オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

特別なみどりごの誕生

2018-04-29 00:00:00 | 礼拝説教
2018年4月29日(日)主日礼拝(イザヤ書9:1~7)岡田邦夫


「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9:6)

三田市では毎年、4月初め「三田さくら回廊ウオーク」といって、武庫川沿いの植えられた桜を見ながら一緒に歩くという催しがあります。教会に割合近いところは上流で、流れは穏やかで、6月になると蛍が見られるほどです。しかし、武庫川の下流に行くと昔は氾濫することも多かったので、「暴れ川」「摂津の人取り川」の異名をもった川でした。しかし、護岸工事が進んで、今は洪水がなくなりました。このようにその地に住む人々にとって、治水というのは死活問題でした。
治水は水を治めると書きます。統治も政治も自治もさんずいの「治める」の字を使いまから、人の社会でも河と同じように治めていくという事なのでしょう。そして、治安、治世ということでしょう。また、みなさんは、職場や家庭や、そして、自分自身の魂が平和に治まることを願っておられるでしょう。

◇神が治めるという約束
 今日、お話しするところはクリスマスでメッセージされるところです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」との預言です(9:6)。ひとりのみどりごが治めるという神の約束です。
 話をさかのぼってみましょう。イスラエルの民はヨシュアの時代にカナンに住むようになったのですが、ヨシュア亡き後、国を治める人がおらず、外国から攻め込まれることがあって、そういう時に国を治めるカリスマ的リーダーが現れ、国は危機を脱出します。しばらくすると民は不信仰になり、リーダー(士師)によって信仰回復、治安の回復にするという事が繰り返され、国は安定していませんでした。そして、サムエルの息子の時代を迎えた時、何と民衆は王国制度の弊害も承知で「私たちをさばく(=治める)王を与えてください」とサムエルに訴え出ます。彼が祈ると主は「彼らのいうことを聞き、ひとりの王を立てよ」と答えられたのです(1サムエル8:22)。
 そこで神に選ばれた王がサウル、次に代わって選ばれた王がダビデ、そのダビデ王に主は約束します。一方的な永久の恵みの契約なのです、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(2サムエル7:16)
 それにもかかわらず、歴代の王が罪を犯したら、神の懲らしめを受けるが、王朝への恵みは失われないとの約束です。事実、王も民も主なる神に従わず、罪を犯したので、国は破れ、王も民もバビロンに捕囚されていきます。それは神の懲らしめ、その期間が終われば、神はペルシャの王を用いて、祖国に帰らせ、王国を再建させるのです。世界から見れば吹けば飛ぶような小民族、神から見れば罪深い背信の民、滅んでしまっても、当然なのですが、神の恵みの約束は変わらず、奇跡的にダビデ王朝は続いていくのです。
 預言者イザヤはバビロン捕囚前にこれらのことを克明に預言しました。そして、その後に起こることも預言しています。救い主・イエス・キリストの現われの預言です。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9:2=ルカ1:79)。真正のダビデの子孫として、ひとりのみどりとなって生まれ、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、それはとこしえまでなのだと告げています(9:6-7)。

◇みどりごが治めるという不思議
 この「みどりご」を漢字でどう書くでしょう。「みどり」は貝を二並べて書き、その下に女を書きます。「ご」は児童の児です。「嬰児」です。えいじとも読みます。生まれて間もない子で3歳ぐらいまでの子供をさします。実に母親の世話を必要とする弱い存在です。「三つ子の魂、百までも」とあるように、ヨセフとマリヤの育児で決定づけられて、育たれたことを意味します。男の子として、ユダヤ人として、よくある人として生まれたのです。しかも、祭司や預言者のような宗教的環境ではなく、貧しい大工の子として、ナザレの田舎で育たれたのです。それは治める者が治められる者たちの全てをわかるためでした。愛は相手と同じところに立つものです。
「わたしたちのために生れ」たのです。私たちの神への反逆、大いなる罪の身代わりとなって、それを肩に背負い、十字架上で、苦しみを全うして、身代わりに死なれたのです。兄弟と呼ばれるためでした。ヘブル2:11に記されています。

◇キリストが治めての平和
主はこの世では肩書をお持ちではありませんでした。しかし、神は復活、昇天されたキリストに実のある肩書を与えられました。その主権はその肩にあり、その名は次のように呼ばれる。
『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』
これを上と下とを分けてつないだら、私にはわかるような気がしました。救い主は不思議な方であり、無限の力ある方であり、永遠にいます方であり真の平和をもたらす方。そして、助言者として、神として、父として、王(君)として、神の国を治められる方なのです。色んな言葉が出てきましたが、イエス・キリストこそ、主権者なのです。人類の敵である死に勝たれた主権者なのです。私たちは自分の肩に背負っている重荷を主権者にゆだねますと平和が来ます。もし、神よりも自分が王になっていていると気づいたら、自己中心を捨てて、イエス・キリストを私の人生の王としましょう。するとすがすがしい平和が来ます。人との間にも平和が来ます。神の国は主権者がおられるので、全き平和があるのです。

ある時、私が牧師をしていても追いかけられる夢をみるけれど、主は平安を与えてくださると説教しましたら、礼拝が終わってから、ひとりの年配の女性から、先生は追いかけられる夢をみるなどというのは修業が足りないのだと指摘されました。なんだか、悔しくなって、寝る前に祈りました。どうか、天国の夢をみさせてください…と。するとそこは天国でした。真っ白に輝いていました。顔ははっきり見えないのですが、真っ白い衣を着たイエス・キリストが立っておられました。その方を見た時に心は今まで経験したことのない平安が訪れました。心はこの上ないほど満たされていました。ああ、天国だ、そう思った瞬間、目が覚め、現実に引き戻されました。
これは夢でしか過ぎないのですが、神のメッセージはそれ以上のはるかに素晴らしいことを告げているのです。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく」なのです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」御子イエス・キリストが私たちに与えられているのだと信仰の手を広げましょう。信じましょう。

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