オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

力は弱さのうちに現れる

2017-03-19 00:00:00 | 礼拝説教
2017年3月19日 主日礼拝(2コリント12:1~10)岡田邦夫

 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」2コリント12:9

 あるレストランで見た場面である。ある夫婦が小さな子どもを連れて食事に来ている。大きな泣き声が聞こえて来る。その三歳ほどの男の椅子の足元に破り捨てられた紙切れが散らばっている。母親が「さあ、紙を拾いなさい」と繰り返している。そして、ますます子どもは大きな声をあげて泣く。父親は立っているだけ。困り果てるのはただ母親。子どもは分かっている、弱い者の涙は武器だ。周りで大勢の人が見ている中では、家のようには叱れない。長引けば母親は困り果てる。そこで母親は子どもをしつけることが出来ない、自分の方が力はあるのに、自分が弱いことを証明することになる。自尊心が傷つく。結局この戦いはどうなったかと言うと、母親が紙を拾い上げて、息子をテラスに引きずり出した。けれども、子どもには親に抵抗するだけの力はないけれども、ここで勝利者になった。なぜなら、紙を拾ったのは母親だから。
◇強い人、弱い人…心理
 スイスの心理学者ポール・トゥルニエの本「強い人と弱い人」の冒頭に出てくる話です(私が要約)。彼は人間には強い反応をする人と弱い反応をする人の二つの型があると言います。強い人は大げさに他人を非難したりするなど、言葉や態度が強く、弱い人はそれに対して言い返せず、黙ってしまうなど、言葉や態度が弱いという現象をよく見かけます。しかし、弱いといっても、我慢強かったり、強情だったりします。ですから、両者とも、弱いことは良くない、強くありたいという自我が現れるのです。しかし、人の本質は強い人も弱い人も不安や恐れをかかえる「弱い人」であって、強い人は外に向かって強く出て、真の弱さを隠すのであり、弱い人は内に向かっての強い守りで、真の弱さを見せないのです。
 トゥルニエは勧めます。精神が自由になるには強い人も弱い人もどちらも真の弱さを認めることだと言います。そして、本当に強いのはこれだと聖書の言葉で締めくくります。「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(12:9-10)。

◇強い神、弱い人…真理
 ◎パラダイス(楽園)
 本当の強さは自分の弱さを認識し、神の強さによって強くなることなのですが、もう少し話を先に進めたいと思います。パウロは強い人でした。今風にいうなら、ガマリエル大学を卒業し、律法(聖書)に精通する神学者、それを厳格に守るパリサイ派(道徳家)、ローマの市民権を持つ国際派、ユダヤ教徒のエリート青年でした。その彼が復活のキリストの顕現にふれ、回心し、召命を受けてキリスト教徒となり、異邦人宣教のための「使徒」となりました。ユダヤ教徒の時も、キリスト教徒になってからも、宗教家として最前線を走っている「強い人」でした。「私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです」(12:12)。
 そして、誇るべき神秘経験を持っていました。「主の幻と啓示」です(12:1-7)。ひとりの人とは自分のことです。14年前、ルステラで石打にされた時、臨死体験をしたかどうかはわかりませんが(使徒14:9)、とにかく、第三の天、すなわち、パラダイス(楽園の意味)に引き上げられたというのです。口に出すことのできないことばを聞いたというのですから、驚きです。その啓示はあまりにもすばらしいものでした。宗教家が到達したい頂点の神秘経験です。限られた人にしか遭遇できない特殊な経験です。実に誇るべきものでした。

◎パラドックス(逆説)
 しかし、「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」(12:7)。肉体に一つのとげとは片頭痛か、眼病か、てんかんか、マラリヤか、何かわかりませんが、周期的に起こってくる肉体の苦痛だったようです。それは神がサタンの働きを許可したのでしょう。「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」(12:8)。ここで大変な葛藤があったでしょう。使徒として、奇蹟と不思議と力あるわざを行っていたのに、自分のこの肉体の苦痛は祈ってもいやされない。宣教の妨げになるからこれを取り除いてほしいと理屈に合った祈りをしているのに、祈りが聞かれない。肉体のとげ、これさえなければ言うことないのにと祈るのに、空を打つようでした。
 しかし、答えが主から来ました。パラドックス、逆説の答え、主の御声でした。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(12:9)。魂の十分体験をしたのです。水は低いところに低いところに流れるのです。霊的葛藤の中で、魂が低くされたところ、そこに流れてきたのです。恵みは高いところではなく、低いところにあったのです。ダマスコの途上で目からうろこの経験をしましたが、ここで更なる目からうろこの経験でした。しかも、信じる者はだれでもこの恵みに与れるということです。世界中のどの時代のクリスチャンもこの恵みに浴せるのです。「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言えるのです(12:9)。

◎パラクレシース(慰め、励まし)
 この第2コリントの手紙の書きだしに「慈愛の父、慰めの神…神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます…」です(1:3-4抜粋)。この慰めが原語でパラクレシース。傍らで呼ぶという意味です。主は上から傍観してはいないのです。人生の苦しみのただ中にある私のところに来られ、傍らで優しく、力強い言葉を投げかけてくれるのです。第3の天にまで引き上げられたパウロの神秘経験は特別ですが、黙想のうちに私たちクリスチャンが霊的に引き上げられることを主は願っておられるでしょう。「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(1テモテ4:7・文語訳「自ら敬虔を修行せよ」)とありますから。敬虔の修養のため、以下が参考になります。
 中世のカトリックで始まり、今日も行われている「霊的な読書」という4つステップをふむ黙想法があります。まず、静まりの時間を持つ中で、1.読む(聖書の選んだ箇所を読む)、2.黙想する(読んだところから、瞑想していく)、3.祈る(黙想したことから祈りへと進む)、4.観想する(言葉を突き抜け、臨在のイエスと交わる)。
 宗教改革者ルターはカトリック教会が重んじたこの「観想」を「試練」と置き換えました。静的な生活から動的な生活として信仰生活を捕え、そこでこそ、み言葉が生きて働き、勝利することを強調しました。パウロは肉体のとげの苦しみという試練の中でこそ、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」とのみ言葉をいただき、慰められ、神の力が与えられ、神の臨在にふれました。肉体のとげはそのままですが、魂は勝利でした。祈りが聞かれたという恵みにまさる、祈りが聞かれないという答えがあるのです。やせ我慢ではないのです。「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と正直に言えるものなのです。
瞬きの詩人、水野源三さんの詩を載せましょう。
「感覚」
脳性マヒで 自由を失った
私の体にも 感覚は残っている
春の暖かさも
夏の暑さも
秋の爽やかさも
冬の寒さも 感じる
神様の 限りない恵みを 強く強く感じる


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