オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

心優しいキリスト

2018-05-27 00:00:00 | 礼拝説教
2018年5月27日(日)伝道礼拝(マタイ11:28~30)岡田邦夫

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ福音書11:28~29)

 初めに、シスター渡辺和子のメッセージ「宝物」を要約して、紹介します(2015年09月29日の心の糧)。
宝物にもいろいろあります。誰が見ても、そうだろうと思わせるものもあれば、他人にはわからない、自分だけに価値あるものである場合もあるものです。修道者になる時、清貧の誓願を立て、自分のものと呼ぶものを持たない私も、一つだけ宝物を持っています。それは、金銭的には全く価値のないものですが、私にとっては、かけがえのない大切なものなのです。
87歳で天寿を全うした私の母は、なくなる1、2年前から認知症になり、見舞いに訪れた時も、娘の私がわからなくなっていました。介護をしていてくださった病院の人の話では、母は、日がな1日、赤い毛糸の玉をころがしては手繰り寄せ、赤い錦紗(きんしゃ)の布をいじっては遊んでいるということでした。見ると、それは紛れもなく、修道院に入る前に私が着ていた赤いセーターの毛糸の残りと、私の羽織の端布だったのです。悲しみの中にも、私は慰められて岡山に戻りました。その日から約1ヶ月後、母は逝き、臨終に間に合わなかった私は次の日、お礼かたがた母が過ごした部屋の片付けに行きました。そして、そこに残された毛糸玉と錦紗の布、それが、その日以来、私の宝物になったのです。
それが母親の優しさというものです。日本語の聖書には「優しい」という語はわずかですが、日本人の感性から見れば、イエス・キリストは優しさに満ちた方だと私は思います。一か所、そのような言葉がマタイ福音書11:28~29に出てきます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」。

◇引き離す優しさ
 この頃、セクハラの問題を取り上げるのが多くなってきましたようです。十戒に「姦淫してはならない」とあります。性には問題がつきものなので、間違わないためには厳しさが必要で、また、健全であるためには人を大切にするという優しさが必要だと思います。主イエス・キリストはこれからお話しする出来事で、その優しさをお示しになったのです。
 それはイエスが朝早く、神殿に行かれると、大勢の人が集まってきたので、教え始めました。ヨハネ福音書8章の初めに書いてある出来事です。
律法学者とパリサイ人という宗教的指導者が、姦淫の場で捕えられたひとりの女性を連れて来て、何と人々の真中に置いたではありませんか。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と言って詰め寄りました。姦淫罪というのは法律では重罪で石打という死刑になるものでした。イエスのことを良く思っていない宗教的指導者の罠でした。イエスを抹殺するために告発する口実を得ようとするものです。ここで、イエスが女性を石打にすべきだと言えば、ご自分の罪の赦しによる救いの教えに反し、人々は離れていってしまいます。女性を釈放するようにと言えば、神の律法を否定することになり、彼らは告発できるわけです。
イエスともノーとも言えないが、民衆がいるから答えなければならない。絶体絶命のピンチ。しかし、主イエスは賢い方。身をかがめて、指で地面に何か書いている。宗教家は告発の口実を得たいとはやる心でイエスの口元を見ている。女性はうなだれて何も見えない。民衆はこの状況がどうなっていくのか、興味深々でこの場面を見ている。しかし、主は地面に何かを書いている。周囲の者たちは何を書いているのかと関心がそこに向く。神殿の庭か、この女を石打にするのか、しないのか、さあ、答えろ、さあ、答えろと責め立てる声で騒々しい。
しかし、彼らの訴えは片手落ち、相手の男性が抜け落ちているという勝手なものです。「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない」とあるからです(レビ記20:10)。でも、イエスは彼らの身勝手さを追求しません。彼らの企みも暴露したりしません。相手をやり込めることもできますが、それをしません。沈黙だけです。ここにイエスの優しさがあります。
 また、彼女を訴える者たちを退かせ、引き離さなければなりません。聖書にこう記されています。「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」。
 彼女を道具に使っていた者たちの手から、完全に引き離され、救いの機会が与えられたのです。

◇引き受ける優しさ
 そこで、イエスは神の優しさでこの女性と向き合います。「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」。法的に訴える者がいなければ、裁かれることはありません。事態はそうなったのです。しかし、神の前にはそうはいきません。罪は罪です。『わたしもあなたを罪に定めない』と罪の赦しの宣告ができるのは神だけです。その罪をイエス・キリストが引き受け、身代わりに罰を受けられてこそ、赦しが宣告できるのです。そのためにイエス・キリストは十字架刑に処せられたのです。それはこの女性を救い、私たちを救うためでした。罪は赦されませんが罪深い人を赦させるのです。ここに神の愛があるのです。

私はひとつの出来事を思い出しました。年配の奥様が教会員でした。そのご主人があごの骨にガンがあるということで手術することになりました。顔なので悪い部分を切除して、そこに腰の骨を取ってきて移植するという難しい手術です。その専門の医師のいる遠い大学病院で行われました。問題はここからです。腰骨があご骨に生きて接合しなければなりませんが、高齢なので難しい。着かなければ切除。顔がこけて、支障をきたします。ところがなかなかつく気配がないのです。
そんな時、家の近所の占い師が来て、こう言って帰っていきました。この病が治らないのは親族に違う宗教の者がいるから、祟られているのだ。その者がその邪教を捨てれば治るのだというのです。親戚はそれが誰を指すかはわかります。それが契機で私たちは教えられました。何かのせいにしたり、あきらめたりしないで、素直のひとりの人を愛し、祈ることでした。教会の愛する兄弟姉妹もひたすら祈りました。奥様は祈る中で知恵が与えられました。食事は液状にして管で流し込むのですが、もう少し、カルシュウムとビタミンが必要と感じ、白身の魚を柔らかく煮てさまし、野菜や果物といっしょにミキサーにかけ、病院のものに加えて流し込んだのです。ずっとイエス・キリストに祈りながらです。ところが年末、医師に言われました。骨は着いていないので、正月が明けたら、除去手術をしますと。私たちは主を仰ぎ祈りました。新年、検査してみると骨が生きてつながっていました。
退院の前日、牧師が見舞いに行くと看護師が奥様に何を加えたのか、参考にと聞き取りに来ていました。私たちは思いました。必要だったのはカルシュウムではなく、神絵の祈りだったと…。退院後、そのご主人が教会で洗礼を受けられました。受洗準備の時、入院中に神を信じたのですか聞くと、「神は愛なり」だというのです。缶ジュースの空き缶に造花をさしいれ、缶の周りに「神は愛なり」の聖書の言葉を張り付けたのを教会から見舞いに持っていったのがずっと目に入り、信じたのだというのでした。


落ち着いて、信頼すれば

2018-05-20 00:00:00 | 礼拝説教
2018年5月20日(日)主日礼拝(イザヤ書28:16、30:15)岡田邦夫

「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」。(イザヤ30:15)

 本日はペンテコステ、五十日祭です。もともとはユダヤ教の祭りで過ぎ越しの祭りから50日目の春の収穫感謝祭でした。主イエスが十字架にかけられたのが過ぎ越しの祭りの日でした。復活して、40日後に昇天され、残された弟子たちが祈っていると、10日後の五十日祭(ペンテコステ)の日に弟子たちの上に聖霊が降りました。それで新しい時代が始まり、教会が始まりました。ですから、教会では聖霊降臨日として、教会の創立記念日として、祝うのです。
 その聖霊が降った時、弟子たちはイエス・キリストが救い主であることがはっきり解り、何ものをも恐れないほどの霊的力をいただき、福音の証人として立ち上がったのです。私たちはその聖霊によって、イエスが私の救い主であることが解り、聖霊によって、信じることも、信仰の確信も告白もできるのです。今日はイザヤ書からその信仰について話したいと思います。

◇ざわつき
 神への信仰がないと心はざわつきます。南ユダ王国にそういう時がありました。迫りくるアッシリヤ帝国に対抗しようとシリヤと北イスラエルが一緒に戦おうとユダ王国に呼びかけてきたのですが王は断ってしまいます。すると相手は怒って、シリヤとイスラエルが連合してユダに攻め込んでくるという情報が飛び込んできました。すると「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」のです(イザヤ9:1-2)。
 この事態に預言者イザヤは神からのメッセージを告げます。決して責めてはこない。だから、「気をつけて、静かにし、恐れてはならない。…心を弱くしてはならない。…もしあなたが信じないならば、立つことはできない」。事実、北イスラエルはその65年後、アッシリヤ帝国軍に敗れ、国をなさないようになるのです(イザヤ7:8)。神は最善にしてくださるし、お救いくださるのですが、それを受け止め、受け入れるという私たちの信仰が求められます。
 絶望の淵に立たせられたり、気になることが起こったり、人生の最後を迎えるようなこともあります。誰でも心がざわつくものです。そこにサタンが付け込んで落胆の沼へと引きずり込もうとします。しかし、聖霊が促します。気をつけて、静かにし、恐れてはならない。心を弱くしてはならない、主のもとに行くように、祈るように、み言葉を求めるようにと、声なき声で導かれます。

◇落ち着き
①30章15節
 信仰に関して、同じ内容の言葉が28:16にあります。見てみましょう。
「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」(30:15)。
 私にとって、このみ言葉は牧会していく中で、何度も何度も与えられ、多くの人を励まし、救ってきたか、数え切れないほどです。手術を前にして、困難な事情を前にして、受験を前にして…実に様々でした。Tさんは男の人では珍しい乳ガンと診断され、手術することになりました。前日、私と家内で、このみ言葉を持って、病院にお見舞いに行きました。そして、聖霊に促されて言いました。この聖書の言葉を信じて手術に臨んでください。必ず、主はいやしてくださいます。手術が成功したら、洗礼を受けましょうね…と。すると彼は廊下の電灯が十字に見えると指さしました。それが彼流の信仰の告白なのだと受け止め、主を信じて祈りました。手術は短時間に終わり、ガンはきれいに摘出されました。退院後、受洗準備をして、約束した通り、洗礼を受けられました。後から聞いたのですが、万一のことを覚悟しているが、手術が成功したら、受洗するという手紙をご家族に渡されていたとのことでした。
与えられた「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」のみ言葉が真実であると私たちは知らされたのでした。しかし、時にはいやされないことが神のみこころであることもあります。その病に負けずに穏やかに乗り越える力が与えられる恵みがあるのです。

この聖句の後にさいわいなみ言葉が続きます。「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる」(30:18-19)。
主はこちらが祈る前から待っておられ、祈るこちらも主を待ち望むという、すなわち、お互いが「待つ」という、信頼関係が述べられています。相手を思う、たいへん麗しく、素晴らしい信頼の関係です。聖書を通して、「神について」知ることができます。しかし、信仰というのは「神を」知ることです。神ご自身を信頼すること、私という人間の全部を受け入れてくれる主イエス・キリストに信頼することです。唯一の神として、人格的に信頼することです。幼子が母親に全面的により頼むように、理屈抜きで単純にすなおに信頼するのです。

②28章16節
幼子が3歳ごろまでに、愛情をもって育てられれば、精神的に基本的信頼というものが身に付き、その後、健全に成長し、精神病になりにくいと医師が言っています。お腹がすいて泣いている時にお母さんが抱っこをして、授乳してくれるとか、寝ていて目が覚めた時にそばに誰かがいてくれて声をかけてくれるたかが大事だそうです。そういう愛情が100パーセント無理ですが、およそ60パーセントあれば、基本的信頼がその子の中にできていくそうです。
しかし、神の私たちに注ぐ愛情というのはまさに100パーセントです。28章16節を見てみましょう。「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。」(28:16)。家の建設で土台がしっかりすえれば、嵐がきても、建物は揺れ動きません。そのようにイエス・キリストはユダヤ人ならびに私たち人類に捨てられた、いえ、私たちの罪をになって、神に見捨てられたのですが、その捨てられたイエス・キリストという石が私たちの救いの揺るぎない土台となられたのです。それが十字架の救いです。まさに全身全霊の愛が私たちに注がれたのです。この御方の愛を受け入れるなら、基本的信頼というよりは根本的信頼が生まれてくるのです。「信ずる者はあわてることはない」のです。

時が来れば

2018-05-13 00:00:00 | 礼拝説教
2018年5月13日(日)主日礼拝(イザヤ書27:2~6)岡田邦夫


「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(イザヤ27:6)

 聖書の中で教会の看板に最も使われていたのが、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。これこそ、福音の神髄(ずい)です。私自身もこのみ言葉で救われてきましたし、何度もこの聖句から伝道説教してきました。ところが、これまで、次の句をどちらかというと軽く触れていた様な気がします。年を重ねて、この頃はこの句の方がいかに重要か身に染みて感じています。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(11:29-30)。くびきというのは牛二頭で荷車などを運ぶのに、並んだ牛の首につける横木のことです。主イエスのくびきを負って、弟子として学ばせていただくのです。それは軽く、結果はたましいに安らぎがくるという訓練なのです。
くびきで主とつながっているということですが、今日も主とつながっている、そのつながり方を学びたいと思います。

◇麗しいぶどう畑
 ぶどう畑の歌を詠んでみましょう。
「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」(27:2-6)。
 和を結んでつながっていれば実を結ぶようになるとの預言です。主イエスはこれを指して「わたしはまことのぶどうの木」と「まことの」を強調されました。つながっていれば永遠に残る実を結ぶと恵みを語られました(ヨハネ15:1~)。多くの実を結ぶので「見事なぶどう畑」(共同訳)、見る方の思いで「楽しいぶどう畑」(バルバロ訳)と訳されていますが、新改訳、口語訳は「麗しいぶどう畑」。父なる神のわが子を見つめる愛を感じさせる訳です。父なる神はイエス・キリストにつながっている私たちを「麗しい」と感じておられるのです。ですから、私たちは昼夜、見守られており、絶えず恵みの水が注がれているのです。
 私、教会で借りている畑で野菜を、特に黒豆を作っています。種を蒔けば、芽が出るまで気になる。水を欠かしていないか、気温がどうだろうか、とにかく気になる。朝に夕に見に行く。芽が出れば出たで、安心はするものの、天候、虫や鳥、病気、肥料…等々、気を使う。その成長を見るのは楽しい。「麗しいぶどう畑」と訳された訳者の心境が解ります。天の父はそういう風に神の子らをご覧になり、世話をしていてくれるのだと思うとジンときます。

◇麗しいぶどうの房
 そして、どうなっていくのか。6節に注目を。「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」。時が来れば…時間が必要です。命は時間だと言えます。根を張るのに時間がいります。黒豆の種を蒔くのが6月、へそと呼ばれているところを下にして種を植えます。根がそこから延びるからです。芽が出てから、双葉がでて、本葉がでて、と伸びていく間に、三度、土を寄せます。これが大変きつい作業です。それは横へ、下へ根を張らせるためです。根が広く張れば、幹は太くなり、木は大きくなり、実も大きくなり、たくさん成ります。私たちはそのように信仰の根を張ることが成長につながります。恵みを求め、み言葉を求め、聖霊を求め、愛を求め、真実を求め、何でも求めて、根を張りましょう。
 葉っぱからは空気中の二酸化炭素を取り入れ、光合成で自らのからだを作っていきますが、窒素も取り入れて、根っこに窒素肥料として蓄えます。それが根瘤です。人が酸素を取りこみ、血管を通して運ぶシステムのようにするのです。それが成長させる要因です。信仰者もみ言葉を心の内に蓄えましょう。それが信仰者の成長に結実に大いに役立ちます。とくに困った時や危機に際して、それらのみ言葉が救ってくれます。
 ですから、黒豆の場合、花が咲いてから、土の上に肥料をまきます。実を結ぶ時に最も養分を必要としているからです。人生の最後もそうなのでしょう。最も恵みを必要としているのです。信仰者は特にそうです。豊かな実を結ぶためにです。登山であれば、8合目、9合目です。一番きついですが、頂上はすぐそこです。もうすぐ頂上だと思えば、きつくても頑張れるのです。以前、教団の伝道部には盲人伝道という部門がありました。その代表が盲人の牧師で、常々、言っていました。人は誰でも高齢者になれば、いろいろ出来なくなって障害者になるものだ、人はみな「障碍者」だと考えて伝道してほしいと…。
 厳しい高齢状況であったり、試練の中にあったり、確かにそれはきつい、しかし、重荷はイエス・キリストにおろし、ゆだね、弟子として、イエス・キリストのくびきを負わせていただき、信仰を学び、信仰の実、恵みの実を実らせていただきましょう。
 根っこに恵みを蓄えておくことも必要、結実のために天からまかれた恵みも必要。神のなさることは時にかなって麗しい。麗しいぶどう畑、これについて歌え。今日の聖句を自分の信仰人生に当てはめ、恵みの言葉として信じましょう。それは教会にも当てはまります。
「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(イザヤ27:6)

一つの若枝が生えて実を結ぶ

2018-05-06 00:00:00 | 礼拝説教
2018年5月6日(日)主日礼拝(イザヤ書11:1~9)岡田邦夫


「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」(イザヤ11:1口語訳)

 日本列島に雨が降ると水は両側に流れて海に流れていきます。その上流の分かれるところを分水嶺と言います。隣保の人から聞いたのですが、兵庫県は丹波に分水嶺(水別れ)があり、日本海へは由良川が流れてゆき、瀬戸内海には加古川が流れてゆくのだと。しかも、日本で一番低い分水嶺で海抜100メートルもない低い分水嶺です。それで、江戸時代、瀬戸内海から日本海へ物資を輸送するのに、その二つの川を使いました。ただ加古川と由良川はつながっていないので、その間は厳しい峠はないので陸路で運び、また、船で運ぶことが出来たというわけです。川はつながってはいなかったのですが、運送路としてはつながっていたのです。
 今日は「つながってはいないけれど、つながっている」という話を致します。

◇エッサイの株から一つの芽がでる
イスラエルは小さな国、それなのに南北に分裂し、北からやってきたアッシリヤ帝国に北イスラエル王国は滅ぼされてしまう。南ユダ国王国も次に現れるバビロン帝国に倒されようとしている絶望的状況です。それは斧で木を切り落とされるようなすような光景です。斧を振るっているのは人間ではなく、主なる神だとイザヤは告げます。しかし、神の民という木は無くなってしまわない。切り株が残り、「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」と希望の預言が告げられます(11:1)。ダビデ王朝は永遠不滅だと神が約束していたのに、民の側が裏切り、神に背き、自分勝手な道に進んでいったので、神は斧を振るわれるわけのです。
では、なぜ「ダビデの株」と言わずに、ダビデの父親の「エッサイの株」というのでしょうか。ダビデ王家は断ち切られてしまうが、子孫から、別の王、すなわち、救い主という若枝が生えて実を結ぶのだと約束します。エッサイはベツレヘムの羊飼いでしかすぎず、「エッサイの子」といえば軽蔑の意味でした。事実、救い主はそういう普通の人の過ぎない者として生まれて来られたのです。しかし、「知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊がとどまった」王でした。神の国の王です。
そのような意味で「つながってはいないけれど、つながっている」ということです。旧約と新約の関係もそうです。つながってはいないけれど、つながっている。新約聖書の冒頭の「系図」がそれをよく示しています。また、私たちは選ばれたイスラエル人とつながってはいませんが、イエス・キリストにより、信仰により、新しい霊的イスラエル人として、つながっています。そして、そのつながりは真に永久不滅なのです。

◇エッサイの根が立って旗となる
 イエス・キリストはロバの子に乗って、平和の王として、がエルサレムに入場されました。キリスト来臨による王国の平和は霊的平和です。そして再臨の時にもたらされるのは正義と公平をもってさばかれた「絶対平和」です。その平和の光景を詩的に表現すれば、こうです。「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」(11:6-9)。
 おおかみと小羊は襲うものと襲われるもの、共生のつながりはない、しかし、キリストの王国では平和のつながりがあるのです。主が再臨される時、敵対するものはなくなるのです。まず、霊的には始まっています。「キリストにあって一つ」。

 その王国を強く一つにつなげるシンボルが旗です。「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。」(11:10)エッサイの根は救い主であり、目立たず、みすぼらしい感があります。私たちを救うところの十字架の受難につながります。それがもろもろの民の旗となるのです。仰ぎ、慕い、集まってくるのです。世界はバラバラです。混乱し、まとまらず、身勝手に歩み、絶対平和はとおいのです。しかし、再臨の「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる。」(11:11-12)分裂のための旗振りではない、福音による統一のはたふりです。戦争のための旗振りではなく、和平のための旗振りを主イエス・キリストがされるのです。

 五千円札で知られていますクリスチャンだった新渡戸稲造氏の心温まるエピソードをお話しします。彼が国際連盟の事務次長をしていた時のことです。第一次世界大戦末期、ロシアから独立したフィンランドとスウェーデンの間にある「オーランド諸島」の帰属問題で紛争状態にありました。歴史的経緯においてはフィンランドだったのですが、経済的、文化的な面から見るとスウェーデンが有利とされていて、複雑で解決しようもない状態です。彼は両者の意見をよく聞き、絶妙な解決策を提示します。それが「新渡戸裁定」と言われるものです。内容は「オーランド諸島はフィンランドが統治し、言葉や文化はスウェーデン式のまま。そして、フィンランドの軍隊は置かない非武装地帯とし、自治権はオーランドにある。」見事な和平工作の旗振りを成し遂げたのです。彼が東洋人クリスチャンだから出来たのだと言われています。

 キリスト再臨の日、全世界はキリストの御旗のもとに集められ、キリストにある絶対平和がもたらされるのです。その日に向って、私たちはまず、身近なところに和解の福音を携えて、キリストの御旗に導かれて行きたいと思います。しっかりとキリストにつながっていきましょう。主が平和の実を結ばせてくださると信じて…。