2010年5月30日 主日礼拝(1サムエル記1:12-28)岡田邦夫
「エリは答えて言った。『安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように』」。1サムエル1:17
マルチン・ルターが詩篇46篇をもとに作詞した、新聖歌280「神はわがやぐら」は有名です。その詩篇は「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」で始まり、5節には「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」とあります。神の助けが「夜明け前に」あるという信仰の詩です。
◇夜明け前
夜明け前が最も暗く、静かですが、東の空がゆっくり明るみ始め、太陽が顔をだすと、一挙にまぶしい朝となり、小鳥がさえず、自然界が活気づきます。イスラエルの歴史の上で夜明け前という時がありました。士師記の最後にこう記されています(21:25)。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」。信仰的に堕落し、政治的に混乱し、闇に閉ざされていました。
その時の祭司はエリ。その息子たちはよこしまな者で、主を知らず、祭司の定めをやぶり、主を侮り、民がたずさえてきたいけにえの肉を勝手に食べてしまうというようなひどい状態でした。また、天幕で仕える女性に手を出すというというような最悪の状況でした。しかも、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」という暗雲たちこめる国情でした(2:12-17、22、3:1)。しかし、「神のともしびは、まだ消えていず」(3:3)と聖書が述べているように、この暗闇も夜明け前の闇なのでした。
◇夜明け
夜明けはどこから始まったかというと、ゴタゴタしたエルカナという人の家庭からでした。彼にはペニンナとハンナという二人の妻がおりまして、ペニンナには子供がおり、ハンナは不妊症で子供ができず、それでまた、夫がハンナの方を偏愛しているというのですから、複雑です。ペニンナはハンナを憎み、子がないことで気をもんでいる彼女をいらだたせ、思い悩ませていたのです。つらくて、ハンナは泣いて、食事もしません。夫があなたは十人の息子以上のものと慰めます。そうすると、もう一人の妻はそれが気に入らないので、また、彼女を悩ませる…という悪循環です。家庭の中がどんよりと暗い空気がただよっていました。
そこで、ハンナは主の神殿に上って行った時に、その心の痛みをもって、主の前に激しく泣いて、心の内で祈りました。そして、誓願を立てました。。男の子を授けてくださるなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭に、かみそりを当てません、と。彼女の口元だけ動いていたので、それを見た祭司エリが酒によっているのではないかと誤解します。ハンナは答えます。「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。…私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」(1:15-16)。イスラエルの神が願いをかなえてくださるようにと祭司に言われ、ハンナは晴れやかに帰って行きました。
主が彼女を心に留められたので、妊娠し、男子を産み、サムエル(その名は神)と命名しました。このサムエルこそ、後に、神に選ばれた王をたてて、王国制度を樹立し、イスラエル国家を安定へと導く人となるのです。主によって胎が閉ざされて、出産が不可能だったにもかかわらず、ハンナが祈りによって、その事を変えたのです。台所の壁に小さな飾り物が掛けてあります。‘PRAYER CHANGES THINGS’(祈りは事を変える)。彼女の人生においても、イスラエルの歴史においても、決して、夜明けは来そうにない、しかし、祈りによって、夜明けが来たのです。
ハンナは酒に酔ったのでもなく、祈りに酔っていたわけではありません。つのる憂いといらだちを吐き出し、心を注ぎだし、涙を流し、祈ったのです。「万軍の主よ。…はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れ」ないで、男の子を与えてくださいと祈ったのです(1:11)。ただ、自分の幸せのためではなく、男の子が与えられたら、一生を主にお献げしますと誓ったのです。私たちも通り一遍の祈りではなく、主の前につのる憂いといらだちを吐き出し、心を注ぎだし、涙を流し、祈りましょう。簡単にあきらめないで、万軍の主よ、この僕(しもべ)の悩みを顧みて、私を心に留め、この僕を忘れないで、願いをかなえてくださいと祈りましょう。私自身をあなたにお献げしますと祈れるまで祈りましょう。
そうするなら、‘PRAYER CHANGES THINGS’自分の人生においても、教会の歴史においても、決して、夜明けは来そうにない、しかし、祈りによって、夜明けが来るのではないでしょうか。「祈れ物事 皆ままならず、胸に憂いの 雲閉ざすとき、祈れよし道は 暗くあるとも、祈れすべてを 主にゆだねて」(新聖歌196)。
◇大いなる夜明け前
さて、1サムエル記1章は28節ありますが、「主」及び「神」という語が24回、ほぼ、一節毎に出てきます。ハンナの祈りが夜明けをもたらしたようでいて、ほんとうは主なる神が憐れみをもって、すべてを導いておられたことを表しています。手を合わせ祈るハンナも、主なる神の御手の中にあったのです。聖霊にうながされて、心を注ぎだせたのですし、聖霊によって誓願にも導かれ、信仰の祈りにも、献身の祈りにも導かれたのです。
ですから、サムエルが乳離れして、ハンナは神殿に行き、礼拝し、その子を誓願の通り、主にお渡しますと言って、祭司に渡しました。その時のハンナの素晴らしい祈りの詩が、1サムエル記2:1-10に載っています。それから、約千年後、救い主イエス・キリストが聖霊によっておとめマリヤからお生まれになります。受胎したマリヤが主を賛美しますが、その賛歌はハンナの祈りが示唆(しさ)を与えたことは明らかです(ルカ1:46-55)。救い主の誕生によって、まことの光があって、世に来られ、まことの夜明けが来たのです。しかし、また、夜はふけて、再臨の主の現れる、昼が近づいています。大いなる夜明けが近づいているのが今の時です(ヨハネ1:9、ローマ13:12)。そのような終末の時、「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)。
主の再臨の大いなる夜明けの近いこの時、私たち神の子らはハンナのように心を注ぎだし、涙し、御霊の助けにより、うめく祈りをいたしましょう。万軍の主よ、この僕(しもべ)の悩みを顧みて、私を心に留め、この僕を忘れないで、僕の家族、友人、知人、同胞、隣人の救いの願いをかなえてくださいと祈りましょう。私自身をあなたにお献げしますと御霊によって祈れるまで祈りましょう。
「エリは答えて言った。『安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように』」。1サムエル1:17
マルチン・ルターが詩篇46篇をもとに作詞した、新聖歌280「神はわがやぐら」は有名です。その詩篇は「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」で始まり、5節には「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」とあります。神の助けが「夜明け前に」あるという信仰の詩です。
◇夜明け前
夜明け前が最も暗く、静かですが、東の空がゆっくり明るみ始め、太陽が顔をだすと、一挙にまぶしい朝となり、小鳥がさえず、自然界が活気づきます。イスラエルの歴史の上で夜明け前という時がありました。士師記の最後にこう記されています(21:25)。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」。信仰的に堕落し、政治的に混乱し、闇に閉ざされていました。
その時の祭司はエリ。その息子たちはよこしまな者で、主を知らず、祭司の定めをやぶり、主を侮り、民がたずさえてきたいけにえの肉を勝手に食べてしまうというようなひどい状態でした。また、天幕で仕える女性に手を出すというというような最悪の状況でした。しかも、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」という暗雲たちこめる国情でした(2:12-17、22、3:1)。しかし、「神のともしびは、まだ消えていず」(3:3)と聖書が述べているように、この暗闇も夜明け前の闇なのでした。
◇夜明け
夜明けはどこから始まったかというと、ゴタゴタしたエルカナという人の家庭からでした。彼にはペニンナとハンナという二人の妻がおりまして、ペニンナには子供がおり、ハンナは不妊症で子供ができず、それでまた、夫がハンナの方を偏愛しているというのですから、複雑です。ペニンナはハンナを憎み、子がないことで気をもんでいる彼女をいらだたせ、思い悩ませていたのです。つらくて、ハンナは泣いて、食事もしません。夫があなたは十人の息子以上のものと慰めます。そうすると、もう一人の妻はそれが気に入らないので、また、彼女を悩ませる…という悪循環です。家庭の中がどんよりと暗い空気がただよっていました。
そこで、ハンナは主の神殿に上って行った時に、その心の痛みをもって、主の前に激しく泣いて、心の内で祈りました。そして、誓願を立てました。。男の子を授けてくださるなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭に、かみそりを当てません、と。彼女の口元だけ動いていたので、それを見た祭司エリが酒によっているのではないかと誤解します。ハンナは答えます。「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。…私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」(1:15-16)。イスラエルの神が願いをかなえてくださるようにと祭司に言われ、ハンナは晴れやかに帰って行きました。
主が彼女を心に留められたので、妊娠し、男子を産み、サムエル(その名は神)と命名しました。このサムエルこそ、後に、神に選ばれた王をたてて、王国制度を樹立し、イスラエル国家を安定へと導く人となるのです。主によって胎が閉ざされて、出産が不可能だったにもかかわらず、ハンナが祈りによって、その事を変えたのです。台所の壁に小さな飾り物が掛けてあります。‘PRAYER CHANGES THINGS’(祈りは事を変える)。彼女の人生においても、イスラエルの歴史においても、決して、夜明けは来そうにない、しかし、祈りによって、夜明けが来たのです。
ハンナは酒に酔ったのでもなく、祈りに酔っていたわけではありません。つのる憂いといらだちを吐き出し、心を注ぎだし、涙を流し、祈ったのです。「万軍の主よ。…はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れ」ないで、男の子を与えてくださいと祈ったのです(1:11)。ただ、自分の幸せのためではなく、男の子が与えられたら、一生を主にお献げしますと誓ったのです。私たちも通り一遍の祈りではなく、主の前につのる憂いといらだちを吐き出し、心を注ぎだし、涙を流し、祈りましょう。簡単にあきらめないで、万軍の主よ、この僕(しもべ)の悩みを顧みて、私を心に留め、この僕を忘れないで、願いをかなえてくださいと祈りましょう。私自身をあなたにお献げしますと祈れるまで祈りましょう。
そうするなら、‘PRAYER CHANGES THINGS’自分の人生においても、教会の歴史においても、決して、夜明けは来そうにない、しかし、祈りによって、夜明けが来るのではないでしょうか。「祈れ物事 皆ままならず、胸に憂いの 雲閉ざすとき、祈れよし道は 暗くあるとも、祈れすべてを 主にゆだねて」(新聖歌196)。
◇大いなる夜明け前
さて、1サムエル記1章は28節ありますが、「主」及び「神」という語が24回、ほぼ、一節毎に出てきます。ハンナの祈りが夜明けをもたらしたようでいて、ほんとうは主なる神が憐れみをもって、すべてを導いておられたことを表しています。手を合わせ祈るハンナも、主なる神の御手の中にあったのです。聖霊にうながされて、心を注ぎだせたのですし、聖霊によって誓願にも導かれ、信仰の祈りにも、献身の祈りにも導かれたのです。
ですから、サムエルが乳離れして、ハンナは神殿に行き、礼拝し、その子を誓願の通り、主にお渡しますと言って、祭司に渡しました。その時のハンナの素晴らしい祈りの詩が、1サムエル記2:1-10に載っています。それから、約千年後、救い主イエス・キリストが聖霊によっておとめマリヤからお生まれになります。受胎したマリヤが主を賛美しますが、その賛歌はハンナの祈りが示唆(しさ)を与えたことは明らかです(ルカ1:46-55)。救い主の誕生によって、まことの光があって、世に来られ、まことの夜明けが来たのです。しかし、また、夜はふけて、再臨の主の現れる、昼が近づいています。大いなる夜明けが近づいているのが今の時です(ヨハネ1:9、ローマ13:12)。そのような終末の時、「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)。
主の再臨の大いなる夜明けの近いこの時、私たち神の子らはハンナのように心を注ぎだし、涙し、御霊の助けにより、うめく祈りをいたしましょう。万軍の主よ、この僕(しもべ)の悩みを顧みて、私を心に留め、この僕を忘れないで、僕の家族、友人、知人、同胞、隣人の救いの願いをかなえてくださいと祈りましょう。私自身をあなたにお献げしますと御霊によって祈れるまで祈りましょう。