オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

にもかかわらず笑う

2017-06-26 00:00:00 | 礼拝説教
2017年6月25日 伝道礼拝(創世記21:1~7)岡田邦夫

 「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」。(創世記21:6共同訳)

アメリカのバプテスト教会の牧師がメッセージの導入でこのような話をされました。「私の友人である牧師がしてくれた話です。十分準備をして、ためになる良い説教をしていると思っているのに、途中で居眠りをする信者さんが多いので、どこかに問題があると思い、自分の説教の録音を聞いてみました。すると、途中で彼自身が居眠りを始めました」。このユーモアに富んだ話、愛と思いやりの現実的な表現があります。聖書にはユーモアが豊かに含まれていますが、なぜか「笑い」という言葉そのものはわずかです。その少ない中から、笑いについてお話をしましょう。

◇サラは二度、笑った
 イスラエル民族の先祖はアブラハムとサラ。二人には子供ができず、今から3800年ぐらい前の当時としては、それは不幸なことで、神に呪われているさえ思われたことでした。周囲はそうでも二人はそうは思っていなかったでしょう。サラは美しかったし、遊牧するうえでの財産もあったようです。でも、無いものがありました。土地と子供です。アブラハム75歳の時、天地創造の神は子孫を増やし、土地を与えると「祝福」の約束をされます。といって、なかなか子供は与えられません。
 彼が99歳の時、み使いと思われる三人の人が訪ねてきました(創世記18章)。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」と告げます。サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていて、心の中で笑います。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで」。み使いに心の内を見抜かれ、叱られますが、「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている」と念を押して去っていきます。冗談だと思って笑ったサラ、翌年には喜びの笑いがこぼれることになるのです(創世記21章)。
 「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ(百歳)。…子をイサクと名づけた」。イサクは笑いという意味です。サラは喜びにあふれて言ったからです。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(21:6共同訳)。
 ユーモアとは「にもかかわらず笑う」と言われています。卵巣がんの末期でホスピスに入院してこられた中年の女性がいました。ある日の回心の時に、「いかがですか?」という柏木哲夫医師の問いかけに、彼女は、「おかげさまで順調に弱っております」と答えました。医師はプッと笑いました。そしてその言葉によって慰められたと感じました(「恵みの軌跡」より)。
サラの場合、神のユーモアがあるのではないかと私は思います。サラは不妊症、妊娠は無理、しかし、不可能にもかかわらず、可能にする、神の粋な計らい、神の世界のユーモアがあるのではないかと私は言いたいところです。不可能にもかかわらず、可能にする、冗談に見えて冗談ではない神のお約束、神の愛と思いやりの現実の表現がそこにあります。

◇人は泣いて、笑う
 「おかげさまで順調に弱っております」と言われた、なかなかのユーモア、強がりでは言えません。すべて神の導きの中にあるという、神への信頼があってのセンスではないでしょうか。サラについては神が後のイスラエル子孫を祝福する初めの一歩でした。そこに笑いがありました。さらに人類を祝福する立役者はイエス・キリスト、山の上の説教で祝福の言葉が綴られています。マタイ福音書5章にありますが、ルカ福音書を見てみましょう(平野の説教)。
イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから」(6:20-21)。
「幸い」と訳されていますが「祝福」と訳したほうがいいかも知れません。地上的な人間的なしあわせではなく、天からの、永遠につながる祝福です。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから」。苦しみに会い、試練に会い、涙を流している、しかし、神はご存知で、それを無駄にはなさらない、それを遭遇して、神に祈り、そして、神の、天来の祝福に与り、永遠の命に与るのです。地位や名誉や財産の幸福はこの手からすり抜け、消えていくでしょう。しかし、神の救いをいただき、見えない神の祝福に与るなら、この信仰の手からは永遠に逃げてはいきません。
神を信じていても、「順調に弱っていきます」。しかし、永遠の命は強くなっていきます。天国の望み、栄光の体への望みが膨らんでいきます。問題は、神絵の不信仰であり、罪です。それが少しでもあれば、祝福はありません。イエス・キリストをその問題を解決し、私たちを救いに導くために、人となられました。十字架を担われた時、私たちの悲しみを担われ、不信仰や罪を身代わりに担われました。涙を笑いに変えるためでした。イザヤ書53章でその真意が告げられています。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。」
私たちに代わって苦難にあわれ、全うされ、愛の神による救いを全うされました。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足されたのです。極限の苦悩の顔が主ご自身、満足の笑みに変えられたのです。順調に弱りつくし、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取り、三日後に復活されました。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから」と言われた福音をご自身が先立って経験され、信じる私たちも、そのように天来の笑いに導かれるのは確かなことです。

どこまでも共にいる

2017-06-18 00:00:00 | 礼拝説教
2017年6月18日 主日礼拝(創世記28:10~19)岡田邦夫


 「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」創世記28:15

 この聖句は私が東京聖書学院に入学する前に、母教会の牧師夫人が開いてくださったみ言葉です。卒業したら母教会に帰ってきてほしいとの願いもあって、主から与えられたのだと思います。「あなたをこの地に連れ戻そう」の約束通り、卒業後、母教会に派遣されました。それから、ずっと心に残っているのは、あなたがどこへ行っても「わたしはあなたとともにあり」あなたを守るという主の約束です。天地創造の神、全能の神が“共に”いてくださるということが何よりの救いです。聖書全体の中心メッセージであることは皆さん、ご存知のことでしょう。

◇にもかかわらず、どこまでも
 では、神が私(たち)と共にいる、その伴い方とはどのようなものでしょう。ヤコブは双子の兄弟、エサウが先に顔を出し、ヤコブは彼のかかとをつかんで、一足後に生まれてきました。一瞬の違いでも、兄は兄、弟は弟、後継ぎはエサウ、ヤコブにはその権利はない。お腹をすかしたエサウにヤコブはレンズ豆の煮もので誘惑し、長子の権利と交換させてしまう。それは決定的なことではないので、その時を待つ。老いた父イサクが祝福継承の時、シカの肉を食べたいというので、エサウは狩りに行く。そのすきにヤコブはエサウの晴れ着を着、手と首に子ヤギの毛皮をかぶせ、子ヤギの美味しい料理をもって、目のかすんだイサクのもとに行く。イサクはエサウと思い込んで、祝福をヤコブにしてしまう。やり直しはきかない、厳粛なもの。だまされたエサウは弟を殺そうとするが、両親は叔父ラバンの元に行くようにと、ヤコブを送り出す。
 その旅の途上、日が沈み、石を枕に野宿していた時に、神のみ使いが現れ、先のみ言葉の約束が告げられたのです。本来なら、祝福には与れない立場にあったヤコブにもかかわらず、また、兄と父をだまして、祝福を奪ったような狡猾なヤコブにもかかわらず、アブラハム、イサクと受け継いだ祝福をいただき、継承したのです。しかも、その人生の旅の同伴者になってくださったのです。荒野の旅の危険、叔父の下での苦労、兄との再会の危機、どこまでも主が共にいて、守られたのです。
 「共に」といえば、イザヤ書だと皆さん、思うでしょう(43:1-2)。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない』」。どこまでも、どこまでも共におられるのです。永遠の同伴者です.

◇それだからこそ、どこまでも
 どこまで、親密に伴ってくださるのでしょうか。先週、西日本教職セミナーで、堀肇(はじめ)先生の精神医学の講義があって、学ぶところ大でした。「魂への配慮を考える」がテーマ。私は特に「寄り添う」という在り方を学ばされました。良きサマリヤ人のたとえを取りあげました。強盗に襲われ、傷ついた旅人に近寄って、オリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、家畜に乗せ、宿屋まで連れて行き、介抱しました。私たちは人生の傷ついた旅人の傷を優しく包む「包帯」になることだと勧められました。また、良きサマリヤ人はイエス・キリスト。主は私たちの人生の旅で傷ついた、その傷を優しく包む「包帯」となってくださったのです。そのような痛みを包み、やがて癒されていくという寄り添い方、伴い方を私たちにされるのです。

 日本で初めてホスピス病棟を始められた柏木哲夫先生が「恵みの軌跡」という本を出されました。副題にあるように、精神科医・ホスピス医としての歩みを振り返って書かれたものです。私は以前お聞きし、感動した話ですが、この本にその動機となった出来事「緘黙症(かんもくしょう)の患者さん」が載っていました。そのまま、お読みしたいと思います。
 「医局のローテーションでK病院へ一年間の予定で赴任しました。病棟に四十七歳の女性患者Yさんがいました。カルテには「緘黙症」とあり、この一年間一言もしゃべらないと記載されていました。部長も私の前任者も薬を工夫したり、心理療法、グループ療法、行動療法、作業療法、さらに電気ショック療法まで試みたりしましたが、効果がありませんでした。音には反応するので耳は聞こえていることがわかっていました。仮面様の顔貌(がんぼう=かおかたち)をしており、いかにも感情が動かない感じがしました。私も緘黙症に関するいろんな書物や文献を調べて、効果がありそうな方法はすべて試みてみましたが、Yさんは一言もしゃべってくれませんでした。
 半年経ったころ、医局にあったジャーナルを読んでいると、「Being with the
patients」という記事が目に留まりました(患者と共なること)。緘黙症の患者さんと生活を共にすると、長くかかるが言葉が出るようになる場合がある、との報告でした。私はこの記事を部長に見せ、普段詰め所でするカルテの記載その他のことを、机を持ち込んで、Yさんの部屋でさせてほしいと頼みました。部長は不承不承許可してくれました。それから半年間、私は詰め所での仕事をYさんの部屋で行いました。自分の勉強や読書も、出来るだけYさんの部屋でしました。Yさんは、私の存在にはほとんど無関心のようでした。私はときどき、「Yさん、何でもいいから、一言しゃべってよ」と懇願しましたが、効果はありませんでした。
 一年間の勤務を終えて、荷物をまとめ、駅までタクシーで行くことにしました。玄関には部長やナース、数人の患者さんが見送りに来てくれました。「お世話になりました」と言って頭を下げ、顔を上げたとき、一番後ろにYさんがいるのが見えました。私はうれしくなって、Yさんに手を振りました。そのとき、信じられないことが起こりました。Yさんが一言、「ありがとう」と言ったのです。私は自分の耳を疑いました。幻聴ではないかと思いました。しかし、その場にいた人はみな、Yさんの「ありがとう」を聞きました。私はタクシーの中で駅まで泣き続けました。
 Yさんはその後、また一言もしゃべらなくなりました。そして数年後、肺炎で亡くなったと聞きました。励ましたり支えたりすることよりも、寄りそうこと、そこに存在することがケアの基本であることを教えられました」。
 寄り添うということが傷ついた人にとってどれほど重要でしょうか。柏木先生はホスピス病棟で実践されました。私たちも、もう少し広い意味で寄り添う者になりたいですね。何よりも主が私たちと寄り添って、魂を癒してくださることを覚えます。
 ヤコブは兄から祝福の権利を横取りし、叔父のもとに逃げていく。叔父のところで結婚に際して、14年も苦労させられる。しかし、主は共におられて、その心の傷をいやし、兄との再会で和解ができ、傷ついた関係が癒されたのです。ヤコブの神、主イエス・キリストはそのような伴い方をされるのです。十字架において打たれた傷によって、私たちは癒されたのです。また、人生に傷ついたとしても包帯のように優しく包むように伴ってくださるのです。
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」創世記28:15

この目であなたを仰ぎ見ます

2017-06-11 00:00:00 | 礼拝説教
2017年6月11日 主日礼拝(ヨブ記42:1~6)岡田邦夫


 「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」ヨブ記42:5-6共同訳

 渡辺和子先生の最後の著書にこのような文章がありました。「冬に思うこと」というタイトル。
 “八木重吉さんが、こんな詩を読んでいらっしゃいます。
  苦しみのさなかに入ると
苦しみはもうなくなって
  ただ生きるということだけだった
 苦しみについて評論家めいたことが言えたり、苦しみの正体をあれこれ詮索したりしているうちは、まだ自分に余裕がある証であって、苦しみのさなかの入ってしまうと、ただもう生きることで精一杯になってしまい、気がついた時には、苦しみはいつの間にか自分の後ろにあったように思います。
 履歴書を書かされる時、必ずといってよいほど学歴と職歴が要求されます。しかしながら、もっとたいせつなのは、書くに書けない「苦歴」とでもいったものではないでしょうか。学歴とか職歴は他の人と同じものを書くことができても、苦歴は、そのひとだけのものであり、したがって、その人を語るもっとも雄弁なものではないかと思うのです。
  これまで乗り越えてきた数々の苦しみ。
気がつけば、それらは経験という宝になっている。”

◇神の創造の広大さはいかに
 このような内容のことが先週のエリフの言葉にも出てきました。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(36:15口語訳)。そして、正しいものがなぜ苦しむのか、神と論じようと意気込むヨブを諭します。「私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない」(37:23-24)。
 すると、主は嵐の中から「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と言って、ヨブに答えられたのです(38-39章)。
「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを」(38:4-5)。ヨブの問いは「なぜ」義人を苦しめるのかでしたが、神は問いかえしまします。「だれが」このことをしているのか、創造と摂理の神ではないかというのです(38:16、22、31、35、39:1、19、26)。
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。
あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。
あなたはいなずまを向こうに行かせ、「私たちはここです。」とあなたに言わせることができるか。
あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。
あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。
あなたの悟りによってか。たかが舞い上がり、南にその翼を広げるのは。

 奥様ががんの末期という状況で、ある歌舞伎役者がこう言っていました。苦しんだ末、ある流れの中にいると捉え、妻には良くなるよ、大丈夫とは言わない。良く現状を把握して、今を生き、最善を尽くすことだ。笑顔で対応するのだ。自宅療養なので朝、妻の疲れ切った寝顔を見ても、大変なもの。妻の母親にそれをどう思うかと聞かれた時、自分は本気で言った。「可愛いよ」。なぜ、妻がこんな試練が、と思えば辛い。しかし、病める状態でも妻は妻だ、なぜではなく、だれなのだ。愛すべき存在がそこにいる。
 神にとって、悲惨に見える状況にあっても、ヨブはヨブ、愛すべき存在です。そのようにヨブを見ておられる神をヨブの方からも見なさいというのです。ヨブを存在させておられる全知全能の神を見よというのです。
 ヨブは解ってきました。「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません」(40:4-5)。

◇神の創造のち密さはいかに
 神はねんごろです。さらに、あらしの中から答えます。
 「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか」(40:7-9)。
 主権は神にあるのです。信仰とは神の主権を認め、委ねることです。それが解るようにと、二つの生き物を引き合いに出します。
 「さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの、牛のように草を食らう。」と言い始め(40:15)、これは神が造られた大地の獣と言い、その生態を詳しく、詳しく述べていきます。
 次はレビヤタン。わにのこと。「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩(わなわ)でその舌を押えつけることができるか。あなたは葦(あし)をその鼻に通すことができるか。鉤(かぎ)をそのあごに突き通すことができるか」(41:1-2)。語り続ける中で言います。「だから、だれがいったい、わたしの前に立つことができよう。だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ」(41:10 -11)。
 河馬もレビヤタンもそのすべての生態、その命の神秘、すべては神の知恵と力によるものだと示します。ヨブの頭のてっぺんから足のつま先まで、ヨブの一挙手一投足、人生の初めから終わりまで、神はち密に考え、摂理のうちに導いておられるのです。マクロにおいてもミクロにおいても、愛における主権の中に導かれているのです。

 ヨブは主に答えます。信仰の告白です。
「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。私はあなた(のうわさ)を耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」(42:1-6)。ヨブは解ったので、積極的な信仰告白をしたのです。ヨブ記はこの後、友人のために祈った時、財産は二倍に、娘たちが与えられ、長寿を全うしたと締めくくられます。

なぜなのかと神に問いかけたのが、問うているその神はだれなのかと問い返されて、答えをいただいたのです。人の理屈ではなく、神の理屈が答えでした。解決ならざる解決を得たのです。すべてのことを働かせて益とされる「摂理」の理を知ったのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。
 苦しい時こそ神解りです。自分がどんな状態でも、神は私そのものがかわいいと思っておられ、摂理をもって最善に、救い主をもって永遠の命に導こうとしておられるのです。苦しい時こそ、それを知る機会、そういう苦歴こそ、永遠に残る宝です。


逆境で耳が開かれる

2017-06-04 00:00:00 | 礼拝説教
2017年6月4日 主日礼拝(ヨブ記36:15~21)岡田邦夫

 「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。まことに、神はあなたを苦しみの中から誘い出し、束縛のない広い所に導き、あなたの食卓には、あぶらぎった食物が備えられる。」ヨブ記36:15-16

みなさん、ご存知のグリム童話にあるシンデレラ(灰かぶり姫)、その原作はずいぶん残酷のようです。たとえば、シンデレラが残していった靴が小さいわけですが、王子が靴を手がかりにシンデレラを捜す際、連れ子の姉たちは靴に合わせるためにナイフで足(長女が爪先、次女は踵)を切り落とすのです。しかし、ストッキングに血が滲んで見抜かれてしまい、物語の終わり、シンデレラの結婚式で姉2人はへつらって両脇に座るが、シンデレラの両肩に止まった白鳩に両目ともくり貫かれ失明するというものです。
しかし、子供向け本には残酷な場面を削ったり、修正、改変されて、今の美しい話になってきました。幼児期の子どもに言葉や文字を学ばせだり、美的感覚、善悪の判断等の情操教育や想像力や価値観を育てたり、親子でコミュニケーションをとったりする目的のためです。善行には褒美、悪行には罰というよう因果応報的な展開や結末が強烈で残虐すぎたからでしょう。他の多くの作品についても同様でしょう。

◇耳が閉ざされる
 おとぎ話ではありませんが、ヨブ記という優れた文学作品があります。ヨブは東洋一といえる財産家、何千頭という家畜を持っており、子供に恵まれ、それでいて、敬虔な信仰者でした。しかし、一挙に略奪隊に家畜を奪われ、子供たち家族が風害で死んでしまい、自分自身も全身重い皮膚病になり、天国から地獄に落とされたような、悲劇にあったのです。それでも神をたたえたのです(1~2章)。   
これが序章、ここからが本番。ヨブの精神的な苦悩が始まるのです。あまりにも苦しく、生まれたことをのろうほど嘆くのです。見るに見かねて、三人の友人が励まそうとやってきます。このヨブの悲惨さを見て、これは何か原因があるから、こんな不幸な目にあったのだ。罪を犯したから、神の懲らしめを受けているのだ。悔い改めるなら、神は必ず良くしてくださると、三人が代わるがわるに言ってヨブを説得しようとします。因果応報の考え、一般的な通念です。しかし、ヨブは敬虔に歩んできた、身に覚えはない、自分は正しいのになぜ神は私を苦しめるのかと言って、長くて激しい論争になってしまいます(3~31章)。「この三人の者はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである」(32:1)。

◇耳が開かれる
 この対話が複雑で表現が豊かですので、文学作品として読めば面白いものですし、辛い試練の中にある人にとってはほんとうに共感してもらえると感じる聖書です。複雑で多くの要素を含んでいるのですが単純化して、私は話しています。最後にもう一人、若いエリフが話し始めます(34~37)。
 その中の一節が重要な言葉です。「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる」(36:15)。口語訳は「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」。友人たちは原因を追究して、ヨブを苦しめたのですが、エリフは神の目的を示すのです。救うという目的です。「なぜ」ではなく、「ため」なのです。苦しむ者をその苦しみによって救うのです。苦痛が苦痛として悩み抜かれる時、それから真の救いがあるといえます。
 阪神大震災の時、被災された女の子が助かったものの、この恐怖が心に焼き付いて、それから毎日、恐ろしい夢を見るというのです。アメリカの心理学者がそれはこういう心理的メカニズムだとテレビで言っていました。例えば、大好きな音楽をCDで毎日毎日聞いていたとします。いくら好きでも必ず飽きてしまう。そのように震災の辛い思い出を夢の中で見続けていくうちにそれに心が慣れてしまい、やがて恐怖ではなくなっていくものだと説明していました。それほど単純ではないとしても、心とはそのようなものであるらしいです。
 よく、母の話をしますが、今回もします。お許しください。初めに生まれた男の子が4歳の時、疫痢(えきり)という伝染病で突然亡くしました。子を失った母親の気持ちはどれほど辛い事か、経の本を読んだり、新約聖書を三回も読んだりしますが、これという答えもなく、とにかく、一年間は涙、涙で過ごしました。なんとなく、気持ちも落ち着いていったと言っておりました。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い」であったと私は思います。それで人に優しくなったらしいです。家で和裁の仕事をしていると物乞いが来る。縁側に座らせ、茶菓を出し、話を聞いてあげたと親戚にも知れるとこととなりました。母の葬儀の時、みな言っていましたね。苦しみ抜いたことで涙の浄化が起こったのだと思います。
 「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」。

◇目が開かれる
 最初に話した童話というのは悪いことをしたら悪いことが身に降りかかり、良いことをしたら良いことが訪れますよという教育的な面があります。人としても社会としても必要なことと考えた大人の知恵です。不幸は罪が原因というような、逆は真ではないのです。エリフも教育的な見地がこう言います。「神は、人々の見ているところで、彼らを、悪者として打たれる。それは、彼らが神にそむいて従わず、神のすべての道に心を留めなかったからである。こうして彼らは寄るべのない者の叫びを神の耳に入れるようにし、神は悩める者の叫びを聞き入れられる」(34:26-28)。「まことに、神はあなたを苦しみの中から誘い出し、束縛のない広い所に導き、あなたの食卓には、あぶらぎった食物が備えられる」(36:16)。
 さらに、「天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲を見よ」。「見よ。神は強い。だが、だれをもさげすまない。その理解の力は強い」。「見よ。神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいようか」。「見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない」。すべてのものを造り、統べおさめられている神を見よというのです(35:5、36:5、22、26)。まず、神が教えようとしておられること(教育的目的)がわかる、耳が開かれることが大事です。しかし、目が開かれること、すなわち、神ご自身がわかること(信仰的目的)が決定的に重要です。
 先日、天に召されました羽鳥明先生が聖会の説教でご自身のことを話していました(うる覚えですが)。病気で入院した時には、自分の犯した罪のために病気になったとは思わないが、静まって魂の点検をし、悔い改めの機会とし、神との出会いの機会とする…と。私の母のこと、続きがあります。65歳の時、息子の私がしつこく勧めるので、柴又教会に行きました。教会の清らかさにひかれ、やがて、イエス・キリストを信じ、受洗しました。息子が死んだ意味が説教を通して解りました。耳が開かれたのでしょう。そして、さらにすすんで独り子を犠牲にされた父なる神の痛む愛が解ったと言っておりました。目が開かれたのでしょう。
 ヨブ記の終章はヨブの告白です。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」(42:5)。そこに向かって、まず、聞くこと、耳が開かれることから始まるのです。原因を探り、後ろに向かって耳が閉ざされていくのではなく、目的を求め、前に向かって耳が開かれていくことが苦難、苦悩から得る宝です。