2011年5月29日 主日礼拝(2列王記6:8-23)岡田邦夫・みのお泉教会にて
「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」列王記下6:16
世界を震撼させた一枚の写真があります。ベトナム戦争最中の1972年6月8日、南ベトナム軍の空軍機から投下されたナパーム弾によって、9歳のキム・フックという少女が背中一面と腕に火傷を負って、兄弟たちと泣き叫びながら裸で逃げまどっていました。その様子をAP通信社カメラマンのフイン・コン・ウトさんが写真に撮り、子供たちを病院へ運びました。この写真が「戦争の恐怖」と題され、ベトナム戦争で人々の心に最も強い印象を与えたので、翌年のピュリツア―賞を受賞しました。その写真は戦争の残酷さや恐怖を見事に捉え、歴史の目撃者になり、反戦運動を盛り上げ、戦争終結を早めるために貢献したと言われています。
今日の聖書は預言者が戦争を終結させたというたいへんユニークな話です。北イスラエル王国に、北東にあるアラム王国の略奪隊が襲ってきた時のことです。イスラエルには預言者集団の指導者で「神の人」と呼ばれるエリシャがいました。彼はエリヤの後を継ぎ、神からの特別な賜物が与えられ、その名「神は救いである」の示すとおり、窮地におかれた人や国を救う働きをしました。言い換えれば、師と共に「イスラエルの神は生きておられる」ことを奇跡をもって証詞したのです。
◇敵の動きを見破る
アラムの王が「しかじかの所にわたしの陣を張ろう。」と家来たちと相談すると、それを見抜いて、神の人エリシャが「あなたは用心して、この所をとおってはなりません。スリヤ(アラム)びとがそこに下ってきますから。」とイスラエルの王に警告するので、その作戦は失敗に終わるのです。それが一度や二度ではなかったというのですから、アラム王はスパイがいるに違いないと考えるのは自然です。しかし、家来のひとりが事の真相を伝えます。「王、わが主よ、だれも通じている者はいません。ただイスラエルの預言者エリシャが、あなたが寝室で語られる言葉でもイスラエルの王に告げるのです」(6:12)。そこでエリシャを捕らえようと、居場所を突き止め、馬と戦車と大軍とをそこに送り、夜のうちに、ドタンの町を包囲したのです。ひとりの人を捕まえるのに実に大がかりです。
◇敵の動きを封じる
朝早く起きたエリシャの召使いがこの事態に気付くと、エリシャが「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と不思議なことを言います。そして、祈ります。「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」。すると、主によって若者の目が開かれ、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えたのです。それは御使いの軍勢で、神の臨在を示すものでした。私たちも何らかの敵に囲まれるような状況に立たせられることがあるでしょう。目の前が真っ暗になってしまうことがありましょう。その様な時に祈って、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」とのみ声を聞き、背後の臨在を霊の目で見ましょう。「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)。
アラム軍がエリシャに向かって来たとき、彼はまた、主に祈りました。「どうぞ、この人々の目をくらましてください」(6:18)。若者の目が開かれることを祈ったエリシャは今度は敵の目が閉ざされることを祈ったのです。その通りになり、敵の全員の目が一時的に盲目となり、なすすべがなくなってしまったのです。そこで、エリシャは他人のふりをして、あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやるから、私について来なさいと言って、イスラエルの首都サマリヤに連れて行きました。これが、平和的解決の作戦です。
サマリヤの真中に着くと、エリシャは3度目の祈りをします。「主よ、この人々の目を開いて見させてください」(6:20)。彼らの目が開かれ、どんなにびっくりしたことでしょうか。形勢逆転、彼らの方が窮地に立たされたのです。万事休すです。イスラエルにとってはアラムを打つチャンスです。王は「わが父よ、彼らを撃ち殺しましょうか。彼らを撃ち殺しましょうか。」と野球用語でいうなら打ち気にはやり、神の人に言います。しかし、冷静に、信仰をもってみこころを告げます。「撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって、捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとへ行かせなさい」(6:23)。実に寛大な処置です。先を見通しての発言です。
王はどうしたか、その結果どうなったか、聖書にはこう記録されています。「そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた。彼らが食い飲みを終ると彼らを去らせたので、その主君の所へ帰った。スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった」(6:23)。直接、争ったわけではないのですが、アラムの略奪隊は敗北して、帰ったのです。イスラエルには生ける神、主がついているということを見せつけられて、何も出来ずに、しかも、もてなされるほど、余裕を見せつけられて、帰って行ったのです。「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」と言えましょう(ローマ8:37)。
◇味方の存在を見切る
ところで、エリシャは何をしたのでしょうか。何に集中したのでしょうか。始め、敵の計略を見抜いていたのですが、いざ、敵に包囲された時に三度祈りました。一度目は若者の目を開けることを、二度目は敵の目を閉ざすことを、三度目は敵の目を開かせることを、というように、目のことだけに集中していたのです。敵に勝つには敵を知ることだと言われますように、確かに前半は敵の計略を見破った(敵の内密の声を聞いたのか)ので、敵を阻止できたのです。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」とあるように、見えない究極の敵はサタンです(エペソ6:12)。主イエスも公生涯に入る前に、サタンの試みを受けた時、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」と言って(マタイ4:10)、見えない敵を退け、御使たちがみもとにきて仕えたのです。
さらに重要なことは、見えない「味方」が見えるようになることです。見える敵に私たちは恐れてしまいます。しかし、霊の目が開かれて、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」との見えない事実を確認しましょう(列王記下6:16)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1新共同訳)。モーセもその信仰に立ちました。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです」(ヘブル11:27同訳)。ステパノもその信仰に立ちました。寄ってたかって石を投げつけられ殉教していく時に、死を恐れず、栄光に輝きこう言いました。「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」(使徒7:56)。
若者が見たエリシャを囲む火の馬と戦車が、あなたの回りを囲んでいるのです。モーセが目に見えない方を見ていたという出エジプトの「主」があなたの味方としてかたわらにおられるのです。ステパノが見たという人の子・死からよみがえり、神の右におられるイエス・キリストが、今そこにいるあなたに向き合って臨在しておられるのです。「われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多い」のです。信仰をもって、霊の目が開かれ、この見えないけれども確かにあるこの事実を確認しましょう。
「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」列王記下6:16
世界を震撼させた一枚の写真があります。ベトナム戦争最中の1972年6月8日、南ベトナム軍の空軍機から投下されたナパーム弾によって、9歳のキム・フックという少女が背中一面と腕に火傷を負って、兄弟たちと泣き叫びながら裸で逃げまどっていました。その様子をAP通信社カメラマンのフイン・コン・ウトさんが写真に撮り、子供たちを病院へ運びました。この写真が「戦争の恐怖」と題され、ベトナム戦争で人々の心に最も強い印象を与えたので、翌年のピュリツア―賞を受賞しました。その写真は戦争の残酷さや恐怖を見事に捉え、歴史の目撃者になり、反戦運動を盛り上げ、戦争終結を早めるために貢献したと言われています。
今日の聖書は預言者が戦争を終結させたというたいへんユニークな話です。北イスラエル王国に、北東にあるアラム王国の略奪隊が襲ってきた時のことです。イスラエルには預言者集団の指導者で「神の人」と呼ばれるエリシャがいました。彼はエリヤの後を継ぎ、神からの特別な賜物が与えられ、その名「神は救いである」の示すとおり、窮地におかれた人や国を救う働きをしました。言い換えれば、師と共に「イスラエルの神は生きておられる」ことを奇跡をもって証詞したのです。
◇敵の動きを見破る
アラムの王が「しかじかの所にわたしの陣を張ろう。」と家来たちと相談すると、それを見抜いて、神の人エリシャが「あなたは用心して、この所をとおってはなりません。スリヤ(アラム)びとがそこに下ってきますから。」とイスラエルの王に警告するので、その作戦は失敗に終わるのです。それが一度や二度ではなかったというのですから、アラム王はスパイがいるに違いないと考えるのは自然です。しかし、家来のひとりが事の真相を伝えます。「王、わが主よ、だれも通じている者はいません。ただイスラエルの預言者エリシャが、あなたが寝室で語られる言葉でもイスラエルの王に告げるのです」(6:12)。そこでエリシャを捕らえようと、居場所を突き止め、馬と戦車と大軍とをそこに送り、夜のうちに、ドタンの町を包囲したのです。ひとりの人を捕まえるのに実に大がかりです。
◇敵の動きを封じる
朝早く起きたエリシャの召使いがこの事態に気付くと、エリシャが「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と不思議なことを言います。そして、祈ります。「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」。すると、主によって若者の目が開かれ、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えたのです。それは御使いの軍勢で、神の臨在を示すものでした。私たちも何らかの敵に囲まれるような状況に立たせられることがあるでしょう。目の前が真っ暗になってしまうことがありましょう。その様な時に祈って、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」とのみ声を聞き、背後の臨在を霊の目で見ましょう。「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)。
アラム軍がエリシャに向かって来たとき、彼はまた、主に祈りました。「どうぞ、この人々の目をくらましてください」(6:18)。若者の目が開かれることを祈ったエリシャは今度は敵の目が閉ざされることを祈ったのです。その通りになり、敵の全員の目が一時的に盲目となり、なすすべがなくなってしまったのです。そこで、エリシャは他人のふりをして、あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやるから、私について来なさいと言って、イスラエルの首都サマリヤに連れて行きました。これが、平和的解決の作戦です。
サマリヤの真中に着くと、エリシャは3度目の祈りをします。「主よ、この人々の目を開いて見させてください」(6:20)。彼らの目が開かれ、どんなにびっくりしたことでしょうか。形勢逆転、彼らの方が窮地に立たされたのです。万事休すです。イスラエルにとってはアラムを打つチャンスです。王は「わが父よ、彼らを撃ち殺しましょうか。彼らを撃ち殺しましょうか。」と野球用語でいうなら打ち気にはやり、神の人に言います。しかし、冷静に、信仰をもってみこころを告げます。「撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって、捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとへ行かせなさい」(6:23)。実に寛大な処置です。先を見通しての発言です。
王はどうしたか、その結果どうなったか、聖書にはこう記録されています。「そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた。彼らが食い飲みを終ると彼らを去らせたので、その主君の所へ帰った。スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった」(6:23)。直接、争ったわけではないのですが、アラムの略奪隊は敗北して、帰ったのです。イスラエルには生ける神、主がついているということを見せつけられて、何も出来ずに、しかも、もてなされるほど、余裕を見せつけられて、帰って行ったのです。「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」と言えましょう(ローマ8:37)。
◇味方の存在を見切る
ところで、エリシャは何をしたのでしょうか。何に集中したのでしょうか。始め、敵の計略を見抜いていたのですが、いざ、敵に包囲された時に三度祈りました。一度目は若者の目を開けることを、二度目は敵の目を閉ざすことを、三度目は敵の目を開かせることを、というように、目のことだけに集中していたのです。敵に勝つには敵を知ることだと言われますように、確かに前半は敵の計略を見破った(敵の内密の声を聞いたのか)ので、敵を阻止できたのです。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」とあるように、見えない究極の敵はサタンです(エペソ6:12)。主イエスも公生涯に入る前に、サタンの試みを受けた時、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」と言って(マタイ4:10)、見えない敵を退け、御使たちがみもとにきて仕えたのです。
さらに重要なことは、見えない「味方」が見えるようになることです。見える敵に私たちは恐れてしまいます。しかし、霊の目が開かれて、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」との見えない事実を確認しましょう(列王記下6:16)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1新共同訳)。モーセもその信仰に立ちました。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです」(ヘブル11:27同訳)。ステパノもその信仰に立ちました。寄ってたかって石を投げつけられ殉教していく時に、死を恐れず、栄光に輝きこう言いました。「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」(使徒7:56)。
若者が見たエリシャを囲む火の馬と戦車が、あなたの回りを囲んでいるのです。モーセが目に見えない方を見ていたという出エジプトの「主」があなたの味方としてかたわらにおられるのです。ステパノが見たという人の子・死からよみがえり、神の右におられるイエス・キリストが、今そこにいるあなたに向き合って臨在しておられるのです。「われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多い」のです。信仰をもって、霊の目が開かれ、この見えないけれども確かにあるこの事実を確認しましょう。