オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

我と我が家は主に仕えん

2016-05-29 23:35:56 | 礼拝説教
2016年5月29日 主日礼拝(ヨシュア記24:19~28)於・豊中泉教会・岡田邦夫

「わたしとわたしの家とは主に仕えます。」ヨシュア記24:15

 あれから35年、豊中に赴任した時は若さに輝いていたが、今は額が輝いています。最初「測り縄は良い地に落ちた」のみ言葉から「点と線」という題で説教し、起こった神の出来事の点を結んでいくと救いの歴史になりますといようなことを話したかと思います。ヨシュア記23~24章でヨシュアが「年も進んで老人となった」ので、イスラエルの人々にメッセージを伝えます。実は13:1でも同じように主が彼に言われていました。「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」。私も年が進んで、老人となり、定年まであと3年となったのですが、このみ言葉が示されて、教会に迷惑でなければ、定年延長をさせていただきたいと思っています。「取るべき地なお多し」なのです。

◇「主が…」神の主体性
「年も進んで老人となった」は新改訳で「年を重ねて老人になった」と訳されています。歴史は積み重ねです。年輪のように、地層のように、書物のように、重ねてきたものです。ヨシュアに神が過去を回想させ、イスラエルの歴史の初めから見させるのです。24:2~13を要約してみましょう。
・第一の層:主は先祖アブラハムをユーフラテス川の向こうからカナンの全土を歩かせ、その子孫はエジプトに下った(24:2-4、創世記に記)。
・第二の層:主はモーセとアロンをエジプトに遣わし、災いを下し、イスラエルを連れ出した。葦の海を渡らせ、追手のエジプト軍から逃れさせた。そして、民は荒野に住んだ(24:5-7、出エジプト記に記)。
・第三の層:主はヨルダン川の東に住むエモリ人との戦いに勝利をもたらし、その地を占領させた。バラクの手からも救い出した(24:8-10、民数記に記)。
・第四の層:主はヨルダン川を渡らせ、エリコの人々との戦いのほか、カナンの町々、人々との戦いに勝利を与え、この地を相続地に与えた。産物も与えた(24:11-1、ヨシュア記に記)。
 これはヨシュアの見解や想いではなく、主ご自身の見解や想いなのです。一言で言いますと「あなたがたのために戦われたのは、あなたがたの神、主である」(23:3)。主体は、歴史を重ねる神、主なのです。そして、重要なことはみ言葉の実現なのです。「あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した」(23:14新改訳)。
 こちらの御教会とヨシュア記とどこか似ているような気がします。一人の姉妹が神田ホーリネス教会で救われ、車田秋次師より洗礼を受け、結婚して、豊中に来られました。ご主人の所属する他の教団の教会に一緒に行っていました。車田師が大阪に来られた時に、会う機会が与えられ、彼女は願い出ました。「ホーリネスの教会が豊中にほしい」と。早速、牧師が遣わされ、家庭集会が始まり、1956年、豊中使徒教会が設立されました。
それから、24年という年が重ねられ、ついに新しい場所に出る必要が生じました。「あなたがたが足の裏で踏む所はみな、…あなたがたに与えるであろう」のように(1:3)、踏み出して、名を改め、豊中泉教会が誕生しました。そして、泉教会に与えられた約束の言葉は「ヨセフは…泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は垣根を超えるであろう」(創世記49:22)。垣根を超えて、3つの市に踏み出し、教会が誕生しました。
御教会の歴史の主人公、主体はイエス・キリストの神です。「あなたがたのために戦われたのは、あなたがたの神、主である」。「あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した」のです。歴史‘History’は‘His story’(彼・イエス・キリストの物語)とよく言われます。教会の歴史も信仰者の歴史も、神が重ねられた、栄光に輝く神の物語なのです。

◇「主に…」我の主体
 では人のでる出番はないのでしょうか。あるのです。すべて、神がなさったこと、これからも、神がなさることなのだと踏まえたうえで、「それゆえ」と言って、こう命じます。「いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。…あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい」(24:14-15)。
 ここに信仰者の主体性があります。見えるものにしろ、見えないものにしろ、偶像を捨てて、真の神、イエス・キリストを選び、仕えることです。主に仕えることは最も価値のある生き方です。ヨシュアは「ただし、私と私の家とは共に主に仕えます。」と率先して言います。私は私、他の人は他の人、だれが何を選ぼうとも、私は主を選び、主に仕えます。ということです。それこそ、主を喜ばせることです。
 主の恵みによって仕えることに価値があります。民は応答します(24:16-18)。これまで、主がみずから我々をエジプトの奴隷の家から導き出し、我々の通ったすべての道で守られたから、また、主がすべての民を追い払い(カナンの地を得させた)から、それゆえ、我々も主に仕えます。「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決してしません」。これから後もそうです(24:19-24)。主に仕えず、主を捨てれば、聖なる神、ねたむ神(熱情の神)が滅ぼすことがあるのだという、ヨシュアの問いかけに対し、民はいいえ「われわれの神、主に仕え、その声に聞きしたがいます」と応答します(24:21)。言い換えれば、これから後も主の救いがあるから、本心で主に仕えますと言ったのです。

今年生誕300年を迎えた伊藤若冲(じゃくちゅう)という、江戸時代の天才絵師に注目が集まっています。誰もまねができない、手の込んだ絵ばかりだからです。孔雀の羽根などは無数の線を使って描かれていますが、細かい所は0.2mmの細さ、しかも、下書きなしで、一カ所のミスも描き直しも見当たらないという高度な技術です。紅葉の真っ赤な葉っぱは絹地に表からは赤、裏からは橙を塗り、一枚一枚全部違う色に描き、牡丹の僅か2cmほどのシベには絵の具を4層に塗り重ね複雑な色彩と立体感を生み出しています。僅か1cmの雀の胸には、顔料0.1mm以下の粒子を筆先につけ絹目の隙間に置いて、微妙な色を生み出しています。こうして、人間の目で認識できないレベルの描写をして、若冲はいのちの輝きを表現しようとしたのでしょう。
イエス・キリストが私たちを救うためになしてくださったことは、そのようなことなのです。十字架の血で私の頭のてっぺんから足のつま先まで、人生の初めから終わりまで、見えるところも見えない所も、神がお気にいるまで、微に入り細に入り、徹頭徹尾、きよめてくださったのです。キリストの復活の命で私の頭のてっぺんから足のつま先まで、人生の初めから終わりまで、見えるところも見えない所も、神がお気いるまで、微に入り細に入り、徹頭徹尾、栄光の輝きに変えてくださるのです。若冲の手による作品を世界が注目しているのですが、わが救いの人生はイエス・キリストの御からだによる作品、天の世界が絶賛しているのです。
だから、私たちはこの主に仕えることを今、選んで当然なのです。仕えられるより、仕える方が最良の生き方なのです。主ご自身が言われました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。…人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:43,45新改訳)。私たちが、仕えられた十字架のイエスを仰ぎ見つつ、私たちも主に仕えていくことが最高の人生なのです。三浦綾子さんが仕事というのは文字からして「仕える事」だと言いました。私たちは一生涯、神に仕えるという最大の仕事があります。献身も仕える事、小さな親切も仕える事、寝たきりになっても、祈り仕える仕事があります。仕える人生こそ、パーフェクトな無駄のない人生なのです。
今、告白しましょう。「わたしとわたしの家とは主に仕えます」(24:15)。

知ることの悦び

2016-05-22 12:19:03 | 礼拝説教
2016年5月22日 伝道礼拝(ヨハネ福音書17:3)岡田邦夫
 「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ヨハネ福音書17:3

 今日はこの「知る」ということが、単に頭に知識を得るということではなく、もっと幅広く、奥深いものであることをお話ししたいと思っています。

◇知られざる我
イソップ寓話のひとつに「農夫とその子どもたち」というのがあります。ある農夫に働かない3人の子供がいました。年老いた農夫が亡くなる間際に、畑に宝物が隠してあるから、収穫を終えたら深く掘り起こしてみなさいと子どもたちに言い残しました。子どもたちは言いつけ通り、畑の隅々を深く掘り返しましたが宝物は見つかりませんでした。しかし、その翌年の収穫は、畑がよく耕されたことから、今までにない大豊作に恵まれました。労働こそが宝である。労働の尊さを教える寓話です。
この労働を学習(教育)におきかえて、教育の目標としたのがユネスコです (1996年・21世紀教育国際委員会の報告書)。その題が「学習:秘められた宝」(Learning:The Treasure within)」です。
「秘められた宝」といのは子どもの潜在的な能力のことです。子どもが宝を求めて畑を掘り起こす寓話のように、子どもの中にある潜在的な能力を掘り起こすことです。農夫すなわち、親が生涯教育を示し、それによって子どもが生涯学習を見つけるということです。(学ぶのは一生涯です。私たち、いくつになっても学ぶ能力を引き出していくのです。)ユネスコの方針の四本柱は、知ることを学ぶ、為すことを学ぶ、共に生きることを学ぶ、人間としてあることを学ぶ(learning to be)です。このうち、4番目の人間としてあることを学ぶのが最も重要なことだと思います。画家はよく自画像を描きます。絵を描く自分自身は何者なのかということを問い、描くのです。私は何者かを知らなくて、他のどんなことを知っても虚しくなるのではないでしょうか。
ミヒャエル・エンデ作「はてしない物語」という少し分厚い本を家内が子どもたちに読み聞かせていました。主人公バスチアンは勉強も得意でない、背の低い、太った10歳位の男の子。そのひは、学校をさぼり、本屋から失敬してきた一冊の本を読みふけるうちに、ファンタジーの世界に引き込まれていきます。一つのお守りを与えられたバスチアンは、それによって、自分の年来の願い事を次々にかなえられていきます。
貴公子に変えられ、勇者に変身し、知恵者、富者、権力者となることができました。しかし、一つの願い事がかなうごとに、バスチアンは人間界の記憶が一つずつ奪われていくのです。最後の記憶が奪われる時、彼は二度と人間世界に戻ることはできなくなるのです。
最後の願い事は、真の意思でなければなりません。彼が本当に望んでいたのは、「偉大なもの、強いもの、賢いものになる」ことではなく、「ありのままの自分で愛されたい」ことでした。善悪、美醜、賢愚にかかわりなく、自分の欠点をも全部ひっくるめて、いや、それら欠点ゆえに愛されたいという願いでした。
このことに気付いた後、「変わる家」にたどりついた彼は変わります。これまでの願いとは異なる“愛したい”という望みを持つようになり、それを望むことで人間界に戻ることが出来たのでした。戻った彼は、以前の彼ではなく、今や自分自身である悦びを味わい、生きる喜びを味わい、理解していました。「世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、結局のところたった一つ、愛することが出来る悦びなのだ」と。
※この要約は渡辺和子師のものを使わせてもらいました。
現代社会の不気味に広がりつつある虚無から抜け出すには、バスチアンの人間の大切な真の意思、“愛したい” という望み、すなわち、人間としてあることを学ぶ(learning to be)ことなのです。

◇知られざる神
 しかし、聖書には自分自身を知れという直接的な言い方は見当たりません。例えば、自分の顔を直接には見ることはできません。そのように、自分というものは意外にわからないものです。鏡で自分の顔を見るように、他者に見られたり、言われたりしてわかるようです。聖書は何よりも「神を知る」ことを求めています。虚無から解放を告げる伝道者の書にこうあります(12:1、12:13口語訳)。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『私にはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」、「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。
 国家的な激動の時代に作られた詩篇にこう歌われています(46::10口語訳)。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
 さらに神を知ることから、自分を知るのです。自分を知るために神は聖書という鏡を人に贈られました。また、良心という手鏡を贈られました。表からも裏からもわかるようにと…。すると、人間の良さ、美しさを知るとともに、人間の、自分の罪深さ、醜さ、しかも、それが良さ、美しさを台無なしにしてしまう真相を知ることになるのです。虚しさと恐れとが襲ってきます。自分が本来の自分ではないので、身の置き所がないのです。そこに救いの神が必要なのです。
 その救いの神がイエス・キリストなのです。救いの道は神を知ること、イエス・キリストをしることです。最後の晩餐でイエスが父なる神に祈られた祈りの中の言葉がそれです。「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ福音書17:3)。この知るというのは頭で知るだけでなく、体で知る、人格的に知るということです。ここでは信じる、信頼するという意味でしょう。
 私ははじめ、多少の求めはあったものの、興味本位で教会へ行きました。ですから、行っても説教も祈りも何だかちんぷんかんぷんでわからないのです。それで行くのを止めてしまったのですが、しかし、それから自分自身の人生を考えるようになり、聖書の言葉に関心を持つようになり、良心が敏感になってしました。高校時代は大変いたずらで、キセルというようなことも遊びでしていました。しかし、教会へ行ってからは、全く止めているのも関わらず、改札口をでて、後ろの人が駅員に「もしもし…」と言われたりすると、自分に言われたようで、ものすごくドキッとするのです。
 そして、聖書と良心が私の姿を映してくれました。「さばいてはなりません。さばかれないためです。…」のみ言葉でした(マタイ7:1-)。救われたいと思いました時に、教会の特別集会に誘われました。講師は聖書をどんなに調べても、真理や神はわからないだろう。信じてわかるものだ。泳ぐのに、いくらら本を読んでも泳げないが、水に飛び込んでいけば泳げるようになる。あなたも、神のところに飛び込んできなさいと勧められました。教会の青年がそばに来て、ありのままにお祈りすればいいと勧められました。
 「神様、私はあなたを信じることが出来ませんが、信じられるようにしてください」。すると不思議と神の存在が信じられ、「神様を信じてこなかったこと、神が見ていないと思うから数々の罪を犯しました」。「この私の罪のためにイエス様が十字架にかかり、赦していただいたことを信じます」。そして、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」という救いの言葉が与えられました(ヨハネ3:16)。そるとその時、私は本来あるべきところに帰ったなあと実感しました。この私はこの私でいいのだ、十字架の贖いによって、神に認められた私なのだ、今もそう思わされています。
 すべては唯一の神を知ること、救い主イエス・キリストを知ること、信じること、体験することです。そこに永遠の命が与えられるのです。そして、イエス・キリストの十字架の大鏡(しかも三面鏡)の前に立つときに、徹底的に罪赦され、決定的に永遠の命が与えられた自らが映しだされているのを見るのです。そこから、神を愛し、人を愛する本来の生き方が始まるのです。


時は積み重なる

2016-05-15 12:17:35 | 礼拝説教
2016年5月15日 主日礼拝(ヨシュア記23:1~11)岡田邦夫


 「あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。」ヨシュア記23:14

 今年も6月になると、教会が借りている畑に黒豆の種をまきます。10月には枝豆、12月には黒豆の収穫が楽しみです。我が家の正月料理の定番は黒豆をじっくり煮込んだ、黒光りのする煮豆。「真っ黒に日に焼けるほど健康にまめに暮らす」としゃれてたりします。おせちといえば重箱に入れるのが日本の風習。二の重とか三の重と(贅沢なのは五の重まで)重ねてあるのが楽しいもので、意義深くも感じます。
 人生というのは重箱のようなものです。幼年期・児童期・青年期・壮年期・老年期と重ねていきます。重ねていくから、味があり、楽しみがあると言えます。「主が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた」とあります(23:1)。

◇年を重ねて
 ヨシュアは過去を回顧し、将来を展望し、全イスラエルの民にメッセージを告げます。過去という字は過ぎ去るで、何か戻ってこないという気分になります。1991年のテレビCMで「時は流れない。それは積み重なる」というのがあり、私としては気に入った言葉でした。木に年輪があるように、地に地層があるように、歴史というのは積み重ねであると思います。ヨシュアはエフライム族のヌンの息子として成長し、モーセの従者として忠実に仕え、後継者としてカナン獲得を成し遂げ、そして、老人となる、そうして人生を積み重ねてきたわけです。
 イスラエルの歴史を回顧し、告げます。「あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。…断ち滅ぼしたすべての国々とを、相続地として、くじによってあなたがたの部族に分け与えた。…あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない」(23:3-5要約)。
 次の章で詳しく、積み重ねられ歴史を語ります(24:2-13、聖書の書名はでてきませんが、わかりやすいようにと私が入れました)。
・第一の層は創世記の巻:主は先祖アブラハムをユーフラテス川の向こうからカナンの全土を歩かせ、その子孫はエジプトに下った。24:2-4
・第二の層は出エジプト記の巻:主はモーセとアロンをエジプトに遣わし、災いを下し、イスラエルを連れ出した。葦の海を渡らせ、追手のエジプト軍から逃れさせた。そして、民は荒野に住んだ。24:5-7
・第三の層は民数記の巻:主はヨルダン川の東に住むエモリ人との戦いに勝利をもたらし、その地を占領させた。バラクの手からも救い出した。24:8-10
・第四の層はヨシュア記の巻:主はヨルダン川を渡らせ、エリコの人々との戦いのほか、カナンの町々、人々との戦いに勝利を与え、この地を相続地に与えた。産物もである。24:11-13
 第一、第二、第三の層を積み重ねてこそ、第四のカナン獲得があったという重みがあります。長年月をかけて、一貫して、主の御思いと御手によって積み重ねられてきたのです。救いとはそのようなものなのです。
 大きく言えば、旧約の歴史の積み重ねがあってこそ、時満つるに及んで御子イエス・キリストが歴史の舞台に人となられて、登場されたのです。十字架において贖いを成し遂げられたのも、旧約の全歴史の上に覆うように積まれたのです。復活され、天に帰られ、新約の救いの歴史が積み重ねられるようにと私たちのところに聖霊を送られたのです。新約は旧約の上に成り立っているのです。お重でたとえるなら、旧約の重も、新約の重も、神の手造りの美味がするはずです。そして、あなたの救いの歴史のお重のお味はいかがですか。

◇心を重ねて
 ヨシュアは民全体に以上を踏まえて、これから、こうあってほしいと告げます(23:6-16)。
 モーセの律法を厳守し、右にも左にもそれないように。生き残っている他の民と交わって偶像礼拝に落ちらないように。今日までしてきたように、あなたがたの神にすがるように。そうすれば、主ご自身が約束したとおり、あなたがたのために戦われるから、ひとりで千人を追うことができるほどだ。
くりかえす。生き残っている偶像の民と交わり、それに染まって、堕落してしまわないように。もしそうなったなら、主があなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにされるのである。
 ですから、そういう落とし穴に「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(23:11)。そして、「あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した」と、主が真実と愛を込めて言われるのです(23:14)。
心を尽くし、精神を尽くして主を知り、主を愛していくのです。尽くすというのは、ある意味で積み重ねです。ご存知のように、マザーテレサは最も貧しい人たちのために尽くしましたが、それは主のみ前に尽くしたことでした。他者に尽くすことは、イエス・キリストに尽くすことです。毎週の主日礼拝、日々の祈りの生活で、主を愛し、主を知ることにおいて、心を尽くして、精神を尽くして、信仰の歴史を積み上げていくのです。
 日本の城の城壁は熊本の地震のような時は崩れることもありますが、たいがいは崩れないように、一つ一つの石を丁寧にしっかりと積み上げられています。サタンの誘惑に十分気をつけて、主を愛し、主を知ることにおいて、心を尽くして、精神を尽くして、神の言葉を信じる信仰の歴史を積み上げていくなら、最後の日の天変地異の時にもその積み上げられたものは崩されることはないと確信します。
 あなたの歴史のお重に、たとえ、見栄えしないように見える信仰の行為も、心を尽くしたものでしたら、主イエス・キリストはあなた風の愛の味を味わってくださるに違いありません。私はそう思います。

とるべき所なお多し

2016-05-08 12:15:43 | 礼拝説教
2016年5月8日 主日礼拝(ヨシュア記13:1)岡田邦夫


 「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、『あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている』。」ヨシュア記13:1(口語訳)

 皆さんには心痛むことがあること思います。内戦や過激派によって、生きる場や安全な場を失った、シリヤ難民のこと。熊本の地震で家屋などの倒壊で生活の場を失った被災者のことでしょう。祈らされます。人が生きていくのに「場」というものがどれほど重要かということを知らされます。

◇牧場
 イスラエルの歴史をさかのぼると、すべての始まりはメソポタミヤから流れてきた遊牧民のアブラハムと不妊のサラからです。神が彼に現れ、子孫を大いに増やし、カナンの土地を与えると約束します。サラに男児イサクが与えられる奇跡が起こり、イサクからヤコブ(後にイスラエル)が生まれ、彼から12人が生まれます。その内のヨセフを通して、不思議な摂理のもとにイスラエルの家族はエジプトに場を得て定住します。
 400年の時が流れるころにはイスラエル民族はエジプトを脅かすほどの人数となっていました。しかし、奴隷の苦役に悩まされ、神に叫び求めました。また、不思議な摂理のもとにイスラエル人のモーセが王子になります。ある事件から彼は命の危険を感じ、エジプトから逃亡し、羊飼いとなります。そこに、主なる神が彼に現れ、エジプトに遣わされます。主による10の災いがエジプト人を苦しめ、イスラエルを奴隷の場から解放し、彼らは自由の身になります。そして、荒野の40年の流浪の旅が続き、それが神の訓練の場となのでした。それは主によって「広い、乳と蜜の流れる地、カナン」を勝ち取り、定住の場を得るためでした(出エジプト3:8)。
 ついに、カナンの「取るべき地」はモーセの存命中に、ヨルダン川の東側を主によって占領し(申命記2~3章)、その西側は後継者ヨシュアの時に主によって占領します(ヨシュア記5~12章)。そして、くじによって12部族に割り当てられました。弱小の民がこのような快進撃ができたのはひとえに主の「あわれみ」のゆえとしか言いようがありません。BC1250頃に始まり、年数がかかったと思われますが、主なる神を礼拝し、信仰に生きる場が与えられたのです。主が羊飼い、民は羊、地は牧場といえるでしょう。
 しかし、ヨシュアの晩年になっても、完全に征服できたわけではないので、主は「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。」と言うのです(13:1口語訳)。やがて、ダビデの時代に更に領地を広げます。しかし、やがて、バビロン捕囚。祖国を失いますが、エルサレムに帰還。ローマ時代になって、エルサレム陥落、ユダヤ人は世界中に離散し、祖国という場を失います(AD70年)。
 ですから、新約において、究極の私たちの永遠に生きる場が与えられていると言います。「揺り動かされない御国を受けているのです」(ヘブル12:28)。「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」(ヘブル13:14)。その場に私たち信じる者が居られるようにと十字架の死をこえ、復活、昇天されたのです。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:2-3)。
 先週、神戸中央教会での葬儀に出席しました。召された方が豊中泉教会に私が遣わされた翌年に授洗した姉妹で、結婚されて、そちらの教会で信仰生活をされていた方だったからです。55歳の若さでした。葬儀の中で語られた「わたしたちの本国は天にあります」のみ言葉がたいへん心に残りました(ピリピ3:20新共同訳)。この世では寄留者、天が本国、召されればそこに帰っていくのだ…。また、故人の10年にわたる闘病生活を支えたのが、詩篇23編、「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」(23:6)。新約に生きる私たち信仰者には永遠の場が約束されており、恵みの場が用意されているのです。

◇現場
 しかし、現実問題として、ヨシュアの晩年になっても、完全に征服できてなく、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。」と示されのです(13:1口語訳)。私は思うのです。未完の完ということです。シューベルトの未完成交響曲というのがあります。形式は未完でも中身は完全とでも言いましょうか。ヨシュアの働きも未完成交響曲のようであったのです。
 私自身も年が進んで老いたという年齢、定年まで数年、退いていく準備をしていくのが普通でしょう。しかし、この教会、年数は立っているものの、まだ、開拓の途上、そんなことは言っていられないのです。やるべき事は、なお多く残っているのです。一つは説教がまだまだなのです。
 ①聖書を開いて、まず、言葉の意味や文法、時代背景など把握します。
 ②その聖書を先人たちがどう信仰的に解釈してきたかを理解します。
 ③その上で、世の問題や人間の問題と対決させ、説教の準備をします。
 この中の③が難しい。世のこと、人間のことがまだまだ学ばなければならないとますます思うのです。取るべき地は、なお多く残っているのです。また、それをみ言葉と「対決」するというのがまた、難儀です。良い例は第一コリントの手紙です。教会での会食のマナーの問題から、単に注意するのではなく、そこから、聖餐制定の言葉、すなわち、キリスト教の神髄を告げるのです(11章後半)。ああ、そういう風に真理を、豊かな恵み、純粋な福音を発見し、説教が一つでも出来たらと思います。取るべき地は、なお多く残っている。
 もう一つは教会の形成と会堂の建築です。現状では無理と思われるかもしれませんが、この群れのために、後の群れのために、この地のために、他の地のために必要なことだ思います。体力、気力など、年が進んで老いてきた者ですが、「取るべき地は、なお多く残っている。」を示されるのです。教会が迷惑でなければ、定年を延長してでも、余計なものは残さず、御心にそって、礼拝する場、安息する場、生かされる場、ここにふさわしい場を残したいのです。「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」の詩編23編のような教会にますますなるようにと願うのです。天の本国に帰るまで、宣教の現場でなお多く残っている取るべき地を得ていきたいと思います。皆さんはいかがですか。

アカンの隠し部屋

2016-05-01 09:31:16 | 礼拝説教
2016年5月1日 主日礼拝(ヨシュア記7:1~5)岡田邦夫


 『明日に備えて自分を聖別せよ』…『イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない』(ヨシュア記7:13新共同訳)。

 小学生の時に、東京の我が家に大阪のいとこが訪ねてきました。いとこといってもずいぶん年上、そして、私より少し年下の娘を連れてきました。私といえばおとなしく奥手、その女の子は活発でませているから、話が合わない。しかもしゃべりの大阪人。すかさず言われました。「邦夫(くん)ちゃん、あかん!」。今日の話はイスラエル人のアカンという人のあかん話です。

◇HOW…侵攻の秘訣
 仕事にしろ、人生にしろ、何しろ、成功の後に失敗があり、失敗の後に成功があるという話はよく聞きます。その典型的なのが今日のところです。
 ヨルダン川を渡って、最初に堅固な城壁に囲まれたエリコを崩し、圧倒的な勝利をし、エリコを手中に収めました。次の町はアイ。まず、ヨシュアは斥候(スパイ)を遣わし、偵察します。少人数で落とせると判断。3千人の兵で戦いを挑んだのですが、敵に圧倒され、城外まで追われ、15人を犠牲にし、逃げ帰るという始末。完全な敗北。このことから、イスラエル人は実は弱いのだと近隣諸国に知れ渡れば、どこも攻め落とせず、撤退か滅亡しかないのです。「民の心がしなえ(心は挫(くじ)け)、水のようになっ」て、全くの戦意喪失、絶望してしまったのです(7:5カッコは新共同訳)。
 ヨシュアはここで民に神の御心としての「くじ」をひかせ、敗北の原因となった人物をさぐります。それで聖絶せよとの命令を破り、欲に目がくらみ、自分の戦利品にして隠していた人物、アカンが原因であることが判明します。証拠品が出てきます(美しい外套、銀二百シェケル、五十シェケルの金の延べ棒)。主の契約を破ったこの大罪に対し、石打の刑が下され、アカンはアコルの谷で処分されます。これで原因が取り除かれたので、戦意(モチベーション)回復。
 そこで、失敗から学んだことを生かし、戦略を立てます。今度は人数をかけるようにし、二手に分け、一隊は正面から攻撃を仕掛けておいて、逃げる。敵は前回と同じように城壁を出て、追ってくるだろう。もう一隊の伏兵は敵兵のいなくなった町を焼け打つ。そして、敵兵を挟み撃ちにする。そうやって、全滅させてしまう。ただし、戦利品の一部を与えることにする。そうして、作戦の通り行われ、アイを陥落させてしまいます。
 敵は前回の成功があだとなり、大失敗、滅亡に至りますが、こちらは失敗を見事に生かし、圧倒的な勝利に導かれました。ヨシュアはこれを自分の手柄とせず、祭壇を築いて、主に感謝し、十戒の写しを石に書き、祝福と呪いの律法を民に読み上げるのです。神の法をもって国造りをしようというわけです。

◇WHAT…深交の秘密
 さらに重要なのはHOWではなくWHATの問題です。「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった」(7:1)。
聖絶のもの=奉納物(口語訳)=滅ぼし尽くしてささげるべきもの(共同訳)。今の私たちにはこの聖絶という概念には何か違和感があります。私のつたない言葉では説明しきれない、何か神の領域のものではないかと考えています。しかし、伝統的な解釈から、深い意味を探っていきたいと思います。
私利私欲の戦いであってはならないことはまず、わかります。
 「滅ぼしつくす」というのは罪びと(敵)に対する神の裁きを契約の民が代行することを意味しているのではないでしょうか。それを代行する者には力はないけれど、その力のない者が神の力を示すのです。ですから、そこでの戦利品は決して人のものではなく、神のものであり、人が神に献げるべきものなのです。それを欲にからんで自分のものにするのは、神のものを盗み取るという「不信」の罪です。それで、神はイスラエルに向かってお怒りになったのです。
 戦いに無残に敗れ、民の心が挫け、水のようになったのも、それを気付かせるためだったのでしょう。ヨシュアは祈ります。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。…あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか」(7:7,9)。砕かれた者の祈りです。 鍾乳洞などで知られている石灰岩、結晶質のものは大理石に使わますが、そうでないのは粉末にして、セメントや白壁から歯磨き粉まで多様に使われています。塊を砕いて、粉末にするとよく水を含みます。その砕いたものを焼くと生石灰となって、大変水を吸収しますので、乾燥剤に使われています。そのように魂が砕かれると神の恵みがたいへん良く吸収しやすくなるのです。挫折を御前に持ってくると砕かれた魂となり、これまで吸収できなかった神の恵みが吸収できる状態になるのです。神のみ思いは人の魂が砕かれて、神の愛と恵みを十二分に吸収してほしいのです。
 私の中の隠し部屋にこれは渡せないというアカンの罪を隠していないでしょうか。強情な自我とか、自己中心の罪というもの、潜めていませんでしょうか。そのアカンをその部屋から追い出す必要があります。きよめられなければなりません。その隠れた部屋には隠れたる神がお入りになるところだからです(マタイ6:6)。
 イスラエルにおけるアカンの罪はアコルの谷で処分されましたが、私たちの中のアカンの罪はゴルゴダの丘で処分されたです。ただし、イエス・キリストが私たちの中のアカンの罪を負って、身代わりに十字架に磔(はりつけ)になり、人々の罵り、呪いという石が投げつけられ、神の怒りという石が降り注がれ、息絶えられたのです。その御子の犠牲の血が私たちをきよめるのです(1ヨハネ1:7)。そこから、本来あるべき、奥深い神との交わりを回復するのです。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(同1:3-4)。

 私たち信仰者の真の敵は見える誰かや、見える何かではなく、見えないサタンです。サタンに敗北したけれど、主によって立ち直ったペテロがこう言っています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」(1ペテロ5:8 -9)。敵はサタンなので、必ず、神が味方でないと勝ち目はありません。イエス・キリストはしっかりと味方してくれるのですから、こちらもしっかり信頼していきましょう。
 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。…罪に定めようとするのはだれですか。…私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ8:31-37抜粋)。
 ヨシュアは勝利後、神の契約(約束)の言葉、律法によって国の形成をしますが、新約の私たちは「み言葉」によって、信仰形成、教会形成をしていくのです。イエス・キリストが公生涯に立つにあたって試みられた時、サタンに対して、み言葉にこう書いてあると突き付け、勝利されたことが、私たちのモデルです。日本刀というのはしなやかでありつつ、ピストルの弾丸も真っ二つに切り裂くほど強靭だという実験結果もあるほどです。職人が火をいれ、たたいて、叩き込んで作り上げていくから強いのです。信仰者も神のみ言葉を心の中に叩き込んで参りましょう。その叩き込まれた「み言葉の剣」こそがサタンに打ち勝つのです。