2015年6月28日 伝道礼拝(マタイ13:44~46)岡田邦夫
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」マタイ13:44
なんでも鑑定団という番組で「ところで、お宝は何ですか?」という決まり文句があります。美術品、工芸品、趣味の物の骨董品を公開で鑑定する番組です。希少価値があれば高値がつきます。最近、高級ブランド品の質流れバザールに外国人観光客が多く買いに来るようになったと聞きます。たとい質流れ品でも、有名ブランドの価値があるからでしょう。教会が借りている畑に今年も黒豆を蒔きました。この辺りでしか出来ない「丹波黒」というブランド品です。収穫をご期待ください。
何に価値をおいているかはそれぞれ違います。しかし、すべての人に共通して言えることは、何といっても、命そのもの、個々の命、たった一つの命こそ、希少価値があるのです。いえ、唯一価値と言うべきでしょう。こんな言い方があります。「私が岡田邦夫を演じさせたら、世界一だ」。神が天地を造られ、人を造られたのです。私たちも神に造られたのです。オートメーションで同じものを製造されたのではありません。一人一人が神の手造りなのです。「あなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」と聖書が言っているからです(詩篇139:13)。
しかも、人はさらに最も価値あるもの、「神のかたち」に造られ、被造物でありながら、創造者と向き合うようにと造られたのです。それを投影するように、人と人とも助け手として、向き合うように造られました。神は「非常に良かった」と満足されたのです(創世記1:31)。
◇命の重み
しかし、ここでひとりの人の話を聞いてください。星野富弘さんのことです。1970年6月、中学校の体育教師になって間もない頃でした。放課後、クラブ活動で空中回転の手本を示していた時、誤って頭から落下してしまい、頸(けい)髄(ずい)を損傷し、首から下が動かなくなってしまいました。何度も手術をし、命はとりとめたものの、自分では何一つ出来ない。母親や周囲の人の励ましが支えてくれるが、このような世話になりっぱなしで生きていくのは辛い。そのような時に、大学時代の友人が聖書を持ってきてくれたので読んでみました。このような言葉が目に入りました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)。
著書「かぎりなくやさしい花々」でこう言っています。「聖書のなかに書いてあるイエス・キリストという人が、わたしをだきあげて、わたしのいうことを、やさしくきいてくれるような気がしました」。その時の気持ちを口に筆をくわえて書きました(キリストへの思いをペンに)。
「思いきってイエス様の名をよび 聖書を開いてみました。そしたら、長い間苦しみながらさがしていた私に語りかけてくれることばに会うことが出来ました。上をむいて寝ている私の眼にうつるものは天井の七十枚のベニヤ板だけではなくなりました。その灰色のベニヤ板のつなぎ目さえ私達のために血を流された十字架に想えます。楽しい時に感謝し、心の沈んでいる時、名をよべる方が今までになかったよろこびです。主のおしえにしたがい、苦しみにさえ感謝出来る日の来ることを信じています。」
◇命の重荷
そして、1974年、病室で洗礼を受けました。彼の詩画は皆さん、ご存じだと思いますが、その中の「いのちより大切なもの」は実に意味深いものがあります。
「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった/いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」
人は命が一番大事だといいます。生きていること、それ自体に価値があるといいます。器械体操をやって、あれだけ元気だった人が、何から何まで、人にしてもらわなければ生きていけない命です。天井を見たまま、ずっと寝ているのです。泣きたくても、手で顔を覆うことも出来ないのです。実に生きていくにはあまりにも辛い状態です。「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった」とはきっとそういうことなのでしょう。しかし、彼は命より大切なものを知ったのです。星野富弘さんは「いのちより大切なもの」って何ですかと尋ねられても答えないようにしているそうです。それはその人自身が求めて、体験して欲しいからです。聖書の言葉であてはまるものは「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)。
◇永遠の重み
人は神のかたちを持つ、たいへん価値あるものに造られたのに、初めの人間アダム(私たち自身でもある)がそれに満足せず、傲慢にも、創造の神のようになろうとし、神に背を向け、自己中心の道に進んだのです。神と向き合ってこそ、価値があったのに、それを失えば、無価値なもの、有害のものになってしまったのです。私たち、皆そういう罪人なのです。そこで、神は人を新しく造り変えようと、神の御子を人の世に遣わされました。十字架において、私たちが神と向き合えるよう、有害となっている罪を背負って死にました。それによって、罪赦され、新たな永遠の価値ある命を与えてくださったのです。何と、イエス・キリストの血(命)の代価を払って、買い取られということです(1コリント6:20)。
永遠の命はまさにお宝中のお宝です。聖書によれば、隠されているのです。私たちは捜す必要があるのです。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます」(マタイ13:44ー46)。持ち物を売り払って、買い取るというのは、神に背を向けた生き方を悔い改め、イエス・キリストの救いを信じるということです。それは「大喜びで」とあるように、喜ばしいこと、嬉しいことです。「いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」とはそのことなのです。
私の長男家族が加古川にいた時、小さい孫が私たちのいる三田に来るのが楽しみでした。ある時、あした三田に行くよと言うと、まだ言葉を覚えたて、「うれしみ!」と答えたのです。その子は楽しみ、悲しみがあるのだから、嬉しみもあると考えて言ったわけです。聖書を通して、祈りを通して、私たちは愛するイエス・キリストの神を知ることは「嬉しみ」です。まだ、永遠の命のお宝を見つけていない方はぜひ、見つけてください。すでに見つけておられる方は、まだまだ、聖書の中に、祈りの中に、永遠のお宝は隠されています。生涯を費やして、買い取っていきましょう。その「嬉しみ」を分かち合っていきましょう。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」マタイ13:44
なんでも鑑定団という番組で「ところで、お宝は何ですか?」という決まり文句があります。美術品、工芸品、趣味の物の骨董品を公開で鑑定する番組です。希少価値があれば高値がつきます。最近、高級ブランド品の質流れバザールに外国人観光客が多く買いに来るようになったと聞きます。たとい質流れ品でも、有名ブランドの価値があるからでしょう。教会が借りている畑に今年も黒豆を蒔きました。この辺りでしか出来ない「丹波黒」というブランド品です。収穫をご期待ください。
何に価値をおいているかはそれぞれ違います。しかし、すべての人に共通して言えることは、何といっても、命そのもの、個々の命、たった一つの命こそ、希少価値があるのです。いえ、唯一価値と言うべきでしょう。こんな言い方があります。「私が岡田邦夫を演じさせたら、世界一だ」。神が天地を造られ、人を造られたのです。私たちも神に造られたのです。オートメーションで同じものを製造されたのではありません。一人一人が神の手造りなのです。「あなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」と聖書が言っているからです(詩篇139:13)。
しかも、人はさらに最も価値あるもの、「神のかたち」に造られ、被造物でありながら、創造者と向き合うようにと造られたのです。それを投影するように、人と人とも助け手として、向き合うように造られました。神は「非常に良かった」と満足されたのです(創世記1:31)。
◇命の重み
しかし、ここでひとりの人の話を聞いてください。星野富弘さんのことです。1970年6月、中学校の体育教師になって間もない頃でした。放課後、クラブ活動で空中回転の手本を示していた時、誤って頭から落下してしまい、頸(けい)髄(ずい)を損傷し、首から下が動かなくなってしまいました。何度も手術をし、命はとりとめたものの、自分では何一つ出来ない。母親や周囲の人の励ましが支えてくれるが、このような世話になりっぱなしで生きていくのは辛い。そのような時に、大学時代の友人が聖書を持ってきてくれたので読んでみました。このような言葉が目に入りました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)。
著書「かぎりなくやさしい花々」でこう言っています。「聖書のなかに書いてあるイエス・キリストという人が、わたしをだきあげて、わたしのいうことを、やさしくきいてくれるような気がしました」。その時の気持ちを口に筆をくわえて書きました(キリストへの思いをペンに)。
「思いきってイエス様の名をよび 聖書を開いてみました。そしたら、長い間苦しみながらさがしていた私に語りかけてくれることばに会うことが出来ました。上をむいて寝ている私の眼にうつるものは天井の七十枚のベニヤ板だけではなくなりました。その灰色のベニヤ板のつなぎ目さえ私達のために血を流された十字架に想えます。楽しい時に感謝し、心の沈んでいる時、名をよべる方が今までになかったよろこびです。主のおしえにしたがい、苦しみにさえ感謝出来る日の来ることを信じています。」
◇命の重荷
そして、1974年、病室で洗礼を受けました。彼の詩画は皆さん、ご存じだと思いますが、その中の「いのちより大切なもの」は実に意味深いものがあります。
「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった/いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」
人は命が一番大事だといいます。生きていること、それ自体に価値があるといいます。器械体操をやって、あれだけ元気だった人が、何から何まで、人にしてもらわなければ生きていけない命です。天井を見たまま、ずっと寝ているのです。泣きたくても、手で顔を覆うことも出来ないのです。実に生きていくにはあまりにも辛い状態です。「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった」とはきっとそういうことなのでしょう。しかし、彼は命より大切なものを知ったのです。星野富弘さんは「いのちより大切なもの」って何ですかと尋ねられても答えないようにしているそうです。それはその人自身が求めて、体験して欲しいからです。聖書の言葉であてはまるものは「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)。
◇永遠の重み
人は神のかたちを持つ、たいへん価値あるものに造られたのに、初めの人間アダム(私たち自身でもある)がそれに満足せず、傲慢にも、創造の神のようになろうとし、神に背を向け、自己中心の道に進んだのです。神と向き合ってこそ、価値があったのに、それを失えば、無価値なもの、有害のものになってしまったのです。私たち、皆そういう罪人なのです。そこで、神は人を新しく造り変えようと、神の御子を人の世に遣わされました。十字架において、私たちが神と向き合えるよう、有害となっている罪を背負って死にました。それによって、罪赦され、新たな永遠の価値ある命を与えてくださったのです。何と、イエス・キリストの血(命)の代価を払って、買い取られということです(1コリント6:20)。
永遠の命はまさにお宝中のお宝です。聖書によれば、隠されているのです。私たちは捜す必要があるのです。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます」(マタイ13:44ー46)。持ち物を売り払って、買い取るというのは、神に背を向けた生き方を悔い改め、イエス・キリストの救いを信じるということです。それは「大喜びで」とあるように、喜ばしいこと、嬉しいことです。「いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」とはそのことなのです。
私の長男家族が加古川にいた時、小さい孫が私たちのいる三田に来るのが楽しみでした。ある時、あした三田に行くよと言うと、まだ言葉を覚えたて、「うれしみ!」と答えたのです。その子は楽しみ、悲しみがあるのだから、嬉しみもあると考えて言ったわけです。聖書を通して、祈りを通して、私たちは愛するイエス・キリストの神を知ることは「嬉しみ」です。まだ、永遠の命のお宝を見つけていない方はぜひ、見つけてください。すでに見つけておられる方は、まだまだ、聖書の中に、祈りの中に、永遠のお宝は隠されています。生涯を費やして、買い取っていきましょう。その「嬉しみ」を分かち合っていきましょう。