オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

昼はあなたのもの、夜もあなたのもの

2012-10-28 00:00:00 | 礼拝説教
2012年10月28日 伝道礼拝(詩篇74:16-17 )岡田邦夫


 「昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました。あなたは地のすべての境を定め、夏と冬とを造られました。」詩篇74:16-17

 「歌は世につれ世は歌につれ」と言います。世の中の変化に応じて、歌も変化し、歌の変化によって世の中も影響を受ける。歌は世情をよく反映しているものだの意だと、広辞苑に載っています。戦前、海外に知られた日本の歌が二曲あり、一つは「さくら」であり、もう一つは「荒城の月」です。この荒城の月(土井晩翠・作詩、滝廉太郎・作曲)の方は歌詞が古くて難しく、メロディーが暗いなど、今はあまり人気はないようでが、私が小学生の頃はまだ人気はありました。「春(はる)高(こう)樓(ろう)の花の宴 めぐる盃かげさして 千代の松が枝(え)わけいでし 昔の光今何處(いずこ)」。今荒れ果てた城跡に立って荒城を照らす月の光を見ると、この城の栄枯盛衰が目の当たりに想像されるという詩です。まだ、大空襲で廃墟のようになった東京で復興を目指してる、まだ戦後だったので、この歌は心に染みたのだと思います。

 購読している「百万人の福音」に毎月、星野富弘さんの詩歌が載っています。私はそれを楽しみにしています。星野富弘さんは小さい頃から人一倍健康で体力もすぐれて、体力を使ってやることなら人並み以上だったし,負けるのもきらいだったと言っています。中学時代は陸上部、県大会で優勝したこともありました。大学卒業後、体育教師として中学校に赴任して2ヶ月足らずの時でした。クラブ活動の指導中、頸髄を損傷、手足の自由を失い、絶望のどん底、手が動かないので、食事は三度三度母に口に入れてもらうと言うような状況、「産んでくれなけりゃよかったんだ。チキショウ!!」と言ってしまうほど、自殺まで考えました。しかし、立ち直っていきました。群馬大学病院入院中、一つは口に筆をくわえて文や絵を書き始めることでした。もう一つは1974年、病室でキリスト教の洗礼を受けたことでした。
 クリスチャンとなった星野富弘さんの作品の中でも圧巻なのが「命一式」です。

新しい命一式ありがとうございます
大切に使わせて頂いておりますが
大切なあまり仕舞い込んで
しまうこともあり
申し訳なく思っております
いつもあなたが見ていて下さるのですし
使い込めば良い味も出てくる
ことでしょうから
安心して思い切り
使って行きたいと思っております

 彼の築き上げてきた人生の城も、一瞬のうちに崩れ落ち、彼の中では廃墟となった人生、しかし、残された機能に心が向き、クリスチャンと聖書とキリストに出会い、揺るがない新しい人生を築き上げ始めたのです。産んでくれなけりゃよかったんだが新しい命一式ありがとうございますに変わったのです。2012年10月号、11月号には正直な思いを綴っていました。

「必要なものは 天から頂きました
 これ以上ほしいものはありません
 枯れゆく秋の花 今、幸せです」

「あなたからの贈り物
 固くてデコボコで
 私には重すぎて
 捨てたったくなったこともありました
 でもあなたが私を選んで
 贈って下さったもの
 しかたなく頂きましたが
 今では私の人生を
 輝かせてくれる大切なもの
 やっとお礼がいえるようになりました
 贈り物ありがとう」

 聖書の詩篇の74篇は荒城の月のような状況でうたわれた詩です。精神的支柱だったエルサレムの神殿が敵の襲来によって、町と共に徹底的に破壊され、廃墟となった悲惨な光景を嘆いている詩です。「なぜ、あなたは御手を、右の手を引っ込めておられるのですか」と嘆きます(74:11)。「永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください」と祈ります(74:3)。しかし、そのような絶望の中で、信仰を持って神を見上げます。「昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました。あなたは地のすべての境を定め、夏と冬とを造られました」(74:16-17)。歴史の上では事実、エルサレム神殿は奇跡的に再建されます。
 後にイエス・キリストは「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」と言われました(ヨハネ2:19)。ご自分のからだの神殿のことを言われたのであり、私たちの罪の贖いのため十字架で死なれ、壊され、三日目によみがえられて、見えないけれど、神に近づく神殿を再建されることを言われたのです。神の前に罪ある人生は神の裁きによって、その人生も廃墟と化してしまいます。しかし、イエスの十字架の愛によって罪を赦され、キリストの復活の力によって永遠の命が与えれるのです。罪を悔い改めて、救い主を信じるならです。そして、それは決して廃墟とはならないのです。永遠に神と共にあるのですから。星野さんのように人生が壊されるようなことがあったとしても、「新しい命一式」に与れるのです。
 そうであるなら、人生に昼がきても、夜がきても、造り主であり、救い主のイエス・キリストを崇める人生となるのです。私の人生は私のものですけれど、私のものではないのです。いただきものです。神のものですから、輝いているのです。「昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました。あなたは地のすべての境を定め、夏と冬とを造られました」(詩篇74:16-17)。

百倍、六十倍、三十倍の実

2012-10-21 00:00:00 | 礼拝説教
2012年10月21日 主日礼拝(マタイ福音書13:1-9)岡田邦夫

 「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」マタイ福音書13:23

 先日、2012年のノーベル医学・生理学賞が京都大の山中伸弥教授に授与されるという発表がありました。iPS細胞(人工多能性幹細胞)を開発し、再生医療への道を開いた功績が評価されたものでした。インタビューに答えている山中教授の話がたとえを上手に使われていて、わかりやすいというのが印象的です。別の意味ですが、人類再生の道を開いたイエス・キリストの功績は計り知れないものがあります。そして、天の御国のことを伝えるのに多くのたとえを用いられ、聖書学者によると、それは天才的だったと評されています。
 今日の種の話は天の御国の話というわりにはたいへん解りやすいものです。種蒔きの方法は日本とは違います。私たちは普通、畑を耕してから種を蒔いていきますが、この地方では種を蒔いてから耕します。労力は一回ですむからでしょうか。道ばたに落ちた種、土の薄い岩地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、良い地に落ち種、それぞれどうなったでしょうというというたとえ話です。
 畑は私たちの心、種は聖書の言葉、神の言葉ですが、その話をアレンジして、種は種でも、黒豆の話をしましょう。
 黒豆はまん丸な球体です。完全に丸いほど良い豆ですし、良い種です。聖書の言葉=「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせる。」と言えるでしょう(詩篇19:7 )。耕した畝(うね)に、蒔くというよりは、一粒ずつ、40センチ位の間隔で植えていくのです。心を耕し、心を柔らかくし、聖書の言葉、神の口から出る言葉を心に植え付けていくのです。種の大きさの1.5倍の土をかけるぐらいの深さで浅くもなく深くもなく植えます。へそと呼ばれている小さな筋のような部分を下に向けて植えます。神の言葉を浅く受けとめては芽が出ませんし、深い所にしまい込んでも神の言葉の命が芽生えません。へそがどっちに向いていても芽は出てくるのですが、へそが下向きのほうが真っ直ぐに大きく育ちます。そのように御言葉が根付くように、心がけましょう。
 種を植えるのは6月20日ごろ、ちょうど良い発芽温度で梅雨の終わらないうちです。理想的には植えた日の翌日ぐらいに雨が降るのがグッドタイミングです。太陽の恵み、雨の恵みが必要なのです。心にも暖かな神の愛を感じ、心を潤す恵みの中で、神の言葉を心に留めるのです。
 ところが悪いものがやってきます。まん丸の種が水を含むとふくらんで、楕円のようになります。黒豆の煮豆の形です。温度が上がってスイッチが入ると黒い皮を破って、根を出し、豆をつけたまま芽を出します。その部分が食べごろで、どこからともなく、鳩が数羽、多い時には十数羽やって来て、つばんでしまいます。一緒に新芽もやられるので、その豆は育ちません。
 もう一つ敵がいます。ネキリ虫です。夜(や)蛾(が)の幼虫で昼は土の中に隠れていて、夜になると動き出して、黒豆の芽が出た柔らかい茎の部分を食べるのです。すると首が折れ、根が切られたようになるので、ネキリ虫というのです。これにやられるとすぐ枯れてしまいます。イエス・キリストはこのように言われました。せっかく、すばらしい御国の言葉を耳にしながら、それを理解しようとしないでいると、悪魔がさっそくやってきて、その人の心に蒔かれたものを奪って行ってしまいます(13:19)。聖書は何々だから信じられないという世間の風潮や信じてもしょうがないというような心の中の声が、御言葉を拒絶してしまうというものです。豆の場合は鳩やネキリ虫にやられたところは種を植え直します。御言葉も一度は拒絶しても、再度、受け入れることも出来ます。
 今度は芽が出ても、雨が降らないと苗は渇いてしおれてしまいます。深く根を下ろしてしまえば、土の中の水分をすって大丈夫なのですが、根が浅いうちは水がないとたちまち枯れてしまいます。また、双葉が出て、本葉が出て、少し大きくなってきたら、木が倒れないように、また、しっかりと根をはれるように土寄せをします。そうしないと、雨が降って土が軟らかくなったところに、強い風が吹くと、木が倒れてしまいます。
 聖書では岩地に蒔かれた種と書いてあります。「岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」(13:20ー21)。ですから、困った時こそ、心に恵みの雨をいただくのです。心の土寄せをして、御言葉を大事にし、心に根付くようにすることが大切です。
 また、種を植えて、何もしなくても芽が出て来て育ちますが、雑草も勢いよく生えてきます。そのうち雑草に覆われて、木は大きくならないし、実もわずかしかなりません。雑草が強いと枯れてしまうのもあります。畑をされる人が苦労するのはその草引きです。地主さんから教えられたのは、土寄せをする時にしっかり雑草を取っておけば、木が大きくなるので、周りに多少雑草がはえても怖くないということです。
聖書ではいばらの中に蒔かれた種と書いてあります。「いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(13:22)。世も富も必要ですが、世のわずらいと富の惑わしによって、何が大切なことなのかが解らなくなり、価値観が逆転し、キリスト教会がわずらわしくなったり、キリスト教に惑わされていると勘違いをしたりしてしまいます。神の語りかける場としての(心の)良心に問うてみましょう。惑わしているのはほんとうは何なのかを。ほんとうに心を満たすものは御言葉なのだと気付く人は幸いです。
 そうして、枝を延ばし、葉をたくさん着け、しっかり育っていき、8月の終わりごろ、葉に隠れてよく見えませんが、紫色の小さな花を咲かせます。それが実になるのです。木は70~80センチほどの大きな木になり、10月の中旬にはさやの中の豆は最も大きくなります。この頃、枝豆として湯がいて食すると美味しいのですが、もう少したつと豆がピンク色になり、さらに紫色になったころ、さやをむいて、豆ごはんにするとこれが格別に美味しいと通の人は言います。11月になると葉も枯れてきて、12月には葉も落ち、さやも茶色になり、からからに乾燥して、12月下旬に楕円形の豆はすっかりまん丸になり、真っ黒になります。そうして、収穫して、固いからを叩いたりして、黒豆を取り出します。数えてみると、良いもので、一本の木から、100~200粒の黒豆が取れます。
 聖書のメッセージはこうです。「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」(13:23)。聖書を神の言葉として聞き、心に素直に受け入れ、それを恵みとし、大事にしていると、その人の人生に百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の祝福の実を結びます。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制という御霊の実もありましょう。義の実というのもあるでしょう。悔い改めの実や伝道の実もあるでしょう。信仰と希望と愛といういつまでも残る実もあるでしょう。永遠の命の実もあります。…ガラテヤ5:22-23、ヨハネ15:16、ピリピ1:11、1コリント13:13、ヨハネ4:36…

 イエス・キリストが話されたたとえは地上に良くある話を通して、天の御国のメッセージをされたのです。ですから、この世の成功の秘訣とか、自己の実現とかを言っているのではなく、地上に生きながら、天の御国のことを知ることが出来、天の御国に入ることが出来、天の御国の永遠の祝福に与れるのがということをメッセージしているのです。地上の話で百倍、六十倍、三十倍の有限の実ですが、神の国の祝福は無限の実なのです。永遠の命の実なのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とありますように、実を結べないところの私たちの罪というものを赦し、そして、永遠の命を与えるために、御子イエス・キリストが十字架にかかり、犠牲となられたのです(ヨハネ3:16)。
 たとえ話の原則は最後が強調点です。世界に御言葉の種が蒔かれ、拒絶したり、妨害したりするものがさまざまあるだろうけれど、御言葉の種は必ず、良い地に落ちて、必ず、豊かな実をを結んでいくという希望のメッセージであり、約束でもあります。自分自身が良い地になることも大切ですが、また、御言葉を蒔き続ける種蒔き人になりましょう。主イエス・キリストのお約束があるのですから…。

義人の祈り

2012-10-14 00:00:00 | 礼拝説教
2012年10月14日 主日礼拝(ヤコブの手紙5:13-18)岡田邦夫


 「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブの手紙5:16

 「アメイジング・グレイス」(驚くばかりの恵み)の作者ジョン・ニュートンは元、奴隷貿易をしておりました。黒人奴隷を物のように運ぶ船長ともなっていた22才の時に、船が大きな嵐にあい、船は木の葉のように揺れ、海水は容赦なく、投げ込まれてきて、もはや、沈没寸前。そのとき、聖書を読んで聞かせてくれた敬虔なクリスチャンの母親、すでに亡くなっていたのですが、その母の祈る姿を思い出し、彼は必死に神に祈ったのです(1748年5月10日)。心の底から神に祈ったのはこの時が初めて。その後、奇跡的に嵐を脱して彼の船は難を逃れ、彼と彼の船員らは生還しました。その後、少し時間がかかったのですが、船を下り、多額の献金をし、勉学し、牧師となりました。そして、黒人たちが歌っていた曲に罪深い自分の人生になされた神の恵みを思い起こし、「アメイジング・グレイス」が生まれました(1772年)。彼の人生の転機となったのは絶体絶命の嵐の中で、心から祈った時でした。

◇人の現実
 私たちは普段の祈り、不断の祈りが大切です。何をするにも、祈る習慣をつけたいです。自然体で祈れるなら幸いです。また、祈りにはメリハリがあって良いと思います。特別、集中して祈る時も必要です。ヤコブはこう言っています。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい」(5:13ー14)。普段あまり祈っていないのに、困った時だけ祈るなどというのは、虫が良すぎる、そんなことは思わないでください。困った時こそ、祈るのです。どんな言葉で祈ったらいいかわからない、だいじょうぶです。どんな言葉で祈るかよりも、どんな気持ちで祈るかが大事です。その苦しい思いを神に告げるのです。格好つける必要はなく、無様でも、ありのままが良いのです。パリサイ人のような立派な祈りではなく、取税人のような「罪人のわたしをおゆるしください」と胸をうって祈る者を主イエス・キリストは求めておられるのです。奴隷船の船長だったニュートンがそうでした。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい」。この後半の方が少ない傾向にあります。祈りに答えられたら、アメイジング・グレイスを歌いたいものです。

 病気になるとこれは医者に行かなくても治る、これは医者に行けば治る、これは医者でも治せないと予測したり、判断したりします。それは人間として、どう対処していくかということで大事でしょう。しかし、クリスチャンとしては「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」なのです。オリーブ油は当時の仕方でしょうから、今でしたら、教会で祈りましょうということだと思います。苦しみを共にするということです。祈りのおいて、共有するのです。そして、重要なことは神の前に出るということ、御前に持ち出すということです。聖霊によって、信仰を引き出してもらう時なのです。ですから、ヤコブはこう続けるのです。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです」(5:15-16)。罪があるから病気になったわけではありません。病むことが罪の赦しがどれほど恵みであるかを知る機会なのです。チャンスなのです。アメイジング・グレイスを歌う時なのです。

◇神の現実
 イエス・キリストの十字架の贖いによって罪を赦された人を義人と言います。その義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました」(5:16ー18)。わたしたちはこの病気は治らないとか治るとか、決めつけてしまいます。しかし、命のカギを持つのは主権者である神です。イエス・キリストは地上に来られた時にどんな病いをも癒されました。おできにならないことはないのです。しかし、それは神の国は近づいたという事実のしるしとして行われました。神は現実に生きておられ、働いておられるのです。祈りを通して、私たちはその生ける神を信じることがかなめなのです。イエス・キリストに義とされた者の祈りは治らない病が治るという奇跡(神の国のしるし)に導かれるでしょう。あるいは病気は治らないのに、魂は神の平安にあふれるという奇跡に導かれることもありましょう。それは義とされた者の奇跡ではなく、義とされたお方の奇跡なのです。「義人の祈りは働くと、大きな力があります」。

 牧師を長くしていますと、色んなことがありました。ある婦人が白血病であと一週間が山だと宣告され、教会あげて祈りました。「この病は死にいたらず」との御言葉が牧師に与えられ、みなさん信じますかと問うと、信じますと言ってみなで、真心込めて祈りました。奇跡的に癒され、元気になられ、退院しました。それを機にそのお姉さん家族が信仰を回復し、教会にもどってきました。また別な婦人の話です。長い間、家庭集会やクッキングクラスなどには来られていたのですが、なかなか、受洗までにはいきませんでした。ところが乳がんの手術をされ、その後、再発して、最後の段階にまで来ていました。教会あげて祈りました。その時、個人伝道をすると主を受け入れられました。牧師が病院に行って、病床洗礼を致しました。その時です。彼女は満面の笑みをたたえて「先生、うれしい」という言葉があふれでたのです。その2日後でしたか、平安の内に天に召されて行きました。そのどちらも、奇跡です。神の国、ここにありという実感を持ったのです。「義人の祈りは働くと、大きな力があります」。