オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

曲がり角の向こうに

2014-09-28 00:00:00 | 礼拝説教
2014年9月28日 伝道礼拝(ピリピ2:15、16)岡田邦夫


 「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」
(ピリピ2:15、16)

 この辺りは黒豆の生育に適した風土です。今年は種まきの時が気候不順で芽が出ず、三度やり直しましたが、現在、順調に育っています。地主さんが良い実りを得るためには蒔き時で、6月20日頃がいいと常々言っておられます。わが家ではその10日前ぐらいに蛍を見に行き、その暗闇にひかる命の光を見て、やる気が与えられ、豆作りに向かいます。その蛍の見える場所は武庫川の「藍本曲がり」の近くです。名前のように川がUの字に曲がっているのです。川というのはだいたい曲がっています。
 聖書に「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」とあります(伝道者の書7:13)。自然界を見ると直線というものはわずかで、ほとんどが曲線です。神は世界を曲線で造られたのだというのが私の勝手な解釈です。しかし、この聖書の文脈ですとそういう意味ではないようです(7:1ー3、8、10 、13、14)。
 「良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。…事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。…「どうして、昔のほうが今より良かったのか。」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。…神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」。
 人生の始めもあるが、終わりも来る、順境の日ばかりではない逆境の日もある、それは心が良くなるために、神が曲げられたのだ、ということです。これが社会の矛盾、人生の虚無を感じながら、創造者を信して生きることが人の本分だと解く知者の言葉です。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」。

 ところが人が曲げたものがあります。新約聖書の重要な言葉で「ハマルティア」というのがあります。元々の意味は「的外れ」です。すぐ弓矢を想像するでしょう。そこから、良心を曲げて行動してしまう「罪」という意味に使われています。神にまっすぐ心が向いていなければならないのに、それを傲慢にも曲げてしまって、的外れな生き方をしている。それが人間です。ですから、人は軌道修正して神に向かう必要があります。心を改める改心では不十分、心を神に向ける180度の方向転換をするのです。自己中心から、神中心に心を回す意味の「回心」をするのです。そこにまことの救いがあるのです。
 ですから、人の世というのは曲がっているのです。人の罪が曲げているのです。情報量が多くなった今日、世界のニュースを知るたびに、世の中は実にねじ曲がっているとお感じでしょう。冒頭の聖書を見てみましょう。「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2:15、16)。イエス・キリストは私たちの心をまっすぐにしてくださるのです。また、悪い曲がり方をした世にあって、まっすぐに生きるように導いてくださるのです。イエス・キリストは「わたしは道だ」と言っておられます。その道は神に通じるまっすぐな道、ハイウェイなのです。さっと神に向かうのです。通じるのです。形状記憶合金というのがあります。どんなに曲がっていても、熱をかけたりすると、最初の状態に戻ってしまうというものです。神の暖かい愛の御手の中に心を置くと、記憶されていた「神のかたち」、神にまっすぐ向かう心にもどるのです。

 最近のNHKのドラマで、クリスチャンが登場するものがありました。「八重の桜」の新島襄と八重、「軍師官兵衛」の黒田官兵衛、「花子とアン」の村井花子。時代が曲がり角に来たからでしょうか、こうした実在したクリスチャンの話が出てくるのは良いことと思います。この村岡花子が訳した「赤毛のアン」(モンゴメリ原作)は戦後の大変な時期に希望を与える本でした。そのなかで、心に響く言葉は38章にあり、「いま曲がり角にきたのよ。 曲がり角をまがったその先になにがあるかは、わからないの。でもいちばんきっとよいものにちがいないとおもうの」です。ストーリーや訳者のことは省略しますが、この言葉は希望の言葉です。
 この作品には聖書の言葉は出てきませんが、聖書が生活に受肉したものだと思います。「神は天に在り、この世はすべてよし」がそれを最もよく表現しています。人生においても、社会のおいても、曲がり角に来ることがあります。それが今かも知れません。その曲がり角というのが神が曲げられたものであるなら、必ず、先には良いものが待っているでしょう。その曲がり角が人が曲げたものでしても、イエス・キリストの元に行く時に、罪を赦し、神との関係をまっすぐにし、生き方をまっすぐにして下さいます。その二重重ねで、モンゴメリの言葉を受け止めましょう。そこにパウロの言葉のように、輝く者となるでしょう。
 「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」

すべての人を照らすまことの光

2014-09-21 00:00:00 | 礼拝説教
2014年9月21日 主日礼拝(ヨハネ福音書1:1-14)宝塚泉教会にて・岡田邦夫


 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ福音書1:9)口語訳

 三田泉教会は農家を改装して、教会堂にしており、畑も借りています。先週、自転車で郵便局に行きました。向こうから、手押し車をおして、歩いてくるおばあさんに出会い、会釈すると、向こうも会釈してきました。「農道で見知らぬ人も挨拶す」。そうして、田んぼに目をやると、稲が黄金色(こがねいろ)に輝いているのです。感無量でした。澄み渡った秋の空のもと、光線のぐあいでそう見えたのかも知れません。それ以上に、この地に住み、畑をやり、農作業の様子や稲の生長を見てきたので、命の輝きを感じたのだと思います。そこには88日間、日の光を浴び続け、命が育まれてきた物語があるのです。

 ヨハネの福音書に出てくる光は命の光、救いの光です。世界は神の言葉によって造られたと書き出し、その言葉はイエス・キリストご自身だと言います。そして、こう続けます。「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(1:4ー5)。とんで9節、「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」のです。世界のすべてを造られたイエス・キリストがすべての人を照すまことの光として、この世に来られたのです。まことの光であり、命の光であり、救いの光なのです。しかし、現実は世はこの方を知らず、受け入れなかったのです。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(1:12-13)。
 先駆者としてバプテスマのヨハネがあらわれ、光について証言をし、光であるイエス・キリストが来られたのは2000年前の出来事ですが、ヨハネは今のこととして語ってくれるのです。「言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」とあるように、読者を含む「わたしたち」に宿ってくれたというのです(1:14)。
 私は両親が年齢が進んでから生まれた末っ子で、可愛がられたようです。中学校の先生からは「岡田君はあまいですな~」と言われていたほどです。しかし、私が高校を卒業する時には、父72才、母62才、働いて自立しなければならないわけです。順調に就職し、研究室での仕事は楽しいし、青春の喜びも悲しみも味わっていました。しかし、心の底は虚しいし、高校3年の時に興味本位で少しだけ教会に行ったのですが、罪意識も生まれ、最後の審判があったら、自分は立てるのだろうかという不安がよぎるのでした。友人に誘われ、今度は求めて教会に行きました。この聖書の通りでした。光であるイエス・キリストを知らなかったし、受け入れられないでいました。
 見えない神を受け入れるということがどういうことか検討もつかなかったのですが、その時はその裏返しの表現で神の懐に飛び込みなさいというメッセージでした。心を前に押し出し、私は飛び込みました。悔い改めて、十字架のイエス・キリストを信じ、救われました。カウンセリングされた時に開かれたみ言葉が「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」でした。そのみ言葉に私の魂は感動で震えました。

 神を見た者はいないが、私たちはその栄光、イエス・キリストの栄光を見たとヨハネは言います(1:14,18)。命の光を「見る」必要があります。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」とイエス・キリストを紹介し、証言しました(1:29)。そして、ヨハネがふたりの弟子と立っているとイエスが歩いてこられたので、「見よ、神の小羊」と言うと弟子たちはついて行きます。イエスと話をする出会いの経験をします。「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」と、光が来たこと、救いの光が届いたことを証ししました(1:30)。アンデレ、ペテロ、そして、ピリポが世の光であるイエス・キリストに出会い、その光に導かれ、従っていきます。ナタナエルも同様でした。この光は神の小羊としての光です。

 ちなみに、聖書の中で、最も「光」という言葉が出てくるのはどの書だと思いますか?ヨブ記です。財産を失い、子供を失い、健康を失うという大きな試練の中で神に出会っていくという書です。人生のどん底にあって光を求めた書だからでしょう。イエス・キリストの命の光は最も届きにくい所に届く光だと思います。聖書はその光を見よというのです。私たちの罪も苦しみも十字架において担われ、神の小羊として、いけにえとなられた、そのところにこそ、栄光の輝きがあるのです。その光はどん底にある者にこそ、届く光なのです。
 私がAさんに出会ったのはだいぶ昔のことですが、忘れることが出来ません。私がまだ若い牧師だった頃、ひとりの看護士さんが婦長のAさんを連れてこられました。夜でした。その方はシングルマザー、当時としてはとても辛い立場でした。仕事をしながら、子どもを育て、心臓病の母親の面倒を見、おまけに仕事が脳外科の婦長。看護日誌の句読点が無かったと言うだけで厳しく指摘する脳外科医の元で心労は大変なものでした。一日おきくらいにやってきては涙を流しながら、話して帰るのです。もちろん、聖書を開いてお祈りするのですが、それも届いていないような感じでした。
 礼拝にも来られるようになったのですが、ある時、遅れてきました。メッセージの終わりの方でした。ずっとうつむいていました。頌栄の時も立ちませんでした。終わってから、彼女に近づくと、涙が溢れ、スカートまでびっしょりでした。神、罪、救いの話をし、心の戸を開くなら、私は入るというみ言葉を読んだ瞬間に、顔をすっとあげ、「先生、光が来ました」というのです。顔は晴れ晴れとしていました。感謝のお祈りをして、帰りました。もう、その日に妹さんにその救いの証しをされました。次の月曜日には病院中に証しをして回りました。その後、この方を通して、何人もの人が救われました。本当に光が来たのだと思います。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」のです。人生のどん底まで照らす光が来たのです。主はその光を「見よ」と今も言われています。

十字架につける、そしておろす

2014-09-14 00:00:00 | 礼拝説教
2014年9月14日 主日礼拝(マルコ福音書15:33-41)岡田邦夫

「三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」マルコ15:34

 「想像の翼を広げて」はNHK朝のドラマ「花子とアン」に出てくる台詞です。原作者の村岡恵理さん(孫にあたる)によると、花子さんは実際、アンのように好奇心旺盛で、いつも想像の翼を広げていたそうで、それは少女のころだけでなく、大人になってもかわらなかったようです。児童伝道に生涯をかけれたある牧師がノアの洪水の話をこう話し出すのです。「もくもくもくもく…」。もうそれだけで、空に上っていく雲を思い浮かべてしまいます。また、想像をたくましくしますと…と言って、短い聖書の出来事にふくらみをもたして下さいました。

◇助けられない物語
 エルサレムは祭りでにぎわっていたが、裏では暗雲が立ちこめていました。祭司長、律法学者等にとっては主イエスは邪魔な存在、抹殺してしまおうという思いをつのらせていたからです(14:1)。都合の良いことに、イエスの弟子・イスカリオテのユダが裏切って祭司長のところに来て、銀三十枚で売ったのです(14:10)。ここで、矢はイエスに放たれたのです。もはや、それをだれも止められない勢いとなってしまいました。夜陰に乗じて、当局の手下を引き連れて、ユダがイエスの前に現れ、挨拶のきすをする、それは捕まえる合図。たちまちイエスは捕えられ、弟子たちは多少の抵抗をするものの、師を捨てて逃げるしかありませんでした(14:44,50)。
 その真夜中には大祭司カヤパは議会を招集し、捕らえたイエスの裁判をするという早いスピードで事は進んでいきます。当局は偽証人を立てるものの、証言が一致しないので、有罪判決がくだせない。そこで議会はイエスが自分を神に近いものだと言ったとし、それは神への冒涜罪であり、死刑にしなければならないものだとしてしまいます(レビ24:16)。
 しかし、ユダヤはローマ帝国の属国、ユダヤ人には死刑にする権限がないので、夜が明けてから、総督ピラトのものとにイエスを引き渡します(15:1-)。ユダヤの当局はローマ政府に逆らう政治犯だと告訴します。それで、「あなたはユダヤ人の王ですか」。「そのとおりです」というやりとりになったのです。ピラトには祭司長等の妬みからの陰謀と見抜き、祭りの日の恩赦制度を使って切り抜けようとします。しかし、仕組まれた悪の流れは止められません。祭司長たちは群衆を扇動し、「バラバを釈放せよ」のシュプレヒコール。この男はどうするのかといえば、「十字架につけろ」のシュプレヒコール。ピラトは総督でありながら暴動を恐れて、バラバを釈放し、イエスをむち打たせ、十字架刑に処してしまいます。
 こうなると、刑を執行する兵士たちはいばらの冠をイエスにかぶせ、とことんあざけります。刑場に行くのに自分がかかる十字架を背負わすのですが、途中、クレネ人シモンに代わらせます。ゴルゴダ(されこうべ)の丘で二人の強盗といっしょに十字架にガツンと釘付けにされます。そして、ドスンと立ち上げます。さらし者にされたのです。こうなると、通りかかる者も祭司長、律法学者等も、となりの死刑囚も、一丸となってイエスをあざけり、ののしりまくるのでした。イエスは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫び、それから、イエスは大声をあげて息を引き取られました(15:34,37)。
 イエスの死体は議員の一人、アリマタヤのヨセフが引き取り、墓に納めました。ユダヤ当局は逮捕から20時間位の早さで、まんまと処分してしまった。想像を絶する激痛、底知れない乾き、魂を打ちのめすのろい、最も残忍な方法で、人々はよってたかって神の御子を抹殺してしまったのです。人はみな罪人、この人たちは人類の代表、私たち、罪人の心と手によって、御子イエス・キリストを裏切り、ののしり、苦しめ、抹殺してしまったのであります。実に残酷な物語です。しかし、これは福音書であり、福音の物語なのです。

◇助けていく物語
 主イエスは裏切り者のユダに悔い改めの機会を与えますが、それでも立ち返らない頑ななユダのことを嘆き悲しみます。逮捕される時に逃げた弟子たち、イエスの取り調べの時、大祭司の中庭で弟子の筆頭でありながら、イエスを三度も知らないと言ってしまったペテロ、裏切りに等しいにもかかわらず、主イエスはすべてを承知で赦しているのです。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。すでにそう言って、愛をもって祈っておられたのです。また、ご自分の弟子たちは必ず、立ち直って使命をはたすのだと信頼されていたのです。
 逮捕の時、主イエスはこう言っておられました。「こうなったのは聖書のことばが実現するためです」(14:49)。その聖書とは人類をあがなうということであり、イザヤの預言が明白です。「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。…あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし。…わたしの目には、あなたは高価で尊い』」(イザヤ43:1,3,4)。イエスの受難は残酷物語ではないのです。贖いの物語り、最高の愛の物語りなのです。そして、その贖いの物語はイザヤ書53章の預言のまるきりそのままの実現なのです。長いですが、読みましょう。
 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」。
 神の中ではこの大いなる出来事が先にあって、神はその光景を画家が描くように、イザヤに描写させたのです。不思議なことに時間が逆なのです。それが預言なのです。
 主イエスは大祭司の前でも、総督ピラトの前でも、救い主、贖い主、キリストであることを宣言されたのです。それで十分なので何を問われても、沈黙されていたのです。すべては、止められない悪や妬みの流れではなく、私たちを救うところの、止められない愛と贖いの流れなのでした。人類が一丸となって、御子を抹殺したように見えますが、それ以上に、三位一体の神が一丸となって、人類の救いの業を成し遂げられたのです。醜い悲惨な物語ではなく、美しい栄光の物語なのです。この物語のクライマックスは「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」です(詩篇22:1の成就)。贖いが完全になされた叫びです。ですから、至聖所にいたる「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け」、誰でもイエス・キリストを通して、神に近づける道が堂々と開かれたのです(15:38)。
 私たちは、私たちにとって、この十字架の福音物語がどれほど輝いているか、信仰の翼を広げてみようではありませんか。

キリストの復活の事実

2014-09-07 00:00:00 | 礼拝説教
2014年9月14日 主日礼拝(マルコ福音書16:9-16)岡田邦夫



 オレンジとと黒の模様のオオカバマダラという渡り鳥のよう不思議なチョウがいます。その何百万というチョウはカナダ南部辺りに北米に生息し、冬になる前に4000キロも離れたメキシコに向かって飛んでいきます。毎年、同じメキシコの森に着くと成虫のまま集団で木に止まって冬を越します。春になると暖かいアメリカに向かっていっせいに飛び立ち、何世代かに生まれ変わり、カナダの方に向かっていきます。6月にはカナダ辺りに着き、そこで何世代かにわたり生活し、また、冬になる前に長旅に出ます。0.5グラムの紙切れのようなチョウの飛行技術、気候判断、方向認識(コンパス)は実に優れていて、神秘とも言うべきものです。
 生命への畏敬ということを言ったのがシュヴァイツァー。彼は優れた神学者、オルガン奏者でしたが、赤道下のアフリカで医療活動に身を献げた人です。しかし、行った所がフランス領の地、彼がドイツ人だったため、第一次大戦が勃発した時に、捕虜になってしまいます。その時、川を渡る一群のカバに遭遇し、生命への畏敬という思想に目覚めたと言います。「生きようとするおのれの生命は、同時に生きようとする他の生命にかこまれている。…個人や社会が、このような生命への畏敬という倫理観によって支配されるところにこそ、文化の根本がある」。私たち、現代人は自然の中に生き、生命の神秘を知り、生命への畏敬の念をもち、謙虚に生きることが大切だと思います。土から生まれたのだから、土に帰るのです。
 人は命をつないでいきますが、私というひとりの人間は死んで断ち切られてしまいます。実に虚しいことです。どんなに地位や名誉や財産を持っていたとしても、死後の世界に持ってはいけないのです。「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」と復活されたキリストに出会ったパウロが言います(1コリント15:20口語訳)。どのようによみがえるのか、種の神秘をたとえて、述べています。種がまかれると芽を出し、種の形とは全く違う草木に成長します。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ」るというのです(同15:42ー43)。私が申しあげたいことは命あるものの素晴らしさを感じられれば感じられるほど、復活の素晴らしさを知ることができるのだということ、命のはかなさを感じられれば感じられるほど、復活の栄光と永遠を知ることができるのだということです。

 前置きが長くなりましたが、初穂として、死人の中からよみがえられたイエス・キリストが弟子たちに現れてた記事を見てみましょう。金曜に十字架にかけられ、息を引き取られ、墓に納められました。次の日が土曜安息日で何も出来ないので、駆け足でなされたわけです。遺体に香油を塗るなど出来ていないことがあるので、安息日あけの日曜日に、二人のマリヤとサロメが墓に行きました。墓は横穴、大きな石でふさいでおくのですが、その石が転がっていて、中は空。墓の中には真っ白な長い衣をまとった青年が座っていて、彼女たちに告げます。ナザレ人イエスはよみがえられました。弟子たちとペテロにこう言いなさい。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」。女性たちは震え上がり、気は転倒し、怖くなり、逃げてしまいました。
 復活というのはこの地上ではあり得ないことです。女性たちの驚き様は推して知るべしです。
 次にマグダラのマリヤに復活されたイエス・キリストが現れます。マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせました。「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。」とマルコは事実のありのままを記しています(16:11)。復活というのは話を聞いただけでは信じられないのですね。
 次に、その中のふたりの弟子がいなかのほうに歩いているところに、イエス・キリストがご自分を現され、残っている人たちに報告するのですが、「彼らはふたりの話を信じなかった。」とまたまた記されています(16:13)。
 後になって、裏切ったユダをのぞく十一人の弟子たちが食卓に着いているところにイエス・キリストが現れました。聖書は忠実に記しています。「彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである」(16:14)。弟子たちは復活が前代未聞の想像を超えた出来事だったので、話を聞いただけでは信じられなかったのです。復活されたイエス・キリストに出会い、ご人格にふれた時に受け入れることが出来たのです。

 神の子が十字架のあの悲惨な出来事をなせれたことは、信じがたいことです。しかし、私たちの罪を贖うための神の愛の業でした。そして、その方が死人の中より復活された栄光の出来事をなせれたことは、信じがたいことです。しかし、私たちに主と同じ栄光のからだによみがえらすための神の力の業でした。決して、架空の話ではありません。「事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」のです。そして、この信じがたい、イエス・キリストの十字架と復活が私の救いのためなのだと信じさせてくれるのが聖霊です。それが「福音」なのです。
 オオカバマダラというチョウの生態は自然の神秘、神の創造の神秘です。しかし、イエス・キリストの十字架と復活は超自然の奥義、神の救済の奥義なのです。私たちはもっと自然の懐の中に生き、もっともっと神の懐の中に生きましょう。復活の希望があれば、失敗があっても、思うようにいかないことがあっても、試練が続く事があっても、理不尽なことがあっても、それを乗り越えていけるのです。復活があるから、人を赦したり、受け入れたり、良き倫理が生まれて来るのです。
 だからこそ、イエス・キリストは最後に大宣教命令を出されたのです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます…」(16:15-16 )。弟子たちはそれを実践しましたし、私たちも実践するのです。


 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。 マルコ福音書16:6