オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

四つの種

2011-11-13 00:00:00 | 礼拝説教
2011年11月13日主日礼拝(マタイ福音書13:1-23)岡田邦夫


 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ福音書13:23)

 東京聖書学院の授業で、故山崎鷲夫先生がこういう話をされました。ずいぶん昔の話です。エスキモーの人たちのためにと宣教師が聖書を翻訳していたのですが、困ったことがありました。「見よ、罪を取り除く神の小羊」の訳です。何しろ、エスキモーの人たちは羊を見たことがないからです。知恵をしぼって、「見よ、罪を取り除く神の小あざらし」と訳したということです。見たこともないものは他のものにたとえる必要があります。天の御国(神の国)を私たちは見たことがありませんから、地の国、この世界のものでたとえなければわかりません。そこで、主イエスは「天の御国は~のようなものである」と言われて、誰にでもわかるようなたとえ話をされました。

 マタイ福音書はそのイエスのたとえ話をまとめて記しています。イエスが舟に腰をおろして話をされ、大ぜいの群衆は浜に立って聞いていたのでした。最初のものは種まきの話です(13:3-8)。私たちは畑を耕してから種を蒔くのですが、この辺りでは種を蒔いてから耕すというのが見慣れた風景でした。
 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」

◇預言の結実
 この話自体はよく身近にある話です。しかし、どんなメッセージなのかわからないので、弟子たちが主に尋ねました。すると主は「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」と答えられ、次のイザヤの預言の実現、成就だと言われました。「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである」(イザヤ6:9-10→マタイ13:13-14)。
 逆を言えば、天の御国のことを知っている方でなければ、世の国のことにたとえられないはずです。天の御国のことをすべて知っておられる全知の方が預言のとおり世に来られたのです。たとえを話せるのは救い主しかおられないのです。世の物語のたとえから、天の物語、すなわち「奥義」を知るのはどうしても「飛躍」しなければなりません。棒高跳びをする人はバーの高さまで行くには棒が必要です。しかし、バーを越えるには握っていた棒を離します。そして、体一つ空を舞い、バーを越えます。たとえは棒のようなものです。私たちを天の御国の境界線を越えさせ、そして、御国の自由に舞いさせてくれるというものです。
 ちなみに、男子棒高跳びの世界記録は6m14、ウクライナのセルゲイ・ブブカ選手が1994年にだして以来破られていません。それにしても高いです。地の話から天の話に飛び上がるには相当の「飛躍」があるわけです。心がかたくなであれば、それが足かせになって、たとえ話を聞いても天の御国のことは悟れないのです。

◇み言葉の結実
 種まきの話はそうしたことのたとえなのです。主イエスは、ですから、種蒔きのたとえを聞きなさいと言って説明されました(13:19ー23)。
 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
 主イエスのたとえ話は強いメッセージを持っています。み言葉に対して、どういう受け止めをするか、4つのタイプがあると単に解説しているのではありません。み言葉を聞いても悟らなければ、どんな理由があろうと実を結ばない人生になってしまう。だから、み言葉を聞いて、悔い改めて心を耕して生きなさいという心に迫るメッセージなのです。
 そして、たとえ話は「みことばを聞いてそれを悟る人…はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」という福音のメッセージなのです。み言葉を聞いて、悔い改めて心を耕しみこころを悟って生きるなら、何十倍、何百倍の実を結ぶ人生、さらに言うなら、永遠の結果の出る人生となるという祝福があるのです。
 みことばを聞いてそれを悟るために、天の御国を求めることが必要です。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)。そうすると、み言葉が開かれてくるのです。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」(詩篇119:130)。そして、私たちを愛と恵みの支配する御国へと「飛躍」させてくださるのです。生けるみ言葉の種自身が永遠の命の実を結んでくれるのです。
 このたとえ話にはもう一つの見方があります。神のみ言葉は世界に蒔かれていき、み言葉を悟らない人たちもいるが、必ず悟る人たちがいて、天の御国は30倍、60倍、100倍と実を結び、大きな結果をもたらしていくというものです。種に不思議な力を持っているように、十字架と復活の福音のみ言葉には御国の不思議な力があるのです。人生に実を結ばせ、世界に実を結ばせていくのです。

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