オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

たじろぐな、わたしがあなたの神だから

2014-10-26 00:00:00 | 礼拝説教
2014年10月26日 みのお泉/三田泉教会合同礼拝(イザヤ書41:10)岡田邦夫


 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」イザヤ書41:10

 昨日、お隣の畑の人に黒豆のことで聞きにいったら、柿の木の下を見てみろというので見に行くと、日本穴熊が捕獲されていました。それで思い出したことがあります。中学の国語の時間、なぜか、私が指名されて、黒板に「たいど」を漢字で書くように言われた。気が小さいものだから緊張のあまり、「能」の下に「心」を書こうとしたのに、一瞬ためらっていると、先生が次にA君と指名。彼は能の下に点々を書いて「熊度」としてしまった。先生が「それはくまどだよ」。するとクラスは笑いに包まれ、楽しい授業になった。なぜ、そのようなことを覚えているかというと、それが私には悔しかったからです。脳というのは辛かったとか、楽しかったとかの感情のくくりの中で、データを物語りの形で保存しているものだそうです。その時、正解が書けていたはずなのに、ためらってしまったのが悔しいけれど失敗だった。自分はためらいがちだ。大事な決断をするときには決してためらわないようにしようと思わされた出来事の一つでした。

◇あなたを助ける
 今日のテーマは「たじろぐな」です。預言者イザヤは言います。ユダの民は強大なバビロン帝国に敗北し、バビロンに捕らえられていく。それは神の前に不信仰で堕落したことへ裁きである。しかし、メド・ペルシャがバビロンを倒し、そのクロス王がユダの民を解放し、エルサレムに帰され、救われると希望の預言を告げます。その先の終末、救い主・メシヤの贖いも大きなスケールで預言をします。ですから、こう告げるのです。
 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。…あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける。』と言っているのだから」(41:10、13)。
 神のしもべ、モーセは絶大な権力を誇るエジプトのパロ王の前、十度立ちますが、決してたじろぎませんでした。ですから、神の奇跡により、イスラエルは奴隷から解放されたのです。エジプト軍に追われ、紅海を前にした時も、モーセはたじろぎませんでした。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。…主があなたがたのために戦われる」と大胆に民に告げました(出エジプト14:13-14)。そのとおり、海がわかれ、民は救われました。聖書には信仰によってたじろなかった人が多く出てきます。ヨシュア、ギデオン、サムソン、サムエル、ダビデ、エリヤとエリシャ、シャデラク、メシャク、アベデネゴ、ダニエル、エステル、新約ではペテロ、ステパノ、パウロ…。
 剣道で重要なのは構えですね。クリスチャンは信仰の構えをしっかりもちましょう。敵を意識することです。傲慢にさせたり、落胆させたりするサタンという神からひきはなす敵です。サタンは惑わすものです。同時に味方を意識することです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」。信仰によって、傲慢は謙虚に、落胆は確信に変えられます。
 もちろん、自分で「たじろがないぞ」と構えても、疲れるか、負けてしまいます。私たちの勝利は「たじろぐな」のみ声を聞くことです。み声を聞く構えが最も必要です。受難の道、十字架の道に進んでも、少しもたじろがなかった主イエスが言われます。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33口語訳)。勝っているから、たじろぐなと愛をもって励まされます。

◇あなたを変える
 「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」のみ声を聞いて、私は牧師となるべく献身しました。東京聖書学院に入学する前に母がクリスチャンだったので、赤飯を炊いて祝ってくれました。その時、意見などあまり言わない兄ですが、私にこう言いました。「お前は説得力がないから、牧師になるのはやめておいた方が良い」。しかし、召命の言葉をいただいているので、たじろぎませんでした。しかし、学院に入ってみると、兄の言ってくれたことが私の現実でした。特に英語、ギリシャ語、ヘブル語ときたら、悩みの種でした。そうした苦闘の中で、「荒野の泉」というカウマン夫人の日課を読んでいた時に、このイザヤ41:14-15のみ言葉が心に入り込んできました。「虫にひとしいヤコブよ…みよ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする」(口語)。日課の文章は省略しますが、説教者として立てるのだという、静かな確信と勇気をいただきました。自分はほんとうに虫にひとしいヤコブ、虫けらのヤコブである。でも、聖霊によって、鋭い歯のある新しい打穀機としてくださるのだと主イエスは言ってくださるのです。
 このみ言葉は皆さんに告げているのです。少年ダビデが巨人ゴリアテが向き合った時に、ゴリアテはダビデを虫けらのようにバカにしました。「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」。しかし、「この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」と言い切って、ダビデはたじろぎませんでした。石なげではなった一発だけでゴリアテを砕いたのです。主が戦われたからこそ、勝ち得て余りあるものでした。
 たじろぐなと恐れるなは同義語。こう言い換えても良いのではないでしょうか。「たじろぐな。虫けらのヤコブ、…見よ、わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする」(新改訳)。

神のわざが現れるため

2014-10-19 00:00:00 | 礼拝説教
2014年10月19日 主日礼拝(ヨハネ福音書9:1-7)岡田邦夫


 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」。ヨハネ福音書9:3

 「夕焼けはなぜ赤いの?」子ども電話相談のような質問ですが、子どもにはどう説明しますか。夕方は昼間より太陽の光が斜めにきて、空気の層が厚いところを通ってくるの。いろんな色の光が空気の中のチリに邪魔されて、赤い色の光が届くから夕焼けは赤いの。科学的説明です。中村メイコさんが子どもの頃、「夕焼けはなぜ赤いの?」と父親に聞くと「空が恥ずかしがってるから」という答えが返ってきたといいます。父親はユーモア作家の中村正常氏、良い答です。
 どうしてそういう質問をするかと言えば、夕焼けがとてもきれいに見えるからです。きれいなのは「神のなさることは時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠への思いを与えられた」からです(伝道の書3:11)。人が物思いにふけるのも夕焼けの時です。

◇誰のせいか
 さて、ヨハネ福音書の9章には二つの質問が出てきます。第一の質問はこうです。「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』」(9:1ー9:2)。何の因果でこうなったのかという質問です。旧約聖書のヨブが財産も子どもも健康も奪われるという不幸に見舞われた時、友人は因果応報の考えでヨブを責めました。君が罪を犯しているからこうなったに違いない、悔い改めよと。答は神の中にあると聖書は語っています。
 主イエスの答は明快です。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」(9:3)。弟子たちは生まれつき盲人であることの原因を聞いたのですが、主イエスはこの人の人生の目的を告げられたのです。人生には意味づけが必要です。意味のないことはできないでしょう。不幸に見舞われた時に人のせいにしたり、自分のせいにしたくなりますが、これには何かの目的がある、そうだ、神のみ業の現れるためなのだと、信仰によって翻りましょう。
 この人には「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です」と言われ、主イエスから光が差し伸べられます。そして、主イエスは地面につばきをし、泥のかたまりを作られ、盲人の目に塗ったのです。土で人の形をつくり、息を吹きかけ、人が造られた創造の業と重なります。遣わされた者という意味のシロアムの池に行って洗いなさいと命じます。御子イエスは父から遣わせた救い主であることを言っておられますから、その行為は救いの業を示しているのです。そのとおり信じて実行すると生まれつき盲目のその目が見えるようになったのです。
 私は若き日に人生とは何かとか、人生の目的は何かとか、中川という川の土手に座って、夕焼けを眺めながら、考えたものです。何か、訳がわからなく生きていました。友人に誘われて、教会の伝道会に行き、イエス様のところに飛び込んできなさいというメッセージに促され、御前に進み出ました。十字架を信じて祈ると、はっきり見えてきました。私を救ってくれたイエス・キリストのために生きること、これが人生の目的なんだと。
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」。

◇誰がしたのか
 初めの質問は不幸は誰のせいかというものでしたが、次はこの奇跡は誰がしたのかというものです。しかも、これが長々と記されているのです。
 近所の人や物乞いを見ていた人たちが聞きます。どのようにして目が開いたのかと。自然に目が開いたのであれば問題はないのですが、「誰か」が目を開けたとすれば、問題なのです。この日はいっさいの仕事をしてはならないという「安息日律法」では、これが医療行為をした、仕事をした、重大な違反だというものです。それで律法厳守のパリサイ人のもとに連れて来られたのですから、徹底して追求されます。両親まで呼ばれます。
 両親は上手に受け答えをします。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう」(9:20-21)。
 しつこい追求にも息子は事実を述べます。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」。パリサイ人は頭から、安息日に仕事をした者がいる、モーセ律法の違反者だ、絶対赦せないと怒り、この息子をののしるという始末です。ユダヤの社会の風潮ではそうだったかも知れませんが、イエス・キリストは当然のことをされたのです。三浦綾子著「光あるうちに」に「仕事」という字は「仕える事」と書きますように、本当の仕事は人に仕え、神に仕える事だと述べています。イエス・キリストは遣わされた者として、神に仕え、人に仕えられたのです。それがイエス・キリストの業なのです。
 この息子、実に見事な証詞をします。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです」(9:30-33)。
 主イエスがパリサイ人に言われました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」。私たち、この言葉を心にとめておきましょう(6:41)。
 追い出された息子のことを気遣い、主イエスが探し出し、出会われます。目に泥を塗られた時はまだ見えなかったわけですから、今、会っても判りません。主イエスが開眼させたのは御自分だと言いますと、彼は「主よ、私は信じます」と信仰告白をはっきりとし、ひれ伏して礼拝します(9:38)。目が見えるようになり、嬉しくなったこと、それで平安と確信が持てたこと、そういう救いの出来事、救いの経験を得たことは重要なことです。それは神の業ですが、ヨハネはそれを「しるし」だと言います。最重要なのはそれをなして下さった方を信頼し信じることです。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(6:29)。
 「産んでくれて、ありがとう」は親に対する最高の感謝の言葉でしょうね。そのように、イエス・キリストに対して、申しあげたいですね。「心の目を
開けていただいて、あなたが解るようになりました。主よ、私を救ってくれて、ありがとう」。

天からのいのちのパン

2014-10-12 00:00:00 | 礼拝説教
2014年10月12日 主日礼拝(ヨハネ福音書6:32-40)岡田邦夫


 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」ヨハネ福音書6:51

 ホームセンターなどに買い物に行った時に、この頃はどこで作られたのかを見るようになりました。以外と様々な国名を目にしますし、普通の野菜の種などは結構遠い国なので驚きます。国内のものでも品質を問うものはわざわざMade in Japanと記載されています。
 私はそれがどこから来ているのかということに関心がいきます。ニュース解説にしても、この人はどうしてそのような考え方をするのだろうか、解説の解説をしたくなってしまいます。それをするときりがないので、すぐ止めますが。しかし、ヨハネという人はこう言うのです。「子どもたちよ(クリスチャン)。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(1ヨハネ3:7ー8)。神から出たものなのか、サタンから出たものなのか…その人の行動や考えがもともとどこから来たのかを問うているのです。

◇旋律が心に響くヨハネ伝
 ヨハネ福音書5章には38年病気だった人のいやしがあり、誰がそれをしたのかという問いかけがあり、その後、その信仰的解説が続きます。父なる神について、子なるイエス・キリストについて、永遠の命について、述べられています。続く6章では5000人に食物を与えられた奇跡と湖上を歩いて弟子たちに近づいた奇跡の後、同じような信仰的解説が続きます。
 6章の信仰的解説、すなわち、イエス・キリストの「わたしがいのちのパンです」の説教を見てみますと、同じような言葉の繰り返しが多いのです(6:26-59)。私流に分類してみました。
①天からのパン…6:31,32,38,45,46,48,50,51,58
②永遠の命に至る…6:27、39,40,44,47,51,51,54,57,58
③信じる、食べる、来る…29、30,35,37,45,47,51,53,54,57
 この三つの言葉がくり返しくり返し、告げられるのです。なぜ、くり返すのでしょうか。聖書学院で説教学の中で、説教演習をしました時、私、教授から言われました。岡田君のは団子説教だよ。串に刺したみたらし団子のように、同じことをくり返す説教だと批判されたのです。そうとう落ち込みましたが、直しようがないと開き直り、これがおれの流儀だと、今日まで説教してきました。ヨハネ福音書も団子説教かというと、決してそうではないのです。
 例えば、三角形の合同の証明はギリシャ的な話の進め方です。頭を整理させて、突き抜けてきて、すっきりするというものです。新約聖書はギリシャ語で書かれていますから、そういう側面はあります。しかし、ヨハネなど多くはユダヤ人(ヘブライ人)ですから、言葉はギリシャ語であっても、ヘブライ的な話の進め方をします。預言者のメッセージは詩文です。心に共鳴させ、言葉が響いてきて、心に入り込むというものです。「響く」ということに集中しているのです。
 私が中学2年生の音楽の時間で作曲する授業がありました。まず、最初の2小節をまず作り、a,a’とかa,bとか、続く2小節を作り、4小節にしていくなどして、教えられたように詩をそえて作りました。ちなみに、それでいくと、「慈しみ深き」は(a,b,a,b’,a’,b”,a,b’,)となると私流には思えます。同じメロディや、同じようなメロディがくり返されて、心に響かせるという仕掛けになっています。
 ヨハネはヘブライ人であり、その説教は詩文のようで、音楽的です。くり返すことで、一つのことを響かせようとしているのです。ここでは「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(6:51 )。
 昨日、中村裕二、智恵子ホームコンサートがありましたが、中村師が直腸ガンと宣告され、手術の時の苦しく、孤独で、不安の中の暗闇の中で、背後に光を感じ、「わたしはあってあるもの」というみ言葉が響いてきた時に、何とも言えない平安が来たと証しされていました。そして、1ヶ月で12の作詞作曲ができたのだというのですから、驚きです。み言葉が響いてくる時、人知を超えたことが起こるのですね。
 音楽を聴くように、聖霊によってみ言葉が響いてくるように聖書を読み、静まり、祈ってまいりましょう。とくにヨハネの聖書は…。

◇響きますいのちのパンを咀嚼(そしやく)して
 働くために食べるのか、食べるために働くのか、心境は時々で、変わります。生きることは食べることであることは確かです。体はパンを必要としています。それ以上に魂はいのちのパンを必要としています。食べるものがどこから来たのが問われます。農薬を使った有害なもので作られてはいないか、安全が問われます。また、この辺でとれる丹波黒の枝豆、黒豆は美味しく、栄養があるなど、味わいが問われます。安全で美味しいものが良いわけです。ようするにどこから来たのかが重要です。
 そのように、イエス・キリストは「天から下って来たパン」だと言われます。恵みと清さに満ちた天からだというのですから、これほど安全なものはありません。だましごとの哲学、いかがわしい宗教ではなく、人を惑わす悪魔からでたものではなく、人を正しく救いに導く天から下って来たパンなのです。そして、それはイエス・キリストご自身だからです。
 こんなネイティブ・アメリカンの教えに「あなたが生まれたとき、あなたは泣いて周りが笑っていたでしょう。だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って周りが泣いているような人生を歩みなさい」という素敵な言葉があります。この福音書はこう告げます。「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(6:40)。いのちのパンを信じていただく者には永遠の命が与えられていて、終わりの日には栄光の体に復活するというのです。死後に復活の希望があるので、あなたが笑って周りが泣いているという結末を迎えられるのではないでしょうか。そういう意味で、この命のパンはひと味も二味も違う美味さがあるのです。

 「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神の業です」(6:39)。救われるのには修行したり、功徳をする必要はない。神が遣わした者を信じること、それが神の業だと言います。そして、信じることは食べることです。豚を食べても、豚にはなりません。人間になります。しかし、イエス・キリストを信じ食べると言うことはイエス・キリストのようになることです。それが永遠の命であり、復活です。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(6:51)。これを体感できるようにと聖餐を制定されました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです」(6:54ー55)。
 食べられるために主は十字架にかけられたのです。命をさき、命を分け与え、命を譲られたのが十字架です。もっと言うなら、愛をさき、愛を分け与え、愛を譲られたのが十字架です。命のパンをいただくことは具体的には先ほど申しましたように、み言葉が魂に響いてきて生かされることです。そのみ言葉には十字架の犠牲があり、計り知れない愛があるのです。そこには日常の霊的な聖餐があるのです。イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(6:35)。あなたは信じますか。食べて、租借しますか。

見えない栄光

2014-10-05 16:01:05 | 礼拝説教
2014年10月5日 主日礼拝(ヨハネ福音書2:1-11)岡田邦夫


 「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」ヨハネ2:11

 先々週のことです。窓から外を見ると、雲一つない、澄み渡った青空のもと、稲刈りを終えたばかりのお隣の田んぼに、白鷺が一羽がおり、首を振りながら、こちらに向かって、歩いてきました。これ以上白いものはないのではと思うほど真っ白で、青空に映えて、美しい。息を潜めて見ていると、うちの畑に(借りてる)長い足を伸ばして、やってきました。抜き足差し足忍び足、さつまいも畑に入ってきて、長い首をクリップのように折り曲げて身構えます。とがったくちばしがすっと伸びて獲物を捕らえます。一瞬のこと。何回か繰り返し、となりの田んぼに行き、翼を大きく広げ、帰って行きました。見ていて、優雅で何とかっこいいのだとうと、この光景を眼の奥に焼き付けました。

◇格好がいい
 このガリラヤのカナでの婚礼でイエス・キリストがなされた行為は、私には格好いい話だなあと思わされたのです。イエスも弟子たちも婚礼に招かれました。婚礼というのは盛大に行われ、時には一週間も続くことさえありました。この時も、想定外で、ぶどう酒が無くなってしまったのです。大変な事態です。その時、奇妙なやりとりがありました。母マリヤがイエスに「ぶどう酒がありません」と言うと、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません」と答えるのです。そして、イエスは手伝いの人たちに「水がめに水を満たしなさい」と指示。彼らは言われるままに、外に置いてあったきよめに使う水がめ、六つに、水を縁までいっぱいに入れました。もう、この時には奇跡がおきていて、ぶどう酒になっていたのでしょう。指示されたように、手伝いの人が宴会の世話役のところに持って行くと、びっくりします。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」(2:10)。この奇跡を誰も解らないまま、祝宴はつづいたのです。ただ、水をくんだ手伝いの人たちだけが知っていたのだとヨハネは記しています(2:9)。
 イエスが「施しをするとき、右の手でしていることを左の手に知らせないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」を思い起こします(マタイ6:3-4)。このカナで花婿の危機を救うという「右の手でしていることを左の手に知らせない」という風に思えるのは私だけでしょうか。あるいはこれが美徳の行為に見えるのも、私が日本人だからでしょうか。それにしても、こんな凄いことをされて、イエスは当事者に知らせないで去っていくなど、かっこよく見えてしょうがないのであります。
 しかし、ヨハネはこのような良いことをして、世間のスポットライトをあびるのではなく、天のスポットライトをあびられたことを記しています。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)。

◇現在がいい
 ヨハネの福音書は他のマタイ、マルコ、ルカの福音書(共観福音書)とは書き方が全然違います。共観福音書の方は見たまま、聞いたままを、順序正しく、段階をおって書いてあります。ところがヨハネは練りに練って、重要と思われることにスポットをあてて、その場面を詳しく描写し、記しています。ある人が面白い表現をしました。ヨハネ福音書は金太郎飴のようなもの、どこを切っても金太郎飴が出てくるようにイエス・キリストの同じ顔が出てくるというのです。他の福音書はイエスは神であることを捨てて、人の子となり、十字架の悲惨な犠牲によって、罪の赦しを成し遂げられ、栄光の復活をされ、再び、栄光の姿で来臨されると書いています。
 しかし、ヨハネは初めから、父なる神の「ひとり子」として、記しています。既によみがえられ、教会に現臨しているお方の視点から、記すのです。天地創造の時から、神の子であり、ことばであり、すべてを造られた。そして、まことの光として、世に来た。言い換えれば、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)。「間に住む」という言葉は「幕屋住まい」という意味で、神の臨在する礼拝所の幕屋に住むということです。2000年前にユダヤに来たとは言わず、時間を一つにまとめてしまって、昔も今も含む、私たちの間に幕屋住まいをされたのだと言います。父のみもとから来られたひとり子としての栄光を見たのだと言います。「今」私たちは栄光を見るのです。
 ここで、メンデルスゾーンの「おおひばり」を思わされます(高野辰之訳詩)。
 おお雲雀(ひばり) 高くまた軽く 何をか歌う
 天の恵(めぐみ) 地の栄(さかえ)
 そを称(たた)えて 歌い
 そを寿(ことほ)ぎ 歌う
 天の恵みを歌い、「地の栄え」、地上の栄光を歌っています。これは春の光景ですが、ヨハネの光景に当てはめてみたいと思います。カナの婚礼で栄光を現されたとありましたが、最後の晩餐前にこう主は決断されています(12:27-28)。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう」。共観では栄光を受けるとは復活ですが、ヨハネは十字架だと言うのです。復活後に栄光とは言っていません。既に十字架において、ひとり子としての栄光を現し、信じる者に永遠の命を与えてくださったのです。
 まさに天の恵みは地の栄光となったのです。私の間に父のひとり子が幕屋住まいされているのです。その方が「受肉」されているのです。この方の光が私たちを輝かすのです。信仰に歩む者たちに神のスポットライトが浴びせられるのです。日本のこの「地」であなたは「今」神の子としての栄光を現していると…。私たちはただ信じるだけです。