オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

願いを起こさせて

2015-09-27 00:00:00 | 礼拝説教
2015年9月27日 伝道礼拝(ピリピ2:13-15)岡田邦夫


 「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」ピリピ2:13(口語訳)

 「夢」という字を構成している草冠などから、私はこんな風に連想します。草むらに夕日が落ちていく様子を家の中から目を向け、想いふけっている。そんな風に連想するのも、若い日の思い出があるからです。中川という川の土手に友人と二人で座り込み、夕日を眺め、恋とか将来とか、ぽつぽつと語りあっていました。二度と見ることはないであろうというほど、夕日が空一面を染めていました。今も、まぶたに浮かびます。その後、友人は洗礼を受け、時が経って私もクリスチャンになりました。天地創造のところで「夕があり、朝があった」とくり返されるセンテンスがありますから、人は明日を思う存在なのではないかと私は思います。その創世記でイスラエルを助けたのは、「夢見る者」、若きヨセフでした。その夢は救済の神から出たものでした。

 夢という言葉ではないですが、このような、よく知られたみ言葉があります。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」。口語訳ですと、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:13)願いを起させ、実現に至らせていただけるというのは神の大いなる賜物です。
 アスリートがよく言います。夢は見るものではなく、かなえるもの。といって誰もがオリンピックに出たり、メダルを獲得したり出来るわけではありません。それでも夢を見て生きることは大事なことなのでしょう。しかし、何を夢見たいなことを言っているのだとたしなめられることもあります。現実を見よ、地道に歩めということもあります。ミュージカル「レ・ミゼラブル」に「夢やぶれて」I Dreamed a Dreamの最後の歌詞は、「こんな地獄で暮らすとは こんな哀れな姿で 夢やぶれし 我が人生」。片田舎で暮らし、聖歌隊で歌っていただけの女性、スーザン・ボイルでしたが、四十代でテレビのオーデションに出て、この歌を歌ったところ、見た目とは違って、あまりも歌声が素晴らしかっtので、大絶賛。奇跡の歌姫と呼ばれ、一躍、時の人に。夢やぶれしを歌って、夢かない、歌手になったということです。
 聖書では、成功物語ではなく、救済物語として、神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」と言っているのです。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」と「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」の間にあるセンテンスなのです(2:12、2:14-16 )。
 救いの達成が夢であり、その実現はキリストの日に誇れる、永遠の栄誉がいただけることなのです。

 そういう夢というのは「曲った邪悪な時代のただ中にあって」見るのです(口語訳)。私のことですが、国会で安保法案が可決される前の週とその前の週に、二度も夢に安倍首相が出て来たのです。その件で世間が騒がしいので、日本や世界の今の情勢や、近代の歴史や関係国の民族性など、たくさん本を買って、おおまかな様子を調べて、わが国のことを考えていたので、夢に首相が出て来たのでしょう。わが国を含む世界の近代史も国際情勢もこの「曲った邪悪な時代のただ中に」あるのだと感じました。だからこそ、イエス・キリストの平和の福音、永遠の命の福音メッセージが必要だということです。今こそ、福音夢、救済夢を神は見させようとしているのだと思います。一日は千年のように、千年は一日のように、キリスト者の夢は平和の使者達によって、全世界に福音が伝えられる夢です。世紀の夢です。千年紀の夢です。そして、今の夢です。世界教会の夢です。そして、私の夢です。曲った邪悪な時代のただ中で描く夢です。そのような夢見る人がこの世にあって、光輝く神の子なのです。
 「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』」(使徒2:16-18)。その聖霊の神が「その願いを起させ、かつ実現に至らせる」のです。お互いに聖霊による夢を見ましょう。

わたしはあなたの神、主である

2015-09-20 00:00:00 | 礼拝説教
2015年9月20日 主日礼拝(出エジプト記20:1-17)於・宝塚泉教会、岡田邦夫


 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」出エジプト記20:2

 8月末の講壇で、出エジプトの出来事を司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』をドラマ化した、そのナレーションの「言い回し」を借りて話しました。「まことに小さなイスラエルという民族が開花期を迎えようとしている。彼らは四百年のあいだエジプトに居留し、やがて、過酷な労役に苦しむ奴隷階級でしかなかった。この物語は、その小さな奴隷の民が最も古い大国の一つエジプトと対決し,どのように振舞ったかという物語である」。そこを脱出させてくださったのはすべて、主なる神でした。十戒の序文に記されています。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」(20:2)。
 前の章にはこう記されています。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た」(19:4)。鷲のひなが飛べるようになると、親鷲は子鷲を空高く連れ出します。子鷲が疲れるとその下に飛んで行き、子鷲を背中に乗せて巣にもどるのです(申命記32:11)。あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来た。何と神の力と愛にあふれた御業だったでしょうか。私たちもそのように御翼にのせられて救われたのです。

◇戒律…ねばならない。
 神は命じるのです。ですから、10の戒律を守りなさいと…。前半は神に対してです(省略してシンプルに)。
第一戒:あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
第二戒:あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。それに仕えてはならない。
第三戒: あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
第四戒:安息日を覚えて、これを聖とせよ。
 後半は人に対してです。
第五戒:あなたの父と母を敬え。
第六戒:あなたは殺してはならない。
第七戒:あなたは姦淫してはならない。
第八戒:あなたは盗んではならない。
第九戒:あなたは隣人について、偽証してはならない。
第十戒:あなたは隣人のものをむさぼってはならない。
この戒めはすばらしい契約の条文です。19章5-6節に記されています。「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」。

◇宣言…はずがない
 十戒は宣言だとも言えます。神に救われた民なのだから、神のほか神としない、安息日を聖とする、殺さない、むさぼらない…そういう者なのだと宣言するのです。私は偶像を拝むはずがない、御名をみだりにとなえるはずがない。父母を敬わないはずがない、姦淫するはずがない、盗むはずがない、偽証するはずがない。
 このような話を説教で聞いたことがあります。ある国の王子が若さゆえに羽目を外していました。するとお付きの者が物静かに言いました。「何をしてもご自由です。しかし、お立場をお考えください」。王子はすぐ行いを正したとのことです。私たちはイエス・キリストの贖いによって救われて、神の子という素晴らしいお立場が与えられているのです。それを思い、そう自覚すると、この戒めは当然、守るものです。
 神の民、神の子という立場にいるということは愛の精神に生きることです。前半については、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる神を愛せよ」(マタイ22:37=申命記6:5)。後半については、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39=レビ19:18)。主が愛の翼に載せて、滅びに落ちないようにして、暖かな神の懐に運んでいただいたのですから、私たちも、神を愛し人を愛するのです。そうして、神と人が愛の絆の中にいるのです。

◇言葉…なっていた
 さらに主イエス・キリストはその戒めを掘り下げて、山の上の説教でこう言っています(マタイ5:21-22)。「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。…また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」。隣人愛の精神が徹底されれば、できるかもしれませんが、現実は守りきれないでしょう。
 私は若いとき、教会に行きましたが、聖書も説教も良くわかりませんでした。しかし、ある時、この山の上の説教を読んでいたら、7章1~5節のみ言葉が心にささってきました。「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。…なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。…偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい」。家族のせいで自分はこんななんだ、自分は真面目だけど会社のここが悪い、私は正しいが社会は悪い等々、そう思っていた自分の目の方に梁があるではないか、逆ではないかと示されたのです。この私こそ、神に裁かれる者だと、このみ言葉が迫ったのです。
 そういう求めのある時に、伝道集会に行きました。聖書は調べて解るものではない、信じてわかるものだとの勧めのメッセージに促されて、神を信じようと決心をしました。悔い改めて、十字架による罪の赦しを信じました。そして、導いてくれた人が聖書の一節を読んでくれました(ヨハネ1:12)。「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、神の子となる力を与えたのである」。このみ言葉が私の心に入ってきた時、無性に霊の喜びを感じました。「人を裁くような偽善者が神の子になったんだ!」。お立場が与えられた喜びです。人を裁く気持ちも自然と消えていました。
 それでも、今ひとつ、最後の裁きの日に御前に立てるかどうか、確信がなかったのですが、牧師に勧められて読んでいた、内村鑑三著の「ロマ書研究」の8章にきた時、聖霊による確信がきました。「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることはない」(ローマ8:1)。キリスト・イエスにあるだけでいいのだ、最後の審判で裁かれないのだ、大丈夫だ。またまた、嬉しくなったのです。
 人を裁くなという戒めが、イエス・キリストのもとに走らせます。イエス・キリストの贖いを信じて、自分自身が終わりの日に裁かれないという確信がきて、そして、人を赦せていくのです。「殺すな」という戒律が神の口から出る言葉となって臨んでくると、「生きよ、生かせ」という響きになり、永遠の命に引き寄せられていくのです。そうして、私たちは神の宝となっていき、祭司の国、聖なる民となっていくのです。

シナイ山での神の顕現

2015-09-13 00:00:00 | 礼拝説教
2015年9月13日 主日礼拝(出エジプト記19:3~6,16~20)岡田邦夫


 「角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。」出エジプト記19:19

 この度、台風の影響で大量の雨が降り、茨城、栃木などで、河川があふれたり決壊したりして、大きな被害が出ました。行方不明の方の発見、亡くなられた方のご遺族の慰め、一日も早い、復旧、復興を祈るものです。このようなニュース映像が放映されていました。濁流が家を呑み込もうとしている。その屋根に救助を待つ人たちがいる。近くに、電信柱につかまっている男性がいる。自衛隊のヘリコプターがホバーリングしていて、隊員がロープで下りてきて、その人たちを一人一人、順々に引き上げていきます。全員、ヘリに乗り終わって、すぐにその家が流されて行きました。危機一髪の救出劇でした。

◇下から支え…補助線が引かれて
 イスラエルの民はのばされた神の御手によって、エジプトを脱出し、葦の海の底を渡り、救出されました。そのことをこのようにたとえています。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た」(19:4)。鷲のひなが飛べるようになると、親鷲は子鷲を空高く連れ出します。子鷲が疲れるとその下に飛んで行き、子鷲を背中に乗せて巣にもどるのです(申命記32:11)。あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来た。何と神の力と愛にあふれた御業だったでしょうか。私たちもそのように御翼にのせられて救われたのです。
 数学の幾何の問題で、そのままでは解けないけれど、補助線を一本引くと証明できたりします。そのように出エジプトの不思議な奇跡は見たけれど、神ご自身は見えない。神が補助線のように「言葉」が告げられて、確かに、神は生きて働かれたのだと証明されるのです。あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを「見た」と証明されたのです。
 御翼にのせて神の御許に運ばれた民はこの後、どうなるのでしょうか。神の御思いが述べられます。そこには恵みと祝福と愛があふれています。読みましょう。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(19:5-6)。

◇上から臨む…平行線が交われる
 ここで、重要な条件が「わたし(主)の声」に聞き従うことです。
 例えば、人と人が話をしている時、お互いの主張があって、ゆずれず、平行線ということがあります。議会などでもそういうことはよくあります。平行線は交わらないというのがユークリッド幾何学です。しかし、それは平面の話、地球のように曲面だと平行線はない、ゼロ、言い換えれば、どこかで交わる、そう考えたのがベルンハルト・リーマンです(1826-1866)。彼は牧師である父と同じく敬虔なキリスト者でした。跡を継ぐつもりでゲッチンゲン大学ではじめ神学と言語学を学ぶのですが、数学に強く引かれ、数学者になった人です。私の簡単すぎる説明ですが、思いもつかないような発想なのです。それは彼が「超越」したものを学ぶ神学をしていたからこそ、平行線は交わるというような考えがでてきたのだという人がいます。歴史とか世界を見るときに、それを越えた方、超越者を意識してこそ、正しく見えるだと言っています。先ほどのヘリコプターによる救出劇も、上から見ていたので、屋根の上の人を先に助け、電信柱の人を次にするという、正しい判断ができたわけです。
 神と人は聖なる方と俗なる者(罪人)、永遠に交わることが出来ない平行線の関係です。しかし、聖なる方の方から接点を設けられたのです。それが啓示です。エジプトのパロ王に、わが民を去らせよと神が何度も迫りますが、去らせません。ずっと平行線でした。しかし、モーセに現れ、接点を設け、イスラエルの民を救助しました。そして、荒野を進み、シナイ山の麓まで来ました時、神が民に大接近をするのです。それがこの19章です。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」「三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られる」(19:9、11)。だから、心身きよめて待ちなさいと告げます。
 言われたとおり、大変なこと、アメイジングなことが起こったのです。
 「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲(みつうん)があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。」(19:16-19)。
 実に荘厳な光景です。神が降りてこられたのです。そして、神の民が世界の中で、歴史の中で、どう生きるのかを、モーセを通して超越者が告げるのです。それが次の章の「十戒」です。まず、重要なのは「主が降りて来られた」ことなのです。さらに降りてこられたのが、イエス・キリストです。神が人となり、永遠に交われない平行線であったのに、永遠に交われるようにと、降りてこられたのです。聖霊も降りてこられたので、モーセのところに自分の名前が入れられるようになったのです。(モーセ)は語り、神は声を出して、(彼)に答えられた。
 そうして、十戒を受け止めていきましょう。そのような視野に立って、世界を見ていきましょう。明治のキリスト者で内村鑑三という人をご存じと思います。彼が横浜メール新聞に英文で投書したもので「日本国の天職」(Japan : Its Mission)というメッセージがあります(明治25年・1892)。「思慮ある人であって、全心全力をもって真実にその神とその国のために尽くしたいと願う者は、まず左の三個の問題を考究しなければならない。
 第一 人間終局の目的とは何か
 第二 自国の天職とは何か
 第三 自己の天職とは何か…」。
 国際情勢が不安定なこの時、このように超越した方と交わり、その視点から、物事を謙虚、かつ大胆に見、使命に生きる者でありましょう。人の声、世間の声、自分の声ではなく、神の声を聞くのです。聞こうと求めれば、イエス・キリストの神は降りてこられるのです。聖霊によって、聖書が生きたみ言葉となって、私に臨むのです。今この時、接点をもってくださる。そして、神が人と共にあり人が神と共にあるという永遠の交わりが約束されているのです。

天からのマナ

2015-09-06 00:00:00 | 礼拝説教
2015年9月6日 二カ所礼拝(出エジプト記16:11~18,29~31)岡田邦夫


 「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる。」出エジプト記16:12

 先週、出エジプトの出来事と坂の上の雲のドラマを引き合いに小さい民族が大帝国と対決したという共通点から、話し出しましたが、決定的に違うことを確認しておきたいと思います。出エジプトの方は決して人の力によったのではなく、すべて「神」がしてくださった救いということです。

◇一日分…社会の基本
 そうして、エジプトを出て、自由になったのですが、そこは荒野、民はつぶやきます。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです」(16:3)。奴隷の苦役から解放していただいたのに、何という恩知らずでしょうか。それでも神はあわれみをもって答えられます。
 主がモーセに言われたように、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、肉を食べることが出来ました。朝になると、宿営の回りに露が一面に降り、その露が上がると、白い甘いせんべいのような物がありました。人々は「これは何だろう(マーン・フー)。」と言ったことから、それを名詞にして「マナ」と名付けました。天からの贈り物、パンなのでした。食べ物が天から降ってくるとは不思議なことです。
 皆さん、食べ物の話は好きですよね。テレビでも食べ物の番組は朝から晩まで、実に多いですね。人は食べるものがなければ生きてはいけませし、食べれるのは幸せです。このマナのことは人間社会の最も基本的なことを神が教えておられるのです。「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである」とし、「民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。…各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメル(2.3L?)ずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ」(16:4、16)。そのように、実際、ある者は多く、ある者は少なく集めたのですが、計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかったのです(16:17-18)。

 ここに、リンゴが5つあります。もし、これを6人で分けるとなると、どうします。1つ1つを6等分し、5切れずつ分ければ均等に分けられますね。しかし、今の世界では、1人が4つ取り、4人で残りの1つを分け、1人はむいたりんごの皮をもらっているというのが現状ではないでしょうか。「毎日、天幕の人の分も含めて、1人一日分のマナ」というのが、社会の根本だというのです。
 東日本大震災の時に流れたユーチューブにこのようなエピソードがありました。在日ベトナム人で日本に帰化した警察官が被災地に入った。そこはあまりにもひどい惨状だった。福島警察を支援し、治安活動のため派遣されたのだが、地域住民で治安をしているので、被害者の埋葬と食料分配の手伝いをしていた。避難所となっている小学校に行った。人々の長い行列の中にこの寒い中、Tシャツと短パンしか着ていない、9歳くらいの男の子がいた。しかも列の最後に。聞くと体育の時間で津波がきたので、3階に逃げた。そのベランダから父親と車が呑まれたのを見た。海岸近くの家にいた母も弟も妹も非難出来なかったろうと声を震わせて話した。警察のコートを脱いで彼にかけてやり、夕食のパックを渡した。しかし、少年はそのパックを配給用の箱に置き、列に戻った。警察官は人としての道を教えられたと言う。「9歳の男の子でも忍耐強く、困難を耐え、他人のために犠牲になることが出来る日本人という民族は偉大な民族だ!…」と。
 5つのりんごを6人で分けるにはこのような他人を思いやる心があってこそ出来るのだと思います。「毎日、天幕の人の分も含めて、1人一日分のマナ」、それは“神からの”いただきものです。そう意識し、感謝していただきましょう。だから、祈るのです。わたしたちに日ごとの糧をお与えくださいと。
 食べ物だけではなく、生きていくために必要なものの、着ること、住むこと、学ぶこと、それも、自分の分があり、分け与える分があると思います。それも神からのいただきものとして、5つを6人で分かち合うのです。そういう精神を養っていきたいものです。

◇二日分…宗教の基本
 さらに大事なことがあります。二日分のパンです。「主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ」(16:29)。七日目はマナを降らさないので、六日目に二日分を取っておくように、焼くなりしておいて、七日目はそれを食べるようにし、安息日にしなさいというのです。
 十戒では安息日は祝福の日だと言います。神が天地万物を六日間(期間)で造られ、七日目に休まれたので、私たちも「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」、天地創造の神を礼拝し、祝福されよというのです(出エジプト20:8-11)。神と共に安らうのです。
 安息は心身共に健康にとって欠かせない大事なものですが、魂にとって、なおさら重要なのです。人の魂には神によってしか埋められない空洞があるのです。魂のパンが必要です。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる」のです(マタイ4:4=申命記8:3)。赤ちゃんはミルクで丈夫に育ちますが、母親の優しい呼びかけで健全に育ちますように、私たちは愛の神からの語りかけによって、魂が満たされ、健全になっていきます。
 イエス・キリストは大胆に言われました。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら(信じるなら)、永遠に生きます。……わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」(ヨハネ6:51,54)。お腹には一日分の糧を、心には永遠の分の糧を、天からの分としていただくのです。いつでも、どこでも、誰でも、イエス・キリストの永遠の命のパンはいただけますから、ありがたいです。安息日の聖日礼拝=主日礼拝で、私たちは神の言葉を聞き、あるいは聖餐に与り、天からのパンを分かち合うのです。
(新聖歌309)
 荒野を旅する 弱きわが身を
 み神よ手を伸べ 導きたまえ
 豊かにみ糧を われに与えて
 われに与えて