オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

目を開いて

2011-05-29 00:00:00 | 礼拝説教
2011年5月29日 主日礼拝(2列王記6:8-23)岡田邦夫・みのお泉教会にて

 「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」列王記下6:16

 世界を震撼させた一枚の写真があります。ベトナム戦争最中の1972年6月8日、南ベトナム軍の空軍機から投下されたナパーム弾によって、9歳のキム・フックという少女が背中一面と腕に火傷を負って、兄弟たちと泣き叫びながら裸で逃げまどっていました。その様子をAP通信社カメラマンのフイン・コン・ウトさんが写真に撮り、子供たちを病院へ運びました。この写真が「戦争の恐怖」と題され、ベトナム戦争で人々の心に最も強い印象を与えたので、翌年のピュリツア―賞を受賞しました。その写真は戦争の残酷さや恐怖を見事に捉え、歴史の目撃者になり、反戦運動を盛り上げ、戦争終結を早めるために貢献したと言われています。
 今日の聖書は預言者が戦争を終結させたというたいへんユニークな話です。北イスラエル王国に、北東にあるアラム王国の略奪隊が襲ってきた時のことです。イスラエルには預言者集団の指導者で「神の人」と呼ばれるエリシャがいました。彼はエリヤの後を継ぎ、神からの特別な賜物が与えられ、その名「神は救いである」の示すとおり、窮地におかれた人や国を救う働きをしました。言い換えれば、師と共に「イスラエルの神は生きておられる」ことを奇跡をもって証詞したのです。

◇敵の動きを見破る
 アラムの王が「しかじかの所にわたしの陣を張ろう。」と家来たちと相談すると、それを見抜いて、神の人エリシャが「あなたは用心して、この所をとおってはなりません。スリヤ(アラム)びとがそこに下ってきますから。」とイスラエルの王に警告するので、その作戦は失敗に終わるのです。それが一度や二度ではなかったというのですから、アラム王はスパイがいるに違いないと考えるのは自然です。しかし、家来のひとりが事の真相を伝えます。「王、わが主よ、だれも通じている者はいません。ただイスラエルの預言者エリシャが、あなたが寝室で語られる言葉でもイスラエルの王に告げるのです」(6:12)。そこでエリシャを捕らえようと、居場所を突き止め、馬と戦車と大軍とをそこに送り、夜のうちに、ドタンの町を包囲したのです。ひとりの人を捕まえるのに実に大がかりです。

◇敵の動きを封じる
 朝早く起きたエリシャの召使いがこの事態に気付くと、エリシャが「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と不思議なことを言います。そして、祈ります。「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」。すると、主によって若者の目が開かれ、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えたのです。それは御使いの軍勢で、神の臨在を示すものでした。私たちも何らかの敵に囲まれるような状況に立たせられることがあるでしょう。目の前が真っ暗になってしまうことがありましょう。その様な時に祈って、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」とのみ声を聞き、背後の臨在を霊の目で見ましょう。「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)。
 アラム軍がエリシャに向かって来たとき、彼はまた、主に祈りました。「どうぞ、この人々の目をくらましてください」(6:18)。若者の目が開かれることを祈ったエリシャは今度は敵の目が閉ざされることを祈ったのです。その通りになり、敵の全員の目が一時的に盲目となり、なすすべがなくなってしまったのです。そこで、エリシャは他人のふりをして、あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやるから、私について来なさいと言って、イスラエルの首都サマリヤに連れて行きました。これが、平和的解決の作戦です。
 サマリヤの真中に着くと、エリシャは3度目の祈りをします。「主よ、この人々の目を開いて見させてください」(6:20)。彼らの目が開かれ、どんなにびっくりしたことでしょうか。形勢逆転、彼らの方が窮地に立たされたのです。万事休すです。イスラエルにとってはアラムを打つチャンスです。王は「わが父よ、彼らを撃ち殺しましょうか。彼らを撃ち殺しましょうか。」と野球用語でいうなら打ち気にはやり、神の人に言います。しかし、冷静に、信仰をもってみこころを告げます。「撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって、捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとへ行かせなさい」(6:23)。実に寛大な処置です。先を見通しての発言です。
 王はどうしたか、その結果どうなったか、聖書にはこう記録されています。「そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた。彼らが食い飲みを終ると彼らを去らせたので、その主君の所へ帰った。スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった」(6:23)。直接、争ったわけではないのですが、アラムの略奪隊は敗北して、帰ったのです。イスラエルには生ける神、主がついているということを見せつけられて、何も出来ずに、しかも、もてなされるほど、余裕を見せつけられて、帰って行ったのです。「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」と言えましょう(ローマ8:37)。

◇味方の存在を見切る
 ところで、エリシャは何をしたのでしょうか。何に集中したのでしょうか。始め、敵の計略を見抜いていたのですが、いざ、敵に包囲された時に三度祈りました。一度目は若者の目を開けることを、二度目は敵の目を閉ざすことを、三度目は敵の目を開かせることを、というように、目のことだけに集中していたのです。敵に勝つには敵を知ることだと言われますように、確かに前半は敵の計略を見破った(敵の内密の声を聞いたのか)ので、敵を阻止できたのです。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」とあるように、見えない究極の敵はサタンです(エペソ6:12)。主イエスも公生涯に入る前に、サタンの試みを受けた時、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」と言って(マタイ4:10)、見えない敵を退け、御使たちがみもとにきて仕えたのです。
 さらに重要なことは、見えない「味方」が見えるようになることです。見える敵に私たちは恐れてしまいます。しかし、霊の目が開かれて、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。」との見えない事実を確認しましょう(列王記下6:16)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1新共同訳)。モーセもその信仰に立ちました。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです」(ヘブル11:27同訳)。ステパノもその信仰に立ちました。寄ってたかって石を投げつけられ殉教していく時に、死を恐れず、栄光に輝きこう言いました。「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」(使徒7:56)。
 若者が見たエリシャを囲む火の馬と戦車が、あなたの回りを囲んでいるのです。モーセが目に見えない方を見ていたという出エジプトの「主」があなたの味方としてかたわらにおられるのです。ステパノが見たという人の子・死からよみがえり、神の右におられるイエス・キリストが、今そこにいるあなたに向き合って臨在しておられるのです。「われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多い」のです。信仰をもって、霊の目が開かれ、この見えないけれども確かにあるこの事実を確認しましょう。

価値観が変えられれば

2011-05-22 00:00:00 | 礼拝説教
2011年5月22日 主日礼拝(イザヤ43:1-4)岡田邦夫


 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

 テレビのバラエティ番組で、開運!なんでも鑑定団という番組が17年続いています。様々な人が持っている「お宝」を専門家が鑑定し、値段付けを行うものです。意外なものが高価な鑑定結果を得たり、高価だと思われていたものが偽物等で安価になってしまうという意外性などあって面白い番組です。
 私のお宝といいますと、中学生の時に夏休みの宿題で、家の中から見た門と庭を描いた水彩画です。決して上手いとはいえない絵ですが、当時のことを思い出させるものがあります。わが家は、東京大空襲で疎開している間に、焼失してしまったので、戦後、日の当たらない長屋に住むしかありませんでした。一家はそこから出たいと切に思い、家族が働いて、郊外に門構えの家を建てたのです。しかし、家が出来たのですが、皆働いているので、庭を手入れする時間のあるのは、中学生の私しかいません。設計図を描いて、木を植え、花壇を作らせてもらいました。よく、その庭を眺めていたものですから、その絵を描いたわけですし、今もその絵を見ていると、豊かな時を過ごしていた当時の様々な思い出がぽろぽろと出てくるのです。しかし、その絵は他の人には何の価値もないものですが、私にとっては「お宝」なのです。

◇貧弱な民、でも宝
 逆に、公に宝と認められたものとして国宝があり、世界遺産がありますが、神が認めた宝というのが聖書に記されています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(申命記7:6)。あなたとはイスラエル民族。イスラエルを神がお宝に選んだわけはこうです。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された」(同7:7 -8)。
 神が宝の民とされた理由の一つは貧弱な民を愛したからだということ。もう一つはこうです。この民がエジプトに住む前、約400年以上前に、アブラハム、イサク、ヤコブの先祖たちに、子孫を増やし、約束の土地を与えると神が誓っていました。その約束を果たすために、神はエジプトの奴隷で苦しんでいるこの民を、モーセをたて、数々の大いなる奇跡を起こして、脱出させたのです。先祖たちに誓われた誓いを守られたから、神にとって宝の民なのです。ひと言でいうと愛と誠実をもって宝の民とされたのです。
 そして、宝の民であり続けるようにと、契約としての十戒を与え、約束の地、カナンに住まわせました。しかし、この民はこの契約を破り、偶像の神に走り、主なる神を捨て、十戒を破っていきます。そこで、神は歴史的な裁きを下します。神はアッシリヤ帝国の侵攻を許し、北イスラエル王国は滅ぼさせます。残る南ユダ王国も主なる神から離れて行きます。裁きがなされるのは時間の問題でした。アッシリヤに代わって台頭してきたバビロン帝国がユダ王国に迫ってきています。その様な時に、神の預言者イザヤが壮大な預言を致します。主に前半(1-39章)で神の民への裁きだけでなく、神に背く諸外国、すなわち、人類への裁きを告げます。しかし、後半(40-66章)では主に神の民の救いと人類の救いが絵を描くように告げられています。天地創造から始め、新天新地の出現にいたる壮大な神のドラマが記されている、聖書66書を、まるでイザヤ書66章が濃縮したような内容です。

◇虫けらな民、でも宝
 その救いのメッセージがこの聖書の箇所にも記されています(43:1ー4)。神は「わたし」と「あなた」という、一人称と二人称で語り合おうとされるのです。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。」と。ヤコブというのは先ほど述べた先祖で、双子で生まれた弟の方で、生まれる時に兄エサウのかかとつかんで生まれてきたので、押しのける者という意味のヤコブと命名されました。相続権は兄にあったのですが、ヤコブはその名のように、策をめぐらして、その権利を奪ってしまいます。それでも、神の祝福はヤコブの方に受け継がれていきます。そのようなヤコブを呼ばれるのです。41章14節では「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。」と呼んでいます。私、畑を鍬で耕していると、冬眠していたかえるが出てきたり、ミミズが出てきたりします。シュバイツァーの生命への畏敬を思い出し、かえるは水辺に、ミミズは土中に戻したりしていますが、様々な虫が出てきますので、結局、虫けらとして扱ってしまいます。これが機械でやれば、虫の存在すら感じないで、土を効率よくかき混ぜてしまいます。
 神は虫けらを無視はされないのです。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。」と名を呼ぶのです。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」と言われるのです。私が企業に入社した時、一流大学を出た先輩が「また、じゃりが入って来た」と陰で言ってるのが耳に入ってしまい、ショックでした。これが世の中の現実だということを知らされた時でした。それで奮起もしましたが、求道する一つの要因にもなり、今では感謝しています。後にクリスチャンになり、荒野の泉という日課を読んでいた時に、この「恐れるな。虫けらのヤコブ、…あなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。」のみことばに出会い、感動し、今も私へのみ言葉として、受けとめています。
 「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。」はこの民がバビロンに捕らえ移されても大丈夫だと言っているのですが、それはまた私やあなたに向かって言っているでしょう。どんな試練が来ても、イスラエルの神、キリストの神は共いるので救われると約束しているのです。その理由は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」なのです。
 神は背信のイスラエルを捨てたわけではなく、宝の民として見ておられるのです。しかも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とおっしゃるのです。目に入れても痛くない程、かわいいのです。お宝を専門の鑑定士が鑑定するように、神という鑑定士が鑑定して、「あなたは高価で尊い。」と値積もってくださるのです。私たちを罪と死の奴隷の中から、イエス・キリストの血(命)の代価によって贖い、買い取り、神のものとされたのですから、高価で尊いのです。神の前に罪を犯した虫けらかも知れませんが、イエス・キリストを救い主と信じる者を義とし、神のお宝の民としてくださるのです。世の中は流行があり、かつて価値があったものが今は無価値というものもあります。しかし、神の愛と誠実は永遠に変わらず、神が価値ありとしたものは永遠に変わらないのです。

 最後に大庭智子さんという方の証詞をしたいと思います(百万人の福音2002年2月号別冊より「幸せはここに」)。

もっと器を・満たす神

2011-05-15 00:00:00 | 礼拝説教
2011年5月15日 主日礼拝(2列王記4:1-7)岡田邦夫・宝塚泉教会にて

 「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」2コリント9:8

 私が東京聖書学院で学んでいた頃、日本もまだそんなに豊かではなく、学費も寮費もアメリカのOMSIから全額サポートされていましたので、たいへん助かりました。生活費、学用品の方はミッション費などで工面するのですが、基本的には祈って、主から与えられるという信仰の訓練なのでした。私はある時、考えられないことなのですが、かけていた眼鏡がなくなりました。顔の一部、ないと不便ですから、見つかるように祈りました。どこを探しても見つからず、眼鏡なしで授業に出ていました。何日かしたら、寮の私の机の上になにやら封筒が置いてありました。裏に「エリヤのからすより」と書いてあって、中に眼鏡が買える献金が入っていました。誰がエリヤのからすなのかはわかりませんでしたが、たいへん助かりましたし、この愛の贈り物が嬉しかったものです。
 「エリヤのからす」は以下の聖書の話からのものでした。預言者エリヤが不信仰のアハブ王と対決し、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう。」と言って、ケリテ川のほとりに身を隠しました。しかし、食料がありません。何と、朝に夕に、神がからすにパンと肉を運ばせたのです。それを食べ、川の水を飲んで、養われたのです。主のはからいでした。
 この預言者エリヤの弟子がエリシャです。エリヤが天に召される時に、エリヤはエリシャに「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい。」と言うと、エリシャは言いました。「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。エリシャは預言者として、エリヤの後継者に召されたのです。ですから、行動預言者エリヤを通してなされた奇跡が、エリシャを通してもなされました。その一つはエリヤがやもめを養ったように(列王上17:8-16)、エリシャも同じことをしました。それが今日の話です。

◇イスラエルの国で充たされて
 預言者の仲間の妻がエリシャに助けを求めて叫んだのです。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております」(4:1)。実に気の毒な状況です。夫に先立たれて、悲しみに打ちひしがれているところに、追い打ちをかけるように、借金のかたに子どもを奴隷にしようとしているのですから、ひどい話です。お金がないという「欠乏状態」です。私たちは金銭の欠乏だけでなく、さまざまな欠乏というものがあります。ビタミンの欠乏もあれば、能力の欠乏、気力の欠乏、愛の欠乏など、様々あり、私たちはそのからだの欠乏を充たし、そのこころの欠乏を充たそうと求めて生きています。自己実現というのも、そのようなことでしょう。

 しかし、主なる神は欠乏を充たす神、養う神です。ダビデが信仰の詩をこう詠っています。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。…あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。…わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」(詩篇23篇抜粋)。これは理想やあこがれではなく、実感として詠われているのです。信じる者にはそれが現実感覚になるのです。
 具体的に夫を亡くしたやもめが窮状に陥って、預言者エリシャに求めた時、エリシャは答えました。そのやり取りは普通ではありません。
 預言者:「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」
 やもめ:「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
 預言者:「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
 神の人の言われた通りに、母子は実行します。うしろの戸を閉じ、次々に借りてきた器に油をつぐと、みな一杯になったのです。
 彼女:「もっと器を持って来なさい。」
 子ども:「もう器はありません。」
 すると、油は止まりました。
 神の人:「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

 主は「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。…わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」の詩篇のとおりの神です。油のつぼ一つ「しか」なかったのですが、主が奇跡を起こし、借りてきたすべての器に油を充たし、借金を返し、やもめと子どもたちを養われたのです。私たちの信じる神はこのような神なのです。パウロもこう言っています。「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」(2コリント9:8)。

◇神の国で満たされて
 ここで、私たちは四福音書に出てくる五千人に食べ物を与えた奇跡を思い起こします。弟子が「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません。」と言うと、イエスは「それをここに持ってきなさい。」と言われ、祝福し、それを分けていくと、五千人が満腹し、パン切れの余りも十二かごありました。パン五つと魚二ひき「しか」なかったのですが、主が奇跡を起こし、五千人の腹を充たしました。杯があふれるように、余りが十二かごにもなりました。これは神の国の光景です。主が再臨される時、完成する神の国で、救い主はすべての欠乏を充たされるのです。そして、私たちはこの世において、それを先取りして、主の満たしを経験していくのです。
 ですから、欠乏を感じる時に、ためらわずに祈りましょう。ダビデの神、羊を養われる羊飼いである神がおられるのです。エリヤの神、エリシャの神、キリストの神は生きておられるのです。パスカルが言いました、人間には神によってしか埋めることのできない空洞があるという、その魂の「空洞」を神の恵みと愛で満たしてくださるのです。魂の底まで満たしてくださるのです。
 あなたは神のわざのために欠乏を覚えますか。主はあなたという器に聖霊という油を満たして、主の用をさせていただけるのです。主は「もっと器を持って来なさい。」と言います。私自身の中の使われいない器があるでしょうか、私たちの間で、使われいない器がいるでしょうか、もっと器を主の前に持っていきましょう。「あらゆる恵みを豊かに与え、常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかた」が満たしてくださり、主が用いてくださるに違いありません。「もう器はありません。」というところまで、主は満たしてくださるのです。

 最後に、少し趣が違いますが、ほんとうに満たされることが何なのかを言っている、ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩「病者の祈り」を載せておきます。

大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった

より偉大なことができるように 健康を求めたのに
よりよきことができるようにと 病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった

人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと 生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中 最も豊かに祝福されたのだ

イエスの昇天・また来る

2011-05-08 00:00:00 | 礼拝説教
2011年5月8日 主日礼拝(ルカ24:44-53)岡田邦夫

 「あなたがたは、これらのことの証人です。」ルカ福音書24:48

 さよならのあいさつで、英語のグッドバイ(Good-bye)は神があなたを守りますようにという意味で良い言葉だと思います。スィーユーレイター(see you later.また会いましょう)もあります。さよならの中国語は「再見(ザイジエン)」。仏独伊露も「また会いしょう」の意味の言葉を使っているようです。この「また会う」ということが人間生活にとってとても大切なことです。入院している人に「またね」と言って別れるとか、手術に向かう人に「またね」と送り出すことは病いと闘う人に安心や希望を与えます。

◇からだ
 イエス・キリストは弟子たちとの別れの夕食(最後の晩餐)で、「また会いしょう」と言われました。しかし、それは日常のことでなく、永遠にかかわることでした。父の家に「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14:3)。「また来て」とメッセージあいさつをされたのです。
 イエスが死後、復活されて、弟子たちが集まっているところに、姿を現されました。死んだはずのイエスご自身が彼らの真中に立たれたのですから、霊を見ているのだと思って、恐れおののいてしまいました。そこで、主は「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」と言われ、主は十字架で打たれた釘跡のある手足を見せました(24:39)。また、焼いた魚を一切れ、彼らの前で召し上がり、からだを持つ存在であることを示しました。弟子たちにとって、自分たちと同じ肉や骨があり、手足のある方、生前、寝食を共にし、ついてきたイエスに「また」お会いでき、その声を聞き、その姿を見、共に食したのですから、信じられず、不思議がったのも当然です。しかし、事実なのですから、大きな喜びがわきあがってきました。私たちにとって、イエス・キリストが復活されても、私たちと同じ肉や骨があり、手足のある方、すなわち、同じ人格であるというのは、希望です。主の再臨と共に訪れる終わりの日に、信者である私たちのからだも復活しますが、私という人格は変わらないのです。輪廻転生のように他の生き物に転生することはないのです。この世に生まれ、人生をたどった私は私、その私が栄光のからだ、完全な人格によみがえるのです。私の存在は連続しているのです。地上で悔い改め、主を信じて生きた私は虚しく消滅したりはしないのです。その信じて生きた私は栄光に輝く復活のからだに変えられるのです。

◇ことば
 人が死ぬ時に残された者のために遺言を残すことがありますが、主が残されたのは「福音の言葉」でした。
 「イエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした』。そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい』」(24:44ー49)。
 「この」福音の言葉は復活の証人である使徒たちが受け取りました。約束の聖霊が彼らに臨んだ時、力を受け、主が残された言葉通りに、福音の言葉を語りました。アウトラインは預言の成就、イエスの生涯、十字架、復活、悔い改めですが、この説教で、三千人もの人が悔い改めて、洗礼を受け、仲間に加わったのです。その福音の言葉は初代教会から、2000年の間、受け継がれ、世界に広がり、今日を得ているのです。その福音の言葉は整えられ、使徒信条の信仰告白の形ともなって受け継がれています。

◇いのち
 福音の言葉が生きた言葉として、どうして人を救う力になるのか、一つたとえで話しましょう。ある人が暗い林の中をさまよっていました。すると、幸いなことに池にでました。その池には実にきれいな月が水面(みなも)に移り、細波にゆれてキラキラと輝いていました。彼はすぐに上空を見上げました。そこには満面の笑みをたたえたような満月が闇の中に白く輝いていました。彼は何か心が洗われるような気がして、うっとり見とれていました。福音の言葉によって描き出されたイエスは池の月のようです。その月が自然と見る者の目を上にある本物の月を見させるように、聖霊によって、復活のキリストを指し示します。さらに、聖霊によって、私たちを生けるそのお方に出会わせていただき、今、この時に罪を赦され、復活の命に与り、救われるのです。
 私たちは本物に出会うのです。まことのキリストに礼拝ごとに出会うのです。祈り、賛美、説教から、織り出された福音の言葉から、それを告げるお方自身に目を向ける時に、その素晴らしい復活の主に出会うのです。先週、会っても、今週「また」復活の主に会うのです。日常語でしたら、「また、お会いしましたね」となるのでしょう。私たちは神をほめたたえずにはおられません。

 そして、主は明確な希望の「また」を残していきました。「そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。」(「天に上げられた。」新共同訳、24:51)とありますように、イエス・キリストは昇天されました。ルカによる福音書の著者の続編「使徒の働き」ではそれを詳しく述べています。「イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」(使徒1:10ー11)。
 またおいでになるとの約束です。再び来られるのです。再臨です。再見出来るのです。使徒たちが見たときと同じ有様で、またおいでになるのです。まるで、じゃまた来るからねとあいさつして行かれたかのようです。確かに、同じ有様で、またおいでになるのです。明白です。待っている気持ちになります。すべての聖徒たちと共に再臨を待っているのです。そのように生きている「あなたがたは、これらのことの証人」なのです(24:48)。天の父の家に私たちを迎えに来られるのです。初穂として、よみがえられた主の跡に続いて、信者の私たちも復活の実に与るのです。朽ちるからだが朽ちないからだによみがえるのです。主と同じ有様になって、神が人と共に住み、人が神と共に住むようになる日がくるのです。もう、「また」という必要のない永遠がおとずれるのです。よみがえらされた者たちすべてが、小羊イエスをたたえ、喜びにあふれた礼拝がなされ続いてくのです。その喜びの礼拝の先取りが、毎週の礼拝だと言えます。私たちは「これらのことの証人」なのです(24:48)。
 主の昇天の時に「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」ことが、受け継がれ、礼拝式の最後に手を上げて祝祷を致します。その意味で、祝祷は復活の証人として遣わすが、「また」次の主日に会いましょうの聖なるあいさつなのでしょうか。また、父と子と聖霊の名によって世に遣わすが、再臨の時にあなたがたが栄光のからだに変えられて、永遠の礼拝がなされる時に「また」会いましょうの聖なるあいさつなのでしょうか。きっとそうなのです。

エマオの途上・心は燃えて

2011-05-01 00:00:00 | 礼拝説教
2011年5月1日 主日礼拝(ルカ24:13-43)岡田邦夫

 「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」ルカ福音書24:32

 イエス・キリストが死んで葬られ、三日目のこと、二人の弟子がエルサレムから11キロほどのエマオ村に行く途中の出来事です。その一人はクレオパ(Κλεοπασ)という弟子、どこかで聞いたような名前です。有名なクレオパトラ(Κλεοπατρα)、そう結びつけるのは私だけでしょうが、特に二人は関係はありませんが、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史が変わっていた。」と言った哲学者パスカルの言葉を申し上げたいのです(パンセ)。「人間とは、またその存在が紡ぎ出す歴史とは、何か少しを変えてしまうだけで何もかもが変わってしまう。それほど、それらは絶対的指針を持たぬ流動的で儚い(はかない)ものなのだ」という意味です。
 しかし、聖書はこう言っています。「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。…もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(1コリント15:14ー17)。キリストが復活されたからこそ、ヨーロッパの歴史も世界の歴史も変わったのは事実です。しかし、それ以上に儚い(はかない)ものが揺るぎ無いものに変えられたことを申し上げたいのです。

◇目が開かれて
 クレオパともう一人の弟子が話しながら歩いていると、一人の人が加わってきたので、その方が復活されたキリストとは気付かず、こう話しました。
 「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです」(24:19ー24)。
 するとその方が「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」と説教をされるのです(24:25ー26)。そして、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされました。そうして、「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も」、二人の「心はうちに燃えていた」のです(24:32)。二人がその方にいっしょに泊まるよう勧めると、その方も中にはいられ、彼らとともに食卓に着かれました。その方が「パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡され」ると、「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった」のでした(24:30ー31)。

◇心が開かれて
 この「心はうちに燃えた」のは、実は歴史が変ったからです。主は旧約の聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされました。言い換えれば、聖書全体が綴る歴史が漫然としていて、移ろいゆくものではなく、神による救いの歴史がすべて一つのことに向かっていたことを明白にされたということです。そして、その一つのことというのは「キリストが苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいる」という救い主の十字架と復活の出来事でした。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」という光が差し込んで、弟子たちの心はうちに燃えたのです(詩篇119:130)。旧約聖書で救い主(キリスト)が来られ、イスラエルおよび人類を救うという出来事を待ち望むという歴史が主の十字架と復活において終わったのです。「きょう、聖書のことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現した」ことなのです(ルカ4:21)。圧倒される神の救済史に、弟子たちは感動し、心は内に燃えたのです。
 後に聖霊が臨んで、明らかになるのですが、旧約の時代が終わって、新約の時代が始まったということを明白に知るのです。キリストが降誕され、十字架にかかり、復活されて、「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」(ヨナ書=使徒2:17)という終わりの日、終末が始まったのです。主がパンをさかれた時、目が開かれ、その様子で「ほんとうに主はよみがえった」のだとわかり、聖餐のことば「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。…この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」を思い出したのです(22:19ー20)。新しい契約の時代が始まったことを知らされ、弟子たちはたいへんな厳粛さに、おおわれたに違いありません。これを誰かに伝えずにはおられない程、心は内に燃えたに違いありません。

◇心が燃やされて
 この後、十一使徒とその仲間が集まっているところに、復活の主が現れ、聖書を悟らせるために、彼らの心を開いて言われました。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です」(24:46ー48)。新しい神の救いの歴史が始まり、十字架と復活の福音が世界中に宣べ伝えられていく、その歴史の担い手が復活の主に出会った者であり、心が内に燃えた人たちなのです。
 人類の歴史は火という熱エネルギーを知り、やがて、石化エネルギーや原子力エネルギーを使い、文明を築いてきました。しかし、それは前述したように滅び行く儚い(はかない)ものなのです。聖書によれば「世と世の欲は滅びます。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」とあります(1ヨハネ2:17)。神のみこころを行う者たちが「心が内に燃えて」ふるわれない神の救いの歴史を担うのです。そうして、神の国の完成、新天新地の現れに向かって、救済史は揺らぐことなく展開していくのです。
 それは個々の人生にも類比されます。キリストに出会って、滅び行く私の人生の歴史が永遠の救いに導かれる人生の歴史に変えられ、「心が内に燃えて」救いの歴史の担い手として、私は神と誰かのために生きていくのです。A.B.シンプソン作詞の聖歌602番の4節はそのキリスト者の心境を表しています。「この世に再び来たるまで、エマオの途上にありしごと、われらのかたえを歩みつつ、イエスは変わりなく語りたもう。よし世のすべては変わるとも、変わりなきイエスに栄えあれ。…」。人生のエマオの途上で「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」という導きをいただきましょう(24:32)。「日々主イエスと歩み ややに御姿を映し ただ神より来たる 愛に満たされつつ 心は燃心は燃ゆ 御霊の火にて燃ゆ…」と賛美に導かれましょう(新聖歌411②)。恵みの歴史に目が開かれ、復活の主に心が開かれ、心がうちに燃やされましょう。心がうちに燃やされて、神をほめたたえ、心がうちに燃やされて、誰かの人生を救いの歴史に変える担い手にしていただきましょう。