オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

いかに幸いなことか

2017-07-30 00:00:00 | 礼拝説教
2017年7月30日 主日礼拝(詩篇32:1~11)岡田邦夫


 「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32:1-2)

 私たちは青い空のもとに生きています。普段、無意識に過ごしていますが、この地球が大気に包まれているから、生きていけるわけです。外側のオゾン層に覆われているからこそ、強烈な紫外線から守られているわけですね。教会の辺りの田んぼには毎日、白鷺がやってきます。目の前で飛び立つと、その翼の大きさに驚きます。きっと、ひなを守る時にその翼で覆うのだろうと想像します。こういう賛美歌がありますね。
 「御翼われを覆えば 嵐猛る闇夜も イエスに頼り安きあり われは神の子なれば」(新聖歌256=勝利の歌25)。

◇爽快感…
 詩篇32篇1節を見てみましょう。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」。この「おおう」という言葉、それと同じような言葉が32篇全体にわたって使われています。一つの言葉を強調する時に、類語を繰り返し、重ねていくというスタイルです。例えば、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして…」など。
 文章についても平行法という繰り返しの流れがあります。私はこの詩篇をこうくみ取りました。これは厳密なものではないので、参考までに…。賛美歌でいうなら、前半が1番、6節が折り返し点、2番は後半、賛美歌と違い、前半の逆に対応して、戻っていく。そういう流れの中で、浮き出てくるの言葉が「おおう」ではないかと思います。
 これはダビデの詩篇。読者はすぐ、あの事件を指していると思うでしょう。ダビデ王はなかなかのつわもの。外敵に勝利続け、もう、自分で戦場に出かけなくても、家来に任せておけば良いほど、余裕ができ、城内にいた。屋上から見ていると、女性が水浴びをしている。誘惑にかられます。その女性はバテシェバ、忠実な家来ウリヤの妻だ、関係を結び、妊娠してしまう。これを隠そうと戦場から、ウリヤを呼び寄せ、妻のもとに帰らせようとする。しかし、ウリヤが拒んだため、戦場の最前線に送る。当然、ウリヤは戦死。王の隠ぺい工作は成功した。…かに見えたが、神が預言者ナタンを王のもとに派遣する。ダビデの罪をためらわず指摘する。ある裁きも宣告する。
 その時、「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかし…』」(2サムエル12:13)。
 赦されるはずのないものが赦された。それを思いうかべて、本当に幸いなのはこれだと歌うのです。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」。隠しようがなかった罪、そむき、それが神によっておおわれたのです。それを告白するまでは神の「御手が重くのしかかり」覆っていたので、一日中うめき、骨の髄まで疲れ果てて、魂は乾ききっていたのです。
 神のことばが臨み、罪の告白を真実にした時、要するに吐き出した時、大変な壮快感を得たのではないかと思います。体でも必要のないものがあると気分が悪く、それを吐き出すと爽快になるというメカニズムがあります。まして、魂に、あってはならない神への背きや罪があれば、御手が重くのしかかります。それは吐き出すため。吐き出して、イエス・キリストの贖いによって、赦され、きよめられると、魂の爽快感を神がくださるのです。そして、救いの歓声に取り囲まれ、主に信頼する者は恵みに取り囲まれるのです(32:7,10,11)。
 先週の日曜日の午後のことでした。豊中のSさんという男性が病床洗礼を受けました。私たち、豊中で牧会していた時、彼の奥様が熱心なクリスチャンで、家庭集会を開き、多くの人が集まり、救われる人も起こされていきました。しかし、ご主人のSさんはなかなか信仰をもつような感じではありませんでした。私たちが三田に派遣されてからも夫婦で交わりがありました。二人で花見に来られ、千丈寺湖の桜を見ながら、奥様は妻に個人的な悩みを話し、ご主人様は仕事の悩み(自分はデンマーク語の教授だが、大学が吸収合併されてしまうとか)を話され、話したことで気分も良くなり、帰っていきました。しかし、帰る間際に、家内がなぜか、死ぬ前に洗礼を受けなさいよとご主人に言ったのです。反発するでもなく、言葉を濁されていました。
 この度、脳梗塞で倒れ、入院されました。彼は思うところがあって、終活をされ、日基教団の牧師の導きで、回心をされていました。なかなか、このような男性、「ごめんなさい、ありがとう」は口が裂けても言えないものです。しかし、聖霊の導きで神と家族に言えたのです。受洗の時、家内を含め4人の牧師、3人の教会役員が立ち会ったのでした。病状は良くないのに、大喜びでした。

◇安心感…
 私が折り返しと言いました6節を見てきたいと思います。「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません」。この句には終末の色合いが私には感じられるのです。大水の濁流が最後の裁きに思えるのです。この詩文には主語が「私」が多いのですが、ここでは「聖徒」にまで広げています(共同訳では「あなたの慈しみに生きる人」)。
 私、岡田の経験を話します。心さされるようなことが、小学生の時にありました。東京の日暮里というところに住んでいました。山手線や京浜東北線やら何本もの電車が通っている下に人が通れるだけのトンネルがあって、そこをくぐって、向こう側の山の手にある学校に通っていました。ある日、友達と帰宅途中、そのトンネルに捨てられたであろう子犬がいて、ついてくるのです。二人とも家で犬は飼えないよと言われているので、犬にはついてきてほしくない。しかし、あわれな声でクンクン言いながら、ついてくる。トンネルを抜けたところに踏切があって、貨物列車が時々通る。二人が走り抜けたら、蒸気機関車がきたのです。二人は振り返り、子犬に向かって叫びました。「来るな、来るな」。機関車の轟音にかき消されてしまいます。ついに子犬は一歩踏み出してしまい、大きな車輪の餌食になってしまいました。
 家に帰って、夕飯は食べられず、家族にどうしたのだと言われても答えようがなく、その夜は泣きました。子供ながらに死の恐怖と罪責感を抱いたのでした。
 そういうこともすっかり忘れ、思春期、何の影響でしょう。一つの思いがありました。世の中の濁流に呑まれていきたくはない。そのくせ、悪さもしていたのです。そのような時に、興味本位で友達と教会に行きました。メッセージはよく解りませんでした。しかし、そういうメッセージを聞いた覚えはないのですが、もし、最後の日が来た時に、自分は神の前に立てるのだろうかという不安が起こりました。もしかしたら、子供の時のあの体験が心の深いところにあったのかもしれません。大車輪に呑まれた子犬のように、大洪水のような最後の裁きの激流に自分が呑み込まれるのではと、感じたのかもしれません。
 世の中を濁流と思っていたけれど、「人をさばくな。自分の目から梁をのけよ」と示され、伝道集会の後、自分こそ罪びとだと悔い改めました。イエス・キリストを信じて救われました。実に爽快でした。その後、「キリストイエスにある者は罪に定められない」のみ言葉が心に入り、安心しました。最後の審判があっても、神の前に立てる。聖霊によって確信できたのです。この安心感は並々ならぬものがありました。まさに、「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」です。

最初の聖歌に戻ってみます。「御翼われを覆えば 嵐猛る闇夜も イエスに頼り安きあり われは神の子なれば わが主の愛より 離すものなし御翼に守られ 永遠(とわ)に安けし」


共感される主イエス

2017-07-23 00:00:00 | 礼拝説教
2017年7月23日 伝道礼拝(コリント人への手紙第二1:3~7)岡田邦夫

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。」(第2コリント1:3)

 息子が猫カフェに行ったというのです。くつろいできたとか…。以前、我が家で猫(名はロッシ)を飼っていたからです。息を引き取る時に添い寝をしてあげたほど可愛がっていました。亡くなった朝、友達のお隣の猫(トラちゃん)が家の中は見えないのに、なぜか中庭でこちらを向いてずーっと座っておりました。その猫カフェに来ていた人から聞いた話です。アニメ「火垂るの墓」はすごく感動して観たが、あまりにも可哀相なので、二度と観たくないとの話、同感して聞いていたとのことです。
※『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説。野坂自身の戦争原体験を題材した作品である。兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語。愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた二つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現している。そのアニメーション。

◇イエスの「かわいそうに」が人を救う…群衆を見て
「可愛い」というのと「可哀相」は何となくつながっているような気がします。辞書では…「可愛い」はいとおしさ、趣き深さなど、何らかの意味で「愛すべし」と感じられる場合に用いられる。また、「かわいそう」と関連するという考え方もある。現代語の「かわいい」に該当する古語の「かはゆし(かわゆし)」は、「いたわしい」など相手の不幸に同情する気持ちを指す。ついでに、「かわいそう」(可哀相は当て字)は弱い立場にある者に対して同情を寄せ,その不幸な状況から救ってやりたいと思うさま。同情をさそうさま。
 なぜ、このようなこと言いますかというと、イエス・キリストのところには大勢の病人がやってきて、癒されていきました。また、話を聞きたいと集まってきました。そういう人たちに対して、どんなお気持ちで接しておられたのだろうかと思うからです。その答えの一つが「かわいそう」です。
 マタイ福音書15:29からのところを見てみましょう。「それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると、大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。それで、群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て、驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた」。宗教家としてみたら、たいへんな盛況です。しかし、イエスは救い主、そのみ思いを告げるのです。
 「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。』」(マタイ15:32)。あるのは7つのパンと小魚が少し。イエスが感謝し、弟子たちが群衆に配ると、みな満腹し、パン切れの余りが、7つのかご、いっぱい。食べた人、男性だけで四千人、女性と子供を入れたら、もっとの数でした。神の国がいかに恵みに満ちたところであるかを証しする、たいへんな奇跡でした。
主イエスの動機は「かわいそうに」です。孫が保育園で何かの拍子にあおむけに倒れ、硬いところに後頭部を打ち、脳震とうを起こしました。病院で検査しても何も問題はありませんでした。その様子をみていたお母さんたちが「お気の毒ね」と話していたのを耳にした孫が母親に質問。「おきのどくって、どんな毒?」。シンデレラではあるまいし…。脳に異常はなかったから、笑える話ですがね。主イエスは単に気の毒だから、この事をされたのではなく、可哀相だからであり、その四千人以上の群衆とはいえ、ひとりひとりが可愛いと深く思われていたからです。単に世間をびっくりさせようとした奇跡ではなく、個々人をこよなく愛し、個々人を満服、満足させたかったからです。結果が四千人以上だったというわけです。そういう風に、あなたも私もかけがいのない可愛い存在なのに、罪と死と滅びに向かっているのです。「かわいそうに」と思われ、命をかけて、そこから、救い出しますと十字架にかけられ、救いの満足に至るようにと導かれたのです。

◇イエスの「かわいそうに」が人を救う…ご自分を見せて
さて、この「かわいそう」の言語“スプラグクニゾマイ”は他の個所では「深い同情をよせる」と訳されています。上から目線のような可哀相ではなく、同情があるのです。情が同じ、同じ苦しい体験や思いがあって、心が響くのです。共感です。共鳴です。
私、四国の教会におりました時に、明治生まれの女性の牧師が名誉牧師でした。いくつも教会を開拓され、たいへん元気な先生でした。もう少し若かった時、北条と松山の間にある急坂(三田でいうならつつじが丘に上っていく坂)を元気な若い牧師と自転車で競争しました。若い牧師もさずがに疲れて、足をついてしまいます。しかし、その老牧師、「サムソンの力、サムソンの力」と言いながら、一度も足をつかずに上り切ってしまったのです。その元気牧師、病める人がいるから祈ってくださいと求めてくると、その人のために徹夜してお祈りされました。聖書のみ言葉を約束としていただくと、それを頼りに一晩中声を出して、膝を叩いて祈るのです。翌朝になると、膝が痛いという程でした。それで奇跡的に癒されるがことが多くありました。
個性の強い先生でしたから、私にはたいへん苦手な方でした。しかし、なぜ、こんなに祈られるのだろうか、後になって思わされました。素朴に「かわいそう」と思われたからに違いないと…。ご自分も辛いところを通られたからです。結婚されて、相手の方が結核で亡くなり、自分も結核になり、治らないと宣告されていました。そのような様子を知ったある方が、家に来ないか、引き受けましょうというので、行きました。その方、クリスチャンでした。個人伝道をされまして、彼女は神に立ち返り、イエス・キリストを救い主と信じました。そうしたら、内側から、今まで味わったことのない喜びにあふれました。
そのあと導かれて、この病が癒されよう祈ると、奇跡が起こり、すっかり結核は治ってしまいました。その後、伝道者になられたのです。不治の病と宣告され、苦悩し、絶望し、孤独の中にいた自分が隣人に見いだされ、イエス・キリストに導かれて救われた。だからこそ「かわいそうに」思って、救いと癒しを祈られたのだ、素朴で確かなものがあったのだと思います。
それ以上に、イエス・キリストは私たちのあらゆる病(肉体的にも精神的にも霊的にも)をご自分の身に負われました。存在の底の底にある私たちの神への罪を身に負い、神にたたかれ、神に見捨てられました。私たちを可愛いと思われ絶望の淵まで行かれました。十字架です。それは私たちを深く知り、同情し、共鳴し、そこから、救い上げ、癒すためでした。ですから、復活されたのです。
冒頭の聖書:「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神」の慰めるは「傍らから呼ぶ」(パラカレオー)です。病める苦しい状況にある者の傍らに主イエスはおられるのです。魂の苦悩を真に100パーセント共感しておられるのです。傍らということは逆の共感もあるのです。慰めの神のみ思いに聖霊によって共感させられるのです。神様、感謝します。神様、あなたを愛しますという時に起こるのです。

羊飼いのたとえ

2017-07-16 00:00:00 | 礼拝説教
2017年7月16日 主日礼拝(詩篇23:1~6)岡田邦夫

 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:6)

 最近、西浅井町にある奥琵琶湖キャンプ場に舞鶴自動車道を通って、何回か行きました。山の中の高速道路なので、高架橋がいくつもあります。その高架橋から、下を見ると田畑の緑が広がり、山沿いには集落が点在し、軽トラが走っている。ここの人たちはどんな生活をしているのだろうかと思いをはせるのです。実にきれいな景色で、私のお気に入りの地点です。高速道路なので、止まれないから一瞬のことです。
 詩篇23篇をみますと、羊と羊飼い、緑の牧場、いこいの水のほとり…実にのどかで牧歌的な風景が私たちの目の裏に浮かんできます。詩篇の中でも、最も愛唱されている詩篇です。

◇いのちの日の限り…乏しくない
 聖書において、神と私たちの関係が羊飼いと羊にたとえられています。羊は攻撃する力はなく、逃げるのも遅い。群れから迷い出したら、帰って来ることが出来ない。人は弱く、迷いやすいことを示しています。羊飼いのような神を必要としています。これはダビデの詩篇、彼が王になる前は羊飼いをしていた経験から、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と信仰の歌を歌うのです。悪い羊飼いもいるわけですから、イエス・キリストは「わたしは良い羊飼い」と強調されました。
 人は元来、乏しいのです。それに気づく時期があります。人生の上り坂の上り口・青春のころ、これからどう生きたらいいのだろうかという求めが生じます。虚無感に襲われます。また、人生の下り坂の下り口・中年の終わるころ、これまでの人生、これでよかったのかという求めが生じます。ここでもまた、虚無感に襲われます。天気予報でおなじみのヘクトパスカルという気圧の単位、そのパスカルはクリスチャンになりました。有名な言葉があります。「人には神によってしか埋めることのできない空洞がある」。虚しさを気ばらす、良いものはあるけれど、しかし、どんなことをしても、この魂の空洞は埋められないのです。神にお入りいただくしか、埋めようがないのです。
 それは位置ではなく関係です。神との関係性です。主イエス・キリストは 私の良い牧者なので、私の魂は全く乏しいことがありません。その主は生けるみ言葉の豊かな緑の牧場に伏させ、魂を満たし、慰めの御霊のいこいの水のほとりに伴ってくださいます。主の復活の力により私のたましいを生き返らせてくれます。良い羊飼いの名にかけて、私を神の国と神の義に導いてくださいます。

 私のことですが、若い日に理系でしたが、他の世界も知りたいと、背伸びして、欧米の文学書を読み(眺めただけか)、美術館に行き、絵画教室に行き、山岳部に入り、スポーツをかじり、語学学校に行き、とにかく、色々やりました。また、恋に恋をしました。山登りはすぐ達成感がありますが、楽しければ楽しかった分、その夜、空しさが覆うのです。絵のデッサンからですが、その描いたものを見ると、無味乾燥で虚しさだけがただようのです。そういう時にキリスト教に出会ったのが幸いでした。イエス・キリストを受け入れた時、信頼した時、わが魂にイエス・キリストの福音が充満して、かつてない、喜びを体験しました。感情の高まりは消えていきましたが、イエス・キリストとの信頼関係はあたりまえのように続いており、感謝です。
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来る」からです。

◇いのちの日の限り…満たされる
 よく、洋画を見ると、埋葬シーンで、牧師か神父がこの詩篇23篇を読んでいるのをみます。『エレファント・マン』(母の胎にいる時に象にお腹を踏まれ、顔などが歪んでしまった)という映画で、エレファント・マンがこの23篇を暗誦するところを主人公が目撃し、精神遅滞ではなく正常な知能を持っていることを知るという行がありますのも有名です。
 ある牧師がカウンセリングを学ぶために、渡米し、ヒューストンの病院で実習をされました。患者さんは肌の色に関係なく、牧師だとわかると神の使いのように思ってくれたそうです。その先生は、これはキリスト教2000年の財産だと思うと言っておられました。そして、特に死を間近にした患者さんの愛称聖句、よりどころは「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(23:4)。その言葉を聞きながら、まったく穏やかな顔をして、天に帰って行かれるとのことでした。特にイエス・キリストである「あなたが私とともにおられますから」、寄り添って、確かな導きで天に引き上げてくれると信頼し、天来の安心が与えられるからです。

 生きているうちは敵がいます。私をだめにしとうとする敵、神から引き離そうとする敵、しかし、救い主がおられる。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」。食事は豊かな交わりをもたらし、客人をもてなすかのように香油を注いでくださる。恵みという杯があふれるのです。この方がおられたら、他に何が必要でしょう。しかし、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)。
 私たちはよくも悪行も、時間に追われ、勉強に追われ、仕事に追われ、何かに追われています。しかし、この詩篇の最後の行が実にいい。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」(23:6)。陸上競技の100メートル走が話題になっています。これが追い風だと記録が伸びるわけです。公式記録にならないこともありますが、追い風がこれほど影響するとは面白いです。いつくしみと恵みの追い風が私たちには吹いているのです。御国に追いやるように吹いているのです。この風に吹かれてまいりましょう。その追い風は強いときもあれば、弱いときもある、普通の時もある。イエス・キリストは私たちの必要に応じて、いつくしみと恵みの追い風を聖霊によって送ってくださるのです。

 主の家とは安全の場、隣在の場です。生涯、そのような恵みといつくしみの追い風を受けるところに私たちは居続けましょう。調子のいいときも、そうでない時も、牧者であるイエス・キリストはよくご存じなので、弱い羊は主に信頼して、主の宮に住まいましょう。
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」。


神に油注がれたもの

2017-07-09 00:00:00 | 礼拝説教
2017年7月9日 主日礼拝(詩篇2:1~6紙上メッセージ)岡田邦夫

 「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩篇2:12)

 ペルシャ絨毯(じゅうたん)といえば模様は重厚で、値段は高価なものです。しかし、裏を見ると何が描かれているか、よくわかりません。神を信じてはいるものの、見える現状は絨毯の裏のようで、物事がうまくいっているようには、思えないのではないでしょうか。先週お話しした、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」と実感できないかも知れません(詩篇1:3)。それは絨毯の表が見えず、裏を見ているからでしょう。理屈はそうでも、私たちは現実の苦悩の中に置かれていて、神の助けを必要としています。
 その助け船が「メシヤ」救い主です。この詩篇第2篇は「メシヤ詩篇」と呼ばれるものです。

◇地の騒ぎ立つ
 もう一度、詩篇150篇の特徴を確認しましょう。「詩編には神への賛美や神に助けを求める祈り、また神への信頼を表す詩などが入っており、悲しみと喜び、疑いと信頼、痛みと慰め、絶望と希望、怒りと安堵、復讐心や赦しといった人間のありとあらゆる感情が表現されている。祈りと賛美の形で詩篇は生活のすべてを神と分かち合うよう私たちを招いている」(聖書・スタディ版・各書の概説より)。神と分かち合うよう招かれていることを忘れてはなりません。
 その詩篇全体の序曲ともいうべきものが第1篇と第2篇の二つです。私たちはみ教え、すなわち、み言葉を昼も夜も思うように、なかなかなれない現実があります。喧騒と争いです。
「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」(2:1-2)。主に油をそそがれた者は神に権威を与えられた王のこと。神に逆らう勢力が厳然とあるということです。国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやく、それは今日も実感する世界です。それは絨毯の裏。その表はというと、天の模様です。

◇天の笑い
その神に敵対する勢力に対して、文学的表現ですが、「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる」と描写します(2:4)。新約の光で見ましょう。天から、最高の権威者として、救い主・メシヤを派遣されるというのです。「ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。『しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。』」(2:5-6)。それはイエス・キリスト。しかし、いきなり、雲に乗って、剣をもって、裁くために来られたのではありません。聖霊によって、マリアの胎から生まれ、まったき人となられて、遣わされたのです。
 騒ぎ立ち、逆らっているのは、私たち自身、神の怒りの対象です。その怒りをなだめ、救う道は神の御子を送るしかないのです。

◇御子に口づけせよ
 その遣わされた「御子に口づけせよ」=服従せよと勧めます(2:12)。
 天から遣わされ、人となられた御子はバプテスマのヨハネから、水の洗礼を受け、聖霊の油が注がれます。それは父なる神からの任職式でした。油注がれた者・メシヤに天からのお声がかかります。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」。これは『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』に通じるところがあります(2:7)。
 わが子ほどかわいいものはない。ある人のインタビューで、自分の子より孫の方がかわいいというけれど、私は孫より自分の子のほうがかわいいと言っていました。それが本当のことです。父なる神は最大最愛の御子です。その御子を犠牲にし、御子だからできる十字架の贖いをなしとげさせたのです。ということは父なる神は騒ぎ立ち、逆らう私たちを御子に匹敵するほど愛しておられるということです。だから、御子に口づけしよう。

とても幸いな風景

2017-07-02 00:00:00 | 礼拝説教
2017年7月2日 主日礼拝(詩篇1:1~6)岡田邦夫


 「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩篇1:2~3共同訳)
 
「初めに在ったのァ/神さまの思いだった。/思いが神さまの胸に在った。…神さまの/思いが凝(こご)って/あらゆる者ァ生まれ…」。これはケセン語訳聖書のヨハネ福音書の冒頭の訳です。“ことば”(ロゴス)を大胆に“思い”と意訳しています。ジンとくる訳です。初めに神のことばと思いがあったと解釈したらいいかも知れません。それに対応するような、詩篇のことばがあります。「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ」(19:14)。
 モーセの五書(創・出・レビ・民・申命記)は神のみ旨が記されており、その展開がその後の聖書です。150に及ぶ詩篇が五巻の構成になっているのは、その五書に応答しているというものです。言い換えれば、五書の神のことばと思いに対して、人のことばと思いを歌っているのが詩篇といえます。「詩編には神への賛美や神に助けを求める祈り、また神への信頼を表す詩などが入っており、悲しみと喜び、疑いと信頼、痛みと慰め、絶望と希望、怒りと安堵、復讐心や赦しといった人間のありとあらゆる感情が表現されている。祈りと賛美の形で詩篇は生活のすべてを神と分かち合うよう私たちを招いている」(聖書・スタディ版・各書の概説より)。
 その詩篇全体の序曲ともいうべきものが第一篇です。

◇自然の風景に思いを馳せる
 詩篇は他の訳と比較して読むのも味わいを深める道です。共同訳で読んでみましょう。
1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
 自然の情景に思いをはせてみましょう。昼は目が痛むほどの強烈な太陽光、風が吹けば、赤土が舞う。頭や口を覆わなければならない。しかし、木々が生い茂り、草花に覆われ、ひときわ果実がたわわな所がある。流れのほとりに植えられた木である。一方、麦畑、収穫した麦を脱穀し、それを入れたかごを真上に振り上げると、風でもみ殻だけが吹き飛ばされ、麦だけかごに落ちる。この流れのほとりの木と風に飛ぶもみ殻は人の生き方を描いています。神に従う人、神に逆らう者と意訳しています。

◇人生の風景に思いを馳せる
 その光景は正しき者と悪しき者の生き方と実りを表しています。共同訳は正しいか、悪いかは神の前にどうあるか、なので、あえて神に従う人、神に逆らう者と意訳しています。この世では一見、悪しき者が栄え、正しき者がそうではないように見えるところもあるけれど、幸いかどうかは、神の裁きから見ないと、ほんとうはわからないのです。この詩篇はそれを教えて人の生き方を描いているのです。
幸いな生き方は、消極面、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らないことです。積極面、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむのです。その生き方は麗しく、まことの実りのある人生なのです。「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。神のことばと思いを心に感じ、心に響かせるのです。み前に傲慢と気づいたら悔い改め、赦しをいただき、へりくだって恵みをいただくのです。すぐ結果は出ないかもしれませんが、ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがないのです。教えを約束と捉えることもできます。聖書から約束の言葉を聖霊によっていただくのです。ときが巡り来れば約束は実現していくのです。
この教会に与えられたみ言葉に通じます。「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(エゼキエル47:9)。それは終末を描くものでもあります。

◇御国の風景に思いを馳せる
 裁きは最後の審判。神に逆らう者は風に吹き飛ばされるもみ殻。滅びです。神に従う人の道を主は知っていてくださる。みこころに留めていてくださるのです。神の河の流れる、永遠の御国に入れてくださる。その流れのほとりに植えられた木が永遠の命の実を結び、命の葉も永遠にしおれることがなく、すべて、永遠の繁栄をもたらすのです。そこは栄光に満ち、喜びにあふれています。主の約束、神のことばと思いがすっかり実現し、充満しているのです。
 流れのほとりは神の傍ら、みそばです。神が人と共にいまし、人が神と共にいます。神の愛が絶えず流れ込んでくるのです。
 私たちは神に逆らう者、罪ある者の道にとどまり、傲慢な者でした。神に従って生きられるようにと救い主、イエス・キリストが私たちのところに遣わされてきました。ローマ人への手紙にこうあります。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(5:8-10)。
 私たちが神に従う道、流れのほとりの木のように生きられるのはひとえに、イエス・キリストの愛の犠牲によるのです。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」の教えは十字架のことばと思いなのではないでしょうか。
詩篇の序章を通して、あらためて、自然の風景に思いを馳せ、人生の風景に思いを馳せ、御国の風景に思いを馳せましょう。