オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

受難から栄光へ

2014-06-29 00:00:00 | 礼拝説教
2014年6月29日 主日礼拝(マルコ福音書9:2-8)岡田邦夫


 「そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」マルコ9:3

 たいていのカレンダーは日曜から始まりますが、ビジネス手帳ですと、月曜から始まり、最後に日曜が幅狭くされているものが多いようです。6日働いて、7日目は安息日というのがユダヤ教でした。しかし、キリスト教となるとまず、主の日としての日曜があって、続く月曜からは働く日となっています。両方、意味があります。労働して、安息日を迎える面と、主日礼拝をしてから労働に向かう面と、両面あり、そのバランスをとることが大切だと思います。

◇振り向くイエス
 教え、いやし、宣べ伝えて行かれた主イエスの伝道活動は、順々に知れ渡り、ぞくぞくと人々が集まり、マルコ福音書8章の頃にはきっと人気も絶好調に達していたと思われます。(ただ、軍事的な救世主と誤解されたり、利用されたりして、流血や、破壊を招くことにならないようにと、細心の注意が払われておりました。)山でいうなら、頂上まで登り詰めたところだったと思います。弟子たちから「あなたはキリスト・救い主です」という信仰告白を聞いて、「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた」のです(8:31)。ここで、主イエスは受難に向かうのです。ここから、降りていくのです。神の真実をもって説教をされ、弱い者への愛の業をなさるのですが、当局からにらまれ、ユダヤ教の異端者、神への冒涜者としての扱いを受け、逮捕されてしまいます。むりやりの裁判を受け、不当な証人が立てられ、有罪。総督ピラトに強引に引き渡され、裁判に持ち込まれ、鞭を打たれ、半殺しにされ、なお、ユダヤ当局が群衆を扇動し、不当な死刑判決となる。主イエスは十字架を担わされ、その木に釘付けにされ、人々の呪いの中で息を引き取られます。そして、確認のためやりで腹をさされ、引き下ろされて、墓に葬られます。まさに呪い死に至るまで、降りられ、黄泉の谷底までも降られたのです。それは人は罪のゆえに、その谷底まで滅びるばかり落ち込んでいるのですが、その私たちをそこから救い上げるために、黄泉の谷底まで降りられたのです。
 ペテロの信仰告白を聞かれてから、その山を降りる決心をされたのでしょう。ですから、受難に向かって降りていこうと先立っていく主を、ペテロがいさめたのですから、振り向いて「下がれ。サタン」とまできつく叱責されたのです。そして、「自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」と言われました(8:35)。命の逆説を言われました。それは私たちにも言われていることです。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」(8:36-37)。イエス・キリストは私たちの前を先立ちゆき、振り向いて、こう私たちに言われるのです。

◇向き合わせるイエス
 ところがこの六日後、前代未聞のことが起こります。イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれました。その時のことです。「そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた」(9:3-4)。地上(山上)にありながら、栄光の姿に変えられたのです。純白の純白、聖なる輝きでした。雲間から一筋の日の光が照らしたという自然の風景ではないのです。イエスご自身が輝きだしたのです。ペテロは幕屋(仮小屋)を三つ建てて、この栄光の時がいつまでも続くようにと思ったのですが、み声があるとすぐイエスだけとなり、それはつかぬまのことでした。
 モーセは出エジプト後、「律法」を授けられた神の器です。エリヤは王国時代、「預言」活動をした神の器です。二人は律法と預言という旧約聖書の代表の器です。イエスを中心としたみ国の代表者の三者会談でした。ルカ福音書では「最後のこと」を話しあったと記しています。最後のこととは十字架の受難のことですが、原語は「脱出=出エジプト」とも訳せる言葉です。第二の出エジプト、すなわち、十字架の贖いによる罪の奴隷からの脱出、人類の救いを会談したです。そのような受難に向かうイエスにとっても、また、不安の中にも導かれていく弟子たちにも、この栄光の輝きを神が前もって示されたことはきわめて大事なことでした。

 時間の流れでは受難の後に栄光が訪れるのですが、終末論的には栄光があるので、受難があるというものです。私たちにすれば、栄光が約束されているので試練があるというものです。先に栄光ありきなのです。
 その時、雲の中からみ声を聞きます。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(9:7)。
 ペテロはこの経験を後に手紙にこう記しています。主イエス・キリストの力と来臨とをあなたがたに話したけれど、それはうまく考え出した作り話ではないのです。「私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(2ペテロ1:16ー19)。
 そのように、栄光は神の言葉に裏付けされており、確かなものにしているのです。主の再臨の栄光、私たちも復活に輝くことが預言されています。私たちが試練や苦難の中で、聖霊によって神の言葉を聞く時に、神が前もって、勝利の栄光を垣間見させてくださることなのです。もう一度言います。イエス・キリストの初臨と再臨という言い方がありますが、それは時間の順序。再臨こそが本番、初臨は序盤なのです。「本臨」と「前臨」と言っても良いでしょう。ですから、今は恵みの時、救いの日なのです。私たちは前臨のイエス・キリストの贖いにより、罪と死から解放されていて、本臨においての変えられ栄光の体、聖なる輝きにあふれた姿がすでにあるのです。輝きの姿ありきです。それだから、自分の十字架を負い、主に従っていくのです。試練の道も行くのです。輝きの中で語られた「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」のみ言葉に従っていくのです。




面倒だから、しよう

2014-06-22 00:00:00 | 礼拝説教
2014年6月22日 主日礼拝(ヨハネ福音書10:11-18)岡田邦夫


 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ福音書10:11

 豊中市民病院に鼻の手術のために入院していた時のことです。耳鼻科で生死に関わることではないので、6人部屋の人たち、親しく話しておりました。一人は豆腐屋さんで井戸からくみ上げた水で作っているので、格別においしいとか、朝早いのが難儀だとか話だしました。釣の話になると息を弾ませて語る。日曜になると、いつもより早く起きて、日本海まで行って、あんな魚、こんな魚を釣ったと話は止まらないのです。大好きだから、全然、面倒ではないのですね。
 母が私によくこんな川柳を言ってました。「不精者めんどくさいが先にたち」。私も好きなことは労をおしまないけれど、面倒なことは先送りにしてしまう人間であります。「面倒だから、しよう」はノートルダム清心学園理事長・渡辺和子シスターの著書の題名。私には耳の痛い言葉です。みなさんもこのような説教題での話は聞きたくないでしょう。しかし、この本はよりよく生きるための指針が綴られている良い本です。私はその奥にある「面倒という福音」を話したいのです。まずはこの本からの話です。序章として、「ほほえみ」という詩があり、第1章「ていねいに生きる」にはマザー・テレサの言葉が載せられています。「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかも知れないが、この一滴なしには大海はなりたたないのですよ」。「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つに、大きな愛をこめることはできます」。そして、消しゴムのかすの話が出てきます。
 シスターが大学で学期末テストの監督をしていた時のこと。書き終えたら退席して良いことになっていた。四年生の一人が立ち上がったのだが、思い直して、座り直し、ティッシュを取り出し、机の上の消しゴムのかすを集めティッシュに収め、教室を出て行った。「道徳教育の研究」のクラスで「面倒だからしよう」を合い言葉に教えていたのを実行したことだったのです。
 拝金主義がまかり通り、弱肉強食、格差社会が広がっている今日、「人はパンだけで生きるのではない」です。“よりよく”生き、“人間らしく”生き、心の充足感が必要。面倒なことは避け、自分中心に生きようとする傾向があります。しかし、「したくても、してはいけないことはしない。したくなくても、すべきことをする。自由の行使こそは、人間の主体性の発現にほかなりません」と著者は述べています。

◇面倒だから、できない
 とても大切な話です。しかし、したくても、してはいけないことはしない。したくなくても、すべきことをするというのは、徹底してしようとしたら、たいへんな戦いになります。「獅子身中の虫」と言いますが、百獣の王も体内に入り込む回虫にはかないません。外の敵ではなく、内の敵が大問題です。パウロという熱心な信仰者が悩みました。自分が良いことをしようとするができない、してはいけないことをやめようとするがしてしまう、私の内に住む罪がそうさせる。ほんとうに惨めな人間だ、この死のからだから誰が救ってくれるのだろう(ローマ7章)。それが現実。
 誰が救ってくれるのでしょうか。救い主、イエス・キリストです。まず、私たちの犯した罪を身代わりに背負い、神に裁かれ、信じる私たちを赦してくださいました。そればかりか、内にある罪を処理するためには死ぬ必要があります。罪深い自我はイエス・キリストと共に死に、新しい私にキリストと共によみがえったと信じるなら救われるのです。ただ単純に、素直に信じればいいのです。私たちはこの計り知れない神の恵みによってのみ救われるのです。この恵みの中にいる時に、誰もが「面倒だから、しよう」という気になるのです。もし、面倒でできないということがあったら、神に愛と恵みの中にもどってから、再チャレンジなのです。

◇面倒が、面倒でない
 しかし、考えてみてください。世界で、被造物の中で何が一番面倒かといえば、人間の自己中心の罪の問題です。それこそイエス・キリストはとてつもなく面倒でやっかいな私たち人間の罪を処理するために、神の位を捨てて、地上に来られ、人間と同じ様になり、同じ経験をされたのです。面倒な質問や苦情に答え、面倒な病気をいやし、死人を生き返らせ、面倒な空腹の群衆を満腹させ、面倒な嵐を静め、面倒な弟子たちを育て、救いに導きました。面倒な律法学者、パリサイ人、祭司長、ヘロデ王、総督ピラトの悪しきたくらみに耐えて、十字架の苦しみを受けました。十字架の苦しみの作業を「すべてが終わった」と言われるまで貫徹されたのです。この面倒と思われる救いのみ業は神のみこころでしたから、苦い杯もすすんで飲み干したのです。死んで葬られ、よみがえられた時にみ業は真に完成し、神の最高位、神の右にあげられたのです。ですから、私たちに難行苦行しなさいとか、パリサイ人のように律法の細かい規定を厳格に守るようにというような、極めて面倒なことをいっさい神は要求されません。ただ、悔い改めて福音を信じなさいと言われるだけです。

◇面倒でないのは愛
 牧師は畑を借りて野菜を育てています。農家の人は「お守りをする」と言います。天候や時季を見ての作業。相手にあわせないといけない。草引きといって、根から抜かないといけない。虫を捕ったり、モグラなどとの戦いがあり、倒れたら起こしたりと手間がかかります。そのように面倒を見てこそ、野菜は私たちの食卓に上ってくるのです。
 まして、迷いやすく、弱い羊である私たちを羊飼いであるイエス・キリストはどれほど面倒を見てくれるのでしょうか。とことんです。足のつま先から、頭のてっぺんまで、24時間365日、一生涯、御国に行くまでです。病める時も、健やかな時も、上り坂、下り坂、まさかの時も面倒を適切にされるのです。しかも、命をかけた面倒見の良さです。
 命あるものは子育てというのが何よりも、手がかかり、面倒です。ツバメがえさを取ってきては大きく開けた雛の口に入れてあげ、また、スイスイえさを取りに飛んでいっては帰ってきます。一日何回もくり返します。創造者のみ思いが表されている本能です。神は動物も人間も、子どもは可愛く造られているのです。だから、どんなに大変でも面倒を見られるのです。まして、父なる神にとって、神の子たちがなかなか罪深いやっかいなものであっても、可愛いから、御国に行くまで面倒を見てくださるのです。神が私のような者を「面倒だから、しよう」として手塩に掛けてくださっているのです。
 昔、神はエジプトの奴隷だったイスラエルという「ご自分の民を、羊の群れのように連れ出し、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。彼らを安らかに導かれたので、彼らは恐れなかった。彼らの敵は、海が包んでしまった」のです(詩篇78:52-53)。イエス・キリストは世界中のご自分の群れ、私たち羊の群れを命を犠牲にしてまで導かれることをご自分の口から言われました。
 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(ヨハネ10:11ー 18)。


「あなたはキリスト」告白

2014-06-15 00:00:00 | 礼拝説教
2014年6月15日 主日礼拝(マルコ福音書8:27-30)岡田邦夫

「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」マルコ福音書8:29

 日本列島に雨が降ると水は日本海側と太平洋側に分かれて流れていきます。その川の分かれる嶺を「分水嶺(ぶんすいれい)」と言います。私が隣保会に出席した時に、ある人が兵庫県には日本で一番標高の低い分水嶺があり、この辺りは水害がないのだと教えてくれました。丹波市氷上町石生(いそお)の「水わかれ」という所。一方は由良川となって日本海に流れ(70キロ)、一方は加古川となって瀬戸内海に流れていきます(70キロ)。この分水嶺というのは「物事の方向性が決まる別れ目」のたとえとして使われます。

◇イエスの分水嶺
 ガリラヤ湖の北40キロにあるピリポ・カイザリアに行く途中でのことでした(ヘロデ王の息子ピリピが皇帝カイザルに敬意を表し名付けた町)。すでにイエスが神の国の教えを説き、多くの病人をいやし、五千人とか、四千人とかに少ないパンと魚で満腹させるなど、人々の評判はピークの達していました。イエスは弟子たちに尋ねます。「人々はわたしをだれだと言っていますか」。弟子たちが「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」と答えると、たいへん重要な問いかけをします。
 「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。ペテロが答えます。「あなたは、キリストです」(マルコ8:29)。するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
このペテロの信仰告白を聞いて、「それから」イエスは受難と復活を弟子たちに予告し、その道にまっすぐに進んで行かれます(8:31)。マタイ福音書では「その時から」と記しています(マタイ16:21)。ペテロの口から「あなたは、キリストです」の言葉を聞いた、その時から、御子が自らが犠牲になるという行動にでられたのです。ペテロと「相対」し、彼の意志や理解や主体性を尊重し、自らの口から、信仰告白をした「その時に」、ご自分の行くべき決定的な転換点とされたのです。神がみこころをなそうとされる時に、人間をロボットのように操るのではなく、私たちの意志を大切に位置づけておられるということです。しかも、人類の救いというみ業をなすというみこころにおいてなのです。
 そもそも、イエス・キリストが公生涯に入られたのは、受洗の時に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という天からの声があって、救い主としての行動を決められたのです(1:11)。これは神の内にある「絶対」のことでした。誰が何と言おうと、被造物が総出で阻止しようと、絶対に十字架にかかり、絶対に復活して、救いの道を人類に開くことでした。ですから、ペテロが人情から、イエスをいさめ始めた時に、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱られたのです(8:33)。
 ですから、神のみこころは私たちの意志には振り回されず遂行され(絶対的)、しかし、私たちの意志と関わりながら遂行され(相対的)、いわば、それらを超えて「超対的」(私の造語)に遂行されていくのです。神の私たちへのみ思いは愛です。歴史上、「その時」、私たちを愛するゆえに屈辱と悲惨と苦難の道へと主は向かわれたのです。この「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができます」なら、私たちは何と幸いなことでしょう(エペソ3:19)。

◇弟子たちの分水嶺
 見えないものが見えてくる、解らないものが解ってくるまで、主イエスは弟子たちに手を掛けてくださいました。弟子たちは三年間、イエスと寝食を共にし、イエスの教えを身近で聞き、目の当たりに奇跡を見てきました。ここでやっとイエスが誰であるか、どのような方か、目が開かれてきたのです。四千人の給食の時に、イエスはこのようなことを言っていました。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい」(8:14)。イースト菌の入ったパン生地の種は全体をふくらますように、民全体に影響を与える考えのこと。偽善的な信仰や世俗的な考えを警告しました。信仰とは正しい認識、誠実な信頼、はっきりとした告白です。「まだ悟らないのですか」と嘆いておられたのですが、それは促しとも聞こえます(8:21)。そして、ついに「あなたは、キリストです」という信仰告白を聞く段階にきたのです(8:29)。
 それを象徴する奇跡がこの告白の前に起こっています。この奇跡だけ、二段階のいやしです(8:22-26)。主が盲人の手をとり村の外へ行き、つばきをつけ、両手を当てます。「何か見えるか」と聞くと見えるようになって、言います。「人のようなものが見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」。第一段階です。弟子たちが霊的に見えるようになって「あなたは、キリストです」と告白したこの段階です。
 イエスはもう一度両目に手を当て、見つめらていると、すっかり直り、「すべてのがはっきり見えるように」なりました。この後も続く、説教と奇跡、新たにイエスの変貌、ゲッセマネの祈り、最後の晩餐、逮捕、裁判、十字架刑、埋葬、復活という事々を目の当たりにして、最後に聖霊が降り、弟子たちがはっきりと見えるようになっていくのです。二段階目の悟りです。弟子たちの手を取り、両手を当てて、開眼させたのです。
 私たちに対して、主は信仰の目が開かれるようにと、私たちの手を取り、両手を当て、愛と命を注いでくださっているのです。「あなたは、キリストです」、「イエスは主です」とはっきり言えるようにと手塩に掛けていてくださいます(1コリント12:3)。信仰の告白は愛の告白です。イエス・キリストは全生涯をかけて、全存在をかけて、「わたしはあなたを愛している」と告白(啓示)しておられます(イザヤ43:4)。ですから、問うのです。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」、「あなたはわたしを愛しますか」と(ヨハネ21:15)。
 どうか、はっきりと主イエスが見えてきますように、はっきりと「イエスは主です」と言えますように、分水嶺でその方向に進んでゆけますように。

積み重ねていくもの

2014-06-08 16:14:27 | 礼拝説教
2014年6月8日 主日礼拝(マルコ福音書7:14-22)岡田邦夫


 「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」マルコ福音書7:15

 阪急宝塚から今津線に乗り、景色を見ていました。線路は高架になっているので、住宅地がかなり向こうの方まで見渡せたところがありました。その時、不思議な感覚に襲われました。一軒、一軒には歴史がある。元は田畑だったか、林だったか、そこが整地され、だれかがその土地を買うなり、借りるなりして、家を建てる。色々な業者が入り、数ヶ月、手間暇掛けてできあがる。多くはローンを組んで、入居後も、働きながら返していく。そして、それぞれの家庭の営み、歴史がある。車窓からは屋根、壁、窓しか見えないが、見える範囲だけでも、数千の積み上げられた歴史がある。そして、阪神大震災という試練を乗り越えてきた後の風景を見たような気がしました。

◇土台は…
 歴史とは積み重ねていくものです。イエス・キリストがたとえでこう話されました。二人が家を建てた。一人は砂の上に、一人は岩の上に。洪水が来て岩の上の家は大丈夫だったが、砂の上に建てた家は倒壊し流されてしまった。み言葉を聞いて行うかどうかで、その結果は歴然としている。人生においても歴史においても、重要なことは何を土台とし、何を基準に積み上げていくかなのです。イエスの働きの評判は最高潮に達していました。5000人に対してパンの奇跡をおこし、イエスがいると解ると手をおいて、いやしてもらおうと連れてきた病人が続々といやされるし、イエスの着物の端にさわってでも、いやさていくという状況でした。そこで、中央の宗教家たち、パリサイ人と律法学者が異端宗教ではないかと調査にきたのです(7:1)。
 すると問題を発見。弟子たちで手を洗わないで食事をしているというユダヤ教に違反しているというのです。衛生の問題ではなく、宗教の問題なのです。「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある」(7:3-4)。昔の人たちの言い伝え(ハラカと言います)に違反している、すなわち、律法に違反していると言うのです。
 それに対して、イエスは預言者的に、実に厳しくメッセージをされました。イザヤ書29:13を引用し、あなた方は人間の言い伝えを堅く守っていて、神の戒めをないがしろにし、それを捨てている。偽善者だ。そして、例をあげて、指摘します。「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです」(7:11-13 )。
 律法(神の戒め)を勝手に解釈し、神を喜ばすためではなく、自分の満足のための戒めを作って、守らせようとしている。主客転倒なのです。例えば、幼児にトイレのしつけをするのに、心理的要素がかなりあります。こどもはおしりが汚れて気持ち悪いので親に教えるのではないようです。教えたら、親が喜んでくれるから、教えるようになり、やがて、自分でするようになるのだと聞いています。人の戒めでさえそうなら、神の戒めもなおさらそうです。私たちは私を救ってくれた神、イエス・キリストを喜ばせるために、父母を敬えという戒めを守り、自分の「からだを、神に受け入れられる、、聖い、生きた供え物としてささげ」るのです(ローマ12:1)。そして、それが自分に跳ね返って、いい知れない平安と穏やかな喜びとなるのです。
 神の戒めこそ人生の土台です。また、神の戒め=み言葉によって、人生という歴史を積み重ねていくなら、試練という嵐、最後の審判というふるいにも、揺れ動くことはないのです。

◇素材は…
 そして、画期的なことを主は言われました。「すべての食物はきよいとされた」のです(7:19)。旧約聖書の律法では清いものと汚れたものと分けた食物規定がありました。神が聖であるように、あなた方も聖なる者になれというところからきた規定でした。しかし、私たちを内側から聖なる者にしてくださる救い主が来られたのです。水で浄化するのでなく、ご自身の血で私たちの魂を浄化されるのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(1ヨハネ1:7)。コンクリートでも、海砂ですと塩分が不純物。もろくて崩れやすいですが、川砂ですと頑丈にできます。人生もイエス・キリストの血により、不純物をのぞき、きよめて、歴史を重ねていけば、艱難時代が来ても耐えられる頑丈なものとなるのです。ですから、まず、その不純に気づく必要があります。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(7:20-23) 。日本の新幹線は安全運行のために何から何まで綿密なチェックと管理が行われていることは世界の驚異であるとのことです。だからこそ、たえず快調に走っているのです。イエス・キリストに管理をお任せすれば、信仰の人生は快調に走れるのではないでしょうか。世界遺産である姫路城、平成の大修復で、新しい姿を現しました。修復前より白いです。白鷺城とと呼ばれていた本来の色とのことです。私たちの人生もイエス・キリストによって、汚れをのぞいていただき、内側から修復していただくと、良き神の作品となっていくのです(エペソ2:10)。

奇跡には意味がある

2014-06-01 13:01:22 | 礼拝説教
2014年6月1日 主日礼拝(マルコ福音書6:30-44)岡田邦夫


 「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」。マルコ福音書6:34

 福音書は奇跡でいっぱいです。現代の私たちにとって、病気のいやしの奇跡とか、死人の蘇生は耳にします。悪霊の追放も違和感があるものの、そういう現象はあるかも知れないと否定できないところがあるでしょう。しかし、5000人を5つパンと2匹の魚で満腹させた奇跡、同様に4000人を7つのパンと少しの魚で満腹させた奇跡は上記の奇跡と違って、どこか受け入れにくい話でしょう。また、湖での話も同様でしょう。舟が嵐にあった時、風と湖をしかって静めた奇跡と、イエスが湖の上を歩いてきて弟子たちの舟に乗り込むと凪(なぎ)になった奇跡です。しかし、「神の救い」という観点で見るなら、奇跡は本当はたいへん重要な意味をもっているのです。

◇重ねてみると
 主イエスは奇跡をおこし、人々を驚かせ、人気を集めようとされたのではありません。公生涯に入る前に石をパンにかえるという奇跡をなして、人々の関心を集め、人気を得ればというサタンの誘惑を受けましたが、主はみ言葉をもって、それを退け、救い主としての使命にたたれたのです。そのことからも解ります。奇跡にはきわめて重要な意味があるのです。主の奇跡を総合してみて解ることがあるのです。主の奇跡を上記で大別して述べました。
  病気のいやしなど、解放の奇跡
  湖の波風を静めた、湖の奇跡
  大勢を満腹させた、パンの奇跡
 解放の奇跡は、イスラエルの人々を主が奴隷の家、エジプトから脱出させた出エジプトという救いと重なります。湖の奇跡は、出エジプト後、エジプト軍に追われ、主が紅海の水を分けてイスラエルの民を渡らせ、救われた奇跡と重なります。パンの奇跡は、荒野に進み、食料不足に困り果てたイスラエルに対し、主がマナを降らせて40年間、養われ救われたという奇跡と重なります。聖書における歴史がただ「人間が」どう歩んだかという歴史であれば、時間と共に過ぎ去った過去のことです。しかし、神がどうされたかという「神の」救いの歴史ですので、今の私たちをも巻き込み、包み込んでくる救いの出来事なのです。全能の神には「出来る事」なのです。旧イスラエルの救いが、イエス・キリストを通して、世界の人々を含む、新イスラエルの救いへと大いに拡大、伸展したということです。

◇掘り下げてみると
 さて、イエス・キリストがなされた奇跡はどういう意味を持っているのかは、5000人を5つパンと2匹の魚で満腹させた奇跡の今日の聖書箇所に出ています。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)。羊飼いのいない羊のように迷い、飢えている人々(私たちを含む)をご覧になり、「深くあわれまれ」、満腹させる奇跡をされたのです。すべての人の魂のど底までとどく愛です。すべての人の心の痛みを痛みとする愛です。迷い苦悩する者の中に潜り込む愛です。
 バネというのは押さえれば、押さえるほど、反発力は強くなります。イエスのあわれみは深く深くど底までいったので、人を救いに引き上げる愛の力は最大限になるのです。イエスは十字架において傷みきられたので、痛みからのいやしは最大限なのです。イエスは十字架において、とことん苦しまれたので、私たちを苦しみから解放する力は最大限なのです。
 さらに、罪と死と滅びの下にある、その私たち人間のど底のど底まで、身を投じられたのです。極限の侮辱と呪いと暴力により、血を流し、身をさかれ、命が奪われたのです。それは傷つき迷った羊を背負って助け出すように、罪と死と滅びの中から、私たちを背負い救出されたのです。主の深いあわれみというのは思いだけでなく、言葉だけでなく、体もすべて使われた愛だったのです。
 すべて、主の奇跡は深いあわれみの奇跡なのです。5000人にパンが配られたのは、深いあわれみが配られたのです。はらわたにしみいる深いあわれみがあったのです。私たちに配られるパンは深いあわれみに満ちたみ言葉です。私たちに配られるパンは深いあわれみに満ちた聖餐のパンです。信仰をもって十分いただき、十二分に味わいましょう。

◇広げてみると
 「多くの群衆をご覧になって」深くあわれみ、奇跡をされました。群衆、集団になされたのです。かつてイスラエル民族という集団を奴隷の家から救い出しました。イエス・キリストは新しいイスラエルという集団、すなわち、キリストの体である教会という集団を罪と死と滅びから救い出されるのです。5000人へのパンの奇跡も人数を分けて座らせてから配りました。それは組織的でした。私たちは組織をもつ有機的な主にある共同体になるのです。そして、目指すは人類の救い、世界の救いなのであります。主のパンで個々が満足し、全体が満足するのです。解放の奇跡、湖の奇跡、パンの奇跡という救いの歴史は私の人生のうえに起こります。罪の赦しをいただき解放され、試練という嵐を乗り越えさせ、永遠の命というパンで養われ、約束の天国に導かれていきます。これは主のなされること、奇跡なのです。
 私たちの体はたくさんの細胞が集まり、組み合わされて、生かされますが、逆に個々の細胞は体全体があって、生かされます。2000年前、イエス・キリストの十字架と復活により、私たちの集団=キリストの体である教会共同体は罪と死の奴隷から解放されたのです。そして、繰り広げられる歴史において、迫害や誘惑や傲慢や落胆などの嵐に合いますが、頭(かしら)であるキリストが嵐を静めます。また、礼拝や礼典や交わりを通して、永遠の命のパンで群れが養われます。そうして、福音が世界中に宣べ伝えられ、主の再臨の時が来て、最後の審判があります。そして、教会は着飾ったキリストの花嫁として迎えられ、新天新地において、披露宴が行われます。この宴を「メシヤの饗宴(きようえん)」と言います。そこではあふれるばかりの喜びがあり、賛美があり、満たしがあるのです。5000人へのパンの奇跡はそのしるし、先取りの宴でした。礼拝において、神のみ言葉のパンが配られる時に、聖餐において、キリストのからだであるパンが配られる時に、デボーションにおいて、霊の糧のパンが配られる時に、メシヤの饗宴(きようえん)を思い巡らし、その先取りをしているのだとの信仰を持ちましょう。