オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

主はそのかいなに小羊をいだき

2009-10-25 08:41:22 | 礼拝説教
2009年10月25日 伝道礼拝(イザヤ40:11)岡田邦夫


 「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11新共同訳)。

◇羊飼いの少女
 この三田泉教会の周囲は小さな山間に、田園風景が広がっています。収穫の終わったこの時期、私はミレーの絵画「落ち穂拾い」や「晩鐘」を思い起こします。牧歌的でおだやかな雰囲気の漂う絵で、ミレーが崇高な宗教的感情を込めて描いたのだと思います。これらはミレーの三大名画とされ、もう一つが牧歌的な「羊飼いの少女」の絵です。
 夕暮れ前の薄明るい空のもと、羊が群れをなしていて、それに背を向け、少女がうつむいて立っています。少女は時をおしんで編み物をしているようにも見えますし、敬虔に祈っているようにも見えます。1864年にパリのサロンに出品して大好評を博したものです。ミレーの絵は厳しい農民生活の現実がありながら、素朴に生きる農民の気高さが伝わってきて、優しい気持ちにさせる絵であると私は思います。

◇羊飼いの主イエス
 聖書には神が羊飼いで、その民が羊の群という、牧歌的な詩情あふれる光景が記されています。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11新共同訳)。
 しかし、その前に人は弱くて、迷いやすい、愚かな羊であり、羊飼いなしには生きていけない者であることを知らなければなりません。試練にあった時、自分の弱さを知ります。人生の岐路に立った時、迷いに迷う自分に気付きます。誘惑に負けて、愚かな選択をしたと思い知ります。そのような時こそ、神を求める時です。羊飼いである主イエス・キリストは待っておられます。
 神なしに生きられる思うなら、それは傲慢です。自分は自分で正しく生きていると言うなら、それは偽善です。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている」(詩篇14:1)。そのように神を信じないことは最大の罪です。 それらの罪を贖い、赦し、ご自分のみ許に迎えてくださるため、良い羊飼いであるイエス・キリストが十字架において、命を投げ出されたのです。その羊飼いはあなたという羊を待っておられます。この羊飼いにより頼んでいくなら、強められ、正しい道に導かれ、信仰による賢い生き方が出来、永遠の御国に向かっていけるのです。
 羊の群は臆病で、川を渡れません。賢い羊飼いは、小羊をふところに抱いて、先に渡ります。すると、母親がそれを追って、渡ります。他の羊も次々に続いて、渡ってしまいます。そのように、イエス・キリストは私たちを罪の支配から義の支配に、裁きから赦しに、この世から、神の国に…優しく渡らせてくださるのです。確かに「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」のです(イザヤ40:11)。

◇主はわたしの羊飼い
 澤田ゆり子(カンバーランド長老キリスト高座教会会員)の話を紹介します。彼女は女の子を授かりました。光の花束を胸に抱くような思いで娘を抱きました。しかし、先天性の股関節の病気を持っており、生後3ヶ月から治療が始まり、入院、手術を幾度か繰り返しました。生後10ヶ月で、ベッドに体を固定したままの治療で、母の自分がそばにいても抱いてあげることも出来ない辛い時を過ごしました。ある晩、娘が泣きじゃくるので、看護師に頼んで、ベルトや重りを外してもらい、3ヶ月ぶりにわが子を抱きました。
 翌朝、医師からひどく叱られたのですが、それでも娘を抱いたまま、ベッドに戻すことをしませんでした。その後、医師が一度退院するように、暖かく勧めてくれました。その後、2度にわたる大きな手術。それでも完治しません。同じ頃、6才上の長男が心臓に穴が開いているので手術。2人同時の病院がよいで、数年間、翼を休める時間もありませんでした。
 娘が小学校に入学してから、年数回の検診が続き、高校3年で、検診は終わりだと医師に告げられました。その時、やっと安堵できたのです。無理しなければ、スキーも楽しめるようになっていました。
 娘は希望の大学に入学。社会福祉を学び、教会学校の奉仕、アルバイトと、充実した生活を送っていました。3年生の秋、足の痛みが生じ、再び、手術となり、1ヶ月のベッド生活、その後のリハビリと忍耐の入院生活が続きました。退院後も、杖をついての生活が続きました。しかし、術後10ヶ月で、再度痛みが襲いました。リハビリも順調で、夏には1人でアメリカに行くことも出来たのに…。
 再手術を告げられた娘は、その夜、泣き続けました。「自分のことなのに、受け入れられない」と言うのです。彼女は「辛い気持ち良くわかるよ」と慰めるつもりの言葉を返したら、「お母さん、わたしの気持ちなんか、わかるはずがない!」と激しい言葉が返ってきました。
 本当に娘の言うとおりだと思いました。娘の心の内や体の痛みは、娘にしかわからないことなのだ。理解できていると思ったのは自分の勝手な思い込み。娘はこれまで痛みに耐え、充分がんばってきた、これ以上、何をがんばれというのか。神経を逆撫でした自分が情けなかった。主が娘を慰め、励ましてくれることを祈るばかりでした。
 娘は教会の牧師に気持ちを打ち明けると、牧師は、季節は待降節だったので、マリヤの思いと娘の思いとを重ね合わせ、祈っていただきました。主がマリヤを力づけたように、主は娘の涙をぬぐい、艱難に立ち向かう勇気を与えてくださいました。
 彼女は考え込んでしまいます。…これまでのこと、これはわたしの試練なのか、娘の試練なのか、考え込んで、一歩も進めない、一度や二度の試練なら、納得もできるが、休む間もなく繰り返えされる試練は、素直に試練の時とは思えなくなっていた。わたしを成長させるために、わたしの子どもをこのような目にあわせるのか。自分のことではないので、なおさら、心は痛み、悩みも深い。誰かに話しても、答えも慰めもないだろう。夫も同じ思いであり、責任を充分はたしてくれてはいるが、微妙に受け止め方が違うように思う。ただ、主からの答えをいただきたいと切に求め続けた。…
 すると、ある日、聖書を読んでいると、次のみ言葉が心にとまったのです。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11)。彼女はこう言います。わたしは子どもたちを自分で守らねばと、自らの力に頼ろうとしていた、それで疲れ果てていました。主はご自分のふところに抱きとって、自ら守ってくださいます。慈しみと情け深さに満ちた大きな暖かい主にすべてを委ねることを悟り、主に立ち返りました。母としてことさら強くふるまうことも、無力であることを嘆くこともしなくてよいのだ、と自分を縛るものから解放されました。
 ※「私を変えた聖書の言葉」(日キ出版)より

岩の上か、砂の上か…

2009-10-18 00:00:00 | 礼拝説教
2009年10月18日 主日礼拝(ルカ福音書6:46~49)岡田邦夫


 「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」ヤコブ1:22

 家内が息子の授業参観に行きました時の話です。先生が質問すると、元気な子どもたちは手をあげるだけでなく、自分に当ててほしくて、「ハイ、ハイ、ハイ」と競って連呼しました。先生はこう言いました。「ハエは一匹でもうるさい。ハイは一回で良いの!」。ベテランの教師にとって、子どもたちに冷静になるようにと教えたかったのか、それとも、かん高い子どもの声がうるさく感じたので、つい言われたのでしょうか。きっと、その両方だったのでしょう。

◇その言葉はさわがしい
 子どもの元気な「ハイ、ハイ、ハイ」はほほえましいですが、それが宗教のこととなると、問題です。イエス・キリストは弟子に忠告しました。「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか」(6:46)。「主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」 が福音のメッセージですから、主を呼ぶことは大いに結構なことです(使徒2:21)。しかし、主よ、主よと「連呼」するのがうるさいと主が感じられたのでしょうか。
 宗教の世界では異言というのがあります。しばしば、同じ言葉を繰り返して、高揚していきます。弟子たちが「主よ、主よ。」と呼んだのはユダヤ教的なことで、異言と違うかも知れませんが、何らかの宗教的効果を得ようとしていることで、通じるものがあると思います。パウロは異言を霊の賜物だとして、否定していませんが、ただ、こう告げています。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」(1コリント13:1)。
 どんなに宗教的な能力があっても、愛がなければ、うるさいだけだと厳しい指摘をしています。人格と人格の出会いやふれあいを主は求めておられます。神と人の愛の関わり合いこそ、宗教の本質であるはずです。ですから、主イエス・キリストは嘆かれたのです。「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか」。そこで、素晴らしいたとえで話されました。主のみもとに来て、主の言葉を聞き…
 それを聞いて実行する人は「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした」(6:48)。
 それを聞いても実行しない人は「土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました」(6:49)。
 ほんとうに主の言葉を聞く人は、どうしてそのように語られたのだろうか、これを語られた方ご自身はどういうお方なのだろうと思い掘り下げます。そして、語られたみ言葉を行うことで、なお深く主を知ろうと願い、掘り下げます。するとそこに岩であるイエス・キリストに、真実に触れることができ、密接につながることができるのだと思います。そこでこそ、ほんとうに主の言葉を聞いたことになるのではないでしょうか。それでこそ、揺るがない信仰生活の土台を据えることができるのではないでしょうか。そのような岩なるイエス・キリストという土台の上に、主のみむねに従って、人生を建設すれば、思わぬ試練の洪水、不安の死の洪水、最後の審判の洪水にも、びくともしないというのですから、それは素晴らしいことです。
 主の言葉を聞いても、実行して掘り下げてみなければ、ほんとうに主のご人格まで到達できず、理解できないまま終わってしまいます。それでは表面的に良さそうな人生に見えても、砂上の楼閣(ろうかく)のような人生になってしまいます。主は弟子である私たちがそのようになってはほしくないと切に思っておられることと思います。

◇その言葉はこころよい
 この家と土台のたとえ(46-49)は、「平地の説教」(6:17-49)と呼ばれる主の説教の中にあります。幸いと不幸(20-26)、敵を愛しなさい(27-36)、人を裁くな(37-42)、実によって木を知る(43-45)に続く最後の話です。「わたしの言うことを行なわないのですか」のわたしの言うことを直接示す言葉はこの一連の説教だと思います。その中でとくに際だつ言葉があります。「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」(6:35ー36)。
 これはまさに主の弟子たる者の最高の生き方と言えます。そうであったらよいのにと軽く聞くのなら、良い響きの言葉です。しかし、目の前に敵がいるこの「私」が聞いて実行しようとすれば、その敵を愛するなど、とても出来ないという壁にぶつかってしまうでしょう。愛のない自分を嘆き、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と祈るしかありません(ルカ18:13)。すると、光が見えてくるはずです。自分自身が神に敵対していた罪人ではないのか、それにもかかわうらず、「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにし」「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた」主のあわれみを悟ります(ローマ5:8、10)。
 そうして、主のあわれみという微動だにしない岩盤に掘り進んだところで、その上に信仰生涯の家を建設していくのです。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」を実践していくのです。考えてみてください。天の父のように、主のように生きていく、敵をも愛された主のように、敵をも愛して生きていくというのは、たいへん光栄な生き方ではないでしょうか。この「ように」という形の愛の実践を忘れてはなりません。掘り進んでイエス・キリストの土台の上に建てる愛の実践をしてまいりましょう。
 そうすれば、決して、虚しい砂上の楼閣(ろうかく)の人生、徒労の人生にはならないでしょう。なぜなら、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(1コリント13:13)。
 「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした」(6:47-48)。

でも、お言葉どおりに

2009-10-11 00:00:00 | 礼拝説教
2009年10月11日 主日礼拝(ルカ福音書5:1~11)岡田邦夫


 「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」ルカ福音書5:5

 三田市にある郷の音(さとのね)ホールは良くあるホールのように、ステージが低く、客席が前から後ろに向かって階段状に高くなっていく構造になっています。ゲネサレ湖(=ガリラヤ湖)での光景はまるで野外劇場のようだったでしょう。イエスが湖上の小舟のステージから、緩やかにせり上がっている岸辺に座っている群衆に向かって、マイクなしでも通る声で話をされたことでしょう。

◇神の言葉は教えとなる
 聖書を見ますと、イエスの所に、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来たというのですから、大変なことです。今日、教会に神の言葉を聞こうとして、群衆が押し寄せて来るでしょうか。そのようなリバイバルが起こってほしいと願います。
 「イエスはすわって、舟から群衆を教えられ」ました(5:3)。神の言葉は聴く耳のある者に教えます。礼拝の説教を聞いて、あるいは、聖書を読んで、「教えられました。」と謙虚に言われる方がいます。信仰生活がどんなに長くなっても、聖書をどんなに勉強したとしても、私たちは謙虚な、教えられやすい魂でありたいものです。また、どのような人にも、どのような場合にも、神の言葉は私たちに神の国と神の義を教えてくださいます。期待して、聴く耳を傾けましょう。

◇神の言葉は現実となる
 湖の岸べに小舟が二そう、漁師たちが舟から降りて網を洗っていたら、イエスが来られ、シモンの持ち舟の方を漕ぎ出すように頼まれて、上記のような即席のステージで話されました。イエスの話は終わったのですが、舟を下りようとはしません。シモンに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われました(5:4)。きっと、先ほどのイエスの教えを神の言葉として、しっかり聞いていたのはシモンだったに違いありません。こう答えたのです。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり(共同訳:お言葉ですから)、網をおろしてみましょう」(5:5)。
 そのとおり実行すると、網は破れそうになるくらい、たくさんの魚がはいり、別の舟の仲間に助けに来てもらい、魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになったというのです。漁師経験から、とても信じがたい、奇跡でした。湖をも支配される力ある方、神聖なお方に違いないと思ったのでしょう。シモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と告白しました(5:8)。
 聖臨在にふれた預言者イザヤも同じように。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」と告白しました(イザヤ6:5)。
 私たちが信じる神の言葉は生きて働き、み業となります。そして、私たちはそのみ言葉とみ業をあらわす神ご自身=聖なる方と出会います。身震いするような「畏れ」を感じます。そして、自分の罪深さを否応なく知らされ、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と祈らされます。しかし、私たちの魂というものはとても強情ですから、心底このように祈るのは最高に難しいことです。しかし、聖霊が促してくださってできます。それも奇跡と言えましょう。
 そうして、その祈りの答えとしての神の言葉が開かれてくるのです。

◇神の言葉は救いとなる
 イエスはそのように告白したシモンに告げます。「こわがらなくてもよい(共同訳:恐れることはない)」。この言葉は旧新約聖書のあらゆる場面に出てくる、神が人に告げる救いの言葉です。私たちには失敗を恐れ、孤立を恐れ、責め苦を恐れ、病気を恐れ、災いを恐れ、死を恐れ…色々な恐れがあります。しかし、最も深い恐れは、神を恐れる恐れです。しかし、イエス・キリストは私たちに、私に面と向かって言われます。「こわがらなくてもよい」。「恐れることはない」。
 イエスは十字架にかけられる前に、ゲッセマネで祈られる時、「イエスは深く恐れもだえ始められた。」のです(マルコ14:33)。恐れを必要としない神の御子が私たちに代わって、罪の裁きを受け、また、神の怒りを受けられて、深い恐れを引き受けてくださったということです。あなたの人生の小舟に乗り込んで、主はあなたの恐れは私がゲッセマネの園で、十字架の上で引き受けたのだから、恐れることはないと、救いの言葉を告げられるのです。そのみ声を聞きましょう。

 このように引き受けてもらった者はまた、何かを担って生きる時、救われるのです。続いて、イエスはシモン・ペテロに「これから後、あなたは人間をとるようになるのです(共同訳:人間をとる漁師になる)」と告げます(5:10)。人間をとる漁師とは何か物騒な言葉に聞こえまが、その言葉はエレミヤの預言書に出てくる救いに関わる言葉です。新しい出エジプト、すなわち、終末において、出エジプトの神、主がその民を裁くと共に、回復するという預言に登場します(エレミヤ16:14-21)。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる」(共同訳)。漁師は比喩、そのみ業の担い手です。
 イエス・キリストによって、人類を罪と死の中から救い出す新しい出エジプトがなされる(ルカ9:31参照)、その担い手として、彼らは召されたと受けとめたことでしょう。それで、彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従いました。そして、使徒となり、人間を救い上げる働き人になっていきました。
 この「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」の神の言葉は牧師や伝道者などの働き人への召命の言葉です。召しの声を聞き、網を捨てて従う者を主は求めておられます。また、広い意味で、すべてのクリスチャンに向かって投げかけている召命の言葉です。あなたは終末における神の恵みのみ業の担い手、福音のみ業の担い手なのです。クリスチャンは担うものがあってこそ、生かされ、生き生きとしてくるのです。
 しかし、気負って担うのではありません。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」のみ言葉のようになると信じて、担うのです。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と臨むのです。結果は網が破れそうになるほどの恵みの漁がなされるに違いありません。

イエスが誘惑されるなんて

2009-10-04 00:00:00 | 礼拝説教
2009年10月4日 主日礼拝(ルカ福音書4:1~15)岡田邦夫


 「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」ルカ福音書4:8

 私もあなたも、お母さんのお腹に266日前後、約9ヶ月の間いて、生まれてきたわけですが(未熟児でしたらもう少し短い)、象は妊娠期間が約21~22ヶ月にも及ぶといいます。やはり、身体が大きいので、命を産み出すまでの準備期間が長いのでしょう。仕事でも、それが大きくなれば、長い準備期間が必要です。神がなさる救いのみ業ともなれば、相当の準備期間がありました。預言者たちに救い主の現れを預言させ、準備していました。さらに言うなら、旧約時代全部が新約の救いの準備期間だったとも言えます。
 イエス・キリストが誕生されても、救い主の職務に就くためには、30年の時が必要でした(ルカ3:23)。その任職式というのが洗礼者ヨハネによる洗礼式でした(3:21-22)。その時、天から声がしました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という、救い主は主の僕(しもべ)として贖いのみ業をなすという預言者の言葉でした(イザヤ42:1)。

◇救い主の備え
 それでも、すぐには教え始めることをしませんでした。「御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。」のです(4:1-2)。旧約を代表する預言者モーセもエリヤも神の民を導く重要な働きのために同じ、四十日の準備期間がありました(出エジプト24:18,34:28,1列王19:8)。主イエスは私たちを救う贖いのみ業を成し遂げるために、試みられて、周到なご準備をされたのです。
 主イエスが悪魔に試みられた場面は、第1場が荒野のただ中、第2場が世界を見渡す天空、第3場が神殿の頂であり、その光景は悪魔に引き回され、誘惑の言葉がかけられ、イエスとの問答がなされるというものであり、私たちには想像できない神秘なことでした。
 (1)最初の荒野を見まわしての悪魔の誘惑は「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」です(4:3)。パンの問題、食糧の問題、さらに、衣食住の問題を解決すれば、人類は救われる、だから、石をパンに、というやり方で救い主になれという誘惑だと思います。今日なら「経済政策」で人類を救えるというものでしょう。イエスの答えは「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある」(4:4)。それだけではないというお答えでした。
 (2)次の世界を見渡しての悪魔の誘惑は、「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう」(4:6ー7)。最大の権力と栄光で人類を治め、統一すれば、人類は救われる、だから、悪魔を拝み、世界を所有せよという誘惑。今日なら「政治政策」で人類を救えるというものでしょう。イエスの答えは「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」(4:8)。主にだけ仕えよとのお答えでした。
 (3)最後の神殿を見下ろしての悪魔の誘惑は、「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです」(4:10ー11)。神の言葉を自在に用いて、奇跡を起こして、人類を引き寄せよという誘惑。今日なら「宗教政策」で人類を救えるというものでしょう。イエスの答えは「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている」(4:12)。主を試みてはならないとのお答えでした。
 私が若い頃に観た、イエスの生涯を描いた映画のタイトルが「キング・オブ・キングス」‘King of kings’でした(1961年/ニコラス・レイ監督)。しかし、ここでは、石をパンに変え、権力で治め、奇跡で引きつけるというような、人類の「王の中の王」となる道を、主は拒否されました。むしろ、受洗(任職)の時に臨んだ「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という天からの声に従い、人類の罪を贖い、救うために、私たちが担う苦しみを代わりに引き受ける「受難の僕」として生きることを、変えることをしませんでした。ここで、王の中の王であるはずの方が徹底的に「僕の中の僕」となるべく、み思いを固められたのです。
 四十日間の40というのは完全ということを表し、主のご準備は完全、完璧だったのです。完全、完璧な準備があったからこそ、主のみ業は完全、完璧になされました。イエス・キリストは十字架の上で、私たちの罪の贖いを完全、完璧になしとげ、酸いぶどう酒を受けられ、ご自分で「完了した。」と言われ、頭を垂れて、霊をお渡しになりました(ヨハネ19:30)。ヘブル人への手紙では、キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、「完全な者」とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となられた、と証言しています(5:8ー9)。
 主なる神、イエス・キリストは私たちを救うために、贖いのみ業を少しも手を抜かず、緩めもせず、完全、完璧に、全身全霊で準備され、実行されました。ここにあなたへの全き愛、完全な愛があります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(1ヨハネ4:18新共同訳)。どうぞ、主イエス・キリストの完全な愛によって、あなたの恐れを締め出してください。

◇救われた者の備え
 あなたが、悪魔に「お前はそれでもほんとうに救われているのか?」と言われたら、イエス・キリストが荒野で完全に準備され、十字架で完全に救いのみ業を成し遂げられたので、私は完全に救われているのだと答えて、悪魔をしりぞかせましょう。
 あなたが、ペテロのように、悪魔に麦のようにふるいにかけられるようなことがあったら、「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」というイエス・キリストの言葉とあわれみの眼差しを支えにしましょう(ルカ22:32)。
 あなたが、悪魔の策略にはまりそうになった時にこう言いましょう。私たち人類の代表アダムが、神はほんとうに言われたのですかという悪魔の誘惑の言葉に負け、禁断の実を食べてしまったが、イエス・キリストは新しい人類の代表として、神の言葉をもって、「…と書いてある」と言って、完全に悪魔を撃退しました。私たちはそのイエス・キリストにつく者、「御霊の与える剣である、神のことばを受け取」って、「…と書いてある」と悪魔につきつけ、勝利しましょう(エペソ6:17 )。