オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

装いを新たに

2015-01-25 00:00:00 | 礼拝説教
2015年1月25日 主日礼拝(マタイ福音書6:25-34)岡田邦夫


 「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」マタイ福音書6:30

 星野富弘さんの詩を見てみましょう。頸髄(けいずい)を損傷(そんしよう)し、手足の自由を全く失ってしまったのですが、口に筆をくわえて詩画を描いておられます。
  手と足が不自由になって
  歩けなくなりました
  土を掘ることも
  スキーをすることも
  出来なくなりました
  でも神様ありがとう
  あなたが持たせてくれた
  たった十グラムの筆ですが
  それで私は花を咲かせたり
  雪を降らせたり出来るのです
  神様ほんとにありがとう
 ここには強がりも無理もありません。神の恵みに気付き、思いと考えが否定から肯定にひっくり返されています。素晴らしい恵みの発見です。その神の恵みとは何でしょう。山の上でイエス・キリストが教えられた、空の鳥、野の花の話がそれを表していると思います。

◇神の養い
 自分のいのちのことで、何を食べようか、からだのことで、何を着ようかと思い悩むな。いのちは食物より、からだは着物よりたいせつなものでないか。空の鳥を見よ、種蒔き、刈入れ、蔵入れをしなが、天の父が養っている。あなたがたは鳥よりもすぐれたものではないか(マタイ6:25-26要約)。命を与えられたのは創造の神、天の父です。その命を天の父が養ってくださるのは当然です。天の父を信頼すれば、思い悩みも心配もいらなくなるでしょう。更に言うなら、命があること、生きていられること自体が感謝なことなのです。クリスチャン詩人の八木重吉は「おんちちうえさま おんちちうえさまと唱うるなり」と素朴な詩を書いています。そのように、思い煩いの「思い」を縛っている「煩い」を除けて、思いだけを素朴に命の源である天の父に向けましょう。そして、天の父の養いに感謝出来ますなら、さいわいです。

◇神の装い
 人生というのは食べることは基本的に欠かせないのですが、「装う」ということも欠かせないことです。震災で被災された高齢者の方が仮設住宅で暮らすようになる時、心得ておかないといけない生活不活発病というのがあると聞きました。生活不活発病は文字通り、生活が不活発になることで全身の機能が低下することです。被災して、畑や海や店などに行けなくなると外出しない。狭い部屋だから、掃除もあまりしないで、動かないで、テレビを見てるだけ。それで歩かない、動かない。そうしてると本当に歩けなくなり、動けなくなり、内蔵も弱るというのです。対策は十分あって、生活を活発化させればいいとのことです。毎日、掃除をするとか、着替えて散歩に出るとか、化粧して友達に会って話したり、趣味のことをしたり、何でもいいそうです。実際にそうすると元気になるそうです。ここの聖書の言葉からいうなら、日常生活の「装い」だと思います。
 ファッションにも色々ありますように、人生の装いもそれぞれです。成功や名声という装いだったり、家族や友人との団らんという装いだったり、誰かを助けたいという使命という装いだったり、自分の身の丈にあった装いがあるでしょう。さらにイエス・キリストは神の装いについてこう言われました。
 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」(6:28-30)。ソロモン王は神殿は7年、宮殿は13年、合計20年かけて、贅(ぜい)を尽くして建設しました。建物は絢爛豪華(けんらんごうか)、生活は金銀財宝があふれ、ソロモンは栄華を窮めていたのです。しかし、そのソロモンは「このような花(野のゆり)の一つほどにも着飾ってはいませんでした」。野のゆりを「神はこれほどに装ってくださ」っていると言われるのです。
 神の装いについて、創世記に神が天地を創造された時のみ思いが述べられています。「神がお造りになたすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった」(1:31)。天地の装いがすべて良かったのです。この世界観にたてば、人生を肯定して生きられるのです。創造の神を信じる時、苦労の多い人生だったとしても、神が祝福という装いをしてくださることを知って、生まれてきて良かったと言えるのです(1:28)。
 伝道者の書も神の装いについて、述べています。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」と時がありを列挙し、こう言います。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(3:1-2、11)。造花なら一つの美だけですが、生きた花はつぼみのかわいらしさ、咲きかけの初々しさ、咲いた時の満ちたりさ、種になっていく渋さ、その時々の美をもって、神が装っていてくださるのです。人生の時々を神は美しく装ってくださるのだと信じましょう。「若い人の栄えはその力、老人の美しさはそのしらがである」という知恵の言葉があります(箴言20:29口語)。あなたの人生の四季、それぞれの季節に彩りを与えておられるのです。きっと、それが創造者の楽しみではないかと私は想像するのです。

◇神の装いを新たに
 さらにもう一歩踏み込んで、主はこう言われます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:32ー34新共同訳)。最後に、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさいと主は勧めるのです。私たち人間は神に対しても、人に対しても罪を犯し、この美しく装われた世界を曇らせ、汚してしまったのです。過去の歴史を見ても、現在の世界を見ても、自らの心も行いを見ても、現実は人は罪深いものだと思うでしょう。イエス・キリストはこの世界に来られ、十字架の苦難を受け、私たちの罪を負われたのです。「そのため、彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」姿になられたのです(イザヤ書53:2)。聖なる方、絶対的に美しい神の御子が人となり、しもべとなり、罪人の一人に数えられ、慕うべき美しさもない姿になられたのです。その御子の犠牲によって、私たちの醜い罪がきよめられ、義とされ、新しく造られ、神の国の恵みの支配に入れていただいたのです。
 そして、父なる神は最高の装いを信じる者にしてくださいます。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3:26-27)。なんと素晴らしい神の装いでしょうか。

目からうろこ

2015-01-18 00:00:00 | 礼拝説教
2015年1月18日 主日礼拝(使徒の働き9:1-19)岡田邦夫


 「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」使徒の働き9:17

 4年前、アメリカのオバマ大統領が“Change Yes We Can(チェンジ イエス ウィー キヤン)!”のスローガンを掲げて就任しましたが、その演説に魅了された人も多かったようです。私も演説のCDを買いました。現実には政治を変えるというのはなかなか難しいようです。しかし、世界を変えた、人類史上最も偉大な人物とは誰でしょうか。インターネット百科事典(ウィキペディア)でユーザーらがランク付けしているトップはイエス・キリストだそうです。確かにそうですが、イエスは神の御子ですから、例外です。キリスト教にとって、最も重要な人物といえばパウロです。彼がいなければ、キリスト教は確立しなかったでしょうし、また、世界に広がってはいかなかったと言われています。今日はそのパウロの話です。

◇変えないもの
 サウロという青年がいました。彼はキリキヤのタルソという外国生まれなのですが、イスラエルはベニヤミン族の血を引く、きっすいのヘブル人で、ガマリエルという律法学者のもとで厳格な教育を受け、熱心なパリサイ人でした。それでありながら、ローマ市民という特権を得ている人でもありました(ピリピ3:5、使徒22:3、28-29)。家柄も良く、学歴、学識もあり、品行方正、国際人といった、なかなかの人物でした。
 そのようなユダヤ教徒にとっては、ナザレのイエスを救い主、メシヤだとする人たちの教えや振る舞いは全く間違っているから、これを撲滅しなくてはと行動に出たのです。「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった」(9:1-2)。ところがダマスコの途上、突然、天からの光が巡り照らしたので、彼は目が見えなくなり、倒れてしまいます。そこに何か声を聞いたのですが、誰もいません。そこで、同行していた人たちがダマスコに連れて行きます。
 そこで祈っていると幻を見ます。アナニヤという人がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになる幻です。一方、ダマスコにいたアナニヤの方も幻の中で告げられます。『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人を尋ねよと。アナニヤは彼がひどい迫害者だと訴えるのですが、主はこう言われ、サウロも元に送り出すのです。
「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」(9:15-16)。アナニヤはサウロの元に行き、手を置いてこう言います。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」(9:17)。するとたちまち、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになり、立ち上がります。そこで洗礼を受け、聖霊に満たされます。
 サウロは数日間、ダマスコの弟子たちと共におり、これまで迫害していた者がただちに諸会堂で熱心に伝道を始めるのです。今度はユダヤ人から目をつけられ、サウロは殺されそうになるものの、逃げてエルサレムの弟子たちのところに行きます。ここでも殺害の手が伸び、タルソに行くというように、主がアナニヤを通して告げられたように、これを皮切りに迫害の中での異邦人伝道=世界宣教が繰り広げられていくのです。後にパウロ(小さい者)と改名します。
 パウロは3回の世界に向かっての伝道旅行とローマ行きと13通の教会あての手紙(新約聖書になったものは)を通して、律法主義で民族主義の宗教を大きく変えて、次のようなキリスト教を打ち立てたのです。彼は…、
○最も重要なメッセージに堅くたっていました。十字架と復活の福音、それは12使徒から受けたことであり、それを伝えてたこと(1コリント15:1-8)。
○旧約に本来のメッセージを引き出しました。人が救われるのは行いによるのではなく、信仰によるのだということ(ガラテヤ2:16、3:11)。
○世界に向かうメッセージを打ち立てました。福音は信じるすべての人に救いを得させる神の力だということ(ローマ1:16)。
 といって、それはパウロの独自のものではなく、イエス・キリストの直弟子、十二使徒の継承者として生き、活動したのであり、使徒の働きにおいて、みごとに証明されていることを付記しておきます。
 申しあげたいことは、主イエスは小さい者を最大に用いられるということです。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」(1コリント15:9 -10)。

◇変えたもの
 パウロを迫害者から、宣教者に変えたのはもちろん、復活のキリストですが、その出会いの時の言葉に目を向けて見ると、彼を回心させた人たちがいることが解ります。
 「そして彼は地に倒れ、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。彼は問うた、『主よ、あなたはどなたですか』と。答えがあった、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。ともあれ立ち上がって町に入りなさい。そうすればなすべきことが告げられよう』と」(9:4-6)。迫害されていたのはキリスト者です。しかし、信徒と一心同体、一緒にイエスが苦しめられていたと言うのです。彼は直接、十字架にかけられたイエスを目撃してはいないでしょう。しかし、迫害されているキリスト者を通して、イエス・キリストを見させられたのです。
 その一人がステパノ。激怒したユダヤ人たちがよってたかって石を投げつける。そんな中で彼はキリストの姿を見、執り成しの祈りをし、御手にゆだねて、輝いて、天に凱旋していきました。着物の番をしていたパウロはその様子を目撃し、自分とは何か違うもの、動かしがたい何かがある、そう感じていたのでしょう。他の迫害されている人たちの輝きを感じて、自分の有り様がこれで良いのかという迷いや求めになっていき、それこそ、霊の目が見えなくなっていたのでしょう。そして、復活の主に出会って、目からうろこ、救いが解ったのでしょう。パウロを180度変えたのはこのような人たちです。主は人を用いるのです。
 豊中泉教会に遣わされてきた時に(1981年)、宝塚開拓を決意しました。宝塚の社宅に住んでいたT姉がどうしても宝塚に福音的な教会がほしいと友と祈っていたからです。臨時総会で決議されてすぐに、一人の年配の客員が宝塚の土地を寄付されたので、プレハブを建てて、そこで伝道を開始。まもなく、新会堂の建設に取りかかりました。しかし、T姉は病いにおかされ、志半ば、会堂の完成を見ることなく、天に召されていきました。彼女は霊的に素晴らしいピアノの奏楽者でしたので、葬儀の時には「未完成交響曲」と題して説教をさせていただきました。教会員は思いました。彼女の死をむだにしてはならない。彼女の志を継いで、伝道に励もうと心が燃やされました。献堂式では皆、どれほど喜んだでしょうか。会堂献金も100万、余剰が出るほどでした。
 その宝塚泉教会の会堂が出来た時に、次は福知山沿線に開拓するというビジョンが静かに与えられました。二期工事も終わり、宝塚泉教会も祝されていました。豊中から三田に引っ越す人が起こされ(1994年)、宝塚泉教会による三田開拓のビジョンが与えられ、家庭集会が始まりました。その矢先、阪神大震災が起き、宝塚泉教会のG姉と姑さんが全壊した家の下敷きになり、亡くなられました。葬儀の時、ご主人が言いました。妻は母を含め、皆クリスチャンにしました。わが家の伝道者でした。今回、自らを犠牲にして、家族を守ったのではないかと思います。
 教会の人たちにとっても大変なショックでした。三田開拓のためには真剣に祈ってくれていた人です。ここでも、教会の人たちは思いました。彼女の召天を無駄にしてはならない。三田の開拓をもっと強く進めていこうという思いになっていったのです。そして、集会を重ね、祈りを積んで、1998年、この建物が与えられ、三田泉キリスト教会が設立され、今日あるを得ているのです。
 聖徒の死は尊いのです。証詞となり、霊を燃やし、福音の前進となるのです。有能か、そうでないか、それは問題ではないのです。主イエスは小さい者を選び、目から鱗、すなわち、福音の神髄を悟らせ、そして、みこころがなるように、福音宣教がなされるように小さな器を用いられるのです。そして、世界を変えていくのです。

めざめよ、わが霊(たま)

2015-01-11 00:00:00 | 礼拝説教
2015年1月11日 主日礼拝(使徒の働き7:54-60)岡田邦夫

 「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」(5:41)

 NHK朝ドラで前回の「花子とアン」も、今回の「マッサン」も、そのヒロインはキリスト者がモデルです。花子は赤毛のアンを翻訳した村岡花子さん。エリーは日本ウィスキー創業者の妻、竹鶴リタさんです。この両ドラマでスコットランド民謡「深い河の岸辺」が歌われていましたが、私、この曲どこかで聞いたことがあるなと思っていると思い出しました。讃美歌21の104番「愛する二人に」というキリスト教の結婚の歌でした。
 エリーがもう一つ歌っているスコットランドの歌は皆さんご存じの曲、「蛍の光」です。それは「オールド・ラング・サイン」という民謡、非公式な準国歌で、歌詞はロバート・バーンズがつけたもの。旧友と再会し、思い出話をしつつ酒を酌み交わすといった内容です。この原曲は1881年(明治14年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集に載せられました。歌詞は稲垣千頴(ちかい)が独自に作詞し、今歌われている「蛍の光」となったのです。現在も卒業式を始め、あらゆる所で別れの歌として歌われています。2節までしか歌われませんが、本来は3、4節がありました。それは「ひとつに尽くせ、国のため」など時代的色彩が強いので、戦後、学校では教えなくなったとのことです。
 ところが「蛍の光」の曲は讃美歌370番「目覚めよ我が霊(たま)」にあります。バーンズの詩よりも33年も前の1775年にフィリップ・ドッドリッジが作詞した讃美歌です。1節はピリピ3:14のみ言葉を思わされます。
  1.めざめよ、わが霊(たま)、こころ励み、ちからの限りに いそぎ進め
  いのちの冠(かむり)は わがためにぞ、天(てん)にゆく馳場(はせば)に そなえらるる。
この1節のような生き方をしていたのが、二千年前の初代教会の人たちだったのだと思います。

◇めざめよ、わが霊(たま)、こころ励み、ちからの限りにいそぎ進め
 イエス・キリストが昇天される時にエルサレムに留まり、聖霊が降るのを待っているようにと最後の言葉を聞きました。そこで「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた」のです(使徒1:14)。すべてはこの心を合わせた祈りから始まったのです。10日後の五旬節の日に聖霊がくだり、使徒と仲間たちは目覚めたのです。これまで師と仰いだナザレのイエスは本当に聖書に預言されていた救い主、メシアであると聖霊による確信をえたのです。十字架と復活の福音が鮮やかに見えてきて、救いの感動がわき上がり、霊に燃え、語らざるを得なかったのです。
 そうして、語り出された福音説教で三千人が洗礼を受け、仲間に加わり、教会共同体が生まれたのです。その姿はモデルとなるべく、教会の原型でした。2:42-47にあります。使徒たちの教えを守り、聖徒の交わりをし、聖礼典(洗礼と聖餐)がなされ、心を合わせた祈祷がなされていました。敬虔と奇跡と分かち合いの愛と賛美にあふれた礼拝がありました。実に「毎日、心を一つにして宮に集ま」っていたのです(2:46)。
 個人の救いだけでなく、キリストの体として一つになることが救いなのです。最後の晩餐で主イエスは祈られました。「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」(ヨハネ17:11)。三位の神が全く一つであるように、キリストの体である教会が一つになるというのが究極の救いであり、主のみこころなのです。父なる神を怖れ、キリストを中心にした、聖霊による一致の姿が現に初めの教会にあったのです。
 その後にも出て来ます(4:32-35)。「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである」。
 ところがそれを揺るがすことが起きてきます。5章です。「アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」。献金は良かったのですが、一部であるのに、あたかも全部であるかのように差し出したのです。その心が使徒ペテロに見破られます。「神、聖霊を欺いたのだ」(5:3-4)。何とこれを聞いてアナニヤは倒れ息絶えてしまうのです。3時間後、これを知らずにやってきたサッピラも夫と同じように、聖霊を欺き(主の御霊を試み)、倒れ息絶えてしまいます。心と思いを一つにしていた信者の群れが聖霊を欺くことで、壊れてしまうのです。この事件の後、教会に恐れの念が生じます。
 そして、再び、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた」のです(5:12)。今度は教会を乱す別の問題が起こります。6章です。「弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである」。ここで基本に帰り、新たな対策を打ち出します。そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言いました。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」(6:2-4)。そこで信仰と聖霊に満ちた役員が選ばれ、役割を分担し、教会の働きが健全になされ、神の言葉はますます広まっていきました。
 たとえ、教会の一致を乱すことがあっても、知恵と信仰とによって、基本に帰らせ、新たな展開へと聖霊が導いてくださるのが教会というものです。

◇いのちの冠(かむり)はわがためにぞ、天(てん)にゆく馳場(はせば)にそなえらるる
 心を一つにすること、すなわち、シンプルマインドがいかに教会の群れに勇気をあたえるか、そのことも初代教会にありました。ペテロがその一人。めざましい使徒たちの働きに、妬んだ大祭司と仲間たちが使徒たちを捕らえ留置場に入れてしまいます。しかし、主の使いが牢の戸を開いてしまい、彼らはまた、ひるまず人々に伝道するのです。また、使徒たちを最高法院(議会)に引き出し、教えるなと命じまが、ペテロと使徒たちは答えます。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、
ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です」。実に大胆。聖霊の確証があるものですから、動じないのです。ガマリエルというパリサイ人がこの解決策を提案し、ことは治まります。
 この時の使徒の態度が印象的です。「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」(5:41ー42)。御名のために好感をもたれることもあり、御名のためにずかしめられることもあります。聖霊によって「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜」んでいたのです。聖霊は私たちにもそういう境地を与えられに違いありません。
 役員に選ばれたステパノが伝道していますと、彼も議会に引き出されます。するとどうでしょう。「議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた」とあるから、素晴らしいです(6:15)。そこで、ステパノは聖書から忠実に証詞=説教をします。アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデを話し、「正しい方」イエス・キリストを証詞し、悔い改めを迫ります。使徒の働きの最も長いみごとな説教です。
 「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた」(7:54ー60)。決してステパノはがんばってはいない。聖霊に満たされていただけです。しかし、輝いていました。イエス・キリストと同じ召され方をしたのです。
 キリスト教で使われてきた「殉教」(ギリシャ語:Martyria)の語は「証人」という言葉に由来しています。すなわち、殉教とみなされるためには、その死がその人の信仰を証していると同時に、人々の信仰を呼び起こすものだったからです。この着物の番をしていた青年はステパノの殉教を目撃していたことが心に深く残ります。後に信仰を呼び起こし、復活の主に出会い、救われ、召され使徒パウロになっていったのです。自分の心を一つにしシンプルマインドで生きることが証詞となり、天の冠が待っているのです。

凛として生きる

2015-01-04 00:00:00 | 礼拝説教
2015年1月4日 年頭礼拝(使徒の働き4:23ー37)岡田邦夫


 「こう彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」使徒4:31

 今年与えられたみ言葉は「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」です(イザヤ書60:1)。聖書の歴史の中で新しい時代の幕開けであり、輝いていた時代は出エジプトの時代、もう一つはイエスと使徒の時代だったと言えます。私たちもモーセに帰れ、使徒に帰れを合い言葉に信仰に励んでいく時に、神の前に輝いていくことでしょう。
 もし、イエス・キリストが十字架にかかり、復活し、救いの道を開いたとしても、使徒たちがいなかったら、福音は世界に広まらなかったでしょうし、私たちも救われてはいなかったでしょう。といってイエスの弟子たちは優れた人たちだったでしょうか。「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」というような人たちだったのです(使徒4:13)。しかし、彼らは「天下をかき回してきたこの人たち」と言われるほど、世界に影響を与えたのです(17:6口語訳)。

◇輝く方を持っていた
 120人の人たちが祈っているとイエス・キリストの約束通り、聖霊が弟子たちの上に降りました。すぐさま、イエス・キリストの福音を語り出し、三千人の人が洗礼を受けるということが起こり、麗しい教会が形成されていきました(2章)。ペテロとヨハネが「美しの門」を通っていこうとすると、足の不自由な男の人が施しを求めてきました(3章)。するとペテロ、「金銀はない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって、歩きなさい」と言って、手を取り立たせました。すると立って歩き出し、はねては神を賛美して、神殿に入っていったのです。
 「私にあるもの」はイエス・キリストご自身であり、その福音でした。その福音を誰の前でも証詞出来ました。この時も回廊に集まってきた人たちに、聖霊が降って最初に説教した「福音」を再び確信をもって語ります。すなわち、預言が成就して、救い主メシヤが来られ、苦難を受け、罪の贖いのため木にかけられたが復活されたのがイエス、悔い改めて、この方の御名を信じれば救われますというメッセージでした(3:12ー26)。それで、「みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった」ものですから、神殿当局者が困り果て、ペテロとヨハネを捕らえ、留置してしまいます(4:3-4)。翌日、大祭司一族が集合して、二人に尋問します。
 ここでもペテロは短く福音を述べ、大胆にもこう言い切ります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(4:12)。当局は返す言葉もなく、イエスの名によって語るな、伝道するなと命じます。これにも大胆に答えます。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(4:19ー20)。結局、罰するすべもないので釈放されます。
 この頃、アスリートが試合で調子よかったりすると、自分は「持っている」という意味ありげな言い方をします。しかし、キリスト者は福音を持っている、キリストと聖霊を持っているのです。必要な時、導かれる時、内側から語り出すのです。奥琵琶湖のキャンプ場建設の時に、世話をしてくれた地の方が私たちを「キリストさん」と言って、町長に紹介してくれました。私たちは持っているのです。
 誰もが同じ福音、同じお方をいただいているのです。1コリント15:1~5を後でご覧ください。また、付記の表1も参考にしてください。福音を別のいい方で使徒的宣教と言います。

◇輝き方を知っていた
 使徒というのは特別な職務です。イエス・キリストの福音を正しく、また、生き生きと伝えていく使命がありました。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」と正しく伝え、それが新約聖書になりました。それと同時に信仰の生き方も伝承される必要がありました。これも後で付記の表2をご覧ください。
 「使徒の働き」という書名のとおり、初代教会の歴史なのですけれど、重要なのは使徒がどう働いたか、どう生きたかが重要なのです。私が使徒の働きを読んで解ったことはペテロの経験や働きとパウロの経験や働きが全くいっしょだということです。後に使徒になったパウロも、使徒ペテロが生きたように生きたのです。さかのぼれば、イエス・キリストが生きたように、使徒たちは生きたのです。主は私を信じなさいと言い、また、私に倣いなさいと言いました。私たちはその継承者なのです。主が生きたように、使徒たちが生き、使徒たちが生きたように、先人達が信仰に生きてきた、それを引き継いで私たちも、福音に生きていくのです。私たちが使っている日課の中に良く出てくる言葉があります。周りの人は革表紙の聖書は見ないが、キリスト者の生き様という聖書を見ていると。福音を持っているのですから、それを輝かせてまいりましょう。初代教会の原点に帰って…。

 話は変わりますがキリシタン禁制が解けた明治のクリスチャンの生き方に私はあこがれます。私の出会った明治生まれの先輩の先生たちは凛(りん)としていました。教団の指導的立場におられた車田秋次、米田豊、山崎貞治の諸先生、私の母教会の本郷善次郎先生…、持っているものを持っておられたし、生き方が毅然としていました。話してみれば普通の方です。しかし、信仰者として凛としておられました。今の私たちはそれと同じにはなれないでしょうが、この時代の中で、持っている生ける主、生けるみ言葉を確信し、信じている者らしく、凛と生きてまいりましょう。それは「こう彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」とあるような、教会の祈りの中で出てくるのです(使徒4:31)。
 司馬遼太郎の「坂の上の雲」がテレビドラマ化されました。そのオープニングで流れていたのが『Stand Alone』(作詞:小山薫堂 / 作曲:久石譲)で、このような歌詞でした(一朶(いちだ)=ひとかたまり)。
  ちいさな光が 歩んだ道を照らす
  希望のつぼみが 遠くを見つめていた
  迷い悩むほどに 人は強さを掴(つか)むから 夢をみる
  凛(りん)として旅立つ 一朶(いちだ)の雲を目指し
  あなたと歩んだ あの日の道を探す
  ひとりの祈りが 心をつないでゆく
空に 手を広げ ふりそそぐ光あつめて
友に 届けと放てば 夢叶(かな)う
  はてなき想いを 明日の風に乗せて
   わたしは信じる 新たな時がめぐる
   凛として旅立つ 一朶の雲を目指し
歌詞の良し悪しは別として、私は信仰的にイメージして歌ってみると何かワクワクしてくるのです。「神に」 手を広げ ふりそそぐ光あつめて 友に 届けと放てば 夢叶(かな)う。…わたしは「主」を信じる 新たな時がめぐる 凛として「信仰に」旅立つ 雲「の柱」を目指し。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」のあなたの光とはシオンの光、ここにおられるあなたの光なのです。それぞれが自分の光が神から来ているのです。この年、ぶれないで、凛と信仰に生きていきましょう。


起きよ。光を放て。

2015-01-01 00:00:00 | 礼拝説教
2015年1月1日 主日礼拝(イザヤ書60:1-3)岡田邦夫


 「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」イザヤ書60:1

 この元旦、ご来光を見に行った日本人も多いことでしょう。人生を四季にたとえると、私の年齢は冬の時代。冬の良さはどこにあるのかと思ったりします。山も畑も冬枯れ、しかし、冷たい風が雲を吹き飛ばした夜空はいっそう星がさえて輝き、思わず見とれてしまいます。朝、東の空は二度美しいのです。始めに太陽が顔を出す前には空を赤く染め、次に山の上に顔を出す時にはどうだと言わんばかりに輝いています。私はその光景を見るたびに自然と「天の父よ、御名が崇められますように…」と主の祈りが出て来ます。冬もいいものだと思うのです。
 年末、新しい年に備えて祈り心でおりますとイザヤ書を読むようにと心に示されて、読みすすんでいくと、このみ言葉が心に強く響いてきたのです。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」(60:1)。私の人生、冬枯れの時期、しかし、冬には冬の輝きがあるのだ、教会は教会として輝くのだ、そう思わされ、勇気が出て来たのです。

◇上に輝く
 話は変わりますが、以前、阪急電車今津線に乗って、宝塚に向かう途中の車窓から、住宅が広がって見える所がありました。この家々は様々な人たちが何ヶ月もかけて、建てたのだろう。一軒、一軒と建てられ、また、何年も何年もかけて働いて得たマイホームなのだろう。それぞれの家庭があり、それぞれの歴史がある。そのようにして築かれてきた町並みなのだなあと思うと何か、尊敬のような気持ちを持ったのです。その後、阪神大震災があり、この辺りも、活断層の上の家は全壊、半壊という被害に遭われたようです。築き上げるのは時間がかかりますが、壊れる時は一瞬です。また、東日本大震災もそうでした。まだまだ、復興の途上、再び、積み重ねていかなければなりません。私たちは祈って行きましょう。出来ること、示されることがあれば、お役に立ちたいものです。
 世界を見れば、紛争による破壊です。昨年のノーベル受賞者のマララさんは女子に教育をと訴えて命がけで活動しています。教育は先人達の積み重ねてきた知恵と知識を伝えていくものです。人間による破壊をやめ、教育がなされ、積み重ねて、平和の世界となっていくように、私たちは切に祈って行きましょう。
 さて、東日本大震災の被災者を励ますための、あるコンサートがなされ、ユーレイズミーアップ(You raise me up)という素晴らしい曲が歌われました。
When I am down and, oh, my soul, so weary;
落ち込んで、魂がとても疲れてしまった時
When troubles come and my heart burdened be;
困難がやってきて、心に重荷を背負った時
Then I am still and wait here in the silence,
そんな時は静けさの中、じっと待つの
Until you come and sit awhile with me.
あなたが来て、しばらく一緒に座ってくれるまで
You raise me up, so I can stand on mountains;
あなたは私を起き上がらせてくれる、だから山の上にだって立てる
You raise me up to walk on stormy seas;
あなたは私を起き上がらせてくれる、嵐の海の上を歩けるほどに
I am strong when I am on your shoulders;
私は強いわ、あなたの支えがある時は
You raise me up to more than I can be.
あなたは私を起き上がらせてくれる、私が出来る以上に
 この曲はロンドンデリーで知られたアイルランド民謡をアレンジし、作詞されたものです。賛美歌になっているのが新聖歌330番。このYou raise me upのYou(あなた)を「主」と置き換えれば、まったく賛美歌になります。主が来て、私を支えてくれれば、試練を乗り越え、自分を超えて何かが出来ていくというものです。
 イザヤは告げるのです。神の民は神への背きの罪のため、裁きを受けなければならない。バビロン帝国が聖なるシオン(エルサレム)を破壊し、ユダの民は捕虜にされていく。しかし、帝国が変わり、帝王の心を動かし、残されたユダの民はエルサレムに帰還し、シオンは再建される。その裁きの期間が終わったからと告げます。この聖書箇所はシオンの再建の預言です。主が来られて、支えてくれるというだけでなく、輝かせてくれるというのです。この言葉は究極は最後の日に現れる新天新地を言っているのであり、また、霊的には今日のキリスト者、教会に告げている言葉でもあります(60:1-3)。
 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、
 主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。
 しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。
 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

◇内に輝く
 昨年のクリスマス礼拝でヘレン・ケラーの話をしましたが、タイム誌が彼女のことを20世紀の重要人物の一人に選んでいますし、マーク・トウェインが絶賛しているので、続けて話したいと思います。
 ヘレン・ケラーは生後19ヶ月で高熱に見舞われ、視覚と聴覚を失いました。彼女は後にこの状況をこう言っています。「私は無の世界の住人だった。そこには過去も現在も未来もない。感情や理性的思考のみじんもない。昼も夜もない、存在するのは空白だけ」。しかし、家庭教師に来たアン・サリバンによって、ある日、冷たい井戸水に触れた時に、これがwaterという名前だと解り、そこから、言葉の世界が開けていきました。「心地よい興奮が体を通り抜け、心の中に閉ざされていた甘く不思議なものが歌い始めた。先生が私の闇に光を照らしてくれたおかげで、人生の喜びと美しさに目覚めたのだ」。
 しかし、その後が大切なのです。ヘレンは読書を通じ、神や宗教について考え始めるのです。「なぜ神は時に私たちを試練を与えるのか?霊とは?天国はどこ?神、創造主とは?魂?」。この霊的探求に答えてくれたのがスウェーデンボルグの影響を受けたジョン・ヒッツという人です。そして、ヘレンは霊的な神秘体験を通して、信仰がはっきりします。内なる世界が開けていったのです。「天に輝く星を見る事はできないが、同等に明るい星が私の魂の中で輝いている。私にとって、魂は本質的なもの。私は万物と同じもので出来ていると思う。私にとって魂は約束の国。そこには永遠の若さ、希望、無限の可能性がある」。独特かも知れませんが、天界には障害はないと彼女は確信していました。「私の障害が神罰や事故だと思ったことはない。神に感謝します。障害のおかげで、魂と仕事、そして神を見つけたのだ」。
 ヘレンは自身の深い霊的信仰から力を得て、数々の落胆や壁に耐えました。そして、天界は「役立ちの王国」と受け止め、奉仕に向かうのです。人権運動、社会活動、執筆活動と多くの働きを進めたのですが、なんと言っても、彼女の内なる人は豊かで、輝いていたからこそ、出来たのです。また、内なる魂の輝きが出会う人に不思議なオーラをかもしだし、慰め、励ましていったのです。「神の揺るぎないお力を信じること、これらは聖書から真理を学び取り、それに従って生き、善行を行うこと、人間が古い殻を破り、自身の世界を再構築する方法だ」。
 彼女の優れたところは共感能力です。神や霊的なことを感じる能力です。真理を感じ取る感性です。また、人や物にも真実を感じ取る感性を豊かに持っていました。内なる人の輝きです。それは神から与えられたものです。私たちもこの内なる人が神の光を得て、豊かにされ、輝くことを神が約束しておられるのです。
「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」イザヤ書60:1