2012年8月26日 伝道礼拝(マルコ8:22-26)岡田邦夫
「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。」使徒の働き9:18-19a
前にいた教会で、帰国子女の人がおられ、誰かがくしゃみをすると、必ず「ガッブレスユー」と言ってくれるので、サンキューと答えていました。たかがくしゃみに、神の祝福がありますように!と祈ってくれるとは素晴らしいことだと思っていました。ある日、アメリカ人宣教師にそれを話したところ、それは単に「おだいじに」という意味で使っているだけだと教えてくれ、ちょっと肩すかしをくいました。教会の祈りの言葉が一般化してそうなったのでしょう。別れの時にもそれを言いますし、ワーシップソングにも“God bless you!”があります。私にはとても良い響きに聞こえます。
聖書の言葉が一般化して日本語で使われている言葉もあります。「パンだけで生きるもではなく」「目には目、歯には歯を」「豚に真珠」「狭き門」「砂上の楼閣」「最後の晩餐」「洗礼」「ゴスペル」「目からうろこが落ちる」…。最近では「目からうろこが落ちる」省略した「目からうろこ」をテレビなどでも耳にするようになりました。意味は「あることをきっかけとして、急に物事の真相や本質が分かるようになること」なのですが、案外、多くの人はその出所が聖書だとは知らないようです。
イエスが死んでよみがえった後、教会ができ、12使徒を中心に伝道が進められていきました。ユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害するサウロという人がいました。ところがその青年がダマスコに向かう道中で、復活されたキリストが現れ、声をかけます。その時、天からの光が彼を巡り照らしので、目が見えなくなります。ダマスコに連れていってもらうと、アナニヤというキリスト教徒に福音を聞き、救われて、その時に「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた」のです(使徒の働き9:18-19a)。このサウロ青年はパウロという名に変えられ、180度方向転換をし、今度はキリスト教の宣教師、異邦人宣教の使徒として神に用いられるようになったのです。「目からうろこ」はこのような回心の出来事の象徴なのですが、一般化して、ことわざとして使用されているわけです。
パウロはベニヤミン族という血筋がよく、ガマリエル大学をでたエリートの律法学者、パリサイ派というユダヤ教の熱心な活動家でした。また、ユダヤ人でありながらローマの市民権を持つ自由人でした。それを誇りとし、キリスト教は邪教だと決めつけ、迫害していました。しかし、キリスト教徒を観察し、復活のキリストに出会った時に、まず、見えなくなりました。いままで信奉してきたことなど、解らなくなったのでしょう。しかし、イエス・キリストの福音を説き明かされた時に、目からうろこのような物が落ちて、イエス・キリストというご人格がわかり、福音がわかり、嬉しくなったのです。そこで真の生き方、真の生きがい、真の使命がわかったのです。人は神がわかれば、イエス・キリストがわかれば、福音(ゴスペル)がわかれば、変わるのです。
日本のある神学者の「わかってわからぬキリスト教」という説教集があります。教会に行き、聖書のこと、イエス・キリストのことが素晴らしいと思い、悔い改めて、イエス・キリストがその罪を赦しくださったと信じて、救われます。その時にキリスト教がわかったという心境です。ところが、聖書の中の殺し合いとか憎しみあいとか、聖戦などを見ていくと何かわからなくなってくることもあります。現実の教会が人間的であったり、そんな面を見て何かわからなくなってくることもあります。あるいは成長していない自分自身を見て、信仰があるのかないのか、何かわからなくなってくることもあります。そのように聖書の矛盾、教会の矛盾、自身の矛盾に気付き、「わかってわからぬキリスト教」状態になります。しかし、そこでもう一度、神の前に取り組んでいくと、復活のキリストに出会うとか、聖霊によって目が開かれるかして、聖書の真実、教会の真実、信仰の真実がわかる時があるのです。それこそが「わかってわかったキリスト教」の状態になるのです。
パウロは初め神のことはわかっていた、しかし、律法の矛盾を感じ、わかってわかぬ状態でした、そのような時に、復活のキリストに出会い、聖霊の導きで目からうろこ、わかってわかった状態になったのです。
マルコ福音書の8:22-26は盲人がイエス・キリストにより二段階に見えるようになっていく珍しい奇跡です。これは前後の文脈からすると、象徴的な奇跡で、ペテロの霊的な開眼を表していると思われます。イエスはご自分が聖書に預言されていた救い主・キリストであることを弟子たちにわからせようとしました。多くの奇跡というしるしを見てもなかなか悟りません。「まだ悟らないのですか」と言われた後に、この盲人の開眼の奇跡をなさいました。その後に、ペテロが「あなたは、キリストです。」と告白します(8:29)。「すると彼は、見えるようになって、『人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。』と言った。」というおぼろげに見えるペテロの状態を指すのでしょう(8:24)。ところがイエスの受難や十字架の救いがまだよくわかっていないので、失言し、イエスにしかられます。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(8.33)。
ところが、後に十字架にかけられたイエスを見上げ、死人の中からよみがえられたキリストに出会い、聖霊が注がれた時に、ほんとうにわかるのです。この盲人の奇跡でいうと、「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」状態になったのです(8:25)。ただの人、ペテロもわかってわかったのです。迷うことなく自由になり、恐れることなく確信をもち信仰に生き、使命に生きたのです。
キリスト教は狭い門かも知れませんが、奥が深いのです。どうぞ、謙虚になり、素直になり、狭い門からお入りください。そうすれば、イエスと出会い、救いがわかり、真理がわかります。もしかしたら、そのあと、わかってわからない状態になるかも知れません。その時こそ、求めてください。求めよ、そうすれば、与えられます。復活のキリストがあらためてあなたに出会ってくださいます。迷えば迷うほど、渇けば渇くほどに、目からうろこ、すべてのものがはっきり見えるようになるのです。ペテロの主、パウロの主はあなたの主なのです。私たちのわかってわからせてくださる復活の主なのです。
「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。」使徒の働き9:18-19a
前にいた教会で、帰国子女の人がおられ、誰かがくしゃみをすると、必ず「ガッブレスユー」と言ってくれるので、サンキューと答えていました。たかがくしゃみに、神の祝福がありますように!と祈ってくれるとは素晴らしいことだと思っていました。ある日、アメリカ人宣教師にそれを話したところ、それは単に「おだいじに」という意味で使っているだけだと教えてくれ、ちょっと肩すかしをくいました。教会の祈りの言葉が一般化してそうなったのでしょう。別れの時にもそれを言いますし、ワーシップソングにも“God bless you!”があります。私にはとても良い響きに聞こえます。
聖書の言葉が一般化して日本語で使われている言葉もあります。「パンだけで生きるもではなく」「目には目、歯には歯を」「豚に真珠」「狭き門」「砂上の楼閣」「最後の晩餐」「洗礼」「ゴスペル」「目からうろこが落ちる」…。最近では「目からうろこが落ちる」省略した「目からうろこ」をテレビなどでも耳にするようになりました。意味は「あることをきっかけとして、急に物事の真相や本質が分かるようになること」なのですが、案外、多くの人はその出所が聖書だとは知らないようです。
イエスが死んでよみがえった後、教会ができ、12使徒を中心に伝道が進められていきました。ユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害するサウロという人がいました。ところがその青年がダマスコに向かう道中で、復活されたキリストが現れ、声をかけます。その時、天からの光が彼を巡り照らしので、目が見えなくなります。ダマスコに連れていってもらうと、アナニヤというキリスト教徒に福音を聞き、救われて、その時に「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた」のです(使徒の働き9:18-19a)。このサウロ青年はパウロという名に変えられ、180度方向転換をし、今度はキリスト教の宣教師、異邦人宣教の使徒として神に用いられるようになったのです。「目からうろこ」はこのような回心の出来事の象徴なのですが、一般化して、ことわざとして使用されているわけです。
パウロはベニヤミン族という血筋がよく、ガマリエル大学をでたエリートの律法学者、パリサイ派というユダヤ教の熱心な活動家でした。また、ユダヤ人でありながらローマの市民権を持つ自由人でした。それを誇りとし、キリスト教は邪教だと決めつけ、迫害していました。しかし、キリスト教徒を観察し、復活のキリストに出会った時に、まず、見えなくなりました。いままで信奉してきたことなど、解らなくなったのでしょう。しかし、イエス・キリストの福音を説き明かされた時に、目からうろこのような物が落ちて、イエス・キリストというご人格がわかり、福音がわかり、嬉しくなったのです。そこで真の生き方、真の生きがい、真の使命がわかったのです。人は神がわかれば、イエス・キリストがわかれば、福音(ゴスペル)がわかれば、変わるのです。
日本のある神学者の「わかってわからぬキリスト教」という説教集があります。教会に行き、聖書のこと、イエス・キリストのことが素晴らしいと思い、悔い改めて、イエス・キリストがその罪を赦しくださったと信じて、救われます。その時にキリスト教がわかったという心境です。ところが、聖書の中の殺し合いとか憎しみあいとか、聖戦などを見ていくと何かわからなくなってくることもあります。現実の教会が人間的であったり、そんな面を見て何かわからなくなってくることもあります。あるいは成長していない自分自身を見て、信仰があるのかないのか、何かわからなくなってくることもあります。そのように聖書の矛盾、教会の矛盾、自身の矛盾に気付き、「わかってわからぬキリスト教」状態になります。しかし、そこでもう一度、神の前に取り組んでいくと、復活のキリストに出会うとか、聖霊によって目が開かれるかして、聖書の真実、教会の真実、信仰の真実がわかる時があるのです。それこそが「わかってわかったキリスト教」の状態になるのです。
パウロは初め神のことはわかっていた、しかし、律法の矛盾を感じ、わかってわかぬ状態でした、そのような時に、復活のキリストに出会い、聖霊の導きで目からうろこ、わかってわかった状態になったのです。
マルコ福音書の8:22-26は盲人がイエス・キリストにより二段階に見えるようになっていく珍しい奇跡です。これは前後の文脈からすると、象徴的な奇跡で、ペテロの霊的な開眼を表していると思われます。イエスはご自分が聖書に預言されていた救い主・キリストであることを弟子たちにわからせようとしました。多くの奇跡というしるしを見てもなかなか悟りません。「まだ悟らないのですか」と言われた後に、この盲人の開眼の奇跡をなさいました。その後に、ペテロが「あなたは、キリストです。」と告白します(8:29)。「すると彼は、見えるようになって、『人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。』と言った。」というおぼろげに見えるペテロの状態を指すのでしょう(8:24)。ところがイエスの受難や十字架の救いがまだよくわかっていないので、失言し、イエスにしかられます。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(8.33)。
ところが、後に十字架にかけられたイエスを見上げ、死人の中からよみがえられたキリストに出会い、聖霊が注がれた時に、ほんとうにわかるのです。この盲人の奇跡でいうと、「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」状態になったのです(8:25)。ただの人、ペテロもわかってわかったのです。迷うことなく自由になり、恐れることなく確信をもち信仰に生き、使命に生きたのです。
キリスト教は狭い門かも知れませんが、奥が深いのです。どうぞ、謙虚になり、素直になり、狭い門からお入りください。そうすれば、イエスと出会い、救いがわかり、真理がわかります。もしかしたら、そのあと、わかってわからない状態になるかも知れません。その時こそ、求めてください。求めよ、そうすれば、与えられます。復活のキリストがあらためてあなたに出会ってくださいます。迷えば迷うほど、渇けば渇くほどに、目からうろこ、すべてのものがはっきり見えるようになるのです。ペテロの主、パウロの主はあなたの主なのです。私たちのわかってわからせてくださる復活の主なのです。