2015年11月29日 アドベント第1礼拝(申命記7:6~11、ローマ5:1~5)岡田邦夫
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」ペテロの第1の手紙2:9
男の子がどこかで拾ってきた、曲がった釘とか、きれいな石ころとか、セミの抜け殻とかを机の引き出しに大事にしまっていたりします。それは自分だけの秘密なのです。やがて恋をして、人には言えず胸の内に秘めている。秘密を持つことは自立につながるのだと言います。私が私である固有性をもつためです。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」と言われる神は唯一固有の神です(申命記6:4)。ですから、豊かな秘密をお持ちです。その秘密を誰あろう、私たちに現す神でいらっしゃいます。
◇どこから
その秘密とはこれです。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(7:6)。私(私たち)を内緒のだいじな大事な宝物だというのです。
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」(7:7)。良い人だからとか、良く従ったからとか、見栄えが良いとかではなく、最も数が少なかったからだと言うのです。まるで恋人のように熱く愛し、選んでくださったのです。
それは気ままなのではないのです。徹底して、誠実を尽くされる愛なのです。「しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された」(7:8)。私たちはその神の誠実な愛により、イエス・キリストの十字架の贖いをもって、救われたのです。
これが神の秘めたみ思いのあなたへの告白です。
ここから、すべては始まるのです。主イエスが公生涯に入る前に、荒野で試みられました。サタンの誘惑に対して、「…と書いてある」と言って、サタンに勝利されました。その三つのみ言葉は全部、申命記の言葉、しかも、モーセの第一の説教にある言葉でした。申命記8:3、6:16、6:13。そのメッセージを携えて、主イエスは伝道活動に、受難による救済に進んで行かれたのです。その前にバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、御声がありました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」でした(マタイ3:17)。神の愛が出発点でした。私たちもそうなのです。
◇どこへ
テレビで大河ドラマというのがあります。これは、フランスの文豪ロマン・ロランが自作の「ジャン・クリストフ」を大河に例えた事に由来し、人々の生涯や歴史を時代の流れの中でとらえていこうとする壮大な長編小説「大河小説」の事を意味するようになりました。
聖書はまさに大河ドラマです。ドラマではなく、救済の歴史です。その主人公はもちろん神ですが、登場人物は選ばれた民です。旧約は選ばれた民(イスラエル)の救済の歴史、それに続く、新約は新しく選ばれた民(教会)の救済の歴史といえます。
まず、先の希望もない老人アブラハム(サラ)が選ばれ、祝福の約束を告げられ、そのとおり、イスラエル民族となります。そして、エジプトに在住し、やがて、奴隷の苦しみのもとにおかれますが、モーセが立てられて、神の奇跡により、エジプトを脱出し、自由の民となります。荒野の旅を終え、神の助けにより、カナンに定住します。そして、サウルやダビデやソロモンが立てられイスラエル王国となります。北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。申命記のメッセージは従順であれば栄え、不従順であれば滅びるというもの。結局、民は神への不従順のため、北はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南はバビロン帝国に捕囚されて、祖国を失います。
そのバビロン捕囚の危機にさらされていた時に、イザヤはこう預言します。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株」(6:11-13)。木が切り倒されるようにイスラエル民はバビロンに捕えられて行くけれど、切り株が残るように聖なる民は残るのだという預言です。その預言のように、後にエルサレムに帰り、再建していきます。
さらに先の預言。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。…」(イザヤ11:1-2)。エッサイはダビデの父、切り株から新芽が出るように、ダビデの子孫から救い主が生まれるという預言です。クリスマスに成就。そこから、木が育つように新しく選ばれた民(教会)の歴史が展開していくのです。
そうして、切られたところから、芽を出し、選ばれた者の歴史が継承されてきたのです。私たちはその継承者です。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(ペテロの第1の手紙2:9)。
いつまでも存続するものは信仰と希望と愛です。そのうち最も大いなるものは愛です(1コリント13:13)。私たちは数が少ないから、取るに足りないから、愛されて、選ばれたのです。かつての民のように、高慢な選民意識をもって、人を排除してはなりません。無に等しい者の選んでいただいたという謙遜な選民意識をもって、恵みに生きましょう(1コリント1:28)。申命記の言葉をかみしめましょう。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(7:6)。
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」(7:7)。
「しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された」(7:8)。
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」ペテロの第1の手紙2:9
男の子がどこかで拾ってきた、曲がった釘とか、きれいな石ころとか、セミの抜け殻とかを机の引き出しに大事にしまっていたりします。それは自分だけの秘密なのです。やがて恋をして、人には言えず胸の内に秘めている。秘密を持つことは自立につながるのだと言います。私が私である固有性をもつためです。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」と言われる神は唯一固有の神です(申命記6:4)。ですから、豊かな秘密をお持ちです。その秘密を誰あろう、私たちに現す神でいらっしゃいます。
◇どこから
その秘密とはこれです。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(7:6)。私(私たち)を内緒のだいじな大事な宝物だというのです。
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」(7:7)。良い人だからとか、良く従ったからとか、見栄えが良いとかではなく、最も数が少なかったからだと言うのです。まるで恋人のように熱く愛し、選んでくださったのです。
それは気ままなのではないのです。徹底して、誠実を尽くされる愛なのです。「しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された」(7:8)。私たちはその神の誠実な愛により、イエス・キリストの十字架の贖いをもって、救われたのです。
これが神の秘めたみ思いのあなたへの告白です。
ここから、すべては始まるのです。主イエスが公生涯に入る前に、荒野で試みられました。サタンの誘惑に対して、「…と書いてある」と言って、サタンに勝利されました。その三つのみ言葉は全部、申命記の言葉、しかも、モーセの第一の説教にある言葉でした。申命記8:3、6:16、6:13。そのメッセージを携えて、主イエスは伝道活動に、受難による救済に進んで行かれたのです。その前にバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、御声がありました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」でした(マタイ3:17)。神の愛が出発点でした。私たちもそうなのです。
◇どこへ
テレビで大河ドラマというのがあります。これは、フランスの文豪ロマン・ロランが自作の「ジャン・クリストフ」を大河に例えた事に由来し、人々の生涯や歴史を時代の流れの中でとらえていこうとする壮大な長編小説「大河小説」の事を意味するようになりました。
聖書はまさに大河ドラマです。ドラマではなく、救済の歴史です。その主人公はもちろん神ですが、登場人物は選ばれた民です。旧約は選ばれた民(イスラエル)の救済の歴史、それに続く、新約は新しく選ばれた民(教会)の救済の歴史といえます。
まず、先の希望もない老人アブラハム(サラ)が選ばれ、祝福の約束を告げられ、そのとおり、イスラエル民族となります。そして、エジプトに在住し、やがて、奴隷の苦しみのもとにおかれますが、モーセが立てられて、神の奇跡により、エジプトを脱出し、自由の民となります。荒野の旅を終え、神の助けにより、カナンに定住します。そして、サウルやダビデやソロモンが立てられイスラエル王国となります。北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。申命記のメッセージは従順であれば栄え、不従順であれば滅びるというもの。結局、民は神への不従順のため、北はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南はバビロン帝国に捕囚されて、祖国を失います。
そのバビロン捕囚の危機にさらされていた時に、イザヤはこう預言します。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株」(6:11-13)。木が切り倒されるようにイスラエル民はバビロンに捕えられて行くけれど、切り株が残るように聖なる民は残るのだという預言です。その預言のように、後にエルサレムに帰り、再建していきます。
さらに先の預言。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。…」(イザヤ11:1-2)。エッサイはダビデの父、切り株から新芽が出るように、ダビデの子孫から救い主が生まれるという預言です。クリスマスに成就。そこから、木が育つように新しく選ばれた民(教会)の歴史が展開していくのです。
そうして、切られたところから、芽を出し、選ばれた者の歴史が継承されてきたのです。私たちはその継承者です。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(ペテロの第1の手紙2:9)。
いつまでも存続するものは信仰と希望と愛です。そのうち最も大いなるものは愛です(1コリント13:13)。私たちは数が少ないから、取るに足りないから、愛されて、選ばれたのです。かつての民のように、高慢な選民意識をもって、人を排除してはなりません。無に等しい者の選んでいただいたという謙遜な選民意識をもって、恵みに生きましょう(1コリント1:28)。申命記の言葉をかみしめましょう。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(7:6)。
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」(7:7)。
「しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された」(7:8)。