オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

実を結ぶには

2016-10-23 17:15:34 | 礼拝説教
2016年10月23日(日)みのお泉教会と三田泉教会の合同礼拝(ヨハネ福音書15:1~8)岡田邦夫

 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ福音書15:5

 本日は三田泉教会でみのお泉教会と合同で礼拝が捧げられますことは感謝です。今から60年前、松井家の家庭集会で始まった群れが教会となり、最初の牧師が松村先生でした。二人とも松、最初の受洗者が竹田さん。これで、松と竹、あと梅がない。そういえば、近くに梅花学園があった。無理ムリなこじつけですが、とにかく、主にあっておめでたい出発でした。そうして蒔かれた種がこのように、合同礼拝が出来るほど、実が結ばれてきましたこと、感謝なことです。

◇つながっていれば…
 私が豊中泉教会に遣わされる前は四国の愛媛県の教会におりました。まだ、私も若かった。ある自己啓発の書に出会い、自分に当てはめ、我が人生20年計画という表を作りました。そんな時、先ほどの松村先生が四国の牧師研修会に来られましたので、その計画表を個人的に見てもらいました。勉強の欄は多いけれど、伝道の欄が少ないと指摘され、反省しました。その伝道プランは教会を株分けして増やしていくというものでした。1981年、豊中泉教会に遣わされて、そのプランは生かされました。自分の望むことが達成されていくのを「自己実現」といいます。
 しかし、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」はそれとは違います。神が神の方法で神の望まれることが成し遂げられていくという「み旨実現」を言っているのです。主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と語りだしました。わざわざ「まことの」と言っておられるのですから…。

 赴任した時に祈っていると「ヨセフは実を結ぶ若木、その枝は垣根を越えるであろう」のみ言葉が牧師の中に来ました。目に見えた部分でも実を結び、垣根を越えて、今の群れになっていきました。重要なのは人のプランが結実したことではなく、それを越えて、与えられたみ言葉のようになっていく、み旨結実なのです。農夫である父なる神が手入れをなさるからです。
 ですから、私たちのすることは主イエスにつながること、とどまること、祈り求めることです。畑を貸していて下さる地主さんは「植えさえしておけば、何とかなる」というのが口癖です。そうです。私たち、イエスにつながってさえすれば、何とかなるのです。幹であるイエスから恵みの水と養分が枝である私たちに流れてきて、神の時が来れば、美味しいぶどうの実が豊かになるのです。枝だけ見ても見栄えはしないし、ひん曲がっている。そこに葉を茂らせ、実を成らせ、見栄えよくし、美味しくしてくださるのです。
 主イエスは植物にたとえられたので、一つだけ植物の素晴らしいところをお話ししましょう。水をどうやって吸い上げているのでしょう。ポンプもないのに10メートル以上ある木でもてっぺんまで水がいく。その秘密は「蒸散」、蒸発の蒸に散ると書きます。葉の裏に空気を出し入れする気孔、小さな穴がいっぱいあります。その気孔は根っこまで通じています。葉の裏の気孔から植物の水が蒸発するその力で、ストローで吸い上げるように根から水を吸い上げるのです。すごい力です。130~140メートルまで吸い上げられる計算になるというのです。
 みなさん、私たちには神の恵みを吸い上げる、祈りの力がなんぼでも与えられているのです。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは…あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」。

◇つながっていると…
 その実とは何でしょう。第一に悔い改めの実、第二に御霊の実、第三に伝道の実だという説教を聞いたことがあります。しかし、別の視点で見てみましょう。今、読んだ聖句、一つあいだを飛ばしました。「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」です。主イエスとつながっていて、結ばれる実は永遠に残るというのです。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのです。見えない実なのです。いつまでも存続するものは信仰と希望と愛、このうち最も大いなるものは愛です。
 主は愛を語ります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」。この「ように」「同じ」というのが最高に素晴らしい恵みです。イエスと私たちは師と弟子を越えて、友と友だというのです。主イエスは君たちを友として、友のために命を捨てたというのです。その友と友の愛は神の側での父子愛と同じような最高のものだというのです。何とまあ、すごいことでしょうか。だから、互いに愛し合うことは価値のあること、見えない形で残るのです。
 だから、ぶどうの枝である私たちは幹である主イエスから蒸散の吸収力で神の愛、十字架の愛、無限の愛をいただくのです。「君は愛されるため生まれた」という歌がはやりました。その歌詞にこうあります。「永遠の神の愛はわれらの出会いの中で実を結ぶ。きみの存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう」。つながることは出会うことです。日々、主イエスさまとお出会いしましょう。天のお父様と、慰め主・聖霊さまとお出会いしましょう。そうしたら、見えない実が結ばれて、残っていくに違いありません。
 人生において見える実を残すのも良いでしょう。しかし、見えない実を主につながり、主に出会い、神にしか見えない実を残させていただく人生はどれほど天のお父様を喜ばせることでしょうか。そのためにあなたは選ばれたのです。

憧れのよきサマリヤ人

2016-10-17 23:36:07 | 礼拝説教

2016年10月16日(日)(マタイ福音書4:23~24)岡田邦夫

「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。」マタイ福音書4:23 ~24

 時々、スポーツ選手が漫画の影響を受けたと聞きます。オリンピック三連覇をなしとげた野村忠宏さんは漫画「柔道部物語」の主人公の背負投に憧れていたといいます。「技の入り方など参考にした。主人公は初心者で柔道を始めたが、背負投を磨くことで強くなっていき、その姿に自分を重ねた。心の支えになった」と熱く語っておられました。人はそれぞれ、憧れる人がいることは大切なのでしょう。

 私にとって、憧れの人はジャングルの聖者といわれたシュヴァイツァーでした。彼は比較的裕福な牧師の家庭に生まれ、体は頑健でオルガン奏者でもあり、バッハ研究、神学、哲学においても優れた学者でした。しかし、30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、医学を学び、アフリカの赤道直下のランバレネに行き、医療活動に生涯をささげました。しばしば、ヨーロッパに行っては講演会やパイプオルガン演奏会で資金を集めていました。学者であり、芸術家でありながら、アフリカの人のためにと献身された姿に憧れました。就職の際、履歴書の尊敬する人の欄に彼の名を書きました。彼のようなかけら一つもなっていませんが、憧れたことに意味があったと思います。私がキリスト教に引かれていく要因になったからです。

◇憧れの型・よきサマリヤ人
 シュヴァイツァーをそうさせたのはキリスト教の精神であり、それを端的に表しているのが、イエスのたとえ話の「よきサマリヤ人」だと思います。ルカ福音書10:25~37を見てみましょう。
 ある律法の専門家が、どうしたら「永遠のいのち」を得られるかとイエスに質問してきました。主は聖書には何と書いてあるかと聞き返します。良い答を引き出します。『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とありますと。主はすかさず言います。知っているなら、それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。律法の専門家はしつこい。「では、私の隣人とは、だれのことですか」と。その答えとして、たとえ話をしました(前提としてユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、互いに犬猿の仲だったこと)。
 「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』」。
 主はこの三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思うかと問いかけます。「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えるしかない。主は「あなたも行って同じようにしなさい」と愛の実践を勧めます。読者に向かっても問いかけます。「あなたも行って同じようにしなさい」。
 神戸ホーリネス教会の齋藤信男牧師は民生委員をされていた時、関わりのあるお年寄りの不幸があり、それがショック。その時、「あなたも行って同じようにしなさい。」が示され、キリスト教の老人ホーム「愛の園」を建て上げました。愛の実践はそのような大きなことだけでなく、小さな親切もあれば、いくらでも機会はあります。大人も子供も誰でもよきサマリヤ人になる人です。与えることがいのちを得ることなのです。それは不思議なことです。よきサマリヤ人は愛の精神の象徴であり、模範であり、憧れでもあります。

◇憧れの方・真のよきサマリヤ人
 このたとえのサマリヤ人はイエス・キリストご自身とも解釈できます。病める人、貧しい人の隣人となられ、彼らをいやされました。十字架の上でご自身が犠牲となられ、私たちを罪の病からいやし(イザヤ53章)、永遠の命を与えてくださいました。ユダヤ人がサマリヤ人を蔑んでいたように、祭司長らはイエスを蔑みました。よきサマリヤ人のように、傷つき、半死半生の私たちをイエスは助け、傷の手当てをし、代価を払って、(神の)宿に入れてくれました。惜しみない愛が注がれました。生きておられるときは身近な愛の行いをなさり、死ぬときは究極なる愛の行いをなされました。その両者は切り離せないものでした。
 主はわたしに倣うものとなりなさいと教えられました。主はどういう生き方をされたのでしょうか。その要約がマタイ福音書4:23~24です。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった」。神の国を教え、福音を宣べ伝え、あらゆる病気を直されたのです。
 私たちも主に倣い、その三つをさせてもらうのです。教会の私たちは十字架と復活の福音を伝えますが、いやしの業、愛の業を、見返りを求めないで致します。先日、全国の福音派で7年に一回の日本伝道会議が行われ、そこでこのような報告がありました。東日本大震災の時に、教会もボランティアとして行ったわけですが、ある人たちは心の支えが必要だ、伝道の機会だからとキリスト教の集会をしました。また、他の人たちはキリスト教のグループであっても、直接、伝道はせず、現地の人に必要な奉仕をしました。前者はもう来ないでくれと言われ、後者はまた来てくださいと言われたという報告がありました。信者獲得という自己目的化した宗教活動は拒否されたのです。伝道会議では後者を勧め、社会活動も愛の行為として、福音宣教に含まれる「包括的福音宣教」だと定義していました。
 この教会では開拓伝道ということで、伝道のためにパン教室をしてきました。その中から、信仰を持ち、受洗された方もおられます。しかし、多くの方はそうではありませんでした。しかし、教室には三種類の方が来ておられました。パン作りを習いに来ていた人、集まった人の交わりを楽しみに来ていた人、チャペルタイムの話を期待して来ていた人がいました。三者三様に、その場が提供でき、出会いがあったことも良かったし、特に子育てで悩んだり、苦労したりしている人にとって、チャペルタイムはお役に立ったようです。それも包括的福音宣教と受け止めて、これからも前向きに見返りを求めない愛の業に励んでいきたいと思います。「キリストに倣いて」そうしていきたいものです。
 礼拝において、まず、教えをいただき、福音をいただき、いやしの恵みをいただき、こう応答の三つの祈りをして、祝祷をもって遣わされていきましょう。「主よ、教えられました」。「主よ、信じます」。「主よ、恵まれました」。
 そして、主イエス・キリストの生き方に憧れていきたいですね。

新聖歌382
1. 心から願うのは主のようになること 御形に似るために世の宝捨てます
 *主のように主のように きよくしてください
  この心奥深く 御姿を写して
2.同情に満ちあふれ愛に富みやさしく 迷う人見いだして主の許に導く
3.謙遜と忍耐と勇気とに溢れて 人びとを救うため苦しみをいとわず

ああ、エルサレム、エルサレム

2016-10-10 11:16:15 | 礼拝説教
2016年10月9日(日)(2列王記24:1-4、25:27-30)岡田邦夫

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」イザヤ書40:7~8

 戦後、多くの日本人がソ連に抑留され、そのうち450人が東欧のウズベキスタンのタシュケントにナヴォイ劇場を建設するため、強制労働をさせられました。劣悪な環境、わずかな食料の中、捕虜の身でありながら、彼らは勤勉に働き、予定工期を大幅に短縮し、2年でレンガ造りのビザンチン様式の美しい劇場を完成させました。しかし、病気などでの犠牲者も少なくありませんでした。「日本の桜が見たい!」と言って亡くなっていったそうです。
 時は流れ、20年後、タシュケントの建造物の三分の二を崩壊させた大地震が起こりました。周囲の建物が瓦礫の山になってしまったなか、何一つ壊れず、ナヴォイ劇場は立っていました。住民は日本人への敬意の念を持って見上げたそうです。その建設で犠牲になった日本人の墓に、住民は桜の花を植え、桜公園になっています。
 今日の聖書、第2列王記24~25章はユダの民が抑留、捕囚されていく悲劇です。しかし、そこにも光が見出されるので、お話しいたします。

◇栄枯盛衰か…
 海外で知られる日本の代表的な歌といえば「さくらさくら」、もう一つは「荒城の月」といわれています。私、小学校高学年の時、荒城の月が一番、心に響く歌でした(特に李香蘭が歌う)。焼け野原となった東京がまだ7~8年の復興時、私がそう感じたのはその時代の空気もあったからでしょうか。栄枯盛衰の歌です。4番はこうです。
 「天上影は 変わらねど/栄枯は移る 世の姿/映さんとてか 今も尚/ああ荒城の夜半の月」。この聖書個所から話するのがつらいので前置きが長くなりました。
1.略奪
 BC605年、「エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカデネザルが攻め上って来た」で始まります(24:1)。巨大な帝国の侵略は止めようがありません。エホヤキムは3年しもべとなったものの我慢できず、反逆します。帝王の指令か、周辺諸国(カルデヤ、アラム、モアブ、アモン)の略奪隊が送り込まれ、ユダはさんざん略奪されてしまいます。
 王は代わり、エホヤキンが18歳で王になりますが、三か月後には「バビロンの王ネブカデネザルの家来たちがエルサレムに攻め上り、町は包囲され」たのです(24:10)。やむなく「ユダの王エホヤキンは、その母や、家来たちや、高官たち、宦官たちといっしょにバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は彼を捕虜にし」ました(24:12)。神殿と王宮のすべての財宝が奪われ、有力者、兵士、職人、鍛冶屋のすべてが捕囚されていきました。貧しい民衆だけが残されました。利用できるものは物も人もすべて持って行かれたのです。列をなして、肩を落として、バビロンの地に引かれていく、その光景は何とも悲しく、無念なことだったでしょうか。月夜を眺めてどんなに「主よ!」と言っては嘆いたことでしょうか。あるいは、疲れ切って、世星も見れず、泥のように眠ってしまったでしょうか。
2.破壊
 残された者たちの王となったのは叔父のゼデキヤです。9年目、この人もバビロンの王に反逆します(24:20)。バビロン王は、全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、陣を敷き周囲に塁を築きます。エルサレムは2年位、包囲され、籠城して耐えていましたが、ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなり耐えられなくなりました。もはや、町は破られてしまいます。戦士たちは戦意喪失、逃亡し散っていきます。ゼデキヤ王はバビロンに捕らえられ、子どもたちが目の前で虐殺され、彼自身は両目を抉り出され、青銅の足かせにつながれたのです。言葉にならない残酷な光景です。
 籠城、飢饉の時の悲惨な光景は「哀歌」にうたわれています。涙なしには読めない詩です。「女が、自分の産んだ子を、養い育てた幼子を食べて良いでしょうか」と嘆くところもあります。野坂昭如(あきゆき)の短編小説“火垂るの墓”をアニメ化した映画を見ました。涙、涙でしたが、戦闘などほとんど出てこないのに戦争の悲惨さをこれほど伝えている作品はないのではないかと思います。あまりにも辛く、二度は見れないような作品です。哀歌もそのような詩です。
 二度も反逆にあったので、ネブカデネザルはエルサレムを徹底的に破壊します。神殿、王宮、主な建物を火で焼き、残っていた神殿の青銅など金目のものは奪っていきます。祭司らもすべて皆殺しにします。謀反をおこさないであろう貧民とぶどう作りと農夫だけを残します。治安のためにゲダルヤを総督におき、「カルデヤ人(バビロン)を恐れるな」との御触れをだします。しかし、一、二か月後、王族のひとりイシュマエルが十人の部下を率いて、ゲダルヤと一緒にいたユダ人、カルデヤ人を殺します。最後のあがきでした。それで、主な人たちは恐れてエジプトに下って行きました。エルサレム復興の道は完全に消滅してしまったのです。モーセ・ヨシュアからダビデ・ソロモンに至って築いてきたイスラエル王国、聖都エルサレムの栄光は見る影もなくなってしまいました。栄枯盛衰!

◇因果応報か…
1.原因
 聖書記者はこうなったのは運命だとは言いません。一つの尺度でどの王も測ります。ェホヤキムもエホヤキンもゼデキヤも「主の目の前に悪を行なった」(23:36、24:9、24:20)。それ以上に悪かったのはマナセ王。罪のない者の血で満たし、神への反逆の罪をユダに犯させたので、主はユダを赦すことができなくなりました。預言者によって告げたように、主は四方から略奪隊に襲わせたのです(24:2)。バビロン来襲による大惨劇も、「エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによるもので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである」と断定するのです(24:20)。
 主に背をむけて従わず、神との契約を破ってしまい、預言者の言葉に耳を傾けなかったために、主は激しく怒り、エルサレムを破壊し、バビロンへの捕囚という「裁き」を下したのです。それが真相です。そうなら、恨みを持つことも、復讐を考えることもない。捕囚という刑期が過ぎれば、解放されるのである。神のなしたことだ。万事休すではない。絶望ではない。また、新たな神の導きがある。希望がある。今はこの神の現実を受け、神の時を待つのだ。何があっても生き延びなければならないのである。生き延びる理由があるのである。そういうことなのです。
2.結果
 ですから、この書の最後にはその希望を与える出来事が綴られるのです。
 「ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が王となったその年のうちに、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた」(25:27-30)。
 預言者たちは希望の福音を告げています。
 この辛酸を共にしたエレミヤの言葉:「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:10-11)。
 先の先まで啓示を受けたイザヤの言葉:バビロン捕囚からの解放の預言を告げます。「『慰めよ。慰めよ。私の民を。』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムにやさしく語り掛けよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」(イザヤ40:2)。それはその先のイエス・キリストによる我ら罪びとの解放も指しています。それは歴史の事実となっていきます。
 いずれも、「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」という真理を告げています(イザヤ40:7-8)。栄枯盛衰は逆転、枯栄衰盛となり、因果応報ではなく神意報酬になるのです。神のことばに信頼してまいりましょう。

悲劇の前でも平安

2016-10-02 16:38:17 | 礼拝説教
2016年10月2日(日)(2列王記22:1~13、19)岡田邦夫

「あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。」2列王記22:19

 週報の「みんなの広場」に星野富弘さんの詩画展の案内を載せています。難しくはない、素朴で美しく、その言葉に励まされます。私たちもそのような詩画を書けたら(描けたら)いいですね。でも、信仰の物語が絵になるかもしれません。

◇良い額縁
 私たちが何かを記憶するとき、感情の枠の中に入れてインプットするのだと聞きました。楽しかったという感情の額縁の中に思い出の物語という絵が記憶されるわけです。後にあの時は楽しかったという気分の額に入った美しい絵が引き出され、あの時は楽しかったなあと観賞するのです。悲しいこと、辛いこともそうです。もちろん、美味しかったもありますが…。
 列王記は王たちの生涯を列記しているものです。ダビデ王の死去で始まり、ソロモンが後継者となるものの、その後、イスラエルは分裂。ダビデ王朝が南ユダ、対立勢力が北イスラエル。その両国の王の歴史が綴られていきます。その各王の記述の前後に決まった書き方の形、すなわち、枠があって、その中に業績などの物語が記されています。どんな王だったのかの評価の枠組みです。
 今日は2列王記22:1~23:30の「ヨシヤ王」の話。始めの枠は、「ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」(22:1-2)。ダビデの血筋ですから、母親だけが記されています。また、信仰の継承に母親の存在が大きいからでもあります。
 「主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」と評価されます。なお、後ろの枠でも、「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。」と称賛されています(23:25)。もう一つの枠はこうです。「ヨシヤのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか」(23:28)。ですから、ただの記録ではなく、信仰の歩み、あるいは不信仰の歩みを物語り、読者の信仰を促すものなのです。
 だれかが召された時、その葬儀では額縁に入った遺影が飾られるでしょう。個人略歴が淡々と読まれるでしょう。共に過ごせて楽しかった、一緒に苦労したなどの思い出が死別の悲しみの中で語られるでしょう。大抵は私にとって良い人だった、かけがえのない人だったという懐かしさの中で弔辞が述べられるでしょう。自分が召された時は信仰の篤い人だったと思われたいものですね。

◇美しい絵画
 私たち、地上的業績はともかく、ヨシア王のように「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主の目にかなうことを行ない」たいものです。「右にも左にもそれず」信仰の道を進みたいものです。
 祖父マナセも父アモンもユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行わせ、偶像に仕え、主を捨て、主の道に歩まなかったと記されています。最悪でした。それが原因で後にユダの民がバビロン捕囚という神の裁きを受けることになります(23:26-27)。ですから、主を礼拝する神殿も荒れ果て、痛みに傷んでいました。そんな中、父祖や父の影響を受けることなく、ヨシアは母親の影響でありましょうか(?)、純真な信仰をもって、まずは神殿修復の事業に手を付けていきます。
 その工事中の神殿で、大祭司ヒルキヤが律法の書(聖書)を発見します。さっそく、王のもとに運ばれ、朗読されます。「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂き」嘆きます(22:8,11)。先祖たちがこの書に従わなかったので、神の怒りをかっていると思ったからです。そこで女預言者フルダに尋ねます。そのとおり先祖の罪のため神の怒りを引き起こしているという悪い答えでした。しかし、良い主の御告げ・メッセージが告げられます。「あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる」(22:19)。願いは聞かれ、ヨシアの時代は安らかだとの約束を得ます。
 女の涙は武器だといいますが、信仰者の武器も涙です。み前で嘆きましょう。涙しましょう。自分のため、人のため、教会のため、日本のため、弱者のため、被災者のため、難民のため、世界の救いのため…。涙も神の賜物です。涙を見てもらいましょう。あなたの涙の一滴は大海にもまさるのです。
 ヨシアは神殿に行き、「ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。それから、王は柱のわきに立ち、主の前に契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった(23:2-3)。思い切った宗教界改革です。罪ゆえに祖国を失い、バビロン帝国に連れてゆかれるという大きな悲しい物語がもうすぐ展開されようとしている直前に、この宗教改革です。きっと、この改革は捕囚の民にとっての希望となったことでしょう。
 そこで、偶像という偶像を排除していきます。偶像の建築物も偶像の従事者も排除していきます。おびただしいものがありました。主がお怒りになるのも当然、主の寛容の域を超えていました。ヨシアは徹底して排除します。そして、なすべき礼拝をなし、過ぎ越しの祭りをし、神の恵みと憐れみを受け、聖化されました。私たちの信仰生活や心の中に見えざる偶像が入り込んできます。富という名の偶像、成功という名の偶像、名誉という名の偶像…。サタンは神以外のものを崇めさせようとして、あの手この手でやってきます。み言葉で、信仰で立ち向かいましょう。神の右の手が支え、復活の主が勝利に導いてくださるでしょう。
 とにかく、ヨシアは心を尽くし、精神をつくし、力をつくして、主を愛したのです。主に愛されていることがよく分かったからです。

 あなたが天に召されて、葬儀になったとき、世間的な業績も語られるでしょう。良い人だったと言ってくれるかもしれません。しかし、牧師や信徒や家族から信仰の足跡が語られることが一番うれしくありませんか。いろんなことがあったけど、神の愛と憐れみを受け、幸せな人だったなあとか、これこれの信仰の足跡を残してくれましたとか、信仰の額縁に入った、美しい信仰物語の絵画を見てもらえたら、どんなにか証詞になることでしょうか。