オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

夜明け前、ハンナの祈り

2010-05-30 00:00:00 | 礼拝説教
2010年5月30日 主日礼拝(1サムエル記1:12-28)岡田邦夫


 「エリは答えて言った。『安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように』」。1サムエル1:17

 マルチン・ルターが詩篇46篇をもとに作詞した、新聖歌280「神はわがやぐら」は有名です。その詩篇は「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」で始まり、5節には「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」とあります。神の助けが「夜明け前に」あるという信仰の詩です。

◇夜明け前
 夜明け前が最も暗く、静かですが、東の空がゆっくり明るみ始め、太陽が顔をだすと、一挙にまぶしい朝となり、小鳥がさえず、自然界が活気づきます。イスラエルの歴史の上で夜明け前という時がありました。士師記の最後にこう記されています(21:25)。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」。信仰的に堕落し、政治的に混乱し、闇に閉ざされていました。
 その時の祭司はエリ。その息子たちはよこしまな者で、主を知らず、祭司の定めをやぶり、主を侮り、民がたずさえてきたいけにえの肉を勝手に食べてしまうというようなひどい状態でした。また、天幕で仕える女性に手を出すというというような最悪の状況でした。しかも、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」という暗雲たちこめる国情でした(2:12-17、22、3:1)。しかし、「神のともしびは、まだ消えていず」(3:3)と聖書が述べているように、この暗闇も夜明け前の闇なのでした。

◇夜明け
 夜明けはどこから始まったかというと、ゴタゴタしたエルカナという人の家庭からでした。彼にはペニンナとハンナという二人の妻がおりまして、ペニンナには子供がおり、ハンナは不妊症で子供ができず、それでまた、夫がハンナの方を偏愛しているというのですから、複雑です。ペニンナはハンナを憎み、子がないことで気をもんでいる彼女をいらだたせ、思い悩ませていたのです。つらくて、ハンナは泣いて、食事もしません。夫があなたは十人の息子以上のものと慰めます。そうすると、もう一人の妻はそれが気に入らないので、また、彼女を悩ませる…という悪循環です。家庭の中がどんよりと暗い空気がただよっていました。
 そこで、ハンナは主の神殿に上って行った時に、その心の痛みをもって、主の前に激しく泣いて、心の内で祈りました。そして、誓願を立てました。。男の子を授けてくださるなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭に、かみそりを当てません、と。彼女の口元だけ動いていたので、それを見た祭司エリが酒によっているのではないかと誤解します。ハンナは答えます。「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。…私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」(1:15-16)。イスラエルの神が願いをかなえてくださるようにと祭司に言われ、ハンナは晴れやかに帰って行きました。
 主が彼女を心に留められたので、妊娠し、男子を産み、サムエル(その名は神)と命名しました。このサムエルこそ、後に、神に選ばれた王をたてて、王国制度を樹立し、イスラエル国家を安定へと導く人となるのです。主によって胎が閉ざされて、出産が不可能だったにもかかわらず、ハンナが祈りによって、その事を変えたのです。台所の壁に小さな飾り物が掛けてあります。‘PRAYER CHANGES THINGS’(祈りは事を変える)。彼女の人生においても、イスラエルの歴史においても、決して、夜明けは来そうにない、しかし、祈りによって、夜明けが来たのです。
 ハンナは酒に酔ったのでもなく、祈りに酔っていたわけではありません。つのる憂いといらだちを吐き出し、心を注ぎだし、涙を流し、祈ったのです。「万軍の主よ。…はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れ」ないで、男の子を与えてくださいと祈ったのです(1:11)。ただ、自分の幸せのためではなく、男の子が与えられたら、一生を主にお献げしますと誓ったのです。私たちも通り一遍の祈りではなく、主の前につのる憂いといらだちを吐き出し、心を注ぎだし、涙を流し、祈りましょう。簡単にあきらめないで、万軍の主よ、この僕(しもべ)の悩みを顧みて、私を心に留め、この僕を忘れないで、願いをかなえてくださいと祈りましょう。私自身をあなたにお献げしますと祈れるまで祈りましょう。
 そうするなら、‘PRAYER CHANGES THINGS’自分の人生においても、教会の歴史においても、決して、夜明けは来そうにない、しかし、祈りによって、夜明けが来るのではないでしょうか。「祈れ物事 皆ままならず、胸に憂いの 雲閉ざすとき、祈れよし道は 暗くあるとも、祈れすべてを 主にゆだねて」(新聖歌196)。

◇大いなる夜明け前
 さて、1サムエル記1章は28節ありますが、「主」及び「神」という語が24回、ほぼ、一節毎に出てきます。ハンナの祈りが夜明けをもたらしたようでいて、ほんとうは主なる神が憐れみをもって、すべてを導いておられたことを表しています。手を合わせ祈るハンナも、主なる神の御手の中にあったのです。聖霊にうながされて、心を注ぎだせたのですし、聖霊によって誓願にも導かれ、信仰の祈りにも、献身の祈りにも導かれたのです。
 ですから、サムエルが乳離れして、ハンナは神殿に行き、礼拝し、その子を誓願の通り、主にお渡しますと言って、祭司に渡しました。その時のハンナの素晴らしい祈りの詩が、1サムエル記2:1-10に載っています。それから、約千年後、救い主イエス・キリストが聖霊によっておとめマリヤからお生まれになります。受胎したマリヤが主を賛美しますが、その賛歌はハンナの祈りが示唆(しさ)を与えたことは明らかです(ルカ1:46-55)。救い主の誕生によって、まことの光があって、世に来られ、まことの夜明けが来たのです。しかし、また、夜はふけて、再臨の主の現れる、昼が近づいています。大いなる夜明けが近づいているのが今の時です(ヨハネ1:9、ローマ13:12)。そのような終末の時、「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)。
 主の再臨の大いなる夜明けの近いこの時、私たち神の子らはハンナのように心を注ぎだし、涙し、御霊の助けにより、うめく祈りをいたしましょう。万軍の主よ、この僕(しもべ)の悩みを顧みて、私を心に留め、この僕を忘れないで、僕の家族、友人、知人、同胞、隣人の救いの願いをかなえてくださいと祈りましょう。私自身をあなたにお献げしますと御霊によって祈れるまで祈りましょう。

幸いなるかな

2010-05-23 00:00:00 | 礼拝説教
2010年5月23日 伝道礼拝(マタイ福音書5:1~31)岡田邦夫


  「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

 「お幸せに」というあいさつはいいものだと思いますが、結婚の時におくる以外はあまり使いません。また、「ご多幸をお祈りします」も時に応じて使いますが、それほど、多くはありません。たいていの人や家族が幸せでありたいと願っているのにもかかわらず、不思議なことです。それは多分、自分や家族や身内の幸せを思う思いに傾いていて、自分は不幸になっても、他人が幸せなってほしいとは、普通思わないからではないでしょうか。時には他人の不幸を喜んだりするエゴイズムが顔を出します。なかなか、世界中の人が幸せでありますようにと祈らないものです。
 それは幸せという状態をそれぞれがイメージしているからでしょう。金や家がないより、あった方が幸せ、美貌がないより、あった方が幸せ、結婚をしないより、した方が幸せ、子供がいないより、いた方が幸せ、学歴とか名誉とかないより、あった方が幸せ…、どれも、人と比べた自分のことです。それでも、幸せを求めることで、自分を向上させ、心が豊かになっていくなら、その人は幸せです。
 わが家にいただいたもので、あいだみつお氏の言葉のある小皿があります。その一つが「しあわせはじぶんできめるもの」。金があっても、幸せと思わない人もいれば、金がなくても、生きていられるだけで幸せと思う人もいます。幸せは心の持ちようだと言われます。どういう状況でも、幸せと思える心の豊かさを持てるならその人は幸せです。

◇幸せ<祝福
 しかし、イエス・キリストが山の上での教えは、八福の教えと呼ばれている八つの幸せで始まりまり、「心の貧しい者は幸いです。」が冒頭にきます。それだけを見ますと何か逆説的に見えて、理解しにくい言葉です(マタイ5:3)。しかも、後に続く言葉「天の御国はその人のものだからです。」とどう結びつくのか、考えさせられるる詩文です。
 「幸い」は英語ではブレッセド(祝福)と訳されています。祝福は聖書の重要テーマです。神が天地を創造され、ご自分のかたちに人を創造された時、「生めよ。ふえよ。地に満たせ。」と仰せられて、祝福されました(創世記1:27-28)。私たちは創造者に祝福されて生まれてきたのであり、創造者に祝福されて生きているのだということです。しかし、人は神のようになろうと高慢になり、創造者に背き、罪を犯し、神から離れてしまいました。そこで、神は人を罪の滅びから救い、本来的な祝福を与えようと、アブラハムという人を選び、祝福し、祝福の源としました(創世記12:2)。そして、神は私たちを罪からの救い主イエス・キリストを遣わし、十字架において、私の罪の身代わりに死んでくださり、神の懐に帰る道を開いてくださいました。その救い主イエス・キリストの祝福の言葉がこの山の上の言葉です。

◇天の門<針の穴
 ですから、この一節一節の後半が救いの言葉であり、救いのドラマがあるのです。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」の慰めはただの慰めではなく、神の慰め、救いの慰めのことです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」も救いのドラマがあるのです。イエス・キリストのもとに、若い金持ちの役人が「先生、永遠の命を得るにはどうしたらよいでしょうか。」と聞いてきました。十戒の倫理を守っていると言いますので、財産を売って、貧しい人に施すよう、イエスは命じます。それはできないと、その青年は悲しんで去っていきました。そこで、イエスは弟子たちに「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。…それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」と言われました(マタイ19:16-26)。
 この青年、地位も財産も名誉もあって、品行方正、豊かな生活で幸せであったでしょう。しかし、その延長線上に神の国があるのではありません。別の所にあるのです。一方、弟子たちは彼のようなものをどれも持っていなかったかも知れませんが、イエスにささげた生き方を選びました。それで、イエスは彼らに神の国で永遠の命が与えられること保障されました。神の国の門は狭く、人の努力ではらくだが針の穴をとおるより難しいのですが、へりくだり、悔い改めて、信じて、まかせる時に入れるのです。なぜなら、イエス・キリストが十字架において罪のあがないをなしてくださって、神の国の門となってくださったので、イエス・キリストによって、すっと入れるのです。人にはできないことですが、神にはできることなのです。
 神のみ前で、心が貧しいと思う人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

◇ゴルゴダ<パラダイス
 イエス・キリストの周辺には心の貧しい者がたくさん出てきます。イエスの十字架の両どなりに犯罪人がかけられました。ひとりはイエスに悪口を言いますが、ひとりはそれをたしなめ、イエスの向かってこう求めます「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42新共同訳)。イエスのお答えはお前のような犯罪人、心の貧しい者が御国にはいけないとは言いません。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と救いの言葉を告げました。楽園としての天の御国を約束されました。今日だと言われました。この男の人生は不幸でした。どこで道を間違えたのか、犯罪を犯してしまい、十字架の極刑を受けなければならなかった。人からは呪われて死んでいく。多分、先は地獄しかないだろう。しかし、不幸ではなかった。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。十字架のキリストに「わたしを思い出してください(リメンバーミー)。」と悔い改めて、祈ったら、楽園の幸福が与えられたのです。

 木田仁逸(じんいち)という牧師さんの書いておられることです(百万人の福音02年2月号別冊より)。私の育ての父が進行性筋萎縮症という難病をもっておりました。20歳のころ発病し、67歳で天に召されるまで、病気ゆえのさまざまな苦しみや葛藤がありました。最後はガンに冒されて、病苦と経済苦からは一生逃れられない人生でしたが、臨終に近いある日、母にこう言ったそうです。
 「オレの人生、幸せだった」
 父はかつて共産主義者で、神の存在を否定して、幸福な社会を熱心に求めていました。しかし、聖書の教えに触れ、イエス・キリストに出会ったのです。人の不幸の根源である罪を身代わりに背負い、むごい十字架にまでかかって死んでくださったキリスト。そのキリストの愛に、父は生かされてきたのでした。ある時、私は父にあえてこんな質問をしたことがあります。「もし、神さまが病気を治してくださると言ったら、どうする」。私は当然、父が、「治してもらう」と即答すると思っていました。しかし、父はしばらく考えてから言いました。「どちらにしたらいいのか分からない。どうしてかというと、この病気になったからこそ、神さまを信じることができたから…」と。父のことばに驚くと同時に、キリストの愛とは、不治の病さえ克服させるものなのかと、深く考えさせられました。
 身体のハンディ、貧しさ、心の葛藤…、そのすべてを越えてなお、「幸せだった」といえる人生。すべての人に、そう、あなたにも、「生きるって、すばらしい」と言える人生が用意されています。少し心を開いて、神の愛にふれてはいかがでしょうか。


ナジル人・サムソン

2010-05-16 00:00:00 | 礼拝説教
2010年5月16日 主日礼拝(士師記13:1~15:20)岡田邦夫
みのお泉教会にて

「見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」士師記13:5

 「不思議の国のアリス」のディズニーによるアニメーション映画(1951年)を観に行ったのは私が小学生の時でした。不思議な世界に引き込まれていく心の高まりを覚えました。これは寓話です。しかし、聖書の世界では、歴史なのですが、不思議な出来事が数多く見られます。

◇誕生の不思議
 奇妙というか、不思議なのがサムソンの話です。ですから、読者にとっては印象に残る面白い話ですが、信仰者はそこから、メッセージを聞き取り、恵まれる必要があります。
 ヨシュアによってカナン地方を獲得したイスラエルという国は主を信じる宗教による十二部族連合でした。ですから、宗教が乱れると、社会内部が乱れ、外国から侵略や圧政を受けてしまいます。そのような危機の時に、主の霊に押し出された人物があらわれ、民を主への信仰に帰らせ、外敵から解放し、救いに導きます。それが「士師」(さばきつかさ)です。
 この時も、イスラエル人は主の目の前に悪を行い、40年もの長い間、たいへん強い民族、ペリシテ人に支配されていました。この危機の時にみ使いが働きかけます。マノアという人の妻は不妊症で子供がいませんでした。主の使いが彼女に現れます。「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める」のです(13:3)。
 妻はマノアにこの御告げを報告しますと、マノアは神の人をもう一度、夫婦のところに来てほしいと願います。願いがかない、主の使いがマノアにも現れ、最初の御告げ通りのことを告げます。充分わかっていないマノアは尋ねます。「お名まえは何とおっしゃるのですか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちは、あなたをほめたたえたいのです」。み使いの答えは「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」でした(13:17ー18)。マノアが主へのささげ物として、子やぎと穀物を岩の上にささげ、炎が祭壇から天に上っていった時、主の使いは祭壇の炎の中を上って行くという不思議な光景を二人は見ました。彼らは地にひれ伏しました。「その後、この女は男の子を産み、その名をサムソンと呼んだ。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。」のです(13:24)

 「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」という主の使いの言葉は名を明かすことを避けているような雰囲気です。きっと、主なる神の御名だけが崇められることを指し示し、神の不思議を暗示しているのでしょう。ある英語の聖書では‘ビヨンド・アンダスタンティング’(理解を越えた)と訳しています。人の理解を越えた存在、領域を、聖書では聖なる神、聖なる所と言います。今、ペリシテ人の支配下に苦しむ、惨めなイスラエル人ではありますが、聖なる神、不思議なお方が今、臨んでくださったのです。イスラエルに聖なる領域から助けが来るのです。
 私たちの住む罪に満ちたこの世に、私たちを救うため、聖なる所から、救い主が遣わされ、みどりごとして生まれました。クリスマスのことです。イザヤの「そ名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる方です(イザヤ9:6)。ペリシテのような、私たちを支配し、圧迫し、苦しめているこの世にある私たちのただ中に、理解を越えたところから、神は不思議な助言者、不思議な救助者、イエス・キリストを遣わしてくださいました。どうか、この「人知をはるかに越えキリストの愛を知ることができますように」(エペソ3:19)。

◇怪力の不思議
 サムソンという人物も不思議な生き方をします。「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」(13:5)。生まれる時から、誓願のためのナジル人。聖別された生き方で、頭にかみそりを当てないこと(酒を飲まないこと、死体に近づかないこと)が誓願のための条件です(民数記6:1-21)。ペリシテ人から救うための聖別です。
 人は禁欲的な生活をすることで、魂の感性が霊的に研ぎ澄まされます。広い意味で、修道僧はそれを求めるのでしょう。多くは自分の魂を高めるために、修行をし、修道をするのでしょう。しかし、「神へのナジル人」は自己目的でなく、民を救いに導くために禁欲する人だと思います。魂が研ぎ澄まされてこそ、いっそうみ声を聞くことが出来、み旨に従って、民を裁くことが出来るというものです。

 それで、「主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始め」ました(13:25)。そして、主によって不思議な行動に出ます(14:4)。
 ペリシテ人の娘が気に入ったから、妻に迎えたいと両親に言い出し、その家に迎います。そこで、祝宴を催すと30人の客が来ました。その時、サムソンは1つの謎かけをします。祝宴の7日の間に解けるかどうか、着物30着と晴れ着30着を賭にすることにしました。なぞは…
 「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た。」(14:14)
 相手は解けるはずはありません。祝宴の前に、サムソンがとった単独行動のことだかからです。ティムナのぶどう畑にやって来た時、一頭の若い獅子がほえたくり、彼に向かってきた時、「主の霊が激しく彼の上に下」りました(14:6)。すると、まるで子やぎを引き裂くように、獅子を素手で引き裂いてしまったのです。彼女に会った後、再び、その死んだ獅子の中に蜜蜂の群と蜜があり、それを歩きながら食べ、獅子のことは内緒で両親にも差し出していたのです。サムソン自身しか知らないこと、このなぞが解けるはずがありません。
 その30人の方はどうしても解けないので、彼の妻に、夫から答を聞き出さないと、父と家を焼いてしまうとおどします。妻はサムソンに、愛があるなら教えてほしいと泣きすがり続けます。ついに7日目、彼は答を明かします。彼女は町の人にそれを漏らし、彼らは「蜂蜜より甘いものは何か、獅子より強いものは何か。」と謎かけを返します。事の次第を見抜いて、サムソンは言います。「わたしの雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかっただろう」(14:18)。彼は決着をつけます。「そのとき主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰った。」のです(14:19)。

 このサムソンの一見奇妙に見える一連の工作、行動は、ペリシテの支配下にあるイスラエルを救う事始めなのです。「主の霊は…彼を揺り動かし始め」、聖別されたナジル人の霊に、聖霊の感動が共振、共鳴し始めたのです(13:25)。「主の霊が激しく彼の上に下」り、ナジル人の霊が共振、共鳴し、獅子を素手で引き裂くことができです(13:6)。また、「主の霊が激しく彼の上に下」り、ナジル人の霊が共振、共鳴し、ペリシテの住民30人を打ち殺すことができ、イスラエル救済行動の歩み出しをしました(13:9)。
 私たちキリスト者は主の前に自由です。しかし、使命のために、ナジル人的禁欲の部分が必要ではないでしょうか。御前に魂が冴えていて、み旨を敏感に感じ、聖霊の感動に神の子の霊が共鳴、共振出来るためです。私たちは自己目的的な狂信者ではなく、神と人のための聖霊「共振」者となり、神のみ業を行う者となりましょう。

勝てるのか、ギデオンの三百で

2010-05-09 00:00:00 | 礼拝説教
2010年5月9日 主日礼拝(士師記6:33~7:25)岡田邦夫

 「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」士師記7:7

 私が中学生時代、職業課程という授業があって、ある時、先生がこう話しました。「みんな、バカになれよ。仕事に就いたら、どんなつまらない仕事でも、馬鹿正直に続けてごらん。必ず人に認められて、良い仕事が出来る人間になれるから」。この時代の教師の勧めでした。バカになれというのは誠実さとか、一途さが道を開くという人生訓です。きょうの「ギデオンの三百」の話は常識からすれば、バカみたいな話です。それでも、神を信じ貫いていった話です。そこに「信仰訓」があります。「信仰は 馬鹿になること ひたすらに」(川柳)。

◇誰の計算によるのか
 これから、戦いが始まるという緊迫した空気が流れていました。敵はミデヤン人、アマレク人、東の人々の連合軍。イズレエルの谷に陣を敷いていました。こちらはというと、神の召命を受けたギデオンが主の霊におおわれて、角笛を吹き鳴らますと、アビエゼル氏族が集結してきます。さらに広くマナセ部族に呼びかけ、さらに、アシェル部族、ゼブルン部族、そしてナフタリ部族に使者を遣わしますと、合流し、ハロデの泉のそばに陣を敷いたのです。
 これまで、ミデヤン人らには全く制圧されていたので、ギデオンにはこの戦いが神の命じられたこととはいえ、不安でたまりません。神にしるしを見せてほしいと願います。一頭分の羊の毛のところだけ露が降りるように、次に、濡れた羊の毛だけが渇くように…と。その通りになり、主がいっしょに戦ってくださると確信を得、命じられた通りに行動に出ます。
 普通、戦力は数です。しかし、主は多すぎるから、減らしなさいと言われます。ギデオンが、恐れおののく者は帰れと言うと、2万2千人が帰っていき、残ったのは1万人。敵はというと「ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。」というのにです(7:12)。これではますます勝ち目は皆無です。それでも、主は多すぎると言われ、その1万人を水の所に連れて行き、テストします。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ」(7:5)。その時、ひざをついて水を飲んだのが大多数です。敵を意識して、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人でした。このわずかな三百人だけで戦えというのですから、常識的には実に無謀でバカげています。
 しかし、これには神の計算があったのです。少なくしたのは「イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」という信仰的な理由です(7:2)。この三百人はいつも敵を意識して行動をとる、「敵前感」を持っている人たちでした。そして、私たち信仰者の真の敵は悪の霊です。新約聖書にこう強く述べられています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エペソ6:11ー12新共同訳)。私たちはしっかりと「敵前感」の信仰に立っていきましょう。

◇誰の計略によるのか
 そして、いよいよ、戦いです。ギデオンの取った作戦はたいへん変わったものです。「彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛とからつぼとを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れさせた。」のです(7:16)。そして、真夜中の番兵の交代したばかりの時間、陣営の端に着いたギデオンが角笛を吹きならします。すると、全陣営、回りの百人ずつの三隊が、一斉に角笛を吹きならし、つぼを打ち砕き、左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣(つるぎ)、ギデオンの剣だ。」と叫び(7:20)、各自持ち場を守り、敵陣を包囲したのです。
 この奇襲作戦、敵をおどかすには効果的でしょうが、通常の感覚からすれば、敵はいなごのような大群、その後、勝てる見込みはおよそないわけです。しかし、これを決行させたのは主。最も確かで、賢い神の作戦行動なのです。ギデオンは出陣前に主に命じられました。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない」(7:9-11)。夜のことです。

 そこで、ギデオンと若者が、陣営の中の編隊の端に行き、偵察。すると、ひとりと仲間に「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまではいり、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」と話をしています。仲間は夢解きをします。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ」。敵陣でこんな言葉を聞くとは驚き。彼は敬虔に主を礼拝します。主は敵の脳裡にまで入り込み、夢の世界で工作活動をしておられるのです。そのしるしをギデオンに見せたのです。
 確信を得て、彼は出陣命令を出します。「立て。主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった」(7:15)。作戦通り、ときの声をあげました。「主の剣(つるぎ)、ギデオンの剣だ」。真夜中の突然の声と光、手元は暗い。「三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。それで陣営は…逃げた。」というのです(7:22)。後は敵を追撃し、分捕り物を得るため、ナフタリ、アシェル、マナセから、軍を招集したのです。陽動作戦は大成功。主が敵に働きかけ、同士討ちをさせ、イスラエルは最小限の力で、最大限の結果を得て、いなごのような連合軍の圧制下から解放されたのです。歴史に残る大勝利でした(イザヤ9:4-6参)。
 ギデオンの三百、決して、愚かな作戦ではなく、最も賢い作戦でした。主の御名が崇められる戦いでした。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(1コリント1:25)。私にとって、真の戦いは罪との戦いです。ミデアンではなく、罪の圧迫からの救い、解放の戦いです。神は私たちを救い、罪から解放するため、最愛の御子を十字架にかけて、贖いとされました。世俗の論理からするなら、実に愚かな仕方でした。しかし、「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」…1コリント1:21、18

◇誰の傾注によるのか
 このように、ギデオンを突き動かした、もう一つのことがあります。「主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。」(6:34)の「主の霊がギデオンをおおったので」が重要な点です。ヘブル語で「おおう」は「服を着る」という意味もあります。ダニエルがバビロンで難問を解き明かした時、「ベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。」とあります(ダニエル5:29)。紫の服を着せられるのは権威を着せられることです。マリヤが受胎告知の時、御使いが言った言葉もこうでした。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(ルカ1:35)。聖霊の服を着せられ、いと高き方の力でおおわれたのです。ギデオンは軍服ではなく、主の霊の服を着せられたのです。いと高き方の権威の服を着せられたのです。
 その神の権威がアビエゼル人を集め、マナセ族及び他の部族を集め、彼に従わせ、大多数の兵を山に退かさせ、三百だけ引きとめることにも従わせたのです。その神の権威が三百人の奇襲作戦にも、全員が従い、角笛を吹き鳴らし、「主の剣、ギデオンの剣」とためらうことなく叫ばせたのです。結果は常識なら、信じがたい勝利、思わぬ解放でした。私たちは「天にいる悪の霊」を意識し、「敵前感」の信仰を持つと同時に、「いと高き方」を意識し、「御前感」の信仰を持ちましょう。聖徒(たち)には、主の霊がおおっている、聖霊の服を着させていただいているのだと信じましょう。

弱いからこそ

2010-05-02 00:00:00 | 礼拝説教
2010年5月2日 主日礼拝(士師記6:1~32)岡田邦夫


 「主の使いが彼に現われて言った。『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』」士師記6:12

 私たちは強い人と弱い人とに分け、それに応じた対処をしています。スイスの精神科医ポール・トルニエは「強い人と弱い人」の著書で、強い人も弱い人も、ほんとうは弱い、だから、その弱さを受容することで、真に強くなれるのだと述べています。きょうは聖書のこのところから、「弱いからこそ」をキーにして、信仰の話をしたいと思います。

◇弱いからこそ…呼び求める
 今日でも、世界のどこかで紛争があります。士師記においても、紛争、戦争が絶えず繰り返し行われていたことが記されています。このところでは、「ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。」とあります(6:2)。そのように強い敵に圧迫されて、さらに種を蒔き、収穫時になると、ヨルダンの東のミデヤン人だけでなく、南のアマレク人や、東の人々がいなごの大群のようにやって来ては、イスラエル人を襲って、略奪をしていったのです。羊や牛やろばのためのえささえも残さなかったというのですから、ひどいものです。このような状態が、7年も続いたのです。
 「それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。」のです(6:6)。私たちの人生の中でも、大変な圧迫を受けたり、大事なものを奪われたりすることがあります。それが続けば弱ります。「困った時の神頼み」のことわざは、困窮時にはあてはまりません。このような時こそ、神に助けを求めるのです。弱いからこそ、格好をつけずに祈るのです。イスラエルの人々は主の目の前に悪を行なって、その結果、このような大変な辛い目にあっていたのですが、それでも、主に叫び求めたのです。主は決してその求めを拒否したりしません。

◇弱いからこそ…いっしょにいる
 「イスラエル人がミデヤン人のために主に叫び求めたとき」、神の助けの手が伸ばされました(6:7)。預言者が遣わされ、人々に告げます。主は、あなたがたをエジプトの奴隷の家から連れ出し、すべての圧迫する者を追い出して、国を与えて、エモリ人の神々を恐れるなと言ったのに、わたしの声に聞き従わなかったと…。その上で、主の使いが一人の男に現れます。
 ミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていたヨアシュの子ギデオンです。「ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」というような、弱い者でした。弱い者をあえて主は選ばれたのです。弱いからこそ、イスラエル救済にふさわしい器だとし、選ばれたのです。主が告げられた言葉をつなげてみましょう。
 「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか」。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」…(6:12、6:16、6:14)
 主がいっしょにいるから、あなたのその力でよい。主がいっしょにいるから、あなたは勇士だ。エジプトの圧迫から救い出し、すべての圧迫者を追い払ったわたしが、あなたを遣わすのだ。主がいっしょにいるのだから、あなたはひとりを打ち倒すように敵を打ち破る…というのです。弱い者だからこそ、主がいっしょにおられて、大きな力を発揮するのです。
 パウロは「この世の弱い者を選ばれたのです。」と言い、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と言っています(1コリント1:27、2コリント12:10)。そして、自分を「使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です…が、神の恵みによって、…私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」と述懐しています(1コリント15:9ー10)。世の中では、大きい器、強い器が用いられるのですが、教会では小さい器、弱い器が用いられるのです。私たちの罪のために十字架にかかり、死んでよみがえられ、勝利された主がいっしょにいるから、私が弱いときにこそ、私は強いのです。
 パウロと共におられた主、ギデオンと共におられた主は弱いあなただからこそ、共にいて、勝利に導かれるのです。

◇弱いからこそ…取りこわす
 ギデオンは供え物をするので、み告げのしるしを見せてほしいと頼みます。一匹のやぎの子を料理し、一エパ(23リットル)の粉で種を入れないパンを作り、その肉をかごに入れ、また吸い物をなべに入れ、樫の木の下にいるみ使いのところに持って来て、供え、岩の上に置きました。主の使いが杖の先を伸ばし、触れると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉とパンを焼き尽くしてしまい、主の使いは去って見えなりました。この聖臨在にふれたギデオンは恐れますが、主から、安心が与えられ、父の所有する偶像、バアルの祭壇を取りこわし、アシェラ像を切り倒せと命じられます。また、主の祭壇を築き、全焼のいけにえをささげよと…。
 ギデオンはしもべ10人を連れて実行しますと、町の人々に知られ、殺されそうになりますが、父ヨアシュが弁護して助かります。父は回心したのでしょうか、その言い方に注目したいです。「もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ」(6:31)。物も言わず、何も出来ない偶像への痛烈な皮肉です。その日、ギデオンはエルバアル(バアルは自分で争えばよい)と呼ばれました。
 しかし、「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。」とありましたように(6:1)、真の神、主が見えないためか、見える方が確かだと思って、偶像に頼ってしまう「弱さ」があったのでしょう。また、聖なる神のもとで清い生活をおくるより、欲望の化身である偶像のもとで気ままに生きたほうが幸せと思う、愚かさ、罪深さがあったのでしょう。旧約聖書にはよく、他民族との紛争、戦争が出てきますが、ほんとうの戦いは偶像との戦いなのです。人は偶像信仰に「弱い」のです。ギデオンの戦いの最初は偶像との戦い、偶像の破壊でした。
 私たち、信仰者の戦いも偶像との戦いであり、偶像の虜(とりこ)から解放され、真の神、イエス・キリストのもとに導かれることです。弱いからこそ、偶像に警戒しなければなりません。ヨハネ第1の手紙の結びはこうです。「神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」(5:20ー21)。

 私たちが困難に弱いからこそ、イエス・キリストを呼び求めるのです。
 私たちが世間で弱いからこそ、全能の神がいっしょにおられるのです。
 私たちが偶像に弱いからこそ、聖霊によって取りこわしていただくのです。