オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

その日が来る

2016-11-27 19:06:20 | 礼拝説教
2016年11月27日(日) アドベント第一主日礼拝(エレミヤ書23:5~6)岡田邦夫

 「見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」エレミヤ書23:5~6

 商店街は教会より早く飾りつけをして、クリスマス商戦に入っています。しかし、今日がアドベント第一主日、クリスマスを待ち望む期間(約1ヶ月)に入ります。日本語ですと「待降節」です。神の救いの出現を待ち望む心備えをしていく期間です。

◇待つ思いがふくらんで
 待つというのは日ごろ、行われています。バス、電車を待つ、デートで人と待ち合わせる、合否や手術の結果を待つ、楽しい行事を待つ、帰宅する家族を待つ…、たいてい期待して待ちます。とくに、新しい命の誕生を待つことはかけがえのないことです。その期待して待つという気持ちが大切なのですね。
 今日のアドベント・メッセージは救い主出現の預言からいたします。「見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう」。救い主を「一つの正しい若枝」とたとえ、『主は私たちの正義。』と呼ばれると告げます。
 その救い主・キリストのもたらす救いの内容が実に素晴らしいものです。世界は当時も今も、公義と正義が行なわれていないのが現実です。広義ではなく私義(造語ですが)、自己中心の義で、それをもって、国や民族や人を治めようとしたり、対決したり、時には滅ぼそうとしたりする義です。それこそ、罪です。正義に対しては不義、不正。新聞、テレビ、ネットを見れば、そのようなニュースは際限なくあります。核弾頭が世界で約23,000発あるという恐ろしい時代です。だからこそ、私たちは人として、社会人として、公義と正義を精一杯、行なわなければなりません。しかし、究極的には救い主を待たなければなりません。
 二千年前、救い主イエス・キリストはダビデの血筋から、聖霊によって、地上に誕生されました。そして、十字架にかかられ、人類の罪の贖いとなられ、信じる者を義とされる道を開きました。「見よ。その日が来る。」の預言は成就しました。神の国(ご支配)はこうして始まり、御子は公義と正義をもって治められています。それは初臨で、再び来られると約束され、いつの日か地上に再臨されるのです。その時こそ、世界の私義、不義は一掃され、完全に清く平和に治められた世界が実現するのです。アドベントは初臨のイエスに思いをはせながら、「見よ。その日が来る」と言われる、再臨のキリストを待つものです。
 ですから、「その日が来る」のを待つ「思い」が大切です。愛と信仰に裏打ちされた「希望」です。必ず、その時は満ちるのです。月が満ちて、新しい命が誕生してくるのを期待して希望をもって待つように、その時を待つのです。何か困ったことがあって、祈って、み言葉が与えられるとか、聖霊の確信が与えられるとかあって、その具体知な答えを「待つ」というのも、大いなる日のそのミニ経験、信仰の学習だと私は思います。キリスト者の死も、それで終わりでなく、再臨を待つ眠りに入るということです。すでに主は私のところに来てくださった。その方が見える形で再び来てくださり、顔と顔を合わせて合いまみえるのだ、恋人を待つような思いで待ち望むのです。そうして、日を過ごしていこうではありませんか。

◇待つ思いが無限大
 ケセン語聖書をご存知ですか。山浦玄嗣(はるつぐ)という医師が西洋の直訳的なものではなく、普通の日本人がわかるような訳にしたいと思いました。そして、聖書のギリシャ語の原典から20数年かけて学び、宮城県気仙沼の方言に翻訳しました。それがケセン語聖書。例えば、「自分の敵を愛しなさい」は山浦訳だと「敵をでいじ(大事)にしろ」です。そのほうが、私たちには身近で実践できそうな感じを持ちます。なかでも注目すべきは、ヨハネ福音書1:1の「初めに、ことばがあった。…」で、「ことば」(ロゴス)は幅広い意味を持ちます。ですから、「初めに在ったのは神様の思いだった。思いこそ神様そのもの。神様のその思いが凝って、あらゆるものが生まれ」と訳しています。
 「見よ。その日が来る」という日を待っているのは、私たち、キリスト者だけでなく、いや、それ以上に、父なる神ご自身がお待ちなのではないでしょうか。初めに思いがあったとすれば、終わりにも思いがあるのではないでしょうか。時として、私たちは待ち望むという、その思いが時として消えてしまったり、変わってしまったりしますが、神は「み思い」を変えないでしょう。聖書には人の罪のすさまじさゆえに滅ぼそうとしたが、その思いを変えられたとあります。しかし、人類、私たち、この私を愛して造られたみ思い、御子を犠牲にして救いを遂げられたみ思いは絶対変わらないのです。
 神は放蕩息子が帰ってくるのを待つ父のように、いや、それ以上にあなたを待っておられるのです。「その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」という日を果てしなく熱いみ思いで主は待っておられるのです。
 私たちは初臨に思いをはせ、キリストの思いを思いとして、再臨の日を待ち望みましょう。真のロマンチストとして…。

純粋な神信仰を!

2016-11-21 00:43:41 | 礼拝説教
2016年11月20日(日)主日礼拝(エズラ記10:1~5)岡田邦夫

 「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」ガラテヤ書6:14~15

 今日の聖書箇所は現代日本の私たちが読むと、人権問題だ、あってはならないことだと感じるようなところです。しかし、聖書です。メッセージがあるに違いありません。そこで、今日は遠回りをしながら話していきたいと思います。

◇涙の要請…隔てが除かれる
 私、小学校に入学した年、1949年にNHKラジオから流れてきた歌謡曲が大衆の心をとらえたのでしょうか、ヒットしていきました(終戦は1945年)。「あざみの歌」で高原に咲くアザミの花に自分の理想の女性像をだぶらせて綴ったものらしいのですが、このような歌詞です。「山には山の愁いあり、海には海のかなしみや、ましてこころの花園に、咲きしあざみの花ならば」(作詞:横井弘、作曲:八洲秀章)。山や海に愁い、悲しみを重ねるのは戦後の復興期の人々の心境だったと思います。呪うのではなく、悲しむこと、それが復興の力になったのだと私は思います。
 ユダヤ人たちはペルシャから祖国に帰ってきます。神殿を再建し、城壁や家を修復し、復興し、エルサレム神殿が完全に整い、全焼のいけにえをもって、みごとに祭儀がなされました(8章)。しかし、まだ残っていることがありました。精神性の再建でした。それが9~10章です。「これらのことが終わって後、つかさたちが私(エズラ)のところに近づいて来て…言った」で始まります。最も重要な点はこれです。「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた」(10:1)。この涙にこそみ前における真実があるのです。現状を憂え、悲しみ、涙し、神のみ思いに添おうとする心なのです。机の上に二つの水滴があったとします。それを近づけると一瞬で吸い付いて一つになります。み前の涙は神と人の間の隔てを除くのです。

◇時の要請
旧約の時…隔てを設ける
 では、現実的に何が問題だったのでしょう。学者であり祭司であるエズラにつかさたちが告げます(9:1-2)。「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです」。これを聞いた彼も敬虔な人々も呆然とし座り込んでしまいます。そこで、エズラは祈ります(9:6-15の要約)。
 “律法では(預言者)では理由があって異邦人との結婚は禁じられていたました。しかし、先祖たちはそれを破り、主を捨て、偶像に仕え、道徳的に乱れた生活に落ちってしまいました。そのためによその国にとりこにされ、かすめ奪われ、奴隷になってしまいました。しかし、私たちの神は見捨てることなく、恵みによって、ペルシャの王たちを用いて帰国させ、神の宮を再建させ、廃墟を建てなおしていただきました。それなのに、私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行ないをする、これらの民と互いに縁を結んでいるのです。あなたはこのような私たちを怒り、絶ち滅ぼしてしまわれるではないでしょうか。私たちは罪過の中であなたの御前におります。”
 そう「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた」のです(10:1)。その一人が提案をします。“私たちは、外国の女性をめとり、神に対して不信の罪を犯しました。しかし、今なお望みがあると思います。今、私たちはみな、神と契約を結び、主の勧告、律法に従って、妻たちとその子どもたちを追い出しましょう…”と。
 そこで、この提案を実行することを誓います。男たちが招集され、神の宮の前の広場にすわります。前述のことが告げられると、全集団は大声をあげて「必ずお言葉どおりにいたします」と答えます(10:12-14)。その後、調査をし、手続きを踏み、さばき、実行されていきました。そのリストまで聖書は記録しております(10:18-44)。
 主なる神に選ばれ、救われた「聖なる種族」はその主なる神への信仰の純粋さが求められました。この時代、異邦人との結婚が偶像崇拝、背信、退廃にむすびついたので、先祖たちの二の舞をふまないため、異邦人妻とその子供と「縁を切らなければ」ならなかったのです(9:1、9:14)。今日なら「妻子を追い出す」などというのは人権問題、やってはならないことです。しかし、この時のこの人たちは欲得や身勝手さからでたことでなく、純粋な信仰による民族再建だったことを私たちは心に留めておく必要があります。聖なる種族として、どうしても隔てが必要だったのです。
新約の時…隔てが除かれる
 時は流れ、新約の時代。イエス・キリストの救いが成し遂げられ、その福音は異邦人にも門戸が開かれました。そして、大いなることが起こりました(エペソ2:14-16)。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、(ユダヤ人と異邦人の)隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。…二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです」。旧約では信仰の純粋さを保つために「隔て」があったのですが、新約では十字架によって隔てが取り払われ、福音を信じる者すべてが聖なる種族となったのだという大伸展がなされました。キリストにあって信仰の純粋を得ることが出来るからです。
 さらに、決定的な救いを述べておかなければなりません。

◇魂の要請…隔てが設けられる
 イエス・キリストの十字架による救いは汚れたもの、偶像信仰、不信の罪から「縁を切る」まで、純粋な徹底した救いなのです(ガラテヤ人への手紙6:14~16口語訳)。
 「わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。」
 世というのは罪の世、闇が支配する世、不信の世、神を否定する世のことです。主イエスが十字架につけられたとき、「この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」というのです。この世との関係が死んだのです。この罪の世と縁を切ってしまったのです。ドロドロした罪の世との「隔て」が設けられたのです。イエス・キリストの十字架の救いは徹底した救いなのです。自分がいかに罪深く、不信仰で、世俗的であるかと嘆き、泣くこともいとわないのです。この救いがあるからです。十字架があるからです。み前にさらけだして罪の告白をすることは主の喜ばれる美しい姿です。主がなしてくださったこの贖いを素直に信じましょう。そうして、新しい神の民(イスラエル)として新しく造られ続けてまいりましょう。

神のみ手が

2016-11-13 23:48:37 | 礼拝説教
2016年11月13日(日)主日礼拝(エズラ記7:21~28)岡田邦夫

 「私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた」。エズラ記7:28

 「牧師は空を飛ぶ」という面白い題の本があります。著者は横山幹雄牧師。師の牧会されている教会を見学に行ったことがあります。本の中では自分が時々、空を飛ぶ夢を見る。それはきっと、ストレスがあって、それから逃れたい心理で夢の中で空を飛ぶのだろう。そう、御自分をさらけだして記しておられる楽しい本です。先週、私も空中を泳ぐ夢を見ました。この本を思い出して、私にも結構のストレスがかかっているのだろうと分析しました。どうも年のせいか、集中力が衰えてきて、特にこの「オアシスインサンダ」を早く書こうとする時がそうです。それを妙に気にしているので、空中を泳いだらしいです。
 それでも、手にペンを取りました。いえ、キーボードに手を添えました。「やるぞ…」

◇王の心、首長の好意…外から
 破壊は一瞬ですが、復興は時間がかかり、忍耐がいります。ユダヤ人たちが捕囚の地、バビロン(ペルシヤ)から、帰国してきますが、破壊された町は荒れ果てており、たいへん苦労して再建していきます。クロス王の時、第一陣の5万人がエルサレムに帰還し、神殿を再建し、町を修復、再建していきます。妨害があって遅れますが、ダリオス王になって、王の許可を得て神殿は完成します。それから57年後、政権がアルタシャスタ王になって、ユダヤ人1500人とレビ人258人が帰還します(8:1~)。それはその王に信頼されていたであろうエズラという人が帰還を願い出たからだと思われます(7:6)。そのことを聖書はこう信仰の目で記しています。「主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった」(7:27-28)。挫折した神の民の再建、やり直し、新たな歩みを、時の権力者の心に思いを起こさせ、有力者の好意を得させたのは神、…実に神の粋な計らいでしょうか。

◇学者エズラの知恵…内から
 復興にあたり、インフラが整備されてはきましたが、この神の民が再び失敗をしないための国造りが必要でした。何を支えに、何を目標として生きるか、その指導に当たったのが前述の神に選ばれた「エズラ」でした。彼は系図からいうと祭司、知性からいうと学者でした(7:6)。「主の命令のことばと、イスラエルに関する主のおきてに精通した学者であった」(7:11)。しかも、「主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていた」人でした(7:10)。まず聖書を調べ、そして、自ら実行してみる、その上で人々を教えようとした、真の知者でした。ですから、彼の知性と情熱が王の心を動かし、「王の王アルタシャスタ。天の神の律法の学者である祭司エズラへ…」と手紙をもらうことになります。
 「私は命令を下す。私の国にいるイスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたい者は、あなたといっしょに行ってよい」から始まり、派遣命令を出します(7:13)。エズラに対しての命令はこうです。ユダとエルサムの宗教調査をするように。王と議官の献金を携えて行くように。それでささげものを買うように。その残りの使途は神のみ心に従うように。神殿での器具は与えられたものを使い、その他必要なものは王の宝物蔵から調達してもよい…。ありがたいことに過不足なく、きっちり行えるのです。
 続いて、川向こうの宝庫係全員への命令が出されています。実に行き届いたものです。「天の神の律法の学者である祭司エズラが、あなたがたに求めることは何でも、心してそれを行なえ」。銀百タラントまで、小麦百コルまで、ぶどう酒百バテまで、油百バテまで、塩は制限なし。優遇されていますね。御怒りが王とその子たちの国に下るといけないから命じられていることは何でも熱心に行なうように。神殿に仕える者にはみつぎ、関税、税金を課してはならない…。
 最後に再びエズラに命じます(7:25-26)。あなたの手にある神の知恵にしたがってさばきつかさや裁判官を任命し、神の律法を知っているすべての者をさばかせ、これを知らない者にあなたがたは教えるように。神の律法と王の律法を守らない者には、死刑でも、追放でも、財産の没収でも、投獄でも、その判決を厳格に執行するように。
 新たな国造り、何を支えに、何を目標として生きるか、それらは「エズラの手にある神の知恵にしたがって」なされるように命じられたのです(7:25)。私たちの人生の営み、主の教会の形成においても、何を支えに、何を目標としていくか、「私たちの手にあるキリストの知恵にしたがって」なされるのが最善なのです(1コリント2:6-7)。

◇主なる神の御手…上から
 この祖国再建にあたり、何よりも素晴らしいことはこの章の初めと、最後に記されています(7:6、7:28)。「彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた」。「私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた」。
 「私の神、主の御手が私の上にあったので」の御言葉に豊かな恵みを感じます。職人というのは長い経験の中から、五感を研ぎ澄まして、技術を駆使し、機械ではできない物を作っています。たとえば、鍛冶職人、鋼材を火に入れる時、温度計など使わず、火の色を目で見て、取り出すタイミングを計ります。ですから、薄暗い工場でします。叩く部分やたたく力の微妙な加減があります。他の工程では音も聞き分け、手の感触も動員されます。物作りに対しての職人気質はこうです。“自分の技術に自信をもち、安易に妥協したり、金銭のために節(せつ)を曲げたりしないで、納得できる仕事だけをするような傾向です。”
たとえば、包丁の製造工程は:鋼造り・地鉄造り・割り込み・沸かし付け・先付け・切り落とし・中子取り・二枚広げ・焼きなまし・濘落とし・荒ならし・上げならし・絶ち廻し・刻印打ち・摺り廻し・泥塗り・焼き入れ・泥洗い・歪取り・焼き戻し・荒研ぎ・中研ぎ・目剝き・ペーパーバブ仕上げ・仕上げ・柄すげ:と26工程もあります。
 主なる神は最高の職人に違いないと私は思います。神の民に御思いを注がれ、全霊を集中され、研ぎ澄まされた霊をもって、ご自身が納得されるまで、多大な犠牲を払って、御手をもって臨まれたのです。また、臨まれておられるのです。私たち、神の民の救いの、復興の完成に向かって、絶えざる無限の工程をもって、御手をつくしておられるのです。神は決して、手を抜きませんし、集中を絶やしません。最高に手の込んだ技を私の上に、教会の上にされているのです。今日、私たちは「私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って」まいりますと立ち上がりましょう。

喜びの神の宮献堂式

2016-11-06 21:55:06 | 礼拝説教
2016年11月6日(日)主日礼拝(エズラ記6:16~22)岡田邦夫

 「彼らは七日間、種を入れないパンの祭りを喜んで守った。これは、主が彼らを喜ばせ、また、アッシリヤの王の心を彼らに向かわせて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」エズラ記6:22

 「天には星がなければならない。大地には花がなければならない。そして、人間には愛がなければならない」。これはドイツの詩人、文豪ゲーテの言葉ですが、実は彼、植物学者でもありました。彼のある学説が170年後、分子生物学によって証明されたというのですから、驚きです(植物変態論)。私も畑をしているので、植物には関心があります。今年、三田泉教会で借りている畑に、黒豆の枝豆狩りで5教会から総勢50人ほど来られて、400本分を収穫してゆかれました。残りは黒豆にする分と来年の種用にする予定です。実は今年、天候不順で発芽率が低く、せっかく出た芽も鳩に食べられてしまい、種まきをやり直したりして苦労しました。
 ところで、もし野草(雑草)を育てようとすると、これがなかなか難しいそうです。それこそ、種をまいても発芽率が悪いのです。野生の植物はどんなに条件が整っても一斉には芽を出さないようになっています。自然界では何が起こるかわからない。何かの災害が起こった時に全滅してしまわないために、多くは芽を出さず、地面の中に休眠しており、後で芽を出す用意をしているのです。土の中にはシードバンク(種子の銀行)があるのです。野草が生き残っていくための知恵ともいえるものです。

◇預言者の目…
 イスラエルという神に選ばれた民が滅亡の危機にさらされますが、神のみ手により、奇跡により、そこから脱出させていただき、生き残ってきました。
 預言者イザヤもそれを「木」にたとえて、預言をしています(6:11-13、11:1、37:1の要約)。“強大な帝国がやってきて、ユダの民は木が切り倒されるように倒され、捕囚されていく。しかし、その切り株のように、聖なる末が残る。その根株から新芽が生え、若枝が出て、根を張り、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。”

◇対岸の人の目…
 その預言のように、ユダの民はバビロン帝国に切り倒され、主だった人たちは捕囚されていきました。しかし、約70年後、不思議なことに、帝国の王により帰還命令が出されます。ユダの民(残りの者)がエルサレムに帰国し、破壊された神殿の再建に取り掛かります。その礎がすえられた時は、喜び叫び、泣き、神を賛美しました(3:11-13)。いよいよ工事にかかるのですが、そう簡単には進みません。強力な妨害がはいります。ヨルダン川の向こうの総督らがやって来て「だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」と詰め寄ります(5:3)。工事をやめさせようと、ダリヨス王(クロス王に代わって王になった王)にあてて手紙を送りました(5:7-17要約)。
 「ダリヨス王に平安がありますように。ユダの州で神殿の建設工事が着々と進められ、順調にはかどっています。そこで、私たちはその長老たちにだれの命令で工事をしているのかと問いただすと、こういう返答でした。
 『私たちは天と地の神のしもべ。これは昔、ソロモン王が建てた神殿であり、それが壊されているので、今建て直している。実は、先祖が天の神を怒らせたので、神は彼らをバビロンの王ネブカデネザルの手に渡された。それで神殿を破壊し、民を捕えてバビロンに移した。しかし、政権がペルシャにかわり、クロス王になった時、この神殿再建の命令を下したのである。また、エルサレム神殿から取って来た金、銀の器具などをバビロン神殿から取り出し、ユダの総督に任命したシェシュバツァルに渡した。それを持って行き、エルサレムの神殿に納め、神殿を再建せよと言った。そこで、神殿の礎を据え、今に至るまで、工事を続行しているところである』。
 もしもよろしければ、あのバビロン王の宝物倉を捜させて、エルサレム神殿建設に関するクロス王の命令書があるかお調べください。そして、王のご意見を私たちにお伝えください」。
 主の導きでなしていることですが、それを妨害しようとするものが現れるものです。その後にも妨害があったことが前後しますが、エズラ4:6~23に挿入されています。小さな民がそれでも再建できていったのは、神のご真実があったからです。

◇主なる神の目…
 それが5章5節で言われています。「しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった」。この小さな国、小さな民に天と地の神の目が注がれていたのです。主イエスは小さい子どもに目を注がれました。主イエスは小さい群れ・弟子たちに目が注がれました。復活の主はサウロ青年に出会いました。小さい者を意味するパウロに改名させ、その小さい者に目が注がれ、世界宣教の器としました。主は私たち、小さい者にこそ、目を注いでいて下さるのです。
 その書状を受けて、ダリヨス王は宝物蔵の文書保管所を調べさせたところ、一つの巻き物が発見されました。その中に次のように書かれていました。
 「記録。クロス王の第一年に、クロス王は命令を下した。エルサレムにある神の宮、いけにえがささげられる宮を建て、その礎を定めよ。宮の高さは六十キュビト、その幅も六十キュビト。大きな石の層は三段。木材の層は一段にする。その費用は王家から支払う。また、ネブカデネザルがエルサレムの神殿から取って、バビロンに運んで来た神の宮の金、銀の器具は返し、エルサレムの神殿に運び、一つ一つもとの所に戻す。こうして、それらを神の宮に納める。」
 そこでダリヨス王は川向こうの総督に命じます。この神殿の工事をそのままやらせておけ。また、王へのみつぎの中から、その建設費用を支払うようにせよ。決して妨害してはならない。そうダリヨス王が書き送ったので、川向こうの総督たちは、これをまちがいなく行なったのです。まさに「神の目が注がれていたので」、時の権力者を動かし、歴史を振り返らせ、思いを与え、小国が再建されていったのです。
 「こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。」という事実が記録されています。そうして、「イスラエル人、すなわち、祭司、レビ人、その他、捕囚から帰って来た人々は、この神の宮の奉献式を喜んで祝った」のです。それは7日間、盛大に行われました。「主が彼らを喜ばせ、また、アッシリヤの王の心を彼らに向かわせて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである」(6:22)。
 スポーツでも試合の時に応援していてくれる人たちの目が注がれているので、力を発揮できます。子供は親の温かいまなざしが注がれているので、しっかり成長していきます。まして、私たちがことをなそうとする時、あるいは人生を再建しようとする時、失敗してやり直そうとする時、天と地の神が愛のあふれたまなざしで、また、真実のまなざしで、最善に導こうと見守っておられているのです。そう信じられるなら、何と心強いことでしょうか。
 教会が借りている畑の地主さんが私に良いことを言ってくれました。「黒豆を50年やっているけれど、うまくいけば、また来年も頑張ろうという気になり、失敗したら、来年はこうしよとがんばる。まだまだ勉強だ。なにしろ、まだ50回しかやってないから」。こちらが失敗と見えても、神は決して見捨てる方ではない。最善をなされる方です。私たちを喜ばせようと目を注がれているのです。

主を賛美し泣いた

2016-11-03 09:30:22 | 礼拝説教
2016年10月30日(日)主日礼拝(エズラ記3:8~13)岡田邦夫

 「彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。」エズラ記3:11

 ある牧師がアメリカに行った時に、奥さんに香水をおみあげにしようと店に入りました。すると“リメンバー・ミー(remember me)”という素敵な名のついた香水を見つけ出し、買って帰りました。品名が気に入ったからです。聖書にイエスの十字架の隣の犯罪人が「イエスさま。私を思い出してください」と頼むと今日、一緒にパラダイスにいるという約束をいただきました。この祈り、「私を思い出してください」がリメンバー・ミー、その牧師家庭ではそう祈ることを常としていたからだそうです。神の前に感謝の言葉、信仰の言葉もありますが、そのような求めの言葉も無くてならぬものだと思います。
 「主よ、あわれんでください」も求めの言葉です(マタイ15:22他)。ラテン語で「キリエ・エレイソン」、カトリックなどの礼拝で用いられています。世はそう祈らざるを得ない状況です。世界の富裕層の上位62人が保有する資産は、世界の人口全体の下位半数に当たる36億人の持つ合計資産と同じ額(約206兆円)だというのです。驚くべき経済格差です。他に紛争、戦争、差別、虐待…と果てしなく悲劇がある。魂の状況も孤独、不安、恐怖、罪責感、悔恨…底知れなくある。それらを思い「主よ、あわれんでください」をもって神の前に出ることも礼拝だと思います。キリエ・エレイソン、リメンバー・ミーと。

◇涙あふれて…苦しくて
 ユダの民は帝国の大軍に敗北し、バビロンの地に捕囚されていきました。祖国エルサレムは神殿も町も徹底的に壊されてしまっています。それでも、祖国に帰りたい思いは募るばかりでした。それを歌った歌が詩篇137篇です。
 「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興(きょう)を求めて、『シオンの歌を一つ歌え。』と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように…」。
 まさに「主よ、あわれんでください。私を思い出してください。」という苦悩の状況でした。しかし、主はこの民をあわれんでくださった。主はエレミヤにより告げられた回復の約束・預言を忘れてはいませんでした。

◇涙あふれて…嬉しくて
 解放の時が来たのです。バビロン帝国はメド・ペルシャ帝国に征服され、事態は変わります。そのペルシヤの王クロスの第一年に、主のことばを実現するために、主はクロス王の霊を奮い立たせたので、王は王国中に布告をしたのです(エズラ記1章)。「天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。…エルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ…」。
 主が、最高の権力者の霊を動かして、血を流すことなく、神の民・ユダヤ人をエルサレムに帰還させ、神殿再建をさせていくのです。あわれみの奇跡です。忘れてはいない、約束を果たす神のご真実が示されています。「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった」のです(1:5)。回りの人々はえりすぐりの品々をささげ、クロス王は前帝王が捕囚時に主の宮から奪い取ったものをすべて調べだし、ユダの君主シェシュバツァルに返還します。「金、銀の用具は全部で五千四百あった。捕囚の民がバビロンからエルサレムに連れて来られたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみないっしょに携えて上った」のです(1:11)。
 現在、健康で百歳以上生きる人のその要因の調査が進められています。食べ物、運動と共に精神性が関係していることがわかってきました。満足感が健康にいいのだそうです。ただし、欲望的満足感は悪く、人のために生きようとする生きがい的満足感はいいのだそうです。主はクロス王の霊を奮い立たせ、ユダヤ人の指導者たちの霊を奮い立たせ、主の宮の再建に向かわせたのです。神のために、人のために奮い立ったのですから、これほど健全で力強いことはありません。何という主のあわれみでしょうか。

 ユダヤ人たち、捕囚の身から解放されて、自分の町に戻っていきました。そのリストが2章に記されています。感謝のリストです。民はエルサレムに集まり、神への祭儀、礼拝がなされ、定められたささげものと喜んでささげられたものがありました(3:1-5)。そして、いよいよ神の宮建設。人材、建材が用意され、工事が始まり、まず礎が据えられました。定礎式の準備です。「建築師たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た」(3:10)。
 いよいよ、待ちに待った定礎式、70年も苦難の捕らわれの身であったけれども、今、懐かしの祖国に帰れたのです。町は荒れてはいるが、自分たちの町、まずは、心と国の中心である神の宮再建が始まる。明日がある。希望がある。定礎式の感動はどれほどのものであったのでしょうか。想像をたくましくしながら、エズラ記を読んでみましょう(3:11-13)。「彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。』と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた」。
 新約の私たちは思いをはせましょう。私たちは個人においても、教会においても「聖霊の宮」です。十字架にかけられたイエス・キリストが礎です。この世のどんな思想、主義、宗教もあらゆるものは不動のものではないと聖書は告げています。天地は滅びる。絶対不動の土台、礎は復活されたイエス・キリストです。その上に神の宮、聖霊の宮、キリスト者で構成される見えざる教会が建設中なのです。終わりの日、天地は滅びます。しかし、聖霊の宮は残り、また、全く新しい神の宮に変えられ、新天地は神の宮、神殿そのものとなります。神が人と共にあり、人が神と共にあるという喜びに満ちた世界となります。もし、その時、落成式があったとすれば、全く涙は拭い払われ、歓喜だけが、ハレルヤコーラスだけがあるでしょう。
 すでに、イエス・キリストの永遠不動の礎は据えられたのです。私たちには何があっても、天変地異があっても揺れ動かない土台があるのですから、信仰に生きてまいりましょう。愛に生きてまいりましょう。希望に生きてまいりましょう。聖霊によって、霊を奮い立たせていただきましょう。神のあわれみに涙したいものです。キリエ・エレイソン、リメンバー・ミーという状況の下で、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでも(新しい)イスラエルに。」と賛美に向かいたいものです。