オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

惜しまれる神

2010-09-26 00:00:00 | 礼拝説教
2010年9月26日 伝道礼拝(ヨナ書3:1~4:11)岡田邦夫


 「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。」ヨナ書4:10-11

 とろみなどつける時に使う片栗粉ですが、買った袋にはなぜか、ばれいしょのでんぷん100%と記されています。本来の片栗粉は原野に自生するユリ科のカタクリの球根からとれる上質なでんぷんです。カタクリは花も葉も茎も食べられます。しかし、カタクリは早春のみ地上部を展開し、5月には葉や茎は枯れてしまって、あと休眠状態で過ごし、しかも種子が発芽してから開花まで7~10年を要するというおくゆかしい植物なのです。昔は落葉樹林のある所に良くあったのですが、近年、乱獲、盗掘、開発などで減少したため、多くはじゃがいものでんぷんが代用されるようになってしまったのです。もったいない話です。
 もったいないといえば、ノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが、環境を守る運動の世界共通語として、「MOTTAINAI」を広めることを提唱しました。漢字は「勿体ない」と書きます。勿体は本来、物体と書き、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表しているとも言われています(ほかの意味もありますが)。
 聖書において、勿体ないの意味合いをもつ、人間の根本的な問題に取り組んでいる書がヨナ書という預言書です。

◇命を粗末にしていいのか
 今日、お話ししますヨナという預言者は自分が預言者であることがいやになり、自分の人生がいやになり、人生の逃避行をした人です。そもそも、イスラエル人というのは神に選ばれた民族であると自負し、聖なる民であろうとするために、異邦人とは一線を引き、極端に毛嫌いしていました。ヨナもそのひとり。しかし、神は異邦人の国、アッシリヤ帝国の首都ニネベが滅びようとしているから、それを救うために行けと命じられたのです。彼にとってはとても嫌な仕事です。自分の人生をそれに費やすのはもったいないと思いました。神の命令は絶対だと頭で分かっていても、気持ちはついて行けないのです。そして、「神のみ顔を避ける」まで、思い詰めてしまいます。そうなれば、からだはニネベとは反対の方に向かっていました。
 気付いたら、ヨッパの港から、タルシシュ行きの船に乗っていました。タルシシュは地中海の西の端スペインにある町。ヨナはみ顔を避けて、地の果てに行こうとしていたのでしょうか。ところがそうはいきません。どこに行こうと、地の果てでも、船底に隠れていても、神はそこにおられるのです。神は地中海に嵐を起こします。船は暴風にほんろうされ、難破しそうで、船員たちはもう生きた心地がしません。ヨナは自分のせいでこうなったのだから、人柱として、海に投げ込んでくれと言います。ヨナが海に投げ込まれると、怒り狂う海は静かになり、船上の人たちは助かりました。

◇命が滅ぼされていいのか
 海の真中にも神はおられ、大きな魚を用意し、ヨナを飲み込ませ、助けます。神の特別な計らいです。魚の腹の中に、消化もされずに、三日間もいるのですが、その時、彼は神を思い出し、回心するのです。そして、神は彼の叫びを聞いて、巨大魚に命じますと、魚は腹の異物、ヨナを陸地に吐き出したのです。無に命じて有を呼び出した神が魚に命じたのです。これも、特別な計らいでした。神はヨナを死なすのはもったいないと思われたのでしょう。
 陸に上がったヨナに、神は再び命じます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」(ヨナ3:2)。もう、み顔をさけません。預言者として、彼方のニネベに向かって出立。旅を続け、到着すると、そこには帝国にふさわしい、堂々とした都市が築かれていました。預言者は一日中歩き回って、叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と告げます(3:4)。そのメッセージは届きます。ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで悔い改めたのです。それが王の耳に入り、王自身、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰をかぶる悔い改めのパフォーマンスを示し、民に布告します。「…ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない」(3:8-9)。聖書はその結果をこう報告しています。「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった」(3:10)。
 参考までに…ニネベ遺跡には王城跡が二つあり、その一つは「ナビー・ユーノス」(預言者ヨナ)と昔から呼ばれていて、ヨナの墓という伝説もあり、現地の人々には今も神聖な場所なのだそうです。

◇命を惜しまないでおられようか
 ところがです。神がアッシリア人への災いを思い直されたことは、ヨナには不愉快で、その不服を神に訴えます。「主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」と迫るほど、その訴えは尋常ではありません(4:3)。そして、ヨナは町に神の裁きか、何かが起こることを期待し、町の外の東方に仮小屋を作って待ちます。そこで、神は粋な仕方で答えられます。
 神はヨナの不機嫌をなおそうと、とうごまの木を生えさせ、生い茂らせ、木陰を作りました。ヨナは上機嫌です。しかし、翌日の夜明け、一匹の虫にとうごまをかませたので、木は枯れてしまいました。日が昇れば、灼熱の太陽がヨナの頭に照りつけ、東からの熱風が襲ってきて、ヨナはぐったりとなり、死を願って、また言います。「私は生きているより死んだほうがましだ」(4:8)。そこで、神はヨナに問い、ヨナは答えます。「お前ははとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」(4:9新共同訳)。そこで、愛にあふれた神の言葉が返ってきます。
 「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」(4:10-11)。
 神は惜しむ神です。右も左もわきまえない人間でも、家畜でも、命を惜しむ神です。命を創造し、命を吹き込んだものを惜しむ神です。社会に貢献した人が亡くなると惜しい人を亡くしたと評します。しかし、神にとっては、惜しくない人など、この世に一人もいないのです。イエス・キリストにとって、あなたは「もったいない人」なのです。罪深い私たちですが、その私たちが罪の裁きを受け、滅んでしまうのを惜しみ、その「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(1テモテ2:4)。右も左もわきまえないというのはヨナもイスラエルも指すでしょう。私をも指しているでしょう。「わたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」(4:11口語訳)。わたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々のいるこの三田の町を、惜しまないでいられようかとおっしゃっているに違いありません。罪深く、真理をわきまえないあなただが、かけがえのない大切な私の命、惜しまないでいられようかと迫っているのです。

◇犠牲を惜しまないでおられようか
 しかし、神がただひとり、惜しまなかった存在がいます。イエス・キリストです。神は私たちを惜しむからこそ、御子(みこ)を世に遣わされ、私たち、わきまえない罪人を滅びから救うため、身代わりに十字架で処刑されました。その御子の贖いの犠牲によって、それを信じる信仰によって救われる真理の道が開かれました。聖書はたいへんなことを言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ人への手紙8:32)。私たちを惜しむ神は、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されて、救ってくださったのです。御子を犠牲にすることをもったいないとは思われなかったのです。何という自己犠牲の愛でしょうか。それが神のことですから、私たちにはとうてい計り知れない愛です。あなたはそんなにも惜しまれているのです。もったいない存在なのです。それに答えて、惜しみなく神を信じ、惜しみなく神を望み、惜しみなく神を愛しましょう。

魚にのみこまれたヨナ

2010-09-19 00:00:00 | 礼拝説教
2010年9月19日 主日礼拝(ヨナ書1:1~2:10)岡田邦夫


 「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」ヨナ書1:17

 「むかしむかし,あるところに,浦島太郎という若い漁師が母と二人で暮らしていました。ある日…」。良く知られた浦島太郎のおとぎ話です。この話の元になった伝説は内容も違うし、諸説があるようです。また、深層心理学から解釈をする人もいます。旧約聖書の預言書におとぎ話なのかと思わせるような書の一つにヨナ書があります。ヨナという人が大きな魚にのみこまれ、三日間もいて、岸にはき出され、助かったという話です。現代人はそれはあり得ない、創作の文学作品だと言うかも知れませ。しかし、これは「預言書」だということです。決して、人間の深層心理を神話形式で記された作品ではありません。神の言葉を預かって、私たちにメッセージを伝えている預言書であり、神の聖霊によって書かれたものと認められた聖書なのです。

 「聖書」というように他の書とは違う、聖なる書であり、人の言葉で書かれてはいるが、神の言葉として権威ある書なのです。旧約39書、新約27書の計66書をキリストの教会が「正典」と定めたのです。それは、ジグソーパズルのように、66の各書の色々な形のピースが、正典という枠の中にぴったりと、神の手で収まったのです。ですから、聖書はこれ以上、足しても、引いても、成り立たないのです。
 大相撲というのは実績のある限られた力士しか、土俵には上がれません。土俵に上がってしまえば、横綱も平幕もありません。対等にぶつかり合います。そのように、また、各書は均一ではなく、それぞれ個性を持っていますから、正典という土俵で、主張がぶつかり合います。しかし、主イエス・キリストの救いということにおいて統一しているのです。特に旧約最後の12の小預言書は短いだけに各書の相違が見られます。例えば、ナホム書はアッスリアの首都ニネベは神の正義によって、陥落すると預言し、ヨナ書は今日、話しますように、異邦の首都ニネベへの宣教によって、滅亡からまぬかれる話です。一方は排他的で一方は包容的に一見、対立して見えますが、正典の場において統一され、まとまりを見せていることは確かです。それが聖書というものです。

◇私の歴史の主人公は「私」
 では、外から眺めれば、たいへん面白いストーリーのヨナ書を見てまいりましょう。預言者アミタイの子ヨナというのは、イスラエル北王国のヤロブアム2世の時代に、領土の回復を預言し、「主が…ヨナを通して仰せられたとおりであった」という、2列王記14:25に記された、その人物と思われます。ヨナへの宣教命令が下されます。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ」(ヨナ1:2)。ヨナはそんな異邦人の地、アッスリヤなどに行きたくはありません。正反対の方向、スペインのタルシシュへに行こうとします。主の御顔を避けての行動です。地中海沿岸のヨッパの港に来ました。そこにお目当てのタルシシュ行きの船がありました。そこで、主の御顔を避けて、もう一歩踏み出します。船賃を払って乗船します。船はタルシシに向かって、出帆します。ヨナは船底に降りて行き、疲れたのか、横になり、ぐっすり寝込んでいました。
 ところが海に激しい暴風が起こり、それは尋常ではなく、船は難破しそうになりました。こういう時、人はどうするでしょう。人生の嵐にもみくちゃにされた時、どうしましょうか。人事を尽くして天命を待つが常でしょう。船長に命じられて、水夫たちは、船を軽くしようと懸命に船の積荷を海に投げ捨てました。また、不安でたまらないから、それぞれ、自分の神に向かって叫んでいました。しかし、一向に嵐は収まりません。切羽詰まったのか、船長は船底のヨナに、何で寝ているのか、あなたも祈れと命じます。水夫たちはパニック、誰かのせいで、このわざわいが起きたのだと言いだし、犯人捜しをします。それをくじで見つけようということになります。くじは何とヨナに当たってしまいました。そこで彼らはヨナを追求します。「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か」(1: 8)。
 そこで、ヨナは、自分はヘブル人で、海と陸を造られた天の神、主を礼拝しており、主の御顔を避けてのがれようとしていることを告げます。そして、海を静めるために、「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」と、覚悟を決めて答えました(1:12)。そんなことは出来ない、彼らは懸命に陸に向かってこぐのですが、船は嵐にほんろうされるだけ、人の力ではだめなのです。そこで、彼らはヨナの信じる神、主に祈って、ヨナを海に投げ込んでしまいます。「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです」(1:14)。すると、驚いたことに、嵐は収まり、海は静かになったのです。人々は今祈った「主」という方を恐れ、航海安全のため誓願をたてたと聖書に記されています。

◇私の歴史の主人公は「主」
 ここで聖書はこれらの出来事の主人公は「主」だと明記しています。嵐は自然に起きたのではなく、「主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こ」ったのだということ(1:4)。ヨナが海に投げ込まれて、偶然助かったのではなく、「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」のだということ(1:17)。そして、「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。」のだということです(2:10)。それにしても、人が巨大魚に飲み込まれて、生還してきたなどとは前代未聞の出来事です。しかし、預言書の焦点は「主」であり、その主に対する人のあり方です。「ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、言った」という祈りの言葉を1章を費やして残すほど、悔い改めの祈りは重要なことなのです(2章)。この祈りを要約しますと、
 「あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲みました。私がよみの腹の中から『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです」。
預言者が言いたいことは「私は主を思い出しました。…感謝の声をあげて…私の誓いを果たしましょう。」という自分自身の悔い改めです(2:7、9)。主に背を向け、タルシシに向かったが、主に止められ、今は主に心を向け、喜んで主の命令に従って行きますという悔い改めです。聖書正典という中でのヨナ書のメッセージはニネベの宣教、すなわち、世界宣教です。主にあっての広い視野と包容さを持っています。そして、その前に必要なのは、自分たちが選ばれた民ということで、異邦人を拒否する「選民意識」が砕かれることです。主にあっての深い内省と謙虚さを持っています。ヨナ書は広い視野と包容さと深い内省と謙虚さとの両極を実にみごとに描いています。神に立ち返れと悔い改めを迫る者がまず、自らが悔い改める必要があるのです。「私は主を思い出しました。…感謝の声をあげて…私の誓いを果たしましょう」。
 新聖歌の配列で、冒頭がⅠ礼拝で、その初めが「賛美・感謝」、次が「悔い改め」です。賛美・感謝と悔い改めとは一対のものなのです。先週のメッセージは2歴代誌20章から、賛美がテーマでした。はからずも今週のテーマは悔い改めですから、ちょうどマッチしています。私たちは主日礼拝ごとに賛美・感謝を重んじると共に悔い改めも重きをおきましょう。悔い改めることを主はお望みです。悔い改めることから、魂が晴れてきます。「かつてはわれ良きものを求めて、主を忘れたり」…「主を用いず主にわれの用いらるる幸(さち)いかに」と賛美しましょう(新聖歌346)。今日、私たちはヨナと共に主を第一することを忘れていましたが、今は御顔のあるところで、主を第一にすることを思い出しました。感謝の声をあげて、主に従いますと祈りましょう。そこから、天の世界が開かれていき、宣教の世界が開かれていくのです。「逃亡者、悔い改めて、いざニネベ」
 私は東京の柴又教会で副牧師をしていたのですが、転任になって、愛媛の壬生川教会に遣わされました。この地に慣れ親しみ、ここに骨を埋めるつもりで伝道しておりました。しかし、何年経っても「東京の人」と紹介され、この地の人と親しくなっても、「よそもの」と意識されていることは明らかでした。5年過ぎた頃から、それがたまらなく辛く、ホームシックにかられました。そのような頃に、村上宣道師を講師とする「四国聖会」があり、私が司会していた集会で、聖霊に示され、全会衆の前で「この地に主に遣わされて、私は従います、主に献身しますと言っていながら、東京に帰りたい、ここは不服だと思っています。これは神への不従順、偽善です。悔い改めます。」と涙をもって告白しました。そして、そこで伝道に専念し、それから、2年後、開拓を示され、近畿に任命されて来ました。もし、あの時、悔い改めていなかったら、この三田の開拓もなかったかも知れません。

賛美の勝利

2010-09-12 00:00:00 | 礼拝説教
2010年9月12日年 主日礼拝(2歴代志20:1~30)岡田邦夫:竜野教会にて


 「主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。…こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』」2歴代誌20:21

 周囲を敵に囲まれ孤立無援だとか、反対者ばかりで周囲に味方がいないという時、「四面楚歌(しめんそか)」という語を、けっこう使います。これは司馬遷(しばせん)の記した「史記」に出てくる話からきた語です。劉邦(りゆうほう)ひきいる30万の漢(かん)の軍に、項羽(こうう)ひきいる10万の楚(そ)の軍は劣勢となり、垓下(がいか)という所で包囲されておりました(BC202)。漢の軍師は策を考えます。漢の中の、楚から降伏した兵士に、楚の故郷の歌を歌わせ、漢の者にも習わせて、夜、包囲している四方から楚の歌を歌わせたのです。楚の軍は、四面から楚歌が聞こえるので、多くが寝返ったと思い込み、戦意を喪失し、故郷への望郷の念をいだき、たちまち漢の軍に破れてしまったという話です。これが四面楚歌。

 歴代誌下20章にユダの国にモアブとアモンの連合軍が攻めて来たことが記されています。ヨシャパテ王にこう報告されます。「海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています」(20:2)。それこそ、四面楚歌の状況。しかし、困った時の神頼み、いえ、困った時こそ神頼みです。ヨシャパテ王は恐れて、ただひたすら主に求めます。そして、ユダ全国に断食を布告しますと、ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めたのです。そこで、王は神殿の庭の前で、こう祈ります。私たちも、四面楚歌、孤立無援の時に、どう祈ったらよいか、教えられます。

◇支配なさる方ではありませんか
 「ではありませんか。」と神に訴えます。「私たちの父祖の神、主よ。あなたは天におられる神、…すべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか」。さらに、「あなたの御手には力があり、勢いがあり、…だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません。私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜わったのではありませんか。」と。神さまがどういう方であるかを知っているだけでは意味がない、この状況下で、そういう神であって欲しいし、そういう神でなければならないと思い、それを神に向かってぶつけるのです。体当たりの祈りです。

◇助けてくださらないのですか
 そして、ソロモンが神殿すなわち、聖所を建てた時に、約束されたみ言葉を示されて、それを根拠に「…してくださらないのですか。」と訴えます。『もし、剣、さばき、疫病、ききんなどのわざわいが私たちに襲うようなことがあれば、私たちはこの宮の前、すなわち、あなたの御前に立って…私たちの苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、あなたは聞いてお救いくださいます。』(20:9=6:28-30)。ところが今、立ち向かって来たこのおびただしい大軍のアモン人とモアブ人に当たる力は、私たちにはありません。「私たちに得させてくださったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして来ました。私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。…私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」(20:11ー12)。

◇救いがあるではありませんか
 この訴えは聞かれて、主の霊がヤハジエルの上に臨んで、神の答が語られます。「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる」(20:17)。これを聞いて、王も民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、「ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。」のです(20:19)。まだ、勝利が見えてきたわけでもなく、勝利のしるしが見えたわけではないのですが、「主の救いを見よ。」とのみ言葉を信じ受けとめたので、神の勝利が見えたのです。もう、信仰によって、気分は勝ち戦(いくさ)、「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と、喜びの声、賛美の声をあげたのです(20:21ー22)。

◇喜ばずにはおられないではないですか
 預言者の告げた言葉は確かな神の言葉でした。人の戦いでなく、神の戦いとなりました。何とも不可思議なことがおきます。まず、主は(その辺りの略奪隊か、住民か、み使いか、何かの)「伏兵を設けて…アモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされ」てしまいます(20:22)。すると、敵を間違えたのか、アモン人とモアブ人はセイル山の住民を襲い、全滅させてしまいます。さらに、混乱してしまったのか、今度は彼らは互いに戦って、自滅してしまうという結果に終わります。ユダはまだ何もしていないのですが、高所から見渡すと、あの大群はなく、死体が野にころがっているだけでした。ユダはただ戦利品をいただくことでした。それも多くて、3日もかかったのです。そこで、4日目に、彼らは谷に集まり、その所で主をほめたたえました(20:26)。それで、その谷をベラカ(ほめたたえる)の谷と呼んだのです。
 戦いの前に賛美し、勝利の後に賛美しました。賛美の勝利と言えます。「ひとり残らず、ヨシャパテを先頭にして、喜びのうちにエルサレムに凱旋した。主が彼らに、その敵のことについて喜びを与えられたからである。彼らは、十弦の琴、立琴、ラッパを携えてエルサレムにはいり、主の宮に行った」のです(20:27ー28)。こうして、周辺諸国は神への恐れが生じ、神の民は安息を与えられたのです。
 たとえ、四面楚歌という状況に立たされても、上は開かれています。天に向かって、ヨシャパテのように体当たりで、祈り訴えましょう。
  祈れ物事 皆ままならず 胸に憂いの 雲閉ざすとき
  祈れこころを 静めて神の 御旨(むね)はいかにと 知りうるまでは
 そして、御旨がわかれば、福音がわかれば、み言葉をつかめば、神を信頼すれば、神へのたたえ、賛美の心が出てくるでしょう。

 賛美は力です。賛美は人を変えます。賛美は人を祝福します。
 アメリカ出身の宣教師スコットがインドの僻地(へきち)で伝道していました。ある日、路上で一人の特殊な服装をした人に会いました。彼がかつて山奥のある部族に伝道していた時に見たのと同じ服装であることに、気付きました。ハッと驚いたスコットは忘れかけていた、かつての伝道の失敗を思い起こしました。そして、再び、その部族のもとに行こうと決心しました。準備もそこそこで、その時、身につけていたものは愛用のヴァイオリンだけでした。友人たちが彼の身を案じ、その冒険を断念するよう説得に努めますが、彼は頑(がん)として「彼らにこそ福音を伝えなければならない」と言いはり、その信念を変えませんでした。彼はその目的を達成するため、山間渓谷の間を歩き回り、2日かかってようやく探し求めたにたどりつくことができました。
 不意をつかれた部族の人たちは、手に手に槍をかざして、彼の胸元にせまてきたのです。この際、通じない言葉はかえって有害無益と考え、すかさず携えてきたヴァイオリンを取りあげて、目をつむったままで、聖歌181番(曲O.Holden、詞E.Perronet)をひき始め、それにあわせて自分も歌い出しました。
  みつかいよふして 主をかしこみ
  かむりをささげて ほめよイェスを
と無我夢中に歌い続け、第4節の
  世のなかのたみは こえあわせて
  みいつをかしこみ ほめよイェスを
と歌ったところで、はじめて、目を開いてみた時、そこに展開されたあまりにも不思議な光景に、歌う言葉もとぎれがちになりました。荒々しく迫っていた彼らは、うるわしい音楽の音にうたれたのでしょうか。手にした槍を捨てて、彼の足もとにひざまずき、感涙にむせんでいたのです。このことがきっかけとなって、スコットは、その後、実に2年半にわたって、この部族の伝道に献身することができました。そのことを彼は帰国して多くの人々に証し、さらにその部族のもとに帰って、終身、伝道を続けたい思いを告げて、再び旅立ったと言われています。…(園部治夫著「愛唱聖歌詞100選」より、文を修正、曲は聖歌181番=新聖歌140、訳は新聖歌140=讃美歌162)

ただ私だけです

2010-09-05 00:00:00 | 礼拝説教
2010年9月5日 主日礼拝(1列王紀19:1~18)岡田邦夫


 「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」1列王記19:18

 ミッション(THE MISSION)というローランド・ジョフィ監督の映画(1986年)を映画館に見に行き、私は感銘を受けました。それは18世紀の南米、イグアスの滝の上流に住むグァラニー族に、イエズス会が伝道し、伝道村(ミッション)を作りました。ところが植民地をめぐるスペインとポルトガル両国の勢力争いに巻き込まれていきました。その史実をもとにし、二人のイエズス会修道士の物語として映画が作られています。結局、抵抗した部族と修道士が殺されていくのですが、すべてが終わった時、アルタミラノ卿の報告の中でこう述べるのが映画で言いたかったことでしょうか。「法王猊下(げいか)、あなたの僧侶たちは死に、私は生き残りました。しかし、死んだのは私で、生きているのは彼らです」。人はどれだけ生きたかが重要ではなく、どう生きたかが重要なことだと思います。

◇不安だけが残る
 アハブ王及びイゼベル王妃の政策はイスラエルから、ヤーウェ(主)の預言者を一掃し、偶像神・バアルの預言者に取って代わらせようとしていました。預言者エリヤはイスラエルが滅びる警鐘としての干ばつを告げ、なお、カルメル山上で、主の預言者エリヤはバアルの預言者450人及びアシェラの預言者400人と火をもって答える神を神とするという対決をします。エリヤの祈りが答えられ、圧勝し、彼らを一掃しました。
 これを知った王妃イゼベルは使者をエリヤのところに遣わし伝えます。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように」(19:2)。それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに荒野へ逃げたのです。ここに強いエリヤと弱いエリヤを見ます。「エリヤは、私たちと同じような人でした」(ヤコブ5:17)。逃れていくと、えにしだの木を見つけ、その陰にすわり、心身共に疲れ切ったので、「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」と嘆きます。いのちが惜しくて逃げてきたのに、いのちを取ってくれというのですから、相当疲れ、混乱しています。しかし、疲れた体は眠気に耐えられず、横になって眠ってしまいます。
 疲れた者を癒してくれるのは暖かい食べ物です。ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と告げました(19:5)。何もなかったはずの彼の頭のところには、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあったのです。彼の仕える神ご自身のもてなしです。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になりました。しかし、真の癒しは魂の癒しです。体の疲れは寝ればとれますが、心の疲れは刺激でとれるものです。主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言って、刺激を与えて、立ち上がらそうとします。生きたいけれども死にたい、死にたいけれども生きたいという混乱した魂に解決の光を見いだすべき「場」に向かわせます。その場はシナイ山、ホレブの山とも言います。「そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。」と聖書は記録しています(19:8)。

◇わたしだけが残った
 この神の山はかつて、十戒が与えられ、主なる神とイスラエルの契約が与えられた場でした。原点に返ることが再生の道です。エリヤはその場に導かれ、ほら穴にはいり、そこで一夜を過ごしていたのです。すると、彼への主のことばがありました。「エリヤよ。ここで何をしているのか」(19:9)。このように問いかけて、神は神の器に対峙(たいじ)するのです。モーセにせよ、イザヤにせよ、人によって言葉は違いますが、問いかけて対峙することは同じです。自分を真に知らなければ、主なる神がわかりません。私たちも、行きづまった時に、スランプの時に、自分を投げ出したくなった時に、現状を打破しようとする時に、「……よ。ここで何をしているのか」と主に問われるでしょう。その時、私たちは本性をさらけ出すしかありません。そこにこそ、神は本質を表してくださるのです。
 エリヤは答えます。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」(19:10)。神との契約という原点にかえって、現状を訴えたのです。「ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」は、自分が殺されてしまったら、イスラエルは滅んでしまうのではと、気遣っているのか、それとも、いのちが惜しいだけで理屈を言っているのか、私にはわかりません。しかし、神はエリヤを愛し、ていねいに接しておられることは明らかです。それは次の主の答えからわかります。「外に出て、山の上で主の前に立て。」と命じて……、
 「そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(19:11-12)。エリヤは見えた天変地異の現象の中には主はおられないことを知り、自分に対峙する人格神の「かすかな細い声」を魂に聞きました。私たちは見えた現象、経験などから、神を想定するものを一つ一つとり去って、最後に、心の奥底から聞こえてくる、細き神の声、その最も確かな声を聞こうではありませんか。

◇七千人を残しておく
 エリヤが外に出ると、まったく同じ問いかけがあり、まったく同じエリヤの答が繰り返されます。このやり取りがいかに重要かを読者に告げています。そして、エリヤに主への信頼、聖霊の確信が与えられたのでしょう。み言葉が臨みます。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。また、…エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、…エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ」(19:15-16)。ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す、という展開になることを約束します。エリヤが心配することはない、神が民を必ず、守り、救うのだと言うことです。
 そして、エリヤが死んでも、エリシャが後継者として残ることが約束されたのです。また、「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」と、主は残りの者を残しておくと言うのです(19:18)。「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11:5 )。たとえ、根絶やしにされそうになっても、神の民は残っていく、「残りの者」の救いを約束し、事実、救いの歴史はそのように展開されました。もし「ただ私だけが残りました。」という状況に立たされたとしても、主は「イスラエルの中に七千人を残しておく。」というような、み声を聞くことでしょう。
 日本のホーリネス教会は戦時中、政府の弾圧を受け、教会は解散させられ、財産は没収され、主立った牧師は検挙され、中には拷問を受け、亡くなった牧師もいました。判決が下らないまま、終戦を迎え、釈放されましたが、戦後の混乱期、残されたバアルにひざをかがめなかったホーリネス人が立ち上がりました。いくつかの教団として、再建していき、今日を得ています。ほんとうに残っていくものは何なのでしょう。そして、神が残そうとしておられるのは何なのでしょう。私たちは残すべきものを残すというミッション(使命)を担っているのです。ですから、神と対峙し、細きみ声を聞いて、立とうではありませんか。