オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

美しい生き方

2017-05-28 00:00:00 | 礼拝説教
2017年5月28日 伝道礼拝(伝道者の書3:11、マタイ福音書5:8)岡田邦夫

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(伝道者の書3:11、マタイ福音書5:8)。

美しいものに人の心はなごみます。美しい自然や美しい作品など、様々なものが人生を豊かにしています。田植えの季節になりますと、耕した田に水をはり、良くならしてから、苗を隅から隅まで植えていきます。見た目にも真直ぐにきれいに植わっています。畔もきれいに草が刈られています。実にこの景色は良いものです。農家の人は多くの収穫を目指して、効率よくやっているだけではなく、きれいにしようという美意識が伴っているのではないかと、私は思います。様々な職種の仕事も同様にして行われているかも知れません。
 茶道、華道、剣道、柔道など、道がつくものはそれぞれの「型」があり、それが人の精神を表すものであり、それを通して、人が美しく生きる生き方を求めるものであると思います。

◇神の時にかなった美しさ
 究極の美を追求するものの一つが盆栽です。皇居の大道(おおみち)庭園には5百点もの盆栽が育てられ、樹齢6百年と伝わる名品もあると言います。国賓を出迎える時、宮殿を飾るひときわ格式の高い盆栽を飾るとのこと。そこは江戸城のあった所、樹齢6百年のものは徳川時代からもの、ずっと盆で生き続けてきたのですから、怖れの念さえ感じるでしょう。
 自然を盆栽の中に取り込む、自然が一番いい、自然を近く感じられるものほど美しいと手入れをし、楽しむというものです。自然を感じるのは時を感じることでもあります。長い時の流れと今の一瞬の時を同時に感じるのです。そのような美を聖書はこう端的に述べています。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
…神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:1、11)。
 この頃、「かわいい」がよく使われます。赤ちゃんや子供や若い女性だけでなく、年齢に関係なく、高齢者をもかわいいとほめます。それは善意に解釈したいものです。どの年齢でも時にかなって美しいと思えるなら、幸せです。

◇神の目にかなった美しさ
純粋な美しい心境を歌った、八木重吉という人がいました。彼は東京高等師範学校在学中の1919年(大正8)洗礼を受けました。敬虔なクリスチャンで、英語教師となってから詩作を始めました。美を追求した詩があります。その素朴な信仰に私はたいへん心惹かれ、あこがれました。
ねがい
きれいな気持ちでいよう
花のような気持でいよう
報いをもとめまい
いちばんうつくしくなっていよう
   花
花はなぜ美しいのか
ひとすじの気持ちで咲いているからだ
このような詩もありました。加えておきましょう。
さて
あかんぼは
なぜに あん あん あん あん なくんだろうか
  ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん
うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなに しつっこくよびな
 彼は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」で始まる「山の上の教え」を素直に生きようとしたのではないかと思います。その教えは信仰者が純粋に生きる生き方を教えているからです。特にマタイ5章8節がそれです。
「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」。
 神はこの目で見えませんが澄んだ心の目で見るのです。この清さは関係における清さです。神との関係もそうですが、人との関係もそうです。八木重吉の詩ではこう歌われています。
   ねがい
  人と人のあいだを 美しくみよう
わたしと人とのあいだを うつくしくみよう
疲れてはならない
 先日、天に召された渡辺和子さんが自分の体験したことをありのままに述べていました。修道院に入ってのこと、修道といっても、「ストレスを発散する場もあったのだが、一時、修道院という狭い囲いの中で共同生活、人間関係に、“出口なし”の窒息感と、他人への不満を抱いたことがあった。そんな時に出会った一つの詩がこれだった。私は『疲れていた』。それは努力した結果の疲れではなく、他人が自分の思うようになってくれないことへの、焦りの疲れであり、不平不満からの疲れであったことに気づかされた。
私は人と人の間、自分と人との間を美しく見る努力をしていなかったのだ。変わらなければならないのは「自分」だった。心の疲れは自分の心の向きを自己中心から、他人への思いやりに180度転換させることで、癒される時がある。」と記しています(「忘れかけていた大切なこと」抜粋))。

 渡辺師がいうように、私たちの心はなかなか美しくはなれない現実があります。人をねたみ、嫉み、恨み、憎しみ…と、人との間を醜くしています。神との間もそうです。イエス・キリストは私たちを「心のきよい者」にするために、醜さ、すなわち、罪を十字架において、担われ、処分されたのでした。十字架上のイエスは「われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、…顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。…まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。…彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれ、…われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:2-5抜粋・口語訳)。
 私たちの醜さ、汚れ、罪を担って、身代わりとなり、神の裁きを受けられたのですが、ご自身はきよいお心でした。十字架につけた者たちを呪うことをせず、むしろ、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなして祈られたのです(ルカ23:34)。実に愛に満ちた、美しいお心です。主を信じる者の心をきよめ、主の愛のお心を恵みとしていただくのです。

イスラエルのネタニヤ市で2016年6月7日、杉原千畝(ちうね)の名を冠した通りができました。彼は日本人外交官でしたが、第二次世界大戦当時、ナチスドイツの迫害から逃れた約6千人のユダヤ人にビザを発給したことで知られています。同市には杉原氏に助けられたユダヤ人が多く移り住んだからだといいます。ナチスから逃れたユダヤ人難民たちがカウナスの日本領事館に通過ビザを求め押し寄せました。外務省は三国同盟があるので許可しなかったので、杉原領事代理は悩み苦しみました。しかし、彼はハリスト正教会のクリスチャン。この状況では外務省に背いてでも、助けようと人道的判断を下したのです。妻の幸子さんに「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と決意を述べていたといいます。
二人はイエス・キリストから与えられた心で、信仰者として、人として、美しい道を選び、命を懸けたのです。これは世間に認められた美談です。私たちは認められようが認められまいがみ前に美しく生きようとする、キリスト道というのがあるのです。そして、何よりも美談は主の十字架の愛です。私たちはそれに感銘して、「神とわたしとのあいだを美しくみよう」と美しく生きる道に進むのです。

ヨブを贖うものは生きている

2017-05-21 00:00:00 | 礼拝説教
2017年5月21日 主日礼拝(ヨブ記19:21~29)岡田邦夫

 「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」(ヨブ記19:25共同訳)

ヨブ記は1~2章はわかりやすいし、教訓になりますが、その後がなかなか、とっつきにくいものです。しかし、じっくり読むと実に味わいのあるものです。文学的にも哲学的にも、また神学的にも心理学的にも、鋭く、深いものがあると評されています。ゲーテはこれをもとに“ファウスト”を発想したし、ドストエフスキーはここから“カラマゾフの兄弟”全巻を構想したといいます。ヨブ記は万民の書でもあるはず、私たちもヨブ記を通して、信仰を深めていきたいと思います。

◇失望…神は私の望みを木のように根こそぎにする。
ヨブは強かった。何もかも失われるという、たいへんな災難にあったのですが、これを神からの試練と受け止め、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言って勝利しました。実に強い信仰。
友人が「だれが罪のないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか」、罪の報いでこの災いが起こったのではないか、因果応報なのだ、悔い改めよと諭そうとします(2:7)。しかし、ヨブは潔白で正しい者を君たちは物笑いにするのか、「あなたがたは偽りをでっちあげる者、みな、脳なしの医者だ」、偽善者だと友人を厳しく非難します(12:4,13:4)。「私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。」とかなり、強気です(13:3)。

しかし、ヨブは弱かった。「神は私を四方から私を打倒し、私の望みを木のように根こそぎに」されたのです(18:10)。そのいちばん助けが必要な時なのに、誰も理解者がいない。これ程、辛いことはないのです。「神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。…私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた」(19:13-19)。実に孤独。
厳しく非難した友人にもすがりたくなるのです。「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ。神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか」(19:21共同訳)。何ともやるせない気持ちです。
 強いけれど、また、弱いヨブ、それは私たちの姿だと思います。しかし、それより、先に進んでいくのがヨブ記です。

◇希望…私の皮がはぎとられて後、私の肉から神を見る。
 そのように、耐えられないほど辛いとき、人はなおも理解者が欲しい、わかってほしいと訴えます。「どうか、わたしの言葉が書き留められるように。碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように」(19:23-24共同訳)。
「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出す。…しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか」(14:7、10)。激しい試練に合うと、自分自身を見ても、周囲を見ても、望みがないことを知るのです。しかし、神に望みをおくしかありません。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」(19:25a)。神は創造者、全知全能の方です。さらに法廷の審判者のように見ていました。しかし、ここで、翻って、神を「贖う方」と見るのです。贖う者とは、元来は親族中の助力者を表しました。人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すという救済のシステムです。ルツ記がそれです。神は近親者のようにヨブの状況を思い、買い戻すようにして、救ってくれる神なのだと言うのです。

見えるところでは、歴史の上で、主なる神が臨み、イスラエルの民が贖われました。「わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、(エジプトに対して)大いなる審判によってあなたたちを贖う。」の約束通り、事実、奴隷から解放されました(出エジプト6:6共同訳)。贖いによる救いを現実に見たのです。民にとって初めに出エジプトありきです。神は現れた神なのです。
しかし、試練のただ中にある者には、神は隠れて見えません。暗闇の中にあるのですが、おぼろ月夜のようなものです。はっきりしませんが、月はある。求めていくと、見えてくるのです。「私を贖う方」がです。その方は昔ではない、今ここに生きておられると霊的に感じるのです。信仰の感性です。ヨブ記の中では最後的に神が現れ、臨むのですが(38:1、40:6)、まず、神がおぼろにわかってくるのです。
ヨブを贖う方は生きておられる、これは希望の言葉です。後に、試練でちりの上で苦しんでいる自分のかたわらに立たれることを確信し、また、命が損なわれても、この身をもって神を仰ぎ見るに違いないと希望をもつのです。ヨブは言います。「この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない」(19:27)。

 ヨブのいう「贖う方」はやがて現れる救い主、イエス・キリストをおぼろげに見えたのでしょう。今や私たちの前には贖い主、イエス・キリストは現れたのです。キリストはおぼろ月のようではなく、義の太陽として、私たちを照らしているのです。私たちの罪への贖いの代価は十字架において払われています。血の代価、命の代価、受難の代価が払われ、私たちは贖われています。
 私、イエス・キリストを救い主、贖い主と信じて、クリスチャンになって、最初の伝道会でいきなり救いの証しをさせられました。そのとき、路傍伝道で歌われていた「来たれ誰も」を友人と一緒に歌いました(新聖歌185)。その4節が特に心に響いていました。「来れ何も持たでイエスに、主の死によりて代価すべて払われたり、すでにすでに。主イエスは安きを与え給わん。来りイエスの手に委ねよ。汝(な)が重荷を」。2000年前の十字架において、すでに代価は払われ、贖われているのですが、私にとっては「今」すでに払われていると信じたのです。言い換えれば、今、私は贖い主がわかって、言い知れない平安を得たのです。

 家内が聖書学院で学んでいる時、神の御心はどうしたらわかるのでしょうかと、教授の千代崎秀雄先生に個人的に聞きに行きました。「神様がどういう方かわかれば、御心もわかります」という答え。そうなんだと納得して帰ってきたとのことです。ヨブは自分の苦悩を理解してほしいと願い、訴えていました。ルツ記にあります。土地も夫も失くしてしまって故郷に帰ってきたナオミ、死んだ息子の妻ルツもいっしょ。それを理解したボアズが土地も人も贖い助けるのです。贖う方は理解者なのです。苦しんでいる者の理解者なのです。ヨブは理解されていることを理解していったのです。それは相互理解というものです。相互理解ほど安心なことはない、うれしいことはないのです。神はお心をわかってほしい、私も私の心をわかってほしい、その接点が「贖う方」なのです。贖い主の十字架が唯一の決定的な接点なのです。
 相互理解ができるようにと「私を贖う方は生きておられ」のです。

苦悶の重さが量られたら

2017-05-14 00:00:00 | 礼拝説教
2017年5月14日 主日礼拝(ヨブ記6:24~30誌上説教)岡田邦夫

 「ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の災害も共にはかりにかけられたら。それは、きっと海の砂よりも重かろう」(ヨブ記6:2)。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。

 ある日、病院にお見舞いに行きました。小脳が委縮し、運動機能が衰えていくという難病の女性でした。その方がこう言われました。「さっき、病室を出ていった人、私、きらいなの。福祉活動をいろいろやっていてね、忙しい中、来てくれたの。でもね、あれもしてる、これもしてる、バリバリやってる話をするの。そういう元気な話は病人にとって、すごくしんどいのよ。それに、ハイヒールはいて速足でコツコツと音立てて、来て、帰るのよ。その高い音が体に響いてこたえるのよ。実は私、難病なの……」。初対面なのにこちらが牧師だからと心の内を話してくださいました。これに似た光景がヨブ記にでてきます。辛い病の中におかれたヨブを気の毒に思い、友人が見舞いにくるのですが、ヨブを苛立たせてしまいます。そこには単純にはわりきれない、複雑なやり取りが繰り広げられていきます。

◇真直ぐな言葉は心に刺さる
 財産も家族も健康も失われても、ヨブは神への信仰は揺るぎませんでした。しかし、なぜ義人がこんな目に合うにかと考え出したら、果てしなく辛くなってきました。生まれてこなかった方がよかった、でも、死ねない、悩みのるつぼにはまってしまうのです。それに対して、友人エリファズはこう諭そうとします。
夜の幻を見たと言います。「そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった。それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けることができなかった。しかし、その姿は、私の目の前にあった。静寂…、そして私は一つの声を聞いた」(4:15-16)。神秘的な啓示のようなものを受けたわけです。友人の言葉の間に、ヨブの気持ちになって、思いをいれて述べてみましょう。
「人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか」(4:17)。それはそうだ。「人は生まれると苦しみに会う」(5:7)。創世記でアダムによって罪が入り込んだため、人は苦しむことになったとあるから、それも正しい教えだ。「神は大いなる事をなして計り知れず、その奇しいみわざは数えきれない」(5:9)。その通りだ。 “神は悪者の策略を破壊し、弱者を保護される方なのだ(5:10-16要約)。”そうであってほしいし、教育者も世の知者もそう教える。現実はそうじゃないのに。
 そうして、名句名言にあげてもいいような言葉で友人が教えてくれるけど、それは自分には耐えられない。「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない」(5:17-19)。それはそうかもしれないけれど、私だけ、どうして全能者の懲らしめを受けなければならないのか、責められるような悪いことをした覚えがないのに、理不尽だ。こんなにも苦しいではないか。

 それで、ヨブはこう言うのです。「ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の災害も共にはかりにかけられたら。それは、きっと海の砂よりも重かろう。…全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅かしが私に備えられている(脅迫の陣を敷かれた)」(6:2-4)。ここに神を信じる者の苦悩があります。神はどうして、私をこのような苦しい懲らしめに合わせるのかと苦悶し、のたうちます。読者には先に光が見えるのですが、まずは「何が」信仰者を苦しめているかを知ることが大切です。
 「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。あなたがたはことばで私を責めるつもりか。絶望した者のことばは風のようだ(と思うのか)」(6:25-26)。これまで、友人の言ってきたことは「正論」です。その“まっすぐなことば”が苦悩する者の心を突き刺し、相当の痛い思いをさせるのです。

◇豊かな言葉は心を翻させる
 ヨブは生きることが虚しくなり、嫌になったと言います。「私にはむなしい月々が割り当てられ、苦しみの夜が定められている。横たわるとき、私は言う。『私はいつ起きられるだろうか。』と。夜は長く、私は暁まで寝返りをうち続ける。私の肉はうじと土くれをまとい、私の皮は固まっては、またくずれる。私の日々は機の杼(はたのひ)よりも速く、望みもなく過ぎ去る。…私はいのちをいといます。私はいつまでも生きたくありません。私にかまわないでください。私の日々はむなしいものです」(7:3-6、7:16)。
 そして、問います。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」(7: 17)。この言葉は詩篇8:4にも144:3にも出てきますが、創造者の偉大さをたたえ、「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」と感謝の言葉が歌われています。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」は感嘆の言葉です。しかし、ヨブはそれを裏返して、皮肉に述べているのです。「また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは」と。御心を留めないでくれ、ほっといてくれと言います。

 私は受洗したての頃、牧師館に呼ばれて、牧師夫人の本郷春子師に言われたことを忘れることが出来ません。“信仰というのは紙一重ですよ。多くの信者は信じているとはいえ、こっち側にいます。向こう側に行かなければなりません。それはちょっとの違いのようで、全然違うのです。岡田さんはそれを超えて、本物の信仰者になりなさいよ。”ヨブはこの苦悩が延々と続くようですが、信仰に突き抜けるには、紙一重のところがあるのではないかと、私は思います。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」と彼が言っているのは嘆きの言葉です。その言葉を裏返せば、賛美の言葉になります。それは易しいようで難しい、難しいようで易しいことです。
 結局、主は嵐の中からヨブにこう聞き返されます。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(38:2= 42:3共同訳)。言葉を裏返していただき、信仰に突き抜けたのです。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(42:5)。

嘆きから見えてくるもの

2017-05-07 00:00:00 | 礼拝説教
2017年5月7日 主日礼拝(ヨブ記3:1~10)岡田邦夫

 「私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている」(ヨブ記3:26)。「彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられた。…彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:4~5抜粋)。

 ヨブは東洋一の資産家で10人の子供に恵まれ、幸せな人で、それでいて、信仰は厚く潔白でした。しかし、災難が降りかかります。資産はすべて略奪され、子供の命も災害でみな奪われ、何もかも失います。さらに象膚病と思われる病に侵され、七転八倒の苦しみに追いやられてしまいます。しかし、ヨブは「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」としっかり信仰の告白をし、罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかったのです(1:21-22)。すべてが備えられても完璧、すべてを失っても完璧な信仰者でした。
しかし、実はここからが本当の苦悩に向かうのです。ヨブは大声で泣き、衣服を裂き、灰をかぶって、嘆きに嘆きます。精神的苦悩です。正しく歩んでいたはずなのに、なぜ、このような苦しみに合わなければならないのかという納得できない思いです。もがけばもがくほど、底知れない深い沼に引きずられて行くようなものです。みなさんも大なり小なり、そういうところを通っておられるでしょう。それぞれの気ばらすものがあって、生活していることでしょう。それも良いことです。しかし、ヨブのように懐疑的苦痛におかれた時に、その深い底から、かつてない光が見えてくることをヨブ記は指し示しているのです。

◇やり場のない苦悩…嘆き
 もう一度言います。主は与え、主は取られると言って、平然としたのではありません。大声で泣き、衣服を裂き、灰をかぶって、嘆きに嘆きます。私たちは他人の嘆きを聞きたいとは思わないでしょう。でも、ヨブの嘆きは私の嘆きとして聞きましょう。
「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。『男の子が胎に宿った。』と言ったその夜も。その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな」(3:1-4)。こんなにも辛い、苦しい、いっそ生まれてこなければよかったと生まれた日をのろうのです。さらに「死を待ち望んでも、死は来ない」とも言って嘆きます(3:21)。これ以上辛いことはない。「私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている」(3:26「静けさも、やすらぎも失い、憩うこともできず、わたしはわななく」共同訳)。
これは「やり場のない苦しみ」です。肉体に襲った全身、象の皮膚のようになり、痛くてかゆくて、灰の上に座って、土器の破片でかくしかないという身の置き所なさなのです。どうにもならない、やり場のない苦しみなのです。
心はかき乱され、わななくのです。ですから、人は嘆くのです。信仰者も嘆くのです。言い換えれば、嘆くことを許されているのです。
 詩篇を見ますと神をたたえる賛美の詩も多くありますが、それより多いのが嘆きの詩です。それは何を物語っているかというと信仰者は賛美する人であり、また、嘆く人だということなのです。嘆いてはいけない、感謝して、賛美しなくてはと思いがちですけれど、嘆くことも重要なことなのです。やり場のない苦しみに襲われた時には、特にそうなのです。そのわけは次にお話ししましょう。

◇逃れ場のある希望…
ヨブは信仰の告白をした時、「神に愚痴をこぼさなかった」と記されていました。他の訳では“神に向かって愚かなことを言わなかった”“神を非難することなく”“神に背いて愚かなこともしなかった”と多様です。愚痴というのは神に背いて愚かなこと、罪なことを言うことといえましょう。しかし、「嘆き」は腸から出てくるもので。神を信じていても出てくるものです。
ある体育の教師が頸椎(けいつい)損傷で、首から下が全く動かなくなって、入院している時、「チクショウ、チクショウ」と嘆いていました。この方も教師、30を過ぎて、難病の進行性筋萎縮症と診断され、体の自由が奪われていきました。クリスチャン・ホームを作り、イエス・キリストに仕えているのに、なんでこのような難病にされたのか、くそったれ神様と嘆きました。決して、神を非難したり、背を向けたりしたのではありません。いい言葉ではないとしても、むしろ神と向き合った嘆きの言葉でした。だから、嘆き求めたのです。そして、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」と言われる方に出会って、乗り越えたのです(マタイ11:28-29)。
 やり場がないと思われたところに、イエス・キリストという「逃れ場」を見ることが出来るのです。嘆きのるつぼの底にゴルゴダがあるのです。そこに「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架で嘆かれたイエス・キリストがおられるのです。私たち、罪びとの嘆きを全身全霊で担われたのです。肉体の苦痛以上の「どうして」という精神的、霊的苦痛を私に代わって担われたのです。十字架において人類の罪を担われたので、神に見捨てられたのです。神に見捨てられたのですから、主は天地のどこにも場をなくしたのです。とことん「やり場のない苦痛」にみまわれ、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と最大級の嘆きを神に向けられたのです。
 その嘆きこそ聞かれたのです。死んで葬られ、よみにくだり、そこから栄光の体によみがえられ、神の右に引き上げられたのです。嘆きは届いたのです。やり場のないあなたの苦しみは主が一番ご存知です。あなたが嘆くとき、主も共に嘆いておられます。だから、その嘆きは無意味ではありません。自分を知り、神を知る道なのですから。さらに飛躍すれば天国への道があるのです。「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:17)。