オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

牧者のもとに帰る(帰点と起点)

2013-02-24 00:00:00 | 礼拝説教
2013年2月24日 伝道礼拝(1ペテロ2:22-25)岡田邦夫


「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(1ペテロ2:25)。

 先週、この三田市から茨城県つくば市に転居された方がいました。筑波といえば、私、思い出があります。献身して東京聖書学院に入学する前に、記念にとクリスチャンの友人と二人で、筑波山に登りました。ハイキング・コースで登り始めたのですが、二股の分かれ道で標識がはっきりしないので、勘で選んで、登っていきました。ところが道が狭くなって、これは木こり道かなあなど言いながら進んで行くと、道が途絶えてしまった。引き返すのも悔しいからと、とにかく上に登れば良いのだからと、垂直に登って行った(これは危険行為、してはいけないことだが)。這いつくばるように進んだ。やがて、賑やかな人声が聞こえたかと思うと、藪が開けて、頂上の広場だった。その人たちはロープウェイで来たらしく、軽装で、中にはハイヒールの女性もいた。頂上からの眺めは迷って、藪の中を通ってきただけに、何とも晴れやかに美しく感じられました。人は迷うものです。人生に迷いは付きものです。迷うからこそ、光を見出し、道を見出した時の喜びはいい知れないものがあります。

◇群を離れ群に帰る…羊
 ところが、聖書では逆な話が出てきます。イエスのたとえ話です。100匹の羊を持っている人がいたが、その中の1匹がいなくなった。羊飼いは99匹を残して、迷い出た羊を捜しに行く。見つかるまで捜し歩く。見つけ出したので、その迷子の羊をかついで帰って行く。友だちや近所の人たちを呼び集めて言うのである。「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」。そして、イエスはこう言われるのです。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(ルカ15:6-7)。私たちは迷える羊です。神から離れ、自分勝手な道に行き、迷い出てしまっているのです。この自己中心に生き、不信仰の道に生きることを罪と言います。そうして、迷える羊は不安です。たましいに安らぎがありません。神を計算に入れない生活を改め、神を求めるように、生き方の方向転換をし、父なる神のふところに帰って行くと、そのたましいにはいい知れない平安が訪れます。帰るべき所に帰ったからです。
 しかし、迷える羊を捜し出し、担いで、元の居場所に連れ戻したのは、良い羊飼いイエス・キリストなのです。そして、このたとえをテーマにした新聖歌があります。その喜びは天の喜びであり、私たちは自分のことではありますが、その天の喜び、確かな喜びにあずかるのです。
217番の5節では迷った羊である私が神のもとに帰った時の天の喜びをこ  う歌います。
  谷底より空まで 御(み)声(こえ)ぞ響く 「失われし羊は 見出されたり」
  御使いらは応(こた)えぬ 「いざ共に喜べ いざ共に喜べ」
223番の1節では迷える私を捜すのは主の「愛」だと歌います。
  群れを離れて 道に迷い 飢えと寒さに 死ぬばかりの
  この身も主イエスに いま救われたり
  迷うわれを 捜す愛よ
  死にかけしこの身を 生かす主の恵みよ

◇群を離れ群に帰る…襄
 新島襄の生まれた時につけられた名は七五三太(しめた)、15才で元服して敬幹(たかもと)となり、襄(じょう)と名のるのは後のことであり、それにはわけがあったのです。彼が生まれたのは明治元年(1868年)より25年前のこと、日本が大きく変わろうとしていた時代であった。17才で蘭学に夢中になり、18才で蘭等辞典を買う。江戸湾でオランダ軍艦を見て海外文明の進歩に驚き、洋学を学び、海外渡航を夢見る。22才、快風丸で箱館(現在の函館)に行き、ロシア領事官付のニコライ神父の家に寄宿。まだ、聖書に触れることはなかった。そこでアメリカ船、ベルリン号に人の助けと船長の理解を得て乗り込む。まだ鎖国状態、脱藩も出国も大罪であった。命がけの密航。出帆は元(げん)治(じ)元年(1864年)、京都では池田屋事件が起きた頃であった。上海で「ワイルド・ロヴァー号」に乗り換えることになり、そのテイラー船長から「ジョー」と呼ばれることになった。彼は脇差を買ってもらい、寄港した香港で漢訳聖書を買い求め、航海中は読みふけっていた。特にヨハネ伝3:16はジョーが一生忘れないものとなった。「それ神はその獨子(ひとりご)を賜(たま)ふほどに世を愛し給(たま)へり、すべて彼を信ずる者の亡(ほろ)びずして、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を得(え)んためなり」(文語訳)。それは聖書の中の聖書と呼ばれる聖句であったのである。舟は1年ほどかけ、ボストンに入港。
 そこで船主のハーディがこのジャパニーズ・ボーイを名をジョセフとし、引き受け、援助してくれた。アメリカは南北戦争の終わった直後であった。ジョセフは中学で基礎的学科を学び、一方、信仰経験をする。聖書を真(しん)摯(し)に学び、自分を神に献げていきたいと思うようになった。そうして1年がたった時に会衆派の教会で洗礼を受け、キリスト者となった。その後、大学に行かせてもらえ、ジョセフは熱心に学業と信仰に励んだ。さらに日本へのキリスト教伝道の準備のため、神学校に行くのである。その頃、日本では大政奉還がなされ歴史が大きく動いていた。彼は新政府は積極的に留学生を援助することとなり、駐米公使・森有(あり)礼(のり)がジョセフを政府公認の留学生に申請し、許可された。
 その間に岩倉使節団の通訳を頼まれ、また、「日本における普通教育」の草案を依頼される。その随行者に知的教育だけでなく、徳育教育も必要、切(きり)支(し)丹(たん)邪(じや)宗(しゆう)門(もん)禁(きん)制(せい)の撤廃を3時時間にわたって訴えた。それが利いたかどうかわからないが、明治6年、撤廃された。ヨーロッパ視察を終えた頃には、彼は32才になっていた。ジョセフはアメリカン・ボード(海外伝道協力)から日本伝道準宣教師に任命される。行く前に教会で初めて説教したのが、感銘を受け続けていたヨハネ伝3章16節からだった。そして、正式な聖職者となる「按手礼」をうけ、海外派遣の宣教師の送別会で、ジョセフは演説をすることになった。日本にキリスト教主義の学校を建設する計画を涙を流して切々と訴えた。15分足らずだったが、終わるなり、大口の寄付、小口の寄付をあわせると5000ドルの申し出があったのである。
 こうして、ジョセフは宣教師として帰国し、まず、家族伝道、それから、伝道活動を進めていく。ジョセフを略したジョーに「襄(じよう)」と漢字を当てはめることにした。大変な反対の中にも、願いがかない京都でキリスト教主義の「同志社英学校」を設立することが出来た(後に同志社大学がこれを受け継ぐ)。明治8年、新島襄33才であった。山本八重と結婚したのは翌年。こうして、「平和の使徒」呼ばれる働きをしていくわけですが、この後のことはいずれお話ししたいと思います。ただ、一つだけエピソードを加えておきましょう。新島襄が伝道旅行に出ている留守の時に同志社で事件があった。上級組と下級組との合併問題で、上級組がそれを不服として抗議し、全員無断欠席を続けた。それを知った襄は京都に戻り、対処方法を考え続けた。これを不問にふしたら、学校の権威は地に落ちるし、処罰すれば、上級組は全員退学してしまう。また、政府の集会条例によって弾圧しかねない、こまった、どうすれば。翌朝、上級組も出席してくれたので、賛美歌を歌い、祈りがすんでから、教壇にたった。「このことは学校側が誠意をもって知らせていたら、無断欠席の違反行為はなかっただろう。私の不徳のいたすところ、諸君を罰しないし、教員も責めない。校長である私がその罪人を罰します。」と言って、手にしたステッキを振り上げ、左の手のひらを打ち続け、ステッキが三つに折れた。それでも打ち続けるので、生徒のひとりがかけより抱き留めたのである。ようやく襄は静まり、言った。「諸君、校則の重んずべきがわかりましたか。責任を負うべき校長は罰しました」。こうして、生徒の抵抗は終わった。これが「自責の杖」事件です。
 これがキリスト教精神なのだろう。私たちが神の律法を犯した罪をイエス・キリストが身代わりにむち打たれ、十字架にかかり、私たちを赦す道を開いてくださったのです。襄はそれを密航船のなかで出会ったヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」で知ったのです。黒船を見て感動して、アメリカに渡ったのですが、聖書を見て、感銘を受け、信仰の世界に踏みいったのです。彼が何かを捜していたようですが、実は色々な人を動かし、時代を動かし、イエス・キリストの神が襄を捜していたのです。襄が神のもとに帰った点を帰点としましょう。それは永遠の命を与えるために御子が犠牲になられたという神の愛でした。それをアメリカで学び、それを起点として、日本で伝道奉仕をしたのです。その象徴的な事件が自責の杖事件だったのです。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(1ペテロ2:25)。

おすすめの献身

2013-02-17 00:00:00 | 礼拝説教
2013年2月17日 主日礼拝(ローマ12:1-2)岡田邦夫


「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ12:1

 キリスト教会は産業分類の中で、何に入っているでしょうか。総務省の統計局からの調査が教会に来ますと考えてしまいますが、産業とい面でいうと他の宗教と共に「サービス業」に入っています(日本標準産業分類)。ある人がアメリカでホテルに泊まり、翌朝の日曜日にボーイさんから、サービスはどこに行くかと聞かれて、何のことかと戸惑ってしまいました。よく聞くとサービスとは礼拝のことで、どこの教会に礼拝(サービス)に行くのかと問われたのだとわかりました。このローマ人への手紙12章1節の「霊的な礼拝」というのが、ある英語の聖書ですと“リーズブル・サービス”(理にかなった礼拝=奉仕)と訳されています。ほんとうの礼拝というのは神への奉仕だということです。

◇そういうわけで
 聖書全巻を貫いているテーマは救いです。さらに言うとイエス・キリストによる救いです。その救いについて、筋道をたてて記しているのがローマ人への手紙です。人間は救われなければならない状態におかれている。選びの民ユダヤ人も異邦人も、罪の下におかれ、神に裁かれ、滅び行く状況にある。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ないのです(3:23)。しかし、イエス・キリストが十字架にかかり、贖いの血を流され、救いの道が開かれました。「神の恵みにより、イエス・キリストによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです」(3:24)。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(4:25)。そして、「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」のです(3:28)。
  義と認められたと言うことは、神の愛が注がれ、神の怒りから救われ、バプテスマの原理により、死から命に移され、聖霊の原理により、滅びの子から解放され、御国の相続人・神の子にされたということなのです(5-8章)。
 その救いが及ぶのは、選びの民ユダヤ人が先で、それから、選びに遠い異邦人に及ぶというものでした。しかし、選びの民がかたくなために、それが逆転して、異邦人が先になり、救いが世界に及ぶことになったのです。しかし、神の選びは変えられることはなく、最後、イスラエルに救いが及ぶというのです。驚くべき遠大な神のご計画です(9-11章)。
 1章~11章で面々と私たちが神の恵みによって、計り知れない救いに与ったことが述べられました。そして、12章1節「そういうわけですから」と続くのです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」。
 私の父、銀治郎は明治の生まれ、小さい時に両親に死に別れ、親戚の養子になるのですが、それもなかなか難しいものがありました。手に職を持てばと、板前になったのですが、賭博に手を出すような生活、岡田というひとりの客が彼を気に入って、自分の養子にし、結婚もさせ、店まで出してくれました。ある日、彼は意を決して、店をたたみ、その母親代わりになってくれた人が始めた工場で、手を真っ黒にして、まじめに働くようになりました。75才でなくなるまで、その受けた恩を忘れなかったのです。
 私たちは滅び行く罪の子でしたのに、注ぎ出されたイエス・キリストの命の代価で贖われ、永遠の命をもつ神の子にしていただいたのですから、そういうわけですから、そうしていただいた救いの神を敬い、愛の神に仕えていくのは自然な流れです。

◇それこそ
 神が私のために御子を献げてくださったのですから、こちらも身を献げて生きる、献身は自然な流れでしょうが、「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」と迫るのです。懇願するというような勧めの言葉です。良いことだから、祝福だから勧めるのです。以前、資産運用について怪しい電話がけっこうかかってきましたが、この頃はかかってきません。資産がないのが解ったのでしょうか。しかし、私たちには神に造られたものとしての資本、主に贖われたものとしての資本があるのです。それを活用しなければ、実に勿体ない話です。
 タラントのたとえ話があります。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」で始まります(マタイ25:14ー)。五タラント預かったしもべも、二タラント預かったしもべも、もうけて二倍にしました。しかし、一タラント預かったしもべは何もしなかったので、帰ってきた主人におしかりを受けます。しかし、五タラントの人も、タラントの人も主人にほめられます。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と。自分に与えられたタラントというのはここでは「からだ」=自分自身のすべてなのです。それを神に献げて、忠実に仕え、生かすなら、イエス・キリストという主人が喜び、主人の喜びをともに喜んでくれというのです。神と共に喜べる、最高の祝福があるのです。「神に受け入れられる」は「神に喜ばれる」とも訳されています。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。

◇いや、むしろ
 「それこそ」が理にかなった礼拝=奉仕なのです。霊的な礼拝なのです。それこそ、愛する神の喜ばれることなのであり、その私たちは主イエス・キリストとともに喜べる献身なのです。ですから、この世と調子を合わせてはいけないのです。「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変え」ることがいちばん大事なのです。具体的に、実際に、この後の12:3から、倫理について教えています。教会の中での有り様、社会における有り様、弱い者に対する有り様、宣教についての有り様へと、キリスト者の倫理が述べられていきます。この献身という礼拝は、「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」とパウロが言っているのですが、実はあわれみ深い父(1コリント1:3)のお勧めのみ言葉なのです。




最上のわざ
上智大学学長も務めたヘルマン・ホイヴェルス神父(1890-1977)が、
ドイツに帰国後、南ドイツの友人から贈られた詩。

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。

新しい歌をもって礼拝

2013-02-10 00:00:00 | 礼拝説教
2013年2月10日 主日礼拝(詩篇33:1-5、黙示録5:9)岡田邦夫

 「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」。詩篇33:1

 以前、新聞のコラムにある画家の話が載っていました(その切り抜きが見あたらないので名前など忘れましたが、だいたいの話はこうです)。富士山の絵を描いて出品して、今度こそと思うのですが、いっこうに入選しません。もう、これを最後に絵筆をおこうとあきらめて、富士を見に行きました。ところがその時はあまりにも富士が美しく、涙がこみ上げてきて止まりません。もう思い起こすことはないと思って、キャンバスに向かい、ひたすら描きました。入選するか、しないか、もう思わないで出品しました。ところが、その日展で金賞をいただいたのです。
 星野富弘さんの「すかしゆり」の絵にそえられた言葉もそれに通じるものがあります。「ブラインドのすき間からさし込む/朝の光の中で/二つめのつぼみが六つに割れた/静かに反り返ってゆく花びらの/神秘な光景を見ていたら/この花を描いてやろう/などと/高慢に感じた/『花に描かせてもらおう』と思った」。
 詩人はさあ歌いましょうと言います。「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。……立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ」。歌というのは聖歌。聖歌を歌ってやろうではなく、歌わせてもらおではないかというような響きで、私たちの心をきよらかに奮い立たされます。

◇まことに、主のことばは正しく
 私たちは価値あるものを求めます。まこと、よいこと、うつくしいこと、「真善美」を求めます。しかし、創造者なる神にすべてがあります。私たちが求むべきは主なる神なのです。「まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている」。天も海もよくよく眺めれば、偶然そこにあるのではなく、創造者の意志によって存在しているのです。その信仰を告白します。「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ」。
 人の世界、人の歴史を見ると、神という存在はないのではないか、あるいは、人間が勝手に作った宗教だけがあるのではないかと疑ってしまいます。しかしです。見えないけれども、世界に働き、歴史に働く神はおられるのです。みことばがそれを明らかにしています。神に選ばれた民はその啓示を知ることができる幸いがあるのです。「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。 主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は」。

◇主は天から目を注ぎ
 私たちの幸いは太陽の恵み、雨の恵みが注がれ、地の恵み、人の恵みが注がれているということ以上に、神の目が私たちに注がれているということです。全能の神は全知の神なのです。全知の神に知られていることは何よりも幸いなことです。「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない」。
 私たちはほんとうに困ったときに助けてほしいものです。何と言っても必要なのは魂の救済です。イエスのたとえ話にでてくる金持ちの農夫は自分のたましいにこう言おうとします。「たましいよ。これから何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。しかし、神が言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)。これはたとえですけれど、真に迫ってきます。しかし、イエス・キリストの十字架と復活の福音が私たちのたましいを死から救うのです。
 ダビデ王の格を下げてしまうのではないかというような表題の詩篇があります。「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」(51篇共同訳)。ダビデが部下の妻を姦淫しました。その罪を預言者に指摘され、彼がその罪を告白した詩です。彼は32篇(32:1、3-5)でも告白しています。彼のたましいは罪責感で押しつぶされ、かわききり、疲れ果てました。「私のそむきの罪を主に告白しよう」と隠さず言いますと、主はその罪と過ちを赦してくださいました。そこで、信仰告白をします。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」。51篇ですと「神へのいけにえは、砕かれたたましい(霊)。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」です。まさに、たましいが死から救われたのです。「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために」。
 このように、神はかけがえのないたましいを助けてくださる救い主イエス・キリストなのですから、その主を喜ぶのは当然のことです。「私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。私たちがあなたを待ち望んだときに」。

◇賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい
 「まことに私たちの心は主を喜ぶ。」(33:20)から、歌い出しに戻ってみましょう。「正しい者たち。主にあって、喜び歌え」(33:1)。正しい者というのは罪を告白し、主の贖いによって罪赦され、正しい者とされた者のことです。また、「心の直ぐな人たち」です。「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」と言っています。「ふさわしい」は他では「美しい」と訳されています。恋愛歌を通して神とイスラエルの愛の関係を歌った「雅歌」にでてきます。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ」(雅歌1:10、他に1:5、2:14、4:3愛らしい、6:4、別の原語で美しいと訳された語は10ヶ所)。心の直ぐな人たち、信仰者たちが神賛美をする姿はみ前に美しいのです。恋人が愛らしいと思うがごとくに、主は聖歌を歌う者たちを愛らしいと思っていてくださるのです。歌が上手いとか、上手くないとか、声がきれいだとか、そうではないとかではなく、主に向かって、喜び歌うたましいを美しい、麗しいと思ってくださるのです。私たち、そう思うと嬉しくなってきます。
 そのように、信仰者にふさわしいのは賛美です。聖歌を歌うことです。それにあわせて楽器を奏でることです。ふさわしいことが美しいことなのです。「黄金比」というのがあります。古代ギリシア以来、建築や美術で、もっとも美しいなと感じられてきた比率のことです。例えば、名刺の縦と横の長さの比が黄金比になっています。自然界にある調和の比率だから、安定していて美しいと感じられるのでしょう。神の子らの賛美する姿の美しさは調和の美しさです。黄金比の安定した、バランスのとれた美しさです。何も格好つけて歌う必要はないのです。心を直ぐにして歌えばいいのです。栄華を窮めたソロモン王がどんなに着飾っても、神が装ってくださる野のゆりには、かなわないのです。あなたは着飾る必要はないのです。聖霊が心を直ぐにしてくださり、父なる神に向かって、最も美しく響かせてくださるのです。賛美させていただく幸いがそこにあります。そうして、たましいを新たにし、新しい歌を主に向かって歌っていきましょう。やがて、新天地で新しい歌を「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです」と歌う時まで(黙示録5:9-10)。
 「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」(33:1)。

安息、安息日、安息日礼拝

2013-02-03 00:00:00 | 礼拝説教
2013年2月3日 主日礼拝(ヘブル4:1-13)岡田邦夫


 「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」ヘブル4:1

 ちょっとした話をしたかったので、家の奧さんに「つまらない話だけど聞く?」と投げかけたところ、それを聞いただけで、彼女は笑い出してそれが止まらなくなってしまいました。「つまんない話なんかしなければいいのに、どうして聞くって聞くの?」というわけです。その話というのは、地球上で、「重力平衡形状によりエベレストより高い建物は建てられない」というヤフーで得た話。それがどうしたという話。しかし、人というのは知ったこと、知ってることを話したがるものです。

◇永遠の安息
 まして、何かを悟った人はそれを何とかして多くの人に話したいものです。パウロがそうです。「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい」と言います(口語訳「この奥義を知らないでいてもらいたくない」)。「この奥義とは…」イスラエル人が福音を拒んだため、異邦人が先に救われることになった。そこで、やがて、異邦人の救われるその数が満ちた時に、神に愛されたイスラエルの民が救われ、ついに人類の救いの歴史は完成するという、そういう奥義です。このローマ人への手紙の中で、パウロが一番言いたかったことなのでしょう(ローマ11:25-)。
 これと似た内容がこのヘブル人への手紙に出てきます。かつてモーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの人々が不信仰で、罪を犯したため、神の怒りを受けて、四十年間の荒野での生活で死んでしまい、安息の地に入れなかったのだと言います(ヘブル3:16-19、詩篇95:7-11引用)。安息の地に入ることが救いなのです。話は展開します。「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っている。…信じた私たちは安息にはいるのです」。「こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、…『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。…したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」(4:1-10抜き書き)。そのように、神はキリストを信じる人々に、永遠に神と共に住む天で「安息」を与えてくださるのです。

◇魂の安息
 安息日を覚えてこれを聖とせよというのは神を礼拝する日として聖別しなさいということですが、「安息する」ことも命じられているのです。ヘブル人への手紙のように天の安息が約束されているのですが、地上において魂の安息も今、この時、与えられるのです。主の懐に飛び込むのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:28ー11:29 。
 私は柴又教会の特別伝道会でイエス・キリストの懐に飛び込む決心をして、その三日後の日曜の夜の伝道会で、前に立たされて、救いの証詞をし、聞いたばかりの聖歌を友人と一緒に歌いました。音程ははずれていましたが、自分の魂の状況にはぴったりでした(新聖歌185)。その時、いい知れない神の安息が内にありました。
 ①来たれ誰も重き荷物  有らば有るまま
  来たりイエスの手に委(ゆだ)ねて  安きを得よ
 (折り返し) 主(しゆ)イエスは安きを  与え給(たま)わん
        来たりイエスの手に委ねよ  汝(な)が重荷を
 ②来たれ汝(なれ)が胸曇らす  熱き涙の
   源(もと)をイエスに述べ尽くして  安きを得よ
 ③来たれイエスの深き愛に  汝(な)が内にある
   痛手病い  皆委(ゆだ)ねて  安きを得よ
 ④来たれ何も持たでイエスに  主の死によりて
   代価全て払われたり  既に既に

◇七日目の安息
 「安息」というものがどれほど重要かが4章10節の聖句に見られます。「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです」。神は六日(六期間)で天地を造られ、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と記されています(ヘブル4:4←創世記2:2)。真の安息とは神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休むことなのです。ですから、その安息はすべての働きを終えたところにある天国の安息、永遠の安息なのです。それは主を信じる者に約束され、用意されていて、その先取りの経験として、聖霊により、信仰により、今という時に、魂の安息が与えられるのです。
 また、「神はすべての創造のみわざを終えて七日目に休まれた。」なのですが、それを「神は救いのみわざを終えて、完成するときに休まれる」というみこころは進展したのです。私たちは新天新地の安息に向かうという、終末意識で生きるのです。その大きな歴史の縮小版として、六日働き、七日目に安息するというのを繰り返すのです。安息というのは完全に休むことなのです。安息は「安らかな息」と書きます。肺活量を測定するときはまず、息を充分吐き出してから、息を吸って測定します。深呼吸も息を吐いてから、空気を吸い込みます。芸能人の対談などテレビで見ていますと、極度に緊張した仕事が終わった後、飲酒とか、趣味とか、運動とか、とことんやって、発散をして、からになってから、次の仕事に向かうというのが、結構多いようです。健康的で、経済的な仕方でされるのが良いと思いますが、生理的にそうせざるを得ないのでしょう。人は吐き出して、ニュートラルにして、それから、ギアを入れて、前に進んでいくものなのでしょう。

 安息日には、六日間たまったものを神の前に吐き出します。嘆きを吐き出します。罪の告白をします。感謝も賛美も祈願もします。懺悔と罪の赦しというのを礼拝のプログラムの中に入れている教会もありますが、あえてそれがなかったとしても、私たちは礼拝の中で、吐き出すようにしていくのです。「主よ、哀れんでください」と祈る状態のニュートラルにまでしていただくのです。そして、必要な霊の恵みの空気を充分吸い込むのです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりに浸るのです。いつまでも存続する信仰と愛と希望をいただいて、再出発するのです。
 レストラン(restaurant)はフランス語からきたもので、「疲労を回復させる場所」の意味のラテン語が語源です。キリストの教会でなされる日曜の安息日礼拝で、人生の旅の汚れを吐き出し、天来の恵みのごちそうに与り、そこが霊的に疲労を回復させる場所となるのなら、実に幸いです。「安息」の話、つまらない話だったでしょうか。聞き逃してはならない、きわめて重要な話だったと思います。
 「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか」。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル4:1、7)