オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

天から下ってきた生けるパン

2012-07-29 10:13:31 | 礼拝説教
2012年7月29日 主日礼拝(ヨハネ福音書6:48-58)岡田邦夫


 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」ヨハネ福音書6:51

 三田泉教会の玄関前の駐車スペースは開所の時に砂利を敷いて変えていません。その石ころ一個一個はその形状をほとんど変えていないでしょう。しかし、いただいたいちじくの一本の苗は大きくなって、今年もたわたに実をつけています。命あるものには外部から必要なものを取りこんで成長していきます。その辺にあるぺんぺん草もてんとう虫も、石油や原子力に頼らない、一大合成工場なのです。畑にいると生命の不思議さを私は常々感じています。
 当たり前のことですが、人は空気を吸い、食べ物を食べてこそ生きていけるのです。イエス・キリストが公生涯に入る前に、断食をされ、サタンの試みを受けました。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(4:3ー4)ここで主イエスは救い主として石をパンに変えるようなことはされませんでした。
 ガリラヤ湖畔にイエスの話に聞き入っていた5000人の群衆がおりましたが、5つの大麦パンと2匹の小魚しかなく、空腹の人々をどうするかが問題でした。主イエスが石をパンに変えれば、群衆の食糧問題は解決します。それが展開していけば、人は労働をしなくてすむようになり、創世記3:19のみこころに反し、人はとことん堕落していくのは目に見えています。サタンの思うつぼです。ですから、主イエスは5つの大麦パンと2匹の小魚を用いて、彼らを充分食べさせ、満腹にし、パンのあまりを12かごにされたのです。この奇跡は神の国が現れたというしるしであり、神の国の重要なメッセージが込められているのです。人々はこう反応しました。「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」(6:14)。

◇過去から現在へ
 そのメッセージは何かというと、その後で告げられています。かつてイスラエルは荒野の40年で、神が天から降らせたマナ(パンのようなもの)で養われました(6:31)。そこにはメッセージがありました。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」(申命記8:3)。神の口から出る言葉によってこそ、人は真に生きるということです。旧約から続いているメッセージです。

◇未来から現在へ
 しかし、イエス・キリストははっきりと断言されました。「わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(6:48ー51)。イエスご自身が天からの命のマナ・パンだというのです。私を食べろと言われるのです。さきほど言いましたように、自然界では何かを食べて、取り込んで、自分の体にし、エネルギーにします。それでも死んでいきます。しかし、イエスのからだをいただくという場合は逆です。食べたもののようになっていくのです。私たちは鳥を食べても鳥にはならず、自分の体になっていきますが、イエスを食べると、自分のからだになるのではなく、イエスのようになっていくのです。イエス・キリストが死人の中からよみがえられたように、終わりの日に栄光の体によみがえるのです。ですから、真の意味で私たちは死なないのです。
 「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」とありますから、イエスのところに来て、イエスを信じることが「食べる」ということなのです(6:45、6:47)。それにしても食べるという表現は強烈です。最高、最大の自己犠牲の表現です。ご自分の命を注ぎだし、私たちに分け与えてくだされったです。キリスト教の例話集にこのような話が載っていました。昔、ロシアで大変な飢饉があり、食料もそこを尽きて困窮している時に、ある母親が乳飲み子を抱えていたのですが、乳がでないので困っていました。すると母親は乳房と切って、その子に血を飲ませていたという、母親の自己犠牲の強烈な話でした。しかし、主イエス・キリストはご自分の肉をさき、血を流して、いのちのパンだから食べなさいと愛に満ちた言葉で今日も私たちに語っておられるのです。

◇そして、現在は
 信じ続けるように、食べ続けるようにと聖餐を主イエス・キリストは制定されました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです」(6:54-55)。「肉を食べ、血を飲む」は聖餐のパンとぶどう液に与ることです。主を信じることを主を食べるという行為を指示されたことはこれらのことから、実に意義深いことです。信じることは食べることなのです。
 聖餐式というのはそういう意味を持っています。しかし、形式だけになってしまうことがあります。ただ厳かにふるまえばいいということではありません。ほんとうに食べているのかが問われます。それが聖化です。聖餐式で罪があるかどうか、自分を吟味することが前提になっています。そこまで謙遜になられた方の前に、聖霊によって、傲慢が砕かれ、謙虚にさせられる必要があります。イエス・キリストの十字架と復活の福音なしには生きてはいけないという聖霊による飢え渇きも必要です。しっかり、いただきました、そしゃくしました、飲み込みましたという聖霊による受容の信仰をいただくのです。「神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」というみ言葉を聞いて、聖霊によって、神の国で新しく飲む終わりの日に思いをはせ、いただいた永遠の命、復活の命を感謝して、受けとめ、主の再臨の近いことに喜びを感じさせていただきましょう。それが聖餐における聖化の信仰体験です。聖霊はなお導きます。イエス・キリストの血と肉を食べたのだから、自分の血肉を誰かに食べてもらいなさい、誰かの救いのために自己犠牲を払ってもいいのではないか、献身したらとささやきます。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです」(6:27)。