オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

五千人の満足

2010-01-31 00:00:00 | 礼拝説教
2010年1月31日 主日礼拝(ヨハネ福音書6:1~14) 岡田邦夫


 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」ヨハネ福音書6:35

 一枚の写真が世界を動かしたというこの話は有名です。先日もテレビで放映さていました。アフリカのスーダンが内戦の渦の中にあり、追い打ちをかけるように1993年に大飢饉に襲われ、特に子供が病死、餓死していく極限の飢餓。この飢えで衰弱してうずくまる一人の少女と後ろから一羽のハゲワシがねらっているという写真を報道写真家ケビン・カーターが撮りました。その写真「ハゲワシと少女」を3月26日、ニューヨーク・タイムズは一面トップに載せました。それが大反響を巻き起こし、スーダンへの支援するボランティアが次々と現れれ、タイムズには寄付が多く集まり、アフリカ飢餓救済運動の再興のきっかけとなったのです。カーター氏はピューリッツァー賞を受賞しますが、わずか一ヶ月後、自ら命を絶ちました。享年33でした。自殺の原因は不明ですが、彼の撮った一枚の写真が、飢餓という悲惨な状況を世界に伝え、多くの人の心を動かしたことは事実です。
 話は変わりますが、イエス・キリストがなさった奇跡のうち、最も社会に影響を与えたのが、この「5000人に食べ物を与えた」奇跡です。ヨハネ福音書はマタイ、マルコ、ルカの福音書(共観福音書)にない奇跡を記していますが、この奇跡だけは取り上げており、4つの福音書全部が最大に注目した奇跡です。

◇夕暮れのガリラヤ湖
 飽食の時代の私たちには、5000人に食べ物を与えたというこの奇跡はピンとこないかも知れませんが、ほんとうは人が生きる上で、最も重要な問題に触れているのです。かつて、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されて、荒野の旅に出た時、最も困ったのは食べ物でした。神に立てられたモーセに彼らがそれをつぶやくと、主は天からマナをふらし、40年という間、養われました。大勢の群衆がイエスの話を聞きに集まってきて、夕方になり、そこは町から離れた所、みな空腹ですが、食べるものがない、そのような時に、かつての荒野で起こったことを再現するような奇跡が起こったのです。よく聖書を読んでみましょう(6:8-13)。
 「弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。『ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。』イエスは言われた。『人々をすわらせなさい。』その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。『余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。』彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」

◇夕暮れの新天地(ニュー・ヘブン)
 想像してみてください。5000人が一同に会し、食事をしているのです。空腹の男たち、5000人が「ほしいだけ」食べて満腹したのですから、パン五つと小さい魚二匹はどれほど、増えたのでしょうか。無から有を呼び起こすような奇跡です。それぞれ、ほしいだけ食べられたのですから、互いに争うこともなく、和気あいあいだったでしょう。日が暮れてくる。一日の終末に人生の終末を思い、歴史の終末を思う中で、しみじみと、神の豊かな恵みに満たされ、お腹だけではない、魂も満たされているのです。これこそ神の国(ルカ9:11)でなされる饗宴(きようえん)のしるしといえます。
 また、「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」時に、この奇跡をなされたのです(マルコ6:34)。まさに主の深いあわれみのしるしです。ですから、「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。』と言」いました(ヨハネ6:14)。世に来られるはずのあわれみ深い預言者だと思わされたのです。イエスの奇跡の動機は決して超能力の誇示ではなく、人に対する愛と慈しみであったのです。

◇夕暮れのゴルゴダの丘
 始めに話しました一枚の写真は結果として飢餓の現状と報道のあり方の問題提起となりました。写真ではありませんが、「5000人に食べ物を与えた」奇跡の後、人々がイエスを自分たちの都合のよいように、イエスを王として担ぎ出そうとして、むりやりに連れて行こうとしたので、イエス・キリストは真意を示し、問題提起をいたしました。ヨハネ6:22~65にあり、長いですので要約しましょう。
 …あなたがたは満腹したので関心を寄せていますが、このしるしの真の意味を教えましょう。先祖は荒野でマナを食べましたが、わたしの神が天からまことのパンを与えます。わたしが、天から下ってきた生けるパンです。だれでも、このパンを食べるなら、永遠に生きます。子を見て信じる者はみなその永遠の命に持ちます。言い換えれば、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲み者は、わたしによって生きるのです。そして、ひとりひとりが終わりの日によみがらされます。あなたがたはわたしを見ながら信じようとはしません。…
 目の前にいるナザレのイエスが天から降りて来られたとか、イエスが永遠の命のパンだとか、イエスを食べるとか、信じるとか、…彼らはそういうことがすべて信じられず、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言って、つまづいたのです。
  時はユダヤ人の祭りである過越(すぎこし)が間近になっていた時でした(6:4)。イエス・キリストは過越の祭りの日に十字架にかかりました。息をひきとられ、十字架からおろされたのは夕方でした(マタイ27:57)。私たちのすべて罪を贖いきよめて、神の御前に立てるようにしてくださり、ご自分の肉をさき、命をさき、私たちに永遠の命を差し出されました。私たちはそれを食べるように受け入れ、信じるなら、その永遠の命に与れるのです。イエスを信じることは食べるということです。食べれば自分のからだになります。イエス・キリストが私の中に受肉するのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」と言われるのですから、何とも奥深い恵みでしょうか(6:54)。






















































この確信さえあれば

2010-01-24 00:00:00 | 礼拝説教
2010年1月24日 伝道礼拝(一コリント13:13) 岡田邦夫


 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」一コリント13:13

◇それがあっても…一億円でも
 私は高校生の冬休みに友人と二人でアルバイトをしました。オフィス街のビルの地下に行って、ダスターシュートから落とされた紙くずを収集してくるという古紙回収の仕事です。ある日、東京の銀座のビルに行き、麻袋に紙くずを一杯詰めて、エレベーターで運ぼうとしたところ、故障だというので、階段を上がっていきました。地上に出た所は一等地、銀座4丁目の交差点。銀座らしいファッションで大勢の人が行き交うその中を、ほこりにまみれた二人で大きなズタ袋を引きずって、恥ずかしいので顔を隠し、その角を曲がり、やっとの思いで待っていたトラックに乗せたのです。それとともに、地下で収集していた時のことも衝撃でした。未使用に近いきれいな紙ばかりで、もったいない捨て方だなと思いつつ袋に詰めていると、その中にそのまま使えそうな一億円の小切手が出てきたのです。1960年の頃です。時給240円で働いている身には相当な金額。でも、ただの紙くずでした。
 巨万の富も何かがあれば、ただの紙くずになってしまう、結局、人は死ぬ時は持ってはいけないのだ、一億円の小切手もタダの紙切れ、その紙切れ一枚さえ持って行けないのだ、ほんとうに確かなものは何なのだろうと、私は考えさせられました。一方、私は、歴史に出てくるキリスト教徒の殉教の光景が思い浮かんできました。死も恐れず、輝いて亡くなっていく、ここにこそ、何か確かなものがあるのではないか、そう思わされていたのです。それから、私は三年後、キリストに出会い、その確かなものをいただきました。

◇これさえあれば…信・望・愛
 私たちがよってたてるもので、いつまでも変わらないもの、いつまでも残るものとは何でしょう。単刀直入にいいます。聖書、第一コリント13章13節に答があります。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。
 この三つの言葉の前に何かを入れるとしたら、「神」しかないのです。「神への信仰と、神への希望と、神への愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、神への愛である」。そこに「お金」とか「名声」などを入れても、いつまでも残る、とは言えませんね。次のような聖書の言葉もあります。「実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります」(ヘブル人への手紙10:34ー35 )。
 いつまでもということは、過去も、現在も、未来も、ということです。イエス・キリストは「過去」、二千年前、十字架にかかり、私たちを罪と死から救うために、身代わりになり、死んでくださり、また、永遠の命を与えるため、よみがえってくださいました。その方を信じるなら、私たちは救われるのです。イエス・キリストは昇天され、神の右におられ、とりなしてくださり、「現在」ここに臨在しておられます。その方を愛する時、命の交わりがなされます。そして、イエス・キリストはやがての「未来」に、再び、地上に来られ、裁きを行い、主を信じている人たちは復活し、現れた御国に入ります。それを望み見るのです。そのようにして、イエス・キリストの神といつまでもかかわり続けられるのです。たとえ、試練がやってきても、死がやってきても、裁きの日がやってきても。

◇これさえあれば…父・み子・み霊
 その神と救いを聖書に基づき、要約した信仰告白が、父である神、ひとり子イエス・キリストの神、聖霊の神を信じますという形で言い表されている「使徒信条」です。これさえあればいいのです。その神への信仰、希望、愛をもって生きるなら、試練がやってきても、死がやってきても、裁きの日がやってきてもふるわれることはありません。また、神は永遠なのですから、私たちが「信、望、愛」に生きることはいつまでも残ることなのです。
 あなたは神を信じ、神を望み、神を愛していますか。それを他のものに代替えしていませんか。それは偶像礼拝になるでしょう。そこに自分を入れてしまっているなら、自己中心の罪です。そうだとしましたら、悔い改めて、そのところをイエス・キリストの神に入れ替えましょう。イエス・キリストはあなたの偶像礼拝の罪も、自己中心の罪も、すべての罪を十字架の贖いによって赦してくださいます。そして、復活の恵みにより、新しい命に変えてくださり、信じ、望み、愛することのできるものにしてくださいます。そこで、私たちはこう告白しましょう。「私はただ主を信じ、ただ主を望み、ただ主を愛します」。それさえあれば、あなたは大丈夫です。

◇この確信さえあれば…アルツハイマーでも
 ここで、本田路津子さんの証詞を紹介しましょう。
 (彼女は1972年の連続テレビ小説『藍より青く』の主題歌『耳をすましてごらん』でお茶の間にも親しまれ、NHK紅白歌合戦にも2回出場された歌手。その後、歌手生活に行き詰まり、1975年に結婚し渡米。そこで信仰を持ち受洗。1988年帰国して以来、国内外の教会等で賛美の歌い手として活動しています。)以下は「私を変えた聖書の言葉」(日キ出版)より。
 両親は教会で知り合って結婚。父は素直に天国を信じている人だった。
 私が歌手生活の厳しさの中で、体力的にも精神的にも参っていた頃、父は「路津子、クリスチャンにならないか。クリスチャンになったらね、天国に行けるんだよ。」と唐突に語ったことがある。父は勉強好き。七十を間近にして東京神学大学の夜間講座に2年間在籍したこともあるほど。
 父は認知症となり、外に散歩に出ては、いろんな物をポケットに詰め込んで帰ってきて、母に叱られていた。老人性の認知症かと思われる状態が徐々に進んでいた。母がインフルエンザで寝込んでいる時、体力を落とし、転倒し、アルツハイマー症となった。しかし、暴力的な態度になったりすることもなく、一日中母を呼び続けること、食欲を満たすための「何かないの」の言葉を発するくらいである。まるで子供のような表情とまなざしで、今まで自分がどんなことを成してきたかという自負もなく、人を恨むでもなく、羨む(うらやむ)でなく、もしかしたら、天国?と私たちに思わせてくれるような日々だった。しばらく通った老人施設では、食事の時、祈って「アーメン」とでも言っているのか、送迎して下さる職員の方が、「本田さんはクリスチャンなんですね」という言葉で一日の報告をしてくださるほどに、態度で証しして帰って来る父だった。
 その後、何回か入退院を繰り返し、寝たきりの人となり、口から出る言葉も少なくなった。そんな父が、いつの頃からか、使徒信条を唱え出したのである。久しぶりに上京した私は、父を試してみたくなった。
  我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
  我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
 私の声と共に父の声が重なって聞こえてくる!半分くらいまでスラスラと口にし、少し疲れたのか途絶えてしまった。しかし、この父の信仰の確信に接した時、私は何を持って自分の信仰と言っているのだろうか、信仰生活で何が一番大切で忘れてはならないのだろうか、と振り返らされてしまった。
 特に信仰を振りかざすでもなく、また、何度かはつまずいたり、試練の時があったであろう一信徒の父。最後の脳裡(のうり)に焼きついて残っているのが、主がどんなに素晴らしく、自分のために成して下さったかの大きな愛の確信であり、使徒信条に全ての感謝の思いを託し、口ずさみ、信仰告白し続けたとは、何ということだろうか。
 この父の人生の終焉(しゆうえん)を目の前にしての、この平安さを見せてもらい、ただこの確信さえあればいいのだよ、と神様に代わって父が教えてくれたような気がする。私は何を信じていたのだろう。この経験以来、使徒信条が味わい深いものと変わっていった。信仰生活の基本となっていった。
 天地万物を造られた神様を信じていた父。ある日、私はベッドの傍らで賛美歌と共に、私の大好きな「見上げてごらん夜の星を」を歌って上げた。父は遠くの方を見るようなまなざしで聴き入っていた。歌い終わると、一言、「すごいねえ」と言葉を発した。子供の頃から星を見るのが好き、自分で歩いて仰ぐことはできないが、神様が夜空に散りばめられた、その美しい空を、そのまなざしの奥に描いて、この一言を口にしたに違いない。私は大きな感動にゆさぶられる思いがした。
 父を見ていると、どの程度のアルツハイマーなのか疑わしくなるほどで、信仰的にはこんなにしっかりしていたことは本当に不思議なことである。父危篤の知らせにかけつけ、父を見送るべく、葬儀での賛美歌をきめようとしていた時、讃美歌298番(新聖歌303)のところで、父はなんとか動かすことのできる左手をそろそろと伸ばし、しっかりと私の手を握ったのだった。
 「お母さん、この歌がいいみたいよ」。父はこんな時にも自分の葬儀で歌われる曲の選択する余裕を見せてくれた。
   やすかれ、わがこころよ、主イエスはともにいます。
   いたみも苦しみをも おおしく忍び耐えよ。
   主イエスのともにませば、たええぬ悩みはなし。
 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(一コリント13:13)
 使徒信条がしっかりと染みこんだ信仰と、天国への希望と。そして、大きな大きな主の御愛に包まれて、父は御国へと旅立っていった。

命の泉は、これから流れ出る

2010-01-17 00:00:00 | 礼拝説教
2010年1月17日 主日礼拝(ヨハネ福音書4:1~42) 岡田邦夫


 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネ福音書4:14

 はからずも、私、クリスマスにいただいたみ言葉のプレゼントは「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)でした。新年になって、こころに響いています。「命の泉は、これから流れ出る」と。今日は命の泉のメッセージです。

◇真っ直ぐに行かれるイエス
 イエスはパリサイ人との衝突を避けて、ユダヤを去って、またガリラヤへ行こうとされた時のことです。普通、ユダヤ人であれば、サマリヤ人とはたいへん仲が悪く、まっすぐ行って、サマリヤを通ることをせず、ぐるっと遠回りして行っていたのですが、イエスはまっすぐにサマリヤに入って行かれました。サマリヤのスカルという町で、一人の女性と会います。それは「真っ直ぐな」出会いでした。

◇真っ直ぐに告げられるイエス
 イエスは旅の疲れで、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸のかたわらに腰をおろしておられました。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていって、イエスお一人。第六時、正午ごろでした。そこにひとりのサマリヤの女性が水をくみに来ました。普通は朝夕の涼しい時に井戸に来るものです。何か、女性には事情がありそうです。主は「わたしに水を飲ませてください。」と頼みました。井戸は深いし、汲むものがなければ汲めないのですから、自然な言葉です。ところが、これが不自然なのです。同じイスラエル人なのですが、歴史的経緯があって、ユダヤ人はサマリヤ人をたいへん軽蔑していたからです。女性はそのままのことを聞きます。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」。
 このような民族間のゆがんだ思い、考えがあり、また、この真昼時に井戸に来なければならない事情の女性に対して、イエス・キリストは「真っ直ぐに」向き合われました。真っ直ぐに話をされます。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」(4:10)。生ける水のメッセージです。あとから、夫が五人あったが、今いっしょにいるのは夫ではないという問題の話より先にです。さらに続けます。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(4:13ー14)。そして、女性は救い主、メシアに出会ったのです。
 この水、エッチツーオーは飲んでもまた渇きます。この世のものは飲んでもまた渇きます。快楽は必要なものですが、飲んでもまた渇きます。この女性にかける人の優しい言葉もたいへんな慰めになるかも知れませんが、心底、魂の渇きをいやすことはできません。イエスは真っ直ぐに言われます。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」。

◇真っ直ぐに行こう私たち
 ヤコブの井戸ではなく、イエス・キリストの井戸から飲む水が渇くことのない水、永遠のいのちの水なのです。イエス・キリストの井戸はどこにあるのでしょうか。ゴルゴダにあるのです。十字架にかかり、ご自身の血を流し、私たちの罪の贖いをなしとげ、命を注ぎだしてくださいました。私たちは主を求め、主を信じて、そのきよい命の水に与るのです。その愛にあふれた命の水に与るのです。あなたは何か、いやなことがあって魂が渇いていませんか。十字架の井戸に真っ直ぐに行きましょう。あなたは特別なことも何もないのに魂が渇いていませんか。十字架の井戸に真っ直ぐに行きましょう。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」という泉が与えられるでしょう。

 実生活の中で、この井戸はどこにあるのでしょう。私たちが礼拝するところにあります。主は言われます。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(4:23ー24)。私たちは十字架において、主と出会います。また、礼拝において、主と出会います。しかも、霊とまことによって礼拝するところで主と出会います。主と出会うところに井戸があります。霊とまことによって礼拝するところに井戸があります。主は霊とまことをもって、真っ直ぐに私たちに向き合います。ですから、私たちも霊とまことをもって、真っ直ぐに主に向き合いましょう。そこに永遠の命の水がわき上がってきます。その水は神の恵みの味がし、神の愛の香りのする水でしょう。

 この井戸は終末のあとに現れる神の国にあります。黙示録にはその麗しい光景が預言されています。「御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」(黙示録7:17 )。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(21:6-7)。それはほんとうに実現するビジョンです。救いはまったく成就しているので、それこそ、むなしく渇いた涙はなく、いのちの水の泉はあふれています。何と素晴らしいことでしょうか。私たちの思い、あこがれ、希望はそこにあります。信仰を真っ直ぐにそこに向けて生きていきましょう。



風はその思いのままに吹き

2010-01-10 00:00:00 | 礼拝説教
2010年1月10日 主日礼拝(ヨハネ福音書3:1~16) 岡田邦夫


 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ヨハネ福音書3:3

 ニコデモには面白い話があります。彼がある家を尋ねるとコーヒーが出され、家の人に聞かれました。「角砂糖、いくつ入れます?」。彼は答えました。「一個でも、二個でもいいです」。このジョークわかりましたか。別にわからなくてもいいことです。私、わかってもらえなくて困ったことがありました。若い時に、中学生の女の子に数学を教えていた時です。負の計算で、1、マイナス、カッコ、マイナス1、イコール?という問題です。1-(-1)=。カッコの中と外のマイナスどうしをかけるとプラスになるから、答は2。図を書いたりして、1時間、説明してもわからず、彼女の答は初めから最後まで“0”でした。私、家庭教師失格でした。それから、ずいぶん時がたちましたが、その人はそれからも、もしそれがわからなくても、何の支障もなく生きておられるだろうなと思います。人生、わからなくてもいいことは多くあります。

◇わからないことがわかった
 しかし、わからなくては困ることがあります。ユダヤの国会議員でパリサイ派のニコデモが、夜、イエスのもとに尋ねていきましたが、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と言われてしまいました(3:10)。そこで、どうしても判ってほしいことがメッセージされます。二人の問答が面白いのですが、主が言おうとされたことは、次のようなことです。3節と5節、14~15節です。
 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」。
 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」。
 なぜなら、「まことに、まことに、あなたに告げます。」と前文があって、言われているからです。それは直訳ですが、意訳すると、新共同訳の「はっきり言っておく。」になります。はっきりしています。新しく生まれなければ神の国というのは見えてこなし、入ることもできないということです。聖書を学ぶ必要はありますが、それでわかるものではないのです。聖書を学んで、はっきりわかることは、新しく生まれなければ、わからないということです。
 私たちは1+1=2という感覚の世界に生きています。無限大に無限大を足しても、掛けても無限大だと数学者が言っても、私たちの生活感覚、命の感覚からはつかめないことです。神の国はこの世の命の感覚、肉の感覚ではつかめないのです。新しい命が与えられなければ、つかめない世界です。

◇わかないが、わかった
 しかし、聖霊によって、新しく生まれることができるのです。主は実に当を得た言い方をされます。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(3:8)。聖霊の導きは感じられるが、聖霊様そのものを初めから終わりまで見極められないということでしょう。
 私はキリスト教に出会って、はじめはメッセージを聞いても何もわかりませんでした。それから、教会に行っても、聖書を読んでも、キリスト教の本を読んでも、わかりません。わからない、わからないが3年続きました。そして、一つの説教で「わかって信じようとしたら、一生わからないだろう。信じてわかるのだ。」と語られた時、私はこれだと思い、信じようと決心しました。聖霊の風を感じたのでしょう。悔い改めて、祈りました。わからない相手に向かって、「あなたを信じられませんが、信じさせてください。」と祈ったところ、イエス・キリストを信じられたのです。その時、確かに、新しく生まれた、新生したと思いました。すると、神の国の世界が、ぱーと開けて見えてきたように感じました。
 そのような新生の経験が劇的で、生まれ変わりの瞬間が明確な人もおられますが、小さい時から、教会に来ていると、それほど明確ではない方もおられます。しかし、生まれ変わったことは同じなのです。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」。聖霊の風が嵐のように感じられた人もいれば、そよ風に感じられた人もいるでしょう。でも、御霊によって生まれる者もみな同じなのです。

◇わかるべくして、わかった
 人の思いのままでは不確かですが、御霊の思いのまま導かれたのですから、これほど確かなものはありません。それは用意周到で、必ず成し遂げる思いであり、時にかない、配慮に満ちた思いだからです。そして、神の愛をわからせようとする思いだからです。
 このことは絶対にわからなければならないというのが、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」のメッセージです。
 かつて、イスラエルが荒野にいた時、神に逆らったために、主は怒って、蛇を送って、噛みつかせたので、多くに人が死にました。そこで、民はモーセの前で悔い改めて助けを求めますと、青銅の蛇を旗ざおの上につけました。それを仰ぎ見たものたちはいやされました。それは民数記21:4-9に記された出来事でした。そのように、イエス・キリストは天から降りてこられ、十字架にはりつけにされ、私たちの罪のために死んで下さり、新しい命、永遠の命を与えてくださいました。その命によって神の国に入れたのです。
 そして、私たちはそれがわかれば、すべてがわかったことに等しいほどの一節、福音が凝縮されているみ言葉が16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16新共同訳)。

 新生は風のように働く聖霊ですが、水と共に働いく聖霊によって、人は新しく生まれるのです。「水と御霊によって生まれる」とはそのことです。水は洗礼式(バプテスマ)です。バプテスマは聖霊が満ちている教会で行われる新生の業です。
 神の業は一度限りですべてですから、紀元33年頃、イエス・キリストが十字架にかかり死に、三日目に死人の中からよみがえってくださった時に、新しい命、永遠の命が私たちに与えられたのです。
 しかし、終末にのぞまれた聖霊は時を越えて、その新しい命、永遠の命を「今」の私たちに手渡してくださるのです。私たちの中でも、新しく生まれるのは一度限りです。それが「水と御霊によって生まれる」バプテスマです。神の業ですから、一度限りで、決定的で完全なものです。
 そして、私たちが新生したという信仰の確信は、バプテスマより前に、聖霊によって「先取り」として、経験することもあれば、バプテスマより後に「後取り」として、経験することもあれば、バプテスマの時に「中取り」として、経験することもあります。人それぞれです。また、聖霊による新生の経験は、信仰生涯の後において、再度経験する、追体験もあるでしょう。
 聖霊という風は愛においてその思いのままに吹き、私たちに永遠の命の躍動を吹き込んでくださるのです。感謝すべきは聖霊様!

カナの婚礼でまさか

2010-01-03 00:00:00 | 礼拝説教

2010年1月3日 主日礼拝(ヨハネ福音書2:1~11)  岡田邦夫


 「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた。」ヨハネ福音書2:9(新共同訳)

 このお正月、お世話になっている方のところに、年賀を持って「ほんのおしるしですが」と謙虚に差し出された方はおられますか。この「しるし」というのは気持ちをあらわすものの意味で、感謝のしるしに記念品を贈るというはよくあります。また、「しるし」はある事実を証明するもの、証拠になるものという意味で使います。重要な書類にはしるしとして、本人の印鑑やサインが必要です。
 私たち、すべての者にとって、ほんとうにイエスは神の子なのかということは最も重要なことです。その事実を証明するもの、証拠になるもの、すなわち、しるしが必要です。イエスの弟子のヨハネは福音書の終わりの部分でこう述べています。「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20:30ー31)。その「しるし」というのはイエスの奇跡のことです。他の福音書と違って、ヨハネは7つのしるしのみを記しています。聖書では「7」は完全数、7つのしるしで完全なのです。

◇まさか
 ところで、最初のしるしが行われたのは、ガリラヤのカナでなされていた結婚式の最中でした。よく披露宴でのスピーチに、人生には三つの坂がありまして、上り坂、下り坂、そして、まさかですが…と。ところが、ここでは、婚礼の時に、その「まさか」が起こったのです。花婿の計算があまかったのか、お祝いのぶどう酒がきれてしまいました。それがわかれば、宴はしらけるでしょうし、来客に何を言われるかわかりませんし、それが原因で結婚生活がうまくいかなくなるかも知れません。
 宴に欠かせないぶどう酒がなくなりました。人生には欠かせないものを失うという、まさかが起こります。財産を失う、愛する家族を失う、健康を失う…、ヨブがそうでした。地位を失う、信頼を失う、友情を失う、私たちは色々失いますが、考え方を変えれば、何とか、対処できるかも知れません。しかし、心というのはそうはいかないのです。気力ややる気を失う、元気や生きる気を失う、喜びや楽しみを失う、希望や信仰や愛を失う…。それはとても深刻なことです。
 そのような所に、イエス・キリストが来られたのです。生まれた時から視力を失った人、38年も病気で気力を失った人、愛するラザロを失って、悲しみに浸るマリヤとマルタの所に来られたのです。失われたものを回復するため、イエス・キリストはすべてを失われたのです。十字架の上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫び、神の手からまったく失われたのです。ぶどう酒がなくなった所に来られたように、神を失った私たちの所に来られたのです。

◇まさか
 その席には、花婿とどういう関係だかわかりませんが、イエスと母マリヤと弟子たちが出席しておりました。弟子といいましても、この4日前にペテロやアンデレがイエスの弟子になり、3日前にピリポとナタナエル(バルトロマイか?)が弟子になったばかりです。そこで、この人たちだけの内緒のことが行われます。
 母がイエスに「ぶどう酒がありません。」と告げると、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」と、救い主としての答えが返ってきました。母子関係は救い主と人の関係となり、救いは十字架と復活の時であるということです。
 母は手伝い(召し使い)の人たちにこっそりと頼みます。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」(2:5)。イエスが100リットル位はいる石の水がめ6つに「水を満たしなさい。」と不思議なことを言いますが、召し使いはその通りします。さらに、「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と理解できないことを言われますが(2:8)、その通りにしました。すると、大量の水がぶどう酒になっていたのでした。そうとは知らない世話役は花婿をほめました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」(2:10)。
ここに、世話役の「まさか」があります。花婿がまさか、こんな度量のある人だとは思わなかったという良い意味です。

◇まさか
 表舞台はそんなハプニングがあったとは気付かずに、宴は盛り上がっていたでしょう。しかし、舞台裏では、水がぶどう酒になるという前代未聞の奇跡がおきていたことを知っていました。「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた。」のです(2:9新共同訳)。そばにいた主の弟子たちも、知っていました。最悪の事態が、最善の状況に変わったのです。この奇跡こそ、まさかの事実です。弟子となる時に「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った者たちに見せる「しるし」だったのです(1:41)。聖書はこう記録しています。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」と(2:11)。
 欠乏のまさかが、栄光のまさかに変えられたしるしでした。イエスは多くのしるしを、弟子たちの前で行なわれました。それは、そのしるしを通して、イエスが神の子キリストであることを、私たちが信じるため、また、私たちがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためなのです(ヨハネ20:30ー31)。
 気力ややる気を失う、元気や生きる気を失う、喜びや楽しみを失う、希望や信仰や愛を失う…というような深刻な事態に私たちが陥っても、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と導かれます(2:5)。そして、神の恵みを祈り汲んでいくと、虚しい水が喜びのぶどう酒に変えられるしるしがおきます。生きる気力が出て来、生きる喜びや楽しみがわいてきて、希望と信仰と愛が与えられます。御子を信じ、永遠の命を得るにいたるのです。私たちはこの世でのしるしを通して、永遠の命の喜びに与るのです。それは水をくんだ召し使いたちだけが、わかるのです。

 あるクリスチャンの婦人の夫が、医師からあごの骨のガンですと告げられ、その骨を切り取り、腰の骨を移植する手術をしました。ところがその骨がなかな着かないのです。親戚が祈とう師に占ってもらったら、親族で邪教を信じている者がいて、その宗教を捨てれば治るのだというのです。クリスチャンの婦人は責められました。しかし、御名の栄光にかかわると思って、婦人も教会も真剣に祈りました。医師は骨が着かなければ、正月を明けたら、取り除く手術をしますと言われたので、ますます、私たちはみ言葉を信じて祈りました。正月が明け、検査しましたら、骨が着いていたのです。退院する時、看護師が二人来て、婦人に聞き取りをしていました。手術後、あごが使えないので、管で胃に直接、流動食を入れていたのですが、彼女は白身魚を良くたいて、骨までいっしょにミキサーにかけ、野菜も入れて、それを病院のものに加えて入れていたのです。治ったのはそのせいだと考えたのか、データとして聞きに来たわけです。しかし、主治医はクリスチャンでした。これは奇跡だと言っていました。「水をくんだ召し使いたちは知って」いました。祈った者たちは知っていました。主があわれんで奇跡を起こしてくださったと。そのご主人は退院後、洗礼を受けました。私はお寺の檀家総代ですのに、入院中、イエス・キリストをどう信じられたのですかと聞きました。お見舞いにもって来てくれた、缶に造花のさした手作りの飾りに「神は愛なり」と書いてあったのを毎日見ていて信じたのだというのです。
 彼はあごの骨を失ったのですが、神は新しい骨を与えてくださったしるしを通して、神の愛が注がれていることを知り、永遠の命に与ったのです。

「御手の中の輝かしい冠」

2010-01-01 00:00:00 | 礼拝説教
2010年1月1日 元旦礼拝               岡田邦夫
イザヤ書62:1-5


 「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。」イザヤ書62:3

 新年おめでとうございます。昨日までは、「どうぞ、良いお年を…。」と言っていたのが、もう、新年のあいさつにかわりました。今は満年令で数えますが、私の母は明治生まれでしたから、数え年で年を数えていました。数え年というのは、生まれた時を1才として、それからは元日を迎えるごとに1才加えていくものです。数え年だと、新年に皆いっせいに一才ずつ年を取るのですから、赤ちゃんから、お年寄りまで、皆横並びで、平等のような感じがします。
 ところで、人にはその年令に応じた「輝き」というものがあると思います。子供の時の輝き、青春の時の輝き、働き盛りの時の輝き、熟年の時の輝きとそれぞれの色合いの輝きがあります。
 人は神に造られたのですから、その創造者を信じて生きる時に、年令に応じた輝きが発揮されるのです。そこに主が良くしてくださる輝きがあるのです。また、救い主を信じて、今を輝き、明日を輝いて、生きていくように、主は望んでおられるのです。

◇シオンの輝き
 聖書はこう言っています。
 「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」(62:1)。
 シオンの山もエルサレムの都も神の民イスラエルの言い換えです。そこに、「あなた」と入れ替えて、このみ言葉を読んでみましょう。「あなたのために、わたしは黙っていない。あなたのために、黙りこまない。あなたの義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」(62:1)。神の私たちへの目的は、その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えることなのです。アダム以来、御前に罪を犯して、まったく輝きを失った私たちが、その輝きを回復するようにと、救い主イエス・キリストは黙り込まず、休まず、働いておられるのです。
 歴史の上で、イザヤの預言の後、バビロン帝国が攻め入り、エルサレムの都も神殿も破壊され、イスラエルの残りの民、ユダヤ人たちは、バビロンに補囚されていきました。かつてのダビデ、ソロモン時代の栄光も、見る影もありませんでした。しかし、約70年後、バビロンに取って代わったペルシャがユダヤ人たちをエルサレムに帰し、再建させたのです。イザヤのこの預言のように、神の民は輝きを取り戻していくことになりました。さらに、神は人類が救われて、輝きを回復させるために、さらに、新たに輝くために、世の終わりまで、休むことをされないのです。
 ですから、私たちがほんとうに輝くのは、終末の後です。その時、「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。」のです(62:3新共同訳)。大きなダイヤやサファイヤや様々な最高の宝石をちりばめた王冠のそれ以上に、世界の王にふさわしい、栄光に輝く王冠として輝く者になると約束しているのです。そして、救われて永遠の命に輝く私たちを神は大いに喜んでくださるのです。「若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる」(62:5新共同訳)。花婿が花嫁を喜びとするように神が私たちのことをワクワクしてくださると思ったら、心がじーんときませんでしょうか。神が私たちのことを喜ばれる光景を思い浮かべれば、私たちの人生を大事にしなければと思います。

◇エデンの輝き
 私たちの人生を大事にして生き、やがての輝きを信仰によって先取りして、この世において、輝いて生きましょう。そもそも、エデンの園で、人は輝いていました。神はアダムのあばら骨をとって、「助け手」として、エバを造られました。人は互いに助け手となるように、人のために生きるように造られたのです。しかし、サタンの誘惑に負け、禁断の実を食べてしまい、その罪によって、エデンの園から追放され、輝きを失ってしまいました。ですから、私たちはその失った輝きを取り戻すために、輝きを消すいっさいの罪をきよめるために、イエス・キリストが十字架にかかり、いけにえとなられました。そのことを信じて、私たちは救われ、輝きを与えられるのです。その輝きはしまっといてはもったいないことです。他者のために生きてこそ、輝くのです。

 賀川豊彦師が神戸で救貧活動を始めて100年になるのを記念して、式典が行われ、神戸新聞がシリーズで「ともに生きて」という題で記載していました。彼は「クリスマスの幸福は最も弱い立場の人々と分かち合うべきだ。」と言って、神戸のスラムで伝道と救貧活動を始め、その後、労働運動、協同組合運動、農民運動、平和運動と活動し続けました。大正期最大のベストセラーとなった自伝小説「死線を越えて」などが認められ、2度ノーベル文学賞候補となりました。また、アインシュタインやシュバイツァーと平和運動をなした実績などで、ノーベル平和賞候補に3度もなりました。生活はきわめて質素だったそうですが、その働きはとても輝いていました。
 そうした広い活動をされた方のことを知る時に私たちは、自分ももっと他者のために何かができるのではないかと励まされます。しかし、なかなかその人のマネはできることではないと思うものでもあります。賀川師の多様な活動に「幅広い分野に手を出したが、どれも貫いていない」との批判のあることも記されていましたが、鳴門市にある記念碑には、彼を貫いていた言葉、「愛は私の一切である」が刻まれているとのことです。むしろ、彼がどれも貫いていないというところに、私などは親しみを感じます。見える所は貫いていなくても、それが中途半端に見えたとしても、いいのだ、見えない所で、すなわち、御手の中で愛を貫き、愛に輝いていることが大切なのだと、教えられました。

◇御手の中の輝き
 アスリートなど、がんばっている人を見る時、輝いて見えるものです。しかし、競争社会の過酷な「がんばれ」は精神に大きな負担をかけ、追い詰めてしまうことがあります。その意味ではがんばらなくていい、ありのままでと言った方がいい時代です。しかし、それを昇華した意味で、次の「子どものための賛美」はたいへん励まされる「がんばれ」です。作者は阿南慈子(あなみいつこ)さん。32才で多発性硬化症(MS)を発病され、徐々に中枢神経の機能が失われていく難病をかかえていて、次々に身体の機能が失われ、視力が失われ、声も失われていっています。しかし、イエス・キリストを信じ、シスターや家族や医師やボランティアなど多くの人に支えられながら、ひがむことも、恨むこともなく、ほんとうに輝いて生きておられます。このような状況で、彼女はしてもらっていながら、実は他者のために生きているのです。
 1 誰の声だろう「がんばれ!」のあの声は
    どこから聞こえてくるのだろう 「がんばれ!」のあの声は
    悲しい時や辛い時 苦しい時や病気の時
    いつも耳に聞こえてくる いつも心に響く
    神様の声かも知れない こんなにもうれしい
    神様の声にちがいない こんなにも幸せ
 2 誰の声だろう「がんばれ!」のあの声は
    どこから聞こえてくるのだろう 「がんばれ!」のこの声は
    淋しい時やこわい時 困った時や孤独な時
    いつも耳に聞こえてくる いつも心に響く
    神様の声かも知れない こんなにもたのしい
    神様の声にちがいない こんなにも暖かい
 この本のタイトルは「神様への手紙」(PHP研究所)ですが、副題が“My life in God's loving Hands”直訳すれば、神の愛の御手にある私の命です。
 「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる」。御手の中で、クリスチャンは輝くのです。あなたが御手の中で祈る時に、祈り輝くのです。あなたが電車やバスに乗って、その乗客のために祈る時に、あなたが家族や友人のために一人祈る時に、テレビや新聞を見ていて、事故や災害にあった方たちのために祈る時に、あなたが普段のささやかなことに感謝する時に、あなたが特別なことはないのですが主への賛美を口ずさむ時…輝いているのです。あなたが何か失敗して、さえなくても、御手の中にある時に輝いているのです。あなたがとても辛い試練にあって泣き暮れても、御手の中にある時に輝いているのです。あなたが必死に祈っていても現状は少しも変わらなくても、御手の中にある時に輝いているのです。詩篇は聖書の中で最も分量が多く、150篇もあります。賛美があり、感謝があり、最も多くは嘆きがありますが、すべて、御手の中での祈りです。御手の中での150の宝石の輝きがあります。
 この年、私たち、 御手の中で輝いていこうではありませんか。