オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

わたしはよみがえりです

2016-03-27 19:21:50 | 礼拝説教
2016年3月27日 イースター礼拝(ヨハネ福音書11:21~27)岡田邦夫


 「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」ヨハネ福音書11:25

 朝の連続テレビ小説「あさが来た」が終わろうとしています。明治の女性実業家で、日本初の女子大学創立に尽力を注いだ「広岡朝子」という実在の方の生涯を、脚色しドラマ化したものです。晩年、クリスチャンになった方なので、それを期待しているのですが、ドラマはその前で終えてしまいそうで、残念です。タイトルの「あさが来た」には、あさ(朝)が来ると新しい世界が始まる、そんな社会を明るくするようなドラマにしたいという思いが込められたのことです。
 ところで、ほんとうに素晴らしい朝は先ほど歌いましたように、復活の朝(イースター)なのです。「イースターの朝には白百合をいけまそう。イエスさまが命に帰られた良い日です…」(新聖歌128)。そして、イエスの復活はこの言葉のように、私たちをも復活に導くことなのです。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです』」(ヨハネ11:25)。

◇夜は近きにあり
 イエスには親しくしていたマルタとマリヤとラザロの三人姉弟がおりました。ある日、弟のラザロが重い病気にかかり、その知らせがイエスのところに届きますが、すぐには駆けつけず、なお二日とどまってから、腰を上げます。そして、到着した時にはラザロは墓に葬られ四日もたっていました。姉のマルタもマリヤも「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆き訴えます(11:21,32)。イエスは涙を流し、ほら穴の墓に案内させ、大きな石を取りのけさせます。
 主イエスは天の父に向って祈ってから、大声で叫びました。「ラザロよ。出てきなさい」(11.43)。すると、死んでいたラザロが顔も手足を長い布で巻かれたままで出て来たのです。ほどいてやるように言い、帰らせるのでした。眠りからさまますように生き返らせたのです。この死人が生き返るという奇跡は人を驚かせ、感心させるというものではなく、救いのメッセージを伝えるための「しるし」でした。マルタが嘆いた時の対話を見てみましょう(11:21-27)。
 マルタ:「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
 イエス:「あなたの兄弟はよみがえります。」
 マルタ:「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
 イエス:「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
 マルタ:「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

 「終わりの日」が来ることを知っておく必要があります。「置かれたところで咲きなさい」の著者、渡辺和子師がダグ・ハマーショルドという人の言葉を取り上げています。彼はスウェーデン出身の有能な外交官で、1953年から1961年まで国連事務総長を務めた人でした。今日も世界のあちこちで紛争が絶えませんが、当時もそうでした。植民地から独立を果たしたコンゴは内乱が激しく国連に援助を求め、再々、彼は現地におもむきました。その日もコンゴに向かっていました。その飛行機が墜落し、56歳の若さで亡くなってしまいました(後にノーベル平和賞が授与)。彼がその時、携帯していたのは、唯一、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣(なら)いて」だけでした。静かにものごとを考え、祈る敬虔なクリスチャンでした。召天後、日記が「道しるべ」という題で出版されました。次はその中の一つです。
  「---夜は近きにあり」
  過ぎ去ったものには---ありがとう
  来たろうとするものには---よし!
 「夜は近きにあり」は繰り返し出てくる言葉ですが、賛美歌の一句です(彼の母親が大みそかに、その詩をよく朗読していた)。「夜」は自らの死でもあり、歴史の終わりの日を指すのだと思います。自分が死ぬことなど遠いことのように思うのが普通ですが、死は近きにありと意識することが、人を思慮深くさせ、祈り深くさせ、人間らしくさせるのではないかと私は思います。今日の世界情勢も紛争があり、難民が多数生じ、自爆テロがあり、未来はバラ色ではない、世界の終わりの日近し!と感じる状況です。と言って、不安がってはなりません。ハマーショルドのように祈りと冷静さをもって対応すべきです。

◇朝も近きにあり
 しかし、恐れなければならないのは、神が最後の審判を下す「終わりの日」です。人はどうして死が怖いのでしょうか。死後の神の裁きを予感するからでしょう。やましいことがなければ、安らかなはずですが、誰もが心の良心に問えば、穏やかではないはずです。その私たちの罪を赦し、救うために、イエス・キリストは私たちの身代わりに裁かれ、十字架で死んでくださったのです。自ら悔い改めて、主イエスを信じれば、赦されて、審判の時も裁かれないで救われるのです。
 そして、素晴らしいことは、夜の後に「朝」が来るのです。ほんとうの平和な世界、神の国が現れるのです。病も涙も死も争いもない絶対平和な世界です。聖書に明確に預言されています。その時、死んで眠りについていた信者たちが目覚めさせられ、神の審判を免除され、栄光の姿に復活するのです。復活されたイエス・キリストと同じ姿にです。主イエスはマルタに、そして、私たちにそれを与えたかったのです。
 「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(11:25-26)。信じようではありませんか。
 輝かしい朝が来るのです。信じる者には「朝も近きにあり」です。そして、復活の神を信じていく時、人生で失敗や挫折や失望という夜が来ても、やり直しという朝を迎えられるのです。患難という夜が来ても、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)。神があなたの人生を再生に導き、終わりの日に復活させようとしているのです。それは計り知れない神の愛があなたに注がれているからです。あなたはそれを信じますか。朝は近きにあり。

わが胸に響く歌あり

2016-03-20 23:35:08 | 礼拝説教
2016年3月20日 主日礼拝(ローマ人への手紙12:1~8)岡田邦夫

 「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」。ローマ人への手紙12:1

 普通のグラスのコップですが、指でこする摩擦によりグラスが共鳴して音が鳴りました。信仰生活というものはそのように、外見は普通に見えていて、しかし、響くものがあるというものだと私は思います。
 イエス・キリストによる救いは素晴らしい福音なのだということが、1章から11章にわたって余すところなく述べられました。そして、その福音を信じた者がどういう生き方をするのか、その信仰生活とはどういうものか、12章から15章6節にかけて、述べられていきます。それが普通に見えて、美しく響くものがあるということをお話ししたいと思います。

◇傍らからの響き
 「そういうわけですから」で始まります。素晴らしい福音にあずかったのだから、献身の立派な生活をしなければならないという運びではないのです。よく文章を見てみましょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」(12:1)。それは「命じます」と言ってはいません。「お願いします」なのです。口語訳だと「勧めます」。その原語はパラカレオー、勧める、願うが適訳だと思いますが、他の聖書個所では励ます、慰める、優しい言葉をかける等々、いろいろに訳されています。パラは「から」、カレオーは「呼ぶ」で、傍(かたわ)らから呼ぶというのがこの語の成り立ちです。上から目線で命じるではなく、傍ら目線で語りかけるのです。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」。そのからだというのは罪のからだではないのか、それがイエス・キリストにあがなわれたからだではないのか、ルターのいう「赦された罪びと」なのではないか、それを聖い、生きた供え物としてささげさせていただける、それが神の望まれる霊の礼拝だというのです。神は何ともおおらかで、寛大な方なのでしょうか。パウロが傍らでそう励ましているのです。さらに、ご自身をいけにえとしてささげたイエス・キリストが傍らから優しい言葉をかけてくだっているのです。「ささげなさい」。私たちはその傍らからの響きに共鳴しましょう。「ささげます」と。

 日本で一番売れた本は何でしょう。「窓ぎわのトットちゃん」という黒柳徹子の小学生生活の自叙伝物語です(『世界ー受けたい授業SP』による)。580万部、絵本を含めると800万部以上売れて、35ヵ国に翻訳(ほんやく)されています。徹子さん=トットちゃんは小学1年生で退学させられてしまう問題児でした。しかし、「ともえ学園」がこの自由奔放な子供を受け入れ、突拍子もないことを考えたり、やってしまうのですが、のびのびと育ててくれたのです。面白く、心温まるので、読み進んでしまいます。「校長先生は、トットちゃんを見かけると、いつも、いった。『君は、本当はいい子なんだよ!』」。彼女はその意味を何十年もたってから校長先生の真意がわかります。「いい子じゃないと、君は、人に思われているところが、いろいろあるけれど、君の本当の性格は悪くなくて、いいところがあって、校長先生には、それが、よくわかっているんだよ」(p198)。
 本当はいい子なんだよ。これを信仰的に私たちに当てはめてみるのも良いかもしれません。主のみ思いが私たちに告げているように、私は思います。そういうわけですから、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(12:2)。これは愛情たっぷりの言葉に聞こえてこないでしょうか。そう、心に聞ける人は幸いです。

◇低き所からの響き
 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」の「ささげる」の原語パリステーマイは他では「そばに立つ」と訳されています(ヨハネ19:27他)。献身は主イエスのそばに立つことなのです。へりくだられた主イエスのそばに立って、自ら「へりくだる」というのが、この部分の全体に流れている調べです。ですから、へりくだって教会のお役に立とう、へりくだって社会のお役に立とう、へりくだって弱い立場の人のお役に立とう、へりくだって生き方の違う人を理解しよう、そう思って生きようとすることが美しい調べとなるのです。
 この部分にはいっぱい良い事が書いてあります(13:8,14:13,13:14,14:19)。「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(共同訳)。「私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。…妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように」。「昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」。「私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」。他にも色々あります。
 私たちの生活の中で、時に応じて、これらの「み言葉の一つ」が心に響いてくることがたいへん重要なことです。愛媛県にいたとき、息子の行っている保育園で今治教会の榎本保郎牧師の講演会がありました。その中でご自分の体験を話されました。毎朝、早天祈祷会があり、会堂に入ると若い副牧師もやってくるのですが、主任牧師である私にあいさつしないのです。毎朝続くものですから、ますます腹が立ってきて、一日中、心が悶々(もんもん)とする日々が続きました。しばらくした時に「あなたの隣人を愛しなさい」のみ言葉が心に響いてきました。不思議なことに、その瞬間、副牧師を赦せてしまっていることに気づいたのです。掟だから、無理して赦し、愛したのではなく、神の生けるお言葉が心に響いた時に、不思議と愛せていたのでした。翌日、どうして挨拶しないのかと副牧師に聞くと。人に挨拶する前に、まず神に挨拶しなければならないからだと理由を言いました。それを早く聞いとけば誤解して、腹を立てずに済んだのにと思ったとのことでした。私はそれを聞いて、福音で始めたことを律法で仕上げるのではなく、あくまでも、福音で始めたことをみ声を聴くことによって、福音で仕上げていくことなのだと知ったのです。
 私たちはどうしても、この世に生きているので、この世と調子を合わせてしまいます。しかし、それに気付いたら、神の福音の調子に合わせて、み言葉が響いて、それが自分の魂に共鳴して、神に喜ばれる響きが起こりますよう、祈っていきましょう。祈れば信じれば、そういう体験をしていきます。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(14:7-8)。これこそクリスチャンの最高の輝ける生き方です。美学です。
 でも、私は世俗の人で恐れ多くてそんなことは思えないとか、礼拝の時はそう思っても帰って日常が始まれば、四六時中、そう思いながら生活できそうもないとおっしゃるかもしれません。わかります。しかし、トットちゃんを思い出してください。ちょっと言い換えてみましょう。「君は、本当はいい神の子なんだよ!。…いいクリスチャンじゃないと、君は、人にも思われているところがいろいろあるけれど、君の本当の性質は悪くなくて、いいところがあって、聖霊の神には、それが、よくわかっているんだよ」。

 普通のグラスを共鳴させました。大小のグラスに水を適度に入れ、音階を作り、それをうまく鳴らして演奏するラスハープというのがあります。演奏は難しいですが、なかなか神秘的で美しいです。私、神学生の時に聞いて感動しました。私たち、何の変哲もないグラスですが、神の御手がタッチしてくださる時に、きれいな共鳴音がなります。それを合わせれば、神への賛美となります。「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです」(15:5-6)。

ああ、何と深いことか

2016-03-14 09:58:23 | 礼拝説教
2016年3月13日 主日礼拝(ローマ人への手紙11:25~36)岡田邦夫


 「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」。ローマ人への手紙11:36

 私、青年時代に武者小路(むしゃのこうじ)実篤(さねあつ)のものを読んでいました。私には読みやすく、分かりやすかったからで、その中には気に入った言葉がありました。「この道より我を生かす道はなし、この道を行く」。この道とは道を求めて歩きつづけるという道で、自分が歩きはじめたその日から、胸を張って生きていけばよいのだというような意味だと思います。当時、励まされたものでした。
 今日はシャローム・パーティ(進学、就職、卒業祝い)ですので、実篤(さねあつ)の言葉を贈りたいと思います。「主にあって」と入れたいところですが。学校を選ぶ、クラブを選ぶ、会社を選ぶ、等々、選択は自由です。Aの道でも、Bの道でも、Cの道でも、この道を行くだと思います。しかし、この道だけは選んでほしいという道があります。神がおっしゃることです。
 「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ(エレミヤ書6:16)」。魂のための選択です。
 私は家の都合で工業高校を卒業後、就職する必要がありました。クラスで担任の先生による会社説明がありました。一つの会社が目に留まりました。入社後、社内試験に受かり、指定の二部の大学の試験に受かれば、授業料から教科書代まで会社が出してくれるという好条件がプリントには書かれていました。社名は知られていないが、将来性はある。これにしようと心に決めました。余談ですが、先生がこの学校の出身でキリスト教の牧師になった者がいるとも言いました。クラスは爆笑でした。その時は自分がその人と同じになるとは思ってもみなかったことです。
 その企業の試験を受けて、採用されました。すると、クリスチャンの友人が同じ社に入ってきたのです。後に彼の導きで、教会に行き、神を信じることを選び、洗礼を受けました。自分の可能性を試したくてこの社を選んだのですが、思わぬ信仰の道が開けました。クリスチャンになれたのです。ずいぶん後になって判ったことですが、社長のお兄さんの一人は外務大臣だったとのことですが、もう一人は病弱だったと言います。彼もそのお母さんもクリスチャンでした。家の中の聖書の部屋で、この社から救われる人が起きますようにと、祈っていたと聞きました。私の知る限りでは、その社員だった人で、献身して牧師になったのは私を含め、6人もいたのです。
 今、思えば、自分で道を選んできたようで、実は神の御手の中で導かれてきたのだなあ、神に選ばれていたのだなあと…。

◇「ああ…」どうなるのか
 ローマ人への手紙9~11章はパウロが「選び」について、奥深く述べているとところです。パウロはイエスの12使徒に続いて、後から異邦人伝道(世界宣教)のために選ばれた使徒でした。外国に出て行って伝道するのですが、何とも言い難い問題に遭遇します。伝道するといたるところで同胞のユダヤ人の反対や抵抗、迫害にあうのです。ところが、異邦人の方はどんどん福音を受け入れ、救われていくのです。救いの流れが同胞のユダヤ人らを離れ、異邦人の方にどんどん流れ、広まっていく。これはいったいどうしたことなのか、同胞は救われず、神に見捨てられたのではないか。パウロは悩むのです。すると神から、啓示があったのです。
 この3章を解りやすく、意訳をいれて短くまとめるとこうです。
 神は人類を救うのにある人たちを選び、その民を通して、諸民族を祝福するというみこころで、救いの歴史を繰り広げられました。その選ばれた民はイスラエル人、後のユダヤ人でした。その選びは人間の願いや努力によらず、ただあわれみによったのです。しかし、その民の歴史は多々、神に不従順でしたが、それでも神は絶えず救いの手を差し伸べておりました。神の怒りを受けて滅んでも当然ですが、神は選んだ以上見捨てることはなさいません。残りの者を救うと約束されました。その残りの者の中に、神に信頼して生きるイスラエル人と信仰によって救われる選ばれた異邦人がいるのです。
 ところがキリストの福音を異邦人は受け入れて救われていくが、同胞のユダヤ人はかたくなに拒み救われない。どうなるのか。神からの啓示を求めました。

◇「ああ…」こうなる
 そこで神は奥義を告げます。神はイスラエルをあわれみによって選び、救い、そのイスラエルを通して、異邦人を救い、全人類を救うという御心でしたし、その歴史をたどってきました。しかし、その選ばれた民が拒絶したことにより、異邦人が先に救われて、その数が満ちた時に、残りのイスラエルが救われるという風に順序が逆転したのです。「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです」(11:26)。「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません」(11:28-29)。
 選びの民が福音をいらないと拒んだので、異邦人の私たちが選ばれて福音の恵みにあずかれたというようなことです。イスラエルは神が選んだ以上、愛が注がれ、決して捨てられることなく、順序を後回しにされるだけで、必ず救われるというのです。神の選びの愛と真実とがそこにあるのです。神の大いなる人類救済の歴史が大転換したのが、キリストの時でした。紀元前(BC)から紀元後(AD)へと全く、新しい歴史になったのです。
 私たちが信じる神は人のかたくなさ、不従順さえも用いて、大いなる恵みへと変えてしまう神なのです。パウロはこの圧倒的な恵みにお手上げで、こう賛美するのです。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(11:33,36)。
 神の選びというのはそのように奥深いものです。冷たい運命のようなものではないのです。どこか恐れを感じつつ、温かさを感じるようなもので、説明しがたいものです。私たちも神の御手の中で様々なことを自由に選びながら、道を進んでいきます。しかし、信仰の道に進むか、不信仰で行くのか、神は信頼することを望んでおられますし、献げる道も望んでいます。しかし、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(10:10)。どんなことが人生に起こっても、たとい失敗したとしても、私たちは神を選んでまいりましょう。

◇「ああ…」お願い
 最後にどうしても、伝えたいことがあります。聖書における救済の歴史は、神の導く天地創造から、新天新地に至る歴史ですから、一般の歴史を包むものであります。また、それぞれにも人生という歴史があります。その意味で世界史でも個人史でも、歴史と向き合うことが極めて重要です。パウロはどう向き合ったでしょうか。
 9章1~3節。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」。実に愛にあふれ、真実に満ちています。同国人に対する痛む愛です。明治のクリスチャン政治家・新渡戸稲造が愛国という言葉よりも「憂国」という言葉を使いました。裁く心ではなく、憂える心でこそ、正しい歴史認識が生まれてくるものと思います。
 そして、10章1節。「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです」。憂えるだけでなく、望みを持つことです。この国の歴史はだめだとか、私の歴史はだめだとか、決めつけてはならないと思います。私たちも同胞を愛し、神に造られたところの私を愛し、歴史を救いに導かれる神に望みをおき、願い求めてまいりましょう。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」。最期に頌栄です。「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(11:36)。

圧倒的な勝利者

2016-03-06 08:09:34 | 礼拝説教
2016年3月6日 主日礼拝(ローマ人への手紙8:31~39)岡田邦夫

 「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。ローマ人への手紙8:37

 昨年、ロンドンでのオークションで日本の「土偶」(女性型の土製焼き物)が1億9千万円で落札されました。それは今、世界が日本の縄文時代に注目している現れです。縄文時代は高い技術で作られた物が多数出土されています。狩猟、採取、農耕による進んだ文明で、1万年以上も続いたと推定されます。しかし、人を殺傷するような武器はでてきません。現代人は今後の人類のために縄文に学ぶ必要があると、カリフォルニア大学の教授が述べています。しかし、世界の歴史の全体を見ますと、たえず争ってきた歴史であり、今なお続いているのが現実です。嘆かわしいことです。

◇呼べ…子なので
 嘆かわしいといえば、私たち人間の罪の性質です。自分が良い人だと思っていても、よくよく自分を探ってみれば、良いことをしようと思ってもそれができない、悪いことはやめようと思ってもそれをしてしまう、罪の人間であることを思い知らされ、良心が痛みます。それは、終わりがきて、最後の審判で容赦ない神の裁きがあるぞ、という神の警鐘がならされているからです。しかし、私たちに臨んでおられる聖霊が福音の鐘を鳴らしてくれます。あなたの中の罪に染まった古い人はすでにキリストと共に死んで、キリストと共に新しい人に生き返ったではないか、「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定めらることは決してありません」と良心を納得させます(8:1)。
 そして、その聖霊に導かれている人はだれでも神の子どもです(8:14)。長男が三歳だったと思いますが、聖日を前にした土曜の夜中、急に39度の高熱を出しました。熱で目はうつろ、家内がだっこするとうわごとを言い出しました。「お父さんどこにいるの、お父さんどこにいるの」とはっきり言うのです。私が必死に「お父さんここにいるよ、ここにいるから大丈夫だよ」と言ってあげ、手をおいて祈りました。すると黙って目をつむり、眠りました。気が気でならなかったのですが、日曜の朝には平熱になっていました。家内と話しました。どうして、お母さんじゃなくて、お父さんだったのかな、きっと天のお父さんを呼んでいたんだよ、だから、主が熱を下げてくれたのじゃないかなと。
 聖書は言います。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます」。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」(8:15-16)。あなたの魂が神に向かって「お父さん」と呼びます、祈ります。それは神の子どもである証拠です。これを聖霊の確証だとジョン・ウェスレーが再々、説教の中で言いました。子であれば天国の相続人。それは約束されています。「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(8:17)。

◇呻け…終末なので
 命が生まれるには産みの苦しみがともないます。アダムが罪を犯し、人類に罪が入り込んで、人は罪の下にあり、被造物は虚無に服してしまったとパウロは述べています(5:19、8:20)。ですから、神はこの古い世界は終わりの日に新しい世界に変える御計画をもっておられます。新天新地が産み出される産みの苦しみが私たち神の子たちにあるのです。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(8:22-23)。
 神の子がうめくのは永遠の命がある重要な証拠、神のみ思いを知る道でもあります。内村鑑三が“人間の魂の深いところにあるのは呻きである”と言っています。そこに、御霊の助けが入ります。「 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(8:26)。
 すると、先が読めてきます。神は神の子らを御計画に従って万事を益とされ、終わりの日に御子に似た栄光の姿に変えて完成してくださると聖霊によって、信仰によって確信できるのです。「うめき」から見えてくるのです。

◇ほめよ…勝利なので
 31節から39節までを読むと、気持ちが高揚してきます。
 神が味方ですから、敵対できるものはいない。罪に定めるものもいない。実に心強い。御子をさえ惜しまず死に渡され、御子といっしょに万物も恵んでくださるのだからすごいことです。そこまで愛してくださっている神の愛から引き離すものものは何もないのだ。艱難、苦しみ、迫害、飢え、剣もそうだ。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物もである。キリストの愛から引き離すものは断じてないのだ。神の愛の勝利なのです。
 「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(8:37)。「輝かしい勝利を収めています」とも「勝ち得て余りがある」とも訳されています(新共同訳、口語訳)。少年ダビデがペリシテの巨人ゴリアテと一騎打ちで戦った時のことです。ダビデは河原で石を5つ拾い、1つを石投げ器に入れて、振り回し、投げると、ゴリアテの眉間に命中、倒れたゴリアテの息の根を止め、ダビデの勝利。1発で倒し、4発は残っていたのです。勝ち得て余りがあるとはこのこと。4発も余っていました。神が味方であれば、このような圧倒的な勝利者となるのです。罪に勝ち、世に勝ち、死に勝ち、滅びに勝つのです。
 勝利が見えているのすから、私たちは主をほめたたえるのです。新聖歌459「世びとは敵に 破らるるとも、われらは常に勝利。汚れを憎み 罪に打ち勝ち われらは常に勝利。われらは常に勝利勝利 われらは常に勝利。世に勝ちませる 主共にませば. われらは常に勝利…」。
 東京聖書学院は全寮制です。朝の早天祈祷会から始まり、授業の時も、食事の時も、何から何まで、賛美し、祈り、聖書を学ぶという生活です。理想的な環境です。最初はすばらしいなと感動がありましたが、人によって、やがて、それがやでしょうがなくなるいやになってくるのです。私もスランプでそうなりました。食事もとらず、授業を休んで寮に引きこもって、ふて寝をしていました。すると、舎監の先生が部屋までやってきて、岡田君、どうしてるかと声をかけてきました。教務室に来いという。しぶしぶ、着いていく。どうしたんだいと二三質問したかと思ったら、いきなり、聖書を開いて「わたしに従ってきなさい」のみ言葉を示したのです。
 そのみ言葉が読まれた瞬間、あのもやもやした思いが吹き飛んで、思いはすっきりしていました。自分を中心にああだこうだと思い悩んで、環状線のように、ぐるぐる回っていたのだと思います。しかし、主が中心に戻ってきた時、それらの葛藤に勝利したのだと思います。ただただ主イエスに従っていけばいいのだと信仰に突き抜けられたのだと思います。
 神が味方であるなら、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。その圧倒的な勝利者となる未来の時が私たちに向かってやって来ようとしています。主ほめたたえて、共に祈り、待ち望んでまいりましょう。