2011年1月23日 伝道礼拝(使徒の働き15:11)岡田邦夫
「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」使徒の働き15:11
「アメイジング・グレイス」の曲がテレビでドラマやCMでよく耳にするようになりました。時には結婚披露宴で歌われることもあります。特に9.11テロ事件、世界貿易センタービル跡地グランド・ゼロで行われた追悼式で「アメイジング・グレイス」が歌われました。それはアメリカの公式な国歌以外で、国歌に匹敵する歌としてこの曲が歌われているからです。それで日本でもこの賛美歌が知られるようになったと思います。アメイジング・グレイス・ハゥ・スウィート・ザ・サウンド(驚くべき恵み!なんと心地よい響き)と始まります。アメイジング・グレイスのその内容はひと言で言うなら、この聖句の「私たちが主イエスの恵みによって救われたこと」だと私は思います。
しかし、「恵み」というの言葉は様々に使われています。天候に恵まれて、自然に恵まれて、環境に恵まれて、健康に恵まれて、食べ物に恵まれて、家族に恵まれて、友だちに恵まれて、恋人に恵まれて、子宝に恵まれて、先生に恵まれて、家柄に恵まれて、才能に恵まれて、仕事に恵まれて、財政に恵まれて、運に恵まれて、チャンスに恵まれて、時代に恵まれて…。これらはすべて否定形にしても使われます。「天候に恵まれなくて、才能に恵まれなくて…」と。現状を前向きにとらえ、恵まれていると思うか、後ろ向きにとらえ、恵まれていないと思うかで生き方が別れてきます。私は一週間の断食祈祷後、最初に梅干しの湯と重湯を飲んだ時、つくづく思いました。地位も名誉も財産も何もいらない、人は一杯の糧の恵みさえあれば、それで十分だなあと。
◇この恵みが世界に開かれて
エルサレムで会議がありました。キリスト教の伝道がユダヤの小国で始まったのですが、民族の壁を越えて、他民族にも受け入れられ、伝道が拡大していった時でした。この会議の結果で、キリスト教が歴史的に世界宗教になっていくという方向付けがなされていったと言っても過言ではありません。イエス・キリストのみこころであったことは言うまでもありませんが。まず、ユダヤからすれば異邦の地、アンテオケに教会ができますと、そこを拠点として、宣教師を派遣するという形で、地中海沿岸にキリスト教が広まっていきました。最初にパウロとバルナバが伝道旅行に派遣されると、行く先々で、驚くほど、多くの異邦人が喜んでイエス・キリストの福音を受け入れていったのです。伝道旅行から帰って、教会の人たちに「神が彼らとともにいて行われたすべてのことを、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」のです(14:27)。
しかし、ユダヤからやってきた人たちが、パウロやバルナバの伝えていることは違うと言ってきたので、「救い」についての激しい論争がくり広げられました。そこで「異邦人の救い」の問題をエルサレムでの教会会議の場に持ちだしたのです。
宗教には自力本願と他力本願とがあると言われています。言い換えれば、良い行いをして救われるのか、ただ信じるだけで救われるのかということです。人には良い行いをしてなければ救われないのではないか、ただ信じるだけで救われるというのはあまりも虫が良すぎるのではないか、という思いが意外と根強くあります。立派な人にならないと、あるいは、品行方正でないと洗礼は受けられないのではないかと思う人もいるでしょう。この会議でも、律法主義のパリサイ派の人で、クリスチャンになった人たちが「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と主張したのです。
しかし、ペテロが反論します。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(15:7-11)。議論は進み、衆議一決。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」(15:28ー29新共同訳)。
戒め(律法)を守って救われようとすれば、それは負いきれない重荷となりますが、イエス・キリストの恵み(福音)を信じるなら、差別なく、誰でも救われるのだということです。悔い改めて、神に立ち帰り、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるなら、そのすべての罪が赦され、神の子にされ、永遠の命が与えられるという、恵みの救いです。「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで」という恵みなのです(詩篇100:5)。ここにお集まりの皆さんがぜひ、この救いの恵みに与っていただきたいです。初めのほうで述べました、健康に恵まれて…というような言い方をすれば、信じた皆さんはだれもが「救いに恵まれて」とか、「永遠の命に恵まれて」と証詞が出来るのです。
◇この恵みによって心が開かれて
星野富弘さんは鉄棒から転落し首を強打し、手足の自由を完全に失ったのですが、クリスチャンになり、口にくわえた筆で詩画をかくようになりました。私の好きな詩で、信仰によって心が解放されていく恵みがうたわれている詩があります(「愛、深き淵より」)。
動ける人が 動かないでいるのには 忍耐が必要だ
私のように動けない者が 動けないでいるのに 忍耐など必要だろうか
そう気づいた時 私の体をギリギリに縛りつけていた
「忍耐」という棘のはえた縄が “フッ”と解けたような気がした
救いは縛りからの解放です。罪の縛りから、死の縛りからの解放、また、星野さんのような苦悩の縛りからの、イエス・キリストの恵みによるによる解放です。
「そばにいてくれる人」というステキな話が「百万人の福音」付録“リトル・ブレッド”ほのぼのストーリーにありました。
以前、大きな手術を受けた時のことです。手術の前日に、とても美人のナースが病室に入ってきて、突然ボクの手を取り、こう言いました。
「私の手をしっかり握ってみてください。そして、この感じをよく憶(おぼ)えておいてくださいね」
これには、ボクもちょっとドキドキしましたね。
彼女は続けました。
「じつは、明日の手術のあいだ、あなたの心臓の働きを、一時的に人工心肺が肩代わりすることになります。そして手術が終わって、心臓がもう一度、本来の機能を取り戻し、身体全体が完全に回復するまでには、しばらく時間がかかります。
手術後、麻酔から覚めると、あなたは集中看護室にいます。でも、その時点からたっぷり六時間は、まったく身体の自由が利(き)かない状態が続きます。おそらく動いたり、しゃべったり、目を開けることさえできないはずです。それでも、意識ははっきりしているので、耳もよく聞こえるし、周囲で何が起こっているか、すべて分かるわけです。
そのあいだじゅう、私があなたのそばに座って、こうしてあなたの手を握っていますからね。あなたの身体が回復するまで、ずっといっしょですからね。そのことを、今、よおく頭に入れておいてください。そんな状態になったら、ひどく孤独な気持ちになるか、パニックに陥りそうになるもしれません。でも、そんな時には、思い出してください。私の手がこうしてあなたの手を握っている感触を感じて、自分はひとりぼっちじゃないということを思い出して、安心してください」
手術後、言われたとおりのことが起こりました。麻酔から覚めても、まぶた一つ動かせなかったのです。でもそのあいだじゅうずっと、ナースが私の手を握ってくれているのを感じていました。それが私にとって、どれほど大きなことだったか。
信仰生活の中でも、たとえ何が起ころうと、自分の感情や感覚がどう変わろうとも、「わたしはあなたとともにいる」と約束してくださるイエスのことばを忘れないように、今、自分の心にしっかり刻みつけておきたい、そう思うのです。
最高の恵みは私を愛し、私の罪のために十字架にかかり死んでよみがえり、救ってくださったイエス・キリストがこのようにそばにいてくださるということです。世の終わりまで、永遠に共にいてくださるのです。愛する人がそばにいると心が開かれますように、愛するお方がそばにおられると、心がすなおに、すっかり開かれるのです。星野さんの言うように「ギリギリに縛りつけていた…棘のはえた縄が“フッ”と解け」る恵みに与るのです。
「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(使徒15:11)。
「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」使徒の働き15:11
「アメイジング・グレイス」の曲がテレビでドラマやCMでよく耳にするようになりました。時には結婚披露宴で歌われることもあります。特に9.11テロ事件、世界貿易センタービル跡地グランド・ゼロで行われた追悼式で「アメイジング・グレイス」が歌われました。それはアメリカの公式な国歌以外で、国歌に匹敵する歌としてこの曲が歌われているからです。それで日本でもこの賛美歌が知られるようになったと思います。アメイジング・グレイス・ハゥ・スウィート・ザ・サウンド(驚くべき恵み!なんと心地よい響き)と始まります。アメイジング・グレイスのその内容はひと言で言うなら、この聖句の「私たちが主イエスの恵みによって救われたこと」だと私は思います。
しかし、「恵み」というの言葉は様々に使われています。天候に恵まれて、自然に恵まれて、環境に恵まれて、健康に恵まれて、食べ物に恵まれて、家族に恵まれて、友だちに恵まれて、恋人に恵まれて、子宝に恵まれて、先生に恵まれて、家柄に恵まれて、才能に恵まれて、仕事に恵まれて、財政に恵まれて、運に恵まれて、チャンスに恵まれて、時代に恵まれて…。これらはすべて否定形にしても使われます。「天候に恵まれなくて、才能に恵まれなくて…」と。現状を前向きにとらえ、恵まれていると思うか、後ろ向きにとらえ、恵まれていないと思うかで生き方が別れてきます。私は一週間の断食祈祷後、最初に梅干しの湯と重湯を飲んだ時、つくづく思いました。地位も名誉も財産も何もいらない、人は一杯の糧の恵みさえあれば、それで十分だなあと。
◇この恵みが世界に開かれて
エルサレムで会議がありました。キリスト教の伝道がユダヤの小国で始まったのですが、民族の壁を越えて、他民族にも受け入れられ、伝道が拡大していった時でした。この会議の結果で、キリスト教が歴史的に世界宗教になっていくという方向付けがなされていったと言っても過言ではありません。イエス・キリストのみこころであったことは言うまでもありませんが。まず、ユダヤからすれば異邦の地、アンテオケに教会ができますと、そこを拠点として、宣教師を派遣するという形で、地中海沿岸にキリスト教が広まっていきました。最初にパウロとバルナバが伝道旅行に派遣されると、行く先々で、驚くほど、多くの異邦人が喜んでイエス・キリストの福音を受け入れていったのです。伝道旅行から帰って、教会の人たちに「神が彼らとともにいて行われたすべてのことを、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」のです(14:27)。
しかし、ユダヤからやってきた人たちが、パウロやバルナバの伝えていることは違うと言ってきたので、「救い」についての激しい論争がくり広げられました。そこで「異邦人の救い」の問題をエルサレムでの教会会議の場に持ちだしたのです。
宗教には自力本願と他力本願とがあると言われています。言い換えれば、良い行いをして救われるのか、ただ信じるだけで救われるのかということです。人には良い行いをしてなければ救われないのではないか、ただ信じるだけで救われるというのはあまりも虫が良すぎるのではないか、という思いが意外と根強くあります。立派な人にならないと、あるいは、品行方正でないと洗礼は受けられないのではないかと思う人もいるでしょう。この会議でも、律法主義のパリサイ派の人で、クリスチャンになった人たちが「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と主張したのです。
しかし、ペテロが反論します。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(15:7-11)。議論は進み、衆議一決。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」(15:28ー29新共同訳)。
戒め(律法)を守って救われようとすれば、それは負いきれない重荷となりますが、イエス・キリストの恵み(福音)を信じるなら、差別なく、誰でも救われるのだということです。悔い改めて、神に立ち帰り、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるなら、そのすべての罪が赦され、神の子にされ、永遠の命が与えられるという、恵みの救いです。「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで」という恵みなのです(詩篇100:5)。ここにお集まりの皆さんがぜひ、この救いの恵みに与っていただきたいです。初めのほうで述べました、健康に恵まれて…というような言い方をすれば、信じた皆さんはだれもが「救いに恵まれて」とか、「永遠の命に恵まれて」と証詞が出来るのです。
◇この恵みによって心が開かれて
星野富弘さんは鉄棒から転落し首を強打し、手足の自由を完全に失ったのですが、クリスチャンになり、口にくわえた筆で詩画をかくようになりました。私の好きな詩で、信仰によって心が解放されていく恵みがうたわれている詩があります(「愛、深き淵より」)。
動ける人が 動かないでいるのには 忍耐が必要だ
私のように動けない者が 動けないでいるのに 忍耐など必要だろうか
そう気づいた時 私の体をギリギリに縛りつけていた
「忍耐」という棘のはえた縄が “フッ”と解けたような気がした
救いは縛りからの解放です。罪の縛りから、死の縛りからの解放、また、星野さんのような苦悩の縛りからの、イエス・キリストの恵みによるによる解放です。
「そばにいてくれる人」というステキな話が「百万人の福音」付録“リトル・ブレッド”ほのぼのストーリーにありました。
以前、大きな手術を受けた時のことです。手術の前日に、とても美人のナースが病室に入ってきて、突然ボクの手を取り、こう言いました。
「私の手をしっかり握ってみてください。そして、この感じをよく憶(おぼ)えておいてくださいね」
これには、ボクもちょっとドキドキしましたね。
彼女は続けました。
「じつは、明日の手術のあいだ、あなたの心臓の働きを、一時的に人工心肺が肩代わりすることになります。そして手術が終わって、心臓がもう一度、本来の機能を取り戻し、身体全体が完全に回復するまでには、しばらく時間がかかります。
手術後、麻酔から覚めると、あなたは集中看護室にいます。でも、その時点からたっぷり六時間は、まったく身体の自由が利(き)かない状態が続きます。おそらく動いたり、しゃべったり、目を開けることさえできないはずです。それでも、意識ははっきりしているので、耳もよく聞こえるし、周囲で何が起こっているか、すべて分かるわけです。
そのあいだじゅう、私があなたのそばに座って、こうしてあなたの手を握っていますからね。あなたの身体が回復するまで、ずっといっしょですからね。そのことを、今、よおく頭に入れておいてください。そんな状態になったら、ひどく孤独な気持ちになるか、パニックに陥りそうになるもしれません。でも、そんな時には、思い出してください。私の手がこうしてあなたの手を握っている感触を感じて、自分はひとりぼっちじゃないということを思い出して、安心してください」
手術後、言われたとおりのことが起こりました。麻酔から覚めても、まぶた一つ動かせなかったのです。でもそのあいだじゅうずっと、ナースが私の手を握ってくれているのを感じていました。それが私にとって、どれほど大きなことだったか。
信仰生活の中でも、たとえ何が起ころうと、自分の感情や感覚がどう変わろうとも、「わたしはあなたとともにいる」と約束してくださるイエスのことばを忘れないように、今、自分の心にしっかり刻みつけておきたい、そう思うのです。
最高の恵みは私を愛し、私の罪のために十字架にかかり死んでよみがえり、救ってくださったイエス・キリストがこのようにそばにいてくださるということです。世の終わりまで、永遠に共にいてくださるのです。愛する人がそばにいると心が開かれますように、愛するお方がそばにおられると、心がすなおに、すっかり開かれるのです。星野さんの言うように「ギリギリに縛りつけていた…棘のはえた縄が“フッ”と解け」る恵みに与るのです。
「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」(使徒15:11)。