2017年7月30日 主日礼拝(詩篇32:1~11)岡田邦夫
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32:1-2)
私たちは青い空のもとに生きています。普段、無意識に過ごしていますが、この地球が大気に包まれているから、生きていけるわけです。外側のオゾン層に覆われているからこそ、強烈な紫外線から守られているわけですね。教会の辺りの田んぼには毎日、白鷺がやってきます。目の前で飛び立つと、その翼の大きさに驚きます。きっと、ひなを守る時にその翼で覆うのだろうと想像します。こういう賛美歌がありますね。
「御翼われを覆えば 嵐猛る闇夜も イエスに頼り安きあり われは神の子なれば」(新聖歌256=勝利の歌25)。
◇爽快感…
詩篇32篇1節を見てみましょう。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」。この「おおう」という言葉、それと同じような言葉が32篇全体にわたって使われています。一つの言葉を強調する時に、類語を繰り返し、重ねていくというスタイルです。例えば、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして…」など。
文章についても平行法という繰り返しの流れがあります。私はこの詩篇をこうくみ取りました。これは厳密なものではないので、参考までに…。賛美歌でいうなら、前半が1番、6節が折り返し点、2番は後半、賛美歌と違い、前半の逆に対応して、戻っていく。そういう流れの中で、浮き出てくるの言葉が「おおう」ではないかと思います。
これはダビデの詩篇。読者はすぐ、あの事件を指していると思うでしょう。ダビデ王はなかなかのつわもの。外敵に勝利続け、もう、自分で戦場に出かけなくても、家来に任せておけば良いほど、余裕ができ、城内にいた。屋上から見ていると、女性が水浴びをしている。誘惑にかられます。その女性はバテシェバ、忠実な家来ウリヤの妻だ、関係を結び、妊娠してしまう。これを隠そうと戦場から、ウリヤを呼び寄せ、妻のもとに帰らせようとする。しかし、ウリヤが拒んだため、戦場の最前線に送る。当然、ウリヤは戦死。王の隠ぺい工作は成功した。…かに見えたが、神が預言者ナタンを王のもとに派遣する。ダビデの罪をためらわず指摘する。ある裁きも宣告する。
その時、「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし…』」(2サムエル12:13)。
赦されるはずのないものが赦された。それを思いうかべて、本当に幸いなのはこれだと歌うのです。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」。隠しようがなかった罪、そむき、それが神によっておおわれたのです。それを告白するまでは神の「御手が重くのしかかり」覆っていたので、一日中うめき、骨の髄まで疲れ果てて、魂は乾ききっていたのです。
神のことばが臨み、罪の告白を真実にした時、要するに吐き出した時、大変な壮快感を得たのではないかと思います。体でも必要のないものがあると気分が悪く、それを吐き出すと爽快になるというメカニズムがあります。まして、魂に、あってはならない神への背きや罪があれば、御手が重くのしかかります。それは吐き出すため。吐き出して、イエス・キリストの贖いによって、赦され、きよめられると、魂の爽快感を神がくださるのです。そして、救いの歓声に取り囲まれ、主に信頼する者は恵みに取り囲まれるのです(32:7,10,11)。
先週の日曜日の午後のことでした。豊中のSさんという男性が病床洗礼を受けました。私たち、豊中で牧会していた時、彼の奥様が熱心なクリスチャンで、家庭集会を開き、多くの人が集まり、救われる人も起こされていきました。しかし、ご主人のSさんはなかなか信仰をもつような感じではありませんでした。私たちが三田に派遣されてからも夫婦で交わりがありました。二人で花見に来られ、千丈寺湖の桜を見ながら、奥様は妻に個人的な悩みを話し、ご主人様は仕事の悩み(自分はデンマーク語の教授だが、大学が吸収合併されてしまうとか)を話され、話したことで気分も良くなり、帰っていきました。しかし、帰る間際に、家内がなぜか、死ぬ前に洗礼を受けなさいよとご主人に言ったのです。反発するでもなく、言葉を濁されていました。
この度、脳梗塞で倒れ、入院されました。彼は思うところがあって、終活をされ、日基教団の牧師の導きで、回心をされていました。なかなか、このような男性、「ごめんなさい、ありがとう」は口が裂けても言えないものです。しかし、聖霊の導きで神と家族に言えたのです。受洗の時、家内を含め4人の牧師、3人の教会役員が立ち会ったのでした。病状は良くないのに、大喜びでした。
◇安心感…
私が折り返しと言いました6節を見てきたいと思います。「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません」。この句には終末の色合いが私には感じられるのです。大水の濁流が最後の裁きに思えるのです。この詩文には主語が「私」が多いのですが、ここでは「聖徒」にまで広げています(共同訳では「あなたの慈しみに生きる人」)。
私、岡田の経験を話します。心さされるようなことが、小学生の時にありました。東京の日暮里というところに住んでいました。山手線や京浜東北線やら何本もの電車が通っている下に人が通れるだけのトンネルがあって、そこをくぐって、向こう側の山の手にある学校に通っていました。ある日、友達と帰宅途中、そのトンネルに捨てられたであろう子犬がいて、ついてくるのです。二人とも家で犬は飼えないよと言われているので、犬にはついてきてほしくない。しかし、あわれな声でクンクン言いながら、ついてくる。トンネルを抜けたところに踏切があって、貨物列車が時々通る。二人が走り抜けたら、蒸気機関車がきたのです。二人は振り返り、子犬に向かって叫びました。「来るな、来るな」。機関車の轟音にかき消されてしまいます。ついに子犬は一歩踏み出してしまい、大きな車輪の餌食になってしまいました。
家に帰って、夕飯は食べられず、家族にどうしたのだと言われても答えようがなく、その夜は泣きました。子供ながらに死の恐怖と罪責感を抱いたのでした。
そういうこともすっかり忘れ、思春期、何の影響でしょう。一つの思いがありました。世の中の濁流に呑まれていきたくはない。そのくせ、悪さもしていたのです。そのような時に、興味本位で友達と教会に行きました。メッセージはよく解りませんでした。しかし、そういうメッセージを聞いた覚えはないのですが、もし、最後の日が来た時に、自分は神の前に立てるのだろうかという不安が起こりました。もしかしたら、子供の時のあの体験が心の深いところにあったのかもしれません。大車輪に呑まれた子犬のように、大洪水のような最後の裁きの激流に自分が呑み込まれるのではと、感じたのかもしれません。
世の中を濁流と思っていたけれど、「人をさばくな。自分の目から梁をのけよ」と示され、伝道集会の後、自分こそ罪びとだと悔い改めました。イエス・キリストを信じて救われました。実に爽快でした。その後、「キリストイエスにある者は罪に定められない」のみ言葉が心に入り、安心しました。最後の審判があっても、神の前に立てる。聖霊によって確信できたのです。この安心感は並々ならぬものがありました。まさに、「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」です。
最初の聖歌に戻ってみます。「御翼われを覆えば 嵐猛る闇夜も イエスに頼り安きあり われは神の子なれば わが主の愛より 離すものなし御翼に守られ 永遠(とわ)に安けし」
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32:1-2)
私たちは青い空のもとに生きています。普段、無意識に過ごしていますが、この地球が大気に包まれているから、生きていけるわけです。外側のオゾン層に覆われているからこそ、強烈な紫外線から守られているわけですね。教会の辺りの田んぼには毎日、白鷺がやってきます。目の前で飛び立つと、その翼の大きさに驚きます。きっと、ひなを守る時にその翼で覆うのだろうと想像します。こういう賛美歌がありますね。
「御翼われを覆えば 嵐猛る闇夜も イエスに頼り安きあり われは神の子なれば」(新聖歌256=勝利の歌25)。
◇爽快感…
詩篇32篇1節を見てみましょう。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」。この「おおう」という言葉、それと同じような言葉が32篇全体にわたって使われています。一つの言葉を強調する時に、類語を繰り返し、重ねていくというスタイルです。例えば、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして…」など。
文章についても平行法という繰り返しの流れがあります。私はこの詩篇をこうくみ取りました。これは厳密なものではないので、参考までに…。賛美歌でいうなら、前半が1番、6節が折り返し点、2番は後半、賛美歌と違い、前半の逆に対応して、戻っていく。そういう流れの中で、浮き出てくるの言葉が「おおう」ではないかと思います。
これはダビデの詩篇。読者はすぐ、あの事件を指していると思うでしょう。ダビデ王はなかなかのつわもの。外敵に勝利続け、もう、自分で戦場に出かけなくても、家来に任せておけば良いほど、余裕ができ、城内にいた。屋上から見ていると、女性が水浴びをしている。誘惑にかられます。その女性はバテシェバ、忠実な家来ウリヤの妻だ、関係を結び、妊娠してしまう。これを隠そうと戦場から、ウリヤを呼び寄せ、妻のもとに帰らせようとする。しかし、ウリヤが拒んだため、戦場の最前線に送る。当然、ウリヤは戦死。王の隠ぺい工作は成功した。…かに見えたが、神が預言者ナタンを王のもとに派遣する。ダビデの罪をためらわず指摘する。ある裁きも宣告する。
その時、「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし…』」(2サムエル12:13)。
赦されるはずのないものが赦された。それを思いうかべて、本当に幸いなのはこれだと歌うのです。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」。隠しようがなかった罪、そむき、それが神によっておおわれたのです。それを告白するまでは神の「御手が重くのしかかり」覆っていたので、一日中うめき、骨の髄まで疲れ果てて、魂は乾ききっていたのです。
神のことばが臨み、罪の告白を真実にした時、要するに吐き出した時、大変な壮快感を得たのではないかと思います。体でも必要のないものがあると気分が悪く、それを吐き出すと爽快になるというメカニズムがあります。まして、魂に、あってはならない神への背きや罪があれば、御手が重くのしかかります。それは吐き出すため。吐き出して、イエス・キリストの贖いによって、赦され、きよめられると、魂の爽快感を神がくださるのです。そして、救いの歓声に取り囲まれ、主に信頼する者は恵みに取り囲まれるのです(32:7,10,11)。
先週の日曜日の午後のことでした。豊中のSさんという男性が病床洗礼を受けました。私たち、豊中で牧会していた時、彼の奥様が熱心なクリスチャンで、家庭集会を開き、多くの人が集まり、救われる人も起こされていきました。しかし、ご主人のSさんはなかなか信仰をもつような感じではありませんでした。私たちが三田に派遣されてからも夫婦で交わりがありました。二人で花見に来られ、千丈寺湖の桜を見ながら、奥様は妻に個人的な悩みを話し、ご主人様は仕事の悩み(自分はデンマーク語の教授だが、大学が吸収合併されてしまうとか)を話され、話したことで気分も良くなり、帰っていきました。しかし、帰る間際に、家内がなぜか、死ぬ前に洗礼を受けなさいよとご主人に言ったのです。反発するでもなく、言葉を濁されていました。
この度、脳梗塞で倒れ、入院されました。彼は思うところがあって、終活をされ、日基教団の牧師の導きで、回心をされていました。なかなか、このような男性、「ごめんなさい、ありがとう」は口が裂けても言えないものです。しかし、聖霊の導きで神と家族に言えたのです。受洗の時、家内を含め4人の牧師、3人の教会役員が立ち会ったのでした。病状は良くないのに、大喜びでした。
◇安心感…
私が折り返しと言いました6節を見てきたいと思います。「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません」。この句には終末の色合いが私には感じられるのです。大水の濁流が最後の裁きに思えるのです。この詩文には主語が「私」が多いのですが、ここでは「聖徒」にまで広げています(共同訳では「あなたの慈しみに生きる人」)。
私、岡田の経験を話します。心さされるようなことが、小学生の時にありました。東京の日暮里というところに住んでいました。山手線や京浜東北線やら何本もの電車が通っている下に人が通れるだけのトンネルがあって、そこをくぐって、向こう側の山の手にある学校に通っていました。ある日、友達と帰宅途中、そのトンネルに捨てられたであろう子犬がいて、ついてくるのです。二人とも家で犬は飼えないよと言われているので、犬にはついてきてほしくない。しかし、あわれな声でクンクン言いながら、ついてくる。トンネルを抜けたところに踏切があって、貨物列車が時々通る。二人が走り抜けたら、蒸気機関車がきたのです。二人は振り返り、子犬に向かって叫びました。「来るな、来るな」。機関車の轟音にかき消されてしまいます。ついに子犬は一歩踏み出してしまい、大きな車輪の餌食になってしまいました。
家に帰って、夕飯は食べられず、家族にどうしたのだと言われても答えようがなく、その夜は泣きました。子供ながらに死の恐怖と罪責感を抱いたのでした。
そういうこともすっかり忘れ、思春期、何の影響でしょう。一つの思いがありました。世の中の濁流に呑まれていきたくはない。そのくせ、悪さもしていたのです。そのような時に、興味本位で友達と教会に行きました。メッセージはよく解りませんでした。しかし、そういうメッセージを聞いた覚えはないのですが、もし、最後の日が来た時に、自分は神の前に立てるのだろうかという不安が起こりました。もしかしたら、子供の時のあの体験が心の深いところにあったのかもしれません。大車輪に呑まれた子犬のように、大洪水のような最後の裁きの激流に自分が呑み込まれるのではと、感じたのかもしれません。
世の中を濁流と思っていたけれど、「人をさばくな。自分の目から梁をのけよ」と示され、伝道集会の後、自分こそ罪びとだと悔い改めました。イエス・キリストを信じて救われました。実に爽快でした。その後、「キリストイエスにある者は罪に定められない」のみ言葉が心に入り、安心しました。最後の審判があっても、神の前に立てる。聖霊によって確信できたのです。この安心感は並々ならぬものがありました。まさに、「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」です。
最初の聖歌に戻ってみます。「御翼われを覆えば 嵐猛る闇夜も イエスに頼り安きあり われは神の子なれば わが主の愛より 離すものなし御翼に守られ 永遠(とわ)に安けし」