オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

世界で最も豊かな大統領

2016-04-24 16:30:21 | 礼拝説教
2016年4月24日 主日礼拝(ルカ6:20~26)岡田邦夫

 「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」ルカ福音書6:20

 ウルグアイの元大統領だったホセ・ムヒカ氏が来日された。現在80歳で、郊外のとても質素な農場に妻と住み、菊を栽培をしています。彼のスピーチは「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」という絵本人にもなっています。世界でいちばん貧しい大統領というのは出版社の意図。彼はこう言います。「わたしは、自分を貧しいとは思っていない。いまあるもので満足しているだけなんだ」。「貧しい人というのは、ものをもっていない人のことではない。真に貧しい人というのは、際限なくものを欲しがり永遠に満たされない人のことである…(略)本当に貧しい人は、贅沢な暮らしを保つためにだけに、働く人であり、そして常に何でも欲しがる。もっと! もっと!と」。
そのような考えはかつての賢者たち、宗教家たちによって言われてきたことです。富み過ぎても、貧し過ぎても、良くなさそうだ、そこそこ普通の暮らしがいいというのが庶民感覚でしょう。

◇富んでいるのに貧しい
 どういう生き方が幸いかをイエスが教えられたのですが、マタイ福音書の方は山の上でされたので、山上の説教、ルカ福音者の方は平らな所でされたので、地上の説教と言われています。場所はともかく、中身は同じです。口を開いて出てきた最初の言葉がこれです(ルカ6:20-21)。
  貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
  いま飢えている者は幸いです。
  あなたがたは、やがて飽くことができますから。
  いま泣いている者は幸いです。
  あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
 榎本保郎牧師がアメリカの日系人教会の聖会に招かれた時に、一人の日系のクリスチャンの家に招待されました。するとびっくり、贅沢な高級家具がずらりと並んでいるのです。そこで、その人はこう話しました。私は大富豪の家の執事を長年しています。お金が有り余るほどありますから、交遊、交際も広く、しょっちゅう多くの方が来られたり、パーティをしたりして、賑やかです。家具なんかも年に一度とか、全部買い変えるのです。その時、主人は私に好きなのをただで持って帰れというので、我が家は一つずつ増えて、こんなになったんです。でもね、榎本先生、金持ちは寂しいですよ。そんなに大勢、人が来てても、お金でつながっているので、みな帰った夜の主人はものすごく寂しそうですよ。お金で幸せは買えないのですな…。
 主は単刀直入にこう言います(9:25,12:15)。「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産(持ち物)にあるのではないからです」。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身(の命)を失い、損じたら、何の得がありましょう」。イエス・キリストの伝えたいことは、神の国のことです。見えるところの金や富に支配されたり、縛られているけれど、それから解放されて、見えない恵みと愛の支配するところの神の国を求めて、信じてそれを得なさいと言っているのです。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(12:31-32)。

◇貧しいのに富んでいる
 大事なのは命の豊かさです(12:27-28)。「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう」。このゆりの花というのは野に咲く小さな花(アネモネのような)のことです。金銀財宝で飾り立てた大富豪ソロモンより、小さな野の花の方が輝きを極めさせているのだというのです。私は何年か前の春の日に、草刈りを終えたあぜ道で小さな薄紫色の花を発見し、あまりにも可憐なので、いくつか庭に植えました。ニワゼキショウという花です。毎春楽しみにしています。命の輝きが心を豊かにします。
 このたび、熊本の地震で、多くの被害が出て、心痛みます。ニュースの中で、被災し、ある避難所にいる方たちが食べ物がないというので、自分の家から、ある食材をもってきて、持ち寄り、料理してみんなで分けて食べていたというのがありました。命というのは、つながりであり、絆であり、分かち合うことだ、物は乏しいけれど、心は豊かであるなあと私は思わされました。※私たちはできる支援があればしたいものです。
 人をいたわるとか、思いやるとか、親切心とか、人のためになろうとかいう心は豊かさだと、みなさん思うでしょう。それはきっと神の賜物ではないかと思います。日常の中で、普段の生活の中で、素直にそうしていければと思います。しかし、それに反して、貪欲な思いというのがあるので、イエスはそれを警戒せよと言わています。また、イエス・キリストはユダヤの祭司長、律法学者、パリサイ人らの貪欲な人々によって、十字架にかけられ、殺されたのだといっても過言ではありません。彼らだけではない、この私たちの貪欲に代表される罪がそうさせたのです。しかし、イエスはそれを受けて立ちました。十字架上の苦しみの中で「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるからです」ととりなしの祈りをなさったのです。その赦しをいただいてこそ、心豊かに、神の国に生きられるのです。
 コルベ神父の話は有名です。日本にも宣教に来られた方ですが、後の大戦中にアウシュビッツ収容所に収容されました。一人の逃亡者が出たということで、見せしめに同じ班の中から、ランダムに10人選び出されました。すると一人の男が「私には妻も、子もある」と叫びました。コルベ神父は選ばれていなかったのですが、私は神父で独身ですから、この人の代わりになりますと申し出ます。その通りになってその男は助かりました。10人は餓死室に入れられ、コルベ師は一人一人の最期を看取り、生き残りましたので、毒殺されました。曽野綾子さんがその取材をしました。助かった男はガイロビッチという人、しかし周囲の人の話では幸せな人生ではなさそうなので、カトリック信者の彼女はショックでした。ホテルに帰って落ち込んでいた時に、はっと気付いたといいます。「コルベ神父はこの人のために死んだのではない、イエス・キリストのために命をささげたのだ」。納得し、この書のタイトルを「奇跡」としたというのです。これも榎本保郎師の説教で聞いた忘れられない話でした。
 イエス・キリストはご自分が語られたように生き、道を示されたのです。コルベ師はその足跡をたどったのです。そのたどるのが軌跡であり、奇跡なのだと思います。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(2コリント8:9)。
 得て満足でなく、与えて満足、自分のためでなく、人のためにという貧しくなる生き方こそ豊かな人生。それは貪欲という壁がふさがるのですから、なんぎです。それを打ち破っていくのですから、信仰がいります。それにはコルベ師のように大きな事でなくとも、日常において主のために献げていきようとすることが大事です。大事、大きな事、奇跡です。そうして神の国はあなたのものとなっていくのです。
  貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
  いま飢えている者は幸いです。
  あなたがたは、やがて飽くことができますから。
  いま泣いている者は幸いです。
  あなたがたは、いまに笑うようになりますから。

ぐるりと回るだけでエリコはおちる

2016-04-20 00:44:02 | 礼拝説教
2016年4月17日 主日礼拝(ヨシュア6:1~7)岡田邦夫

 「すると、主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。』そこで、ヨシュアはそのようにした。」ヨシュア5:15

 ある牧師が新会堂のために土地が必要で、町を歩いていると目ぼしい更地があったので、毎日、そこに来ては、この土地を与えてくださいと祈りなら、一周していたそうです。すると祈りは聞かれ、その地に教会堂が建ったそうです。嘘のようなほんとの話です。

◇これでいいのだ
 足の裏の踏むところ、自分たちのものになるとお約束をいただき、エリコは偵察もしてあり、荒野の40年の旅で生まれた男子、神との契約のしるしとしての割礼を受けていなかったので、受けさせました。準備は整いました。いよいよ、踏み出せばいいのですが、どういう戦略で行くのか、指導者ヨシュアには心配だったかもしれません。ヨシュアが目を上げて見ると、み使いであろうひとりの人が抜き身の剣を手に持って、立っておりました。ヨシュアが顔を地につけて伏し拝みますと、力強いみ告げがなされたのです。
 「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」(5:13-15)。ヨシュアはそのようにして聖別されます。さらに「見よ。たしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」という主の御声を聞きます。ここで、不思議な戦略が授けられたのです(6:2-5)。その戦略を民に告げ、その通り、実行します。足の裏で踏むのです。
  翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った」(6:13-6:15a)。何もしゃべってはいけない、無言の儀式です。
 その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。」と民に告げると、「民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した」(6:20-21)。ただ、斥候を助けたラハブと家族は助け、金銀財宝は主の宝物蔵に収めました。
人為的に壊したわけではない。ときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちたのです。そんなことがあるのでしょうか。奇跡としか言いようがありません。すなおに受け止めれば、実に痛快な出来事です。神に告げられたとおりに進みゆけば、その通り、神が与えてくださるということです。新聖歌486にある信仰の前進でいきたいものです。
  2.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
  神様の 御教みおしえを 守り行い
  右にも曲がらず 左にもそれず
  ただ真っ直ぐ 進むのだ 進むのだ

◇これでいいのか
 ある人は「聖絶する」=原文では滅ぼしつくす、現代の感覚からいえば抵抗があると言うでしょう。歴史の上ではかつては戦争はあたりまえでした。平和主義者のあらわれるのは近代になってからであり、1899年でようやっと万国平和会議がオランダのハーグで開かれるのでした。しかし、それをくつがえすように第二次世界大戦の悲惨な歴史と進んでいったのです。その後、戦火が収まったわけではありません。実に人間というのは手が付けられない罪の中にいるのです。小手先では変えられそうにもありませんし、その罪性から変わっていかなければならないのです。真のキリスト教信仰が求められていると思います。
 ところで、この時代、この地域で弱小の民が生き延びるために、滅ぼしつくすということをしなければならなかったと思います。例えば、平家物語、源氏に勝ったとはいえ、徹底した粛清をせず、頼朝、義経を生かしておいたがために、後になって、彼らに滅ぼされることになったということは私たちの知るところです。イスラエルにとって、それが何であれ、少しでも、残しておけば、それが偶像信仰に陥り、結果、神から離れ、消滅していくというのは目に見えたことでした。ある、聖書学者は旧約の歴史は偶像への挑戦だと述べています。その意味で新改訳聖書の訳者は滅ぼしつくすを「聖絶する」という宗教用語に翻訳したわけです。
 もちろん、これは旧約のこと、新約では真に戦う相手はサタンであり、真にあるべき姿は隣人を愛し、敵をも愛せよと教えています。このエリコ陥落の「出来事」は霊的な戦いの「物語」として読むのです。

◇これでいいのだ
 外なるエリコに対して、内なるエリコがあります。心の中に、神が御支配なさるのをこばんでいる領域はありませんか。あるいは、掟に支配され、恵みに支配されていない領域はありませんか。そのところをぐるぐる回って、み言葉のラッパと信仰のときの声をあげようではありませんか。それにふさわしいお話があります。
 フィリピンの教会にいるあるおばあさんは、夢の中で時々イエスさまに会ってお話をするんだ そうです。今日も教会の人たちに「わたしゃ、またイエスさまにお会いしましてなぁ」なんて話しています。ところで、この教会の牧師は、あまりその手の話を信じられないタイプの人でした。そこで、 ちょっと試してやろうと思い、おばあさんにこう言いました。「なあ、おばあちゃん。今度イエスさまに会ったら、聞いて欲しいことがあるんだが。
それは 私が神学生の頃に犯した罪についてなんだ。それがどんな罪だったか尋ねてもらいたい」。もし、おばあさんが牧師の罪を言い当てられなければ、夢を見たなんて嘘っぱちでしょう。牧 師は公然とおばあさんを「指導」することができます。でも、そんな牧師の思惑など知らぬ風で、おばあさんは快く承諾しました。
 次の週、おばあさんが礼拝にやってきました。そして、いつものようににこにこしながらこう 言うのです。「先生、昨日の夜、イエスさまにお会いしましたワ」。「それで、例の件、尋ねてくれたかね?」。信じちゃいませんでしたが、それでも牧師の心臓はドキドキと高鳴りました。もし、万が一、 言い当てられたら……。おばあさんは、にこにこしながら答えました。
 「はいはい、もちろんですとも。イエスさまに『なんでも、うちの牧師が神学生の頃に罪を犯したらしいんですが、それはいったいどんな罪だったんでしょうか?』とお尋ねしましたら、イエスさま、『そんなこともあったかなぁ。私は 忘れてしまったよ』とおっしゃいましたワ」。
 すると、牧師は突然ぽろぽろと涙を流し始めました。「ああ、主よ。私は今の今まで、あなたの赦しを疑って参りました!」実 はこの牧師、神学生の頃に犯した罪のことが、ずっと心に引っかかって、密かに苦しんでいたのです。しかし、牧師は知りました。神さまの赦しが完全であることを。罪のリストに赤線を引っ張るような赦し方ではなく(それなら、いつでも読み直すことができます)、罪の記録帳そのものを焼却処分に し、完全に忘れて しまうのが、神さまの赦しだということを。
 その日から、この牧師のメッセージはすっかり変わりました。
社会の矛盾や人々の罪を指摘し て責める代わりに、それらの罪を命がけで赦して下さったイエスさまの愛を強調するメッセージに。
(福島中通りコミュニティチャーチの増田 牧師・ショートエッセイから)
 あなたの内にあるエリコが陥落して、イエス・キリストの福音で占領されますように…。

濡れない川渡り

2016-04-10 19:03:36 | 礼拝説教
2016年4月10日 主日礼拝(ヨシュア3:5~6、14~17)岡田邦夫

 「あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。」ヨシュア4:23

 ある重大な決断・行動をすることのたとえを「ルビコン川を渡る」という言い回しがあります。ルビコン川とは、古代ローマ時代、ガリアとイタリアとの境をなした川で、ルビコン川より内側には軍隊をつれてはいってはいけないとされていました。違反すれば反逆者として処罰されるのですが、ユリウス・カエサルは大軍を引き連れてこの川を渡り、ローマへ向かったのです。カエサルは「賽(さい)は投げられた」と叫び、元老院令を無視して川を渡ったという故事に基づくものです。このことから、もう後戻りはできないという覚悟のもと、重大な決断や行動を起こすことを言います。しかし、今日の話はルビコン川ではなく、ヨルダン川、カエサルではなくヨシュアです。

◇判断→決断→断行
 ヨシュアは神から「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」と約束に基づく前進命令が出ました(1:3)。それで、まずしたことはこれから乗り込もうとするエリコの偵察です(2:1)。二人の斥候(スパイ)が遣わされて、町に潜入します。それがエリコの王に知られてしまい、捕まりそうになるのですが、遊女ラハブが機転をきかし二人を隠します。彼女が斥候を助けた理由を言います。それは一つの信仰告白です。イスラエルの民が出エジプト、紅海(葦の海)渡渉、エモリ征服をしたのは恐れおおい、天地の神がなしたことだと(2:10-11)。侵攻してくる時は自分たち家族全員を助けてほしいと訴えます。斥候は窓に赤いひもを結んでおけば、助けると約束し、無事、帰途につきます(約束は後日、果たされます)。斥候は報告します。「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています」(2:24)。信仰的判断です。

 ヨシュアはヨルダン川を渡る決断をします。信仰による決断です。まず、趣旨を民に伝えます。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」(3:5)。川は岸いっぱいにあふれているのですが、ヨシュアは神の言葉を民に告げます(3:9)。「足の裏で踏む」という不思議な川渡りの方法です(3:3-13)。その言葉通りに信仰によって断行します。3:14-17を読みましょう。「民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足(の裏)が水ぎわに浸ったとき、上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった」。ほんとうに不思議な出来事、御業です。神の言葉は信仰によって現実になっていくのです。

◇乾床(かんしょう)→渡渉(としょう)→伝承(でんしょう)
 先導したのは契約の箱であり、それを担ぐ祭司でした(3:14)。そして、川の真ん中に留まり、神の民が渡り終えてから、しんがりとなって川から上がると、水はもとに返り、岸いっぱいになったのです(4:18)。契約の箱は主なる神の臨在の象徴です。ですから、信仰によって判断し、決断し、断行したには違いないのですが、実は、主が神の民の先立ちとなり、主がしんがりとなり、導かれたということを忘れてはなりません。主が臨在すればこそ、乾いた川床を渡れたのです。水におぼれることはなかったのです。その不思議な渡渉を体験できたのです。
 ヨルダン川を渡る時、もう一つのグループがいました。イスラエルの各部族の代表12人です。川の真ん中で契約の箱を担ぐ祭司たちが立っていた足の下の石を取りあげ、背負って宿営地まで運び、据えました。「それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」(4:6-7)。「ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。…それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである」(4:23-24)。記念というのは信仰の伝承のためでした。

 私たちにとって、ヨルダン川とは何でしょう。
 困難とか、試練とか、課題とか、目の前に立ちはだかるものにあてはめられるでしょう。み言葉の約束をいただいて、神の導きと判断し、決断し、断行して、神の御業を体験し、証ししていくことでしょう。
○新聖歌340番の2節が心に浮かび、私は替え歌にしました。
  坂道に強き 御手を差し伸べ
  試みの時は 恵みを賜う
  弱きわが魂(たま)の 渇く折しも
  目の前の岩は裂けて水沸く 目の前の岩は裂けて水沸く
    荒れ道に強き 御手を差し伸べ
    試みの時は 助けを賜う
 弱きわが魂の なえし時にも
 目の前の川はせき止められて 目の前の川を乾いて渡る
○新聖歌282の2節は元気がでます。
  見ゆるところは いかなるも
  われ早(は)や得たりと 信じつつ
  疑うことなく 歩みなば
  必ずそのごとくならん
  歩めよ信仰により 歩め歩め疑わで
  歩めよ信仰により 見ゆるところにはよらで
○新聖歌309の3節と新聖歌474の4節は死の川の先にある天国に行けるという確信を歌っています。
  逆巻くヨルダンも いと安らかに
  向こうの岸辺に たどり着く時
  たたえの歌をば 声高く上げん 声高く上げん
    誰もたどり着く 大川(おおかわ)も平気です
    主がついておれば わけなく越えましょう
    優しい主の手に 全てを任せて
    旅ができるとは 何たる恵みでしょう
 私のことですが、聖霊による聖別の経験をした時のみ言葉が「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」でした(ヨハネ17:16)。罪深く、どっぷりこの世のものなのに、御子の血によってきよめていただき、きよき御国のものとされているのだと確信させられました。言い換えれば、やがて現れる御国の恵みを先取りし、垣間見れたということです。向こう側にある御国の世界の前に立ちはだかっている不信仰というヨルダン川を、み言葉により、聖霊により渡っていけるのが、「聖化経験」だと思います。それは不思議な体験であり、喜びが伴います。そのような歌が、新聖歌268「御国の心地す」ではないかと思います。
  悲しみ尽きざる 浮世(うきよ)にありても
  日々主と歩めば 御国の心地(ここち)す
  ハレルヤ!罪・咎 消されしわが身は
  いずくにありても 御国の心地す

足の裏で踏む所

2016-04-04 11:29:11 | 礼拝説教
2016年4月3日 主日礼拝(ヨシュア記1:1~9)岡田邦夫

 「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア記1:3

 牧師で足の裏のつぼに凝っている人がいて、私も棒状のものでぎゅうぎゅうと指圧されたことがありました。その痛いつぼで内臓の弱いところがわかる言うのです。ものすごく痛いものでした。
 「足の裏」はヨシュア記をひもとく“つぼ”なのです。「わたしが…与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所は…約束したとおり、あなたがたに与えている」(1:2-3)。神のみ旨がモーセに示され、それを実践するようにとヨシュアに示されたのです。足の裏で踏むという信仰の実践です。「強くあれ、雄々しくあれ」とあるように、たいへん、励まされる書です。

◇とならない
 ここで「人にはどれほどの土地がいるか」という、ロシアの民話を土台に書いたトルストイの一篇のお話しに触れてみたいともいます。
 ロシアにパホームという小作人がいた。自分の土地を持ちたいと願っていたところ、遠い田舎のバシキールに行くと土地は欲しいだけ安く簡単に手に入るという話を聞いた。一日分千ルーブルだと。一日分というは日の出とともに出発して夕日の沈むまでに出発点まで戻ってきて歩いて囲った土地の範囲の分ということだ。一つだけ条件は夕日が沈むまでに帰って来れなかったら土地は得られないということだ。彼は広い土地を得ようと目一杯歩いた。気が付けば夕日が沈みそう。喘ぎ喘ぎ死に物狂いで走った。出発点に倒れこんだ。村長が「やあ、えらい、よくやった、土地をしっかりとりなさったよ」と称賛したが、彼は息絶えていた。彼は葬られた。その土地はごくわずかだった。
 これはヨシュア記とは対照的に見える次のようなメッセージが込められています。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを、買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:26)。パホームは物欲との戦いに負けたのです。ヨシュア記にはそんな人の話も出てきます。大切なのはご利益的な成功物語ではなく、霊的な戦いのことです。この書から学ぶのはモーセに約束された神の言葉を信じる、信仰の勝利物語なのです。

◇となる
 モーセに約束されていました。「もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、…あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる」(申命記11:22,24)。
 後継者ヨシュアには多大な励ましがあるのです。
 「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(1:5)。3度も「強くあれ。雄々しくあれ。」の声掛けがあります(1:6,7,9)。何よりも心強いのは「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」です(1:9)。
 ヨルダン川の東側はすでに獲得しおり、ルベン、ガドの2部族とマナセの半部族に割り当てるので、ヨルダン川の西側を攻め入る時には、先頭に立って戦えと命じます。人の側も全部族が「共に」戦うというのです。信仰の戦いは共同戦線なのです。私たちは空中の権をとるサタンとの戦いを兄弟姉妹とともに祈り闘うのです(エペソ6:12)。
 私は壬生川教会にいた時に、「あなたがたの新田を耕せ」のみ言葉をいただき、開拓伝道に進むようにと強く示されました。転任願をだして、遣わされたのが、豊中泉教会でした。開拓教会ではなかったのですが、宝塚に教会が欲しいとの、祈りの込められた願いを聞いたので、開拓はこのことだ、これが神のみこころと信じて、勇気をもって足の裏で踏みだしました。続いて、箕面、三田と新田を耕させていただいています。原点となるこのみ言葉にたって、足の裏で踏み進んでいき、み言葉のようになっていくことを願ってやみません。
 「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」(ホセヤ10:12口語訳)。
 私たちにとって、取るべき地とは何でしょう。仕事の領域でしょうか、知識の領域でしょうか、居住の領域でしょうか、交友の領域でしょうか、信仰の領域でしょうか、聖化の領域でしょうか、恩寵の領域でしょうか、奉仕の領域でしょうか、御国の領域でしょうか、…祈り深くある時、み言葉をもって主が示しなさるでしょう。示されたら、強く、雄々しく、主が共におられると信頼し、足の裏で踏みだして参りましょう。お言葉通りになっていくことを信仰生涯の中でできるだけ多く見届けて参りましょう。
 和歌山恵み教会の年配の信徒を晴美師が見舞うというので私はお供しました。病室でその方が歌いだしました。新聖歌486です。
  1.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
  神様は どこにでも ともにおられる
  われらを倒して 負かすものはない
  雄々しくあれ 強くあれ 強くあれ
 お年をとっても少年のように歌う姿に感心しました。続く節も見てみましょう。ヨシュア記の信仰、そのものです。
  2.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
  神様の 御教みおしえを 守り行い
  右にも曲がらず 左にもそれず
  ただ真っ直ぐ 進むのだ 進むのだ
  3.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
  神様の 誓われた 約束の地は
  正しい信仰だ 清い行いだ
  ゆけこれらを とるまでは とるまでは

 最後に申し上げたい。神の子らには天の相続が約束されています。ローマ8:17、ガラテヤ3:29、4:1、ヤコブ2:5に明記されています。この世においては、聖霊によって、その領域を足の裏で先取りさせていただけるのです。主イエスは言われました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ11:12)。生きている限り、できる限り、天国の領域を足の裏で先取りさせてもらいましょう。
 「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア記1:3