オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

キープ・オン・ゴーイング

2017-10-22 21:40:43 | 礼拝説教
2017年10月22日 みのお泉&三田泉教会の合同礼拝(ピリピ3:13-14)岡田邦夫

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:13-14)

 私のことですが、車の免許を更新するにあたって、教習所で認知症の検査を受けるため、予約しました。前日に教習所から、サービスで確認の電話をくれるそうです。私を含めて忘れてしまい人がいるのでしょうね。とにかく、忘れっぽくなってきたと感じる年齢です。

◇忘れることは得ること
この「忘れる」というのは神が下さった安全装置だと思います。たとえば、皆さんはお母さんのお腹の中から生まれてくる時のことを覚えていますか。覚えていませんよね。文豪トルストイなどは産湯につかったぬくもりを覚えていると、何かの本で読みました。幼稚園児に出生時の時のことを聞いてみると、覚えている子が実際にいるそうです。産道を通るとき、暗くて苦しかったとか、生まれた時、明るかったなど話してくれる子供が結構いるとのことです。しかし、成長期の幼児はどんどん新しいことを覚えて成長していくので、必要でないものや、産道の記憶など足かせになるものは自然と神が忘れさせてくださるのです。ちなみに、皆さん大人は幼年時代のことを覚えていますか。ほぼ忘れていますよね。親から聞かされて記憶したことはあるでしょうけれど。
ところが、辛すぎる思い出などが、人を苦しめてもいます。病気になられる方もいます。それは適切な治療が必要でしょう。パウロが「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」のところから、ある牧師がこんな風に話されました。過去の記憶は心の中で根っこのように残っている。根の先端は深層心理。過去は変えられないが、根っこにはガリラヤで病める人のところに来られた主イエス・キリストに今きていただいて、癒されるのだ。「忘れる」の英語はフォゲット(forget)、分解するとフォー(for)「ため」と、ゲット(get)「得る」。後ろのものを忘れるというのは過去を亡くすことではなく、得ることだ。
これを聞いて私は母のことを思い出しました。母きよは65歳で受洗しました。喜んでいましたが、大変気になっていることがありました。最初の子たかちゃんが4歳の時、疫痢(伝染病)で急死しました。自分が死なせたのではないかと負い目を感じていたこととあの子はどこへ行ったのか、それを主イエスに問いました。ある説教で、「幼子のわたしに来るのをとどめてはならない。天国はこのようなものの国である」を聞いた時に解決しました。たかちゃんの死は自分の責任ではない、イエス様が幼子をそのように迎えられるのだから委ねてしまおう、そう受け止めたら、心は晴れ渡りました。そして、御子を犠牲にされた神の愛がなお分かったと言っていました。まさにフォー・ゲット、良い思い出をゲットしたのです。

◇忘れることは進むこと
パウロが言う「後ろのものを忘れる」は過去を切り捨てるのではなく、はるかに素晴らしい方に出会ったし、出会い続けていきたいからです。
血筋が良く、割礼を受けたきっすいのヘブル人、ガマリエル大学で律法を学び、生き方がその精通した律法を非難されるところのないほど守るパリサイ人、なお教会を迫害したほど熱心でした。ユダヤ人の間では最も誇れる人物でした。しかし、ダマスコの途上で復活のイエス・キリストに出会って、そんな誇りは「ちりあくた」のように思えてしまったというのです。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められる…という望みがあるからです」。捨てたのはプライド、誇りです。得たのはイエス・キリストの福音、復活の主ご自身でした。
 すでに十分に捕らえたのですが、しかし、まだまだ、捕らえたとは思っていない。ただこの一事に励んでいると言います。「すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。これが大人のクリスチャンだと言います(3:15)。
 先日(2017.7.18)天に召された日野原重明師の最後のメッセージが本になりました。「生きていくあなたへ(105歳どうしても残したかった言葉)」です。死を意識した時、長時間のインタビューを受け、語りだされた言葉でした。目次では「死は命の終わりではない、愛すること、ゆるすことは難しい、大切なことはすぐにはわからない、未知なる自分との出会い」となっていて、聖書の言葉からのご自分が生きた生き様からのメッセージです。大変素直に信仰に生きた方だなあという印象を受けます。伝道メッセージです。
 最後の質問が「先生の次の目標は何ですか?」にこう答えておられました。「今日も生きさせていただいている。そう実感する日々の中で、新たな目標を問われ、真っ先に考えるのは、いただいた命という残り少ない時間をめいいっぱい使って、ひとのために捧げるということです。そしてその過程で、未知なる自分と向き合い、自己発見すること。それを最後のその時まで絶え間なく続けていくということです。
 そのためには、これからも何度も何度も苦難にあうでしょう。でもその苦しみが大きければ大きいほど、きっと大きな自己発見がある。それを超えてなお、自分の時間を人々に捧げる。その喜びは苦難と比例して大きなものであると信じ、ただただ、あるがままに、キープオンゴーイングです」。
 前に進んでいこう「キープオンゴーイング」が死にゆく人の最後のメッセージ、聞くに値する言葉です。クラーク博士は札幌農学校に残した言葉はボーズビーアンビシャス、私は「キープオンゴーイング」。もちろん、イエス・キリストにあってのこと。読者の私はこのピリピ3:14が日野原重明師の言いたかったことと思えてならないのです。もう一度、心で読んでみましょう。
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。

ハレルヤ、主をほめたたえよ

2017-10-17 21:36:58 | 礼拝説教
2017年10月17日 主日礼拝(詩篇148篇)岡田邦夫


「彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。」(詩篇148:13-14)

 皆さんは何か叫びたくなる時はありませんか。ハンマー投げなどでは大声で叫びながら、投げ出しますが、競技が終わった時に押し殺すように叫んでいるものもあります。だいぶ前にロシアの風習を聞いたことがあります。祝いの席でみな立ち上がり、一斉にウォッカを口にし「ウラ―ура」と叫んで、グラスを後ろに投げつけ、割ってしまうというのだと。日本の万歳らしいのですが驚きました。今もそれをやっているかどうかわかりませんが、ポーランドでは結婚式の時、シャンパンでするそうで、割れたガラスが多いほど幸せになるとか。大きい声をだすには口を大きく開けるので末尾が「あー」のほうがよいようです。
詩篇の146篇から150篇までハレルヤで始まりハレルヤで終わりますので、ハレルヤ詩篇と言われています。ハルルがほめたたえよ、ヤㇵはヤㇵウェ(主)の短縮形でハレルヤは主をほめたたえよ(主を賛美せよ)の意味です。「主をほめたたえよ」と訳してしまわず、「ハレルヤ」にしたのは、主(ヤ)を強調できるからだと、私は推測するのです。それはともかく、ハレルヤ詩篇は信仰の気持ちを奮い立たせるような賛美として、150ある詩篇の最後におかれているのです。

◇天と地と…メンデルスゾーンか
とにかく詩ですから、自由に味わいたいですし、自由に話したいところです。     高い空でひばりが歌っています。それの光景から、メンデルスゾーン作曲し、高野辰之(たつゆき)氏が訳詩した「おお雲雀(ひばり)」は皆さんよくご存じのことと思います。
おお雲雀 高くまた軽(かろ)く 何をか歌う
天の恵(めぐみ) 地の栄(さかえ)
そを称(たた)えて 歌い そを寿(ことほ)ぎ 歌う
 「そ」のところを「主」に代えたら、賛美歌になります。天の恵み、地の栄えとあります。初めに神は天と地を創造されたの天と地をさします。この詩篇1節に「天において主をほめたたえよ」。天にあるものが次々登場します。7節に「地において主をほめたたえよ」。地にあるものが次々登場します。ひばりが歌うのではなく、天地のあらゆるものが主に向かってほめたたえ、賛美するのです。実に壮大で、荘厳な光景です。まさにハレルヤ!と叫ぶ場面です。

◇楽団と合唱団と…ベートーヴェンか
 日本では年末になるとベートーヴェンの「第九」(合唱)が好んで歌われます。一万人で歌うというのも恒例になっています。交響楽団と合唱団が登場しますが、この詩篇を交響曲にたとえるなら、天における被造物たちは交響楽団、地における被造物たちは合唱団、大演奏会なのです。指揮者はもちろん、天においても地においても権威を与えられたイエス・キリストです。ほめたたえられるのは三位一体の神です。
 しかし、この詩篇を歌う今はイエス・キリストに指導を受けた私たち、わたしでありあなたが指揮者なのです。ほめたたえよ!とタクトをふるうのです。実に爽快ではありませんか。そんな気分で読んみましょう(12節まで)。
天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。
主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。
火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。
山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。
獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。
地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづか
さよ。
若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
 では、なぜ私たちが指揮者になれるのか、最後の13~14節に記されています。

◇彼らと私たちと…ヘンデルか
  彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、
その威光は地と天の上にあるからだ。
主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、
イスラエルの子らの賛美を。
ハレルヤ。
 「ほめたたえさせよ」(新改訳)とあるからです。そして、「その民の角を上げられた」ともあるからです。雄牛の角は力を表します。また、贖罪所の祭壇のかどに角があり、たとえ、死刑になりそうな者でも、その角をつかめば、有罪判決を受けるまでは守られるというものでもあります。新約的な解釈をすれば、イエスの十字架により、角をつかむという信仰によって贖われ、キリストの復活により、角をつかむという信仰によって復活の力が与えられ、「主の聖徒、主の近くにいる民」とされたので、高らかに賛美ができるようにされたのです。私たちはそういう(新)イスラエルの子らなのです。だから、天と地の彼らに主の名をほめたたえさせよと指揮ができるというのです。
 指揮者は誰よりも音楽を知っていなければなりません。また、情熱をもっていなければなりません。天地のあらゆるものよりも、私たちはイエス・キリストを知っていて、イエス・キリストによる救いの恵みを賛美する情熱をもっていなければなりません。その民の角を上げられているのですから、大丈夫です。ヘンデルのメサイヤ、その中のハレルヤ・コーラスが教会で歌えたらいいですが、そうでなくても、心の奥底で「ハレルヤ!」と叫べればいいのです。それが聖徒指揮者にとって重要なことです。
 イエス・キリストに贖われた者たちが主のみ名を賛美する者たちであり、また、賛美させる者たちであることを新しく知らされました。主日礼拝はもちろんですが、日ごとの生活においても、人生の岐路にった時も、一人でいるときも、みんなが集まった時も、気付いた時には、心の内に賛美を、ハレルヤの賛美を致しましょう。主はその声を決して聞き逃したりはしません。それが声になれば、顔に現れれば祝福ですね。そして、「彼らに主の名をほめたたえさせよ。」とは驚きです。アメイジングです。ハレルヤです。

神に知られているのを知っている

2017-10-08 14:47:48 | 礼拝説教
2017年10月8日 主日礼拝(詩篇139篇)岡田邦夫


「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23)

 今年のノーベル文学賞は日系イギリス人カズオイシグロ氏が受賞しました。スウェーデン・アカデミーによる授賞理由は「感情に強く訴える小説で、世界とつながっているという我々の幻想の下に隠された闇を明るみに出した」という、私には何か分かりにくい言葉でした。作品を読んでいないので、解説などはしませんが、聖書の詩篇にこの言葉を置き換えてみたくなりました。「感情に強く訴える詩文で、神とつながっているという我々の霊想の下に隠された奥義を明るみに出した」。この詩篇139篇は神への思いが駆け巡り、歓喜している様子がありありと伺えます。

◇「なんと」…驚き
 私たちは自分のことは自分がよく知っていると思いがちですが、鏡を見ないと自分の姿がわからないように、意外とわかっていないのです。詩篇の作者は神を三面鏡のようにして、自分を見るのです。そのまま読んだ方がよさそうです。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません」。
 そして、幻想ではなく、霊想をします。思いが駆け巡ります。
「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます」。
 聖書には神から逃亡しようとした男がいます。ヨブですね。結局逃げられなかったという話です。ヨブ記をご覧あれ。詩篇の作者はすべてをご存知の神に捕らえられ、光である神に出会うのです。幻想ではないのです。「たとい私が『おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。』と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです」。

◇「それは」…わけ
 神は私のすべて知っていてくださり、どこに行こうとも捕まえていてくれる、それはどうしてか。思いはそこに行きます。造り主と出会います。
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」。
 神が自分を胎内に宿らせたときから、神がわが人生を最善になるように設計してくださっていると認識します。摂理の神に出会うわけです。人が落ち込んでいるときに、マイナス思考ではなく、プラス思考に変えなさいと勧めますが、ここでは運命思考ではなく摂理信仰に立つよう勧めているのだと思います。
 さらに、神をたたえることを繰り返します。
「神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます」。
 パウロも同じように感嘆しています(ローマ11:33-36抜粋)。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。…だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。…というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」。

◇「どうか」…願い
 現実はどうかというと、神に逆らう悪人が神の民をひどく虐げているのを見ます。それで正直に、そして、また激しく祈るのです。また、人間的思いで神のみ思いに近づこうとします。「神よ。どうか悪者を殺してください。…彼らはあなたに悪口を言い、あなたの敵は、みだりに御名を口にします。憎む者たちを憎まないでしょうか。…私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました」。
 しかし、結局は自分自身を問い、神の導きを仰ぎます。初めに神は私のことをよくわかっていてくださると告白したのを、神よ、私のことをわかってくださいの祈りに変えられます。わかってもらっているけど、わかってくださいというのです。神との深い関係が浮き彫りにされます。初めの節と併記してみましょう。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます」。
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道(永遠の神の御心にそった道)に導いてください」。
 告白したことが祈りへと進んでいくのです。そして、祈りは告白に進んでいくなら幸いです。螺旋階段をぐるぐる上っていくように神の国の世界を上っていくのです。幻想ではなく、霊想です。よい羊飼いであるイエス・キリストは迷える私たち羊をよく知っていてくださり、命を捨て、正しい道に導いてくださったのです。羊も羊飼いの声を知っています。迷わないようにメイメイ言いながら、大牧者の声を聞いて、救いの道を進んでいきましょう。これが幻想ではなく信仰の現実です

いつでも神様が共におられますように

2017-10-01 00:00:00 | 礼拝説教
2017年10月1日 主日礼拝(詩篇121篇・紙上説教)岡田邦夫

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1~2)

 一日一章という聖書通読がなされています。読みやすい章もあれば、難しい章もありますが、とにかく、一日一章です。詩篇にいたってはおおむね読みやすいのですが、119篇は176節の長さ。読むには時間がかかる。胸突き八丁といったところでしょうか。しかし、次の120篇からは短い。何度でも読み返せます。120~134篇は「都のぼりの歌」、エルサレム神殿への巡礼の歌です。その道のりは困難だったり、危険だったり、大変だったようです。

◇「しかし」の信仰
この121篇はそういう大変な巡礼の時に歌われた歌だったようです。それは人生の旅と重ねて思いをはせたり、信仰を高めたりするのでしょう。初めの「私は山に向かって目を上げる。」の山というのはシオンの山=エルサレム=聖都だと思いをはせることもできます。神がお住まいになるシオンを信仰をもって見上げるのです。「私の助けは、どこから来るのだろうか。」という信仰です。
しかし、巡礼者が歩いていく周囲は荒れていて、山々を見上げると不安や怖れにさいなまれるのでしょうか。そういう山々で八方ふさがり。そこで、「私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」と信仰をもって飛躍するのです。助けはどこにも見当たらない、しかし、天地の創造者の助けがあるという「しかし」の信仰に立つのです。
山々だけではない。荒野だから怖いのは灼熱の太陽。日影がなければ、熱中症になる危険があります。夜の月も不気味。病になるかもしれないという思いになる。極度な孤独にさいなまれ、精神病になる可能性もあります。しかしです。「私の助けは、天地を造られた主から来る。」と翻るのです。「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない」。人生で身を焦がすような「試練」に会うかもしれない。凍り付くような「絶望」に襲われるかもしれない。しかし、「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない」と創造主を見上げるのです。

◇「ずっと」の信仰
 それは神がずっと、そばにいてくれるからです。5節の共同訳はわかりやすいのでその訳を取りあげましょう。「主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方」。私やあなたに襲いかかる災いから主は御手を覆って守り、向かってくる敵に対して主は傍らにいて守ってくださるのです。しかも、「主はあなたの足の動かされるのをゆるされない」のです。「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる」のです。
 それが「ずっと」なのです。「あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」のです。24時間、365日、一生の間、一分一秒たりとも休むことなく、なのです。「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」。
いのちは「たましい」とも訳せます。たましいの守りはとこしえまでも、永遠の守りなのです。死がやってきても、最後の裁きがやってきてもたましいが守られるために、イエスの十字架の贖いがなされ、キリストの復活による永遠の命が与えられたのです。


 新聖歌にはこの詩篇をそのまま歌った「山辺に向いてわれ」(299)があります。よく歌われますので、次に二つの新聖歌の歌詞をご覧ください。
「ややに移りきし」(473)天国への望みの歌です。
1. ややに移りきし 夕日かげの
残るわがいのち 今か 消ゆらん.
(オリカエシ)
み使いよ 翼をのべ
とこしえの故郷へ 導きゆけ
とこしえの故郷へ 導きゆけ

2. 迎えの使いは 近づくらし
翼うちかわす 音の聞こゆ

3. この身を救いて 死にたまいし
主にまみゆる日ぞ ただ待たるる.

「GOD BLESS YOU」(198)祈りの歌です。
1. God bless you
神の御恵みが豊かに あなたの上に
注がれますように
あなたの心と身体と
すべての営みが守られ支えられ
喜び溢れるように わたしは祈ります
God bless you God bless you
God bless you God bless you

2. God be with you
神の御守りがいつでも あなたの上に
注がれますように
あなたがどこにいるとしても
なにをするとしても
いつでも神様が共におられますように
わたしは祈ります
God be with you God be with you
God be with you God be with you