2016年4月24日 主日礼拝(ルカ6:20~26)岡田邦夫
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」ルカ福音書6:20
ウルグアイの元大統領だったホセ・ムヒカ氏が来日された。現在80歳で、郊外のとても質素な農場に妻と住み、菊を栽培をしています。彼のスピーチは「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」という絵本人にもなっています。世界でいちばん貧しい大統領というのは出版社の意図。彼はこう言います。「わたしは、自分を貧しいとは思っていない。いまあるもので満足しているだけなんだ」。「貧しい人というのは、ものをもっていない人のことではない。真に貧しい人というのは、際限なくものを欲しがり永遠に満たされない人のことである…(略)本当に貧しい人は、贅沢な暮らしを保つためにだけに、働く人であり、そして常に何でも欲しがる。もっと! もっと!と」。
そのような考えはかつての賢者たち、宗教家たちによって言われてきたことです。富み過ぎても、貧し過ぎても、良くなさそうだ、そこそこ普通の暮らしがいいというのが庶民感覚でしょう。
◇富んでいるのに貧しい
どういう生き方が幸いかをイエスが教えられたのですが、マタイ福音書の方は山の上でされたので、山上の説教、ルカ福音者の方は平らな所でされたので、地上の説教と言われています。場所はともかく、中身は同じです。口を開いて出てきた最初の言葉がこれです(ルカ6:20-21)。
貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
いま飢えている者は幸いです。
あなたがたは、やがて飽くことができますから。
いま泣いている者は幸いです。
あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
榎本保郎牧師がアメリカの日系人教会の聖会に招かれた時に、一人の日系のクリスチャンの家に招待されました。するとびっくり、贅沢な高級家具がずらりと並んでいるのです。そこで、その人はこう話しました。私は大富豪の家の執事を長年しています。お金が有り余るほどありますから、交遊、交際も広く、しょっちゅう多くの方が来られたり、パーティをしたりして、賑やかです。家具なんかも年に一度とか、全部買い変えるのです。その時、主人は私に好きなのをただで持って帰れというので、我が家は一つずつ増えて、こんなになったんです。でもね、榎本先生、金持ちは寂しいですよ。そんなに大勢、人が来てても、お金でつながっているので、みな帰った夜の主人はものすごく寂しそうですよ。お金で幸せは買えないのですな…。
主は単刀直入にこう言います(9:25,12:15)。「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産(持ち物)にあるのではないからです」。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身(の命)を失い、損じたら、何の得がありましょう」。イエス・キリストの伝えたいことは、神の国のことです。見えるところの金や富に支配されたり、縛られているけれど、それから解放されて、見えない恵みと愛の支配するところの神の国を求めて、信じてそれを得なさいと言っているのです。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(12:31-32)。
◇貧しいのに富んでいる
大事なのは命の豊かさです(12:27-28)。「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう」。このゆりの花というのは野に咲く小さな花(アネモネのような)のことです。金銀財宝で飾り立てた大富豪ソロモンより、小さな野の花の方が輝きを極めさせているのだというのです。私は何年か前の春の日に、草刈りを終えたあぜ道で小さな薄紫色の花を発見し、あまりにも可憐なので、いくつか庭に植えました。ニワゼキショウという花です。毎春楽しみにしています。命の輝きが心を豊かにします。
このたび、熊本の地震で、多くの被害が出て、心痛みます。ニュースの中で、被災し、ある避難所にいる方たちが食べ物がないというので、自分の家から、ある食材をもってきて、持ち寄り、料理してみんなで分けて食べていたというのがありました。命というのは、つながりであり、絆であり、分かち合うことだ、物は乏しいけれど、心は豊かであるなあと私は思わされました。※私たちはできる支援があればしたいものです。
人をいたわるとか、思いやるとか、親切心とか、人のためになろうとかいう心は豊かさだと、みなさん思うでしょう。それはきっと神の賜物ではないかと思います。日常の中で、普段の生活の中で、素直にそうしていければと思います。しかし、それに反して、貪欲な思いというのがあるので、イエスはそれを警戒せよと言わています。また、イエス・キリストはユダヤの祭司長、律法学者、パリサイ人らの貪欲な人々によって、十字架にかけられ、殺されたのだといっても過言ではありません。彼らだけではない、この私たちの貪欲に代表される罪がそうさせたのです。しかし、イエスはそれを受けて立ちました。十字架上の苦しみの中で「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるからです」ととりなしの祈りをなさったのです。その赦しをいただいてこそ、心豊かに、神の国に生きられるのです。
コルベ神父の話は有名です。日本にも宣教に来られた方ですが、後の大戦中にアウシュビッツ収容所に収容されました。一人の逃亡者が出たということで、見せしめに同じ班の中から、ランダムに10人選び出されました。すると一人の男が「私には妻も、子もある」と叫びました。コルベ神父は選ばれていなかったのですが、私は神父で独身ですから、この人の代わりになりますと申し出ます。その通りになってその男は助かりました。10人は餓死室に入れられ、コルベ師は一人一人の最期を看取り、生き残りましたので、毒殺されました。曽野綾子さんがその取材をしました。助かった男はガイロビッチという人、しかし周囲の人の話では幸せな人生ではなさそうなので、カトリック信者の彼女はショックでした。ホテルに帰って落ち込んでいた時に、はっと気付いたといいます。「コルベ神父はこの人のために死んだのではない、イエス・キリストのために命をささげたのだ」。納得し、この書のタイトルを「奇跡」としたというのです。これも榎本保郎師の説教で聞いた忘れられない話でした。
イエス・キリストはご自分が語られたように生き、道を示されたのです。コルベ師はその足跡をたどったのです。そのたどるのが軌跡であり、奇跡なのだと思います。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(2コリント8:9)。
得て満足でなく、与えて満足、自分のためでなく、人のためにという貧しくなる生き方こそ豊かな人生。それは貪欲という壁がふさがるのですから、なんぎです。それを打ち破っていくのですから、信仰がいります。それにはコルベ師のように大きな事でなくとも、日常において主のために献げていきようとすることが大事です。大事、大きな事、奇跡です。そうして神の国はあなたのものとなっていくのです。
貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
いま飢えている者は幸いです。
あなたがたは、やがて飽くことができますから。
いま泣いている者は幸いです。
あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」ルカ福音書6:20
ウルグアイの元大統領だったホセ・ムヒカ氏が来日された。現在80歳で、郊外のとても質素な農場に妻と住み、菊を栽培をしています。彼のスピーチは「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」という絵本人にもなっています。世界でいちばん貧しい大統領というのは出版社の意図。彼はこう言います。「わたしは、自分を貧しいとは思っていない。いまあるもので満足しているだけなんだ」。「貧しい人というのは、ものをもっていない人のことではない。真に貧しい人というのは、際限なくものを欲しがり永遠に満たされない人のことである…(略)本当に貧しい人は、贅沢な暮らしを保つためにだけに、働く人であり、そして常に何でも欲しがる。もっと! もっと!と」。
そのような考えはかつての賢者たち、宗教家たちによって言われてきたことです。富み過ぎても、貧し過ぎても、良くなさそうだ、そこそこ普通の暮らしがいいというのが庶民感覚でしょう。
◇富んでいるのに貧しい
どういう生き方が幸いかをイエスが教えられたのですが、マタイ福音書の方は山の上でされたので、山上の説教、ルカ福音者の方は平らな所でされたので、地上の説教と言われています。場所はともかく、中身は同じです。口を開いて出てきた最初の言葉がこれです(ルカ6:20-21)。
貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
いま飢えている者は幸いです。
あなたがたは、やがて飽くことができますから。
いま泣いている者は幸いです。
あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
榎本保郎牧師がアメリカの日系人教会の聖会に招かれた時に、一人の日系のクリスチャンの家に招待されました。するとびっくり、贅沢な高級家具がずらりと並んでいるのです。そこで、その人はこう話しました。私は大富豪の家の執事を長年しています。お金が有り余るほどありますから、交遊、交際も広く、しょっちゅう多くの方が来られたり、パーティをしたりして、賑やかです。家具なんかも年に一度とか、全部買い変えるのです。その時、主人は私に好きなのをただで持って帰れというので、我が家は一つずつ増えて、こんなになったんです。でもね、榎本先生、金持ちは寂しいですよ。そんなに大勢、人が来てても、お金でつながっているので、みな帰った夜の主人はものすごく寂しそうですよ。お金で幸せは買えないのですな…。
主は単刀直入にこう言います(9:25,12:15)。「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産(持ち物)にあるのではないからです」。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身(の命)を失い、損じたら、何の得がありましょう」。イエス・キリストの伝えたいことは、神の国のことです。見えるところの金や富に支配されたり、縛られているけれど、それから解放されて、見えない恵みと愛の支配するところの神の国を求めて、信じてそれを得なさいと言っているのです。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(12:31-32)。
◇貧しいのに富んでいる
大事なのは命の豊かさです(12:27-28)。「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう」。このゆりの花というのは野に咲く小さな花(アネモネのような)のことです。金銀財宝で飾り立てた大富豪ソロモンより、小さな野の花の方が輝きを極めさせているのだというのです。私は何年か前の春の日に、草刈りを終えたあぜ道で小さな薄紫色の花を発見し、あまりにも可憐なので、いくつか庭に植えました。ニワゼキショウという花です。毎春楽しみにしています。命の輝きが心を豊かにします。
このたび、熊本の地震で、多くの被害が出て、心痛みます。ニュースの中で、被災し、ある避難所にいる方たちが食べ物がないというので、自分の家から、ある食材をもってきて、持ち寄り、料理してみんなで分けて食べていたというのがありました。命というのは、つながりであり、絆であり、分かち合うことだ、物は乏しいけれど、心は豊かであるなあと私は思わされました。※私たちはできる支援があればしたいものです。
人をいたわるとか、思いやるとか、親切心とか、人のためになろうとかいう心は豊かさだと、みなさん思うでしょう。それはきっと神の賜物ではないかと思います。日常の中で、普段の生活の中で、素直にそうしていければと思います。しかし、それに反して、貪欲な思いというのがあるので、イエスはそれを警戒せよと言わています。また、イエス・キリストはユダヤの祭司長、律法学者、パリサイ人らの貪欲な人々によって、十字架にかけられ、殺されたのだといっても過言ではありません。彼らだけではない、この私たちの貪欲に代表される罪がそうさせたのです。しかし、イエスはそれを受けて立ちました。十字架上の苦しみの中で「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるからです」ととりなしの祈りをなさったのです。その赦しをいただいてこそ、心豊かに、神の国に生きられるのです。
コルベ神父の話は有名です。日本にも宣教に来られた方ですが、後の大戦中にアウシュビッツ収容所に収容されました。一人の逃亡者が出たということで、見せしめに同じ班の中から、ランダムに10人選び出されました。すると一人の男が「私には妻も、子もある」と叫びました。コルベ神父は選ばれていなかったのですが、私は神父で独身ですから、この人の代わりになりますと申し出ます。その通りになってその男は助かりました。10人は餓死室に入れられ、コルベ師は一人一人の最期を看取り、生き残りましたので、毒殺されました。曽野綾子さんがその取材をしました。助かった男はガイロビッチという人、しかし周囲の人の話では幸せな人生ではなさそうなので、カトリック信者の彼女はショックでした。ホテルに帰って落ち込んでいた時に、はっと気付いたといいます。「コルベ神父はこの人のために死んだのではない、イエス・キリストのために命をささげたのだ」。納得し、この書のタイトルを「奇跡」としたというのです。これも榎本保郎師の説教で聞いた忘れられない話でした。
イエス・キリストはご自分が語られたように生き、道を示されたのです。コルベ師はその足跡をたどったのです。そのたどるのが軌跡であり、奇跡なのだと思います。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(2コリント8:9)。
得て満足でなく、与えて満足、自分のためでなく、人のためにという貧しくなる生き方こそ豊かな人生。それは貪欲という壁がふさがるのですから、なんぎです。それを打ち破っていくのですから、信仰がいります。それにはコルベ師のように大きな事でなくとも、日常において主のために献げていきようとすることが大事です。大事、大きな事、奇跡です。そうして神の国はあなたのものとなっていくのです。
貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
いま飢えている者は幸いです。
あなたがたは、やがて飽くことができますから。
いま泣いている者は幸いです。
あなたがたは、いまに笑うようになりますから。