オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

「敬天愛人」(けいてんあいじん)

2018-01-28 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月28日(日)伝道礼拝(マタイ5:43~48)岡田邦夫

「敬天愛人」(けいてんあいじん)
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44)

今回のNHK大河ドラマの主人公は西郷隆盛。彼が好んで書いた「敬天愛人」は聖書の「あなたの敵を愛しなさい」に大きな影響を受けたのではないかという見解があります。長崎大学附属図書館には西郷が読んだと推測される「新約全書」が納められています。
 会津戦争において、庄内藩等は政府軍に敗れ、鶴ヶ城は落城。総司令官の西郷は荘内藩主の切腹をとどめ、ロシアからの攻撃に備え武器は持っているようにと指示した。彼の器の大きさに感嘆したとか…。「敵となり味方となるのは運命である。一旦降伏した以上、兄弟と同じと心得よ」と言ったという。そういう彼の言動から、新約全書を読んだと推測されるのでしょう。
 120年前になりますが、内村鑑三が日本人を海外に知らしめるために英文で「代表的日本人」を書きました。そこに西郷隆盛をあげてこう記しています。「敬天愛人の言葉には、キリスト教でいうところの律法と預言者の思想が込められており、私としては西郷がそのような壮大な教えをどこから得たのか興味深い所である」。「西郷にとって、天は全能であり、不変であり、きわめて慈悲深い存在であり、天の法は、守るべききわめて恵み豊かなものとして理解していたようだ」。
 以上はあくまで推測ですが、明治維新において、西洋文明を取り入れようとした時、キリスト教の影響があったことは皆さん、ご承知のことです。


◇素晴らしきかな、愛の教え
「敬天愛人」の元だと推測されている聖書を見てみましょう。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。究極の倫理道徳です。理想です。これが世界中で実行されれば、争いも戦争も無くなるでしょう。
この言葉には続きがあります。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(5:45)。自分を愛してくれる者を愛するのはあたりまえ、敵をも愛するのが神の子なのだと言うのです。実に良いことを言っています。敬天父、慈愛に富む天の父を敬えばこそ、人を愛せる、赦せる、祈れるというわけです。
これはイエスが丘で話されたので、山上の垂訓と言います。この垂訓は多くの人に愛されてきました。新約聖書を開いて、最初の系図、読みにくいので躓きますが、この垂訓にくると良い教えだな、最高の教えだなと思うのです。そして、奇跡などは躓く人もいます。それで引き戻して、山上の垂訓に行くのです。維新以降の知識人にはそのような人が結構いるようです。私、若い日に友人の影響で、ロシアの文豪、巨大な魂とも言われたトルストイに憧れたことがありました。ある時、新聞にその翻訳者がトルストイからもらったという新約聖書が紹介されていました。ロシア語ですが、山上の垂訓にはいっぱい線が引いてあり、ほかは愛などもアンダーラインが引かれていました。
山上の垂訓はそのように人を引き付けるものがあるのです。感心するのです。こうであったらいいのにと憧れるのです。

◇素晴らしきかな、愛の奇跡
 ところが、現実の世界をみると、垂訓のようにはいかないと躓くのです。世の中は真逆だと思わされ、失望し、あきらめたりするのです。敵をも愛せよと言って、そうはいかない世界情勢であり、世の中であると思い知らされるのです。垂訓が高い規範だからです。しかし、その目が自分に向くようにと聖書は迫ってきます。私自身はというと、友人とキリスト教の集会に行ったことがきっかけで、聖書を開いてみるとそのような心境になっていきました。世の中の濁流にはのまれたくないと思って、周囲を批判し、悲観していました。ところが、山上の垂訓を求める気持ちで読んでみると、ショックでした。
 「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。…偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(7:1-5)。自分は人を裁いていた。自分のことを棚に上げ、梁があるのに、人のちりを大きく見ていた。偽善者だ。そう思わされ、押し出されるようにして、教会に求めて行きました。赦されなければならないのは自分であるので悔い改め、赦してくださるのはイエス・キリストであることを信じ、救われました。
 私の姉は銀行に勤務しながら、あるグループで勉強会をしていました。ところがそのグループの一人の女性がある理由で自殺してしまいました。それがショックでグループは解散しました。姉は求めて富士見町教会という教会に行きました。母親は教会に行くのは反対でした。しかし、姉は見合いをして、結婚。教会に行かなくなりました。後に、その母親が晩年、クリスチャンになり、立場が逆転。その母の影響で、姉は坂戸教会で受洗しました。
今日、お話しするのは富士見町教会でのことです。」
ある職場にいたaさんとbさんは仲の良いOLでした。ある日、aさんがコンテストに応募したところ「ミス青森」に選ばれました。すると職場の空気は一変、ミス青森で盛り上がり、aさんはちやほやされます。bさんは嫉妬心が抑えきれず、トイレに呼び出し、aさんの顔に硫酸をかけてしまったのです。aさんは入院。皮膚移植をするも、醜い顔になってしまいました。電車に飛び込んで死んでしまおうと思いつめたのですが、病室の窓から外を見ると教会が見えたので、夜、病室を抜け出し、訪ねました。迎えたのは島村亀鶴牧師。事情を聞いて、こう言いました。「醜いのは顔ではありません。心です」。そこから、悔い改め、イエス・キリストを信じ、救われます。洗礼式の時、牧師は聞きます。「bさんを赦せますか」。会堂はシーンとなり、会衆は息をのみます。彼女の口から「赦します」。洗礼式は感動でした。
刑務所にいるbさんに自分が罪ゆるされたようにイエスを信じてくださいと何度も手紙を書きましたが、返事は皆無。しかし、出所後、再開した時のことです。bさんは恐るおそる言います。「あなたが手紙を何度もくれたのは、私を誘い出して殺すつもりなんでしょう。私にはもう前途の希望もありません。殺すなり、何なりとあなたの思う存分に、したいようにしなさい」。bさん、必死に言います。「それは違います、わたしは本当にあなたを赦しています」。それを聞いて、Bさんに大粒の涙があふれ、ワーっと泣き出し、「どうか赦して下さい」とaさんの胸にすがったのです。その後、二人は一緒に住み、一緒に教会に行くようになったのです。

 これは考えられない奇跡です。赦せないものを赦すというのは人にはどうしても出来ないことです。しかし、人は創造者の顔に泥を塗るような、硫酸をかけるような罪を犯しています。聖なる神には赦せない存在です。その赦せない御思いを御子イエス・キリストにぶつけられたのです。それが十字架。その苦しみの中で敵を愛し、迫害する者のために祈られたのです。神の敵であった私たちのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなしをされたではありませんか。そして、死後、復活、昇天。全き赦しがなされたのです。
 この神の愛が身に沁みれば、敬天愛人、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るという福音の奇跡がおきていくのではないでしょうか。

キリスト者にふさわしく

2018-01-21 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月21日(日)主日礼拝(エペソ5:1~8)岡田邦夫

キリスト者にふさわしくキリスト者にふさわしく
「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(エペソ5:1~2)

アニメーション映画「この世界の片隅に」がヒットしました。呉及び広島を舞台に戦時のなか、悲惨な状況にもかかわらず、けなげに美しく生きる女性の物語です。原作者は世界の片隅の片隅に生きた一人の人を描きたかったと言っていました。そこには何も負けない人間の尊厳を思わされます。私たち、キリスト者は世の片隅に生きているのかも知れませんが、神の国においては尊厳をもって生かされているはずです。
パウロの手紙は前半が恵みの教理で、後半がそれに基づく倫理という構成になっています。両者を分けてはならないし、その順序が大切だからです。エペソ人への手紙は特にはっきりしていて、1~3章が教理、4~6章倫理です。

◇召しにふさわしく
 教理から倫理に展開するつなぎの言葉に注目してみましょう。4章1節「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」。主の囚人というのはパウロがその身が投獄されてはいるが、異邦人宣教のためキリストに心が囚われているという意味でしょう。「召されたあなたがた」なのだから「その召しにふさわしく歩みなさい」なのです。どう召されたのでしょうか。世界の基の置かれる前から、選んでくださり、きよい神の子にしようと定め、御子の贖い、赦しという天からの大いなる恵みをいただいたのです。神のご計画は天にあるものも地にあるものも一つに集めること、言い換えれば、すべての者が一つになり神の家族となり、キリストをかしらとする一つからだ、教会となることです。
 これでもかと強調します。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです」。だから、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」(4:2-3)。
 ところが、ひとりひとり違うわけですから、「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」(4:7)。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」(4:14 -15)。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられ、ついに、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。この大目標、大目的のため、私たちは召されたのです。「その召しにふさわしく歩みなさい」なのです。

◇愛されている子どもらしく
 もう一つ、つなぎの言葉に注目してみましょう。5章1節「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」。神に倣うなど、私たちにはとてもおよばないことです。何かにたとえるものが見つかりません。特殊なことです。いいかどうかわかりませんが、美智子さんは一般人から、皇太子と結婚されました。憲法では天皇は象徴の勤めがあり、皇后もそれにふさわしい生き方をしなければなりません。国民の模範的振る舞いが求められます。私たち、キリスト家に召され、キリスト家の皇太子の資格が与えられ、神の国を継ぐものとなったのですから、それにふさわしく生き、ふさわしい振る舞いが必要です。
 ここでは古い生き方を捨て、新しい生き方をしなさいと告げます(4:21-24)。偽り、憤りを捨てよ。悪魔に機会を与えるな。盗むな、施せ。人の徳を高めよ。聖霊を悲しませるな。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(4:32)。聖徒にふさわしくあれ。今の機会を生かせ。聖霊に満たされて、賛美せよ。神に感謝せよ。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(5:1-21要約)。

 多義に渡って言われていますが、その中心は「愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」(5:2)。そのひとつの側面を述べましょう。パウロの生き方です。3章7~8節 「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられた」。聖徒たちのうちで一番小さな私という立ち位置に立つことです。そうです。イエス・キリストは小さくなられたのです。馬小屋で生まれました。大工の子として育てられました。辺境の地、何のよきものが出ようかという、ガリラヤで伝道されました。貧しい者、病めるものと共に生き、活かしました。最後の晩餐で弟子たちの足を洗いました。ユダヤの当局に犯罪人にされ、ピラトの前で死刑を宣告されました。ゴルゴダの丘で2人の犯罪人と共に十字架刑に処せられました。誰も助けてはくれず、私たちの罪を身代わりに負われたので、神からも見捨てられました。息を引き取り、黄泉にまで下りました。とことん小さくなられ、仕えてくださったのです。すべては愛から出たことでした。それゆえ、死からよみがえらされ、神の右にまで引き上げられました。
 神の国の逆説です。小さい器にこそ、計り知れない豊かな恵みが満ちて、それを誰かにお届け出来るのです。愛の逆説です。私、求道中の時、有名な「キリストに倣いて」を読んで、そんな高尚な生き方に憧れましたが、それは私には遥か届かない生き方でした。しかし、神の皇太子にしていただいたということがどんなに素晴らしい恵みかを思うと、それにふさわしく生きたいと思う自分に気付きました。とても、シンプルなことです。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」(5:1)。

共に天上で座につかせて下さった

2018-01-14 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月14日(日)主日礼拝(エペソ2:1~10)岡田邦夫

「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:5~6)

 「ありがとう」を漢字で書くと、有と難で「有難う」という風になります。元々は、読んで字のごとく滅多にない、珍しくて貴重だ、という意味の「有り難し」という言葉でした。「有り難し」とか「有り難き」といった言葉自体の歴史は古く、平安時代の随筆「枕草子」において「ありがたきもの」というのがありますが、これは上述の「滅多にない」という本来の意味に近く「この世にあるのが難しい」という意味で使われておりました。
 私たちがいただいた救いの恵みというのは、本当にあり得ないこと、有り難きこと、感謝しても感謝しきれないことです。それを言っているのが今日の聖書です。

◇神の怒りの下で…罪過と罪との中に死んでいた
 テレビで何かのテーマで番組が進行し、「ことの真相は…」「驚愕の事実が…」と見せ場を作っているものがあります。しかし、私たちは他人事ではなく、私たち自身のこととして、イエス・キリストによる救いの出来事が驚愕の事実なのです。毎週、礼拝ごとに語られていくべきものなのです。エペソ人への手紙2章にスポットライトをあてて見てみましょう。
 まず、神の目から見た人間の霊的な現実は実に悲劇的なのです。何とも気付かずかずに生きていますが、身震いするような恐ろしい状況に置かれているというのが神の前の人間の真相です。すでにクリスチャンになった者たちに以前はこんなだったと告げます(2:1-3)。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(サタン)に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。
 サタンに従い、神に対して不従順であり、神に反逆し、自己中心に生き、神の怒りを受け、滅びに向って生きている、霊的には死んだ者でした。最悪の状態でした。受け入れがたいけれど、それが事実でした。

◇神の愛の中で…復活して天上に座している
 次の衝撃の事実は神の愛です(2:4-5)。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―」。私たち人間が絶対許せないとカンカンに怒っていて、その人を愛せるでしょうか、許せるでしょうか。しかし、神は計り知れない大きな愛をもって、十字架において、私たちの罪をお赦し下さったのです。それが計り知れない恵みです。あわれみです。
母から聞かされたことです。私の父は早く両親に死に別れ、親戚の家にあちこち養子に行くのですが、落ち着かない。そこで、職を手に付けさせ、板前になります。仕事が終わると花札賭博にふける。借金が重なると、包丁一本と風呂敷包みで夜逃げをし、次の店に行くという有様。ひと一旗揚げようと、英会話の本を懐に入れて、横浜港から密航しようとしたら、親戚に見つかり、呼び戻される。それを知った馴染みの客、岡田というかくしゃくとした女性が現れた。「銀ちゃん、小石川にうなぎ屋をだしな。嫁さんも世話するよ」。口を出したが、金も出してくれた。場所が良くなくて、店はたたむことに。決心した。養子にしてくれた彼女の経営する工場で地道に働こう。あれだけきれいにしていた手は、石鹸であらっても落ちないほど真っ黒になった。
ふてくされて生きていて、親戚のやっかいものだった自分を拾い上げてくれた彼女の愛情を生涯忘れることはなく、神のように手を合わせていた。私がクリスチャンになって、伝道しましたが、そちらの思いが強すぎて、受け入れてはくれませんでした。残念でしたが、愛は人生を変えるのと知らされました。まして、神のどれほど大きな愛で私たちを愛しておられるでしょうか。
 さらに、ここには思いもよらぬ救いの事実が述べられているのです(2:5-6)。死人がよみがえるなど、人類史上、それこそあり得ないことです。ところが、主キリストは死人の中から栄光のからだよみがえり、天の神の右に座られたのです。それは天にお帰りになっただけではなく、私たちをともなうためでした。驚きの真正の救いです。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。

◇神の御霊の中で…神の作品、み住まいになる
 以上は自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではなく、恵みのゆえに、信仰によって救いをいただいたのです。
では神にとってはというと、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(2:10)。レオナルド・ダ・ヴィンチが、死ぬまで手放さなかった絵が3枚ありました。「聖アンナと聖母子」「モナリザ」「洗礼者ヨハネ」です。お気に入りだったのでしょう。私たちはイエス・キリストによって造られた神のお気に入りの作品です。決して、手放さないのです。
 父は血のつながりではない養子になりました。法的に親子でした。イスラエルは神に選ばれ、契約が結ばれ、神の民となった民でした。契約の民としての約束があり、律法(割礼を含む)がありました。神に近いものでした。その意味で私たち異邦人は神に遠いものでした。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです」(2:13)。この両者を隔てている規定(古い律法)という壁をご自身の犠牲をもって打ちこわし、敵意を廃棄され、平和の関係に導かれたのです。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(2:18)。実に神の家族です。
 また、私たちは、キリスト・イエスご自身を礎石にし、使徒と預言者を土台にし、キリストにあって、組み合わされ、成長し、主にある聖なる宮(神殿)となるのです。「御霊によって神の御住まいとなるのです」(2:22)。もはや神の怒りはまったく消え、神の平和が満ちた、神にとって、居心地の良いみ住まいとなるのです。聖にして、無限の神がどうやって住まわれるのでしょう。私たちには不思議でたまりません。驚愕のみ業が進行中なのです。
 まずはこの大いなる恵みを知ることです。そうするとそれにふさわしい生き方が出来ていきます。パウロの祈りを私たちの祈りとしましょう。「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(3:17b-19)。

キリストのからだなる教会

2018-01-07 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月7日(日)主日礼拝(エペソ1:15~23)岡田邦夫


「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:22~23)

 教会の辺りは人家が少ないので夜はたいへん暗いです。先週、家内と二人で冬の寒さが身に染みながら道を歩いていて、東の方を見ると、相野の山のうえに大きな満月がまばゆく輝いていました。暗いからこそ、輝きがわかるのです。
 今から三百数十年ほど昔にイギリスに貧しい家庭に生まれ育ったバニヤンという人がいた。ピューリタンの影響をうけ、熱心だったため、牧師でないのに説教をした。それらの理由で、三回にわたり牢獄に入れられた。合わせると十二年半もの獄中生活。その時に書いたのが「天路歴程」、キリストを信じる者がいかにして、罪ゆるされ、力を与えられ、守られ、導かれて天の国へと歩んでいくか、その歩みを書いたものである。これは聖書についでよく読まれた作品である。
 パウロは復活のイエス・キリストに出会って回心し、異邦人使徒に召されます。バルナバに目をかけられ、伝道旅行が始まり、教会から遣わされ、小アジアからヨーロッパへ伝道旅行を展開していきました。そして、騒乱罪で訴えられますが,彼がローマ市民権を持っていたので、囚人船に乗せられ、地中海を渡り、ローマに到着、そこで獄中生活を送ることになります。その獄中で書いたのが獄中書簡と呼ばれるエペソ、ピリピ、コロサイにあてた手紙です。獄中からでありながら、いえ、獄中からだからこそ、天にも引き上げられるような霊的に格調の高い書簡です。アメージング・グレイスな書です。

◇歴史を超えて
 囚われの身で自由ではないけれど、瞑想は自由、そこに神の啓示がくるから、遠大な話になってくるのです。手紙は織物を刺繍のように織って綴っていくようのです。まず、挨拶の「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」が横糸とすれば、縦糸は「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」です(1:2-3a)。恩恵の糸と頌栄の糸です。
① 過去(1:3b-6)
まず、恩恵というのが計り知れないのです。どんな億万長者にも勝る天来の祝福なのです(-5)。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。その救いの祝福に与った私たちは創造の前から選ばれ、意図されたことだった言うのですから、驚きです。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」。
 そして、頌栄「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」(1:)。
② 現在(1:7-11)
神の豊かな恵みによって、「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けて」おり、奥義を知らされています。それはキリストにあっての神の立案であり、時が来ると実現するというもの。天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです」。
そして、頌栄「前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです」(1:12)。
③ 未来(1:13-14)
「あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます」。「これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです」。


◇常識を超えて
 パウロが受けたこの大いなる啓示の言葉があまりにも遠大過ぎるので、知恵と啓示の御霊が与えられて、心の目が開かれ、よくわかりますようにと祈ります。彼自身も「目からうろこ」、聖霊によって開眼した経験があるからでしょう。「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを」(1:18-19)。

◇個人を超えて
 救いは個人的です。一人一人が信じて救われ、天に名が記されるのですが、教会の一員になる、神の家族になるのです。年末の25日に病床洗礼を受けられ、28日に召天された方の葬儀がありました。家族葬ということでしたが、教会員も参列致しました。信じてから4日間ですが、三田泉教会の会員、イエス・キリストの血でつながった神の家族です。そう意味では、地と天の家族葬だったとも言えましょう。
 これまで、「私たち」「私たち」と繰り返し、言われてきました。一人の私であり、全体の私たち共同体です。教会という共同体、キリストをかしらとするそのからだである命の共同体です。かしらは天に属する方です(1:20-21)。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」。
 教会はというとかしらとは切っても切れない結びつきをしているからだです(1:22-23)。「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」。
 先ほどの方が受洗できたのは、長男であるクリスチャンがどれほどお母さんのために祈られたでしょうか。それと共に一度もその方にはお会いしたことない三田泉教会員が祈り会などで心を合わせて祈ってきました。召される間際で当人の意志で受洗されたのはキリストをかしらとする教会の祈りを神がお聞きになられたのです。式文の葬儀の祈りにこうあります。「あなたは……を母の胎に宿る前から選び、時を定めてこの地上に使命を与えて生れさせ、その生涯を祝福して導いてくださいました。またあなたは深い摂理のみ手に導かれ、…救いに与り…」。91歳の最後の最後の時、イエス・キリストの神が奇跡を起こされたのです。人にはできないことをされたのです。私たちは欠くもあり、弱さもある普通の人間です。しかし、キリストをかしらとする天につながっている、からだなる教会共同体です。上にも横にもつながっていて、過去にも未来のもつながっているのが、キリストのからだなる教会です。いっしょに霊の目が開かれて、救いの奥義がどれほど素晴らしいものかが解るという共有体験をしていきましょう。いっしょに祈り、奉仕をし、神の御業を共有体験をしていきましょう。そして、いっしょに私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえてまいりましょう。

新しい歌を主に向かって歌え

2018-01-01 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月1日(日)元旦礼拝(イザヤ42:10~13)岡田邦夫


「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。」(イザヤ42:10共同訳)

 新年あけましておめでとうございます。新年で何がおめでたいのかと、正月気分に浸りながら、おちょくる人がいます。かつて、数え年という年齢の数え方があって、1月1日にみな一斉に一つ年をとるという風習です。暦が新しくなったことよりも、人の年が新しくなった、ここまで皆、生きて来られた、もう一年一緒に生きていきましょうという意味合いで、「新年齢おめでとう」だと思います。
 牧師は定年延長年、サッカーなら勝負がつかなかったので、延長戦。それでも勝負がつかなければ、PK戦になる。はたしてどうなるか、やってみなければわかりません。昨年、励まされた書がありました。105歳で召される7ヵ月前に一か月の間(昨年の今頃)、インタビューをされたものが本になった、日野原重明さんの「生きていくあなたへ」です。死に行く人が生きていくあなたへのメッセージというものです。その最後のことばが一編の詩のようでした。私、それを通して思いめぐらしてる時に与えられたのが、このみ言葉です。「主に向かって新しい歌を歌え」。

◇永遠の命
 日野原さんは「命の授業」を全国の10歳の子供たちにしてきました。子どもに問います。「命はどこにあると思う?」色んな答えが出て最後に先生は伝えます。「命というのは君たちが使える時間の中にあるんだよ」。そして、その時間を人のために使うように、時間が終わった時神様の天秤にかけられ、人のために使った時間が多い人が天国に行けるんだよ…と。そうして、先生は「命」のことを伝えて来られました。
 命というのはいつも新しくされているものです。昨日の私と今日の私では、ずいぶん細胞が新しくされているので、違うものです。命の特質は新しさといえます。信仰も生きたもの、たえず新しくされていくのです。そこに新しい歌が生まれるのです。主日礼拝ごとに、信仰の旅路において「主に向かって新しい歌を歌え」なのです。福音の伝道師パウロは強調しています(ガラテヤ6:14-15)。「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」。大事なのは新しい創造、信仰者が十字架によって新しく造られていくことなのです。
 愛の宣教師ヨハネは誰でも新しく生まれなければ神の国に入れないと言い、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。この永遠の命も新しさなのです。
 召されゆく日野原さんの最後の言葉は“クラークさんは「ボーイズビーアンビシャス」という「言葉」を遺して北海道を去ったけれども、私は「キープオンゴーイング」。この「言葉」を若い人と一緒に、みなさんと一緒に口にして、みなさんと一体化して行動すること。感謝な気持ちで、キープオンゴーイング。…さらに、前進また前進を私達は続けなくちゃならない。喜びと感謝でキープオンゴーイング。(p208-209)”
 永遠の命は無限に動く自働機械ではない。永遠に向かって新しくされていく命なのです。だから、新しく歌い続けるのです。


◇主の晩餐
 命の源泉は食事、活動、休息です。信仰の命を新しくするのも食事、活動、休息です。食事はみ言葉の糧、霊の糧。活動は礼拝、奉仕。休息は安息日、静思の時などです。それらは習慣化されるとともに、その都度、新鮮な思いでのぞんでまいりましょう。重要なのは新しく造られることです。新しい歌を歌うことです。
 ままた、日野原さんの言葉を借りましょう。“苦しみが強かっただけに、今の感謝は以前の感謝よりも何倍も何倍も大きなものとして、私をリバイバルさせてくださった。リバイバルの思いが、私にとって大きな自己発見ですね。苦しみを越えていくそのダイナミックさっていうのを、感じるのです。それが大きな自己発見。(p193-194)” リバイバルは生き返り、信仰復興です。苦難を通して、その思いにかられるのです。
 ではそのリバイブされる源泉は何でしょう。主の晩餐です。最後の晩餐の時に弟子たちにパンを差し出し、これはわたしのからだであると言われ、ぶどう酒を差し出し、これはわたしの血であると言われ、弟子たちがそれに与ったのです。後々、記念として行うよう命じられたのが聖餐式です。それでカトリック教会は聖餐を中心のミサをし、プロテスタントは聖餐の意味するところの福音の言葉を中心として礼拝をしています。
 どちらも重要なのはイエス・キリストが最も重要なのは十字架と復活の福音であり、そこからずれないように、そして、絶えずそこから永遠の命に預るようにと命じられたことだと思います。形においても、言葉においても、十字架と復活の福音に与り、信仰が絶えずリバイブされることを主がお望みなのです。
 私、中学年の担任の先生には良くしてもらいました。私はめだたないぞんざいですから、友達からは「岡田、生きてるか」と声をかけられ、通知書には書きようがないので「真面目」の一言。でもその先生は違っていた。クラスで学習部を作ると言われ、私は数学部に選んでくれた。数学の問題を見つけてきて、それをプリントしてクラスに配るというもの。そんな風なのでクラスのみんなは生き生きしていた。牧師になってから、その先生がクリスチャンだったことを知りました。夜勤になると、校舎の屋上で聖歌「カルバリ山の十字架」を涙を流して歌っていたと言います。きっと生徒の一人一人のため祈っていてくれたに違いない。それで生徒の個性が読めていたのに違いないと思います。かなり想像ですが、いずれの日にか生徒の誰かが信仰を持つように祈っていてくれたので、私は救われたのではないかと思いめぐらすのです。何しろ、主の十字架の福音に涙する方ですから…。そこに源泉をおいておられた聖徒だったから…。
 新しい歌は十字架と復活の福音に与るところから、湧き出てくるのです。2018年の私たち、新しい歌を主に向かって歌いましょう。
「新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え」。