オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

流れのほとりの木のように

2013-01-27 00:00:00 | 礼拝説教
2013年1月27日 主日礼拝(詩篇1篇)岡田邦夫



私、一週間の断食をしたことがあります。断食明けで決して、肉など固いものは食べては胃に悪いので、梅干しのお湯を飲んでから、最初に重湯、次におかゆへと順々に断食した日数をかけて普通食にしていきます。この最初の重湯の美味しいこと、地位も名誉も財産も要らない、重湯をいただけるだけで、最高に幸せに感じたことでした。ところが、時がたつとそれを忘れて、贅沢になってしまいます。金がいっぱいあって、立派な家があって、社会的な地位があって、何らかの名誉があって、美味しいものが何でも食べられて、好きな趣味に没頭できて、色んな有名人と付き合いが出来て…、それが幸せであるという風潮があります。
 しかし、病気や怪我をされて、治った方は健康であることが、何よりの幸せだと思われるでしょう。危険にさらされ続けてきた方にとっては安全であることが幸せ感を体に感じられるでしょう。誰にも認めてもらえなかった方がひとりでも自分を認めてくれる人がいれば、充実した幸せというものを覚えるでしょう。こうしたことは基本的な幸せと言えるでしょう。地位も名誉も財産もあるにはこしたことはないですが、生きていく上で必要最小限のものがあれば、それでも幸せなはずです。しかし、なかなかそうは思えないのも人間というものです。

◇最後を見ての幸い
 聖書の詩篇は信仰者たちの人生や歴史経験の中で作られた神への賛美です。賛美といっても、悲喜交々(こもごも)です。詩篇は嘆き、悲しみ、恐れ、疑い、焦り、気遣いなど、人間の心の動きすべてを映す鏡です(カルヴァン)。その150編を編集した時に、この「いかに幸いなことか」で始まる詩篇を全体の序文として、第1編にしたのだとと言われています。単なる幸せな気分というのではなく、ほんとうの祝福された幸せは何かというところから、賛美が始まるのです。幸か不幸か、二つの道しかないと明確に言います。「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲(ごう)慢(まん)な者と共に座らず/主(しゆ)の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」。「神に逆らう者」は直訳すれば「悪者」なのですが、意味合いをとって、そう訳されました。そういう仲間にならず、神の教え(聖書)を愛し、それを口ずさむ人こそ、幸せな者なのです。私や私たちを愛し、憐れみ、恵み、祝福される神の言葉を聞く人は、それに答えて、神の言葉を愛し、昼も夜も口ずさむようになるというのです。
 しかし、現実を見ると、神に逆らっているような傲(ごう)慢(まん)な者が繁栄していたり、幸せそうに見えたりもします。それを嘆いている詩篇もあります。「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである」。しかし、「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った」(彼らの行く末を見分けた)のです(73:2ー3、17)。神の前の現実はこうなのです。「主(しゆ)の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」は、「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」のです。「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」のです。現実という漢字をひっくり返すと「実現」です。神という流れのほとりの木はときが巡り来れば、実が現れる、神の恵みの実が現れてくる、祝福が「実現」するのです。

◇夢を見たことの幸い
 創世記にはそれを地でいった人物がいます。十二人いるヤコブの息子の十一番目のヨセフです。父の寵(ちよう)愛(あい)を受けていたため、兄たちに妬まれます。さらにヨセフが太陽と月と十一の星が自分に向かって伏し拝むという夢を見たと言うのですから、兄弟たちの堪忍袋の緒が切れてしまいます。野につれだし、殺してしまい、あの夢がどうなる見ようとします。しかし、長男がそれを止めさせると、エジプトに行く隊商が通りかかったので、ヨセフを銀20枚で売ってしまいます。パロ王の宮廷の役人に買われ、奴隷となって働きます。ヨセフのゆえにその家は祝福されます。主人のいない時に夫の妻が美しいヨセフを誘惑しますが、彼は神に罪を犯せないと言って、拒絶します。逆恨みで妻は主人に自分が誘惑されたと報告、主人は怒り、ヨセフを監獄に入れてしまいます。あらゆる人に見捨てられて、もう人生はこれで終わりかとう絶望の中、聖書には「主がヨセフとともにおられ」恵みが施されたと記されているのです。信用されて、監獄の責任者になるのです。
 ここが夢の実現に向かう場所だったのです。家来の二人が王の怒りにふれ、投獄されてきました。二人は奇妙な夢を見ます。ヨセフが夢解きをします。一人は死刑、一人は再雇用、解き明かしの通りでした。やがて、今度はパロ王が奇妙で恐ろしい夢をみます。エジプト中、どこを探しても、だれも夢解きする人はいません。助かった給仕役長がヨセフを紹介。彼は王の見た夢の解き明かしをします。7年の豊作と7年の飢饉の到来の予告だとし、その対策まで話します。感心した王は彼を即刻、総理大臣に召し抱えます。
 飢饉がその地方を襲い、ヤコブの家族も食糧難、兄弟十人がエジプトに買い付けにいきます。そこで、ヨセフはひれ伏す彼らを見かけるのですがすぐには身を証しせず、意地悪をするようにして兄たちを試します。充分反省していることがわかり、奴隷に売られたヨセフだと名のり、神が家族を救うために先に自分は遣わされてきたのだと言って、涙の再会となったのです。そこで、ヤコブ一家は総理大臣の家族ということでエジプトに移住させてもらい、家族の命は守られたのです。若き日に見た夢、それは神の見させた夢でした。その夢は人の考えも及ばぬ仕方で、現実となり、神の家族は救われたのです。
 「主が共におられたので」とあったように、流れのほとりに植えられたヨセフという木はときが巡り来て、実を結び、葉もしおれることがなく、その人のすることはすべて、繁栄をもたらしたのです。父ヤコブが生涯を終えようとする時に、彼をこう言って祝福しました。「ヨセフは実を結ぶ若木/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を越えて伸びる」(創世記49:22)。

◇先を見通せる幸い
 詩篇1編に戻りましょう。最後の言葉は厳粛かつ安心があります。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」。人の幸不幸は神に従うか、従わないかの生き方で決まるのです。人は原罪を抱えています。厳密に言えば、誰もが例外なく、神に逆らっています。良心が痛むような罪を犯しています。あるいは良心が麻痺して、罪を罪と思わなくなっているかも知れません。高慢にも神はいない言いはっているかも知れません。神が見ていないと思って罪を犯しているかも知れません。そこには平安がないのです。無意識のうちにもその罪が神によって裁かれるということを感じて不安を抱えているのです。
 しかし、憐れみにとむ神はイエス・キリストを世に遣わし、その神の裁きによって滅んでしまわないようにと、十字架において私や私たちの身代わりになって死んでくださり、罪が永久に赦され、救われる道を開いてくださったのです。信じない心の方向転換をし、イエス・キリストを信じる道に進むのです。すると、詰まっていた管がスッキリと通ったように、神の恵みの流れがどんどん流れ込んでくるのです。流れのほとりの木のように、恵みの実、信仰の実、永遠の命の実を結ぶのです。実を結ばせるのは神なのですから、いつまでも残る実なのです(ヨハネ15:16)。その実はこの目で見えないかも知れませんが、確かな実なのです。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くとあるからです(2コリント4:18)。
 そして、罪赦され神の子にされた者たち、「その人のすることはすべて、(真の意味での)繁栄をもたらす。」ということを聖霊により、信仰により見分けられるのです。ヨセフのように、途中経過はよく解らなかったとしても、神に与えられた夢の実現は確かなのだと信じて生きられる幸いがあるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。次のような素晴らしい幸いの境地にたてるのです。ニューヨーク・リハビリテーションセンターの壁に書かれた作者不明の詩です(別紙)。

「苦難にある者たちの告白」
大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまづくようにと
弱さを授かった
人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

御名において集まる

2013-01-20 00:00:00 | 礼拝説教
2013年1月20日 主日礼拝(マタイ18:18-20)岡田邦夫


 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ18:20

 昨年、世界一高い電波塔、東京スカイツリーが立ちました。広く電波を送るためです。しかし、それとは違う目的で、塔を建てたという事件がバベルの塔の件です。創世記11章にあります(11:1-9)。全地は一つの話し言葉でした。彼らは「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」と言ってれんがで塔を建てていました。このとんでもない自己満足のために神に反抗する人間の傲慢さをご覧になった神はこれを裁かれます。「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」。主は建設を止めさせ、地の全面に散らされたというのです。バベルの塔の話です。

◇終末の後に
 それから、話は大きく飛躍するのですが、イエス・キリストの昇天後、弟子たち120人がエルサレムに集まり、「みな心を合わせ、祈りに専念して」いました(使徒1:14)。「五旬節(ペンテコステ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた」ところに、聖霊が一人一人に降りました。諸外国に散らされて、この祭りに集まっていたユダヤ人たちのことばで、御霊が話させてくださるとおりに話し、通じたので、驚きあきれたのです(パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人)(使徒2:4-12)。これは聖霊が降り、終わりの時が来たことのしるしでした。バベルの塔以来のことばの混乱と離散の回復のしるしだったと思われます。そうして、教会が誕生し、その群は使徒たちの教えを守り、パンを裂き、祈りをしており、「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、…神を賛美していました」(2:41-47)。
 若い頃、大木秀夫先生の終末論の講演を聞きに行ったことがあります。印象的な話でした。終末というのはモザイクのようなもの。それが人間の罪によってバラバラになってしまったが、イエス・キリストの贖いにより、また、聖霊が降り、終末が始まり、そのバラバラなモザイクが順々につながっていき、最後にはきれいな、立派なモザイク画が完成するというものでした。神の人類救済の目標はすべての諸民、諸国、諸国語の人々が心を一つにして、集められることなのです。今の世界の現状は民族においても、個人においても対立し、混乱し、争いがたえなく、いつになったら全き平和の時代はくるのかというものです。しかし、神の御心は人類が心を一つにして、集められることであり、歴史を導く神は着々とそのような結末へと業を進めておられるのです。主イエス・キリストは言われました。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」(ヨハネ10:16 )。

◇終末の今に
 以上、マクロ的な話でしたが、ミクロ的な話に移りましょう。一つになるというのはどこから始めるかと言いますと、イエス・キリストはこう言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)。教会(エクレーシア)は召し集められた者の意味です。イエスの名において集められた群がキリスト教会なのです。教会は「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」という所なのです。天と地がつながれている所です。天のメッセージを受け取る所です。天の真理を解く鍵が授けられています。
 地上で祈ることは天に届けられるのです。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」(18:19)。主義主張、性格、相性が違っても、イエスの名において心を一つにして祈るなら、天の父は、それをかなえてくださるということが起こるのです。
 豊中使徒教会という教会が豊中泉教会を株分けしたのですが、十年たった1990年、やむにやまれぬ事情があって、合併する話が持ち上がりました。その時に牧師は神のみこころを伺うべく、断食の祈りに入り、7日目に、「一つとする」という御言葉がきました。エゼキエル書のメッセージでした。「主なる神はこう言われる、見よ、わたしはエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。これらはわたしの手で一つとなる」(37:19)。1991年1月27日、教団委員長をお招きした統合記念礼拝には100名が集まり、たいへん感動の礼拝でした。主の再臨の日に全世界の主に贖われた者たちが心をひとつにし集まる、その予兆のように感じられました。
 集まることの最小単位のことを主は言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(18:20)。そして、何十人、何百人、何千人、何万人集まろうとも、同じです。イエス・キリストの名において集まる所に、十字架にかかって死なれ、よみがえって昇天され、やがて再臨されるというお方が今ここに臨在されているのです。復活の日、主日に教会堂に御名において集まる、その所に、天地創造の主、贖い主、きよめ主、癒し主、来るべき王、イエス・キリストが中心におられ、神の家族を愛をもって、包み込んで臨まれていれるのです。主の名において集まる祈祷会や、友との祈りあいに、天と地をつなぐイエス・キリストが私たちの祈りの手に、主のみ手が重ね合わされて、臨在されているのです。
 自分の好きな音楽家のコンサートには多くのファンが集まり、その人の名において、会場は一つになり、熱狂します。見知らぬ人も、同じファンだということで、手を取り合ったり、親しくなったりします。私たちはイエス・キリストに心酔する者たち、キリスト命の集まりです。主義主張、性格など違いはあっても、それがどんな規模の集まりでありましょうとも、「わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」という約束を信じて、聖霊によって確信しましょう。イエス・キリストの名におけるその集まりのすべてが全部結集されて、一つの群となり、心一つにされて礼拝がなされる日を望み見て、今の貴重な主の名による集まりを大事にしていきましょう。感謝しましょう。

聖日(安息日)に集まる

2013-01-13 00:00:00 | 礼拝説教
2013年1月13日 主日礼拝(出エジプト20:8-11、マルコ2:27-28)岡田邦夫

 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。……主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」出エジプト20:8、11

 キリスト生誕から数えて2013年を迎えました。カレンダーも新しくされことと思います。年というサイクルも、日というサイクルも太陽との関係、月というサイクルは月との関係で定めています。ところが週という7日のサイクルは自然界とは関係のないものです。それは天と地の創造者である神との契約で定められたものなのです。十戒のひとつ「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」からきているのです(出エジプト20:8)。欧米のキリスト教国ではそれが文化として根付き、日本ではその習慣を1876年(明治9年)に取り入れました。

◇人のために
 世界は広く、歴史も長く、一週間七日といっても、この「安息日」の曜日が色々違うのです。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三大宗教の聖地であるエルサレムに行くと、キリスト教徒の店は日曜日(0時~24時)が休み、ユダヤ教徒の店は土曜日(金の日没~土の日没)が休み、イスラム教徒の店は金曜日(木の日没~金の日没)が休みというように、安息日の曜日が違っています。それぞれの根拠があり、日(ひ)日(にち)や規定にこだわり過ぎると、大変ややこしくなっていきます。そこで、イエス・キリストは安息日問題で、言っておられることに、耳を傾けましょう。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です」(マルコ2:27ー28)。安息日が人間のためにどのようにして設けられたかというと、二つの理由があります。
 「主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたから」、人は六日働いて、七日目は祝福された安息日として、創造の神を覚え、礼拝するのです。また、エジプトで奴隷だった民が主の強いみ手で脱出させていただいた、出エジプトの救いの神を覚えて、安息日礼拝をするというのです。私たち、新しい民はイエス・キリストが十字架の贖いをなしとげ、私たちを罪と死の奴隷から解放してくださったのですから、その救い主を覚え、安息日礼拝をするのです。週の初め、すなわち、日曜日にキリストは復活されたので、復活の主にお会いするために、日曜日、一同が集まって礼拝をするのです。教会の歴史の中で、十戒における安息日礼拝が土曜から日曜に大きく代わって今日に至っており、主日礼拝(聖日礼拝)というようになりました。といっても、土曜を安息日、日曜を主日という教派もあり、こだわり方も色々あります。日曜日をどう呼んでいるか、列挙してみますと、こうです。
 太陽暦に基づく「日曜日」:日本語、英語、ドイツ語、オランダ語
 主キリストの日の意味の「主日」:ギリシャ語、フランス語、イタリア語
 復活を記念した「復活日」:ロシア語
 安息という意味で「安息日」:ポーランド語
 日曜日は「週の一日目」:ヘブライ語(安息日は七日目)、アラビア語
 もう一度、主イエス・キリストが言われたことは何だったでしょうか、思い起こしましょう。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です」。私たち人間の存在の意味も意義も、人生や歴史の目的も使命も、創造主を覚え、救い主を覚える礼拝の日にこそ、解らせていただけるのです。創造主を覚え、救い主を覚えるからこそ、六日働く意味をもつのです。六日働いて、七日目に神のふところで安息し、三位一体の神を礼拝することで、福音に与り、六日の働きに向かうのです。この七日のサイクルの中で、そのようなリズムの中で、創造者の祝福があり、救い主の恩寵(おんちょう)があるのです。このように「安息日は人間のために設けられたのです」。

◇神のために
 十戒の中の聖日厳守について、こう注解しているものがあります(スタディ版聖書のキーワード「十戒」)。「安息日は『神のもの』であり、神を礼拝し、神がイスラエルのためになした業を思い起こすべき日とされた。この特別な日を守るゆえにイスラエルの民は近隣の民と区別されることとなった。安息し、礼拝し、奴隷(および家畜)に休みを与えることによって、イスラエルの民は神との特別な関係を世の人に知らしめた」。
 このような話もあります。「英国国王ジョージ3世が、ロンドン郊外の宮殿修理の際、熱心に働く一人の職人に目がとまりました。ある朝その職人がいないので、国王が係に尋ねますと、その職人は日曜日の仕事を言いつけたら、『主を礼拝しますので、聖日には働けません。』と断ったので解雇したというのです。これを聞いた国王は、『聖日厳守のために仕事を断るような男は、他の者がいらないといっても神が必要としている。すぐにその職人を呼び寄せなさい。』と命じたそうです」。聖日厳守に生きるということが神のために生きているという証しになるのです。主の導きの中で、事情で聖日礼拝を守れない場合もありますから、聖日厳守はパリサイ人のように形式的に、律法的に強要されるものではありません。神への信仰の証しとして、喜んでなされるところに、意味があるのです。
 昨年行われたロンドン・オリンピックの開会式のセレモニーで、映画「炎のランナー」のラスト・シーンで流れていた、教会の礼拝での讃美歌「エルサレム」を少年少女の合唱隊が歌っていました(※付録)。また、主題曲をロンドン交響楽団が演奏していました。
 映画「炎のランナー」" Chariots of Fire " はおおむね実話に基づいたものです。第1次大戦後の1924年、パリ・オリンピックにイギリスの代表で出場した二人の短距離ランナーがいました。一人は学生のハロルド・エイブラハム。彼はユダヤ人であるため、周囲の偏見や差別の中で苦しんでいたので、走って栄光を勝ちとり、真のイギリス人になろうとします。もう一人は宣教師のエリック・リデル。神の御業を称えるために走ることが栄光だという宣教師である親の薦めもあって、エリックは宣教を一時中断して、オリンピックに出場します。ところが自分が走る100メートル走の日が日曜日だということを知って、走るのを辞退します。国民の期待を代表するかのように皇太子が「走ってくれ」と頼むのですが、聖日厳守の信仰を持ってがんと断ります。ハロルドの方は100メートル走で金メダルを獲得します。
 別の日にエリックは友人が走る400メートル走を譲られて、出場します。そこで金メダルを獲得したのでした。帰国後、彼は宣教師として、残る生涯を献げて中国へ出発しました。神が「聖なるもの」とされたこの「聖日」を忠実に守る者に対する神の祝福を物語るエピソードです。異境の地、日本で、しかも周囲を気にする国民の中で、また、この時代の下で、聖日厳守による証しということは簡単ではないでしょう。しかし、それがいかに祝福に富んだことなのかをもう一度知りたいと思います。語順を日本語的に代えてみます。『あなたは六日間働いて、すべての仕事をし、七日目はどんな仕事もしてはならない。七日目はあなたの神、主の安息日である。主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。だから、あなたは安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ』。

とりなしの祈り

2013-01-06 00:00:00 | 礼拝説教
2013年1月6日 主日礼拝(ローマ人への手紙8:26-30)岡田邦夫

 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」ローマ人への手紙8:26

 「希望」という言葉は良い言葉です。新聖歌には希望をテーマにしたものが15曲あります。その中で151番は再臨の希望にあふれています。
  永遠(とわ)の安(やす)き来(き)たりて ああその朝
  悩み多き夜は去る ああその朝
  ああその朝 ああその朝 義の日は出(い)でて輝かん
  ああその朝 ああその朝 救い主(ぬし)にわれら会わん」
 ウィリアム・シェークスピアの言葉が名言になって知られているものに、「不幸を治す薬は、ただもう希望よりほかにない。」(The miserable have no other medicine, but only hope.)があります。人は希望がなければ生きていけないものです。極限状況の下で人はどのようであったのかということを述べているのが「夜と霧」~ドイツ強制収容所の体験記録~(ヴィクトル.E.フランクル著)です。彼はユダヤ人だったためにアウシュビッツ収容所に入れられたのですが、奇跡的に生還しました。その体験から、収容所内の人々の心理を精神科医の視点で書き残しました。重労働で病気や飢餓で死ぬか、ガス室に送られ死ぬしかない中で、自殺者も多数おりました。それでも生き残ったひとには共通点がありました。未来への希望だと分析します。1944年、収容所内で「クリスマスには家に帰れる」という希望的観測のデマがながれました。すると、多くの人が希望をつなぎ、自殺者は激減しました。ところがそれは実現しなかったため、明くる年の正月までに、かつてなかった大量の死者が出たというのが事実でした。未来への希望があった人たちは、それでもたくましく生き延びれたのだと記しています。

◇のぞみが救う
 聖書にも名言はあふれていますが、その一つが「私たちは、この望みによって救われているのです。」(ローマ8:24)。5章では希望が神の愛と結びついて書かれています(5:3ー5共同訳)。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」。希望について、聖書は人間の心理を言っているのではなく、神の真理を言っているのです。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの」であり、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ようにと、「ともにうめきともに産みの苦しみをして」、「私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(8:18ー23要約)。この目には見えないけれども、聖霊が証ししている「からだのよみがえり」という究極の希望なのです。「私たちは、この望みによって救われているのです」。
 この聖書の箇所をドイツのバルトロメウス・クラッセリウス牧師が賛美歌にしました(讃美歌21の12番)。素晴らしい詩です。
1 とうときわが神よ、くらぶるものなき主よ、
  心貧しけれど、聖霊の力受け、
  主イェスのみ名をあがめ われほめたたえ歌わん。
2 うるわしき歌もて 声高く歌うとも、
  いかなる言葉もて 主のみわざ語るとも、
  限りなきその恵み いかでのべ伝うべき。
3 いかに祈るべきか 弱きわれら知らねど、
  深きうめきをもて 聖霊とりなしたもう。
  み国の世継ぎとされ 「アッバ、父」とわれら呼ばん。
4 いかに幸なるかな、信じて求むる者、
  その祈りすべてを 神は常にききたもう。
  たぐいなき愛の主を とこしえにほめたたえん。

◇うめきが救う
この希望は軽い希望ではなく、重い希望です。赤ちゃんはさりげなく、ポンと生まれてくるのではなく、十月十日のつわりなどある大変な期間があり、最後は陣痛という難関を通って生まれてくるわけです。きっとそれは命の重さを知られる神の取り計らいなのでしょう。キリスト再臨によって神の子らが栄光のからだによみがえる、その日はもう迫っていて、産みの苦しみが始まっているのです。「私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(8:23)。しかし、私たちは産み出す力もなく、うめきも微弱なのです。そこで、聖霊の愛が私たちの魂に注がれるのです。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」(8:26ー27)。
 私たちははてしなく神から遠く離れた罪人です。私たちははてしなく神に反逆し、はてしなく神に拒絶される罪人です。「ほんとうにみじめな人間…だれがこの死のからだから…救い出してくれる」かという、はてしなく惨めな滅び人です(7:24)。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いによって、漸近線のように、はてしなく神に近い神の子にしてくださったのです。しかし、今ははてしなく遠いがはてしなく近いという緊張状態にあるのです。ですから、はてしなく近くて近い栄光のからだの神の子になる日をうめいて待つのです。そこで不安をあおる偽宗教や異端に気をつけましょう。弱い私たちは聖霊のとりなしをいただき、正しい希望を身につけましょう。あなたがうめいているなら、それは聖霊の深い働きです。「御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」。

 弱い私たちの祈りも、弱さの中を通られた大祭司イエス・キリストがとりなしてくださいます。また、神のみこころに従って、聖霊がとりなしてくださいます。ですから、その私たちが次には弱い人たちのために、人の弱さのために、すべての聖徒のために、とりなしの祈りをするのです。滅び行く世界が救われるように、悲惨なニュースを見たり聞いたりして、嘆いて祈るのです。隣人が苦しんでいる時に、悲しんでいる時に、困っている時に、とりなしの祈りをするのです。聖霊にうながされてとりなすのです。とりなしの祈りはすべてのキリスト者の奉仕なのです。健全なキリスト者は希望を持ってうめいているのです。
 そのうめきは空を打つのではなく、かたちになっていきます(8:28-30)。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」のです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになり、御子のかたちと同じ姿になっていくのです。自動的にすべてのことが益となるわけではないのです。聖霊によるとりなしの祈り、うめきの祈りの中で、神がすべてのことを躍動的に働かせて益としてくださるのです。