2016年3月27日 イースター礼拝(ヨハネ福音書11:21~27)岡田邦夫
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」ヨハネ福音書11:25
朝の連続テレビ小説「あさが来た」が終わろうとしています。明治の女性実業家で、日本初の女子大学創立に尽力を注いだ「広岡朝子」という実在の方の生涯を、脚色しドラマ化したものです。晩年、クリスチャンになった方なので、それを期待しているのですが、ドラマはその前で終えてしまいそうで、残念です。タイトルの「あさが来た」には、あさ(朝)が来ると新しい世界が始まる、そんな社会を明るくするようなドラマにしたいという思いが込められたのことです。
ところで、ほんとうに素晴らしい朝は先ほど歌いましたように、復活の朝(イースター)なのです。「イースターの朝には白百合をいけまそう。イエスさまが命に帰られた良い日です…」(新聖歌128)。そして、イエスの復活はこの言葉のように、私たちをも復活に導くことなのです。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです』」(ヨハネ11:25)。
◇夜は近きにあり
イエスには親しくしていたマルタとマリヤとラザロの三人姉弟がおりました。ある日、弟のラザロが重い病気にかかり、その知らせがイエスのところに届きますが、すぐには駆けつけず、なお二日とどまってから、腰を上げます。そして、到着した時にはラザロは墓に葬られ四日もたっていました。姉のマルタもマリヤも「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆き訴えます(11:21,32)。イエスは涙を流し、ほら穴の墓に案内させ、大きな石を取りのけさせます。
主イエスは天の父に向って祈ってから、大声で叫びました。「ラザロよ。出てきなさい」(11.43)。すると、死んでいたラザロが顔も手足を長い布で巻かれたままで出て来たのです。ほどいてやるように言い、帰らせるのでした。眠りからさまますように生き返らせたのです。この死人が生き返るという奇跡は人を驚かせ、感心させるというものではなく、救いのメッセージを伝えるための「しるし」でした。マルタが嘆いた時の対話を見てみましょう(11:21-27)。
マルタ:「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
イエス:「あなたの兄弟はよみがえります。」
マルタ:「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
イエス:「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
マルタ:「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
「終わりの日」が来ることを知っておく必要があります。「置かれたところで咲きなさい」の著者、渡辺和子師がダグ・ハマーショルドという人の言葉を取り上げています。彼はスウェーデン出身の有能な外交官で、1953年から1961年まで国連事務総長を務めた人でした。今日も世界のあちこちで紛争が絶えませんが、当時もそうでした。植民地から独立を果たしたコンゴは内乱が激しく国連に援助を求め、再々、彼は現地におもむきました。その日もコンゴに向かっていました。その飛行機が墜落し、56歳の若さで亡くなってしまいました(後にノーベル平和賞が授与)。彼がその時、携帯していたのは、唯一、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣(なら)いて」だけでした。静かにものごとを考え、祈る敬虔なクリスチャンでした。召天後、日記が「道しるべ」という題で出版されました。次はその中の一つです。
「---夜は近きにあり」
過ぎ去ったものには---ありがとう
来たろうとするものには---よし!
「夜は近きにあり」は繰り返し出てくる言葉ですが、賛美歌の一句です(彼の母親が大みそかに、その詩をよく朗読していた)。「夜」は自らの死でもあり、歴史の終わりの日を指すのだと思います。自分が死ぬことなど遠いことのように思うのが普通ですが、死は近きにありと意識することが、人を思慮深くさせ、祈り深くさせ、人間らしくさせるのではないかと私は思います。今日の世界情勢も紛争があり、難民が多数生じ、自爆テロがあり、未来はバラ色ではない、世界の終わりの日近し!と感じる状況です。と言って、不安がってはなりません。ハマーショルドのように祈りと冷静さをもって対応すべきです。
◇朝も近きにあり
しかし、恐れなければならないのは、神が最後の審判を下す「終わりの日」です。人はどうして死が怖いのでしょうか。死後の神の裁きを予感するからでしょう。やましいことがなければ、安らかなはずですが、誰もが心の良心に問えば、穏やかではないはずです。その私たちの罪を赦し、救うために、イエス・キリストは私たちの身代わりに裁かれ、十字架で死んでくださったのです。自ら悔い改めて、主イエスを信じれば、赦されて、審判の時も裁かれないで救われるのです。
そして、素晴らしいことは、夜の後に「朝」が来るのです。ほんとうの平和な世界、神の国が現れるのです。病も涙も死も争いもない絶対平和な世界です。聖書に明確に預言されています。その時、死んで眠りについていた信者たちが目覚めさせられ、神の審判を免除され、栄光の姿に復活するのです。復活されたイエス・キリストと同じ姿にです。主イエスはマルタに、そして、私たちにそれを与えたかったのです。
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(11:25-26)。信じようではありませんか。
輝かしい朝が来るのです。信じる者には「朝も近きにあり」です。そして、復活の神を信じていく時、人生で失敗や挫折や失望という夜が来ても、やり直しという朝を迎えられるのです。患難という夜が来ても、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)。神があなたの人生を再生に導き、終わりの日に復活させようとしているのです。それは計り知れない神の愛があなたに注がれているからです。あなたはそれを信じますか。朝は近きにあり。
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」ヨハネ福音書11:25
朝の連続テレビ小説「あさが来た」が終わろうとしています。明治の女性実業家で、日本初の女子大学創立に尽力を注いだ「広岡朝子」という実在の方の生涯を、脚色しドラマ化したものです。晩年、クリスチャンになった方なので、それを期待しているのですが、ドラマはその前で終えてしまいそうで、残念です。タイトルの「あさが来た」には、あさ(朝)が来ると新しい世界が始まる、そんな社会を明るくするようなドラマにしたいという思いが込められたのことです。
ところで、ほんとうに素晴らしい朝は先ほど歌いましたように、復活の朝(イースター)なのです。「イースターの朝には白百合をいけまそう。イエスさまが命に帰られた良い日です…」(新聖歌128)。そして、イエスの復活はこの言葉のように、私たちをも復活に導くことなのです。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです』」(ヨハネ11:25)。
◇夜は近きにあり
イエスには親しくしていたマルタとマリヤとラザロの三人姉弟がおりました。ある日、弟のラザロが重い病気にかかり、その知らせがイエスのところに届きますが、すぐには駆けつけず、なお二日とどまってから、腰を上げます。そして、到着した時にはラザロは墓に葬られ四日もたっていました。姉のマルタもマリヤも「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆き訴えます(11:21,32)。イエスは涙を流し、ほら穴の墓に案内させ、大きな石を取りのけさせます。
主イエスは天の父に向って祈ってから、大声で叫びました。「ラザロよ。出てきなさい」(11.43)。すると、死んでいたラザロが顔も手足を長い布で巻かれたままで出て来たのです。ほどいてやるように言い、帰らせるのでした。眠りからさまますように生き返らせたのです。この死人が生き返るという奇跡は人を驚かせ、感心させるというものではなく、救いのメッセージを伝えるための「しるし」でした。マルタが嘆いた時の対話を見てみましょう(11:21-27)。
マルタ:「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
イエス:「あなたの兄弟はよみがえります。」
マルタ:「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
イエス:「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
マルタ:「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
「終わりの日」が来ることを知っておく必要があります。「置かれたところで咲きなさい」の著者、渡辺和子師がダグ・ハマーショルドという人の言葉を取り上げています。彼はスウェーデン出身の有能な外交官で、1953年から1961年まで国連事務総長を務めた人でした。今日も世界のあちこちで紛争が絶えませんが、当時もそうでした。植民地から独立を果たしたコンゴは内乱が激しく国連に援助を求め、再々、彼は現地におもむきました。その日もコンゴに向かっていました。その飛行機が墜落し、56歳の若さで亡くなってしまいました(後にノーベル平和賞が授与)。彼がその時、携帯していたのは、唯一、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣(なら)いて」だけでした。静かにものごとを考え、祈る敬虔なクリスチャンでした。召天後、日記が「道しるべ」という題で出版されました。次はその中の一つです。
「---夜は近きにあり」
過ぎ去ったものには---ありがとう
来たろうとするものには---よし!
「夜は近きにあり」は繰り返し出てくる言葉ですが、賛美歌の一句です(彼の母親が大みそかに、その詩をよく朗読していた)。「夜」は自らの死でもあり、歴史の終わりの日を指すのだと思います。自分が死ぬことなど遠いことのように思うのが普通ですが、死は近きにありと意識することが、人を思慮深くさせ、祈り深くさせ、人間らしくさせるのではないかと私は思います。今日の世界情勢も紛争があり、難民が多数生じ、自爆テロがあり、未来はバラ色ではない、世界の終わりの日近し!と感じる状況です。と言って、不安がってはなりません。ハマーショルドのように祈りと冷静さをもって対応すべきです。
◇朝も近きにあり
しかし、恐れなければならないのは、神が最後の審判を下す「終わりの日」です。人はどうして死が怖いのでしょうか。死後の神の裁きを予感するからでしょう。やましいことがなければ、安らかなはずですが、誰もが心の良心に問えば、穏やかではないはずです。その私たちの罪を赦し、救うために、イエス・キリストは私たちの身代わりに裁かれ、十字架で死んでくださったのです。自ら悔い改めて、主イエスを信じれば、赦されて、審判の時も裁かれないで救われるのです。
そして、素晴らしいことは、夜の後に「朝」が来るのです。ほんとうの平和な世界、神の国が現れるのです。病も涙も死も争いもない絶対平和な世界です。聖書に明確に預言されています。その時、死んで眠りについていた信者たちが目覚めさせられ、神の審判を免除され、栄光の姿に復活するのです。復活されたイエス・キリストと同じ姿にです。主イエスはマルタに、そして、私たちにそれを与えたかったのです。
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(11:25-26)。信じようではありませんか。
輝かしい朝が来るのです。信じる者には「朝も近きにあり」です。そして、復活の神を信じていく時、人生で失敗や挫折や失望という夜が来ても、やり直しという朝を迎えられるのです。患難という夜が来ても、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)。神があなたの人生を再生に導き、終わりの日に復活させようとしているのです。それは計り知れない神の愛があなたに注がれているからです。あなたはそれを信じますか。朝は近きにあり。