2018年1月28日(日)伝道礼拝(マタイ5:43~48)岡田邦夫
「敬天愛人」(けいてんあいじん)
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44)
今回のNHK大河ドラマの主人公は西郷隆盛。彼が好んで書いた「敬天愛人」は聖書の「あなたの敵を愛しなさい」に大きな影響を受けたのではないかという見解があります。長崎大学附属図書館には西郷が読んだと推測される「新約全書」が納められています。
会津戦争において、庄内藩等は政府軍に敗れ、鶴ヶ城は落城。総司令官の西郷は荘内藩主の切腹をとどめ、ロシアからの攻撃に備え武器は持っているようにと指示した。彼の器の大きさに感嘆したとか…。「敵となり味方となるのは運命である。一旦降伏した以上、兄弟と同じと心得よ」と言ったという。そういう彼の言動から、新約全書を読んだと推測されるのでしょう。
120年前になりますが、内村鑑三が日本人を海外に知らしめるために英文で「代表的日本人」を書きました。そこに西郷隆盛をあげてこう記しています。「敬天愛人の言葉には、キリスト教でいうところの律法と預言者の思想が込められており、私としては西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深い所である」。「西郷にとって、天は全能であり、不変であり、きわめて慈悲深い存在であり、天の法は、守るべききわめて恵み豊かなものとして理解していたようだ」。
以上はあくまで推測ですが、明治維新において、西洋文明を取り入れようとした時、キリスト教の影響があったことは皆さん、ご承知のことです。
◇素晴らしきかな、愛の教え
「敬天愛人」の元だと推測されている聖書を見てみましょう。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。究極の倫理道徳です。理想です。これが世界中で実行されれば、争いも戦争も無くなるでしょう。
この言葉には続きがあります。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(5:45)。自分を愛してくれる者を愛するのはあたりまえ、敵をも愛するのが神の子なのだと言うのです。実に良いことを言っています。敬天父、慈愛に富む天の父を敬えばこそ、人を愛せる、赦せる、祈れるというわけです。
これはイエスが丘で話されたので、山上の垂訓と言います。この垂訓は多くの人に愛されてきました。新約聖書を開いて、最初の系図、読みにくいので躓きますが、この垂訓にくると良い教えだな、最高の教えだなと思うのです。そして、奇跡などは躓く人もいます。それで引き戻して、山上の垂訓に行くのです。維新以降の知識人にはそのような人が結構いるようです。私、若い日に友人の影響で、ロシアの文豪、巨大な魂とも言われたトルストイに憧れたことがありました。ある時、新聞にその翻訳者がトルストイからもらったという新約聖書が紹介されていました。ロシア語ですが、山上の垂訓にはいっぱい線が引いてあり、ほかは愛などもアンダーラインが引かれていました。
山上の垂訓はそのように人を引き付けるものがあるのです。感心するのです。こうであったらいいのにと憧れるのです。
◇素晴らしきかな、愛の奇跡
ところが、現実の世界をみると、垂訓のようにはいかないと躓くのです。世の中は真逆だと思わされ、失望し、あきらめたりするのです。敵をも愛せよと言って、そうはいかない世界情勢であり、世の中であると思い知らされるのです。垂訓が高い規範だからです。しかし、その目が自分に向くようにと聖書は迫ってきます。私自身はというと、友人とキリスト教の集会に行ったことがきっかけで、聖書を開いてみるとそのような心境になっていきました。世の中の濁流にはのまれたくないと思って、周囲を批判し、悲観していました。ところが、山上の垂訓を求める気持ちで読んでみると、ショックでした。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。…偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(7:1-5)。自分は人を裁いていた。自分のことを棚に上げ、梁があるのに、人のちりを大きく見ていた。偽善者だ。そう思わされ、押し出されるようにして、教会に求めて行きました。赦されなければならないのは自分であるので悔い改め、赦してくださるのはイエス・キリストであることを信じ、救われました。
私の姉は銀行に勤務しながら、あるグループで勉強会をしていました。ところがそのグループの一人の女性がある理由で自殺してしまいました。それがショックでグループは解散しました。姉は求めて富士見町教会という教会に行きました。母親は教会に行くのは反対でした。しかし、姉は見合いをして、結婚。教会に行かなくなりました。後に、その母親が晩年、クリスチャンになり、立場が逆転。その母の影響で、姉は坂戸教会で受洗しました。
今日、お話しするのは富士見町教会でのことです。」
ある職場にいたaさんとbさんは仲の良いOLでした。ある日、aさんがコンテストに応募したところ「ミス青森」に選ばれました。すると職場の空気は一変、ミス青森で盛り上がり、aさんはちやほやされます。bさんは嫉妬心が抑えきれず、トイレに呼び出し、aさんの顔に硫酸をかけてしまったのです。aさんは入院。皮膚移植をするも、醜い顔になってしまいました。電車に飛び込んで死んでしまおうと思いつめたのですが、病室の窓から外を見ると教会が見えたので、夜、病室を抜け出し、訪ねました。迎えたのは島村亀鶴牧師。事情を聞いて、こう言いました。「醜いのは顔ではありません。心です」。そこから、悔い改め、イエス・キリストを信じ、救われます。洗礼式の時、牧師は聞きます。「bさんを赦せますか」。会堂はシーンとなり、会衆は息をのみます。彼女の口から「赦します」。洗礼式は感動でした。
刑務所にいるbさんに自分が罪ゆるされたようにイエスを信じてくださいと何度も手紙を書きましたが、返事は皆無。しかし、出所後、再開した時のことです。bさんは恐るおそる言います。「あなたが手紙を何度もくれたのは、私を誘い出して殺すつもりなんでしょう。私にはもう前途の希望もありません。殺すなり、何なりとあなたの思う存分に、したいようにしなさい」。bさん、必死に言います。「それは違います、わたしは本当にあなたを赦しています」。それを聞いて、Bさんに大粒の涙があふれ、ワーっと泣き出し、「どうか赦して下さい」とaさんの胸にすがったのです。その後、二人は一緒に住み、一緒に教会に行くようになったのです。
これは考えられない奇跡です。赦せないものを赦すというのは人にはどうしても出来ないことです。しかし、人は創造者の顔に泥を塗るような、硫酸をかけるような罪を犯しています。聖なる神には赦せない存在です。その赦せない御思いを御子イエス・キリストにぶつけられたのです。それが十字架。その苦しみの中で敵を愛し、迫害する者のために祈られたのです。神の敵であった私たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなしをされたではありませんか。そして、死後、復活、昇天。全き赦しがなされたのです。
この神の愛が身に沁みれば、敬天愛人、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るという福音の奇跡がおきていくのではないでしょうか。
「敬天愛人」(けいてんあいじん)
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44)
今回のNHK大河ドラマの主人公は西郷隆盛。彼が好んで書いた「敬天愛人」は聖書の「あなたの敵を愛しなさい」に大きな影響を受けたのではないかという見解があります。長崎大学附属図書館には西郷が読んだと推測される「新約全書」が納められています。
会津戦争において、庄内藩等は政府軍に敗れ、鶴ヶ城は落城。総司令官の西郷は荘内藩主の切腹をとどめ、ロシアからの攻撃に備え武器は持っているようにと指示した。彼の器の大きさに感嘆したとか…。「敵となり味方となるのは運命である。一旦降伏した以上、兄弟と同じと心得よ」と言ったという。そういう彼の言動から、新約全書を読んだと推測されるのでしょう。
120年前になりますが、内村鑑三が日本人を海外に知らしめるために英文で「代表的日本人」を書きました。そこに西郷隆盛をあげてこう記しています。「敬天愛人の言葉には、キリスト教でいうところの律法と預言者の思想が込められており、私としては西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深い所である」。「西郷にとって、天は全能であり、不変であり、きわめて慈悲深い存在であり、天の法は、守るべききわめて恵み豊かなものとして理解していたようだ」。
以上はあくまで推測ですが、明治維新において、西洋文明を取り入れようとした時、キリスト教の影響があったことは皆さん、ご承知のことです。
◇素晴らしきかな、愛の教え
「敬天愛人」の元だと推測されている聖書を見てみましょう。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。究極の倫理道徳です。理想です。これが世界中で実行されれば、争いも戦争も無くなるでしょう。
この言葉には続きがあります。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(5:45)。自分を愛してくれる者を愛するのはあたりまえ、敵をも愛するのが神の子なのだと言うのです。実に良いことを言っています。敬天父、慈愛に富む天の父を敬えばこそ、人を愛せる、赦せる、祈れるというわけです。
これはイエスが丘で話されたので、山上の垂訓と言います。この垂訓は多くの人に愛されてきました。新約聖書を開いて、最初の系図、読みにくいので躓きますが、この垂訓にくると良い教えだな、最高の教えだなと思うのです。そして、奇跡などは躓く人もいます。それで引き戻して、山上の垂訓に行くのです。維新以降の知識人にはそのような人が結構いるようです。私、若い日に友人の影響で、ロシアの文豪、巨大な魂とも言われたトルストイに憧れたことがありました。ある時、新聞にその翻訳者がトルストイからもらったという新約聖書が紹介されていました。ロシア語ですが、山上の垂訓にはいっぱい線が引いてあり、ほかは愛などもアンダーラインが引かれていました。
山上の垂訓はそのように人を引き付けるものがあるのです。感心するのです。こうであったらいいのにと憧れるのです。
◇素晴らしきかな、愛の奇跡
ところが、現実の世界をみると、垂訓のようにはいかないと躓くのです。世の中は真逆だと思わされ、失望し、あきらめたりするのです。敵をも愛せよと言って、そうはいかない世界情勢であり、世の中であると思い知らされるのです。垂訓が高い規範だからです。しかし、その目が自分に向くようにと聖書は迫ってきます。私自身はというと、友人とキリスト教の集会に行ったことがきっかけで、聖書を開いてみるとそのような心境になっていきました。世の中の濁流にはのまれたくないと思って、周囲を批判し、悲観していました。ところが、山上の垂訓を求める気持ちで読んでみると、ショックでした。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。…偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(7:1-5)。自分は人を裁いていた。自分のことを棚に上げ、梁があるのに、人のちりを大きく見ていた。偽善者だ。そう思わされ、押し出されるようにして、教会に求めて行きました。赦されなければならないのは自分であるので悔い改め、赦してくださるのはイエス・キリストであることを信じ、救われました。
私の姉は銀行に勤務しながら、あるグループで勉強会をしていました。ところがそのグループの一人の女性がある理由で自殺してしまいました。それがショックでグループは解散しました。姉は求めて富士見町教会という教会に行きました。母親は教会に行くのは反対でした。しかし、姉は見合いをして、結婚。教会に行かなくなりました。後に、その母親が晩年、クリスチャンになり、立場が逆転。その母の影響で、姉は坂戸教会で受洗しました。
今日、お話しするのは富士見町教会でのことです。」
ある職場にいたaさんとbさんは仲の良いOLでした。ある日、aさんがコンテストに応募したところ「ミス青森」に選ばれました。すると職場の空気は一変、ミス青森で盛り上がり、aさんはちやほやされます。bさんは嫉妬心が抑えきれず、トイレに呼び出し、aさんの顔に硫酸をかけてしまったのです。aさんは入院。皮膚移植をするも、醜い顔になってしまいました。電車に飛び込んで死んでしまおうと思いつめたのですが、病室の窓から外を見ると教会が見えたので、夜、病室を抜け出し、訪ねました。迎えたのは島村亀鶴牧師。事情を聞いて、こう言いました。「醜いのは顔ではありません。心です」。そこから、悔い改め、イエス・キリストを信じ、救われます。洗礼式の時、牧師は聞きます。「bさんを赦せますか」。会堂はシーンとなり、会衆は息をのみます。彼女の口から「赦します」。洗礼式は感動でした。
刑務所にいるbさんに自分が罪ゆるされたようにイエスを信じてくださいと何度も手紙を書きましたが、返事は皆無。しかし、出所後、再開した時のことです。bさんは恐るおそる言います。「あなたが手紙を何度もくれたのは、私を誘い出して殺すつもりなんでしょう。私にはもう前途の希望もありません。殺すなり、何なりとあなたの思う存分に、したいようにしなさい」。bさん、必死に言います。「それは違います、わたしは本当にあなたを赦しています」。それを聞いて、Bさんに大粒の涙があふれ、ワーっと泣き出し、「どうか赦して下さい」とaさんの胸にすがったのです。その後、二人は一緒に住み、一緒に教会に行くようになったのです。
これは考えられない奇跡です。赦せないものを赦すというのは人にはどうしても出来ないことです。しかし、人は創造者の顔に泥を塗るような、硫酸をかけるような罪を犯しています。聖なる神には赦せない存在です。その赦せない御思いを御子イエス・キリストにぶつけられたのです。それが十字架。その苦しみの中で敵を愛し、迫害する者のために祈られたのです。神の敵であった私たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなしをされたではありませんか。そして、死後、復活、昇天。全き赦しがなされたのです。
この神の愛が身に沁みれば、敬天愛人、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るという福音の奇跡がおきていくのではないでしょうか。