2009年10月25日 伝道礼拝(イザヤ40:11)岡田邦夫
「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11新共同訳)。
◇羊飼いの少女
この三田泉教会の周囲は小さな山間に、田園風景が広がっています。収穫の終わったこの時期、私はミレーの絵画「落ち穂拾い」や「晩鐘」を思い起こします。牧歌的でおだやかな雰囲気の漂う絵で、ミレーが崇高な宗教的感情を込めて描いたのだと思います。これらはミレーの三大名画とされ、もう一つが牧歌的な「羊飼いの少女」の絵です。
夕暮れ前の薄明るい空のもと、羊が群れをなしていて、それに背を向け、少女がうつむいて立っています。少女は時をおしんで編み物をしているようにも見えますし、敬虔に祈っているようにも見えます。1864年にパリのサロンに出品して大好評を博したものです。ミレーの絵は厳しい農民生活の現実がありながら、素朴に生きる農民の気高さが伝わってきて、優しい気持ちにさせる絵であると私は思います。
◇羊飼いの主イエス
聖書には神が羊飼いで、その民が羊の群という、牧歌的な詩情あふれる光景が記されています。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11新共同訳)。
しかし、その前に人は弱くて、迷いやすい、愚かな羊であり、羊飼いなしには生きていけない者であることを知らなければなりません。試練にあった時、自分の弱さを知ります。人生の岐路に立った時、迷いに迷う自分に気付きます。誘惑に負けて、愚かな選択をしたと思い知ります。そのような時こそ、神を求める時です。羊飼いである主イエス・キリストは待っておられます。
神なしに生きられる思うなら、それは傲慢です。自分は自分で正しく生きていると言うなら、それは偽善です。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている」(詩篇14:1)。そのように神を信じないことは最大の罪です。 それらの罪を贖い、赦し、ご自分のみ許に迎えてくださるため、良い羊飼いであるイエス・キリストが十字架において、命を投げ出されたのです。その羊飼いはあなたという羊を待っておられます。この羊飼いにより頼んでいくなら、強められ、正しい道に導かれ、信仰による賢い生き方が出来、永遠の御国に向かっていけるのです。
羊の群は臆病で、川を渡れません。賢い羊飼いは、小羊をふところに抱いて、先に渡ります。すると、母親がそれを追って、渡ります。他の羊も次々に続いて、渡ってしまいます。そのように、イエス・キリストは私たちを罪の支配から義の支配に、裁きから赦しに、この世から、神の国に…優しく渡らせてくださるのです。確かに「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」のです(イザヤ40:11)。
◇主はわたしの羊飼い
澤田ゆり子(カンバーランド長老キリスト高座教会会員)の話を紹介します。彼女は女の子を授かりました。光の花束を胸に抱くような思いで娘を抱きました。しかし、先天性の股関節の病気を持っており、生後3ヶ月から治療が始まり、入院、手術を幾度か繰り返しました。生後10ヶ月で、ベッドに体を固定したままの治療で、母の自分がそばにいても抱いてあげることも出来ない辛い時を過ごしました。ある晩、娘が泣きじゃくるので、看護師に頼んで、ベルトや重りを外してもらい、3ヶ月ぶりにわが子を抱きました。
翌朝、医師からひどく叱られたのですが、それでも娘を抱いたまま、ベッドに戻すことをしませんでした。その後、医師が一度退院するように、暖かく勧めてくれました。その後、2度にわたる大きな手術。それでも完治しません。同じ頃、6才上の長男が心臓に穴が開いているので手術。2人同時の病院がよいで、数年間、翼を休める時間もありませんでした。
娘が小学校に入学してから、年数回の検診が続き、高校3年で、検診は終わりだと医師に告げられました。その時、やっと安堵できたのです。無理しなければ、スキーも楽しめるようになっていました。
娘は希望の大学に入学。社会福祉を学び、教会学校の奉仕、アルバイトと、充実した生活を送っていました。3年生の秋、足の痛みが生じ、再び、手術となり、1ヶ月のベッド生活、その後のリハビリと忍耐の入院生活が続きました。退院後も、杖をついての生活が続きました。しかし、術後10ヶ月で、再度痛みが襲いました。リハビリも順調で、夏には1人でアメリカに行くことも出来たのに…。
再手術を告げられた娘は、その夜、泣き続けました。「自分のことなのに、受け入れられない」と言うのです。彼女は「辛い気持ち良くわかるよ」と慰めるつもりの言葉を返したら、「お母さん、わたしの気持ちなんか、わかるはずがない!」と激しい言葉が返ってきました。
本当に娘の言うとおりだと思いました。娘の心の内や体の痛みは、娘にしかわからないことなのだ。理解できていると思ったのは自分の勝手な思い込み。娘はこれまで痛みに耐え、充分がんばってきた、これ以上、何をがんばれというのか。神経を逆撫でした自分が情けなかった。主が娘を慰め、励ましてくれることを祈るばかりでした。
娘は教会の牧師に気持ちを打ち明けると、牧師は、季節は待降節だったので、マリヤの思いと娘の思いとを重ね合わせ、祈っていただきました。主がマリヤを力づけたように、主は娘の涙をぬぐい、艱難に立ち向かう勇気を与えてくださいました。
彼女は考え込んでしまいます。…これまでのこと、これはわたしの試練なのか、娘の試練なのか、考え込んで、一歩も進めない、一度や二度の試練なら、納得もできるが、休む間もなく繰り返えされる試練は、素直に試練の時とは思えなくなっていた。わたしを成長させるために、わたしの子どもをこのような目にあわせるのか。自分のことではないので、なおさら、心は痛み、悩みも深い。誰かに話しても、答えも慰めもないだろう。夫も同じ思いであり、責任を充分はたしてくれてはいるが、微妙に受け止め方が違うように思う。ただ、主からの答えをいただきたいと切に求め続けた。…
すると、ある日、聖書を読んでいると、次のみ言葉が心にとまったのです。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11)。彼女はこう言います。わたしは子どもたちを自分で守らねばと、自らの力に頼ろうとしていた、それで疲れ果てていました。主はご自分のふところに抱きとって、自ら守ってくださいます。慈しみと情け深さに満ちた大きな暖かい主にすべてを委ねることを悟り、主に立ち返りました。母としてことさら強くふるまうことも、無力であることを嘆くこともしなくてよいのだ、と自分を縛るものから解放されました。
※「私を変えた聖書の言葉」(日キ出版)より
「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11新共同訳)。
◇羊飼いの少女
この三田泉教会の周囲は小さな山間に、田園風景が広がっています。収穫の終わったこの時期、私はミレーの絵画「落ち穂拾い」や「晩鐘」を思い起こします。牧歌的でおだやかな雰囲気の漂う絵で、ミレーが崇高な宗教的感情を込めて描いたのだと思います。これらはミレーの三大名画とされ、もう一つが牧歌的な「羊飼いの少女」の絵です。
夕暮れ前の薄明るい空のもと、羊が群れをなしていて、それに背を向け、少女がうつむいて立っています。少女は時をおしんで編み物をしているようにも見えますし、敬虔に祈っているようにも見えます。1864年にパリのサロンに出品して大好評を博したものです。ミレーの絵は厳しい農民生活の現実がありながら、素朴に生きる農民の気高さが伝わってきて、優しい気持ちにさせる絵であると私は思います。
◇羊飼いの主イエス
聖書には神が羊飼いで、その民が羊の群という、牧歌的な詩情あふれる光景が記されています。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11新共同訳)。
しかし、その前に人は弱くて、迷いやすい、愚かな羊であり、羊飼いなしには生きていけない者であることを知らなければなりません。試練にあった時、自分の弱さを知ります。人生の岐路に立った時、迷いに迷う自分に気付きます。誘惑に負けて、愚かな選択をしたと思い知ります。そのような時こそ、神を求める時です。羊飼いである主イエス・キリストは待っておられます。
神なしに生きられる思うなら、それは傲慢です。自分は自分で正しく生きていると言うなら、それは偽善です。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている」(詩篇14:1)。そのように神を信じないことは最大の罪です。 それらの罪を贖い、赦し、ご自分のみ許に迎えてくださるため、良い羊飼いであるイエス・キリストが十字架において、命を投げ出されたのです。その羊飼いはあなたという羊を待っておられます。この羊飼いにより頼んでいくなら、強められ、正しい道に導かれ、信仰による賢い生き方が出来、永遠の御国に向かっていけるのです。
羊の群は臆病で、川を渡れません。賢い羊飼いは、小羊をふところに抱いて、先に渡ります。すると、母親がそれを追って、渡ります。他の羊も次々に続いて、渡ってしまいます。そのように、イエス・キリストは私たちを罪の支配から義の支配に、裁きから赦しに、この世から、神の国に…優しく渡らせてくださるのです。確かに「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」のです(イザヤ40:11)。
◇主はわたしの羊飼い
澤田ゆり子(カンバーランド長老キリスト高座教会会員)の話を紹介します。彼女は女の子を授かりました。光の花束を胸に抱くような思いで娘を抱きました。しかし、先天性の股関節の病気を持っており、生後3ヶ月から治療が始まり、入院、手術を幾度か繰り返しました。生後10ヶ月で、ベッドに体を固定したままの治療で、母の自分がそばにいても抱いてあげることも出来ない辛い時を過ごしました。ある晩、娘が泣きじゃくるので、看護師に頼んで、ベルトや重りを外してもらい、3ヶ月ぶりにわが子を抱きました。
翌朝、医師からひどく叱られたのですが、それでも娘を抱いたまま、ベッドに戻すことをしませんでした。その後、医師が一度退院するように、暖かく勧めてくれました。その後、2度にわたる大きな手術。それでも完治しません。同じ頃、6才上の長男が心臓に穴が開いているので手術。2人同時の病院がよいで、数年間、翼を休める時間もありませんでした。
娘が小学校に入学してから、年数回の検診が続き、高校3年で、検診は終わりだと医師に告げられました。その時、やっと安堵できたのです。無理しなければ、スキーも楽しめるようになっていました。
娘は希望の大学に入学。社会福祉を学び、教会学校の奉仕、アルバイトと、充実した生活を送っていました。3年生の秋、足の痛みが生じ、再び、手術となり、1ヶ月のベッド生活、その後のリハビリと忍耐の入院生活が続きました。退院後も、杖をついての生活が続きました。しかし、術後10ヶ月で、再度痛みが襲いました。リハビリも順調で、夏には1人でアメリカに行くことも出来たのに…。
再手術を告げられた娘は、その夜、泣き続けました。「自分のことなのに、受け入れられない」と言うのです。彼女は「辛い気持ち良くわかるよ」と慰めるつもりの言葉を返したら、「お母さん、わたしの気持ちなんか、わかるはずがない!」と激しい言葉が返ってきました。
本当に娘の言うとおりだと思いました。娘の心の内や体の痛みは、娘にしかわからないことなのだ。理解できていると思ったのは自分の勝手な思い込み。娘はこれまで痛みに耐え、充分がんばってきた、これ以上、何をがんばれというのか。神経を逆撫でした自分が情けなかった。主が娘を慰め、励ましてくれることを祈るばかりでした。
娘は教会の牧師に気持ちを打ち明けると、牧師は、季節は待降節だったので、マリヤの思いと娘の思いとを重ね合わせ、祈っていただきました。主がマリヤを力づけたように、主は娘の涙をぬぐい、艱難に立ち向かう勇気を与えてくださいました。
彼女は考え込んでしまいます。…これまでのこと、これはわたしの試練なのか、娘の試練なのか、考え込んで、一歩も進めない、一度や二度の試練なら、納得もできるが、休む間もなく繰り返えされる試練は、素直に試練の時とは思えなくなっていた。わたしを成長させるために、わたしの子どもをこのような目にあわせるのか。自分のことではないので、なおさら、心は痛み、悩みも深い。誰かに話しても、答えも慰めもないだろう。夫も同じ思いであり、責任を充分はたしてくれてはいるが、微妙に受け止め方が違うように思う。ただ、主からの答えをいただきたいと切に求め続けた。…
すると、ある日、聖書を読んでいると、次のみ言葉が心にとまったのです。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40:11)。彼女はこう言います。わたしは子どもたちを自分で守らねばと、自らの力に頼ろうとしていた、それで疲れ果てていました。主はご自分のふところに抱きとって、自ら守ってくださいます。慈しみと情け深さに満ちた大きな暖かい主にすべてを委ねることを悟り、主に立ち返りました。母としてことさら強くふるまうことも、無力であることを嘆くこともしなくてよいのだ、と自分を縛るものから解放されました。
※「私を変えた聖書の言葉」(日キ出版)より