2011年4月24日 主日礼拝(ルカ24:1-12)岡田邦夫
「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」ルカ福音書24:6
イースターおめでとうございます。また、召天者記念の祈祷を致しました。故人を偲ぶ人に感動と慰めを与える歌が日本でも流行りました。「千の風になって」です(Mary Frye作詞、/新井満訳詞・作曲)。「私のお墓の前で 泣かないでください」と歌い出すわけですが、ある葬儀場で、この曲がBGMで流れていました。もし、そこにこだわる人がいれば、私の愛する故人はまだ墓に入っていない、ここにいるではないか、泣きたいから、泣かせてくれ…と心情を葬儀社に訴えたかもしれません。人間にとって死者を弔い、葬儀(それがどいういう形か色々ありますが)をすることが必要なことです。親しい人が亡くなっているのは目の前の現実です。しかし、心はすぐにはその死を受け入れがたいので、葬儀のプロセスを踏んで、愛する人は死んだんだと区切りをつけるのです。もうこの世にはいないが、心にいると納得するとことに落ち着くのが常です。
◇イエスの葬儀なき葬儀
イエス・キリストが十字架上で「わが霊を御手にゆだねます」と叫ばれて、息を引き取られたのですが、葬儀はなされませんでした。しかし、重要なプロセスを踏んでいることをルカ福音書は告げています。
十字架上での苦悶の中で、イエスはとりなしの祈りをし、隣の犯罪人を救われました。「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった。』と言った。」のです(23:47)。葬儀でいうなら、弔辞でしょう。この十字架の死の出来事を彼は確かに見たのです。彼の目撃証言でもあります。「また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。」というのも、「苦難のしもべ」の苦難の死を見届けた証しです(23:48)。
このイエスのからだの下げ渡しをピラトのところに行って、願った人がいました。ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人で、議員たちの計画や行動には同意しなかった人です。アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた敬虔な人でした。「それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。」のです(23:53)。「ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。」のです(23:55)。イエスは確かに死んだのであり、確かに墓に葬られたのです。イエスは墓が必要だったのです。それが見届けられたのです。
私たちは新聖歌113(Negro Spiritual "Were you there?")を口ずさみたいものです。
1君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき
ああ 何だか心が 震える 震える 震える
君もそこにいたのか
2君も墓に行ったのか 主をば葬るために
ああ 何だか心が 震える 震える 震える
君も墓には行ったのか
◇イエスの必要なき葬儀
その女たちが、安息日には、戒めに従って、休んだのですが、週の初めの日(日曜日)の明け方早く準備しておいた香料を持って墓に着いた時のことです。「見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。」のです(24:2-3)。確かに、イエスの遺体は無かったのです。女たちが途方にくれました。そこに御使いでしょう、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来たのです。聖なるものに出会って、彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せました。すると、その人たちがこうメッセージを告げました。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」(24:6ー7)。女たち、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤはイエスのみことばを思い出し、空っぽの墓の理由を察知したのです。死と埋葬を見届けたからこそ、彼女たちは主の復活を受けとめられたのではないかと私は思います。
その一部始終の報告を十一使徒とそのほかの人たち全部にしたのですが、この話は「たわごと」と思われたので、彼らは女たちを信用しなかったのです。私たちも死体が消えてしまうという歴史的事実は受け入れがたいものです。また、死人の復活(蘇生ではなく、栄光の体によみがえる)という超歴史的事実はなおのこと受け入れがたいものです。それで、「ペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。」と記されています(24:12)。歴史の中で歴史を越えた出来事が起こったのですから、きわめて「驚き」です。
女たちがそうであったように、使徒たちは先だって告げられた神のことばを思い出してこそ、主の復活の事実を受け入れ、福音に与り、聖霊による驚きに導かれたのです。「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(1コリント15:20口語訳)。最も大切なことは「聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現われ、それから十二弟子に現われたことです」(1コリント15:3-5)。
◇古き人の葬儀なき葬儀
信仰とは確認作業だとも言えます。確かにイエス・キリストは十字架にかかって苦しみ死なれたのです。私たちの罪を贖うために、確かに死なれたのです。罪を犯し続け、罪を抱えている、この罪の体の「古き人」が主と共に十字架で確かに死んで、葬られたのです。それを確認し、見届けましょう。また、イエス・キリストが墓の中から聖霊によってよみがったと共に、私は永遠の命に生きる「新しき人」によみがえったのです。それを確認し、見届けましょう。そう神のことばが告げているからです。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:12)。イエス・キリストの歴史の上の事実、歴史を越えた事実が、聖霊によって、私たちの、私の信仰の事実になることなのです。それはもう一つの驚きです。「君もそこにいたのか?」をもっと明確に「私は確かにそこにいた!」と言うのが信仰だと思います。
御使いが女たちに言ったことばを心にとめて、黙想しましょう。「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」ルカ福音書24:6
「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」ルカ福音書24:6
イースターおめでとうございます。また、召天者記念の祈祷を致しました。故人を偲ぶ人に感動と慰めを与える歌が日本でも流行りました。「千の風になって」です(Mary Frye作詞、/新井満訳詞・作曲)。「私のお墓の前で 泣かないでください」と歌い出すわけですが、ある葬儀場で、この曲がBGMで流れていました。もし、そこにこだわる人がいれば、私の愛する故人はまだ墓に入っていない、ここにいるではないか、泣きたいから、泣かせてくれ…と心情を葬儀社に訴えたかもしれません。人間にとって死者を弔い、葬儀(それがどいういう形か色々ありますが)をすることが必要なことです。親しい人が亡くなっているのは目の前の現実です。しかし、心はすぐにはその死を受け入れがたいので、葬儀のプロセスを踏んで、愛する人は死んだんだと区切りをつけるのです。もうこの世にはいないが、心にいると納得するとことに落ち着くのが常です。
◇イエスの葬儀なき葬儀
イエス・キリストが十字架上で「わが霊を御手にゆだねます」と叫ばれて、息を引き取られたのですが、葬儀はなされませんでした。しかし、重要なプロセスを踏んでいることをルカ福音書は告げています。
十字架上での苦悶の中で、イエスはとりなしの祈りをし、隣の犯罪人を救われました。「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった。』と言った。」のです(23:47)。葬儀でいうなら、弔辞でしょう。この十字架の死の出来事を彼は確かに見たのです。彼の目撃証言でもあります。「また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。」というのも、「苦難のしもべ」の苦難の死を見届けた証しです(23:48)。
このイエスのからだの下げ渡しをピラトのところに行って、願った人がいました。ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人で、議員たちの計画や行動には同意しなかった人です。アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた敬虔な人でした。「それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。」のです(23:53)。「ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。」のです(23:55)。イエスは確かに死んだのであり、確かに墓に葬られたのです。イエスは墓が必要だったのです。それが見届けられたのです。
私たちは新聖歌113(Negro Spiritual "Were you there?")を口ずさみたいものです。
1君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき
ああ 何だか心が 震える 震える 震える
君もそこにいたのか
2君も墓に行ったのか 主をば葬るために
ああ 何だか心が 震える 震える 震える
君も墓には行ったのか
◇イエスの必要なき葬儀
その女たちが、安息日には、戒めに従って、休んだのですが、週の初めの日(日曜日)の明け方早く準備しておいた香料を持って墓に着いた時のことです。「見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。」のです(24:2-3)。確かに、イエスの遺体は無かったのです。女たちが途方にくれました。そこに御使いでしょう、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来たのです。聖なるものに出会って、彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せました。すると、その人たちがこうメッセージを告げました。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」(24:6ー7)。女たち、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤはイエスのみことばを思い出し、空っぽの墓の理由を察知したのです。死と埋葬を見届けたからこそ、彼女たちは主の復活を受けとめられたのではないかと私は思います。
その一部始終の報告を十一使徒とそのほかの人たち全部にしたのですが、この話は「たわごと」と思われたので、彼らは女たちを信用しなかったのです。私たちも死体が消えてしまうという歴史的事実は受け入れがたいものです。また、死人の復活(蘇生ではなく、栄光の体によみがえる)という超歴史的事実はなおのこと受け入れがたいものです。それで、「ペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。」と記されています(24:12)。歴史の中で歴史を越えた出来事が起こったのですから、きわめて「驚き」です。
女たちがそうであったように、使徒たちは先だって告げられた神のことばを思い出してこそ、主の復活の事実を受け入れ、福音に与り、聖霊による驚きに導かれたのです。「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(1コリント15:20口語訳)。最も大切なことは「聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現われ、それから十二弟子に現われたことです」(1コリント15:3-5)。
◇古き人の葬儀なき葬儀
信仰とは確認作業だとも言えます。確かにイエス・キリストは十字架にかかって苦しみ死なれたのです。私たちの罪を贖うために、確かに死なれたのです。罪を犯し続け、罪を抱えている、この罪の体の「古き人」が主と共に十字架で確かに死んで、葬られたのです。それを確認し、見届けましょう。また、イエス・キリストが墓の中から聖霊によってよみがったと共に、私は永遠の命に生きる「新しき人」によみがえったのです。それを確認し、見届けましょう。そう神のことばが告げているからです。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:12)。イエス・キリストの歴史の上の事実、歴史を越えた事実が、聖霊によって、私たちの、私の信仰の事実になることなのです。それはもう一つの驚きです。「君もそこにいたのか?」をもっと明確に「私は確かにそこにいた!」と言うのが信仰だと思います。
御使いが女たちに言ったことばを心にとめて、黙想しましょう。「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」ルカ福音書24:6