オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

よみがえり

2011-04-24 00:00:00 | 礼拝説教
2011年4月24日 主日礼拝(ルカ24:1-12)岡田邦夫

 「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」ルカ福音書24:6

 イースターおめでとうございます。また、召天者記念の祈祷を致しました。故人を偲ぶ人に感動と慰めを与える歌が日本でも流行りました。「千の風になって」です(Mary Frye作詞、/新井満訳詞・作曲)。「私のお墓の前で 泣かないでください」と歌い出すわけですが、ある葬儀場で、この曲がBGMで流れていました。もし、そこにこだわる人がいれば、私の愛する故人はまだ墓に入っていない、ここにいるではないか、泣きたいから、泣かせてくれ…と心情を葬儀社に訴えたかもしれません。人間にとって死者を弔い、葬儀(それがどいういう形か色々ありますが)をすることが必要なことです。親しい人が亡くなっているのは目の前の現実です。しかし、心はすぐにはその死を受け入れがたいので、葬儀のプロセスを踏んで、愛する人は死んだんだと区切りをつけるのです。もうこの世にはいないが、心にいると納得するとことに落ち着くのが常です。

◇イエスの葬儀なき葬儀
 イエス・キリストが十字架上で「わが霊を御手にゆだねます」と叫ばれて、息を引き取られたのですが、葬儀はなされませんでした。しかし、重要なプロセスを踏んでいることをルカ福音書は告げています。
 十字架上での苦悶の中で、イエスはとりなしの祈りをし、隣の犯罪人を救われました。「この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった。』と言った。」のです(23:47)。葬儀でいうなら、弔辞でしょう。この十字架の死の出来事を彼は確かに見たのです。彼の目撃証言でもあります。「また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。」というのも、「苦難のしもべ」の苦難の死を見届けた証しです(23:48)。
 このイエスのからだの下げ渡しをピラトのところに行って、願った人がいました。ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人で、議員たちの計画や行動には同意しなかった人です。アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた敬虔な人でした。「それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。」のです(23:53)。「ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。」のです(23:55)。イエスは確かに死んだのであり、確かに墓に葬られたのです。イエスは墓が必要だったのです。それが見届けられたのです。
 私たちは新聖歌113(Negro Spiritual "Were you there?")を口ずさみたいものです。
1君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき
 ああ 何だか心が 震える 震える 震える
 君もそこにいたのか
2君も墓に行ったのか 主をば葬るために
 ああ 何だか心が 震える 震える 震える
 君も墓には行ったのか

◇イエスの必要なき葬儀
 その女たちが、安息日には、戒めに従って、休んだのですが、週の初めの日(日曜日)の明け方早く準備しておいた香料を持って墓に着いた時のことです。「見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。」のです(24:2-3)。確かに、イエスの遺体は無かったのです。女たちが途方にくれました。そこに御使いでしょう、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来たのです。聖なるものに出会って、彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せました。すると、その人たちがこうメッセージを告げました。
 「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう」(24:6ー7)。女たち、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤはイエスのみことばを思い出し、空っぽの墓の理由を察知したのです。死と埋葬を見届けたからこそ、彼女たちは主の復活を受けとめられたのではないかと私は思います。
 その一部始終の報告を十一使徒とそのほかの人たち全部にしたのですが、この話は「たわごと」と思われたので、彼らは女たちを信用しなかったのです。私たちも死体が消えてしまうという歴史的事実は受け入れがたいものです。また、死人の復活(蘇生ではなく、栄光の体によみがえる)という超歴史的事実はなおのこと受け入れがたいものです。それで、「ペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。」と記されています(24:12)。歴史の中で歴史を越えた出来事が起こったのですから、きわめて「驚き」です。
 女たちがそうであったように、使徒たちは先だって告げられた神のことばを思い出してこそ、主の復活の事実を受け入れ、福音に与り、聖霊による驚きに導かれたのです。「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(1コリント15:20口語訳)。最も大切なことは「聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現われ、それから十二弟子に現われたことです」(1コリント15:3-5)。

◇古き人の葬儀なき葬儀
 信仰とは確認作業だとも言えます。確かにイエス・キリストは十字架にかかって苦しみ死なれたのです。私たちの罪を贖うために、確かに死なれたのです。罪を犯し続け、罪を抱えている、この罪の体の「古き人」が主と共に十字架で確かに死んで、葬られたのです。それを確認し、見届けましょう。また、イエス・キリストが墓の中から聖霊によってよみがったと共に、私は永遠の命に生きる「新しき人」によみがえったのです。それを確認し、見届けましょう。そう神のことばが告げているからです。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:12)。イエス・キリストの歴史の上の事実、歴史を越えた事実が、聖霊によって、私たちの、私の信仰の事実になることなのです。それはもう一つの驚きです。「君もそこにいたのか?」をもっと明確に「私は確かにそこにいた!」と言うのが信仰だと思います。
 御使いが女たちに言ったことばを心にとめて、黙想しましょう。「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」ルカ福音書24:6



イエスの十字架の道

2011-04-17 00:00:00 | 礼拝説教
2011年4月17日 主日礼拝(ルカ23:26-49)岡田邦夫(みのお泉教会にて)


 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。ルカ福音書23:34

 今週は受難週です。イエス・キリストが苦難を受けられた一週間に思いをはせる週です。そして、復活日・イースターが来ます。カトリック教会で行われる「十字架の道行き」という儀式があります。イエスの捕縛から受難を経て復活まで15(14)の場面を、個々の場所や出来事を心に留めて祈りを奉げるものです。その場面は聖地であったり、教会堂の壁の聖画像だったりしますが、プロテスタントではそれはしていません。ただ、主の受難の場面を区切って、聖書を開き、黙想し、祈るという「十字架の道行き」をていねいにすることが良いと思います。新しいものでは、14ステージです。
 ①最後の晩餐 ②イエス、ゲッセマネの丘で嘆く ③イエス、サンヘドリン(議会)に立つ ④イエス、鞭打たれ茨の冠を載せられる ⑤イエス、十字架を背負う ⑥イエス、倒れる ⑦クレネ人シモン、イエスの代わりに十字架を背負う ⑧イエス、婦人たちと出遭う ⑨イエス、十字架に打ち付けられる ⑩犯罪人のひとり、改心する ⑪使徒ヨハネと母マリア、十字架の下でたたずむ ⑫イエス、十字架上で息を引き取る ⑬イエス、埋葬される ⑭イエス、復活する

◇一度限りの十字架
 死刑を宣告されたイエスが刑場に向かう時のことでした。北アフリカの町クレネから出て来たシモンがつかまえられ、イエスがかけられる十字架を運ぶために、代わりに負わされたのです。このシモンの視点から主を見てみましょう。むち打ち刑のため血まみれになったイエスの背中を見たのです。肉体的にも、精神的にも、打ちのめされたイエスの後ろ姿を見たのです。思わぬ試練に合い、負わされた十字架の重みを知ったのです。預言者の言葉を思います。「彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた(「彼に負わせた」新改訳)」(イザヤ53:4ー6)。

 そして、嘆き悲しみながらついていく女たちのほうに、イエスが振り向いて、「わたしのために泣くな。」と言われるのです。神の裁きの日に備えて、自分自身のために泣きなさいと言われるのです。主が私たちの罪を負って、神に裁かれたのですから、私たちは悔い改めの涙を流し、罪の赦しをいただき、「泣かなくてもよい」とのみ声を聞きましょう(ルカ7:13新改訳)。そして、主と共に終末を憂える涙を流しましょう。

 そして、ゴルゴダ(されこうべ)の丘に来ると、十字架につけられ、二人の犯罪人が両脇に、イエスが中央に立てられました。イエスの十字架の下でイエスの着物を分けるのにくじを引いていたり、人々がが何だかんだと、あざ笑っているにもかかわらず、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」と祈られたのです(23:34)。何と愛に満ちた方なのでしょう。イエスは犯罪人ではないのに、犯罪人として、最高に苦しい極刑を受けているのです。それでも、私たち罪人のためにとりなすのです。徹頭徹尾、自己犠牲です。この祈りは一度限りの祈りです。しかし、十字架上での祈りですから、完全に父に聞かれた祈りでした。その祈りのゆえに、今日の私たちが救われたのです。その祈りの答の最初の人はとなりの犯罪人の救いです。
 「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。」と、もう一人の犯罪人をたしなめて(23:40ー41)、イエスに求めました。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは救いを約束し、宣言します。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイス(楽園)にいるであろう」(23:42ー43)。
 私たちは神の前には犯罪人です。神の裁きを受け、滅んでも当然です。しかし、主よ、私を思い出してくださいと祈るしかない者です。しかし、その私たちの罪を十字架において贖ってくださったので、こう救いの宣言をされるのです。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイス(楽園)にいる」。十字架に釘づけられ、肉が裂ける、耐え難い激痛、出血多量による激しい渇き、それにもまして耐え難い人々のあざけりとのろい。この人はイエスと共にこの苦しみを共有し、イエスの受難を最も体験理解した者として、今日という日に楽園に行ったのです。薬園とはエデンの楽園のことでしょう。エデンの楽園は神と人とが共に住む所なのです。

◇繰り返される十字架
 こうして、救いの君は受難を全うされ、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と声高く叫び、ついに息を引きとられました(23:46)。こうして、イエス・キリストがいけにえとして十字架の祭壇に献げられた贖いは一度だけで完全でした(ヘブル9:28)。ですから、十字架による救いは完全なのです。完璧なのです。
 信じるだけで救われるのですが、信じた者は十字架を負って、主に従っていくのです。主の復活後、教会ができ、ステパノという人が殉教していきましたその時です。人々がののしりながら石を投げつけられ、なぶり殺しにされる中で、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える。」と証ししました。そして、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。そう祈って、眠りについたのです(使徒7:55ー60)。
 そのように、キリスト者には天が開かれているのです。楽園があるのです。ステパノは小キリストでした。主のようにとりなしの祈りをし、ゆだねる祈りをして召されて行きました。そのように、キリストは死んではいないのです。キリスト者の中に生きているのです。十字架は終わってはいないのです。十字架を負うキリスト者たちが延々と続いていくのです。そのような意味の十字架の道行きは続いていくのです。十字架を信じ、十字架を負う世界中の小キリストたちが、開かれた天に向かう道行きを歩いていくのです。
 私が東京聖書学院で寮生活をしながら学んでいる時、聖書と賛美と祈り漬けの毎日を過ごしているのに、それらがすべて砂をかむようで、虚しく、スランプに陥ったのです。ある日、食事も取らず、授業にも出ず、ベッドにこもっていました。すると、教授であり、寮の舎監の先生が「岡田君、どうしたんだ」と言って、部屋にいきなりやってきました。教務室に行き、「誰か、好きな人でもできたのか」と聞いてくれたのですが、そういうことではないことを打ち明けると、今度はいきなり、聖書を開き、祈ってくれました。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(9:23)。このみ言葉が読まれた瞬間に、もやがかかっていた私の魂が青空のように晴れ渡ったのです。あのスランプは何だったのかと思う程、すっきりしたのです。十字架を負って従って行くという信仰の生き方がぶれなければ、大丈夫なのだということを思わされました。
 この受難週、それぞれの霊的な十字架の道行きをし、主の恵みと愛を知り、信仰を深め、晴れやかに主に従ってまいりましょう。

引き渡されたイエス・裁判

2011-04-10 00:00:00 | 礼拝説教
2011年4月10日 主日礼拝(ルカ22:66-23:25)岡田邦夫

 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」第2コリント5:2

 私の出身の高校は時代の変化で廃校になって、別の高校になっているのですが、校章が実験器具の「ろうと」のデザインで私は気に入って、誇りにしていました。それとは違いますが、ひまわりの花の中に「天秤(てんびん)」をおく、弁護士記章も良いものです。ひまわりは正義と自由を、秤は公正と平等を意味しているといいます。実際に行われたイエスの裁判はその正義と自由、公正と平等の裁判とはとても思えぬものでしたが、聖書では永遠の救いにつながる裁判だったことを私たちに告げています。

◇天秤にかける人たち
 ユダヤで過越の祭りという時期に一つの裁判が最高法院(サンヒドリン)で行われました。それは正義の名の下に行われたのではありませんでした。ナザレのイエスの登場よって、自分たちの地位や名誉を損なうので、祭司長、律法学者たちにはその方がいては困るものですから、イエスを殺すための良い方法を捜していました。十二弟子のひとり、イスカリオテのユダが裏切ってきたので、それにつけこみ逮捕し、この裁判にかけたのです。「あなたは神の子か」と尋問すれば、「あなたの言うとおり、わたしはそれです。」と答えたので(22:70)、自分を神と名のるのはユダヤ法では死罪なので、これで彼を抹殺できると思ったでしょう。イエスは全くの真実を言い、神のみ子であるという自己証言をなさったのですが、頑なな彼らは聞く耳を持ちません。
 現実にはユダヤはローマの属国で、死刑に出来ず、総督の裁判にかけなければならないので、ピラトのもとに連れて行き、執ように訴えたのです。ピラトが調べても、こう言うしかなかったです。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します」(23:14-16)。
 祭司長らはイエスを生かしておくか、殺してしまうか、天秤にかけ、後者の方が得だとふんで、群衆を扇動し、「この人を除け。バラバを釈放しろ。」叫びます(23:18)。このイエスか、暴動と殺人犯のバラバかを天秤にかけ、イエスの方が彼らにとって危険人物と判断したのです。ピラトの釈放の呼びかけにも反して、なおも、「十字架だ。十字架につけろ。」と大声で要求し、その声が勝ってしまいます(23:21、23)。ピラトも天秤にかけます。法を守って、無罪の男を釈放させるか、暴動を起こさせないため、ユダヤ当局の言うことを聞いて、この男を死刑にするのかです。結局、後者が自分の身を守れるとして、「そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」のです(23:24-25)。

 もはや、これらは裁判と呼ばれるようなものではありませんでした。「イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」の言葉がそれを良く言い表しています。すでに主は弟子たちに引き渡されることは予告していました(18:32ー33)。また、「裏切る」も「引き渡す」と同じ原語ですし(22:21、48)、祭司長たちとユダが引き渡しの相談をしていたのも事実です(232:4)。さらにイエスの復活後も、御使いが女たちに「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」と思い出させます(24:7)。
 主イエスはあらゆる罪人の中に引き渡されたのです。主は当事者たちの罪の中に、いまの私たちの罪の中に、あらゆる罪の中に引き渡されたのです。その罪の中から私たちを救うために完全に引き渡されたのです。

◇天秤にかける神
 イエスはしかたなく引き渡されたのではなく、引き渡されるべく、引き渡されたのです。父なる神が御子を死に渡されたのです。ローマ人への手紙に救いのキーワードとして、こう記されています。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:25)。また、恵みの言葉が綴られています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。あえて、このような言い方をさせていただきます。神が義と愛の天秤にかけられたのではないでしょうか。人は神のかたちに造られたのに、神に反逆し、罪に罪を重ねてきた。その罪人を義において裁けば、すべて滅んでしまう。しかし、愛において救うために、罪のない御子イエス・キリストを代わりに裁き、死に渡さなければならない。罪人を死に渡すか、御子を死に渡すか、愛と義の天秤にかけられ、御子を死に渡されたのだろうと、私は思うのです。
 誰も絶対に耐えられない、この死の苦しみに御子は引き渡されて行かれたのですけれど、ただ、黙って従われました(ルカ23:9)。「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かな」かったのです(イザヤ53:7)。また、父なる神も御子を惜しまず死に渡されたのです。そうすると、天秤にかけるというようなことをするのは罪人であって、そもそも、神は天秤にかけるような方ではないのです。私たちはこの神の惜しみなさに大感謝をしたいものです。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。私たちキリスト者の「記章」は額にしるされている「小羊の名とその父の名」なのだということを加えておきますしょう(黙示録14:1)。

立ち直っていくペテロ

2011-04-03 00:00:00 | 礼拝説教
2011年4月3日 主日礼拝(ルカ22:24-34、54-62)岡田邦夫

 「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ福音書22:32

 東日本大震災復興支援チャリティーマッチ・日本代表-Jリーグ選抜が3月29日にあり、試合の勝敗よりも、三浦選手の決めたゴールシーンが観客や視聴者に大きな感動を与えました。そして、試合前の日本経済新聞コラム「生きるための明るさを 三浦知良・サッカー人として」はまた、感動の文章でした。被災されている人たちには水や食料や医療などで、サッカーどころではないもしれないが、被災地で必死に生きている方々に勇気をいただくためにするのである。そして、「悲しみに打ちのめされるたびに、乗り越えてきたのが僕たち人間の歴史のはずだ。とても明るく生きていける状況じゃない。でも、何か明るい材料がなければ生きていけない。…みなさんに負けぬよう、全力で、必死に、真剣にプレーすることを誓う」。同胞として、あるいは神に造られた人間として、指標を示す言葉だ私は思います。
 日本ホーリネス教団年会での聖別派遣式で、教団委員長はキリスト者として、この震災とどう向き合うかをメッセージされました。これからどうなるか分からないという状況をヨハネ黙示録5章によると、7つの封印を開くものがいないという描写をします。それを開くことの出来るのは小羊なるイエスであり、復活のキリスト。だから、日本がこれからどうなるか分からないという状況の中で、キリスト者はこのイエス・キリストを「礼拝」することが最重要なことなのですと…。

◇治める人は仕える人
 さて、これからどうなるか分からないという状況はペテロを初めとする弟子たちにありました。エルサレムに一行が入場すると祭司長、律法学者たちは、イエスを殺そうと企てているという一つの意志、動きがあります。ユダにサタンが入り、イエスを裏切り、祭司長のところに出かけて行きました。そのような不穏な空気の中で、イエスは彼ら以上の意志をもって行動します。最後の晩餐をされた時に「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越(すぎこし)の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」と言われて、聖餐を制定されました。さらに裏切り者がいることを知らせますと、「そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始め」(ルカ22:23)、また、この中でだれが一番偉いのだろうかという議論まで起こったのです。イエスは偉い人は仕える人だと戒め、試練の時にもついて来た弟子たちに主と共なる王座を約束されました。こうして遠く先のことを約束され、今、目の前に起こることを話します。それが分からないペテロの応答。ちぐはぐな会話となります(22:31ー34)。
 イエス:「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
 ペテロ:「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
 イエス:「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
 それから、ゲッセマネでこれから起こる十字架の苦しみが充分に分かるので、天使の助けが必要なほどの苦闘の祈りをなさいました。まだ、わかっていない弟子たちは悲しみの果てに寝込んでしまいます。そして、イエスだけが祭司長たちによって逮捕されます。大祭司の家に連行され、ペテロは遠く離れついていき、庭でたき火をしている関係者の中にそっと紛れ込み、様子を見ていました。きっと心臓が破れそうになるぐらい、これからどうなるのか、不安でいっぱいだったに違いありません。
 まじまじと彼を見たある女中:「この人も、イエスといっしょにいました。」…ペテロ:「いいえ、私はあの人を知りません。」
 ほかの男:「あなたも、彼らの仲間だ。」…ペテロ「いや、違います。」
 別の男:「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」…ペテロ:「あなたの言うことは私にはわかりません。」
 彼がそう言い終わらないうちに、鶏が鳴き、イエスの言われた通りになってしまいました(22:60-61)。しかも、捕縛されたイエスが振り向いてペテロを見つめられたのです。彼は外に出て激しく泣きました。

◇治める人は砕かれた人
 イエスの弟子が泣いたというのは聖書の中ではここだけ。このペテロが「泣いた」ということが重要であり、この涙はあることを受けとめたことのしるしなのです。事態の流れから言いますと、最後の晩餐の時に、裏切る者は誰か、誰がいちばん偉いかを論じ合って、イエスからのお言葉をいただき、ペテロはきっと一番よい弟子であろうとしたのでしょう。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言ったのは本気だったでしょう。ところがイエスが逮捕されれば、問い詰められて、三度も主を知らないと主を裏切り、自分の誓った言葉をも裏切ることを言ってしまったのです。悔恨の涙が流れたのでしょう。それは意味のあることでした。
 ある方の説教が端的にこう述べていました。「このように12弟子の筆頭格と思われるペテロの失態は、人間の弱さであり、恐れによる自己防衛が働くためでしょう。その恐れの罪は誰にでも有り得るのではないでしょうか」。私はこの恐れる罪というところをもう少しお話ししたいと思います。
 旧約聖書のサムエル記にでてくる、イスラエルの初代の王サウルと次代の王ダビデの話です。両者とも神に立てられた器としての王なのですが、両者とも罪を犯し、サウルは神に捨てられ、ダビデは神に受け入れられていくという対比で描かれています。詳しいことは聖書を読んでいただきたいのですが、ここでは二人の信仰の有り様の結論だけを述べましょう。サウロが神に捨てられことになったのは「人を恐れ、神を恐れなかった」ためです。ダビデが神に受け入れられたのは「神を恐れ、人を恐れなかった」ためです。サウルは「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」と宣告されました(1サムエル15:23)。しかし、ダビデが預言者に指摘されて「私は主に対して罪を犯した。」と明白に告白すると、預言者には蒔いた種は刈り取ることは言われますが、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」と宣言されます(2サムエル12:13)。そして、ダビデの王座はとこしえまでも堅く立つという契約、約束は変えられることはありませんでした(2サムエル7:16、23:5)。
 ペテロはサウルのように、人を恐れ、神を恐れず、主を否んだのでしょうか。サウルのように神の器として失格となるのでしょうか。当然そうなるでしょう。しかし、イエス・キリストは初めから、救いの言葉を投げかけていました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。ほんとうにふるわれるのは、ペテロがイエスの十字架の苦悩死を目の当たりにする時、埋葬された時です。これからどうしたらよいかわからなくなってしまう時です。しかし、主は墓を打ち破り、復活され、ペテロにその姿を現したので、ペテロは立ち直っていきます(24:34)。そして、後に約束された聖霊が弟子たちの上に降ると力を得ます。そこで、「神を恐れ、人を恐れない」神の器、使徒ペテロになっていきます。
 ペテロの涙は自分の弱さ、情けなさを嘆くとともに、とことん自分の罪、特に神に従わない罪が根底にあることを悔い改めた涙だったでしょう。東北関東大震災は未曾有の悲惨な出来事です。復興に向けて、私たちは涙を流し、できるだけのことをしていきましょう。しかし、もっと人間の悲惨な現状は神を恐れず、滅びに向かっていることです。私たちはキリスト者として、ペテロのように涙すべきです。
 主を三度否み、鶏が鳴き、主が振り向いてペテロを見つめられ、「主のおことばを思い出し」、泣いたのです。ペテロがこうなることを見通して、先に告げられていたのです。もうこれで、だめだとは思わなくていい、立ちなおることも予感させてくれる、そのような主のおことば思い出し、主の魂への配慮を大いに感じて、泣いたのです。震災の復興の明るいニュースを聞くと私たちはまた前向きになります。キリスト者としてはどんな人間の悲惨な現状をも愛に満ちた眼差しで見ておられ、まことの復興に向けて、主が働いておられることを信じましょう。聖書全巻を通して、そう告げています。私たちは「主のおことばを思い出し」泣きましょう。十字架の主、復活の主のおことば思い出し、涙しましょう。
 ホーリネスの東京聖書学院では、学科で合格点を取って卒業するわけですが、それ以上に、これまで話したような、魂が砕かれるという経験をし、信仰を持って立ちなおる経験をすることが卒業証書だと伝統的に受け継がれてきました。ペテロはイエス神学校の卒業証書をいただいたのです。しかも、無学な人と言われる人が卒業生代表として、いただいたです。あなたも、砕かれて、信仰に立つ時に、神に用いられる者となるのです。