オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

知識は高ぶらせるが、愛は造り上げる

2018-06-24 00:00:00 | 礼拝説教
2018年6月24日(日)伝道礼拝(1コリント8:1~6)岡田邦夫


「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(1コリント8:1~3共同訳)

メディアは実にたくさんの情報を提供してくれます。常識的なことから学術的なこと、雑学的なことにいたるまで、私たちの知的欲求をかりたて、また、満たそうとしています。それらの知識は身を守るためのものもあれば、人生や生活を楽しむためのものもあります。しかし、それを悪用して、人を貶めたり、殺めたりすることも後を絶ちません。そこで今日は「知識」について聖書がどう言っているか、パウロの言葉からお話ししたいと思います。
「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(1コリント8:1~3共同訳)

◇知識は人を高ぶらせる
 私たちにとって、知識の悪用で最も顕著なのは、核兵器であることは誰もが知るところです。そして、これを無くせないという人間の罪深さが渦巻いています。「ペンは剣より強し」が当てはまりません。これは私たちが持っている人の本質です。そもそも、最初の人間、アダムとエバはエデンの園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならないと神が禁じていたのに、それを破り、取って食べてしまいました。ヘビを装ったサタンが本当に神はそう言ったのかと疑わせ、これを食べると神のようになると誘惑し、人は食べてしまったのです。そこに罪の始まり、罪の本質があります。「かみのようになる」という高慢です。「知識は人を高ぶらせる」はそれを言っていると思います。謙虚に自覚したいと思います。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」。
 それで、ラインホールド・ニーバーの祈りを私たちは祈りたいものです。
「主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと変えられるものを変える勇気とその両者を見分ける英知を我に与え給え」。
「神よ、私に変えることのできないものは、それを素直に受け容れるような心の平和を!変えることのできるものは、それを変える勇気を!そして変えられるものと変えられないものとを、見分ける知恵を!この私にお与えください。」
 彼は神学者です。真の知識が必要であることを知って祈るのです。真の知識とは飛躍しますが十字架の言葉です。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする』。… しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」(1コリント1:18-19,30)。

愛は造り上げる
 ヘレン・ケラーは1880年6月に誕生。1歳9カ月のときに胃と脳髄の急性充血による高熱で、視覚と聴覚を失い、言葉が不自由になった。両親は沈黙の世界にいたヘレンが短気でワガママな子どもになるのを見るにつけ、教育の必要性を痛感。6歳の時に、アレグザンダー・ベルに相談すると翌年、アン・サリバンが家庭教師として派遣された。しつけをするものの「言葉」というものがどうしてもわからない。指文字を教えても遊びでしかない。サリバンは嘆きます。言葉が解れば家族と話が出来、人類の歴史や社会が分かるのに…。
33日目。サリバンはヘレンと散歩中に井戸へ寄った。そしてヘレンの手に水を注ぎながら「W-A-T-E-R」と指文字で何度も綴っていると、突如としてヘレンは言葉と物を結びつけ、すべての物に名前があることに気づいた。暗闇に光が差した!それから、怒涛のように言葉を理解していった。大学にも行った。特に盲人への福祉活動で世界を飛び回った。私は映画「奇跡の人」を見て、ラストに感動しました。アレンジされた賛美歌が流れる中で、椅子に腰かけたサリバンにヘレンがそっと近づき、背中に指で「L-O-V-E」綴るのです。まさに「愛は造り上げる」です。
 少し長いですが、パウロの言葉を見てみましょう(ローマ5:6~10)。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」。
 高慢のアダムの罪を引き継ぐ私たちは神の怒りの下にあります。しかし、神は愛ゆえにご自分の態度を変えられたのです。十字架において神の御子、イエス・キリストに怒りを向け、私たちを赦し、和解しようとされたのです。神がご自分を変えるなど絶対にありえないことですが、私たちを熱心に愛するゆえに、赦しがたい放蕩息子を、大手を広げて迎えるように、私たちを、この私を迎えてくださる…くださっているのです。

◇神に知られている
 さらに高慢を悔い改めて、謙虚になると、神の愛が解る。すると、人は神を愛するようになります。そして、「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」という恵みが解ってくるのです。無二の存在であると認識されています。その人生のすべて理解しておられます。辛さも解っておられます。十字架により罪赦された者だと認知しています。滅びから永遠の命に移されたと確定しておられます。終わりの日に顔と顔を合わせて相まみえる聖徒だと期待しておられます。決して、お前など知らないなどと言わない。十字架と復活の福音によって救われた神の子を永遠に覚えているよと言われます。
テレビなどで名を知られ、顔を知られていくと有名人と言われますは、私たちは十字架の贖いによって、神に知られたのですから、神の国では私たちは永遠の有名人なのです。神に知られているというのはアメイジンググレイスなのです。

慰めよ、わが民を

2018-06-17 00:00:00 | 礼拝説教
2018年6月17日(日)主日礼拝(イザヤ書40:1~11)岡田邦夫


「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。」(イザヤ書40:1)

 先週の火曜日の夜、家から自転車で15分、小さな丘を越えたところにある武庫川の上流へ、ホタルを見に行きました。その日は空が晴れて、雲一つなく、満天の星。ちょうど真上に北極星が輝く。それに負けじとホタルがひかり舞う。まるで星がまい降り、ホタルになったようにさえ思える。命の輝きをしばらく観賞しているうちに「今年も生きていこう」という気分になる。そうして、気持ちが駆り立てられて、その週、8畝分の黒豆の種を苗床に蒔いた。「蒔く」は草冠に時と書くように、天候との兼ね合いで蒔き時があり、失敗もある。神経を使う。しかし、命の成長が見られるので楽しみです。
 そんな風ですから、私、東京下町の出身ですが、もう、ふるさとは三田という心情です。教団の年会で東京に行っても、帰りに福知山線に乗ると「ああ、帰ってきた」という安ど感に包まれます。住めば都、いえ、住めばふるさとということでしょうか。今日はユダの民がふるさとに帰るという預言の話です。

◇帰還…なぐさめ
 シベリヤに抑留された日本人が過酷な環境の中、どれほど辛かったか、帰国された方たちはあまりにも辛い経験で、何があったかを話そうとはしませんでした。酷寒の地で祖国、日本の桜を見たいとどれほど夢見ていたでしょうか。イザヤはユダの民の不信仰のゆえにバビロン捕囚があること、祖国を失うことを預言しなければなりませんでした。しかし、後に祖国に帰れる望みもはっきりと預言しています。その意味と喜びを告げています。
 「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」(40:1-2)。真に慰められるのは優しさと意味付けです。反逆の民に対して、神は厳しくも優しい。祖国へ帰すというのです。その咎が償われたから、それ以上、償わなくていい。堂々と帰っていいのだというのです。そして、「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」という幸いの預言です(40:11)。
 イザヤはユダの民が大帝国バビロンから、神が祖国に帰してくれるという救いの預言から、その先のこと、そのまた先のことまで預言していきます。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8)。新約時代の幕開けを預言します。「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』」(40:3)。バプテスマのヨハネをさします。マルコの福音書はこの預言が成就したことから書き始めています。

◇帰依…はげまし
 なお、先行き不安な者たちにメッセージを告げます。主は天も地も霊も知も正も創造された。神のとっては国々は手桶のしずく、はかりのうえのごみ、偶像などあってないようなものです。先ほどの夜空の星、高い天井の明かりのように見えます。北斗七星もひしゃくに見えます。しかし、地球からの距離はそれぞれ約50光年~170光年と気の遠くなるような遠さであり、その光を小さな目で見ているのです。だから、創造の神の偉大さを「見よ!」と励まします。
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」(40:26)。
 人は困難にあうとすぐ神から見捨てられたと思ったりします(40:28)。バビロンに捕囚された人たちはその悲惨な生活の中で、そう思うことが予想されます。それに対して「聞け!」と励まします。
「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(40:28-31)。

 イザヤの預言の700年後、救い主が現れます。イエス・キリストが誕生された時、敬虔で「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」シメオンという人が「私の目があなたのみ救いを見た(万民の)」と聖霊によって証言しました。前述の「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ』」(40:3)。バプテスマのヨハネが登場し、道備えをします(イザヤ40:3→マルコ福音書1:2-3)。そのヨハネは救い主イエスが公生涯に入られたのを見て言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。罪と死と滅びに捕らえられている人類を御子の十字架の贖いをもって解放し、神のもとに帰すために来られました。
 北斗七星を造られ、ホタルを造られた方はこの私を滅びから救い出すために、十字架で小羊のいけにえになられたのだ。目を上げて高きを見よと言われる方が、世(私)の罪を除く神の小羊を見よと言われるのです。ここに慰めがあり、励ましがあり、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができるのです。

御目(おんめ)を開いてください

2018-06-10 00:00:00 | 礼拝説教
2018年6月10日(日)聖餐礼拝(イザヤ書37:1~7)岡田邦夫

「エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。」(イザヤ書37:32)

 自然は良いといいと言いますが、生き物の世界は果てしない戦いが繰り広げられています。以前、原っぱや河川敷などに黄色いセイタカアワダチソウというのが生い茂っていたことがありました。花粉症の原因とされ、きらわれたのですが、そうではないことがわかりました。北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された外来種です。この植物が根から周囲の植物の成長を抑制する化学物質を出すものですから、全国に広まっていきました。ところが、在来種のススキと競合するとススキの方が強く、3-4年で一面を覆ったセイタカアワダチソウが、3年でススキに劣勢となってしまったのです。聖書の歴史にもそれに似た戦い、逆転劇が見られるのです。

◇帝王がやって来る(36章)
 イザヤ書は預言書ですが、真ん中の36~39章には歴史の部分があります。Ⅱ列王記18~20章にもⅡ歴代誌32章にも同一の歴史記事がありますから、たいへん重要な出来事だったかを物語っています。
 アッシリヤ帝国が勢力を拡大していく中で、同胞の北イスラエルは征服され、いよいよ、南ユダにも侵攻してきました。町というのはそれぞれ城壁に囲まれているのですが、そのユダの町々は攻め取られ、ついに首都エルサレムまで迫ってきました。アッシリヤの王セナケリブはユダの王ヒゼキヤに帝国軍の力を見せつけ、降伏を迫ります。城外でアッシリヤの将軍がユダの重鎮に会って脅します。‘同盟を結んでいるエジプトも、お前がより頼んでいる神「主」も助けてはくれない。むしろ、この国を滅ぼすために遣わされたのだ…。’城壁の上にいる人たちに聞こえるように、ユダの言葉をもって大声で脅かし続け、恐れさせるのです。
 相手は圧倒的な大軍、こちらはわずかな兵しかいないし、騎兵隊すらない。戦えば、あっという間に全滅してしまう。力の差は目に見えている。強いものが勝つに決まっている。
∴強いものが勝つ

◇み使いがやって来る(37章)
しかし、その脅しに対しても、ヒゼキヤ王が答えるなと命じられていたので、人々は黙って答えませんでした。その王はというと衣を裂き荒布をまとうようなたいへんな嘆きようです。預言者イザヤに助けを求め、使いを遣わします。「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がない(最も危険な状態)です。…アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼(将軍)を遣わしたのです。…あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください」(37:3-4略)。
イザヤはそれに答えます。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」(37:6-7)。これを知って、敵はなお脅してきます。ヒゼキヤよ、お前の信頼して神にごまかされるな。アッシリヤの王はこれまで次々と諸国を絶滅させてきた事実があるではないかと…。ヒゼキヤはその手紙を神殿で広げ、祈るのです。
ヒゼキヤは創造の神を信じ、今ここに生ける神を信じ(ケルビムというのは契約の箱の上に翼をおおっている生き物の像で、神の臨在を示すものです。)、主に向かって鬼気迫る祈りをします。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ。御耳(おんみみ)を傾けて聞いてください。主よ。御目(おんめ)を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。…私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう」(37:16-17、20)。これは危急の時、危機の時の私たちの祈りです。
イザヤはヒゼキヤに主の答えを告げます。「あなたがわたしに祈ったことを聞いた」と。アッシリヤの王についてさばきのメッセージ「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ」(37:23)。アッシリヤ軍は強大であったがイスラエルの聖なる方には勝てなかったのです。「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰って」いったのです」(37:36-37)。
∴聖いものが勝つ

◇救い主がやって来る(37:32)
 この主の言葉の中に「ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。」とあり、続いて「万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。」と主なる神の思いがあふれ出ています(37:31-32)。私たちへの主の熱心です。耳を開いているよ、目を開いているよ、心を開いているよという「愛」です。ここで、新約聖書に飛躍してしまいましょう。「今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」で始まるローマ人への手紙8章を思い起こしましょう。読みます。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。…罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:31-39)。
∴熱いものが勝つ

荒野に水がわき出し

2018-06-03 00:00:00 | 礼拝説教
2018年6月3日(日)二か所礼拝(イザヤ書35:1~7)岡田邦夫


「そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」(イザヤ書35:6)

 三田泉教会は東側に畑を借りています。その向こうには田んぼがあり、水が張られ、今週、田植えがなされたばかりです。朝日がさしてくると、水面に新緑の柿の木とその向こうの相野山が写って美しく、見る者の気持ちが晴れやかになります。稲作は水田でなされるため、半永久的に連作ができると言われています。ひたひたと水が張られた風景というのは、聖書の舞台となっている「荒野」では理想郷かも知れません。こう歌われています。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う」(35:1)。

◇荒野の上から
しかし、荒野は神の啓示の舞台でした。モーセに引き出され、エジプトを脱出したイスラエルの民は40年の荒野生活で、神の声を聞いたのです。荒野は殺伐としており、何もないし、いつも死と隣り合わせの環境です。果てしなく孤独の世界に引き込まれます。神の声を聞くにはふさわしい舞台です。十戒が与えられ、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるようにされたのです。
私たちは試練やスランプという荒野、四面楚歌という荒野の状況におかれる時、上からの御声を聞く時なのです。表面的に生活が満たされているようでも、魂は乾いているのです。天からの生ける水、愛と恵みのみ言葉でうるおされ、満たされ、生かされなければなりません。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブル3:7-8)。

◇荒野の向こうから
イザヤは荒野を擬人化して歌います。カルメルは森林地帯で、レバノンには杉の木が群生し、シャロンにはバラなどが群生しているところです。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る」(35:1-2)。
バビロンに捕囚された民が祖国に帰ってくる預言で、その帰還を喜ぶ情景を歌っているのです。「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る」(35:10)。それは荒野が森になるように、砂漠が花園のようになるもの、そのような驚くべき主の栄光を見るという預言の歌です。事実、預言は成就します。民の喜びの叫び声と泣き声がいっしょになり、それが遠くまで聞こえたほどだったとエズラ記に記されています(3:13)。
見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うというのは帰還における霊的回復のことです。しかし、イザヤはその先のことを預言していました。メシヤ(救い主)預言です。イエス・キリストがご自分において成就したと告げます。「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」(マタイ11:5)。主がなされた癒しの奇跡は人類の霊的回復の時が来たことのしるしです。ですから、こう勧めます。「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」(35:4共同訳)。

 私、20歳の時でした。11/17(金)に特別伝道会で主を受け入れ、11/19(日)の伝道会に早めに行った時に、牧師夫人にひとこと言われたことで、神の子にされたという確信が与えられ、喜びがわいてきました。その伝道会でクリスチャンの友人がいきなり証しをしようと言い出し、前に立たされ、聖歌を一緒に歌わされ、主を信じたと証ししました。と言っても何のことかさっぱり解らず終えたのですが、その歌った聖歌「来たれ誰も」は自分の状況にピッタリだと思い、気に入りました。特に「来れ誰も…あらばあるまま」「代価すべて払われたり、すでに」が魂に響きました。
1来れ誰も重き荷物あらばあるまま 来りイエスの手に委ねて安きを得よ
3来れイエスの深き愛に汝が内にある 痛手 病 皆委ねて 安きを得よ
4来れ何も持たでイエスに主の死によりて代価すべて払われたりすでにすでに
(オリカエシ)主イェスは安きを与え給わん 来りイエスの手に委ねよ汝が重荷を
 そして、早くも12/22のクリスマス礼拝で受洗し、夜は祝会で、青年会の寸劇「美しの門」に出演していました(使徒3:1~9)。生まれながら足が不自由なため物乞いをしている男の役をやる青年が動物園の仕事が忙しく出られなくなったので、急きょ代役を頼まれたわけです(一週間前)。台本を見るとそれが自分自身のように思えてならず、真剣に演じました。「ナザレのイエスの名によって歩きなさい。」と言われると、立ち上がり、歩き出す。歩いたり、跳ねたりする。真剣にやるものですから、会場は大爆笑。聖書の通り、「神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行っ」て幕がおりました(使徒3:8)。

 救いの喜びは内からあふれてくるものです。「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるから」です(35:6)。「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハネ福音書7:37-38)。聖書が言っているとおりというのはイザヤ書のこと。何か所か相当する聖句がありますが、その一つが「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる」です(58:11)。初めに話しました田んぼ、水で潤っているから、稲は育つのです。ぎすぎすした世の中、物はあっても乾いた現代、聖霊なる慰め主が魂を潤してくれるのです。イエス・キリストの血潮がすべてを赦し、全生涯を潤してくれるのです。ひとり子を犠牲にされたほどの父なる神の愛が信仰者を永遠に潤してくれるのです。「神は来て、あなたがたを救われる」。

心優しいキリスト

2018-05-27 00:00:00 | 礼拝説教
2018年5月27日(日)伝道礼拝(マタイ11:28~30)岡田邦夫

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ福音書11:28~29)

 初めに、シスター渡辺和子のメッセージ「宝物」を要約して、紹介します(2015年09月29日の心の糧)。
宝物にもいろいろあります。誰が見ても、そうだろうと思わせるものもあれば、他人にはわからない、自分だけに価値あるものである場合もあるものです。修道者になる時、清貧の誓願を立て、自分のものと呼ぶものを持たない私も、一つだけ宝物を持っています。それは、金銭的には全く価値のないものですが、私にとっては、かけがえのない大切なものなのです。
87歳で天寿を全うした私の母は、なくなる1、2年前から認知症になり、見舞いに訪れた時も、娘の私がわからなくなっていました。介護をしていてくださった病院の人の話では、母は、日がな1日、赤い毛糸の玉をころがしては手繰り寄せ、赤い錦紗(きんしゃ)の布をいじっては遊んでいるということでした。見ると、それは紛れもなく、修道院に入る前に私が着ていた赤いセーターの毛糸の残りと、私の羽織の端布だったのです。悲しみの中にも、私は慰められて岡山に戻りました。その日から約1ヶ月後、母は逝き、臨終に間に合わなかった私は次の日、お礼かたがた母が過ごした部屋の片付けに行きました。そして、そこに残された毛糸玉と錦紗の布、それが、その日以来、私の宝物になったのです。
それが母親の優しさというものです。日本語の聖書には「優しい」という語はわずかですが、日本人の感性から見れば、イエス・キリストは優しさに満ちた方だと私は思います。一か所、そのような言葉がマタイ福音書11:28~29に出てきます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」。

◇引き離す優しさ
 この頃、セクハラの問題を取り上げるのが多くなってきましたようです。十戒に「姦淫してはならない」とあります。性には問題がつきものなので、間違わないためには厳しさが必要で、また、健全であるためには人を大切にするという優しさが必要だと思います。主イエス・キリストはこれからお話しする出来事で、その優しさをお示しになったのです。
 それはイエスが朝早く、神殿に行かれると、大勢の人が集まってきたので、教え始めました。ヨハネ福音書8章の初めに書いてある出来事です。
律法学者とパリサイ人という宗教的指導者が、姦淫の場で捕えられたひとりの女性を連れて来て、何と人々の真中に置いたではありませんか。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と言って詰め寄りました。姦淫罪というのは法律では重罪で石打という死刑になるものでした。イエスのことを良く思っていない宗教的指導者の罠でした。イエスを抹殺するために告発する口実を得ようとするものです。ここで、イエスが女性を石打にすべきだと言えば、ご自分の罪の赦しによる救いの教えに反し、人々は離れていってしまいます。女性を釈放するようにと言えば、神の律法を否定することになり、彼らは告発できるわけです。
イエスともノーとも言えないが、民衆がいるから答えなければならない。絶体絶命のピンチ。しかし、主イエスは賢い方。身をかがめて、指で地面に何か書いている。宗教家は告発の口実を得たいとはやる心でイエスの口元を見ている。女性はうなだれて何も見えない。民衆はこの状況がどうなっていくのか、興味深々でこの場面を見ている。しかし、主は地面に何かを書いている。周囲の者たちは何を書いているのかと関心がそこに向く。神殿の庭か、この女を石打にするのか、しないのか、さあ、答えろ、さあ、答えろと責め立てる声で騒々しい。
しかし、彼らの訴えは片手落ち、相手の男性が抜け落ちているという勝手なものです。「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない」とあるからです(レビ記20:10)。でも、イエスは彼らの身勝手さを追求しません。彼らの企みも暴露したりしません。相手をやり込めることもできますが、それをしません。沈黙だけです。ここにイエスの優しさがあります。
 また、彼女を訴える者たちを退かせ、引き離さなければなりません。聖書にこう記されています。「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」。
 彼女を道具に使っていた者たちの手から、完全に引き離され、救いの機会が与えられたのです。

◇引き受ける優しさ
 そこで、イエスは神の優しさでこの女性と向き合います。「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」。法的に訴える者がいなければ、裁かれることはありません。事態はそうなったのです。しかし、神の前にはそうはいきません。罪は罪です。『わたしもあなたを罪に定めない』と罪の赦しの宣告ができるのは神だけです。その罪をイエス・キリストが引き受け、身代わりに罰を受けられてこそ、赦しが宣告できるのです。そのためにイエス・キリストは十字架刑に処せられたのです。それはこの女性を救い、私たちを救うためでした。罪は赦されませんが罪深い人を赦させるのです。ここに神の愛があるのです。

私はひとつの出来事を思い出しました。年配の奥様が教会員でした。そのご主人があごの骨にガンがあるということで手術することになりました。顔なので悪い部分を切除して、そこに腰の骨を取ってきて移植するという難しい手術です。その専門の医師のいる遠い大学病院で行われました。問題はここからです。腰骨があご骨に生きて接合しなければなりませんが、高齢なので難しい。着かなければ切除。顔がこけて、支障をきたします。ところがなかなかつく気配がないのです。
そんな時、家の近所の占い師が来て、こう言って帰っていきました。この病が治らないのは親族に違う宗教の者がいるから、祟られているのだ。その者がその邪教を捨てれば治るのだというのです。親戚はそれが誰を指すかはわかります。それが契機で私たちは教えられました。何かのせいにしたり、あきらめたりしないで、素直のひとりの人を愛し、祈ることでした。教会の愛する兄弟姉妹もひたすら祈りました。奥様は祈る中で知恵が与えられました。食事は液状にして管で流し込むのですが、もう少し、カルシュウムとビタミンが必要と感じ、白身の魚を柔らかく煮てさまし、野菜や果物といっしょにミキサーにかけ、病院のものに加えて流し込んだのです。ずっとイエス・キリストに祈りながらです。ところが年末、医師に言われました。骨は着いていないので、正月が明けたら、除去手術をしますと。私たちは主を仰ぎ祈りました。新年、検査してみると骨が生きてつながっていました。
退院の前日、牧師が見舞いに行くと看護師が奥様に何を加えたのか、参考にと聞き取りに来ていました。私たちは思いました。必要だったのはカルシュウムではなく、神絵の祈りだったと…。退院後、そのご主人が教会で洗礼を受けられました。受洗準備の時、入院中に神を信じたのですか聞くと、「神は愛なり」だというのです。缶ジュースの空き缶に造花をさしいれ、缶の周りに「神は愛なり」の聖書の言葉を張り付けたのを教会から見舞いに持っていったのがずっと目に入り、信じたのだというのでした。