オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

詩と賛美と霊の歌とをもって

2012-09-30 00:00:00 | 礼拝説教
2012年9月30日 主日礼拝(エペソ5:15-21)岡田邦夫


 「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」エペソ人への手紙5:18b-19(新共同訳)

 イギリスのテレビ局で放送されている公開オーディション番組、ブリテンズ・ゴット・タレントはユーチューブで見ることが出来ます。そのアメリカ版で準優勝し、話題になった11才のジャッキー・エヴァンコという天才少女の歌ったのが、アベ・マリアもう一つがピエ・イエスという宗教曲でした。そのきれいな歌声に、スタンディングオベーション、満場総立ち、拍手喝采という光景でした。しかし、この「ピエ・イエス」というのは、慈悲深いイエスという意味で、死者のためレクイエムの中にあるものでから、静かに聞くものなのです。レクイエムは魂を鎮めるためのものではなく、もともと死者に対する罪を軽くしてくれるように神に祈るものでした。私たちは罪の赦しは生きている間にしていただくものとしていますから、違うかも知れませんが、神に祈る深い思いは大切にしたいと思います。彼女の歌ったのはウェバー作のピエ・イエスで(1985年初演)、有名なのはフォーレのものです(1888年初演)。
慈愛深いイエスよ、主よ、 Pie Jesu Domine
与えてください、彼らに、安息を、 dona eis requiem
いつまでも続く安息を。 sempiternam requiem.
 私の思いとしては彼らにではなく、我らにしたいところです。なぜなら、永遠の安息(レクイエム)はすべての人が求めている究極のものだ思うからです。

 パウロは今は悪い時代なのだから、恵みの機会を十分に生かし、賢くない人のようにではなく、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさいと教えています。一時の歓楽に酔いしれ、身を持ち崩してしまうのではなく、永遠の安息に向かう御霊に満たされた生活を積極的に勧めています。新改訳聖書ですと、「御霊に満たされなさい。」一旦区切って命令文を強調しています。聖書では命令はイコール約束で、信じていただくものです。そして、御霊に満たされて、賛美と感謝と服従という恵まれた信仰生活を奨励しています。その中で、5章19節を取り上げて話しましょう。

 「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
 旧「聖歌」はこの聖句の通り、第1部「詩篇」、第2部「賛美」、第3部「霊の歌」という構成でした。初代教会の賛美歌と言えば、旧約の詩篇でしたし、ルカ福音書2:46-55のような賛歌もあり、ピリピ人への手紙2:6-11のような霊の歌というのもありました。詩編か賛歌か霊的な歌、どれか、新しいものが良いとか、古いものがいいとか言っていません。詩編と賛歌と霊的な歌によってとあるように、「と」で結んでいて、賛美の多様性を認めていると思います。
 2000年の教会音楽の歴史では賛美は多様なものがあります。一定のリズムと節を持った、祈りを捧げる様式のチャントと呼ばれるの、賛美、教義、祈願などの祈祷のテキストに音楽をつけて歌う無伴奏の単旋律聖歌があります。詩篇に曲をつけた詩篇歌とか、一般の曲で歌うコラールとか、霊の歌という感じの福音唱歌とか、ゴスペルとか、ワーシップソングとか、実に多様です。きょう賛美します「主はわがかいぬし(牧者)」(新聖歌255)は1872年刊のスコットランド詩篇歌集に収められたもので、一般には映画『戦場のメリークリスマス』の中でも歌われ、現イギリス女王及びアン王女の結婚式に歌われたりして、知られています。詩篇23篇に曲をつけた詩篇歌です。
 音楽は様々ですが、心と言葉は祈りであり、詩です。旧約の詩篇150篇は神の言葉、神の導き、神の御旨に対しての応答であり、祈りの集大成です。詩篇には賛美もあれば感謝もあり、嘆きもあれば、嘆願もあります。旧約時代にもそれが大事にされ、受け継がれてきました。そして、新約の引き継がれています。そして、2000年の教会の歴史においても、このような祈りは教会においても、修道院においても、祈祷院においても、家庭においても、個人においても、面々と引き継がれてきたのです。私たちの神に向かう祈りは、アブラハムから始まる4000年の時を受け継いできているのです。イスラエルの歴史、キリスト教会の歴史は祈りの歴史なのです。見えざる神の祭壇に祈りが幾重にも幾重にも積み重ねられてきたのです。
 それほど大事なことです。この世の酒に酔いしれるのではなく、「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌い」続けて行きましょう。祈る心を合わせましょう。主に向かいましょう。心から、祈り心で創造者を、救い主を、たたえて歌いましょう。御霊に満たされて、歌いましょう。賛歌を歌いましょう。
 厳しい現実の世界で、安息を得たいという素直な私たち共通の祈りの思いを、永遠の安息を得たいという御霊による魂の思いを主イエス・キリストに発露しましょう。霊の歌を歌いましょう。
 この祈りを次の世につないでいきましょう。

わたしは何を残しただろう

2012-09-23 00:00:00 | 礼拝説教
2012年9月23日 主日礼拝(ヨハネ15:1-9、16)岡田邦夫


 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである。」ヨハネ福音書15:16(口語訳)

 NHKが東北地方太平洋沖地震の被災地の支援を行う〈NHK東日本大震災プロジェクト〉の一環として、復興を応援するテーマ・ソング「花は咲く」を耳にします(作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子)。前半だけ、載せておきましょう。
  真っ白な 雪道に 春風香る
  わたしは なつかしい あの街を 思い出す
  叶えたい 夢もあった 変わりたい 自分もいた
  今はただ なつかしい あの人を 思い出す
  誰かの歌が聞こえる 誰かを励ましてる
  誰かの笑顔が見える 悲しみの向こう側に
  花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
  花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう
 この震災で多くの命、多くのものを失いました。その様な津波で押し流された何もない所に花が咲いているのを見ると何か希望が湧いてきます。被害がひどく、復興というのはきわめて困難。この悲しみを乗り越えて、何かをしていかなければならない。「いつか生まれる君に、わたしは何を残しただろう」は心に残る言葉で、問いかけられる言葉です。人生というのは何かを残していくことだと思います。社会もそうかも知れません。
 イエス・キリストが最後の晩餐の時に、遺言のようにメッセージを残されます。その中にたとえを入れて話されました。「わたしはまことのぶどうの木…あなたがたはその枝、つながっていなければ実を結ばない。つながっていれば、実を結ぶ」と言われ、実りのある人生を約束されました。しかも、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである」と言うのです(ヨハネ福音書15:16口語訳)。「実をむすび、その実がいつまでも残る」というのです。十字架でご自分の命を献げられる前に、歴史が終わっても、いつまでも残るものをお示しになったのです。

 内村鑑三は「後世への最大遺物・デンマルク国の話」でこう言っています。
子供の頃から、「この世に何かを遺したい」という思いがありました。キリスト教に入るとその思いは「世俗的だ」と否定されましたが、私はこの命を与えてくれたこの地球・この国・この世界の同胞たちをどれだけ私が愛していたかという記念物(Memento)を遺していくというのは美しい考えだと思うのです。私だけでなく、多くの人もソウ思っているはずです。
 そして、後世への最大遺物の第一候補を述べます。まず第一は「金」。しかし、金を儲け、金を使う才能がなければ、遺物とするのは難しい。
 第二候補は「事業」。これも才能と相応の地位が必要。
 第三候補は「思想」。これも誰でも出来るとういうものではない。
 そこで、第四候補。「それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば『勇ましい高尚なる生涯』であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。」(54P)
 聖書に明言されているのは「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(1コリント13:13)。内村流に言うとそれが勇ましい高尚なる生涯なのです。私たちが残していくものは勇ましい高尚なる生涯という足跡です。勇ましく高尚な生き方とは信仰と希望と愛に生きることです。
 それがどうしたら出来るのでしょうか。イエスの遺言が教えています。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)。創造者であり、救い主であるイエス・キリストにつながって生きるのです。イエス・キリストにお祈りするのです。神の言葉を聞くのです。礼拝するのです。イエス・キリストを信頼し、人生を委ねていくのです。つながってればいいのです。
 1+1=2です。しかし、1+∞=∞。(一プラス無限大)この世のもに頼っても1+1=2です。しかし、無限大であるお方につながっていると1+∞=∞となるのです。どんなに小さいものでも、どんなに小さな業でも、永遠のイエス・キリストにつながっていればこそ、その実はいつまでも残るのです。特に「愛」です。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(15:9)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(15:12)。これに生きるのが勇ましく高尚な生涯です。そのためにあなたは神に選ばれたのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためである。」ヨハネ福音書15:16(口語訳)

聖書に親しむ生活

2012-09-02 00:00:00 | 礼拝説教
2012年9月2日 主日礼拝(2テモテ3:1-17)岡田邦夫


 「幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」2テモテ3:15 

 9月1日の防災の日に、NHKスペシャル「釜石の奇跡」が放映されていました。3/11の震災時に釜石小学校の184人の生徒たちが全員難を逃れ無事だったのですが、それは彼らが授業で教えられたとおり、自分たちで考え、判断し、行動したからでした。その姿は、災害時での素晴らしい手本だとして番組が組まれたわけです。子供たちは命を守る授業で教えられた、「想定を信じるな」「最善を尽くせ」「真っ先に逃げろ」という三つの原則を忠実に守り、大人の安易なふるまいに惑わされず、それを的確に実践したということでした。それが自分だけでなく、家族や他者をも救ったのでした。

◇聖書に信頼して
 この三つの原則は世の終わりの日の災害=大審判に備えて、永遠の命を守る原則と似ています。世の終わりなど来るはずがないという想定を信じるな、神を愛し、人を愛し、最善を尽くせ、率先して、神のもとに真っ先に逃げろということです。獄中から、殉教を覚悟したパウロが若きテモテに手紙を送り、こう教えるのです。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい」(3:1)。こういう人たちに惑わされないで、むしろ避けなさいという人々の列挙の多いのに驚きます。「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい」(3:2ー5)。また、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちや真理に逆らう知性の腐った、信仰の失格者もあげています。
 そこで「悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」と勧めます(3:13-14)。学んで確信したのは聖書です。3章15節~17節で聖書とは何かをよく述べているところです。
 ①聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
 ②聖書はすべて、神の霊感によるもので、
 ③(聖書は)教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
 聖書は真の救いの書であり、真の霊感の書であり、真の規範の書なのです。神の息吹、聖霊の感動を持って書かれた聖書なので、聖霊によって読む時に生ける神の言葉として、私たちに聞こえ、届けられるのです。聖書全体は救いの歴史であり、イエス・キリストを証しし、信じる者に永遠の救いを与えてくれるのです。また、聖書66巻は神に、天国に間違いなく導く、確かな指針であり、規範です。それを正典と言います。今は救いのチャンスのある終わりの時です。私たちは聖書に従って、世の終わりなど来るはずがないという想定を信じないで、神を愛し、人を愛し、最善を尽くし、率先して、神のもとに真っ先に逃げこみ、他者をも救いに巻き込み、信仰に生きてまいりましょう。

◇聖書に親しんで
 では聖書をしっかり勉強したり、覚えたりしなければならないのでしょうか。神学校に行かなければならないのでしょうか。それは良いことであり、導かれれば、ぜひ、学んでください。しかし、聖書へのかかわり方をここでこう述べています。「しかし、あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです」(3:14-15)。聖書を使徒から受け継がれてきた救いのメッセージとして学び受けとめるのです。そして、「聖書に親しむ」のです。私の孫の一人はある著者の本を何度も、何十回も、繰り返して、読んでいます。それが楽しいのです。その内容、その言葉が心をくすぐるのでしょう。まことの著者である神さま、イエスさまが好きなら、その著書である聖書に親しめるかも知れません。さらに、神からのラブレターと思えば、もっと聖書に親しくなれるかも知れません。
 教会のよき伝統で、聖書が物語られてきました。物語は面白いものです。文字の読めない人のため、かつての教会では、聖書の物語をステンドグラスに表しました。子供の聖書物語もあります。森有正という哲学者は子供の頃、野辺地天馬著の聖書物語をプレゼントされ、愛読し、やがて、それが彼の哲学の土台のようなものになったと言います。子供の聖書物語を私はお薦めします。聖書の物語を私の信仰の物語に重ねて読み、親しんでいくのです。
 導かれた聖書の箇所を味わうのです。例えば、詩篇23篇をくり返し、朗唱してみるのです。一節一節、色々と思いを馳せ、黙想していくのです。当時の、その場の状況に思いをはせたり、聖書の世界に入り込んでいったり、似たような言葉をたぐっていったりという親しみ方もあります。ある牧師はヨハネ福音書15章が導かれ、毎週、その15章からだけ説教されていたと聞いています。よほどその章に親しんだことでしょうか。
 現代、行われているのが聖書通読運動です。それは聖書の流れに親しむことです。聖書の各書が言わんとしていること耳を傾けて、聖書の著者と親しもうというものです。暗唱聖句をする教会もあります。聖句を覚えるには何度も繰り返してとなえます。そうしていると、身近に感じてきて、親しみが増します。気に入った聖句、導かれた聖句、与えられた聖句をノートしたり、部屋のあちこちに貼っておくのも良いでしょう。
 他に聖書書道もあれば、聖書クイズ、聖書カルタ、聖書に親しむ方法はいろいろありますが、最後に、文語訳を紹介しましょう。3:15はこう訳されています。「また幼き時より聖なる書を識りし事を知ればなり」。聖なる書を識りし事とあります。織りなすの意味は「糸を織り上げて、美しく立派な織物を作る。比喩的に、複数の細かい要素を組み合わせることによって優れた全体像を成すさまを表現する際に用いることも多い。」です。互いに色んな聖書の接し方、受け入れ方の糸を私たちの人生の中で紡いで、神の栄光を現す美しい信仰の織物を作ってまいりましょう。