2010年1月31日 主日礼拝(ヨハネ福音書6:1~14) 岡田邦夫
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」ヨハネ福音書6:35
一枚の写真が世界を動かしたというこの話は有名です。先日もテレビで放映さていました。アフリカのスーダンが内戦の渦の中にあり、追い打ちをかけるように1993年に大飢饉に襲われ、特に子供が病死、餓死していく極限の飢餓。この飢えで衰弱してうずくまる一人の少女と後ろから一羽のハゲワシがねらっているという写真を報道写真家ケビン・カーターが撮りました。その写真「ハゲワシと少女」を3月26日、ニューヨーク・タイムズは一面トップに載せました。それが大反響を巻き起こし、スーダンへの支援するボランティアが次々と現れれ、タイムズには寄付が多く集まり、アフリカ飢餓救済運動の再興のきっかけとなったのです。カーター氏はピューリッツァー賞を受賞しますが、わずか一ヶ月後、自ら命を絶ちました。享年33でした。自殺の原因は不明ですが、彼の撮った一枚の写真が、飢餓という悲惨な状況を世界に伝え、多くの人の心を動かしたことは事実です。
話は変わりますが、イエス・キリストがなさった奇跡のうち、最も社会に影響を与えたのが、この「5000人に食べ物を与えた」奇跡です。ヨハネ福音書はマタイ、マルコ、ルカの福音書(共観福音書)にない奇跡を記していますが、この奇跡だけは取り上げており、4つの福音書全部が最大に注目した奇跡です。
◇夕暮れのガリラヤ湖
飽食の時代の私たちには、5000人に食べ物を与えたというこの奇跡はピンとこないかも知れませんが、ほんとうは人が生きる上で、最も重要な問題に触れているのです。かつて、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されて、荒野の旅に出た時、最も困ったのは食べ物でした。神に立てられたモーセに彼らがそれをつぶやくと、主は天からマナをふらし、40年という間、養われました。大勢の群衆がイエスの話を聞きに集まってきて、夕方になり、そこは町から離れた所、みな空腹ですが、食べるものがない、そのような時に、かつての荒野で起こったことを再現するような奇跡が起こったのです。よく聖書を読んでみましょう(6:8-13)。
「弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。『ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。』イエスは言われた。『人々をすわらせなさい。』その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。『余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。』彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」
◇夕暮れの新天地(ニュー・ヘブン)
想像してみてください。5000人が一同に会し、食事をしているのです。空腹の男たち、5000人が「ほしいだけ」食べて満腹したのですから、パン五つと小さい魚二匹はどれほど、増えたのでしょうか。無から有を呼び起こすような奇跡です。それぞれ、ほしいだけ食べられたのですから、互いに争うこともなく、和気あいあいだったでしょう。日が暮れてくる。一日の終末に人生の終末を思い、歴史の終末を思う中で、しみじみと、神の豊かな恵みに満たされ、お腹だけではない、魂も満たされているのです。これこそ神の国(ルカ9:11)でなされる饗宴(きようえん)のしるしといえます。
また、「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」時に、この奇跡をなされたのです(マルコ6:34)。まさに主の深いあわれみのしるしです。ですから、「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。』と言」いました(ヨハネ6:14)。世に来られるはずのあわれみ深い預言者だと思わされたのです。イエスの奇跡の動機は決して超能力の誇示ではなく、人に対する愛と慈しみであったのです。
◇夕暮れのゴルゴダの丘
始めに話しました一枚の写真は結果として飢餓の現状と報道のあり方の問題提起となりました。写真ではありませんが、「5000人に食べ物を与えた」奇跡の後、人々がイエスを自分たちの都合のよいように、イエスを王として担ぎ出そうとして、むりやりに連れて行こうとしたので、イエス・キリストは真意を示し、問題提起をいたしました。ヨハネ6:22~65にあり、長いですので要約しましょう。
…あなたがたは満腹したので関心を寄せていますが、このしるしの真の意味を教えましょう。先祖は荒野でマナを食べましたが、わたしの神が天からまことのパンを与えます。わたしが、天から下ってきた生けるパンです。だれでも、このパンを食べるなら、永遠に生きます。子を見て信じる者はみなその永遠の命に持ちます。言い換えれば、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲み者は、わたしによって生きるのです。そして、ひとりひとりが終わりの日によみがらされます。あなたがたはわたしを見ながら信じようとはしません。…
目の前にいるナザレのイエスが天から降りて来られたとか、イエスが永遠の命のパンだとか、イエスを食べるとか、信じるとか、…彼らはそういうことがすべて信じられず、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言って、つまづいたのです。
時はユダヤ人の祭りである過越(すぎこし)が間近になっていた時でした(6:4)。イエス・キリストは過越の祭りの日に十字架にかかりました。息をひきとられ、十字架からおろされたのは夕方でした(マタイ27:57)。私たちのすべて罪を贖いきよめて、神の御前に立てるようにしてくださり、ご自分の肉をさき、命をさき、私たちに永遠の命を差し出されました。私たちはそれを食べるように受け入れ、信じるなら、その永遠の命に与れるのです。イエスを信じることは食べるということです。食べれば自分のからだになります。イエス・キリストが私の中に受肉するのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」と言われるのですから、何とも奥深い恵みでしょうか(6:54)。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」ヨハネ福音書6:35
一枚の写真が世界を動かしたというこの話は有名です。先日もテレビで放映さていました。アフリカのスーダンが内戦の渦の中にあり、追い打ちをかけるように1993年に大飢饉に襲われ、特に子供が病死、餓死していく極限の飢餓。この飢えで衰弱してうずくまる一人の少女と後ろから一羽のハゲワシがねらっているという写真を報道写真家ケビン・カーターが撮りました。その写真「ハゲワシと少女」を3月26日、ニューヨーク・タイムズは一面トップに載せました。それが大反響を巻き起こし、スーダンへの支援するボランティアが次々と現れれ、タイムズには寄付が多く集まり、アフリカ飢餓救済運動の再興のきっかけとなったのです。カーター氏はピューリッツァー賞を受賞しますが、わずか一ヶ月後、自ら命を絶ちました。享年33でした。自殺の原因は不明ですが、彼の撮った一枚の写真が、飢餓という悲惨な状況を世界に伝え、多くの人の心を動かしたことは事実です。
話は変わりますが、イエス・キリストがなさった奇跡のうち、最も社会に影響を与えたのが、この「5000人に食べ物を与えた」奇跡です。ヨハネ福音書はマタイ、マルコ、ルカの福音書(共観福音書)にない奇跡を記していますが、この奇跡だけは取り上げており、4つの福音書全部が最大に注目した奇跡です。
◇夕暮れのガリラヤ湖
飽食の時代の私たちには、5000人に食べ物を与えたというこの奇跡はピンとこないかも知れませんが、ほんとうは人が生きる上で、最も重要な問題に触れているのです。かつて、イスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されて、荒野の旅に出た時、最も困ったのは食べ物でした。神に立てられたモーセに彼らがそれをつぶやくと、主は天からマナをふらし、40年という間、養われました。大勢の群衆がイエスの話を聞きに集まってきて、夕方になり、そこは町から離れた所、みな空腹ですが、食べるものがない、そのような時に、かつての荒野で起こったことを再現するような奇跡が起こったのです。よく聖書を読んでみましょう(6:8-13)。
「弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。『ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。』イエスは言われた。『人々をすわらせなさい。』その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。『余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。』彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」
◇夕暮れの新天地(ニュー・ヘブン)
想像してみてください。5000人が一同に会し、食事をしているのです。空腹の男たち、5000人が「ほしいだけ」食べて満腹したのですから、パン五つと小さい魚二匹はどれほど、増えたのでしょうか。無から有を呼び起こすような奇跡です。それぞれ、ほしいだけ食べられたのですから、互いに争うこともなく、和気あいあいだったでしょう。日が暮れてくる。一日の終末に人生の終末を思い、歴史の終末を思う中で、しみじみと、神の豊かな恵みに満たされ、お腹だけではない、魂も満たされているのです。これこそ神の国(ルカ9:11)でなされる饗宴(きようえん)のしるしといえます。
また、「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」時に、この奇跡をなされたのです(マルコ6:34)。まさに主の深いあわれみのしるしです。ですから、「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。』と言」いました(ヨハネ6:14)。世に来られるはずのあわれみ深い預言者だと思わされたのです。イエスの奇跡の動機は決して超能力の誇示ではなく、人に対する愛と慈しみであったのです。
◇夕暮れのゴルゴダの丘
始めに話しました一枚の写真は結果として飢餓の現状と報道のあり方の問題提起となりました。写真ではありませんが、「5000人に食べ物を与えた」奇跡の後、人々がイエスを自分たちの都合のよいように、イエスを王として担ぎ出そうとして、むりやりに連れて行こうとしたので、イエス・キリストは真意を示し、問題提起をいたしました。ヨハネ6:22~65にあり、長いですので要約しましょう。
…あなたがたは満腹したので関心を寄せていますが、このしるしの真の意味を教えましょう。先祖は荒野でマナを食べましたが、わたしの神が天からまことのパンを与えます。わたしが、天から下ってきた生けるパンです。だれでも、このパンを食べるなら、永遠に生きます。子を見て信じる者はみなその永遠の命に持ちます。言い換えれば、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲み者は、わたしによって生きるのです。そして、ひとりひとりが終わりの日によみがらされます。あなたがたはわたしを見ながら信じようとはしません。…
目の前にいるナザレのイエスが天から降りて来られたとか、イエスが永遠の命のパンだとか、イエスを食べるとか、信じるとか、…彼らはそういうことがすべて信じられず、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言って、つまづいたのです。
時はユダヤ人の祭りである過越(すぎこし)が間近になっていた時でした(6:4)。イエス・キリストは過越の祭りの日に十字架にかかりました。息をひきとられ、十字架からおろされたのは夕方でした(マタイ27:57)。私たちのすべて罪を贖いきよめて、神の御前に立てるようにしてくださり、ご自分の肉をさき、命をさき、私たちに永遠の命を差し出されました。私たちはそれを食べるように受け入れ、信じるなら、その永遠の命に与れるのです。イエスを信じることは食べるということです。食べれば自分のからだになります。イエス・キリストが私の中に受肉するのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」と言われるのですから、何とも奥深い恵みでしょうか(6:54)。