オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

実を結ぶ人生

2017-02-26 00:00:00 | 礼拝説教
2017年2月26日 わかりやすい伝道礼拝(ヨハネ福音書12:24)岡田邦夫

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ福音書12:24

 小学生の卒業文集に私の将来の夢を載せました。「ぼくは将来、科学者になって、空気の中のサンソや炭酸ガスやチッソを使って、たべものを作りたい」でした。あるプロジェクトに参加したことがあります。ガムの原料を化学合成して作るというものでした。上々の出来上がり、その試作品を製菓会社に持っていったところ、頭から断られました。口に入れるものだから、合成はだめ、天然チクルでなければ絶対だめだと…。人の手で無機物から有機物を作るのはほとんど不可能と言われています。しかし、植物の葉っぱはそれが出来る光合成工場なのです。太陽のエネルギーを使って葉緑体が水と二酸化炭素から、炭水化物を作り出し、酸素は空気中に放出します。さらに大豆や黒豆など豆類は空気中の窒素を取り込んで、根っこに運び、小さな丸いこぶに固定し貯めます。それが窒素肥料になるのです。それで、豆はやせた土地でも育つのです。イエス・キリストは神の国の福音を話されるとき、よく、植物にたとえておられます。ここでは「麦」(種)の話です。

◇一粒の麦、地に落ちて
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」。豊かな実を結ぶためには地に落ちる、地にまかれなければなりません。畑を貸してくれている地主さんが「播きさえしておけば何とかなるものだ」と口癖のように言っています。確かにそうです。ただ、タイミング、播き時というのがあります。稲の場合は早い遅いはありますが、黒豆は6月下旬で、天候を見極めて植えなければ、大粒で豊かな実を結ぶことはできません。これは植物の仕組みです。
 人生においても、適切にその人の才能の種が播かれれば、「豊かな実を結びます」。稲の場合は胚芽が赤ちゃんで、白い部分の胚乳がミルクです(炭水化物)。適温で水分があれば、発芽のスイッチが入って、胚芽赤ちゃんは芽を出し、ミルクで成長し、スーッと葉を上に伸ばしていきます。しかし、ダイズの種には胚乳がありません。葉で包んでいる状態。発芽のとき、厚みのある双葉が地中から顔を出します。その双葉の中に栄養分がため込まれているのです。それは芽生えを大きくするためです。それから、広い葉の本葉が出て、木となり、大きな実を結ぶのです。人生において、芽生え方は才能によって人それぞれ違うのです。実り方もそれぞれに相応しい特徴があります。

◇一粒の麦、地に落ちて死ねば
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」。地に落ちて死ねば…という強い言い方で主イエスは言われます。自己中心の生き方をやめて、誰かのために、他者のために生きようとしなさいというメッセージです。自分を愛するように隣人を愛する生き方です。他者を生かせば自分も生かされるのです。
ご存知の方もおられるでしょうが、星野富弘さんの話です。彼は中学校の体育の先生でしたが、授業で生徒たちの前で宙返りをした時に首から落ち、首から下の運動機能を失ってしまいました。首から下が動かせないのですから、自分では何もできず、すべて人にしてもらわなければならない。いのちが一番大切だといわれても、生きていてもしょうがない。自暴自棄でした。その失意の中で聖書にふれ、キリストと出会って、救われました。生きる意味を見出したのです。唯一動かすことができる口に筆を加えて絵を描き、それに詩を書き添えました。その作品は多くの人々に感動と生きる喜びを与えています。その詩画集「鈴の鳴る道」に見事な詩が載っています。
「いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」
彼もまた、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」を生きているのです。首から下が動かないことを「賜物」として生かし、その目線で人生や信仰を描いています。

◇一粒の麦、地に落ちて死ねば、豊かな実を結ぶ
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」この一粒の麦はイエス・キリストご自身です。これと同じメッセージがあります。「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません」(ヨハネ15:13)。
三浦綾子著「塩狩峠」は実話に基づいて書かれました。1909(明治42)年2月28日、官営鉄道天塩線(現・JR北海道宗谷本線)の名寄駅を発車した列車は旭川へ向かっていた。しかし、途中の塩狩峠で最後尾の客車の連結が外れて逆走し、勾配を下って暴走した。満員の乗客に死が迫る。そのとき、鉄道職員のクリスチャン長野政雄が線路に飛び降り、その身体で車輪を止め、自らの命と引き換えに乗客の命を救った。「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません」の自己犠牲を実践したのです。
私たちが罪を犯し、滅びに向かって暴走している。イエス・キリストは私たちをその滅びから救うため、私たちの列車に乗り込み、ご自分のいのちを塩狩峠ではなく、ゴルゴダの丘の上に身を投じ、滅びへの暴走を止め、救ってくださったのです。あなたのために注ぎだされたイエス・キリストの自己犠牲の愛、これ以上の愛はありません。
主イエスが一粒の麦として、私たちのために死なれたので、多くの人が救われ、豊かな永遠の命の実を結びました。私はある時、自分が無くなってしまうのではないかという、言うに言われぬ恐怖に襲われことがあります。一粒の麦が死ぬというのはその恐怖にとことん襲われなければならなかったのです。十字架の上で主は叫ばれました。「わが神、わが神。どうしてわたしをおみ捨てなったのですか」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)。主イエスが私たち、罪人に代わって、ご自分の命を捨てるということは、神に捨てられるという地獄の恐怖を全身に受けることなのでした。私たちに代わって…。それゆえに、死後、栄光の体に復活され、私たち、信じる者に復活の命、永遠の命、平安の命の実を結ばせてくださったのです。
ですから、永遠の命を与えられた者はそれぞれの麦の種を自己中心にそのままにしておかず、それぞれの自己犠牲の種をまきましょう。豊かな信仰の実を結ぶことをイエス・キリストは約束しておられます。そのためには、私たちは絶えず、一粒の麦となられたイエス・キリストの自己犠牲の愛を身に受けて、生きていくのが一番です。

慰めに満ちたる神

2017-02-19 00:00:00 | 礼拝説教
2017年2月19日 主日礼拝(2コリント1:3~11)紙上メッセージ・岡田邦夫


 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」2コリント1:4

 山登りは好きですか。私は好きですが、そうでない人は何を好き好んでしんどい思いをして、ただただ登るのかと聞いてきます。答えは「そこに山があるから」なのですが、人生が登山にたとえられると言いたいところです。頂上に着けば、その達成感と爽快感は格別なものがありますので、息を切らしてでも、そこを目指していくのです。頂上に向かうものの人生には苦難がつきもの、そこをどう踏みしめていくのか、今日の聖書から見ていきましょう。

◇苦しむとき、そこにある慰め
 苦難のただ中にある時は「人生は山登りだ、頂上に行く途上だから、がんばろう」と達観して見つめることはなかなか出来ないものです。そういう時の助けが今日の聖書です。旧約では、あらゆる苦難にあったヨブが神に向かって、どうしてこんな苦しみに合わなければならないのだと魂の底から叫び求めます。慰問に来た友人たちはこの苦難は君が罪を犯したことが原因、悔い改めて神に立ち返れば、神が苦難から解放されるのだと説得にかかります。しかし、納得しないのがヨブ。最後に創造者である神が現れ、その神の主権を心底、認めたときに納得したのです。“困った時の神頼み”を言い換えましょう。“困った時こそ神だのめ”。なお詩篇でこう歌われています。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(46:1)。
 なぜなら、神ご自身がこのような方だからです。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神」(2コリント1:3)。その「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(1:4)。「慰める」は原語でパラカレオー。パラはかたわら、カレオーは呼ぶ、その合わさった言葉で「傍らに立って呼びかける」というような意味をもっています。私たちが苦しみの中にある、そのただ中に主が来られて、しかも傍らに立って、肩を抱き、名を呼び、励ましてくれるのです。
 主が十字架で亡くなられ、意気消沈した二人の弟子たちが、エマオへの道を歩いていた時に、一人の人が加わり、同行しました。道々、聖書の話をしていると、なぜか慰められ、心が燃やされました。その方は復活されたイエス・キリストでした。人生の旅、あるいは山登りの苦しいときの同伴者が受難と復活の道を歩まれたイエス・キリストなのです。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」。
 以前(1980年頃)涙を流して読んで本に「わが涙よわが歌となれ」があります。原崎百子さんという牧師夫人の闘病日記です。肺ガンの中でも最も悪性のガンに冒されて、闘病の末、43才で天に召されました。彼女が夫からガンであることを告知されてから、亡くなられるまではわずか44日でした。どんなに失望し、どんなに落胆し、涙を流したでしょうか。最後の礼拝は隣の部屋で横たわっていました。そして、次のような歌を残されたのです。

わが礼拝
わがうめきよ わが讃美の歌となれ
わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ
わが涙よ わが歌となれ
主をほめまつるわが歌となれ
わが病む肉体から発する
すべての吐息よ
呼吸困難よ
咳よ
主を讃美せよ
わが熱よ 汗よ わが息よ
最後まで 主をほめたたえてあれ

 慰めに満ちたる神の慰めをいただいたからこそ、復活の希望があればこその歌です。この呼吸困難のただ中にイエス・キリストがパラカレオー、傍らに臨在されていたからの歌です。死を克服するこの姿は何よりも家族や友人を慰め、励す証詞でもありました。

◇苦しむとき、共にある慰め
 パウロらの宣教チームはアジヤで非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、いのちさえも危くなり、死を覚悟しました。それは死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神はこの死の危険から、救い出されたのです。その実際の経験から、愛をこめて、パウロは書いたのです。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」と。さらに、苦難の意義を書き綴ります。
 「それは、私たち(パウロたち)にキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。…もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがた(教会の人たち)の慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです」(1:5-6)。一人で苦しみを味わうわけではないのです。キリスト共に苦しみ、キリストの慰めにあずかるのです。また、祈る兄弟姉妹たちと共に苦しみ、共に慰めを受けるのです。「あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです」(1:7)。
 パウロがクリスチャン迫害のため、ダマスコへ向かう道で、まばゆい光に照らされ、地に倒れました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。…わたしはあなたが迫害しているイエスである」と復活されたイエスの声を聴きました(使徒9章)。イエスと兄弟姉妹たちとは一心同体で迫害を受け、苦しみに合っていたのです。そこで回心し、救われたパウロは逆転して迫害される側に立つのでした。苦難の共有、慰めの共有を生々しく体験したのでした。
 ですから、キリストと共に苦難に与ることはこの上ない特権であるとさえ言っています。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。…もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:14、17)。
 ヘンデルの「メサイヤ」が日本語に翻訳された記念のコンサートが淀橋教会で行われました。その時、中田羽後師が感動されて、このようなメッセージをされました。ヘンデルが時代の流行に遅れ、楽団が倒産してしまい、絶望していた時、友人のチャールズ・ジェネンズが作詞したものを持ってきました(※いきさつについては諸説ありますが、先生の話を記載します)。ヘンデルがあまりにも落ち込んでいたので、テーブルに置いたまま帰りました。しばらくして、彼がそれをふと見ると表紙に「メサイヤ」と書いてある。興味をもって開いてみると、最初の言葉が飛び込んできました。「慰めよ。慰めよ。わが民を」(イザヤ書40:1)。彼には「慰められよ、慰められよ」と聞こえてきました。自分こそ、慰められよと受け止め、夢中で読み進み、大いに感動し、主の慰めを得ました。それから、ペンをとり、寝食を忘れて、一気に作曲しました。特に苦難のしもべの歌(イザヤ53章)では涙で楽譜が濡れたほどでした。こうした感動の体験のうちに作られたので、200年たっても、大きな教会でも小さな教会でも歌われているのです。そして、苦難の中にある人たちを慰め、はげましているのです。
 私たち、慰めの福音を共有していきましょう。私たち、祈る兄弟姉妹は共存共栄に生きるのですが、また、麗しく「共苦共慰」で、山頂を目指していきましょう。「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれている」。

事実、キリストはよみがえられた

2017-02-12 00:00:00 | 礼拝説教
2017年2月12日 主日礼拝(1コリント15:12~20)岡田邦夫

 「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」1コリント15:20口語訳

 昨年12月、糸魚川市で大規模な火災がありました。強い風が吹いていたため、50棟以上が延焼しました。一瞬で家を焼失された方々にはお気の毒でした。早い復興を願います。そんな炎の包まれる中、2階建ての一軒が燃えずに残りました。その家は中越沖地震など地震災害が話題になるなかで、それに備えて、地元の建築家に丈夫な家を依頼して建てたと言っていました。私たちの人生において、いざという時のために、備えられた生き方をする必要があります。真の備えあれば憂いなしの信仰をもっていきましょう。

◇ハンモックのようだ、しかし、
 最近、フェイク・ニュース(うその情報)が問題になっています。ネット社会で、私たちは様々な情報を自由に手にすることもでき、また、自分からも自由に発信もできるようになっています。すると、フェイク・ニュースが発信されても、スピードが早いので真偽も確かめもせずに、その情報が本当であるかのように拡散してしまうことがあり、問題視されているわけです。パソコンにしろ、スマホにしろ、ネット社会というのはハンモックのようなものだと私は感じています。ひもでネット状になっていて、その中に身を投じれば、とても気持ちがいいものです。しかし、心地は良いものの不安定です。フェイク・ニュースというひもだったら、そこから破れて体は落ちてしまします。要注意です。
 畳に布団を敷いて身を投げ出せば、落ちるという心配はありません。神の言葉に身を任せることが、最も安心なのです。人類の歴史を2冊にまとめた本を読みました。人類は文明を築いてきたがそれは虚構であったと記し、文明は人間を幸福にしたのか、また、未来に何を望むのかを問うているものでした。私は人間の文明というのもハンモックのように思えてならないのです。
本当に身を任せて大丈夫な、確かなものは聖書なのです。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、神のことばは永遠に立つ」「この天地は滅び去ります。しかし、わたしの言葉は決して滅びることがありません」「下には永遠の腕がある」(イザヤ40:8、マタイ24:35、申命33:27口語)。
 では、その聖書の中で「最もたいせつなこと」はキリストの十字架と復活です(1コリント15:1-5)。十字架については1章で強調されていますので、この章では復活が強調されます。先ほどの人類史では宗教も虚構だといいます。しかし、イエス・キリストの十字架と復活は人が考え出した虚構では決してなく、実質であり、事実なのです。「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」(15:12-14)。キリストの復活がなかったら、罪の赦しも永遠の命も救いもないのです。死後に希望はないのです。牧師はどんなにいい話をしても大変な詐欺師になってしまうのです。復活は人類を救うところの最もたいせつなことなのです。実質のある福音、グッドニュースなのです。

◇セイフティ・ネットのようだ、ほんとうに
 聖書は断言します。「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(15:20)。口語訳は、「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。繰り返しますが、復活は事実なのです。復活の主は弟子たちに現れ、昇天後にパウロに現れて、出会っているのです。見える証拠といえば、空っぽの墓と弟子たちとパウロの変わりようと証言です。そして、何よりも聖霊の証しです。
続いて、復活の様子をわかりやすく植物にたとえて述べています。順番があります。初めに「まず初穂であるキリスト」がよみがえられました。「次にキリストの再臨のときキリストに属している者」が主の似姿に復活します。麦やそのほかの穀物の種粒にたとえられます。蒔く物は、死ななければ、生かされません(15:36-37)。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです」(15:42-44)。
それはいつなのか。イエス・キリストが地上のあらゆる権威を滅ぼし、万物を足台とされるために再臨します。その時です。クリスチャンの死は消滅ではなく、眠りです。その眠りから覚めるのが復活です。神の奥義です。「私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです」(15:51-53)。こうして主は最後の敵である死を滅ぼされ、神の国が実現するのです(15:26、15:55)。天国が現れるのです。
 主は私たちの罪の贖いを成し遂げ、死んで黄泉に下りました。それは私たち死人を救い上げるためです。永遠の腕をもって救い上げるセイフティ・ネット(安全網)となってくださったのです。そして、主の懐で復活の朝まで安全に眠るのです。その朝、ラッパが鳴り響き、聖徒たちは呼び出され、最後の審判を免れ、復活の体が与えられ、平和な神の国、新天地に居場所が与えられ、神と共に全き平安のうちに永遠に住むことができるのです。落ちてしまいそうな、サタンの惑わしにゆれるハンモックのような古い世界は消え去るのです。夢のような話です。いえ、夢ではなく、実質のあるグッドニュース、必ず実現する神の約束です。

◇ドゥリーマーのようだ、何があっても
 「死は勝利にのまれた」。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」。これほど力強い言葉はありません。聖書はなお勧めます。「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(15:55-58)。
 ラジオで面白いボヤキ川柳を聞きました。“将来の夢は何かと孫が聞く”。ふつうは老人になると夢もなくなるものです。しかし、クリスチャンはいくつであろうと死後の復活の夢があります。復活の福音という情報で確信を得ています。主日礼拝ごとに、デボーションごとに御国の情報で復活の確信を得ていくのです。この世の人生で、復活を応用した生き方をします。失敗したり、挫折したり、絶望したりしますが、み言葉により、聖霊により、信仰により、人生の復活をするのです。
 ドストエフスキーの小説「罪と罰」のテーマはどん底からの復活です。主人公が金貸しのおばあさんをある正義感から殺してしまいます。完全犯罪でした。しかし、一人の女性に出会い、彼女がラザロの復活(生き返り)の聖書を読み聞かされていた時に心を開きます。捜査を担当していた検事に、彼は自首します。判決はくだり、シベリヤの刑務所に列車で送られます。その車中にその女性がひっそりと乗っています。主人公はシベリヤで病気になり病院にいました。その庭でこの男女が寄り添って椅子に座っているという光景で小説は終わります。取り返しのつかない罪を犯した主人公、悔い改めて神のもとに帰り、人生をやり直している、人生の復活を描いたものと私は思って読みました(うる覚えのものを書きましたので違っているところがあるかも知れませんが…)。
死後の復活の希望があるから、全力で主の技に励めるのです。失敗しても、挫折しても、絶望しても、信仰によって復活できるのです。そうして「自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを」知っていくのです。信仰に生きることはまことに実質のあるものなのです。


最も大いなるものは、愛

2017-02-05 00:00:00 | 礼拝説教
2017年2月5日 主日礼拝(1コリント13:1~13)岡田邦夫、於・あかしあ台

 「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」1コリント13:13共同訳

 料理を一生けんめい作って食べてもらう。美味しいでしょうと聞くと「ふつう」と答える。それは微妙さだったり、ブラック・ユーモアだったりします。しかし、かつての日本人は「ふつうが一番」を美徳として生きていました。書店を見ると入り口近くにたいてい、生き方の本が並んでいます。今日、お話しします「愛の憲章」とよばれている第一コリント13章ですが、その前文が「また私は、さらにまさる道を示してあげましょう」ですから、生きる道、生き方の章といってよいでしょう(12:31b)。

◇愛は特別
 宗教的にふつうでないことが出てきます。コリントの教会でも話題になっている「異言」です。異言というのは聖霊を受けて宗教的恍惚(こうこつ)状態におちいった人が語る、一般の人には理解しがたい言葉です。聖霊の賜物のひとつです。宗教的な雰囲気が高まって起きることから、初代教会では高く評価されていたのでしょう。ところがです。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」(13:1)。シンバルというのは好きなようにたたいたら、自分は気持ちがいいのですが、周りの人はうるさくてしょうがないものです。異言という特別な霊的な賜物を発揮されたとしても「愛」がなければ、周りはうるさいだけだというのですから、強烈な皮肉です。パウロは「私が…」と言って、人を非難しているのではないのです。配慮が見受けられます。
 私が預言の賜物、究極の知識、山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもない。私が全財産を貧しい人に施し、自分のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちませんとも言うのです。
 人は信仰の高まりを求めますが、自分のためなら、無益。動機に愛が必要だといいます。これは愛の絶対性。
 それではその愛とは何なのか、「愛は……」とパウロの筆は書き進んでいきます。司会者に読んでいただいたので、短縮してみましょう。4グループにまとめてみました。
 「愛は」①寛容で、親切で、ねたまない。②自慢せず、高慢にならず、礼儀に反せず、利益を求めない。③怒らず、悪を思わず、不正を喜ばず、真理を喜ぶ。④すべてを我慢し、信じ、期待し、耐え忍ぶ。これは愛の多様性。
最後の行(くだり)は決め台詞みたいなもの。「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます」。……しかし、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(13: 8、13)。これは愛の永遠性
 第一コリント13章はいいですね。壁に貼っときたいものです。あるいは心の壁に貼っておいたらいいでしょう。私と家内の結婚式は母教会でして、伝道者同志でしたから、そのまま茶菓を出して披露会。3万円ですましました。しかし、その中で奮発したのが湯飲み茶わんの引き出物。その器には「愛はいつまでも変わることがない」(口語)を書いてもらいました。それは自分たちに対しても、来賓の方々に対しても、一つのメッセージでした。
 愛は絶対、愛は多様、愛は永遠。これは愛の憲章というより、愛の賛歌です。いいなあと思ってリズミカルに読むところです。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。…愛は決して絶えることがありません。…」。

◇愛は普通
 ところがこの13章を鏡にして、自分の姿を見てみるとどうでしょうか。うるさいシンバルは自分自身じゃないかと思わされます。愛のリストに自分の名前を入れて読み上げると、恥ずかしくなり、穴があったら入りたい気持ちになります。愛が無いことに気付き絶望的になります。ところが、「愛」のところにイエス・キリストの名を入れると完璧になります。私たちに限りなく寛容で、親切…、どれだけ愛してくださっているかを思うと感謝にたえないのです。
 しかし、この章はチェック・リストや物差しではないのです。それこそ、異言とか、預言とか、知識(奥義)とかいうと難しそうですし、それが出来れば宗教界では称賛されそうですが、それはすたれていくものだと言い切るのです。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。…」。難しい言葉でも、特殊な事でもないようです。何か普通のようなことです。
 ある石工が田舎を歩いていて何でもない田の岸に見事な石の積み方をしてあるのを見ると、心打たれるというのです。こんなところに石垣をつんだ石工は、どんなつもりでこんなに心をこめた仕事をしたのだろう、村の人以外には見てくれる人もいないのに…と思いをはせるのです。きっと、その人はほめられようが、ほめられまいがいい仕事がしたかったのだろう、命じられたわけではなく、気のすむようにしたかったのだろう…と。それは職人気質でしょうか、日本人の気質でしょうか。
 クリスチャンはそんな気質を持って生きていくのです。人にほめられようが、ほめられまいが、愛に生きたいと思って生きるのです。主の愛を貪欲までにいただいて、もっと自分は愛の人になりたいものだと願って生きるのです。石工が崩れない石垣を築いていくように、見えない愛の崩れない石垣、いつまでも残る愛のわざを積み上げていきたいと思うことです。難しい境地などと思わず、普通のこと、わが流儀としましょう。宮大工がこれは千年残るものだと誇りをもって仕事をしています。しかし、クリスチャンの宮造り、永遠に残るものだと誇りをもって、顔と顔を合わせて会いまみえる日に、神が良いしもべ、よくやった、いい仕事をしたと言われるのを期待して、愛の生活を普通にしていきましょう。もちろん、キリストとの共同作業なのですが。
 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません」。