オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

宝の民、聖なる国民

2015-11-29 16:27:58 | 礼拝説教
2015年11月29日 アドベント第1礼拝(申命記7:6~11、ローマ5:1~5)岡田邦夫


 「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」ペテロの第1の手紙2:9

 男の子がどこかで拾ってきた、曲がった釘とか、きれいな石ころとか、セミの抜け殻とかを机の引き出しに大事にしまっていたりします。それは自分だけの秘密なのです。やがて恋をして、人には言えず胸の内に秘めている。秘密を持つことは自立につながるのだと言います。私が私である固有性をもつためです。
 「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」と言われる神は唯一固有の神です(申命記6:4)。ですから、豊かな秘密をお持ちです。その秘密を誰あろう、私たちに現す神でいらっしゃいます。

◇どこから
 その秘密とはこれです。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(7:6)。私(私たち)を内緒のだいじな大事な宝物だというのです。
 「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」(7:7)。良い人だからとか、良く従ったからとか、見栄えが良いとかではなく、最も数が少なかったからだと言うのです。まるで恋人のように熱く愛し、選んでくださったのです。
 それは気ままなのではないのです。徹底して、誠実を尽くされる愛なのです。「しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された」(7:8)。私たちはその神の誠実な愛により、イエス・キリストの十字架の贖いをもって、救われたのです。
 これが神の秘めたみ思いのあなたへの告白です。
 ここから、すべては始まるのです。主イエスが公生涯に入る前に、荒野で試みられました。サタンの誘惑に対して、「…と書いてある」と言って、サタンに勝利されました。その三つのみ言葉は全部、申命記の言葉、しかも、モーセの第一の説教にある言葉でした。申命記8:3、6:16、6:13。そのメッセージを携えて、主イエスは伝道活動に、受難による救済に進んで行かれたのです。その前にバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき、御声がありました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」でした(マタイ3:17)。神の愛が出発点でした。私たちもそうなのです。

◇どこへ
 テレビで大河ドラマというのがあります。これは、フランスの文豪ロマン・ロランが自作の「ジャン・クリストフ」を大河に例えた事に由来し、人々の生涯や歴史を時代の流れの中でとらえていこうとする壮大な長編小説「大河小説」の事を意味するようになりました。
 聖書はまさに大河ドラマです。ドラマではなく、救済の歴史です。その主人公はもちろん神ですが、登場人物は選ばれた民です。旧約は選ばれた民(イスラエル)の救済の歴史、それに続く、新約は新しく選ばれた民(教会)の救済の歴史といえます。
 まず、先の希望もない老人アブラハム(サラ)が選ばれ、祝福の約束を告げられ、そのとおり、イスラエル民族となります。そして、エジプトに在住し、やがて、奴隷の苦しみのもとにおかれますが、モーセが立てられて、神の奇跡により、エジプトを脱出し、自由の民となります。荒野の旅を終え、神の助けにより、カナンに定住します。そして、サウルやダビデやソロモンが立てられイスラエル王国となります。北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまいます。申命記のメッセージは従順であれば栄え、不従順であれば滅びるというもの。結局、民は神への不従順のため、北はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南はバビロン帝国に捕囚されて、祖国を失います。
 そのバビロン捕囚の危機にさらされていた時に、イザヤはこう預言します。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株」(6:11-13)。木が切り倒されるようにイスラエル民はバビロンに捕えられて行くけれど、切り株が残るように聖なる民は残るのだという預言です。その預言のように、後にエルサレムに帰り、再建していきます。
 さらに先の預言。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。…」(イザヤ11:1-2)。エッサイはダビデの父、切り株から新芽が出るように、ダビデの子孫から救い主が生まれるという預言です。クリスマスに成就。そこから、木が育つように新しく選ばれた民(教会)の歴史が展開していくのです。
 そうして、切られたところから、芽を出し、選ばれた者の歴史が継承されてきたのです。私たちはその継承者です。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(ペテロの第1の手紙2:9)。
 いつまでも存続するものは信仰と希望と愛です。そのうち最も大いなるものは愛です(1コリント13:13)。私たちは数が少ないから、取るに足りないから、愛されて、選ばれたのです。かつての民のように、高慢な選民意識をもって、人を排除してはなりません。無に等しい者の選んでいただいたという謙遜な選民意識をもって、恵みに生きましょう(1コリント1:28)。申命記の言葉をかみしめましょう。
 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(7:6)。
 「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」(7:7)。
 「しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された」(7:8)。

辛い夜でも必ず朝が来る

2015-11-22 16:25:45 | 礼拝説教
2015年11月22日 伝道礼拝(ローマ5:1~5)岡田邦夫


 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
ローマ人への手紙5:5

 今、放映中のNHK連ドラ「あさが来た」のヒロインは実在した広岡浅子さんがモデル。波乱の明治を生きた不屈の女性実業家、日本初の女子大学創立にも尽力をつくした女傑と紹介されています。晩年、乳がんの手術をした時、クリスチャンになり、信仰に励んだ人です。ドラマの方は浅子と朝をかけて、「あさが来た」のタイトルになっていて、痛快な運びになっています。
 今日の説教題は「~朝が来る」です。そもそも、創世記第一章の創造において、「夕があり朝があった。第…日。」というフレーズがくり返されています。聖書の歴史の中に、エジプトで奴隷の苦役に悩まされたり、バビロンに破れ、捕虜となって連れて行かれ、祖国を失う絶望におかれたりなど、位時代を通っていきますが、「夕があり朝があった」のです。

「つらい夜でも必ず朝が来る」は渡辺和子師の「置かれた場所で咲きなさい」の本の中にある、一つのメッセージです。
 渡辺和子師は1927年、日本陸軍中将・渡辺錠太郎が53歳のときに4人兄姉の末っ子として生まれました。長くは一緒にいられないからと、可愛がられていました。その日も父と一緒に寝ていました。その日とは1936年、二・二六事件の日です。当時教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのです。その時、父はとっさに茶たくを立て、後に隠れているように言われました。その1mのところ、目の前で父は殺されたのです。小学校3年生で9歳の時でした。
 それが影響したかどうかわかりませんが、母がミッションスクールに入れます。それから、毎日、毎夜の空襲で、いつ死ぬかわからない日々を過ごしていた渡辺師は、洗礼を受ければ、少しはましな人間に生まれ変われると思い、母の意に(浄土真宗という家の宗教のため)逆らって洗礼を受けました。しかし、わがままで高慢なのは変わらなかったので、母は失望したのでしょう。「それでも、あなたはクリスチャン」と、事あるごとに、責めるのでした。ある日、聖書の中の聖パウロの言葉に見出しました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ神が、あなたがたに求めておられることです(一テサロニケ5・16〜18新共同訳)」。それから、彼女は、少しずつ、以前より笑顔の多い人になりっていき、他人のために祈るようになり、感謝を大切にする人に変わってゆきました。
 1956年、29歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。そして、アメリカへ留学し、博士号(哲学)を取得し、1963年に36歳という異例の若さで岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に就任しました。それがあまりにも精神的に過労だったので、うつになります。そのようなつらい時、宣教師から「神が植えたところで咲きなさい」の英詩(Bloom where God has planted you.)をいただき、励まされたのです。状況は変わってはいないのですが、心に朝が来たのです。

 「つらい夜でも必ず朝が来る」のところにいきましょう。フランクルという精神科の本からの話です。
 オーストリアの精神科医、ヴィクター・フランクル氏は、「希望には人を生かす力も、人を殺す力もある」と、その著書に書かれています。
 フランクル氏は、第二次世界大戦中にナチスに捕えられ、アウシュビッツやダハウの収容所に送られた後、九死に一生を得て終戦を迎えた方です。彼の収容所体験を記した本の中に、次のような実話があるそうです。
 収容所の中には、1944年のクリスマスまでには自由になれると期待していた人がいました。しかし、クリスマスになっても戦争は終わらず、期待していた彼らの多数は死んでしまいました。それが根拠のない希望であったとしても、希望と呼ぶものがある間は、それがその人たちの生きる力、その人たちを生かす力になっていたのです。希望の喪失は、そのまま生きる力の喪失でもありました。
 収容された人のうちで、二人だけが生き残りました。この二人は、クリスマスと限定せず、「いつかきっと自由になる日が来る」という永続的な希望を持ち、その時には、一人は自分がやり残してきた仕事を完成させること、もう一人は外国にいて彼を必要としている娘とともに暮らすことを考えていたのです。戦争はクリスマスの数か月後に終わったのですが、その時まで生き延びた人たちは、必ずしも体が頑健だったわけではなく、希望を最後まで捨てなかった人たちだったと、フランクル氏は書いています。
 渡辺師はこう締めくくっています。「希望には叶わないものもありますが、大切なのは希望を持ち続けること。希望の喪失は、生きる力の喪失でもある。心の支えがあれば、どんなつらい状況でも耐え抜くことができる」。

 では、聖書を見てみましょう。ローマ人への手紙5:1~8。
 「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます」。私たちは高慢な者、罪深い者、しかし、イエス・キリストによりその罪が赦されたと、神を信じ、神に義とされ、よしと認められた人は心は平和です。神の栄光を望んで大いに喜ぶのです。
 その後があります。人生には艱難はつきもの、だれにでもやってくるでしょう。クリスチャンも例外ではありません。パウロはこんな信仰の法則を述べています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性(口語訳「練達」)を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません」。
 神主の息子で牧師になられた先生がこれを文句にして唱えると良いと言っていました。辛いことがあったら、「艱難、忍耐、練達、希望」をくり返すと良いと。書いて、壁に貼っておいても良いかも知れません。希望があるから、艱難に耐え得るのですが、逆に艱難が希望をみ出していくのです。
 その後が大切です。「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。愛をもって神は艱難、忍耐、練達、希望へと導いてくださるのです。私たちは神に愛されていると信じ受けとめるから、「艱難、忍耐、練達、希望」へと進んでいけるのです。どれほどの愛でしょうか。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」。
 「神さまへの手紙」(阿南慈子著)の中にある、著者が多発性硬化症という難病の中で綴られた詩を載せておきます(p129)。

〈子供のための賛美〉「がんばれ!」

誰の声だろう「がんばれ!」のあの声は
 どこからきこえてくるのだろう 「がんばれ!」のあの声は
 悲しい時や辛い時 苦しい時や病気の時
 いつも耳に聞こえる いつも心に響く
 神様の声かも知れない こんなにもうれしい
 神様の声にちがいない こんなにも幸せ

誰の声だろう「がんばれ!」のあの声は
 どこからきこえてくるのだろう 「がんばれ!」のあの声は
 淋しい時やこわい時 困った時や孤独な時
 いつも耳に聞こえる いつも心に響く
 神様の声かも知れない こんなにもたのしい
 神様の声にちがいない こんなにも暖かい


唯一の神、それがすべて

2015-11-15 00:00:00 | 礼拝説教
2015年11月15日 主日礼拝(申命記6:1~9)岡田邦夫


 「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
申命記6:4-5

 今、たいへん売れている本の中で、ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子師著の「置かれている場所で咲きなさい」があります。置かれたところこそが、今のあなたの居場所。そこで自分らしく生きれば、見守ってくださる方がいると安心感がもてる。咲けない時は下に根を降ろせばいいと書き出しています。渡辺師がそう語るのは、ご自分が三〇代半ばで学長に任命されて、たいへん苦労されていた時に、宣教師から「神が植えたところで咲きなさい」の英詩(※)に励まされたからだそうです。
 また、流行った歌『世界に一つだけの花』の歌詞に、その自分らしく生きるための励ましのフレーズがあります。「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」。このフレーズを創造者なる神のお心と受け止めると安心感がもてます。しかし、この「ナンバーワンでなく、特別なオンリーワン」というのは、私たちの信じる神にこそが言えることなのです。
※Bloom where God has planted you.

◇比べない、オンリーワン
 「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:4-5)。申命記の中で、聖書の中で最も重要なメッセージのひとつです。「主は私たちの神。主はただひとりである」。だから、聞きなさいと強く命じるのです。ナンバーワンでなく、特別なオンリーワンなのです。
 新約の中心テーマを述べているローマ人への手紙3章にこう記されています。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです」(ローマ3:28-30)。「神が唯一」の英訳が“オンリーワン・ゴッド”です。
 テモテへの第一の手紙にも言われています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン」(1:15-17)。「唯一の神」も英訳は“オンリー・ゴッド”です。

 世間一般の常識として、世界には一神教と多神教とがあり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が一神教であり、日本では八百万の神がいると位置づけます。神が唯一の方ではっきりしていて頼りがいがあり、中でも救い主が歴史に現れたというキリスト教が一番良いと言うキリスト者もいます。また、最近では一神教の世界では排他的だから衝突、紛争が絶えず、血で血を争っている。多神教の日本などは寛容なのでそれがないから、八百万の神の方がいいのだという評論家もいます。
 しかし、有限な人間が無限なる神を比較できるのでしょうか。我が信じる神は他と比べてナンバーワンの神だと判定できるのでしょうか。私たちの考えや思いや想像をはるかに越えた、唯一の神、オンリーワンのお方なのです。そのお方の声を、み思いを聞きましょう。「イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」。エジプトの奴隷の家から救い出してくださったイスラエルの神、主はただおひとりなのです。罪と死の奴隷の中から、救い出してくださったイエス・キリストの神、主はただおひとりなのです。パウロが言うように、罪人のかしらにもかかわらず、憐れんでいただき、十字架の贖いによって、信仰によって、救っていただけたのは、イエス・キリストの神、主、ただおひとりなのです。御子を惜しまず死にわたしてまで、私たち、私を愛して、お救いくださったのは、イエス・キリストの神、主、ただおひとりなのです。
 「あなただけがわれらの神、あなただけが救い主、主よわたしはあなたのもの、主はわたしのすべて」(プレイズ&ワーシップ112)

◇愛すべき、オンリーワン
 人は、創造の神が「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せられて造られました(創世記1:26)。神が「ただひとりである。」というご性質に似せて造られたからこそ、私たちもそれぞれ、神の目から見て、ただ一人、オンリーワンとして存在しているのです。
 「われわれのかたち」と神が複数形なのは三位一体の神であり、その三位、父・子・聖霊が愛において一つだということです(アウグスティヌスがそう言っている)。イエス・キリストは「わたしと父とは一つである」と言っておられるのはきっとそのようなことでしょう(ヨハネ10:30)。そして、父なる神と子なるキリストの「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と人類の救いの最終目標を祈っておられました(ヨハネ17:11他)。
 ちょっと整理しましょう。オンリーワンの神はオンリーワンのあなたを求め、愛を注いでおられます。私の母が天に召され、葬儀の時に、兄弟たちが集まり、それぞれがこう言いました。「母さんがお前が一番かわいいよと言ってたよ」と。個々に言っていたのです。ましてや、神はそれにはるかに勝って、「お前が一番かわいいよ」と言っていてくださるのです。イエス・キリストと私の関係もオンリー、唯一無二の関係です。そして、主にある兄弟姉妹のオンリーワンがばらばらではなく、終わりの日に向かって、一つになっていくことが神のみ旨であり、終わりの向こうの新天地では救われた者たちが全く一つとなり、一人の人のようになっているのです。そのために、主は十字架にかけられ、自己を犠牲にされたのです。それは愛以外なにものでもないのです。そして、隣り人に目をやる目も、神にとってオンリーワンなのだなあと見ていきましょう。
 ですから、まず、み声を聞くのです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」の声にも素直に従うのです。「心に刻む」のです。日常生活に浸透させていくのです(6:7-9)。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、オンリーワンのあなたを愛しているよ」と言われる、真の絶対のオンリーワンの神に、応答してオンリーワンとして生きましょう。そして、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、私の神、主を愛し」て生きましょう。

再度告げられた十戒

2015-11-08 00:00:00 | 礼拝説教
2015年11月8日 主日礼拝(申命記5:1~7)岡田邦夫


 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」申命記5:6

 以前にオバケエントツの話をしましたが、必要なのでもう一度お話しします。私の家は東京の日暮里(につぽり)からお花茶屋というところに引っ越しました。私が小学6年生の2学期だったので、転校せず、卒業まで私鉄の京成電車で通いました。当時、千住火力発電所が車窓から見えました。線路がカーブしていて、進行していくとその大きな煙突が4本に見えたり、3本、2本に見え、太い1本に見えたりしたので、おばけ煙突と呼ばれていました。煙突がそう見える配置になっていたからです。
 歴史というのも、一つの史実でも、味方によって、違って見えたり、時が流れ、問題意識が変わると、違う歴史に見えてきたりするものです。現に福音書がそうです。イエス・キリストの生涯は一つの史実ですが、四通りの見方でそれぞれが書いたのです。それによって、私たちは福音の豊かさに与れるのです。
 モーセを通して与えられた十戒は、出エジプト記20章にも出てきて、それで充分なはずですが、申命記5章に再度出てきます。しかも、ほとんど同じ文面です。少しの違いはあるのですが…。それはなぜなのでしょうか。

◇だから…変えられない文言
 みなさんはこう思われるでしょう。それはとても重要だからくり返して強調しているのでしょうと。確かにそうです。こう書き出していますから(5:1-3)。
 「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである」。
 かつて、シナイ山(ホレブ)でこの十戒という契約を神が先祖たちと結ばれたが、昔の過ぎ去ったことではない。きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのであると告げるのです。同じことが今日の私たちにも告げられているのです。単に良い人間になるための戒め、教えではないのです。生ける神との契約であり、救いに関わることなのです。ですから、「これを学び、守り行ないなさい」と言います。重要だから、学び続けるのです。契約だから、守り続けるのです。
 十戒の全体を見てみましょう。前半は神に対して、後半は人に対してです。
第一戒:あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
第二戒:あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。それに仕えてはならない。
第三戒:あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
第四戒:安息日を覚えて、これを聖とせよ。
第五戒:あなたの父と母を敬え。
第六戒:あなたは殺してはならない。
第七戒:あなたは姦淫してはならない。
第八戒:あなたは盗んではならない。
第九戒:あなたは隣人について、偽証してはならない。
第十戒:あなたは隣人のものをむさぼってはならない。

 宗教改革者たちは聖書信仰を強調しました。そして、キリスト教の重要な三本柱として、聖書全体の要約として「使徒信条」、旧約聖書の代表として「十戒」、新約聖書の代表として「主の祈り」を取り上げました。それを信仰問答にして、信徒や求道者が学ぶようにしました。私たちも十戒を実践的に、信仰的に学びましょう。

◇だから…変えられた解釈
 出エジプト記と申命記に全く違う点がひとつあります。第四戒の「安息日を守って(覚えて)、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」の、その解釈です。
 出エジプト記20:11では、天地創造が理由です。
 「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」。
 申命記5:15では、出エジプトの救いが理由です。
 「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである」。
 シナイではエジプトを脱出したばかりの時でした。自分たちが信じる神は世界と時(時間)を創造された。だから、創造の時間のもとで六日間働き、七日目はその時間を聖別し、創造者なる主を礼拝せよというものです。ここ、モアブでは状況は変わっていました。時が流れ、今度は約束の地カナンを前にしているのです。信仰によって約束をものにしなければならないのです。エジプトを脱出させた神は、カナン獲得の神であることを信じて、進んでいく必要がありました。かつて奴隷の苦しみから解放されて、安息をいただいたではないか、今度は荒野の苦しみから解放されて、カナンの安息に入るのだ。だから、安息日を守れというのです。

 この聖書を手にしている私たち、キリスト者は、時に天地創造の神を信じ、安息日を覚えて、これを聖とし礼拝します。時に救いの神、イエス・キリストを信じ、いただいた安息を覚えて、これを聖とし礼拝します。二重ねの神礼拝です。私たちはイエスの十字架の贖いによって、罪と死の奴隷から解放され、キリストの復活によって、今、魂の安息が与えられ、主の再臨には永遠の安息が約束されています。そこで十戒をこう解釈するのです。
 『わたしは、あなたを十字架の贖いにより、罪と死の奴隷の家から連れ出し、栄光の体に復活して、永遠の安息に連れ行く、あなたの神、主である。だから、十戒を学び、守り行え。』と。

向きを変えて、出発せよ

2015-11-01 00:00:00 | 礼拝説教
2015年11月1日 主日礼拝(申命記1:5~8)岡田邦夫


 「向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地…さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。」申命記1:7-8

 人にも群れにも立ち止まる時というものがあります。イスラエルという民族も進んでは立ち止まり、進んでは立ち止まりと荒野を旅してきました。いよいよ、約束の地、カナンを目の前にして、アラバという荒野で留まり、モーセは長い告別説教をいたします。その説教が申命記です。ここで立ち止まり、人や群れの基本的な生き方が語られるのです。

◇向きを変えて…歴史を回想
 モーセはまず、過去を振り返り、回想します。その経緯ををふまえて、未来に向けてのメッセージを1~3章で告げます。
 過去というのはなかなか順調ではなく、紆余曲折(うよきよくせつ)だったりします。イスラエルの民はエジプトを出る時は奴隷からの解放の喜びで、意気揚々としていました。しかし、荒野の40年の旅は試練でした。天からのマナの恵みがあり、神の導き、教えがありましたが、信仰的にも、地理的にもどの方向に行ったらよいか、迷いがありました。
 モーセはその40年を回顧して、まとめます。キーワードは「向きを変えて、出発せよ。」だと思います(1:6)。エジプトを出て、スエズ湾とアカバ湾の間に三角に突き出たシナイ半島、その先端にあるシナイ山(ホレブ山)のふもとで長らく滞在しました。十戒や幕屋などの啓示があったからです。そして、神の出発命令があったのです。
 ①「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である」。
 要するに、北上していって、地中海沿岸と死海及びそれに流れ込むヨルダン川との間を占領し、さらに北上していって、ユーフラテス川のところまで行けという命令であり、その地を与えるという神の約束が告げられたのです。それで、「神、主が命じられたとおりに、…ホレブを旅立ち…大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地にへの道をとおって、カデシュ・バルネアまで来」ました(1:19)。
 そこで、神は民に北上し、占領せよ、恐れるなと命じるのですが、人々は恐れてしまいます。人々は提案します。12部族の代表を選んで、斥候(スパイ)を遣わし、その地を探ってからにしようと。その地を探り、その地の果物を持ち帰り、報告します。「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です」(1:25)。しかし、民はエモリ人は背が高く強そうで、町の城壁は高くそびえているし、勝てそうにない、ここで自分たちは根絶やしにされると悲観的になります。不信仰で神に逆らいます。
 神はその子を抱くように、イスラエルの民を守ってきたではないかと告げ、彼らの不信仰のゆえに、エジプトを出てきた世代の人たちはカナンには入れないと宣告します。ただ、信仰厚き、ヨシュアとカレブは入れる。そして、荒野で生まれた世代の人たちが神の約束通りに、カナンに入れると告げます。そして、命じます。
 ②「あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て」(1:40)。退却命令です。失敗したから、もうだめということはないのです。たとえ、不信仰な民でも、神の配慮があります。救いの約束は果たさなければなりませんから、人がどうであれ、神は真実を貫かれます。
 ところが、これにも逆らって、民は向こう見ずにエモリ人に戦いを挑みます。案の定、全く刃が立たず、蜂を追いはらうように追い散らされ、敗北してしまいます。もう一度言います。主の命令に逆らったからです。「それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた」(2:1)。
 ③主が告げます。「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け」(2:2)。今度は死海の西側(地図でいうなら右側)を通って、北上せよというのです。その途上にはエサウの子孫の地、エドム、ロトの子孫の地、モアブがあるので、それを迂回して進んでいくようにとのことです。そうして、ヨルダン川の東側まで進んできたところです。

◇向きを変えて…将来へ転回
 こうして、神がどのように導かれ、自分たちがどう答えてきたか、過去を回想したのは、今、前進し、未来を切り開くためです。
 人は歴史を振り返る時、過去から現在にいたる水平線の延長に未来を見ます。過去、こんな失敗があったから、そのような失敗ををくり返すまいとしたり、うまくいった時があったとすると、もう一度それと同じようにしたらうまく行くだろう考えます。逆に今までやってきたことでは飽き足りない、今度はやったことのないことをしてみようとチャレンジすることもありましょう。いずれにしても、過去の経験を教訓に未来を考えるものです。
 「歴史に問うことは、やがて歴史に自らを賭けることである」ということなのです(堀米庸三)。人や群れの営みにおいて、きわめて大切なことです。
 しかし、信仰者は過去も、現在も、未来も天につながっているのです。永遠の神につながっているのです。三位一体の神につながっているのです。過去も現在も、天の神は最善のことをしてくださった。そして、未来も天の神は最善にしてくださると信じるのです。天を見て考える垂直志向です。
 まず、天の神の約束があって、その実現に向かっていくのです。「見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である」(1:8)。用語で比べてみましょう。何が起こるか解らない、「未だ、来ない」という「未来」ではなく、神の約束は成就するという明日が「将来する」という「将来」なのです。

 個人的な思いをお話ししましょう。人生を山登りにたとえられます。山を登って行くように、一歩一歩登って行くようなものです。ところが、登山というのは登るだけではなく、下りもあるのです。下りの景色の方が周囲が見えて良かったり、家路に向かう安堵感もあります。中年を過ぎて、落ち込んでいたある男性がこのことをヒントに、下る楽しみもあるではないかと考えたら、ふと楽になったと言っていました。私も人間として、人生の下り道を楽しんでいます。しかし、このみ言葉、「向きを変えて、出発せよ」から、老いていく中で守りに入ってはいけない、その向きを変えて、使命に生き、天国に向かって、出発するのだという思いにさせられました。
 イエス・キリストはガリラヤで伝道しておられたのですが、「天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」たのです(ルカ9:51)。そして、事実、「イエスは御顔をエルサレムに向けて進んで」行かれました(9:53)。「向けられ」は火打ち石の意味もあり、並々ならぬ硬い決意を意味しているのです。ガリラヤからエルサレムに硬い決意をもって、御顔の「向きを変えて」、十字架の犠牲による救いを成し遂げる道に「出発された」のです。
 そのイエス・キリストの決意と犠牲によって救われた私たちは、そのお方に押し出され、「向きを変えて、出発せよ。」のお言葉に従って前進していきましょう。