2013年1月27日 主日礼拝(詩篇1篇)岡田邦夫
私、一週間の断食をしたことがあります。断食明けで決して、肉など固いものは食べては胃に悪いので、梅干しのお湯を飲んでから、最初に重湯、次におかゆへと順々に断食した日数をかけて普通食にしていきます。この最初の重湯の美味しいこと、地位も名誉も財産も要らない、重湯をいただけるだけで、最高に幸せに感じたことでした。ところが、時がたつとそれを忘れて、贅沢になってしまいます。金がいっぱいあって、立派な家があって、社会的な地位があって、何らかの名誉があって、美味しいものが何でも食べられて、好きな趣味に没頭できて、色んな有名人と付き合いが出来て…、それが幸せであるという風潮があります。
しかし、病気や怪我をされて、治った方は健康であることが、何よりの幸せだと思われるでしょう。危険にさらされ続けてきた方にとっては安全であることが幸せ感を体に感じられるでしょう。誰にも認めてもらえなかった方がひとりでも自分を認めてくれる人がいれば、充実した幸せというものを覚えるでしょう。こうしたことは基本的な幸せと言えるでしょう。地位も名誉も財産もあるにはこしたことはないですが、生きていく上で必要最小限のものがあれば、それでも幸せなはずです。しかし、なかなかそうは思えないのも人間というものです。
◇最後を見ての幸い
聖書の詩篇は信仰者たちの人生や歴史経験の中で作られた神への賛美です。賛美といっても、悲喜交々(こもごも)です。詩篇は嘆き、悲しみ、恐れ、疑い、焦り、気遣いなど、人間の心の動きすべてを映す鏡です(カルヴァン)。その150編を編集した時に、この「いかに幸いなことか」で始まる詩篇を全体の序文として、第1編にしたのだとと言われています。単なる幸せな気分というのではなく、ほんとうの祝福された幸せは何かというところから、賛美が始まるのです。幸か不幸か、二つの道しかないと明確に言います。「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲(ごう)慢(まん)な者と共に座らず/主(しゆ)の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」。「神に逆らう者」は直訳すれば「悪者」なのですが、意味合いをとって、そう訳されました。そういう仲間にならず、神の教え(聖書)を愛し、それを口ずさむ人こそ、幸せな者なのです。私や私たちを愛し、憐れみ、恵み、祝福される神の言葉を聞く人は、それに答えて、神の言葉を愛し、昼も夜も口ずさむようになるというのです。
しかし、現実を見ると、神に逆らっているような傲(ごう)慢(まん)な者が繁栄していたり、幸せそうに見えたりもします。それを嘆いている詩篇もあります。「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである」。しかし、「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った」(彼らの行く末を見分けた)のです(73:2ー3、17)。神の前の現実はこうなのです。「主(しゆ)の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」は、「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」のです。「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」のです。現実という漢字をひっくり返すと「実現」です。神という流れのほとりの木はときが巡り来れば、実が現れる、神の恵みの実が現れてくる、祝福が「実現」するのです。
◇夢を見たことの幸い
創世記にはそれを地でいった人物がいます。十二人いるヤコブの息子の十一番目のヨセフです。父の寵(ちよう)愛(あい)を受けていたため、兄たちに妬まれます。さらにヨセフが太陽と月と十一の星が自分に向かって伏し拝むという夢を見たと言うのですから、兄弟たちの堪忍袋の緒が切れてしまいます。野につれだし、殺してしまい、あの夢がどうなる見ようとします。しかし、長男がそれを止めさせると、エジプトに行く隊商が通りかかったので、ヨセフを銀20枚で売ってしまいます。パロ王の宮廷の役人に買われ、奴隷となって働きます。ヨセフのゆえにその家は祝福されます。主人のいない時に夫の妻が美しいヨセフを誘惑しますが、彼は神に罪を犯せないと言って、拒絶します。逆恨みで妻は主人に自分が誘惑されたと報告、主人は怒り、ヨセフを監獄に入れてしまいます。あらゆる人に見捨てられて、もう人生はこれで終わりかとう絶望の中、聖書には「主がヨセフとともにおられ」恵みが施されたと記されているのです。信用されて、監獄の責任者になるのです。
ここが夢の実現に向かう場所だったのです。家来の二人が王の怒りにふれ、投獄されてきました。二人は奇妙な夢を見ます。ヨセフが夢解きをします。一人は死刑、一人は再雇用、解き明かしの通りでした。やがて、今度はパロ王が奇妙で恐ろしい夢をみます。エジプト中、どこを探しても、だれも夢解きする人はいません。助かった給仕役長がヨセフを紹介。彼は王の見た夢の解き明かしをします。7年の豊作と7年の飢饉の到来の予告だとし、その対策まで話します。感心した王は彼を即刻、総理大臣に召し抱えます。
飢饉がその地方を襲い、ヤコブの家族も食糧難、兄弟十人がエジプトに買い付けにいきます。そこで、ヨセフはひれ伏す彼らを見かけるのですがすぐには身を証しせず、意地悪をするようにして兄たちを試します。充分反省していることがわかり、奴隷に売られたヨセフだと名のり、神が家族を救うために先に自分は遣わされてきたのだと言って、涙の再会となったのです。そこで、ヤコブ一家は総理大臣の家族ということでエジプトに移住させてもらい、家族の命は守られたのです。若き日に見た夢、それは神の見させた夢でした。その夢は人の考えも及ばぬ仕方で、現実となり、神の家族は救われたのです。
「主が共におられたので」とあったように、流れのほとりに植えられたヨセフという木はときが巡り来て、実を結び、葉もしおれることがなく、その人のすることはすべて、繁栄をもたらしたのです。父ヤコブが生涯を終えようとする時に、彼をこう言って祝福しました。「ヨセフは実を結ぶ若木/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を越えて伸びる」(創世記49:22)。
◇先を見通せる幸い
詩篇1編に戻りましょう。最後の言葉は厳粛かつ安心があります。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」。人の幸不幸は神に従うか、従わないかの生き方で決まるのです。人は原罪を抱えています。厳密に言えば、誰もが例外なく、神に逆らっています。良心が痛むような罪を犯しています。あるいは良心が麻痺して、罪を罪と思わなくなっているかも知れません。高慢にも神はいない言いはっているかも知れません。神が見ていないと思って罪を犯しているかも知れません。そこには平安がないのです。無意識のうちにもその罪が神によって裁かれるということを感じて不安を抱えているのです。
しかし、憐れみにとむ神はイエス・キリストを世に遣わし、その神の裁きによって滅んでしまわないようにと、十字架において私や私たちの身代わりになって死んでくださり、罪が永久に赦され、救われる道を開いてくださったのです。信じない心の方向転換をし、イエス・キリストを信じる道に進むのです。すると、詰まっていた管がスッキリと通ったように、神の恵みの流れがどんどん流れ込んでくるのです。流れのほとりの木のように、恵みの実、信仰の実、永遠の命の実を結ぶのです。実を結ばせるのは神なのですから、いつまでも残る実なのです(ヨハネ15:16)。その実はこの目で見えないかも知れませんが、確かな実なのです。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くとあるからです(2コリント4:18)。
そして、罪赦され神の子にされた者たち、「その人のすることはすべて、(真の意味での)繁栄をもたらす。」ということを聖霊により、信仰により見分けられるのです。ヨセフのように、途中経過はよく解らなかったとしても、神に与えられた夢の実現は確かなのだと信じて生きられる幸いがあるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。次のような素晴らしい幸いの境地にたてるのです。ニューヨーク・リハビリテーションセンターの壁に書かれた作者不明の詩です(別紙)。
「苦難にある者たちの告白」
大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまづくようにと
弱さを授かった
人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
私、一週間の断食をしたことがあります。断食明けで決して、肉など固いものは食べては胃に悪いので、梅干しのお湯を飲んでから、最初に重湯、次におかゆへと順々に断食した日数をかけて普通食にしていきます。この最初の重湯の美味しいこと、地位も名誉も財産も要らない、重湯をいただけるだけで、最高に幸せに感じたことでした。ところが、時がたつとそれを忘れて、贅沢になってしまいます。金がいっぱいあって、立派な家があって、社会的な地位があって、何らかの名誉があって、美味しいものが何でも食べられて、好きな趣味に没頭できて、色んな有名人と付き合いが出来て…、それが幸せであるという風潮があります。
しかし、病気や怪我をされて、治った方は健康であることが、何よりの幸せだと思われるでしょう。危険にさらされ続けてきた方にとっては安全であることが幸せ感を体に感じられるでしょう。誰にも認めてもらえなかった方がひとりでも自分を認めてくれる人がいれば、充実した幸せというものを覚えるでしょう。こうしたことは基本的な幸せと言えるでしょう。地位も名誉も財産もあるにはこしたことはないですが、生きていく上で必要最小限のものがあれば、それでも幸せなはずです。しかし、なかなかそうは思えないのも人間というものです。
◇最後を見ての幸い
聖書の詩篇は信仰者たちの人生や歴史経験の中で作られた神への賛美です。賛美といっても、悲喜交々(こもごも)です。詩篇は嘆き、悲しみ、恐れ、疑い、焦り、気遣いなど、人間の心の動きすべてを映す鏡です(カルヴァン)。その150編を編集した時に、この「いかに幸いなことか」で始まる詩篇を全体の序文として、第1編にしたのだとと言われています。単なる幸せな気分というのではなく、ほんとうの祝福された幸せは何かというところから、賛美が始まるのです。幸か不幸か、二つの道しかないと明確に言います。「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲(ごう)慢(まん)な者と共に座らず/主(しゆ)の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」。「神に逆らう者」は直訳すれば「悪者」なのですが、意味合いをとって、そう訳されました。そういう仲間にならず、神の教え(聖書)を愛し、それを口ずさむ人こそ、幸せな者なのです。私や私たちを愛し、憐れみ、恵み、祝福される神の言葉を聞く人は、それに答えて、神の言葉を愛し、昼も夜も口ずさむようになるというのです。
しかし、現実を見ると、神に逆らっているような傲(ごう)慢(まん)な者が繁栄していたり、幸せそうに見えたりもします。それを嘆いている詩篇もあります。「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである」。しかし、「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った」(彼らの行く末を見分けた)のです(73:2ー3、17)。神の前の現実はこうなのです。「主(しゆ)の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」は、「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」のです。「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」のです。現実という漢字をひっくり返すと「実現」です。神という流れのほとりの木はときが巡り来れば、実が現れる、神の恵みの実が現れてくる、祝福が「実現」するのです。
◇夢を見たことの幸い
創世記にはそれを地でいった人物がいます。十二人いるヤコブの息子の十一番目のヨセフです。父の寵(ちよう)愛(あい)を受けていたため、兄たちに妬まれます。さらにヨセフが太陽と月と十一の星が自分に向かって伏し拝むという夢を見たと言うのですから、兄弟たちの堪忍袋の緒が切れてしまいます。野につれだし、殺してしまい、あの夢がどうなる見ようとします。しかし、長男がそれを止めさせると、エジプトに行く隊商が通りかかったので、ヨセフを銀20枚で売ってしまいます。パロ王の宮廷の役人に買われ、奴隷となって働きます。ヨセフのゆえにその家は祝福されます。主人のいない時に夫の妻が美しいヨセフを誘惑しますが、彼は神に罪を犯せないと言って、拒絶します。逆恨みで妻は主人に自分が誘惑されたと報告、主人は怒り、ヨセフを監獄に入れてしまいます。あらゆる人に見捨てられて、もう人生はこれで終わりかとう絶望の中、聖書には「主がヨセフとともにおられ」恵みが施されたと記されているのです。信用されて、監獄の責任者になるのです。
ここが夢の実現に向かう場所だったのです。家来の二人が王の怒りにふれ、投獄されてきました。二人は奇妙な夢を見ます。ヨセフが夢解きをします。一人は死刑、一人は再雇用、解き明かしの通りでした。やがて、今度はパロ王が奇妙で恐ろしい夢をみます。エジプト中、どこを探しても、だれも夢解きする人はいません。助かった給仕役長がヨセフを紹介。彼は王の見た夢の解き明かしをします。7年の豊作と7年の飢饉の到来の予告だとし、その対策まで話します。感心した王は彼を即刻、総理大臣に召し抱えます。
飢饉がその地方を襲い、ヤコブの家族も食糧難、兄弟十人がエジプトに買い付けにいきます。そこで、ヨセフはひれ伏す彼らを見かけるのですがすぐには身を証しせず、意地悪をするようにして兄たちを試します。充分反省していることがわかり、奴隷に売られたヨセフだと名のり、神が家族を救うために先に自分は遣わされてきたのだと言って、涙の再会となったのです。そこで、ヤコブ一家は総理大臣の家族ということでエジプトに移住させてもらい、家族の命は守られたのです。若き日に見た夢、それは神の見させた夢でした。その夢は人の考えも及ばぬ仕方で、現実となり、神の家族は救われたのです。
「主が共におられたので」とあったように、流れのほとりに植えられたヨセフという木はときが巡り来て、実を結び、葉もしおれることがなく、その人のすることはすべて、繁栄をもたらしたのです。父ヤコブが生涯を終えようとする時に、彼をこう言って祝福しました。「ヨセフは実を結ぶ若木/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を越えて伸びる」(創世記49:22)。
◇先を見通せる幸い
詩篇1編に戻りましょう。最後の言葉は厳粛かつ安心があります。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」。人の幸不幸は神に従うか、従わないかの生き方で決まるのです。人は原罪を抱えています。厳密に言えば、誰もが例外なく、神に逆らっています。良心が痛むような罪を犯しています。あるいは良心が麻痺して、罪を罪と思わなくなっているかも知れません。高慢にも神はいない言いはっているかも知れません。神が見ていないと思って罪を犯しているかも知れません。そこには平安がないのです。無意識のうちにもその罪が神によって裁かれるということを感じて不安を抱えているのです。
しかし、憐れみにとむ神はイエス・キリストを世に遣わし、その神の裁きによって滅んでしまわないようにと、十字架において私や私たちの身代わりになって死んでくださり、罪が永久に赦され、救われる道を開いてくださったのです。信じない心の方向転換をし、イエス・キリストを信じる道に進むのです。すると、詰まっていた管がスッキリと通ったように、神の恵みの流れがどんどん流れ込んでくるのです。流れのほとりの木のように、恵みの実、信仰の実、永遠の命の実を結ぶのです。実を結ばせるのは神なのですから、いつまでも残る実なのです(ヨハネ15:16)。その実はこの目で見えないかも知れませんが、確かな実なのです。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くとあるからです(2コリント4:18)。
そして、罪赦され神の子にされた者たち、「その人のすることはすべて、(真の意味での)繁栄をもたらす。」ということを聖霊により、信仰により見分けられるのです。ヨセフのように、途中経過はよく解らなかったとしても、神に与えられた夢の実現は確かなのだと信じて生きられる幸いがあるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。次のような素晴らしい幸いの境地にたてるのです。ニューヨーク・リハビリテーションセンターの壁に書かれた作者不明の詩です(別紙)。
「苦難にある者たちの告白」
大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまづくようにと
弱さを授かった
人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ