2014年6月29日 主日礼拝(マルコ福音書9:2-8)岡田邦夫
「そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」マルコ9:3
たいていのカレンダーは日曜から始まりますが、ビジネス手帳ですと、月曜から始まり、最後に日曜が幅狭くされているものが多いようです。6日働いて、7日目は安息日というのがユダヤ教でした。しかし、キリスト教となるとまず、主の日としての日曜があって、続く月曜からは働く日となっています。両方、意味があります。労働して、安息日を迎える面と、主日礼拝をしてから労働に向かう面と、両面あり、そのバランスをとることが大切だと思います。
◇振り向くイエス
教え、いやし、宣べ伝えて行かれた主イエスの伝道活動は、順々に知れ渡り、ぞくぞくと人々が集まり、マルコ福音書8章の頃にはきっと人気も絶好調に達していたと思われます。(ただ、軍事的な救世主と誤解されたり、利用されたりして、流血や、破壊を招くことにならないようにと、細心の注意が払われておりました。)山でいうなら、頂上まで登り詰めたところだったと思います。弟子たちから「あなたはキリスト・救い主です」という信仰告白を聞いて、「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた」のです(8:31)。ここで、主イエスは受難に向かうのです。ここから、降りていくのです。神の真実をもって説教をされ、弱い者への愛の業をなさるのですが、当局からにらまれ、ユダヤ教の異端者、神への冒涜者としての扱いを受け、逮捕されてしまいます。むりやりの裁判を受け、不当な証人が立てられ、有罪。総督ピラトに強引に引き渡され、裁判に持ち込まれ、鞭を打たれ、半殺しにされ、なお、ユダヤ当局が群衆を扇動し、不当な死刑判決となる。主イエスは十字架を担わされ、その木に釘付けにされ、人々の呪いの中で息を引き取られます。そして、確認のためやりで腹をさされ、引き下ろされて、墓に葬られます。まさに呪い死に至るまで、降りられ、黄泉の谷底までも降られたのです。それは人は罪のゆえに、その谷底まで滅びるばかり落ち込んでいるのですが、その私たちをそこから救い上げるために、黄泉の谷底まで降りられたのです。
ペテロの信仰告白を聞かれてから、その山を降りる決心をされたのでしょう。ですから、受難に向かって降りていこうと先立っていく主を、ペテロがいさめたのですから、振り向いて「下がれ。サタン」とまできつく叱責されたのです。そして、「自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」と言われました(8:35)。命の逆説を言われました。それは私たちにも言われていることです。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」(8:36-37)。イエス・キリストは私たちの前を先立ちゆき、振り向いて、こう私たちに言われるのです。
◇向き合わせるイエス
ところがこの六日後、前代未聞のことが起こります。イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれました。その時のことです。「そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた」(9:3-4)。地上(山上)にありながら、栄光の姿に変えられたのです。純白の純白、聖なる輝きでした。雲間から一筋の日の光が照らしたという自然の風景ではないのです。イエスご自身が輝きだしたのです。ペテロは幕屋(仮小屋)を三つ建てて、この栄光の時がいつまでも続くようにと思ったのですが、み声があるとすぐイエスだけとなり、それはつかぬまのことでした。
モーセは出エジプト後、「律法」を授けられた神の器です。エリヤは王国時代、「預言」活動をした神の器です。二人は律法と預言という旧約聖書の代表の器です。イエスを中心としたみ国の代表者の三者会談でした。ルカ福音書では「最後のこと」を話しあったと記しています。最後のこととは十字架の受難のことですが、原語は「脱出=出エジプト」とも訳せる言葉です。第二の出エジプト、すなわち、十字架の贖いによる罪の奴隷からの脱出、人類の救いを会談したです。そのような受難に向かうイエスにとっても、また、不安の中にも導かれていく弟子たちにも、この栄光の輝きを神が前もって示されたことはきわめて大事なことでした。
時間の流れでは受難の後に栄光が訪れるのですが、終末論的には栄光があるので、受難があるというものです。私たちにすれば、栄光が約束されているので試練があるというものです。先に栄光ありきなのです。
その時、雲の中からみ声を聞きます。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(9:7)。
ペテロはこの経験を後に手紙にこう記しています。主イエス・キリストの力と来臨とをあなたがたに話したけれど、それはうまく考え出した作り話ではないのです。「私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(2ペテロ1:16ー19)。
そのように、栄光は神の言葉に裏付けされており、確かなものにしているのです。主の再臨の栄光、私たちも復活に輝くことが預言されています。私たちが試練や苦難の中で、聖霊によって神の言葉を聞く時に、神が前もって、勝利の栄光を垣間見させてくださることなのです。もう一度言います。イエス・キリストの初臨と再臨という言い方がありますが、それは時間の順序。再臨こそが本番、初臨は序盤なのです。「本臨」と「前臨」と言っても良いでしょう。ですから、今は恵みの時、救いの日なのです。私たちは前臨のイエス・キリストの贖いにより、罪と死から解放されていて、本臨においての変えられ栄光の体、聖なる輝きにあふれた姿がすでにあるのです。輝きの姿ありきです。それだから、自分の十字架を負い、主に従っていくのです。試練の道も行くのです。輝きの中で語られた「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」のみ言葉に従っていくのです。
「そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」マルコ9:3
たいていのカレンダーは日曜から始まりますが、ビジネス手帳ですと、月曜から始まり、最後に日曜が幅狭くされているものが多いようです。6日働いて、7日目は安息日というのがユダヤ教でした。しかし、キリスト教となるとまず、主の日としての日曜があって、続く月曜からは働く日となっています。両方、意味があります。労働して、安息日を迎える面と、主日礼拝をしてから労働に向かう面と、両面あり、そのバランスをとることが大切だと思います。
◇振り向くイエス
教え、いやし、宣べ伝えて行かれた主イエスの伝道活動は、順々に知れ渡り、ぞくぞくと人々が集まり、マルコ福音書8章の頃にはきっと人気も絶好調に達していたと思われます。(ただ、軍事的な救世主と誤解されたり、利用されたりして、流血や、破壊を招くことにならないようにと、細心の注意が払われておりました。)山でいうなら、頂上まで登り詰めたところだったと思います。弟子たちから「あなたはキリスト・救い主です」という信仰告白を聞いて、「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた」のです(8:31)。ここで、主イエスは受難に向かうのです。ここから、降りていくのです。神の真実をもって説教をされ、弱い者への愛の業をなさるのですが、当局からにらまれ、ユダヤ教の異端者、神への冒涜者としての扱いを受け、逮捕されてしまいます。むりやりの裁判を受け、不当な証人が立てられ、有罪。総督ピラトに強引に引き渡され、裁判に持ち込まれ、鞭を打たれ、半殺しにされ、なお、ユダヤ当局が群衆を扇動し、不当な死刑判決となる。主イエスは十字架を担わされ、その木に釘付けにされ、人々の呪いの中で息を引き取られます。そして、確認のためやりで腹をさされ、引き下ろされて、墓に葬られます。まさに呪い死に至るまで、降りられ、黄泉の谷底までも降られたのです。それは人は罪のゆえに、その谷底まで滅びるばかり落ち込んでいるのですが、その私たちをそこから救い上げるために、黄泉の谷底まで降りられたのです。
ペテロの信仰告白を聞かれてから、その山を降りる決心をされたのでしょう。ですから、受難に向かって降りていこうと先立っていく主を、ペテロがいさめたのですから、振り向いて「下がれ。サタン」とまできつく叱責されたのです。そして、「自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」と言われました(8:35)。命の逆説を言われました。それは私たちにも言われていることです。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」(8:36-37)。イエス・キリストは私たちの前を先立ちゆき、振り向いて、こう私たちに言われるのです。
◇向き合わせるイエス
ところがこの六日後、前代未聞のことが起こります。イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれました。その時のことです。「そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた」(9:3-4)。地上(山上)にありながら、栄光の姿に変えられたのです。純白の純白、聖なる輝きでした。雲間から一筋の日の光が照らしたという自然の風景ではないのです。イエスご自身が輝きだしたのです。ペテロは幕屋(仮小屋)を三つ建てて、この栄光の時がいつまでも続くようにと思ったのですが、み声があるとすぐイエスだけとなり、それはつかぬまのことでした。
モーセは出エジプト後、「律法」を授けられた神の器です。エリヤは王国時代、「預言」活動をした神の器です。二人は律法と預言という旧約聖書の代表の器です。イエスを中心としたみ国の代表者の三者会談でした。ルカ福音書では「最後のこと」を話しあったと記しています。最後のこととは十字架の受難のことですが、原語は「脱出=出エジプト」とも訳せる言葉です。第二の出エジプト、すなわち、十字架の贖いによる罪の奴隷からの脱出、人類の救いを会談したです。そのような受難に向かうイエスにとっても、また、不安の中にも導かれていく弟子たちにも、この栄光の輝きを神が前もって示されたことはきわめて大事なことでした。
時間の流れでは受難の後に栄光が訪れるのですが、終末論的には栄光があるので、受難があるというものです。私たちにすれば、栄光が約束されているので試練があるというものです。先に栄光ありきなのです。
その時、雲の中からみ声を聞きます。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(9:7)。
ペテロはこの経験を後に手紙にこう記しています。主イエス・キリストの力と来臨とをあなたがたに話したけれど、それはうまく考え出した作り話ではないのです。「私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(2ペテロ1:16ー19)。
そのように、栄光は神の言葉に裏付けされており、確かなものにしているのです。主の再臨の栄光、私たちも復活に輝くことが預言されています。私たちが試練や苦難の中で、聖霊によって神の言葉を聞く時に、神が前もって、勝利の栄光を垣間見させてくださることなのです。もう一度言います。イエス・キリストの初臨と再臨という言い方がありますが、それは時間の順序。再臨こそが本番、初臨は序盤なのです。「本臨」と「前臨」と言っても良いでしょう。ですから、今は恵みの時、救いの日なのです。私たちは前臨のイエス・キリストの贖いにより、罪と死から解放されていて、本臨においての変えられ栄光の体、聖なる輝きにあふれた姿がすでにあるのです。輝きの姿ありきです。それだから、自分の十字架を負い、主に従っていくのです。試練の道も行くのです。輝きの中で語られた「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」のみ言葉に従っていくのです。