2009年8月30日 主日礼拝(出エジプト記17:8~16)岡田邦夫
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」エペソ6:18
視聴者の投稿による「ぼやき川柳」には日常のユーモアが見られます(NHKラジオ・かんさい土曜ほっとタイム)。このようなのがありました。
「ゴミ持って 出かける朝に 存在感」…山梨県・豆しぼり
「頼りない 亭主に私が ついてます」…大阪府・おかめ
「ほんとうに 空気のような 人だった」…福岡県・尾上政代
存在感のなさを笑っていますが、ほんとうはそうではなさそうな有(あ)り様(よう)が感じられます。今日の聖書の話はイスラエル人がアマレク人と戦うところ、指揮官モーセの存在感は重く、こう記されています。「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」(17:11)。私は思いました。牧師が手をあげて祈っているときは、教会は優勢になり…と言えるほど、自分は祈りの人だろうか、それほど力量も存在感もない、空気のような人だ、がんばってモーセのような指揮官にならなきゃ…と。しかし、聖書はそのようなことを言っているのだろうか、もっと恵みと祝福が告げられているのではないかと読んでみました。
◇神の杖をもって
イスラエル人がエジプトを脱出した時は、民は武器を持って戦うことは泣け、神ご自身がナイル川を血に変えるなど、力強いみ手をのべ、自然界を武器にエジプトの王と戦い、奴隷の民を解放されました。しかし、出エジプト後、神の民は迫り来る敵に対して、武器を手にして戦わなければならないこともありました。今日の敵はアマレク人。「さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。」と書き出されています(17:8)。
イスラエルの戦法はこうです。「モーセはヨシュアに言った。『私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。』」(17:9)。そうして、アマレクと戦っている間、モーセとアロンとフルは丘の頂にいました。指揮官の采配が兵士の士気(やる気)に影響を与えます。事実、モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になったのです。
長時間だと、人は疲れるもの、モーセの手が重くなりました。それでは負けるかも知れません。そこで、アロンとフルが石を持ってきて、モーセをそこに座らせ、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえたのです(17:12)。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであったので、ヨシュアはアマレクの民を剣の刃で打ち破ることができたのです(17:13)。
◇主の旗をもって
私たちにもアマレクのような敵がいます。生活の戦いがあり、霊的な戦いがあります。モーセが手を上げたように、教会の群の戦いに牧師が手をあげて祈らなければなりません。アロンとフルがささえたように、教会員が支えて祈らなければなりません。教会は「祈りの家」だからです(マタイ21:13 )。そうして祈る時に、神が勝利に導かれます。
それと共に「万人祭司」、一人一人がモーセです。あなたの生活の最前線で繰り広げられる戦いに、あなたは祈りの手をあげます。しかし、疲れて、手が重くなってきます。アロンとフルという教会の友が日が沈むまで、支えてくれます。祈って共に戦います。霊の勝利、み言葉の勝利、信仰の勝利がきます。そのように、皆がモーセであり、皆がアロン、フルだと思って、アマレクという、今の「悪い時代」と戦っていきましょう(エペソ5:16)。そうすれば、祈りが聞かれたという感謝の祭壇を築くことができるに違いありません。そのような信仰の戦いは一般の新聞や歴史書に載らなくても、記録として(17:14)、天に書き記されるのです。
モーセは祭壇を築いた時、「アドナイ・ニシ」(主はわが旗)と呼びました。その説明が翻訳によって違います(17:16)。
新改訳「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」
口語訳「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。
新共同訳「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」 きっと原語はそのように幅のある訳ができる言葉なのでしょう。明確な言葉は「アドナイ・ニシ」(主はわが旗)です。これまで話してきました私たちの戦いの、その指揮官は主イエス・キリストです。その軍旗は「アドナイ・ニシ」(主はわが旗)です。日本の戦国時代の武将・直江兼嗣の甲に「愛」の字が掲げられていることは良く知られています。私たちが振る主の旗には「愛」の文字が記されています。「見よ、神の小羊」と言われた、十字架を背負う小羊の絵が描かれています。「イエスは勝利をとられた。十字架の上で」(赤P&W60)の御旗です。
今日は衆議院議員の選挙の日、国の指揮官を選ぶ日です。国の方向性を左右します。市民として、私たちは参加します。しかし、私たち、クリスチャンは霊の戦いのために、モーセやアロン、フルのようにすでに選ばれているのです。私たちの祈りはこの勝敗に左右するかのように、大事なのです。愛の旗を振って祈ろうではありませんか。あなたの存在は重いです。
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」エペソ6:18
視聴者の投稿による「ぼやき川柳」には日常のユーモアが見られます(NHKラジオ・かんさい土曜ほっとタイム)。このようなのがありました。
「ゴミ持って 出かける朝に 存在感」…山梨県・豆しぼり
「頼りない 亭主に私が ついてます」…大阪府・おかめ
「ほんとうに 空気のような 人だった」…福岡県・尾上政代
存在感のなさを笑っていますが、ほんとうはそうではなさそうな有(あ)り様(よう)が感じられます。今日の聖書の話はイスラエル人がアマレク人と戦うところ、指揮官モーセの存在感は重く、こう記されています。「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」(17:11)。私は思いました。牧師が手をあげて祈っているときは、教会は優勢になり…と言えるほど、自分は祈りの人だろうか、それほど力量も存在感もない、空気のような人だ、がんばってモーセのような指揮官にならなきゃ…と。しかし、聖書はそのようなことを言っているのだろうか、もっと恵みと祝福が告げられているのではないかと読んでみました。
◇神の杖をもって
イスラエル人がエジプトを脱出した時は、民は武器を持って戦うことは泣け、神ご自身がナイル川を血に変えるなど、力強いみ手をのべ、自然界を武器にエジプトの王と戦い、奴隷の民を解放されました。しかし、出エジプト後、神の民は迫り来る敵に対して、武器を手にして戦わなければならないこともありました。今日の敵はアマレク人。「さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。」と書き出されています(17:8)。
イスラエルの戦法はこうです。「モーセはヨシュアに言った。『私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。』」(17:9)。そうして、アマレクと戦っている間、モーセとアロンとフルは丘の頂にいました。指揮官の采配が兵士の士気(やる気)に影響を与えます。事実、モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になったのです。
長時間だと、人は疲れるもの、モーセの手が重くなりました。それでは負けるかも知れません。そこで、アロンとフルが石を持ってきて、モーセをそこに座らせ、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえたのです(17:12)。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであったので、ヨシュアはアマレクの民を剣の刃で打ち破ることができたのです(17:13)。
◇主の旗をもって
私たちにもアマレクのような敵がいます。生活の戦いがあり、霊的な戦いがあります。モーセが手を上げたように、教会の群の戦いに牧師が手をあげて祈らなければなりません。アロンとフルがささえたように、教会員が支えて祈らなければなりません。教会は「祈りの家」だからです(マタイ21:13 )。そうして祈る時に、神が勝利に導かれます。
それと共に「万人祭司」、一人一人がモーセです。あなたの生活の最前線で繰り広げられる戦いに、あなたは祈りの手をあげます。しかし、疲れて、手が重くなってきます。アロンとフルという教会の友が日が沈むまで、支えてくれます。祈って共に戦います。霊の勝利、み言葉の勝利、信仰の勝利がきます。そのように、皆がモーセであり、皆がアロン、フルだと思って、アマレクという、今の「悪い時代」と戦っていきましょう(エペソ5:16)。そうすれば、祈りが聞かれたという感謝の祭壇を築くことができるに違いありません。そのような信仰の戦いは一般の新聞や歴史書に載らなくても、記録として(17:14)、天に書き記されるのです。
モーセは祭壇を築いた時、「アドナイ・ニシ」(主はわが旗)と呼びました。その説明が翻訳によって違います(17:16)。
新改訳「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」
口語訳「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。
新共同訳「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる。」 きっと原語はそのように幅のある訳ができる言葉なのでしょう。明確な言葉は「アドナイ・ニシ」(主はわが旗)です。これまで話してきました私たちの戦いの、その指揮官は主イエス・キリストです。その軍旗は「アドナイ・ニシ」(主はわが旗)です。日本の戦国時代の武将・直江兼嗣の甲に「愛」の字が掲げられていることは良く知られています。私たちが振る主の旗には「愛」の文字が記されています。「見よ、神の小羊」と言われた、十字架を背負う小羊の絵が描かれています。「イエスは勝利をとられた。十字架の上で」(赤P&W60)の御旗です。
今日は衆議院議員の選挙の日、国の指揮官を選ぶ日です。国の方向性を左右します。市民として、私たちは参加します。しかし、私たち、クリスチャンは霊の戦いのために、モーセやアロン、フルのようにすでに選ばれているのです。私たちの祈りはこの勝敗に左右するかのように、大事なのです。愛の旗を振って祈ろうではありませんか。あなたの存在は重いです。