オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

明日(あした)へ続く道

2012-11-25 00:00:00 | 礼拝説教
2012年11月25日 主日礼拝(詩篇23篇)岡田邦夫


 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」詩篇23:6

 結婚披露宴の時に人生には三つの坂があるという、スピーチがけっこう受けています。上り坂、下り坂、そして、もう一つは「まさか」という坂がある、その時どうするかという話です。それは人生という「道」の話です。旧約聖書に出てくるダビデという人はまさにそんな人生を歩んだ人です。羊飼いの少年だったダビデ、事が上手く、サウル王に召し抱えられ、軍人となり、功績を挙げ、王女と結婚し、上り坂でした。しかし、サウル王の嫉妬をかい、命を狙われ、王宮を出て、逃亡の生活が始まり、まさに、下り坂を転げていきました。敵のペリシテの王にかくまってもらい、味方のふりをして生きるというところまで落ちました。しかし、イスラエルと戦うことになり、このウソがばれることになるという「まさか」が起こるのです。結局は預言者サムエルの預言のように、サウルに代わって、ダビデが王となるのです。その後も、ダビデの人生にはこの三つの坂を経験していくのです。
 そのような上り坂、下り坂、まさかの人生経験の中で、信仰を経験し、その中で作られた詩篇の一つが、この23篇だと思います。人願から見れば、迷いやすく、弱い、愚かな羊、しかし、羊飼いが守り、導くというように、私たちが三つの坂をたどる中でも、神は守り、導くというのです。イエス・キリストは私は良い羊飼いと言われていますから、「主」のところにイエス・キリストと読み替えてみると、なおいっそう、味わい深い信仰の詩(うた)となります。
1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
 3節「義の道に導かれます。」は他の訳ですと「正しい道にに導かれる」となっています。前述のように、王となっていく道筋からはずれ、隠れて生きるしかなかったということもありましたが、神の時を待つことによって、次期王となる正道が実現しました。逃亡中に自分を殺そうと追ってきたサウル王を二度も、抹殺する機会があったのですが、神に油注がれた者に手をかけてはならないという聖霊の声を聞いて判断をし、信仰の道からはずれませんでした。正しい道に導かれました。王となって、余裕がでてきたころ、心にスキができ、家臣の妻に対して姦淫し、その夫を解らないように葬ってしまいます。神に導かれたイスラエルの王として、道からはずれました。しかし、良心は痛み、魂は人知れず苦しめられました。預言者の指摘で、罪を示され、心から悔い改めて、神の制裁を受けるのですが、赦しをいただき、正しい道に復帰します。
 こうして、彼は自分は迷いやすく、弱い、愚かな羊のような者だと思い知らされたことでしょう。しかし、良い羊飼いである「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」という恵みを嫌がうえでも知らされたことでしょう。その意味で、今日において、詩篇150篇の中でも、この23篇が最も愛され、覚えられ、唱えられているということがうなずけます。

 話はかわりますが、2012年NHK全国学校音楽コンクールの高校生の部・課題曲が星野富弘さん作詞「明日(あした)へ続く道」だったのをご存じですか。このような詩です。
  鈴蘭の花
  涙のように咲いていた
  翼のある鳥になりたかった
  あの日のことが
  なかったみたいに 日々は廻(めぐ)り 
  私には眩しすぎる陽が昇る
  夜の底から静かに聞こえた
  夜明けの歌声
  折れた枝の桜は咲いて
  鈴蘭の花
  真珠のようにゆれている
  さあ足を上げよう
  翼はないけれど
  自由なこころと夢がある
  今私が立っているここから
  この一歩のところから
  明日(あした)へ続く道が始まる
 信仰の言葉は直接出て来ませんが、陰に隠れたいるようです。彼の生涯もまた、三つの坂道を通られました。
 40年前のことです。群馬県太田市にある福音伝道教団太田教会が、その牧師の息子さんが体育の教諭をしていたものですから、教会を高校の体操部員の合宿所にし、副牧師の先生が食事や風呂や宿泊の世話をしていました。そのかわり、その期間、教会の集会に出るのが条件でした。その中に元気はつらつとした体格も良く、堂々とした星野富弘さんがいました。しかし、元気な彼は信仰の道に進む様子は少しもありませんでした。彼はそのまま順調に大学に行き、体育の教諭となりました。ところが中学校に赴任して2ヶ月足らずの時、クラブ活動の指導中、頸髄を損傷、手足の自由を失うというまさかの出来事に遭遇しました。
 その様な明日の見えない状況で、迷い苦しむ状況で、羊飼いであるイエス・キリストが星野富弘さんの魂をいきかえらせ、み名のために星野富弘さんを正しい道に導かれたのです。翼のある鳥になりたかったのに、鈴蘭の花が涙のように咲いていたのです。夜の底から夜明けの歌声、神のみ声が静かに聞こえ、折れた枝の桜は咲いたのです。もはや、翼はないけれど、イエス・キリストにおいて自由なこころと夢があるのです。今私が立っているイエス・キリストにあるここから、この一歩のところから神に導かれる明日(あした)へ続く道が始まるのです。

 スポーツでジャスト・ミートというのがあります。野球のバッティング、バレーのアタック、サッカーのシュートなど…。ジャスト・ミートすると力強くボールのコースがきれいに軌道にのるというものです。近藤勝彦先生の説教集に苦しの中で「恵みのジャスト・ミート」が起こるのだと興味深いことを記しています。イエス・キリストに出会う時に、イエス・キリストに重荷をおろして、信頼し、いやされる時に、罪を悔い改めてイエス・キリストの十字架による赦しをいただく時に、にっちもさっちも行かなくなって行き詰まり、御言葉の光をいただき希望が見えてきた時にこそ、「恵みのジャスト・ミート」が起こるのです。軌道は正しい道、どこまでも続く「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」という明日に続く道なのです。あなたが羊飼いイエス・キリストに委ねた時、恵みのジャスト・ミートが起こたのです。

静けき祈り

2012-11-18 00:00:00 | 礼拝説教
2012年11月18日 主日礼拝(1列王19:12、詩篇46篇)
岡田邦夫

 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。詩篇46:10口語訳

◇喧噪の後に
 預言者といえば、その字のように神の言葉を預かり、人々に告げる人です。しかし、奇跡を起こして、その行動を通して、神の御旨を伝える預言者も聖書にはでてきます。そういう意味ではイエス・キリストは言葉による言語預言者であり、奇跡による行動預言者という両面をもたれた、預言者の中の預言者でした。イスラエルが不信仰に落ちいていた時代にエリヤという行動預言者が現れました。アハブ王はまことの神を捨て、バアルとかアシェラとかいう偶像宗教にすっかり染まっていました。ある日、カルメル山でバアルの予言者450人とアシェラの予言者450人が召集され、主(ヤハウェ)の預言者1人と対決することになりました。たきぎが用意され、裂かれた牛が乗せられ、「あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である」とエリヤが提案します(1列王18:24)。バアルの予言者たちが狂ったようにバアルの名を呼びますが、何も起こりません。続いて、祭壇にわざわざ水をかけて、エリヤが「主よ。私に答えてください。」と祈ります。「すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です。』と言った」と聖書に記録されています(1列王18:38-39)。この偽予言者たちは処分されました。
 しかし、これを聞いた王妃イゼベルに、エリヤが命をねらわれているのを知り、彼は恐れて、ホレブ山まで逃げていきます。洞穴に隠れていると主の言葉ありました。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」(19:11 -13)そして、なすべきことが告げられたのです。
火のあとに、かすかな細い声があったのです。それは私たちに祈りについて重要なことを教えています。風や地震の中に、あるいは火の中に、外からみ声は聞こえず、魂の奥からかすかな細い声、しかし、確かなみ声が聞き取れたのです。また、のっぴきならぬ状況で激しい戦いをなし、大勝利をおさめたその後に、かすかな細い声、神の声を聞いたのです。かすかな細い声ですから、私たちは騒音、喧噪をしりぞけて、ひとり静まることが必要です。細きみ声が聞こえるまで、あわてず、神を信頼して待つのです。そして、この新聖歌190番「静けき祈りの」は旧聖歌では「楽しき祈りよ」でした。静けき祈りは楽しき祈りなのです。静けき祈りの中で、神の言葉は人格の中心に語りかけてくるのです。
 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」なのです(詩篇46:10口語訳)。新改訳は「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」と訳されています。走り回るのをやめて静まりの時をもつのです。心が揺れ動き、騒々しくなっていたら、御前に静まるのです。それがクリスチャンの真骨頂なのではないでしょうか。

◇喧噪の中で
 デボーション用の「神様は台所にもおられます」(ドロシー・ハスキン著)の書名が面白いのですが、最初のページが面白いのです。三人の男の子たちが何訳の聖書が良いと話し合っている時に、三人目の男の子が「ぼくは、もっといいのを知っているよ。」と言います。「ぼくは、母の訳が好きなんだ。母は、聖書を生活の中に訳したんだ。それは、ぼくが今までに見た訳の中で一番説得力があったよ」。クリスチャンはキリストの証人だということです。…またある人の言葉も記しています。「革表紙の聖書とりも、靴をはいた聖書を読む人のほうが多い」。
 この書の「皿洗いの黙想」(p29)にブラザー・ロレンスのことが載っています。「彼は、フランスの貴族の家の馬手でした。しかし彼は、神に仕えたいと決心しました。彼は修道士となりましたが、きっと、尊い仕事を与えられると思っていたにちがいありません。ところが彼は、台所で働くように任命されたのです。初め彼は、とてもがまんできないと思いました。仕事がいやでした。けれども彼は、ジャガイモをむいたり、皿洗いや、修道院の買い物などをしている間に、少しずつ神のことを考えるようになりました。やがてかれは、こう言えるようになりました。
 『わたしにとって、仕事の時間と祈りの時間とは、別のものではない。そうぞうしい台所の中で、数人が一度に違ったことを要求している間にも、わたしは、祭壇にひざまずいているのと同様な静かさの中に神をとらえている』。彼は、『神の臨在を会得する』という、偉大な秘訣を学んだのでした。」
 まさに、神様は台所にもおられるのです。
 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
『やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。』
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」

主よ、祈りを教えてください

2012-11-04 00:00:00 | 礼拝説教
2012年11月4日 主日礼拝(ルカ福音書11:1-4)岡田邦夫


「イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」ルカ福音書11:1

 私は20才で初めてお祈りしました。それまで、困った時、ピンチの時に、相手がだれであるか解らないまま、神さま、助けてくださいと心に念じたりすことはありました。キリストを信じようと決心した時に、心のありのまま祈るように、教会の方にカウンセリングされて、初めて、祈る相手を意識して、祈りました。正直に「神さま、私はあなたを信じられませんが、信じられるようにしてください。」と言葉に出しました。それから、「天の神さま」と祈るようにはなったのですが、信仰の先輩たちが、礼拝で祈る祈りなどを聞いていると、実に立派で、なかなか、自分はそうはなれないなと思わされました。しかし、そこで、信徒には祈りの型とか、流儀があるということに気付きました。ある年配の方は「今いまし、昔いまし、来るべき、アルファであり、オメガである、御在天のおん父上様…」と祈り出します。厳粛さを感じます。ある方は「天のお父さま…」と親しみのある単純な言葉で祈ります。どういう祈りがいいのか迷うところでした。

◇定型の…
 それはだれでも問うことでしょう。イエスの弟子も聞きました。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」(11:1)。高名なラビ(ユダヤ教の先生)がその学派特有の祈祷文を持っていたので、そうたずねたのでしょう。祈りというものは何でも良いというわけにはいきません。身勝手ではいけませんし、呪文のようでもないはずです。誰が、誰に、何を祈るか、真実でなければなりません。そこで、主イエスは答えられました(11:24)。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
 定型の祈祷文です。まず、呼びかけ、続いて、神のみこころがなるように、そして、私たちの願いがかなうようにという基本の型を教えられました。もう少し長いのが、山の上の教えに出てきます。それに頌栄を加えたものが「主の祈り」であり、全世界の教会、全信者の共通の祈りです。主の祈りは神との関係を純粋なものに導くものであり、私たちの健全な精神を養うものです。最も聞かれる祈りです。歴史の続く限り祈る祈りです。主日礼拝の時に、日常生活の中で、誕生の時、結婚の時、臨終の時、祈る祈りです。
 この基本の祈りに基づいて、今日、広く用いられている祈祷文があります。
ラインホールド・ニーバーの祈り
神よ
変えることのできないものについては、
それを受け入れるだけの心の静けさを我らに与えたまえ
変えることのできるものについては
それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ
そして
変えることのできるものと
変えることのできないものとを
識別する知恵をあたえたまえ

アッシジのフランチェスコの平和の祈り
神よ わたしを
あなたの平和のために用いて下さい
憎しみあるところに愛を
争いのあるところに和解を
分裂のあるところに一致を
疑いのあるところに真実を
絶望のあるところに希望を
悲しみのあるところによろこびを
暗闇のあるところに光をもたらすことができますように
助け導いて下さい
神よ わたしに
慰められることよりも慰めることを
理解されることよりも理解することを
愛されることよりも愛することを望ませて下さい
私たちは与えることによって与えられ
すすんでゆるすことによってゆるされ
人のために死ぬことによって
永遠に生きることができるからです

◇自由な…
 主イエスは弟子たちに、祈る心を教えられました。友人のため隣人にたみ続けるたとえを通して、求める心が大切だと言われるのです。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(11:9-10)。私は受洗したのがクリスマス礼拝で、その夜の祝会で友だちと二人で、このたとえ話を寸劇にして、演じました。熱演に拍手喝采でした。それは私の証詞でもありました。初めて、教会に行っても、何もわからないし、特に聖書はわからない、ただ、唯一、心に引っかかっていた言葉はこの「求めなさい。そうすれば与えられます。」でした。
 解りたいとか、満たされたいとか、平安を得たいとか、何か言葉で表現出来ないような魂の渇きです。あとで聖書を読んで解ったのが、ローマ人への手紙8:26です。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないというのが正直な思いです。そこに聖霊に助けられて、心底からの祈りに導かれるのです。
 神の子ですから、幼児が「父ちゃん」と呼ぶように、父なる神を求めて、素直に単純に祈るのです。そのためには、神の前にある罪を十字架の贖いによって罪赦されたという聖霊によるうなずきが必要です。そのとき、「アバ父よ」とすっきりと求めて祈れます。また、神と私とが深い所で絆が出来たのですから、魂の底から、祈れるのです。人間の最も深い所にあるものはうめきだと言った方がいます(たぶん、内村鑑三師)。究極の求めは御霊によるうめきでしょう。それこそが父なる神が聞きたがっている祈りです。
 究極の祈りはうめきの祈りであり、また主の教えられた「主の祈り」です。そこから、ずれなければ、実に自由に、何でも祈れるのです。何も縛られずに祈れるのです。私たちは贖われた神の子なのですから。