オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

キリスト者の完全

2011-09-11 00:00:00 | 礼拝説教
2011年9月11日 主日礼拝(マタイ5:17-48)岡田邦夫


 「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」マタイ福音書5:48

 テーマが「教職」だったためか、新聖歌には入れられなかった聖歌215「キリストのあいと」はこのような歌詞でした(もがな=ないものかなあ)。
  1 キリストの愛と正しき教えを 日々生活する良き教師もがな
  2 すぐれし思いと高き人柄に 民に尊ばるる神の人もがな
 神の国がこの世に実現するために、このような主にある高潔な教職がいないものかなあと訴える歌だと思います。5~7章の山上の説教では天の御国=神の国での人々のあり方を示しています。あなたがたは、地の塩です。あなたがたは、世界の光ですと宣言され、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と証し人としての使命を与えらています(5:16)。言い換えれば、私たちは神の国の「国作り」に召されているのです。

◇聖なる神の国作りは召された者の手に
 かつて、イスラエルの民は主なる神の救いの手が述べられて、エジプトの奴隷の家から解放され、荒野の旅の中で神の民として導かれていきました。そして、カナンの地に国を建設するにあたり、その入国前にモーセを通して、神の下での国作りの理念と構想が述べられました。それが申命記です。神に選ばれたイスラエルは「聖なる民」だと宣言され(申命記7:6、14:2、21)、それだから、主の命令を守っていくなら、全く「聖なる民」となるのだと神が約束しました(申命記26:19)。そして、イスラエルがこれを守らなかったとはいえ、神の約束は生きているのです。イエス・キリストが父なる神の御許から私たちの所に来られ、「悔い改めなさい。天の御国(神の国)が近づいたから。」と告げられました(マタイ4:17)。そして、第二のモーセとして、それを越える方として、新しい御国建設を宣言されました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(5:17)。

 そして、私たちが「新しい聖なる民」となるために、申命記などの命令を徹底させたメッセージが述べられていくのです。
 「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」(5:21)は兄弟に向かって腹を立てるだけで、「能なし」とか「ばか者」というだけで、神の国では殺人罪で裁かれるというものです。さらに恨まれていたら、仲直りをしなければ裁かれるとも言うのです。ですから、私たちはひたすら御前に悔い改めざるをえないのです。
「姦淫してはならない。」(5:27)は情欲をいだいて女を見るだけで、心の中で姦淫を犯したというのです。右の目(手)がつまずかせるなら、それを切り取って捨てなさい。からだ全体ゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりはよいからだという徹底ぶりです。
 「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。」(5:31)も、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。」(5:33)も同様に「聖」ということに徹底して厳しいです。
 最後はそのまま読んでみましょう(5:43-48)。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」。
 これほど格調高い教えはありません。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れという、これほど完全な戒めはないでしょう。世界がこうなれば、武器も、裁判所も、差別も、飢餓も…ほとんどの問題はなくなるでしょうから。しかし、あなたは現実にはとても出来ないと言うでしょう。でも、その通り生きた人がいます。使徒の働きに出てくるステパノがそうでした。彼が恵みと力に満ちて伝道していると、敵対する者たちが偽証人をたてて、裁判にかけますと、彼は聖書から説教をします。聞いた者はかえって逆上し、よってたかって、石を投げつけ殺してしまいます。ところが、ステパノは恨むことは決してなく、顔は輝き、「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と証詞し、「主イエスよ。私の霊をお受けください。…主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈って眠りについたのです。事実、聖霊が臨む時、このような力を受けて、キリストの証人になるのです(使徒1:8)。

◇聖なる神の国作りは召した方の手に
「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」の「ように」というのは不思議と力のある言葉です。肉親の親子ですと、容姿、容ぼうもそうですが、電話の出方、階段の折り方、食事の仕方などの仕草も生き方も似てしまうという現象があります。遺伝子のなせる業と一緒に暮らすことからくるものとあります。イエス・キリストの贖いにより、信仰により神子にされ、御霊の遺伝子が与えられたこと、いつも天の父と共に生きていると、天の父が完全なように、完全になっていくのではないでしょうか。その完全さというのは小さな子どもが親がやるようにやり、親が言うように言っているような未熟なものかも知れませんが、それでも「ように」なのです。ステパノはイエス・キリストをしっかりと見つめて生き、イエス・キリストの「ように」生きたのです。それが、導きにより、殉教という光栄ある形をとったのです。
 そして、新約聖書の最初の福音書のテーマは預言の成就です。実に遠大なテーマです。新しい聖なる民となるという神との契約をはたすために、イエス・キリストは来られたのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(5:17ー18)。旧約の律法や預言者の深い意味と意図をイエス・キリストが「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」と言われました。そして、それをイエス・キリストは、私たち聖なる民の代理者として、事実、十字架にかかり、その言葉を実行され、成就されたのです。十字架にかかり、死んでよみがえり、神の右に召天されたイエス・キリストが見えていたからこそ、ステパノの上にこのみ言葉が成就したのです。
 ある姉妹が結婚され、子どもにも恵まれたのですが、その主人が亡くなり、寂しいこともあって、しばらくして再婚しました。ところが、新しい主人は子どもを可愛がってくれないし、邪険にするものですから、耐えられなくなって離婚をし、実家に帰ってきました。その様な時にクリスチャンの姉の勧めで教会に行くようになりまして、悔い改め、主を信じて受洗しました。ところが、子どもに対してとった前夫の態度が許せなく、憎んでさえいたことが心の中のしこりになっていました。そうして、御前に祈っていますと、そのような自分の罪のために、イエス・キリストが十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分ではわからないのです。」と祈られたことを示されました。罪深い自分がそうして赦されていると思ったとたんに、彼への憎しみが不思議と消えていたのです。
 このように、イエス・キリストご自身が「敵をも愛せよ」という御言葉を様々な形で成就させてゆかれるのです。厳しい現実の中にも、そのような聖なる国作りをイエス・キリスト御自身の手によって信じる者を通してなされていくのです。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」は主イエス・キリストの手によってなされていくのです(5:48)。

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