オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

恵みによって救われる

2011-01-23 00:00:00 | 礼拝説教
2011年1月23日 伝道礼拝(使徒の働き15:11)岡田邦夫

 「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」使徒の働き15:11

 「アメイジング・グレイス」の曲がテレビでドラマやCMでよく耳にするようになりました。時には結婚披露宴で歌われることもあります。特に9.11テロ事件、世界貿易センタービル跡地グランド・ゼロで行われた追悼式で「アメイジング・グレイス」が歌われました。それはアメリカの公式な国歌以外で、国歌に匹敵する歌としてこの曲が歌われているからです。それで日本でもこの賛美歌が知られるようになったと思います。アメイジング・グレイス・ハゥ・スウィート・ザ・サウンド(驚くべき恵み!なんと心地よい響き)と始まります。アメイジング・グレイスのその内容はひと言で言うなら、この聖句の「私たちが主イエスの恵みによって救われたこと」だと私は思います。
 しかし、「恵み」というの言葉は様々に使われています。天候に恵まれて、自然に恵まれて、環境に恵まれて、健康に恵まれて、食べ物に恵まれて、家族に恵まれて、友だちに恵まれて、恋人に恵まれて、子宝に恵まれて、先生に恵まれて、家柄に恵まれて、才能に恵まれて、仕事に恵まれて、財政に恵まれて、運に恵まれて、チャンスに恵まれて、時代に恵まれて…。これらはすべて否定形にしても使われます。「天候に恵まれなくて、才能に恵まれなくて…」と。現状を前向きにとらえ、恵まれていると思うか、後ろ向きにとらえ、恵まれていないと思うかで生き方が別れてきます。私は一週間の断食祈祷後、最初に梅干しの湯と重湯を飲んだ時、つくづく思いました。地位も名誉も財産も何もいらない、人は一杯の糧の恵みさえあれば、それで十分だなあと。

◇この恵みが世界に開かれて
 エルサレムで会議がありました。キリスト教の伝道がユダヤの小国で始まったのですが、民族の壁を越えて、他民族にも受け入れられ、伝道が拡大していった時でした。この会議の結果で、キリスト教が歴史的に世界宗教になっていくという方向付けがなされていったと言っても過言ではありません。イエス・キリストのみこころであったことは言うまでもありませんが。まず、ユダヤからすれば異邦の地、アンテオケに教会ができますと、そこを拠点として、宣教師を派遣するという形で、地中海沿岸にキリスト教が広まっていきました。最初にパウロとバルナバが伝道旅行に派遣されると、行く先々で、驚くほど、多くの異邦人が喜んでイエス・キリストの福音を受け入れていったのです。伝道旅行から帰って、教会の人たちに「神が彼らとともにいて行われたすべてのことを、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」のです(14:27)。
 しかし、ユダヤからやってきた人たちが、パウロやバルナバの伝えていることは違うと言ってきたので、「救い」についての激しい論争がくり広げられました。そこで「異邦人の救い」の問題をエルサレムでの教会会議の場に持ちだしたのです。
 宗教には自力本願と他力本願とがあると言われています。言い換えれば、良い行いをして救われるのか、ただ信じるだけで救われるのかということです。人には良い行いをしてなければ救われないのではないか、ただ信じるだけで救われるというのはあまりも虫が良すぎるのではないか、という思いが意外と根強くあります。立派な人にならないと、あるいは、品行方正でないと洗礼は受けられないのではないかと思う人もいるでしょう。この会議でも、律法主義のパリサイ派の人で、クリスチャンになった人たちが「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と主張したのです。
 しかし、ペテロが反論します。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(15:7-11)。議論は進み、衆議一決。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」(15:28ー29新共同訳)。
 戒め(律法)を守って救われようとすれば、それは負いきれない重荷となりますが、イエス・キリストの恵み(福音)を信じるなら、差別なく、誰でも救われるのだということです。悔い改めて、神に立ち帰り、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるなら、そのすべての罪が赦され、神の子にされ、永遠の命が与えられるという、恵みの救いです。「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで」という恵みなのです(詩篇100:5)。ここにお集まりの皆さんがぜひ、この救いの恵みに与っていただきたいです。初めのほうで述べました、健康に恵まれて…というような言い方をすれば、信じた皆さんはだれもが「救いに恵まれて」とか、「永遠の命に恵まれて」と証詞が出来るのです。

◇この恵みによって心が開かれて
 星野富弘さんは鉄棒から転落し首を強打し、手足の自由を完全に失ったのですが、クリスチャンになり、口にくわえた筆で詩画をかくようになりました。私の好きな詩で、信仰によって心が解放されていく恵みがうたわれている詩があります(「愛、深き淵より」)。
  動ける人が 動かないでいるのには 忍耐が必要だ
  私のように動けない者が 動けないでいるのに 忍耐など必要だろうか
  そう気づいた時 私の体をギリギリに縛りつけていた
  「忍耐」という棘のはえた縄が “フッ”と解けたような気がした
 救いは縛りからの解放です。罪の縛りから、死の縛りからの解放、また、星野さんのような苦悩の縛りからの、イエス・キリストの恵みによるによる解放です。
 「そばにいてくれる人」というステキな話が「百万人の福音」付録“リトル・ブレッド”ほのぼのストーリーにありました。
 以前、大きな手術を受けた時のことです。手術の前日に、とても美人のナースが病室に入ってきて、突然ボクの手を取り、こう言いました。
 「私の手をしっかり握ってみてください。そして、この感じをよく憶(おぼ)えておいてくださいね」
 これには、ボクもちょっとドキドキしましたね。
 彼女は続けました。
 「じつは、明日の手術のあいだ、あなたの心臓の働きを、一時的に人工心肺が肩代わりすることになります。そして手術が終わって、心臓がもう一度、本来の機能を取り戻し、身体全体が完全に回復するまでには、しばらく時間がかかります。
 手術後、麻酔から覚めると、あなたは集中看護室にいます。でも、その時点からたっぷり六時間は、まったく身体の自由が利(き)かない状態が続きます。おそらく動いたり、しゃべったり、目を開けることさえできないはずです。それでも、意識ははっきりしているので、耳もよく聞こえるし、周囲で何が起こっているか、すべて分かるわけです。
 そのあいだじゅう、私があなたのそばに座って、こうしてあなたの手を握っていますからね。あなたの身体が回復するまで、ずっといっしょですからね。そのことを、今、よおく頭に入れておいてください。そんな状態になったら、ひどく孤独な気持ちになるか、パニックに陥りそうになるもしれません。でも、そんな時には、思い出してください。私の手がこうしてあなたの手を握っている感触を感じて、自分はひとりぼっちじゃないということを思い出して、安心してください」
 手術後、言われたとおりのことが起こりました。麻酔から覚めても、まぶた一つ動かせなかったのです。でもそのあいだじゅうずっと、ナースが私の手を握ってくれているのを感じていました。それが私にとって、どれほど大きなことだったか。
 信仰生活の中でも、たとえ何が起ころうと、自分の感情や感覚がどう変わろうとも、「わたしはあなたとともにいる」と約束してくださるイエスのことばを忘れないように、今、自分の心にしっかり刻みつけておきたい、そう思うのです。

 最高の恵みは私を愛し、私の罪のために十字架にかかり死んでよみがえり、救ってくださったイエス・キリストがこのようにそばにいてくださるということです。世の終わりまで、永遠に共にいてくださるのです。愛する人がそばにいると心が開かれますように、愛するお方がそばにおられると、心がすなおに、すっかり開かれるのです。星野さんの言うように「ギリギリに縛りつけていた…棘のはえた縄が“フッ”と解け」る恵みに与るのです。
 「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(使徒15:11)。

聖霊による流れ:第一回伝道旅行

2011-01-16 00:00:00 | 礼拝説教
2011年1月16日 主日礼拝(使徒の働き13:1~14:28)岡田邦夫

 「信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」使徒の働き13:39

 春になると田んぼが耕され、梅雨時に、川やため池の水門が開かれ、その水が田んぼ全体に行き渡って行きます。その水田をもう一度耕し、それから、田植えが始まります。世界を田んぼにたとえられます。異邦人への門が開かれ、聖霊の流れが世界に広がっていった、その様子が使徒の働きに描かれています。「そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した」(14:27)。

◇聖霊が流れを起こす
 聖霊は流れを起こす方です。聖霊はイエスの名を運ぶ器を選びます。キリスト教徒の迫害の急先鋒だったサウロ(パウロ)を、復活のキリストの顕現にふれさせて回心させ、異邦人伝道の使徒に召します。次に聖霊は使徒ペテロの異邦人への偏見を取り除く幻を見させます。それと、イタリヤ隊百人隊長コルネリオに見させた幻によって、二人が出会わせます。コルネリオとそこにいた人々が福音を聞き、救われ、聖霊が下ったのです(10:44-45)。ペテロはそのことをエルサレム教会で報告すると、教会は異邦人への聖霊降臨(ペンテコステ)を知らされます(11:18)。準備は整い、それからの流れは、伝道旅行という形で本格的に異邦人伝道に向かうのです。
 エルサレムから北方、約400キロのアンテオケに教会ができていまして、そこに、「バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師」がおりました。ここで、聖霊は大きな流れを起こします。彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われたのです(13:1-2)。人の思いつきではなく、イエスの名において集まる共同体に、「一つの御霊」が迫ったのです(1コリント12:11,13)。按手してふたりを送り出すと、「聖霊に遣わされて」、地中海にある、バルナバの郷里・キプロス島に渡っていきます。
 まずはユダヤ人の会堂で神のことばを宣べ伝え、島全体を巡回し、パポスに来ました。地方総督セルギオ・パウロが神のことばを聞きたいと思い、ふたりを招いたところ、総督のもとにいた魔術師が総督を信仰の道から遠ざけようとしました。そこで、パウロは聖霊に満たされ、彼をにらみつけ、主の道を曲げる悪魔の子だ、しばらく、盲目になると告げると、その通りになりました。「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。」と記されています(13:12)。聖霊の流れを止めることは出来ないのでした。

◇聖霊の流れは勢いづく
 そこから、地中海を渡り、対岸の小アジア(トルコ半島)に行き、ピシデヤ地方のアンテオケで伝道します。そこで話されたメッセージが13:16~41に記録されています。内容は、旧約において約束された救い主を神がお送りになり、そのイエスを指導者が十字架につけたが、この方はよみがえられた。その救い主を信じるなら、罪が赦され、解放されるというものです。ペンテコステの日に12使徒が語ったのと同じ宣教のことば=伝道メッセージです。聖霊によって統一された「ひとつの使信(メツセージ)」です。聞いた人たちは次の安息日にも同じことを話してくれと頼みまして、次の安息日になるとほとんどの町中の人が、神のことばを聞きに集まってきたのですから、大変なことです。リバイバルです。
 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしったので、パウロとバルナバははっきりと宣言しました。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったが…あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。…私たちはこれからは異邦人のほうへ向かいます。…主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」。水が低いところに流れるように、聖霊の流れがあったのに、ユダヤ人が拒んだため、その流れが大きく変わり、異邦人のほうに向かって行くようになったというのです。そうして、その地方全体に主のみことばが広まった反面、二人はユダヤ人たちの迫害を受け、追い出されてしまいました。しかし、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていたのです。
 次はイコニオム。二人が会堂で話すとユダヤ人もギリシャ人も大勢、信仰に入り、反対があっても、長く滞在して、説教にともなって、主がしるしと不思議なわざを行わせます。また、ユダヤ人の扇動で石打にされそうになったので、ルステラとデルベとその付近で福音の宣教を続けたのです。ルステラではパウロが生まれつき足のなえた人をいやして、歩かせると、群衆が二人を神が人間になられたと言って、神々に祭り上げてしまいます。二人は聖霊の力により、神々ではなく、福音を伝えに来た人間だと叫んで、それをやめさせました。ところが、アンテオケとイコニオムから来たユダヤ人が群衆を巻き込み、パウロを石打にし、死んだと思って町の外に引きずり出すと何と彼は立ち上がって町に入って行ったのです。聖霊の慰めがあったからか、それでも、めげずに次の町、デルベに行き、福音を伝え、多くの弟子をとしてから、聖霊のうながしでUターンしたのです。
 ルステラ、イコニオム、ピシデヤ地方のアンテオケを回り、信仰の励ましをし、教会ごとに長老を選び、主にゆだねて、派遣元のアンテオケ教会に帰っていきました。「そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」のです(14:27)。
 こうして、福音が聖霊の流れに運ばれて、日本に流れ着き、私たちも救われたのです。聖霊の流れは留まるところを知りません。どこまでも、日本のすみずみまで、流れ込んでいきます。私たちも流れに乗って、イエスの名の運び人にならせていただきましょう。門は開かれているのですから。

主の御名を運ぶ:サウロの召し

2011-01-09 00:00:00 | 礼拝説教
2011年1月9日 主日礼拝(使徒の働き9:1~30)岡田邦夫

 「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」使徒の働き9:15

 今日は礼拝での賛美3曲はいずれも「主の御名」をたたえるものでした。新聖歌にはみあたらないので、プレイズ&ワーシップで歌うことにしました。人の名前というのはその人格の総称ともいうべきものです。手紙の書き出しにも使いますが、「主の御名を賛美します」は主イエスのご人格のすべてをたたえますということです。

◇あなたはどなたですか?
 クリスチャンを「主の御名を呼ぶ者たち」と言い(9:14)、サウロ青年は彼らをユダヤ教の異端だとして、脅かしと殺害の意に燃えて、男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るため、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼みました。ところが、ダマスコの近くまで来た時、突然、天からの光が彼を巡り照らしたのです(9:3)。彼は地に倒れ、天からの声を聞きました(9:4-6)。
 「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」
「主よ。あなたはどなたですか。」
 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
 同行者にも聞こえたが、姿は見えませんでした。イエスというお方が人格としてぶつかってきたのですから、たいへんな衝撃だったでしょう。サウロはそれから三日間、目が見えず、また、食事もしませんでした。「主よ。あなたはどなたですか。」と問えば、あなたが迫害しているイエスだという答えがきたのです。迫害されている者たちとイエスとが一体だという共同体、言い換えれば、集合人格に出会ったのですから、それこそ、ただ事ではなかったのです。「主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」という、預言されていた救い主に出会ったのですから、腰を抜かすほど、驚いたに違いありません(イザヤ63:8-9)。

 一方、ダマスコに評判の良いアナニヤという弟子がいて、幻を見ます。サウロが祈っていて、アナニヤが行き、手を置くと目が見えるようになるという幻を見たのだと告げられます。彼が迫害者で、「彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」とアナニヤが申し立てすると、主はこう言われました。
 「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」(9:15ー16)。
 アナニヤが告げられたとおり、サウロの所を訪れ、手を置いて祈ると、告げられたとおり、ただちにサウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになりました。そして、彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づけられました。このところから、「目からうろこが落ちる」(9:18)が「何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物事の実態が理解できるようになることのたとえ」として、日本語にもなりました。
 そのようにサウロの回心を表すことですが(後にパウロ)、それは召命の「しるし」です。サウロが主によって異邦人使徒として選ばれ、召されたことが真性であることのしるしが重ねてあります。一つ目は別々の者が同じ幻を見たという合致のしるし(ペテロとコルネリオと類似)、二つ目は同行者も御声が聞こえたこと、主によって目が見えなくなり、また、見えるようになったという、他者にも認められるしるし(ザカリヤと類似)です。「数多くの確かな証拠をもって」示されたことなのだと思います(使徒1:3)。
 私たちは誰かの良い話を聞いて救われるのではなく、イエス・キリストとの人格的な出会いによって、救われたのです。イエスの御名が告げられて、回心に導かれ、主の御名を呼ぶ者となりました。さらに、私たちが悩む時、主も悩まれるというイエス共同体に加えられたのです。そして、主によって、イエスの御名を運ぶ、主の選びの器として召されているのです。イエスの御名こそ、私たちのすべてです。

◇この人はだれですか?
 それからサウロはダマスコの弟子たちと数日いたあと、ただちに諸会堂で、イエスの御名を宣べ伝え、イエスがキリスト・救い主であることを証明し、ユダヤ人をうろたえさせました。数多くの日数がたって、ユダヤ人がサウロ殺そうとしている陰謀を知り、夜中に、城壁からかごでつり下ろしてもらい、逃げます。エルサレムに着きますが、彼がイエスの弟子と信じてもらえません。バルナバという人が彼を引き受けて、使徒たちの所へ連れて行ってもらい、これまでのいきさつを説明してもらい、仲間に加えられました。エルサレムでも大胆に主の御名によって大胆に語ります。また、ユダヤ人が殺そうと狙っているので、タルソに送り出されるという風に展開していきます。
 サウロが異邦人宣教師になるには、いくつかの条件を備えた器でした。きっすいのヘブル人、ガマリエルの門下生、熱心なパリサイ人、ヘブル語も出来れば、ギリシャ語も出来る、ローマの市民権をもっているという、なくてはなるぬ人材でした。事実、それだけの大きな働きをしました。一般的に言うなら、大きな器でした。しかし、信仰の世界では逆です。サウロの別名はパウロ、「小さい」の意味です。彼は自分を神の教会を迫害していた者で、使徒としては月足らずに生まれた最も小さい者、しかし、神の恵みによって誰よりも多く働いてきたと述べています(1コリント15:8-11)。小さい器が大きな働きをするという逆説があるのです。
 土の器に宝をもっているとありますように、器は必ず必要ですが、イエスの御名という中身が何より重要です。イエスの御名をいつも呼び求めること、イエスの御名によって、どれほどの恵みと祝福をいただいているかを知ること、イエスの御名によって確かな生き方をすること、そのように宝を大事にすることです。そうして、それを必要としている人にイエスの御名を運ぶのです。パウロにはパウロの運び方がありました。パウロという人格を通して、イエスの御名、福音は世界に伝わりました。そのパウロもアナニヤから、御名を運んでもらい、バルナバから、御名によって助けられました。アナニヤにはアナニヤの運び方、バルナバにはバルナバの運び方、あなたにはあなたの運び方があって、主に召されているのです。私たちは「主よ。あなたはどなたですか。」と問い続けたいと思います。また、「この私はだれなのか」と問い続けたいと思います。そして、運ぶ「相手がだれなのか」を問い続けたいと思います。そこに、御名の運び方も聖霊によって見えてくるのだと思います。
 「ハレルヤ。
 主のしもべたちよ。ほめたたえよ。
 主の御名をほめたたえよ。
 今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。
 日の上る所から沈む所まで、
 主の御名がほめたたえられるように。」(詩篇113:1-3 )。

理解を越えた大いなる事・続

2011-01-02 00:00:00 | 礼拝説教
2011年1月2日 新年礼拝(エレミヤ33:1~11)岡田邦夫

理解を越えた大いなる事・続
 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ書33:3)

 エレミヤが監視の庭に閉じ込められていました。彼が監禁されたのは、ユダの王ゼデキヤがエレミヤに、「なぜ、あなたは預言をするのか。」と尋ねたとき、エレミヤが次のように答えたからである。「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。…ゼデキヤをバビロンに連れて行く。…』」(32:2-5)。王にしてみれば、このような危機的状況で預言者がどいうつもりで、そんな否定的な言葉を言うのか、ということだったのでしょう。ユダの王ゼデキヤの第10年、すなわち、ネブカデレザルの第18年の時だったことが、記録されています。

◇建て直すつもり
 しかし、エレミヤはどいうつもりで王が自分を閉じ込めるかとは問いません。預言者ですから、神に対して、どういうおつもりで選びの民をバビロンに捕らえ移すのかと問うのです。神はそれに答えましょうと言うのです。「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(33:2ー 3)。ただ、これから自分たちが「どうなっていくのか」という事柄だけが問題なのではなく、主というご人格が「どういうつもりで」事をなそうとしているのかということが重要なのです。
 一人称、二人称の関係で、主の「おつもり」を露呈しています。「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。…』」(31:3ー4)。永遠の愛を持って建て直すおつもりなのです。「彼らはカルデヤ人と戦おうとして出て行くが、彼らはわたしの怒りと憤りによって打ち殺されたしかばねをその家々に満たす。それは、彼らのすべての悪のために、わたしがこの町から顔を隠したからだ。見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示すわたしはユダの捕われ人と、イスラエルの捕われ人を帰し、初めのように彼らを建て直す」(33:5ー7)。
 補囚の民が祖国に帰って、国と民族を再建するというのは歴史上の奇跡です。「理解を越えた大いなる事」です。70年後という近未来に実現します。大国の王の思惑を越えて、人の力によらず、主なる神の思惑によって、「初めのように彼らは建て直」されていったのです。「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、『万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。』と言って、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が再び聞こえる。」もそのとおりになったのです(33:11→エズラ記3:11-13)。彼らを建て直す、それが神のおつもりなのです。私たちを建て直す、それが神のおつもりなのです。

◇変えないつもり
 エレミヤが向き合う神は「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方」です。私たちが向き合う神は「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方」なのです。その主の「建て直す」おつもりは遠大で、真実です。それこそが「理解を越えた大いなる事」なのです。
 「その日、その時」は終末の時のことです。「わたしはダビデのために正義の若枝を芽生えさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう」は救い主イエス・キリストの到来をさします(33:15)。救い主による、人類の建て直しなのです。そのおつもりで、そもそも、ダビデと永遠の契約をかわし、更にさかのぼり、アブラハムと祝福の契約をかわしたのです。ぜすから、地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方はそれを絶対に破らないおつもりなのです。こう強調しています。
 「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」(33:19-22)。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの捕われ人を帰らせ、彼らをあわれむ」(33:25-26)。初めに選んだイスラエル12部族が皆救われ、回復し、建て直されるというのです。その契約には新しいイスラエルである教会、私たちも含まれています。主イエス・キリストのおつもりは神と人、人と人の関係の回復、建て直しなのです。イエス・キリストによる新しい契約も、絶対に破棄されることはないのです。

◇つもりを知る
 このようなことは私たちの頭の片隅においておくことではないのです。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」と今、あなたに言っているのです。「理解を越えた大いなる事」は「隠された大いなること」とも訳されています。隠されているのです。ほんとうは主を呼び、答えていただかなければ、わからないことなのです。理解を越えた大いなる事ですから、聖霊によらなければ、理解できないことなのです。ですから、私たちは呼ぶのです。あなたはどういうおつもりなのですかと。すると、こういうつもりだよと、理解を越えた大いなる事を知らされ、恵まれるのです。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。…」という主のおつもりが聖霊によってわかるのです(31:3ー4)。
 昨年、日本人で根岸英一氏と鈴木章氏が人類のためにもっとも貢献をした人に贈られるノーベル賞を受賞されました。これに対して、人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究に対して贈られるイグ・ノーベル賞というものもあり、中垣俊之が「迷路を解く粘菌」の研究で受賞。その研究がすぐには役に立たないように見えて、後には大変役立つもになるかも知れないというものです。私たちも、神に呼び求めても、すぐには世の中に役立たないことがあるかもしてません。しかし、ひたすら主を呼んでいく時に必ず、主は答えられ、隠された大いなること、理解を越えた大いなる事を主を呼んだ者に、告げてくださるに違いありません。

理解を越えた大いなる事

2011-01-01 00:00:00 | 礼拝説教
2011年1月1日 元旦礼拝(エレミヤ33:1~11)   岡田邦夫

 「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる。」(エレミヤ書33:3新共同訳)。

◇時代を見る目
 「南天」という語感が「難(なん)を転(てん)じる」に通じるところから縁起木としても親しまれています。このような掛(かけ)詞(ことば)は何かと使われています。聖書にも語呂合わせはしばしば出てきます。エレミヤが若くして神から預言者に召された時に、語呂合せによるメッセージが伝えられました。
 「エレミヤよ、何が見えるか。」「アーモンド(ショーケード)の枝が見えます。」「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」(1:11-12新共同訳)
 アーモンドの原語はシャーケード、1、2月頃に白い花を咲かせ、それが他の木に先だって咲くので、見張りの象徴的意味を持っていました。それにかけて、神が歴史の上で預言の言葉を成し遂げようとショーケード=見張っているのだと印象づけて、エレミヤに告げるのです。
 歴史というのはどういう風に展開していくか、不確実でそう簡単には見極められないものです。2011年を迎えましたが、世の中はどうなっていくのか、私たちはどうなっていくのか、明瞭には見渡せないものです。しかし、アーモンドの木が立っているように、歴史の舞台に主なる神が立っておられ、これから起こってくることを見守り、見張っているというのです。
 この時代、イスラエルという国は二つに分かれ、その片方の北イスラエル国がすでにアッシリア帝国に滅ぼされ(BC721)、もう片方の南ユダ国がかろうじて生き残っていました。アッシリアに換わって、新バビロン帝国が台頭し、北からやってきて、もうすぐそこまで迫ってきていました(BC600頃)。弱小国ユダは風前の灯(と)火(もしび)とも言うべき状態。北からの風が強く吹けば、またく間に消滅してしまうのは目に見えていました。
 ところが、そのような激動の時にその渦中にいたら、人は正しく状況を判断できませんし、先のことを見通すなど、とてもできないものです。そこで、神は預言者エレミヤに先見の明を与えます。煮え立っているかまが北のほうからこちらに傾いているという幻で示します。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。…わたしは、彼らのすべての悪にさばきを下す。彼らはわたしを捨てて、ほかの神々にいけにえをささげ、自分の手で造った物を拝んだからだ」(1:15ー16)。ユダの歴史は決して運命に操られていたのではありません。主なる神の導きの手の中にあったのです。彼らは神に選ばれた民ではあるのですが、その神に背を向け、偶像を礼拝し、利得をむさぼり、弱者をしいたげ、道徳的に乱れ、神の前に罪に罪を重ねていました。そのために、神はそれを裁くために、大国が力でユダをねじ伏せるのを許したのです。この悲劇とも見える歴史にも神の手が動いていたのです。
 しかし、その後、歴史の上で神は大国をねじ伏して、ユダを救いに導く約束をします。「かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。主の御告げ」(31:28)。しかも、バビロン補囚は七十年だと具体的です。神のご意志は「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:10-11)。これは歴史上、実現していったのです。
 この33章にも回復の預言がねんごろに告げられます。「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしはユダの捕われ人と、イスラエルの捕われ人を帰し、初めのように彼らを建て直す。わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。」(33:6ー9)。神が私たちになそうとされているのはこのような「回復」ののです。

◇永遠を見る目
 ところが、そのような激動の時にその渦中にいたら、人は正しい判断をするのが難しいものです。エレミヤはその激動の歴史にもみくちゃにされ、同胞からは投獄され、最後はエジプトへの逃亡者たちに連れられて、そこで死んでしまうのです。しかし、神と民の間に立ち、涙を流し、神にみ言葉をしっかりと聞き、真実に預言をしたのです。しかも、このところでは愛と真実をもってメッセージを伝えているのに、同胞から誤解され、敵視され、獄舎に拘留されていたのです(33:1)。そのような先の見えない絶望的状況で、神の啓示を受けたのです。私たちはこれを覚えておかなければなりません。先が見えない時こそ、先が見えて来るという信仰的逆説を…。
 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(33:2ー3)。人を呼んでも誰も来てくれない獄舎の中に天地創造の神が顔を出し、かたわらでわたしを呼べとエレミヤに呼びかけられたのです。ですから、そこがまるで神殿の至聖所であるかのようにです。歴史を形造っていく神が「理解を越えた大いなる事」=「隠された大いなること」(新共同訳)をあなたに告げるというのです。
 創世記に出てきますが、アブラハムに対した主がソドム、ゴモラを滅ぼそうとした時、主はこう考えられました。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(創世記18:17)。秘密を共有して、無二の親友になろうというような対峙の仕方です。イエスは最後の晩餐で弟子たちに同じような対峙の仕方をしました。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。…友と呼びました。なぜなら(隠れた)父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」(ヨハネ15:15、カッコは筆者のもの)。きょう、主を信じ、主に従うあなたに対して、親友にしか言わない様なことを告げておられるのです。「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事=隠された大いなることを、あなたに告げよう」と。

 1991年8月のある朝のことでした。豊中泉教会のT兄が勤務先で胸が苦しくなり、心筋梗塞とのことで緊急入院をしました。私たち夫婦がかけつけた時は意識があり、「ご心配なく、もし万一のことがあっても大丈夫です」と言われたていたのでが、そのあと意識不明となり、心臓の回りに水がたまってきて、すぐ水をぬく手術となりました。奥様と廊下のベンチで祈ると、彼女が背筋を伸ばして「この病は死にいたらず」のみことばが与えられたとわたしに告白しました。手術は無事終わりました。ところが、腎臓停止、肝臓停止という最悪の事態となり、阪大病院救急病棟へ移されました。
 教会ではこのための集中祈祷会を開き、牧師は教会の代表として一週間の断食祈祷するように導かれました。彼の体はむくんで丸太ん棒のようで、ただ、機械で生かされているようにしか見えませんでした。教会あげて祈っても、その状態が続くだけでした。牧師の中に「もとのようにする」というみ言葉が響いてきたので、いやされることを信じ、教会の人たちも信じて祈りました(エレミヤ33:7口語訳)。新改訳ですと「初めのように」です。
 一週間目のその日、ご家族と牧師夫人が面会に行ったところ、何と意識が回復したのです。奇跡です。すぐに詰め所の隣の一般病棟に移され、その後、機械が一ずつ減って行きました。ところが、体力がないところに肺炎を起こし、さらに、追い打ちをかけて院内感染という命の危険にさらされました。やむなく、のどに穴を飽け呼吸器をつけ、死ぬような思いでたんを出すという苦しいところも、教会で祈られているという支えで乗り越えました。それもすべて治り、次の年の5月ゴールデンウィークに退院しました。順調に回復し、復職し、仕事で海外にいけるまでになりました。難が転じて、「もとのようにする」というみ言葉が成し遂げられたのです。
 1年目の検診の時に医師から、驚くべき事が知らされました。「Tさん、あなたは5度死んでましたよ。」始め、医師団は脳死と判定していたのだが、主治医の自分が特に根拠もなく、1週間待ってくれとたのんだので助かったこと。心臓の筋肉の45%壊死も、肺炎も、院内感染も、死の危険があったが助かったこと。そして、主治医は彼が良くなるまで家に帰らず、病院に泊まり、ある日、用もないのに詰め所に行き、何気なく機械を見たら、心臓停止の状態。急いで電気ショックで回復させた。見落としていたら、手遅れだったろうと言い、あなたが生きているのは奇跡ですと告げられました。
 私たちは神が生きておられ、祈る者たちに奇跡を見せてくれたのだということを学びました。しかし、もっと重要なことを学習しました。告げられたみ言葉が目の前の現実になっていくということです。そして、この小さなみ言葉経験から、新天新地が造られまでの歴史において、すべての預言が成就していくのだということ、聖書の言葉はすべて、真実であるということを信じる事ができたのです。これを「大いなる学習」と呼びたいと思います。あなたが、私たちがたとえ先が見えないような時にも、主を呼ぶなら、主はまるで親友にだけ教えるように、「隠された大いなること=理解を越えた大いなる事」を告げてくれるのです。そして、神のみこころである「回復」へ、「回復」へと向かっていくのです。