2016年11月27日(日) アドベント第一主日礼拝(エレミヤ書23:5~6)岡田邦夫
「見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」エレミヤ書23:5~6
商店街は教会より早く飾りつけをして、クリスマス商戦に入っています。しかし、今日がアドベント第一主日、クリスマスを待ち望む期間(約1ヶ月)に入ります。日本語ですと「待降節」です。神の救いの出現を待ち望む心備えをしていく期間です。
◇待つ思いがふくらんで
待つというのは日ごろ、行われています。バス、電車を待つ、デートで人と待ち合わせる、合否や手術の結果を待つ、楽しい行事を待つ、帰宅する家族を待つ…、たいてい期待して待ちます。とくに、新しい命の誕生を待つことはかけがえのないことです。その期待して待つという気持ちが大切なのですね。
今日のアドベント・メッセージは救い主出現の預言からいたします。「見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう」。救い主を「一つの正しい若枝」とたとえ、『主は私たちの正義。』と呼ばれると告げます。
その救い主・キリストのもたらす救いの内容が実に素晴らしいものです。世界は当時も今も、公義と正義が行なわれていないのが現実です。広義ではなく私義(造語ですが)、自己中心の義で、それをもって、国や民族や人を治めようとしたり、対決したり、時には滅ぼそうとしたりする義です。それこそ、罪です。正義に対しては不義、不正。新聞、テレビ、ネットを見れば、そのようなニュースは際限なくあります。核弾頭が世界で約23,000発あるという恐ろしい時代です。だからこそ、私たちは人として、社会人として、公義と正義を精一杯、行なわなければなりません。しかし、究極的には救い主を待たなければなりません。
二千年前、救い主イエス・キリストはダビデの血筋から、聖霊によって、地上に誕生されました。そして、十字架にかかられ、人類の罪の贖いとなられ、信じる者を義とされる道を開きました。「見よ。その日が来る。」の預言は成就しました。神の国(ご支配)はこうして始まり、御子は公義と正義をもって治められています。それは初臨で、再び来られると約束され、いつの日か地上に再臨されるのです。その時こそ、世界の私義、不義は一掃され、完全に清く平和に治められた世界が実現するのです。アドベントは初臨のイエスに思いをはせながら、「見よ。その日が来る」と言われる、再臨のキリストを待つものです。
ですから、「その日が来る」のを待つ「思い」が大切です。愛と信仰に裏打ちされた「希望」です。必ず、その時は満ちるのです。月が満ちて、新しい命が誕生してくるのを期待して希望をもって待つように、その時を待つのです。何か困ったことがあって、祈って、み言葉が与えられるとか、聖霊の確信が与えられるとかあって、その具体知な答えを「待つ」というのも、大いなる日のそのミニ経験、信仰の学習だと私は思います。キリスト者の死も、それで終わりでなく、再臨を待つ眠りに入るということです。すでに主は私のところに来てくださった。その方が見える形で再び来てくださり、顔と顔を合わせて合いまみえるのだ、恋人を待つような思いで待ち望むのです。そうして、日を過ごしていこうではありませんか。
◇待つ思いが無限大
ケセン語聖書をご存知ですか。山浦玄嗣(はるつぐ)という医師が西洋の直訳的なものではなく、普通の日本人がわかるような訳にしたいと思いました。そして、聖書のギリシャ語の原典から20数年かけて学び、宮城県気仙沼の方言に翻訳しました。それがケセン語聖書。例えば、「自分の敵を愛しなさい」は山浦訳だと「敵をでいじ(大事)にしろ」です。そのほうが、私たちには身近で実践できそうな感じを持ちます。なかでも注目すべきは、ヨハネ福音書1:1の「初めに、ことばがあった。…」で、「ことば」(ロゴス)は幅広い意味を持ちます。ですから、「初めに在ったのは神様の思いだった。思いこそ神様そのもの。神様のその思いが凝って、あらゆるものが生まれ」と訳しています。
「見よ。その日が来る」という日を待っているのは、私たち、キリスト者だけでなく、いや、それ以上に、父なる神ご自身がお待ちなのではないでしょうか。初めに思いがあったとすれば、終わりにも思いがあるのではないでしょうか。時として、私たちは待ち望むという、その思いが時として消えてしまったり、変わってしまったりしますが、神は「み思い」を変えないでしょう。聖書には人の罪のすさまじさゆえに滅ぼそうとしたが、その思いを変えられたとあります。しかし、人類、私たち、この私を愛して造られたみ思い、御子を犠牲にして救いを遂げられたみ思いは絶対変わらないのです。
神は放蕩息子が帰ってくるのを待つ父のように、いや、それ以上にあなたを待っておられるのです。「その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」という日を果てしなく熱いみ思いで主は待っておられるのです。
私たちは初臨に思いをはせ、キリストの思いを思いとして、再臨の日を待ち望みましょう。真のロマンチストとして…。
「見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」エレミヤ書23:5~6
商店街は教会より早く飾りつけをして、クリスマス商戦に入っています。しかし、今日がアドベント第一主日、クリスマスを待ち望む期間(約1ヶ月)に入ります。日本語ですと「待降節」です。神の救いの出現を待ち望む心備えをしていく期間です。
◇待つ思いがふくらんで
待つというのは日ごろ、行われています。バス、電車を待つ、デートで人と待ち合わせる、合否や手術の結果を待つ、楽しい行事を待つ、帰宅する家族を待つ…、たいてい期待して待ちます。とくに、新しい命の誕生を待つことはかけがえのないことです。その期待して待つという気持ちが大切なのですね。
今日のアドベント・メッセージは救い主出現の預言からいたします。「見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう」。救い主を「一つの正しい若枝」とたとえ、『主は私たちの正義。』と呼ばれると告げます。
その救い主・キリストのもたらす救いの内容が実に素晴らしいものです。世界は当時も今も、公義と正義が行なわれていないのが現実です。広義ではなく私義(造語ですが)、自己中心の義で、それをもって、国や民族や人を治めようとしたり、対決したり、時には滅ぼそうとしたりする義です。それこそ、罪です。正義に対しては不義、不正。新聞、テレビ、ネットを見れば、そのようなニュースは際限なくあります。核弾頭が世界で約23,000発あるという恐ろしい時代です。だからこそ、私たちは人として、社会人として、公義と正義を精一杯、行なわなければなりません。しかし、究極的には救い主を待たなければなりません。
二千年前、救い主イエス・キリストはダビデの血筋から、聖霊によって、地上に誕生されました。そして、十字架にかかられ、人類の罪の贖いとなられ、信じる者を義とされる道を開きました。「見よ。その日が来る。」の預言は成就しました。神の国(ご支配)はこうして始まり、御子は公義と正義をもって治められています。それは初臨で、再び来られると約束され、いつの日か地上に再臨されるのです。その時こそ、世界の私義、不義は一掃され、完全に清く平和に治められた世界が実現するのです。アドベントは初臨のイエスに思いをはせながら、「見よ。その日が来る」と言われる、再臨のキリストを待つものです。
ですから、「その日が来る」のを待つ「思い」が大切です。愛と信仰に裏打ちされた「希望」です。必ず、その時は満ちるのです。月が満ちて、新しい命が誕生してくるのを期待して希望をもって待つように、その時を待つのです。何か困ったことがあって、祈って、み言葉が与えられるとか、聖霊の確信が与えられるとかあって、その具体知な答えを「待つ」というのも、大いなる日のそのミニ経験、信仰の学習だと私は思います。キリスト者の死も、それで終わりでなく、再臨を待つ眠りに入るということです。すでに主は私のところに来てくださった。その方が見える形で再び来てくださり、顔と顔を合わせて合いまみえるのだ、恋人を待つような思いで待ち望むのです。そうして、日を過ごしていこうではありませんか。
◇待つ思いが無限大
ケセン語聖書をご存知ですか。山浦玄嗣(はるつぐ)という医師が西洋の直訳的なものではなく、普通の日本人がわかるような訳にしたいと思いました。そして、聖書のギリシャ語の原典から20数年かけて学び、宮城県気仙沼の方言に翻訳しました。それがケセン語聖書。例えば、「自分の敵を愛しなさい」は山浦訳だと「敵をでいじ(大事)にしろ」です。そのほうが、私たちには身近で実践できそうな感じを持ちます。なかでも注目すべきは、ヨハネ福音書1:1の「初めに、ことばがあった。…」で、「ことば」(ロゴス)は幅広い意味を持ちます。ですから、「初めに在ったのは神様の思いだった。思いこそ神様そのもの。神様のその思いが凝って、あらゆるものが生まれ」と訳しています。
「見よ。その日が来る」という日を待っているのは、私たち、キリスト者だけでなく、いや、それ以上に、父なる神ご自身がお待ちなのではないでしょうか。初めに思いがあったとすれば、終わりにも思いがあるのではないでしょうか。時として、私たちは待ち望むという、その思いが時として消えてしまったり、変わってしまったりしますが、神は「み思い」を変えないでしょう。聖書には人の罪のすさまじさゆえに滅ぼそうとしたが、その思いを変えられたとあります。しかし、人類、私たち、この私を愛して造られたみ思い、御子を犠牲にして救いを遂げられたみ思いは絶対変わらないのです。
神は放蕩息子が帰ってくるのを待つ父のように、いや、それ以上にあなたを待っておられるのです。「その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。」という日を果てしなく熱いみ思いで主は待っておられるのです。
私たちは初臨に思いをはせ、キリストの思いを思いとして、再臨の日を待ち望みましょう。真のロマンチストとして…。