オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

何たる愛ぞ!愛ぞ!

2013-05-26 00:00:00 | 礼拝説教
2013年5月26日 伝道礼拝(テモテ1:14)岡田邦夫

「私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。」テモテ1:14

 今日、賛美します、新聖歌359「罪深きこの身を」の作曲者はスティーブン・フォスターです。彼が最初に作った歌が「おお ズザンナ」です。ひとりの少女が吹雪の夜、使いに出され、荷車にひかれて死んでしまい、それを知ったフォスターがその両親のそばに寄りそって慰めようとつとめました。この経験から生まれた哀歌が「おお ズザンナ」(Genntle Annie)でした。後にこの歌が評判となり、ゴールドラッシュで金を求めてカリフォルニアに向かう人たちに歌われていきます。その事があって、彼は音楽の道に進み、「故郷の人々」(スワニー河)、「主人は冷たい土のなか」「懐かしいケンタッキーの我が家」を作っていきました。ところが、南北戦争の影響で職を失い、借金と酒びたりの生活となり、事故により37才の孤独死でした。
 恵まれた生涯とは言えず、悲惨にも見えた生涯でしたが、歌は残りました。彼の死後、「ケンタッキーの我が家」がケンタッキー州歌となり、「故郷の人々」がフロリダ州の歌と制定されたのです。トルーマン大統領による、1月13日をフォスター記念日とするの提案が議会で決議されました。日本の私たちにも、フォスターは愛されています。苦悩の中で生まれた彼の歌がきっと心の琴線に触れるものだからでしょう。
 ですから、彼の曲は賛美歌の歌詞がつけられ歌われています。奴隷たちが死んだ主人を心から悲しむ歌、「主人は冷たい土のなかに」は、新聖歌426「世には良き友も」(ラドゲイド作詞)になっています。「オールド・ブラック・ジョー」は新聖歌424「この身を虜にせし」(作詞者不明)になっています。

◇ただ空しいだけだ
 世界中をめぐっても、ただ空しいだけだ。ほんとうに懐かしいのは、故郷の人々だけだと歌う「故郷の人々」(スワニー河)は、新聖歌359「罪深きこの身を愛して」(カーター作詞)になっています。原曲は黒人の英語で書かれておりますが、その訳文を1節だけ、大塚野百合師のものを転記しましょう。「スワニー河を下った遙かなかなたに 私の心がいつも慕っているところがある。そこは親しい人たちがいるところだ。造られた世界を私は悲しい思いであちらこちらさまよったが、その農場と故郷の人々が懐かしくてたまらないのだ。(折り返し)私がさまよった世界はどこの寂しく 空しいところだ。故郷の懐かしい人々と離れていると、なんと私の心は空虚なのか」。フォスターはスワニー河を見たことがなく、音の響きで入れたと言います。彼にとっては懐かしい故郷が現実のどこかというより、むしろ魂の故郷を慕う虚無感を歌詞にしたのでしょう。そこに心を打つものがあるのでしょう。
 明治36年の讃美歌317にはこの曲に別所梅之助が創作した「花よりも愛でに」があります。1節だけ見てみましょう。哀調をおびています。
 花よりも愛でにしわが子よ/残ししこころもだにいと懐し
 たのみなき旅路をいづこに/さまよへるか今は花ちる暮
(をりかへし)
 わが子よわが子よとくかへり/心ゆくいのりを共にせずや

◇ただ嬉しいだけだ
 そうした哀愁や虚無を越えて、イエス・キリストの愛に救われた喜びを歌ったのが、カーター作詞の「罪深きこの身を愛して」(新聖歌359)です。
 罪深きこの身を 愛して
 イエスは木に掛かられ いのち捨てぬ
 何たる愛ぞ! 愛ぞ! 涙に
 ただむせびて イエスを見るほかなし
(おりかえし)
 救いはこの身に 成就しぬ
 われいかで疑わん 主のみわざを

 私はこの聖歌が好きでよく歌いました。私が生まれたのは東京の日暮里、第二次世界大戦中でした。アメリカから、B29の爆撃機が大量の焼夷弾を落としていきます。兄は特攻隊に志願、東京は危険と言うことで姉は学童疎開、それと一緒に母はおむつの取れていない私をつれて、田舎に疎開しました。その間に東京は焼け野原、終戦後に帰ったものの、どこがだれの土地だったかわからず、探し当てた我が家の後には他人がバラックを建て住んでいて、居場所が無くなっていました。やむなく、知人の紹介で亀有にある練炭工場の社宅の2階に間借りさせてもらいました。兄は出撃せず、終戦になったので帰ってきたのですが、どう生きたらよいか解らず、茫然としていました。しかし、食べていかなければならない、働ける者は必死に働き、少し余裕が出来、日暮里の長屋に越しました。私はおおむね小学6年間をここでそれなりに過ごしました。日が当たらない長屋、一家は日の当たる家に住みたいと願って働き、念願の庭付きの家を葛飾区に建て、移り住みました。
 私は中学生、この環境を喜び、一番生き生きしていたと思います。そのまま、高校へ進み、世は高度経済成長期、一発で就職が決まってしまいます。そこで考える時間が出来、人生を考えるなると、順調に望みがかなっていく面と、とてもかなわないことがあり、夕日を見ながら思いにふければ、たまらない寂しさと虚しさに襲われるのでした。
 好きな道、研究室に入って充実していたのですが、日本アルプスの山に登った後などに、楽しければ楽しかった分、それに比例して、何と言えない虚無感に襲われるのでした。フォスターの感じた、どこかにあるであろ心の故郷を、私も無意識のうちに求めていたのだと思います。東京大空襲で現実の故郷は無くなっていますし、日暮里に帰ったとはいえ、日の当たらない家、葛飾の日の当たる家も兄の家、いずれ出ていき、帰ると所はないのです。住めば都、そう生きれば良いのですが、魂はそうはいかないのです。聖書によれば、天の故郷があると言います。私の魂は求めていました。
 20才の時に、柴又教会に友人に誘われて、行きました。その時は私は一歩踏み出せばいい魂の状況でした。特別伝道集会の後、神を信じてこなかったことと神が見ていないからと、罪を犯してきたことを悔い改めて、イエス・キリストがこの私の罪を赦すために十字架で死んでくださったことを受け入れ、みことばを信じました。牧師夫人から「あなた、神の子になったのでしょ」とねんを押された時に、帰るべき所に帰ったということを実感しました。「わが子よわが子よとくかへり」という歌詞のようにです。帰るべき父なる神の懐に帰ったのです。
 それからです、自分のほんとうの姿が解ってきたのは。学生の時は手の込んだ不正乗車、実験でわざと爆発させて器物損壊、子煩悩の父親を蔑視、まじめそうで暴言、虚偽の数々、心の内にはねたみ、そしり、裁き…、実に罪多き者、罪深い者であることを知らされました。空しくさせている元凶は罪なのだと、わかってきました。すると、イエス・キリストの十字架の贖い、赦しがどんなに大きなものであり、どんなにか神に愛されているのか、解りました。愛されていることが解ると虚しさも消えていきます。パスカルの言う、人の心には神によってしか埋めることの出来ない空洞があると言うようなことを言いましたが、イエス・キリストを信じて受け入れると、その空洞、真空はうまるのです。逆に父の懐に飛び込むと満ち足りた、神の国の世界、虚無という怪物のいない居場所なのです。
 パウロは私たちを代表して、こう言っています。「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」(1テモテ1:13-15)。私たちも同列に神の前にいるのです。同じ罪人でり、同じあわれみ、同じ恵みを受けているのです。
 ごいっしょに「罪深きこの身を愛して」の聖歌をもって賛美しましょう。

三位一体は神秘

2013-05-19 00:00:00 | 礼拝説教
2013年5月19日 主日礼拝(1コリント8:4-6、2コリント13:13)岡田邦夫

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」2コリント13:13

 ラジオ番組などでナレーションを入れたり、番組の司会進行をする人をパーソナリティと言います。このパーソナリティはその人の持ち味、個性、人柄という意味でよく使われます。また「人格」と訳されます。キリスト教ではこの人格というのは大変重んじられています。女性の人格、男性の人格、子供の人格、障害者の人格、病者の人格等々…神に造られた者としての人格の尊厳が言われています。神については、捉えどころのない抽象的なものではなく、はっきりとした「ご人格」をお持ちの方なのです。神は人ではないので「位格」と訳しています(ラテン語ではペルソナ)。しかも、三位格でありつつ、ひとりの神という三位一体の神なのです。それは実に神秘なお方ではありますが、これこそが私たちにとって最重要なのです。

◇唯一の神
 私たちが信じる神はただおひとりです。祈る時にこの方だけに祈ればいいのです。信じ信頼するのも、唯一の方なので、心は確かです。オンリーワンの神とオンリーワンの私が向き合えるのです。ですから、ペテロの言うように言えるのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)。
 旧約聖書においても、イスラエルを救いに導かれた主なる神が唯一であることを宣言しています。「きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい」。「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった」(申命記4:39、32:11-12)。
 新約聖書にもはっきりと断言しています。「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです」(1コリント8:6)。
 位格をお持ちですから、だれですかと問えば答えてくださる方です。 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である」(出エジプト3:13-14、神の名がヤーウェ=主と言われるのはこの『わたしはある。』から来ていると言われている)。
 逆に、イエスの方から弟子たちに尋ねました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。ペテロが答えてイエスに言いました。「あなたは、キリストです」。唯一の救い主という意味です(マルコ8:29)。

◇三位一体の神
 世の中には色々な宗教があり、そういう意味ではキリスト教は種々ある中の一つです。しかし、神が唯一というのは色々ある中の一つではなく、全宇宙も全歴史も御手の内にある、全てを包み込む一つなのです。それで父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つの位格が聖書に出てくるのでしょう。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」という祝祷に出てきます(2コリント13:13)。私たちが祈るのもそうです。父なる神に対して、イエス・キリストの名を通して、聖霊に助けによって祈ります。
 しかし、父・子・聖霊の三つの位格をお持ちで、唯一の神という、三位一体の神というのは、普通の頭ではすんなりとは理解できません。三人で一人とは矛盾しているし、1+1+1=1とはなりたたないので、三位一体というのは受けとめられません。そこで、それを説明しようとしたのが、三位一体論です。三位一体の神の神秘は説明しきれないのですけれど、それを通して豊かな神を思わされることになるので、良いのではないかと思います。

 唯一の神ですが、三位格なのでご自身において孤独ではないでしょう。神の内側において、父、子、聖霊が完全な愛の交わりにあるので、愛において全くひとつであられるのでしょう。本質的に永遠から永遠まで三位一体なのでしょう。この説明を内在的三位一体論と言います。そう考えていきますと、神が神を愛する愛で、私たち、このちっぽけなこの私を、そんなにも大きな、そんなにも完全な、そんなにも一つにさせてしまう愛で愛されていると思うと魂がぞくぞくしてきます。そして、恐れを取り除きます。
唯一の神ですが、世界や歴史に働きかける時に、前面に現れたの三葉なのでしょう。旧約の時代においては父なる神が前面で働かれ、イエスの時代においては子なる神が前面で働かれ、教会の時代においては聖霊なる神が前面で働かれ、それでいて、唯一の神であられるのでしょう。唯一の神が全世界、全歴史にたいして、創造者、和解者、救贖(きゆうしよく)者として全面的に関わってくださっているのでしょう。この説明を経綸(けいりん)的三位一体論と言います。そう考えていきますと、唯一の神ですけれど、三位格の神が全歴史においてもそうですが、私たちやこのはかないつかぬ間の命の私に、三位格が総動員されて、創造者、和解者、救贖(きゆうしよく)者として全面的に関わってくださっていると思うと申し訳ないし、ありがたいし、生きるにも死ぬにも何か安心していられます。

 「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」と使徒ヨハネが言っています(ヨハネ21:25)。そのように、この二つの説明を総合したとしても、聖書に現れた三位一体の神を説明しきれないでしょう。使徒パウロのように、聖霊によって祈りましょう。「私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(エペソ3:14-19)。

「神とは」と問うてみる

2013-05-12 00:00:00 | 礼拝説教
2013年5月12日 主日礼拝( 詩篇77:10-15)岡田邦夫


 「神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。」詩篇77:13

イエスが三田の相野に来られたなら
畑をおとずれる野鳥をごらん
畦に咲く野の花をごらん
父が養い、装っている、まして人間は…
と言われるでしょう
新緑に装われた相野の山
その背景に描かれた抜けるような青空
柔らかな風の中、つばめが舞う絵画
だれがこれらを創造したかをごらん
と言われるでしょう
ホレブの山で燃える柴
それを見たモーセに告げたように
相野の麓に遣わした私の僕
くつを脱げ、あなたの立ってる所は聖なる地
と言われるでしょう
サマリヤの井戸で女性に告げたように
聖地はゲリジム山でもエルサレムでもない
霊とまことで礼拝するところ
主の名で集まる泉教会が聖地
と言われるでしょう


◇「…であるはずの神」
 火の無い所に煙は立たぬとありますが、ものごとにはすべて原因と結果があると考えます。私たちがいるこの宇宙がこうして存在し、しかも運動しているということは、それをさかのぼれば、そのいちばん初めの原因があったはずです。それより前はないわけであり、それを初めたのが神だとしか言いようがありません(a)。
 たとえば車ですが、それは人や物を乗せて走るという目的で作られています。星の運行など宇宙にあるものがびっくりするほど精密に規則的に動いていること、花にしろなににしろ、生き物は実に精巧に出来ていること、さらにそれらの命のサイクルの不思議ないとなみがあります。そこには人間の知恵をはるかに越えた存在が高度な目的をもって設計し、造ったに違いありません(b)。
 「神が何者にも勝って偉大なお方であられる」という信仰を前提として、神の存在を証明する試みをした人がいます。「神よ。あなたは、何ものにもまさって偉大なお方であられます。ゆえに、あなたが神であられる以上、あなたは観念の中にのみあって実在しないはずはありえず、観念の中にあり、かつ、実在するお方なのです!」(c)。
 人には悪いことをすると心が痛み、良いことをすれば心はそう快という良心、道徳的な意識があります。それは世界を秩序だてようとするものです。そうさせている源に神がいるはずです。また、いてほしいものです。(d)。

◇「…であった神」
 このように頭で考え、心に感じたところに神はおられると証明できるのでしょうか。聖書はその逆で、神の方から人と出会い、自らを現し、人を救われるのだと記されています。私たちのまず、することは求めることです。詩篇77篇を見てみましょう。「私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる」(77:1)。その叫ぶ様子が綴られます。苦難の中におかれ、神はいつくしみを忘れたのだろうかと嘆き、魂は衰えます。しかし、心を翻します。「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう」(77:11-12)。歴史の上に神が現れ、救いの出来事をなされた神のみ業を思い起こし、静かに考えようと思いを定めるのです。
 「神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。あなたは奇しいわざを行なわれる神」(77:13ー14 )。神はモーセに現れました。ご自分を「有って有る者」、絶対的に存在するものだ、名を「主(ヤーウェ)」という固有名詞を持つ人格的存在だと紹介されました(出エジプト3:14)」。エジプトの奴隷で苦役に嘆いて神を呼んでいるので、アブラハムとの約束を覚え、そのイスラエルの民を脱出させようと啓示されました。モーセが主に命じられたようにエジプトに乗り込みますと、主が超自然的なわざをもってパロ王に臨み、イスラエルの民をエジプトから追い出させるかたちで、事実、イスラエルは救出されたのでした。荒野に解放されたイスラエルをあきらめきれないエジプト軍が追ってきますが、主が葦の海(紅海)を二つに分け、イスラエルがそこを渡ります。主が水を元に戻すと追っ手の軍隊は海に飲み込まれ、ここで完全にエジプトの奴隷から解放されたのです。「あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません」(77:19)。神は霊であり、見えない方ですが、人を救いに導くご人格です(ヨハネ4:24)。

◇「…である神」
 この歴史に働かれる「神のように大いなる神が、ほかにありましょうか」ですが、この方は、無限に、永遠に存在する方です。「御霊を離れてどこにいけましょう。」「とこしえからとこしえまであなたは神」と聖書は証ししています(詩篇139:7、90:2)。
 「神のように大いなる神が、ほかにありましょうか」。ほかのものとはどんな被造物とも区別された方、すなわち、聖なる方なのです(出エジプト15:11)。‘聖なる、聖なる、聖なる主よ’と賛美される方です(新聖歌137)。その聖なる方は義なる方、真実な方です。「だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない」。「主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り」…イザヤ45:21、詩篇146:6。
 その聖なる方は愛なる方、憐れみの方です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ」…ヨハネ3:16、 ホセア2:19。
 神はイスラエルを奴隷の家から解放された歴史に働く神と話しましたが、神は人類を救うために、神の御子・イエス・キリストを世に遣わし、罪の奴隷にある私たちを死と滅びから救うために十字架にかかられ、義を全うされるために私たちの代表となって神に裁かれました。また、同時に罪を贖い、赦し、永遠の命を与えるという無償の愛を全うするために、身代わり(代替え)となられ、神にとりなしました。そして、よみがえられました。私たちは悔い改めて、主のもとに帰り、イエス・キリストの十字架のみわざを信じるだけで救われたのです。「神よ。あなたの(十字架の救いの)道は聖です」。義と愛に満ちた聖なる「神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。」詩篇77:13





















 

信じます

2013-05-05 00:00:00 | 礼拝説教
2013年5月5日 主日礼拝(ローマ10:8-17)岡田邦夫


 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ10:10

 むかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんがいました。おとぎ話の定番です。息子を寝かせようと父親が桃太郎の昔話をしてあげると、ませた息子がいちいち、いつどこでだれがというように解説してしまって、息子は頭が冴えてくる、父親は寝てしまうというような落語があります。
 聖書もむかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんがいましたという話で始まっています。ただ、架空の話ではなく、メソポタミヤ文明の地、カルデヤのウルから出てきたアブラハムとサラの老夫婦がいたこと、神の約束のように奇跡的にイサクが生まれたこと、それはその子孫のイスラエルがエジプトを脱出した事件の5世紀前の出来事として記されているのです。それは勧善懲悪を教える物語というものではなく、私たちが受け継ぶべく信仰の父の言葉なのです。ヘブライ語で歴史という語は系図とも訳せます(創世記11:27口語訳は系図、新改訳は歴史)。イスラエルはアブラハムが神を信じた信仰の子孫であり、異邦人である私たちも神を信じる信仰の子孫として、歴史的に4000年のつながりを持っているのです。

◇信頼する
 アブラハムが神から与えられた信仰の中核、信仰のDNAとも言うべきものは何だったのでしょうか。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6=ローマ4:3)です。神は歴史の上に現れ、アブラハムという人に語りかけ、彼に人格的に出会われたのです。あなたを祝福すると語られた主なる神と向き合い、人格的に信頼したのです。アブラハムは臨んでくださった神を信頼したからこそ、行き先を知らないで、神の示す所に行き、不妊のサラから子が生まれるとの約束を信じ、待ったのです。きっと、神も彼を信頼するという信頼関係があったに違いないと思います。信仰とは信頼です。「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」(ローマ10:11)。神の御子がみ位をすて、人となられ、しもべとなられ、十字架にかかり、命を献げてまで私たちを愛し、私たちを滅びから助け出してくださったお方に全幅の信頼をもって生きてまいりましょう。

◇認識する
 アブラハムは神がわたしは全能の神であるという啓示を受けたとき、普通の理性では受けとめられなかったでしょうが、霊的に開かれた理性で受けとめ、うなずいたと思います。彼はおよそ百才になって、妻との間に子供が生まれる等、不可能であるにもかかわらず、全能の神、不可能を可能とする神を信じ、認識していたのです。事実、約束された子供が生まれてきました。神の言葉を体験的に知る、それが実りある信仰なのです。
 教会に来て初めのころは、人類の罪のためにイエス・キリストが十字架にかかり、贖ってくださり、その福音を信じれば救われると知的に知ったとしてもわかったわけではありません。やがて、聖霊が働いて、イエス・キリストは「私」を愛し、私の罪のために身代わりに死んでくださったのだと霊的に受けとめられたときに、十字架がわかった、神がわかったとうなずけるのです。人生の荒波にもまれているときに、どうして、私だけ、こんな目に会うのかと神を求めていると、「しっかりするのだ。わたしである」というみ声を聞いて、平安をいただくということもあるでしょう。嵐を静めるイエス・キリストを知らされるのです。「『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです」(ローマ10:8)。
 アブラハムにイサクをモリヤ山にいって、献げなさいと神に命じられて、それにしたが、その山でイサクに手をかけようとしたときに、ストップがかかり、「あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」とみ声を聞きました。神の側で、あなたがわかったと言われたのです。私たちのそのように神を知り、神に知られるというわかり合っていく間柄なのです。信仰とは認識です。

◇告白する
 例えば、結婚ですが、初めに何らかの出会いがあり、生涯を共にするのはこの人だと信頼しあって、結婚します。結婚前も相手を知るわけですが、結婚後はなお一層生涯かけて、知って知られていく必要があります。イエス・キリストを信じていくということはそれと似ているでしょう。そこで、重要なことは告白です。決め手はプロポーズです。弟子たちはイエスと出会い、イエスのことがわかってきたときに、こう尋ねました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。イエスのプロポーズのような投げかけです。するとペテロが答えました。「あなたは、キリスト(メシヤ・救い主)です。」と告白しました(マルコ8:29)。その告白を聞かれて、主は受難に向かい、十字架に向かわれました。贖いをなしとげ、死んでよみがえられ、信じる者を義とし、永遠の命を与える道を開きました。
 私の母に伝道したのですが、無神論者だと自称して、聞いてもらえなかったのですが、息子が世話になっているというので教会に来てくれました。それがきっかけで、後にキルボルンという宣教師の方をお招きしての伝道会に来ました。最後に信仰の勧めがあったときに、母はすなおに手を上げました。私は母を前に祈りました。示されたみ言葉は「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:9ー10)。母の口から、悔い改めの告白とイエスさまを信じますという告白を聞きました。その後、受洗し、聖書一筋に生き、平安の内に御国に行きました。
 あなたは神に尋ねてご覧なさい。あなたは私を愛しておられますかと。きっと「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と告白されるでしょう(イザヤ43:4)。また、あなたは神から尋ねられるでしょう。「(ヨハネの子シモン。)あなたはわたしを愛しますか」(ヨハネ21:16)。あなたは何と答え、告白しますか。
 告白というのは素晴らしい仕掛けをもっています。告白したようになるのです。イエスのなされた奇跡で、よく出てくるのが「あなたの信仰のとおりになるように」です。信仰の告白は奇跡を起こすのです。また、マリヤのように「はんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」とも告白することで、み言葉の実現につながります(ルカ38)。従順な信仰告白をどれほど、主は喜ばれるでしょうか。信仰とは告白です。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」。
 そうした意味で、私たちは使徒信条をもって、兄弟姉妹と共に心を合わせて、三位の神に告白できるというのは実に素晴らしいことです。
神は人類を救うために、神の御子・イエス・キリストを世に遣わし、罪の奴隷にある私たちを死と滅びから救うために十字架にかかられ、義を全うされるために私たちの代表となって神に裁かれました。また、同時に罪を贖い、赦し、永遠の命を与えるという無償の愛を全うするために、身代わり(代替え)となられ、神にとりなしました。そして、よみがえられました。私たちは悔い改めて、主のもとに帰り、イエス・キリストの十字架のみわざを信じるだけで救われたのです。「神よ。あなたの(十字架の救いの)道は聖です」。義と愛に満ちた聖なる「神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。」詩篇77:13