オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

たといそうでなくても

2011-07-31 00:00:00 | 礼拝説教
2011年7月31日 主日礼拝(ダニエル3:1-30みのお泉教会にて)岡田邦夫


 「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」ヨハネ第一の手紙5:21

 最近、女性が歴史に興味をもち、ブームになっているところから、彼女たちが「歴女」と読ばれています。クリスチャンも聖書の歴史に興味を持つ、「歴ク」でありたいものです。
 新バビロニヤ帝国のネブカデネザル二世がエジプトに向かって進軍する中で、紀元前586年、ユダ王国エルサレムを徹底的に破壊し、ゼデキヤ王以下主立ったユダヤ人たちをバビロンへ強制連行していきました。帝国は連行していった人たちの中から、優秀な人材を政治に利用し、役職につかせました。その中の一人がこの書の主要人物ダニエルで、今日の歴史の舞台に登場するのがシャデラク、メシャク、アベデネゴという三人のユダヤ人青年です。まず、バビロン市とはどこかというと今のイラクのバグダードに割合近いところです。歴史をさかのぼれば、ティグリス川とユーフラテス川流域に発達した世界最古の文明のひとつ、メソポタミア文明で知られているところです。また、アブラハムの家族はそこのカルデヤのウルから出て、カナンにまでやって来たのです。発掘調査によると、ウルには学校などあり、文明が進んでいたとことがわかります。歴史の舞台はこの新バビロニヤ帝国です。

◇圧倒的権力者の前で
 ダニエル書にはこう記録されています。「ネブカデネザル王は一つの金の像を造った。その高さは六十キュビト(27m)、その幅は六キュビト(2.7m)で、彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。そしてネブカデネザル王は、総督、長官、知事、参議、庫官、法官、高僧および諸州の官吏たちを召し集め、ネブカデネザル王の立てたこの像の落成式に臨ませようとした」(3:1ー 2)。そこで、召し集められた帝国の政治に関わる人たちはそれに応じ、像の前に立ちました。時に伝令者は大声に呼ばわります。「諸民、諸族、諸国語の者よ、あなたがたにこう命じられる。角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞く時は、ひれ伏してネブカデネザル王の立てた金の像を拝まなければならない。だれでもひれ伏して拝まない者は、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」と(3:4ー6 )。
 楽器の音を聞くや、圧倒的権力をもつ王の命令に従って、諸民、諸族、諸国語の者たちはみな、ひれ伏して、ネブカデネザル王の立てた金の像を拝んだのです。帝国というものにはよくあることで、巨大な像は権力を誇示するものであり、帝国を統制させていく道具でもあります。近代においても、ナチスがそうであり、神国と名のった日本も例外ではありませんでした。このバビロンにおいて、金の像礼拝に従わない人たちがいました。あるカルデヤ人らが進言します。「ここにあなたが任命して、バビロン州の事務をつかさどらせられているユダヤ人シャデラク、メシャクおよびアベデネゴがおります。王よ、この人々はあなたを尊ばず、あなたの神々にも仕えず、あなたの立てられた金の像をも拝もうとしません」(3:12)。
 豊臣秀吉が治安維持のため作った五人組制(五保の制)は江戸幕府に引き継がれ、キリシタン禁制や浪人取締りのために使われ、上記のように訴えられて、多くのキリシタンが絵踏みによって、棄教するか、殉教するか、迫られ、多くのキリスト者が犠牲になりました。3人の青年にとってはバビロンにおける絵踏みでした。
ネブカデネザルは怒りかつ憤り、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。」と迫り、「拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか。」と問い詰めます。それでも、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王にこう答えます。それは信仰告白です。
 「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(3:16ー18)。
 彼らは「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」で始まる「十戒」を守ったのです。
 第一戒:「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
 第二戒:「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」(出エジプト20:2ー6)。

◇絶対者なる神の前で
 実にこの信仰告白は奇跡です。聖霊の業です。初代教会でも、キリスト者は迫害され、皇帝礼拝を強いら「イエスはのろわれよ」と言わせられた時に、キリスト者は「イエスは主である」と言ったのですが、それは聖霊によらなければ言えないのだとコリント第一の手紙12:3で言っています。シャデラク、メシャク、アベデネゴの単なる勇敢さではなく、聖霊が言わしめたのです。ですから、「わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません。」と告白しても、さわやかだったでしょう。
 また、信仰の確信と信仰の覚悟があったのです。「わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。…たといそうでなくても、…わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(3:16ー18)。きっとそこには先におられたという意味の「先在」のキリストがおられたに違いありません。使徒パウロが後継者のテモテに記した手紙にこういう文章があります。「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさったキリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる」(1テモテ6:12ー13)。ピラトの面前であかしをされるところのイエス・キリストが見えないけれど、シャデラク、メシャク、アベデネゴと共にネブカデネザル王の前におられのではないかと、私は思います。
 ですから、次の奇跡が起きたに違いないのです。聖書はこう証言しています。「そこでネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴにむかって、顔色を変え、炉を平常よりも七倍熱くせよと命じた。またその軍勢の中の力の強い人々を呼んで、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを縛って、彼らを火の燃える炉の中に投げ込めと命じた。 そこでこの人々は、外套、下着、帽子、その他の衣服のまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。王の命令はきびしく、かつ炉は、はなはだしく熱していたので、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを引きつれていった人々は、その火炎に焼き殺された。シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人は縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。その時、ネブカデネザル王は驚いて急ぎ立ちあがり、大臣たちに言った、『われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか』。彼らは王に答えて言った、『王よ、そのとおりです』。王は答えて言った、『しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ』。そこでネブカデネザルは、その火の燃える炉の入口に近寄って、『いと高き神のしもべシャデラク、メシャク、アベデネゴよ、出てきなさい』と言ったので、シャデラク、メシャク、アベデネゴはその火の中から出てきた。総督、長官、知事および王の大臣たちも集まってきて、この人々を見たが、火は彼らの身にはなんの力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套はそこなわれず、火のにおいもこれに付かなかった」(3:19ー3:27)。
 この第四の者は今申し上げた先在のイエス・キリストに違いありません。信仰を告白させ、事実、燃える火の中から、無傷で助け出したのはいと高き神・イエス・キリストです。ネブカデネザルは全国にシャデラク、メシャク、アベデネゴの神をののしってはならないとの命令を出します。ここにユダヤ人の信仰も身の安全も保障されたのです。
 第二次世界大戦中、日本ホーリネス教団の教会は解散させられ、指導者たちが治安維持法で検挙され、「天皇が神か、キリストが神か」と問われ、キリストの王としての再臨を告白しました。獄で亡くなられた方々もおられました。ダニエル書の信仰に生きたのだ思います。信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのです。私たちの信仰の先輩がそうしてきたからこそ、今日のホーリネスの群があるのだと思います。
 もし、私たちが同様の事態になった時に3人の青年のように信仰の確信と信仰の覚悟をもって向かいたいですが、必ず、主の助けがあるのです。「彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である」(マタイ10:19-20)。「あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主(すくいぬし)である」(43:2ー3 )

魂の居場所はありますか?

2011-07-24 00:00:00 | 礼拝説教
2011年7月24日 伝道礼拝(ヨハネ14:18)岡田邦夫


 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」ヨハネ福音書14:18

 1889年(明治22年)、中村銀治郎という人が東京は日本橋に生まれました。両親が早く他界したので、銀治郎は養子に引き取られ、親戚の間を点々としていました。そのため、小学校も卒業できなかったので、親戚は手に職をつけさせようと板前の修行にだしました。板前になって働いている時に一人の婦人が彼を気に入り、養子にし、嫁さんの世話をし、うなぎ屋を出店させてくれたのです。残念ながら、場所が悪く、客が来なくて店は閉じました。その婦人というのが色鉛筆の工場を建て上げた、なかなかの人でした。銀治郎は養子ですが、この婦人をほんとうの母以上に慕い、その工場で工員として働くことにしました。板前の美しかった手は工場で色鉛筆に芯のくずが刺さり、いくら洗っても汚い手になっても、この婦人のためと働いたのでした。この婦人は岡田と言い、銀治郎55才の時に末っ子として、私が生まれたのです。
 この時代、日本はまだ、貧しかったかも知れないが、両親が亡くなっても銀治郎は一人にはならず、誰かが面倒を見てくれたのです。板前の修行中、彼は一旗あげようと、英会話の本一冊ふところにいれて貨物船でアメリカに密航しようと、横浜港をうろついている所を親戚が見つけて思いとどまらせたとも聞いています。彼は決して、孤児にはならなかったのです。
 孤独という字の「孤」は両親をなくしたみなしご、「独」は子どものない老人のことで、孤独の意味はたったひとりということです。そこから感じることはたまらなく寂しく、虚しく、恐怖さえ覚えます。三木清の人生論ノーにはこう記されています。「孤独は山にあるではなく、街にある。一人の人間にあるのはなく、大勢の人間の『間』にある。孤独は『間』にあるものとして空間の如(ごと)きものである。『真空の恐怖』それは物質のものでなくて人間のものである」。
 聖書では一人になる重要さを述べています。それは一人、神の前に立つということです。孤独になって御前に出るということです。アブラハムは弟が死に父も死に、孤独な中で、神の声を聞きました。ヤコブもエリヤもイザヤもエレミヤも、ただ一人、孤独な中でこそ、神と出会い、み声を聞き、啓示を受けました。イエス・キリストもそのように生きられました。狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがないと言われたように、群衆に語り、病める人をいやし、弟子たちとは寝食を共にし、多忙でした。時々、退いて、寂しい所で孤独になり、父なる神の前に静まっておられました。その主は私たちに孤独になって御前に出ることを勧めています。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:6 )。たまらなく寂しくなって祈ること、たまらなく虚しくなって、神の前に出ることはお腹がすいてごはんを食べる以上に大切なことなのかも知れません。そこに天来の恵みが豊かにあるからです。

 孤独と孤立とは違うと言われています。人暮らしの老人の死を孤独死と言われていますが、それが孤立死だったとすれば、悲しい話です。ネイティブアメリカンの諺にこのようなものがあります。「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたが泣いたでしょう。だから、あなたが死ぬときはあなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい」。悔いのない人生を送るようにという良い諺です。生まれる時も、死ぬ時も周りの人がいるという前提です。充実した人生とは孤立していないということです。もっとも怖いことは神との関係で孤立してしまうということです。地獄とは神に見捨てられた孤立です。神との断絶です。その苦悩を代言しているのが、イエス・キリストの十字架上での叫びです。「イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である」(マタイ27:46)。私たちの犯した罪を身代わりに背負って、父なる神に裁かれた時の状態です。
 そのイエス・キリストが約束されたのです。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」(ヨハネ14:18)。これは何と私たちに安心を与える言葉でしょうか。ご自分の実を犠牲にして、あなたがたを永遠の孤立死はさせないというのです。人間としては「あなたが死ぬときはあなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送」りたいです。それ以上に信仰者としては「あなたが死ぬときはあなたが笑って、周りの人も笑うような人生を送」れるのです。
ある六十を過ぎた婦人が癌の再発で、キリスト教のホスピス病棟にはいられました。5年前に、ご主人に癌で先立たれ、お子さんがおられないので、たったひとりだった。どんなに心寂しいことだったか。スピーカーから流れる福音放送を聞き、チャプレンの聖書の話を聞いて、神を信じ、病床で洗礼を受けられました。彼女は神が共におられることを確信し、孤独はいやされました。彼女の愛唱した賛美歌は、天国を慕うものでした。「きよき岸べにやがて着きて、天つみくにについに昇らん。愛でにしものとやがてあいなん」(新聖歌518)。愛唱した聖書は、前記の詩篇23篇でした。死の状況=最も孤独の恐れの淵に立たたされた時、「。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(4節)という主のことばが大きな支えとなりました。魂に平安があって、眠ったまま、主のみもとに召されました。死に顔は天使のように美しく、それは主が共にいてくださるというすばらしさの証しでありました。

 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」。たとい、あなたがたが死の陰の谷を歩くことがあっても、あなたがたを愛子として、永遠の孤立死からまもり、あなたがたは私とともに永遠にいるのです、とおっしゃている主のみこころを信じましょう。

エルサレム陥落・しかし…

2011-07-17 00:00:00 | 礼拝説教
2011年7月17日 主日礼拝(エレミヤ38:1-30:18みのお泉教会にて)岡田邦夫


 エレミヤは言った、「彼らはあなたを渡さないでしょう。どうか、わたしがあなたに告げた主の声に聞き従ってください。そうすれば幸を得、また命が助かります。」エレミヤ書38:20

 物語というのは人の心に残るものです。平家物語は琵琶法師によって詠われ、語られ、庶民の心に植え付けられるものがありました。祗(ぎ)園(おん)精(しよう)舎(じや)の鐘の声、諸行無常の響きあり…で始まる冒頭の部分から、ことわざ「驕(おご)る平家は久しからず」が生まれています。旧約聖書にもイスラエルの王家の物語「列王記」もまた、語り継がれた歴史物語で、主なる神に従った王によって国は祝福され、しかし、主に従わなかった王によって国は災いをまねいたのだという、歴史観で述べられています。

◇それでも、救いはある
 若くして神に召された預言者エレミヤは、上記のユダ王国時代の末期に生き、神の言葉を告げた人です。エレミヤは決して、遠くから傍観し、冷静に時代状況を分析し、評論していたわけではありません。その渦中にいて、悲しみもだえ、その中で神の言葉を聞き、メッセージ・預言を伝えたのです。そういう極限状況に置かれたからこそ、希望の預言が託されたわけですし、信じて受けとめたのです。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(29:11)。
 絶望を知ってこそ、真の希望もわかるのでしょう。すでにバビロン帝国のネブカデネザル王が攻め入り、ユダ王国は敗北を帰し、神殿及び王宮の財宝はすべて奪われ、貴族ら主だった人たちがバビロンに補囚されて行くという惨状でした。エルサレムはバビロンの占領下におかれ、傀(かい)儡(らい)政権(表面上は独立した政権であるが、影で他国など他の勢力に操られ、それらの強い支配や統制に置かれている政権のこと)として、ゼデキヤが王として立てられていました。廷臣(つかさ)たち・シパテヤ、ゲダリヤ、ユカル、パシュルと言う人たちが難物で、預言者エレミヤにクレームをつけるのです。
 預言は「主はこう言われる、この町にとどまる者は、つるぎや、ききんや、疫病で死ぬ。しかし出てカルデヤびとにくだる者は死を免れる。すなわちその命を自分のぶんどり物として生きることができる。主はこう言われる、この町は必ずバビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを取る」(38:2ー3)。それが気にくわないから、王に彼を殺してくれと進言するのです。王は言われるままです。エレミヤは捕らえられ、監視の庭の水ため用の穴につりおろされ、渇水期だったので、エレミヤは泥の中に沈んだのです。ところが、助け船が入ります。王家の宦(かん)官(がん)、エベデメレク(エチオピヤ人)がエレミヤにしたことは良いことではないので、その穴から助け出すようにと、王に進言します。それで、エレミヤは助け出され、ゼデキヤ王と会います。第三の門というのは監視の庭と王宮を結ぶ秘密の通路らしいです。
 ゼデキヤ王はエレミヤに聞きます。「あなたに尋ねたいことがある。何事もわたしに隠してはならない」(38:14)。エレミヤは忠告をしてもあなたは聞かないし、私を殺すだろうと答えると、王は誓います。「われわれの魂を造られた主は生きておられる。わたしはあなたを殺さない、またあなたの命を求める者の手に、あなたを渡すこともしない」(38:16)。それではと、預言者エレミヤは神からのメッセージ・預言を厳粛に告げます。

◇それでも、滅びにむかう
 「万軍の神、イスラエルの神、主はこう仰せられる、もしあなたがバビロンの王のつかさたちに降伏するならば、あなたの命は助かり、またこの町は火で焼かれることなく、あなたも、あなたの家の者も生きながらえることができる。しかし、もしあなたが出てバビロンの王のつかさたちに降伏しないならば、この町はカルデヤびとの手に渡される。彼らは火でこれを焼く。あなたはその手をのがれることができない」(38:17-18)。しかし、王は自分が降伏したら、すでに脱走し、カルデヤびと(バビロン軍)に投降したユダヤ人たちが自分をなぶりものにするだろうと「恐れて」出来ないというのです。預言者はなおメッセージを伝えます。
 「彼らはあなたを渡さないでしょう。どうか、わたしがあなたに告げた主の声に聞き従ってください。そうすれば幸を得、また命が助かります。しかし降伏することを拒むならば、主がわたしに示された幻を申しましょう。すなわち、ユダの王の家に残っている女たちは、みなバビロンの王のつかさたちの所へ引いて行かれます。その女たちは言うのです、『あなたの親しい友だちがあなたを欺いた、そしてあなたに勝った。今あなたの足は泥に沈んでいる(捕らえられる)ので、彼らはあなたを捨てて去る』。あなたの妻たちと子供たちは皆カルデヤびとの所へひき出される。あなた自身もその手をのがれることができず、バビロンの王に捕えられる。そしてこの町は火で焼かれるでしょう」(38:20ー23)。
 「あなたに告げた主の声に聞き従ってください。そうすれば幸(さいわい)を得、また命が助かります。」と救いの道を提示します。「しかし降伏することを拒むならば、…バビロンの王に捕えられる。そしてこの町は火で焼かれる。」と滅びの道も提示されます。どちらを選択するか、迫られるのです。二者択一です。王としての決断が国の行く末を決めるのです。王は同胞の仕打ちを恐れたのです。誰かに似ています。イスラエルの初代の王サウルがそうでした。「人を恐れ、神を畏れない」決断をして、失敗した人物です。ゼデキヤも、神のメッセージが告げられているのに、さまざまな人たちを複雑に恐れ、神を畏れることを忘れたのです。
 その後、王はそれでもエレミヤを助けるために廷(てい)臣(しん)たちにはこのことを言わないようにと言います。それで、エレミヤはエルサレム陥落の日まで監視の庭に軟禁され、助かりました。しかし、ゼデキヤ王も在位9年目、バビロン王、ネブカデレザルはその全軍を率い、エルサレムを攻め囲みます。ユダの王ゼデキヤとすべての兵士たちは夜、逃げ出しますが、バビロン軍はこれを捕らえ、謀反を起こしたということで、ゼデキヤの子どもたちを彼の目の前で殺し、すべての貴族たちを殺したのです。そして、ゼデキヤの目をつぶし、彼をバビロンに引いて行くために、鎖につないだのです。そして、王宮と民家を火で焼き、エルサレムの城壁を破壊し、降伏した者、他の残っている民をバビロンに捕え移し、貧しい無産者だけをユダの地に残したのです。

◇それだから、救いにむかう
 ここに教訓があることを学びましょう。人生は選択です。Aの学校にしようか、Bの学校にしようかとか、Cの会社にしようとか、Dの会社にしようとか、…それが人生を決めていくように思うのが私たちです。しかし、もっと重要な選択があることを聖書の歴史物語が告げています。「あなたに告げた主の声に聞き従ってください。そうすれば幸を得、また命が助かります。」という救いの道と、「しかし降伏することを拒むならば、…バビロンの王に捕えられる。そしてこの町は火で焼かれる。」と滅びの道が提示され、選択を迫られているのです。これは突き詰めれば、永遠を決める選択です。しかも、強調されているのは「あなたに告げた主の声に聞き従ってください。そうすれば幸を得、また命が助かります。」という救いの道です。私たちは自ら蒔いた罪の刈り取りをして、滅びの道を行くしかありません。しかし、イエス・キリストが十字架において救いの道が開かれ、そのイエス・キリストの声に従うなら、救われるのです。ほんとうの幸いを得るのです。永遠の命の幸いを得るのです。先ほどのAでもBでもCでもDでも、永遠を決めるものではないので、自由な選択に生きて良いかも知れません。しかし、神に従うか、人に従うかの選択肢は永遠を決めるのです。そして、前者を選べば、無限大の幸い、復活があることを、イエス・キリストは身をもって明示してくださいました。

私の計画

2011-07-10 00:00:00 | 礼拝説教
2011年7月10日 主日礼拝(エレミヤ29:1-14)岡田邦夫

 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29:11

 若い日に見た1954年のアメリカの西部劇映画「帰らざる河」(River of No Return)はテーマソングもヒットし、心に残るものがありました。あることからやむを得ず河の激流を筏(いかだ)で、様々な危険を通りながら、下っていくというスリルとロマンの話です。「河」というのは大河ドラマというように歴史を表すことがあります。歴史は帰らざる河とも言えるでしょう。

◇「帰らざる河」バビロンへ
 新バビロニア王国ネブカデネザル王はエジプトの影響下にあるシリアの諸王国を次々と征服して領土を大幅に拡張していきました。ついにユダ王国も征服され、紀元前597年、エルサレムは落城し、神殿と王宮のすべての財宝が持ち去られ、「エコヌヤ王(エホヤキン王)と王母と宦官たち、ユダとエルサレムの貴族たち、職人と鍛冶屋たちが」捕虜としてエルサレムからバビロンに連れ去られたのです(29:2)。もう、二度と祖国には帰れないであろう補囚の旅でした。どんなに悔しくても、どんなに辛くても、帰らざる歴史の大河に身を任せるしかなかったのです。
 この捕虜の生活の辛さをその当時、うたったと思われる詩篇があります(137篇)。
 「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、『シオンの歌を一つ歌え。』と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。…」
 そして、この時はユダに残った人々がおり、その占領下での王がゼデキヤであり、ネブカデネザル王に使者を遣わす時に、預言者エレミヤの手紙を託したのです。BC594年のことです。その手紙は励ましの手紙です。東日本大震災の被災者に国をあげて、「がんばろう!日本」のエールを掲げています。ところが補囚の民はがんばりようがないのです。人の励ましでは間に合わないのです。「あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。」とエレミヤは言います(29:8)。エルサレムは神の聖なる都だから滅びないという固定観念でもの言う偽預言者や希望的観測で安易に大丈夫だという占い師を警戒しなさいと言うのです。

◇「帰らざる河」エルサレムへ
 真の励ましは真実にして、生きた神の言葉です。このバビロン来襲と補囚はイスラエルの、神への背信に対する裁きだと告げてきました。「わたしは、彼らのすべての悪にさばきを下す。彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだからだ」(1:16)。しかし、主はこう指示を出します。補囚の地で、定住し、子孫を増やし、町を繁栄させなさいと…。なぜなら、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」と神が約束されるからです(29:10)。歴史上の裁きの期間は70年、それが満ちれば、神に赦され聖都エルサレムに神が帰されると言うのです。何百年と神に背いてきたのに、わずか70年で赦されるのです。時間の長さはおよそ70年ですが、七も十も、七×十も完全数、神の時が満ち、完全な赦しがなされるという意味です。
 そういうわけで、主の私たちへのお心は実に明るいものです。29:11の前半を新共同訳で読みますと、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。」とわかりやすい訳です。私は甥の結婚式があるというので、四国から東京に行きましたら、結婚式は来週だと言われてびっくりしました。手帳の予定表をチャンと見ていないで、思い込みで、一週早く行くという失敗をしたのです。神がそのようになさるでしょうか。私たちのために立てられたご自分の計画を少しも間違えなく心に留めてくださるのです。しかも、機械的にではなく、熱い思いで心に留めてくださるのです。
 その後半は新改訳で「主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」。私たちはこういうことをしたから、こうなるというふうに因果応報的に考えてしまいます。過去の延長に未来があるというものです。預言者は先に神の計画があって、そこに向かって、今があるというわけです。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」というのですから、素晴らしい。そういう良い意味での歴史の「帰らざる河」なのです。神のご計画の実行の流れを人は変えられないのです。事実、歴史の帰らざる河は「この天地は滅び去ります。」に向かっています。しかし、救いの歴史の帰らざる河は「わたしのことばは決して滅びることがありません。」なのです(マタイ24:35)。
 預言者の告げた神のご計画の通りに、御子イエスがおとめマリヤから生まれました。ヘロデ王がその救い主を抹殺しようとしましたが、王といえども、神の働きを止められませんでした。ユダヤの当局が陰謀を企てた通り、イエスを十字架で抹殺できたのですが、ほんとうはメシヤの受難によって人類を罪と死から救うというご計画、「預言」の成就だったのです。人類を救うという神の歴史の「帰らざる河」を誰も止めることはできなかったのです。死んで墓に葬られても、死人の中から復活されるということを、サタンも止められなかったのです。すべての人はアダム以来、神の前の罪のゆえに死に定められています。キリスト者も逃れられず、この「帰らざる河」を行かなければなりません。しかし、キリスト者は恵みにより、信仰により、復活が定められています。永遠の御国に続く、復活に続く、恵みの「帰らざる河」の流れの中にいるのです。

 ですから、エレミヤの勧めのように、私たちは主を呼び求めて歩き、聞いていただき、主を心を尽くして捜し求め、主と出会ってまいりましょう。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」との御言葉に信頼して…。