょう。豊かな信仰の実を結ぶことをイエス・キリストは約束しておられます。そのためには、私たちは絶えず、一粒の麦となられたイエス・キリストの自己犠牲の愛を身に受けて、生きていくのが一番です。