2013年2月24日 伝道礼拝(1ペテロ2:22-25)岡田邦夫
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(1ペテロ2:25)。
先週、この三田市から茨城県つくば市に転居された方がいました。筑波といえば、私、思い出があります。献身して東京聖書学院に入学する前に、記念にとクリスチャンの友人と二人で、筑波山に登りました。ハイキング・コースで登り始めたのですが、二股の分かれ道で標識がはっきりしないので、勘で選んで、登っていきました。ところが道が狭くなって、これは木こり道かなあなど言いながら進んで行くと、道が途絶えてしまった。引き返すのも悔しいからと、とにかく上に登れば良いのだからと、垂直に登って行った(これは危険行為、してはいけないことだが)。這いつくばるように進んだ。やがて、賑やかな人声が聞こえたかと思うと、藪が開けて、頂上の広場だった。その人たちはロープウェイで来たらしく、軽装で、中にはハイヒールの女性もいた。頂上からの眺めは迷って、藪の中を通ってきただけに、何とも晴れやかに美しく感じられました。人は迷うものです。人生に迷いは付きものです。迷うからこそ、光を見出し、道を見出した時の喜びはいい知れないものがあります。
◇群を離れ群に帰る…羊
ところが、聖書では逆な話が出てきます。イエスのたとえ話です。100匹の羊を持っている人がいたが、その中の1匹がいなくなった。羊飼いは99匹を残して、迷い出た羊を捜しに行く。見つかるまで捜し歩く。見つけ出したので、その迷子の羊をかついで帰って行く。友だちや近所の人たちを呼び集めて言うのである。「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」。そして、イエスはこう言われるのです。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(ルカ15:6-7)。私たちは迷える羊です。神から離れ、自分勝手な道に行き、迷い出てしまっているのです。この自己中心に生き、不信仰の道に生きることを罪と言います。そうして、迷える羊は不安です。たましいに安らぎがありません。神を計算に入れない生活を改め、神を求めるように、生き方の方向転換をし、父なる神のふところに帰って行くと、そのたましいにはいい知れない平安が訪れます。帰るべき所に帰ったからです。
しかし、迷える羊を捜し出し、担いで、元の居場所に連れ戻したのは、良い羊飼いイエス・キリストなのです。そして、このたとえをテーマにした新聖歌があります。その喜びは天の喜びであり、私たちは自分のことではありますが、その天の喜び、確かな喜びにあずかるのです。
217番の5節では迷った羊である私が神のもとに帰った時の天の喜びをこ う歌います。
谷底より空まで 御(み)声(こえ)ぞ響く 「失われし羊は 見出されたり」
御使いらは応(こた)えぬ 「いざ共に喜べ いざ共に喜べ」
223番の1節では迷える私を捜すのは主の「愛」だと歌います。
群れを離れて 道に迷い 飢えと寒さに 死ぬばかりの
この身も主イエスに いま救われたり
迷うわれを 捜す愛よ
死にかけしこの身を 生かす主の恵みよ
◇群を離れ群に帰る…襄
新島襄の生まれた時につけられた名は七五三太(しめた)、15才で元服して敬幹(たかもと)となり、襄(じょう)と名のるのは後のことであり、それにはわけがあったのです。彼が生まれたのは明治元年(1868年)より25年前のこと、日本が大きく変わろうとしていた時代であった。17才で蘭学に夢中になり、18才で蘭等辞典を買う。江戸湾でオランダ軍艦を見て海外文明の進歩に驚き、洋学を学び、海外渡航を夢見る。22才、快風丸で箱館(現在の函館)に行き、ロシア領事官付のニコライ神父の家に寄宿。まだ、聖書に触れることはなかった。そこでアメリカ船、ベルリン号に人の助けと船長の理解を得て乗り込む。まだ鎖国状態、脱藩も出国も大罪であった。命がけの密航。出帆は元(げん)治(じ)元年(1864年)、京都では池田屋事件が起きた頃であった。上海で「ワイルド・ロヴァー号」に乗り換えることになり、そのテイラー船長から「ジョー」と呼ばれることになった。彼は脇差を買ってもらい、寄港した香港で漢訳聖書を買い求め、航海中は読みふけっていた。特にヨハネ伝3:16はジョーが一生忘れないものとなった。「それ神はその獨子(ひとりご)を賜(たま)ふほどに世を愛し給(たま)へり、すべて彼を信ずる者の亡(ほろ)びずして、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を得(え)んためなり」(文語訳)。それは聖書の中の聖書と呼ばれる聖句であったのである。舟は1年ほどかけ、ボストンに入港。
そこで船主のハーディがこのジャパニーズ・ボーイを名をジョセフとし、引き受け、援助してくれた。アメリカは南北戦争の終わった直後であった。ジョセフは中学で基礎的学科を学び、一方、信仰経験をする。聖書を真(しん)摯(し)に学び、自分を神に献げていきたいと思うようになった。そうして1年がたった時に会衆派の教会で洗礼を受け、キリスト者となった。その後、大学に行かせてもらえ、ジョセフは熱心に学業と信仰に励んだ。さらに日本へのキリスト教伝道の準備のため、神学校に行くのである。その頃、日本では大政奉還がなされ歴史が大きく動いていた。彼は新政府は積極的に留学生を援助することとなり、駐米公使・森有(あり)礼(のり)がジョセフを政府公認の留学生に申請し、許可された。
その間に岩倉使節団の通訳を頼まれ、また、「日本における普通教育」の草案を依頼される。その随行者に知的教育だけでなく、徳育教育も必要、切(きり)支(し)丹(たん)邪(じや)宗(しゆう)門(もん)禁(きん)制(せい)の撤廃を3時時間にわたって訴えた。それが利いたかどうかわからないが、明治6年、撤廃された。ヨーロッパ視察を終えた頃には、彼は32才になっていた。ジョセフはアメリカン・ボード(海外伝道協力)から日本伝道準宣教師に任命される。行く前に教会で初めて説教したのが、感銘を受け続けていたヨハネ伝3章16節からだった。そして、正式な聖職者となる「按手礼」をうけ、海外派遣の宣教師の送別会で、ジョセフは演説をすることになった。日本にキリスト教主義の学校を建設する計画を涙を流して切々と訴えた。15分足らずだったが、終わるなり、大口の寄付、小口の寄付をあわせると5000ドルの申し出があったのである。
こうして、ジョセフは宣教師として帰国し、まず、家族伝道、それから、伝道活動を進めていく。ジョセフを略したジョーに「襄(じよう)」と漢字を当てはめることにした。大変な反対の中にも、願いがかない京都でキリスト教主義の「同志社英学校」を設立することが出来た(後に同志社大学がこれを受け継ぐ)。明治8年、新島襄33才であった。山本八重と結婚したのは翌年。こうして、「平和の使徒」呼ばれる働きをしていくわけですが、この後のことはいずれお話ししたいと思います。ただ、一つだけエピソードを加えておきましょう。新島襄が伝道旅行に出ている留守の時に同志社で事件があった。上級組と下級組との合併問題で、上級組がそれを不服として抗議し、全員無断欠席を続けた。それを知った襄は京都に戻り、対処方法を考え続けた。これを不問にふしたら、学校の権威は地に落ちるし、処罰すれば、上級組は全員退学してしまう。また、政府の集会条例によって弾圧しかねない、こまった、どうすれば。翌朝、上級組も出席してくれたので、賛美歌を歌い、祈りがすんでから、教壇にたった。「このことは学校側が誠意をもって知らせていたら、無断欠席の違反行為はなかっただろう。私の不徳のいたすところ、諸君を罰しないし、教員も責めない。校長である私がその罪人を罰します。」と言って、手にしたステッキを振り上げ、左の手のひらを打ち続け、ステッキが三つに折れた。それでも打ち続けるので、生徒のひとりがかけより抱き留めたのである。ようやく襄は静まり、言った。「諸君、校則の重んずべきがわかりましたか。責任を負うべき校長は罰しました」。こうして、生徒の抵抗は終わった。これが「自責の杖」事件です。
これがキリスト教精神なのだろう。私たちが神の律法を犯した罪をイエス・キリストが身代わりにむち打たれ、十字架にかかり、私たちを赦す道を開いてくださったのです。襄はそれを密航船のなかで出会ったヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」で知ったのです。黒船を見て感動して、アメリカに渡ったのですが、聖書を見て、感銘を受け、信仰の世界に踏みいったのです。彼が何かを捜していたようですが、実は色々な人を動かし、時代を動かし、イエス・キリストの神が襄を捜していたのです。襄が神のもとに帰った点を帰点としましょう。それは永遠の命を与えるために御子が犠牲になられたという神の愛でした。それをアメリカで学び、それを起点として、日本で伝道奉仕をしたのです。その象徴的な事件が自責の杖事件だったのです。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(1ペテロ2:25)。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(1ペテロ2:25)。
先週、この三田市から茨城県つくば市に転居された方がいました。筑波といえば、私、思い出があります。献身して東京聖書学院に入学する前に、記念にとクリスチャンの友人と二人で、筑波山に登りました。ハイキング・コースで登り始めたのですが、二股の分かれ道で標識がはっきりしないので、勘で選んで、登っていきました。ところが道が狭くなって、これは木こり道かなあなど言いながら進んで行くと、道が途絶えてしまった。引き返すのも悔しいからと、とにかく上に登れば良いのだからと、垂直に登って行った(これは危険行為、してはいけないことだが)。這いつくばるように進んだ。やがて、賑やかな人声が聞こえたかと思うと、藪が開けて、頂上の広場だった。その人たちはロープウェイで来たらしく、軽装で、中にはハイヒールの女性もいた。頂上からの眺めは迷って、藪の中を通ってきただけに、何とも晴れやかに美しく感じられました。人は迷うものです。人生に迷いは付きものです。迷うからこそ、光を見出し、道を見出した時の喜びはいい知れないものがあります。
◇群を離れ群に帰る…羊
ところが、聖書では逆な話が出てきます。イエスのたとえ話です。100匹の羊を持っている人がいたが、その中の1匹がいなくなった。羊飼いは99匹を残して、迷い出た羊を捜しに行く。見つかるまで捜し歩く。見つけ出したので、その迷子の羊をかついで帰って行く。友だちや近所の人たちを呼び集めて言うのである。「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」。そして、イエスはこう言われるのです。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(ルカ15:6-7)。私たちは迷える羊です。神から離れ、自分勝手な道に行き、迷い出てしまっているのです。この自己中心に生き、不信仰の道に生きることを罪と言います。そうして、迷える羊は不安です。たましいに安らぎがありません。神を計算に入れない生活を改め、神を求めるように、生き方の方向転換をし、父なる神のふところに帰って行くと、そのたましいにはいい知れない平安が訪れます。帰るべき所に帰ったからです。
しかし、迷える羊を捜し出し、担いで、元の居場所に連れ戻したのは、良い羊飼いイエス・キリストなのです。そして、このたとえをテーマにした新聖歌があります。その喜びは天の喜びであり、私たちは自分のことではありますが、その天の喜び、確かな喜びにあずかるのです。
217番の5節では迷った羊である私が神のもとに帰った時の天の喜びをこ う歌います。
谷底より空まで 御(み)声(こえ)ぞ響く 「失われし羊は 見出されたり」
御使いらは応(こた)えぬ 「いざ共に喜べ いざ共に喜べ」
223番の1節では迷える私を捜すのは主の「愛」だと歌います。
群れを離れて 道に迷い 飢えと寒さに 死ぬばかりの
この身も主イエスに いま救われたり
迷うわれを 捜す愛よ
死にかけしこの身を 生かす主の恵みよ
◇群を離れ群に帰る…襄
新島襄の生まれた時につけられた名は七五三太(しめた)、15才で元服して敬幹(たかもと)となり、襄(じょう)と名のるのは後のことであり、それにはわけがあったのです。彼が生まれたのは明治元年(1868年)より25年前のこと、日本が大きく変わろうとしていた時代であった。17才で蘭学に夢中になり、18才で蘭等辞典を買う。江戸湾でオランダ軍艦を見て海外文明の進歩に驚き、洋学を学び、海外渡航を夢見る。22才、快風丸で箱館(現在の函館)に行き、ロシア領事官付のニコライ神父の家に寄宿。まだ、聖書に触れることはなかった。そこでアメリカ船、ベルリン号に人の助けと船長の理解を得て乗り込む。まだ鎖国状態、脱藩も出国も大罪であった。命がけの密航。出帆は元(げん)治(じ)元年(1864年)、京都では池田屋事件が起きた頃であった。上海で「ワイルド・ロヴァー号」に乗り換えることになり、そのテイラー船長から「ジョー」と呼ばれることになった。彼は脇差を買ってもらい、寄港した香港で漢訳聖書を買い求め、航海中は読みふけっていた。特にヨハネ伝3:16はジョーが一生忘れないものとなった。「それ神はその獨子(ひとりご)を賜(たま)ふほどに世を愛し給(たま)へり、すべて彼を信ずる者の亡(ほろ)びずして、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を得(え)んためなり」(文語訳)。それは聖書の中の聖書と呼ばれる聖句であったのである。舟は1年ほどかけ、ボストンに入港。
そこで船主のハーディがこのジャパニーズ・ボーイを名をジョセフとし、引き受け、援助してくれた。アメリカは南北戦争の終わった直後であった。ジョセフは中学で基礎的学科を学び、一方、信仰経験をする。聖書を真(しん)摯(し)に学び、自分を神に献げていきたいと思うようになった。そうして1年がたった時に会衆派の教会で洗礼を受け、キリスト者となった。その後、大学に行かせてもらえ、ジョセフは熱心に学業と信仰に励んだ。さらに日本へのキリスト教伝道の準備のため、神学校に行くのである。その頃、日本では大政奉還がなされ歴史が大きく動いていた。彼は新政府は積極的に留学生を援助することとなり、駐米公使・森有(あり)礼(のり)がジョセフを政府公認の留学生に申請し、許可された。
その間に岩倉使節団の通訳を頼まれ、また、「日本における普通教育」の草案を依頼される。その随行者に知的教育だけでなく、徳育教育も必要、切(きり)支(し)丹(たん)邪(じや)宗(しゆう)門(もん)禁(きん)制(せい)の撤廃を3時時間にわたって訴えた。それが利いたかどうかわからないが、明治6年、撤廃された。ヨーロッパ視察を終えた頃には、彼は32才になっていた。ジョセフはアメリカン・ボード(海外伝道協力)から日本伝道準宣教師に任命される。行く前に教会で初めて説教したのが、感銘を受け続けていたヨハネ伝3章16節からだった。そして、正式な聖職者となる「按手礼」をうけ、海外派遣の宣教師の送別会で、ジョセフは演説をすることになった。日本にキリスト教主義の学校を建設する計画を涙を流して切々と訴えた。15分足らずだったが、終わるなり、大口の寄付、小口の寄付をあわせると5000ドルの申し出があったのである。
こうして、ジョセフは宣教師として帰国し、まず、家族伝道、それから、伝道活動を進めていく。ジョセフを略したジョーに「襄(じよう)」と漢字を当てはめることにした。大変な反対の中にも、願いがかない京都でキリスト教主義の「同志社英学校」を設立することが出来た(後に同志社大学がこれを受け継ぐ)。明治8年、新島襄33才であった。山本八重と結婚したのは翌年。こうして、「平和の使徒」呼ばれる働きをしていくわけですが、この後のことはいずれお話ししたいと思います。ただ、一つだけエピソードを加えておきましょう。新島襄が伝道旅行に出ている留守の時に同志社で事件があった。上級組と下級組との合併問題で、上級組がそれを不服として抗議し、全員無断欠席を続けた。それを知った襄は京都に戻り、対処方法を考え続けた。これを不問にふしたら、学校の権威は地に落ちるし、処罰すれば、上級組は全員退学してしまう。また、政府の集会条例によって弾圧しかねない、こまった、どうすれば。翌朝、上級組も出席してくれたので、賛美歌を歌い、祈りがすんでから、教壇にたった。「このことは学校側が誠意をもって知らせていたら、無断欠席の違反行為はなかっただろう。私の不徳のいたすところ、諸君を罰しないし、教員も責めない。校長である私がその罪人を罰します。」と言って、手にしたステッキを振り上げ、左の手のひらを打ち続け、ステッキが三つに折れた。それでも打ち続けるので、生徒のひとりがかけより抱き留めたのである。ようやく襄は静まり、言った。「諸君、校則の重んずべきがわかりましたか。責任を負うべき校長は罰しました」。こうして、生徒の抵抗は終わった。これが「自責の杖」事件です。
これがキリスト教精神なのだろう。私たちが神の律法を犯した罪をイエス・キリストが身代わりにむち打たれ、十字架にかかり、私たちを赦す道を開いてくださったのです。襄はそれを密航船のなかで出会ったヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」で知ったのです。黒船を見て感動して、アメリカに渡ったのですが、聖書を見て、感銘を受け、信仰の世界に踏みいったのです。彼が何かを捜していたようですが、実は色々な人を動かし、時代を動かし、イエス・キリストの神が襄を捜していたのです。襄が神のもとに帰った点を帰点としましょう。それは永遠の命を与えるために御子が犠牲になられたという神の愛でした。それをアメリカで学び、それを起点として、日本で伝道奉仕をしたのです。その象徴的な事件が自責の杖事件だったのです。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(1ペテロ2:25)。