オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

あなたのお宝は何ですか

2015-06-28 15:18:26 | 礼拝説教
2015年6月28日 伝道礼拝(マタイ13:44~46)岡田邦夫


 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」マタイ13:44

 なんでも鑑定団という番組で「ところで、お宝は何ですか?」という決まり文句があります。美術品、工芸品、趣味の物の骨董品を公開で鑑定する番組です。希少価値があれば高値がつきます。最近、高級ブランド品の質流れバザールに外国人観光客が多く買いに来るようになったと聞きます。たとい質流れ品でも、有名ブランドの価値があるからでしょう。教会が借りている畑に今年も黒豆を蒔きました。この辺りでしか出来ない「丹波黒」というブランド品です。収穫をご期待ください。
 何に価値をおいているかはそれぞれ違います。しかし、すべての人に共通して言えることは、何といっても、命そのもの、個々の命、たった一つの命こそ、希少価値があるのです。いえ、唯一価値と言うべきでしょう。こんな言い方があります。「私が岡田邦夫を演じさせたら、世界一だ」。神が天地を造られ、人を造られたのです。私たちも神に造られたのです。オートメーションで同じものを製造されたのではありません。一人一人が神の手造りなのです。「あなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」と聖書が言っているからです(詩篇139:13)。
 しかも、人はさらに最も価値あるもの、「神のかたち」に造られ、被造物でありながら、創造者と向き合うようにと造られたのです。それを投影するように、人と人とも助け手として、向き合うように造られました。神は「非常に良かった」と満足されたのです(創世記1:31)。

◇命の重み
 しかし、ここでひとりの人の話を聞いてください。星野富弘さんのことです。1970年6月、中学校の体育教師になって間もない頃でした。放課後、クラブ活動で空中回転の手本を示していた時、誤って頭から落下してしまい、頸(けい)髄(ずい)を損傷し、首から下が動かなくなってしまいました。何度も手術をし、命はとりとめたものの、自分では何一つ出来ない。母親や周囲の人の励ましが支えてくれるが、このような世話になりっぱなしで生きていくのは辛い。そのような時に、大学時代の友人が聖書を持ってきてくれたので読んでみました。このような言葉が目に入りました。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)。
 著書「かぎりなくやさしい花々」でこう言っています。「聖書のなかに書いてあるイエス・キリストという人が、わたしをだきあげて、わたしのいうことを、やさしくきいてくれるような気がしました」。その時の気持ちを口に筆をくわえて書きました(キリストへの思いをペンに)。
「思いきってイエス様の名をよび 聖書を開いてみました。そしたら、長い間苦しみながらさがしていた私に語りかけてくれることばに会うことが出来ました。上をむいて寝ている私の眼にうつるものは天井の七十枚のベニヤ板だけではなくなりました。その灰色のベニヤ板のつなぎ目さえ私達のために血を流された十字架に想えます。楽しい時に感謝し、心の沈んでいる時、名をよべる方が今までになかったよろこびです。主のおしえにしたがい、苦しみにさえ感謝出来る日の来ることを信じています。」

◇命の重荷
 そして、1974年、病室で洗礼を受けました。彼の詩画は皆さん、ご存じだと思いますが、その中の「いのちより大切なもの」は実に意味深いものがあります。
 「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった/いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」
 人は命が一番大事だといいます。生きていること、それ自体に価値があるといいます。器械体操をやって、あれだけ元気だった人が、何から何まで、人にしてもらわなければ生きていけない命です。天井を見たまま、ずっと寝ているのです。泣きたくても、手で顔を覆うことも出来ないのです。実に生きていくにはあまりにも辛い状態です。「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった」とはきっとそういうことなのでしょう。しかし、彼は命より大切なものを知ったのです。星野富弘さんは「いのちより大切なもの」って何ですかと尋ねられても答えないようにしているそうです。それはその人自身が求めて、体験して欲しいからです。聖書の言葉であてはまるものは「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)。

◇永遠の重み
 人は神のかたちを持つ、たいへん価値あるものに造られたのに、初めの人間アダム(私たち自身でもある)がそれに満足せず、傲慢にも、創造の神のようになろうとし、神に背を向け、自己中心の道に進んだのです。神と向き合ってこそ、価値があったのに、それを失えば、無価値なもの、有害のものになってしまったのです。私たち、皆そういう罪人なのです。そこで、神は人を新しく造り変えようと、神の御子を人の世に遣わされました。十字架において、私たちが神と向き合えるよう、有害となっている罪を背負って死にました。それによって、罪赦され、新たな永遠の価値ある命を与えてくださったのです。何と、イエス・キリストの血(命)の代価を払って、買い取られということです(1コリント6:20)。
 永遠の命はまさにお宝中のお宝です。聖書によれば、隠されているのです。私たちは捜す必要があるのです。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます」(マタイ13:44ー46)。持ち物を売り払って、買い取るというのは、神に背を向けた生き方を悔い改め、イエス・キリストの救いを信じるということです。それは「大喜びで」とあるように、喜ばしいこと、嬉しいことです。「いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」とはそのことなのです。
 私の長男家族が加古川にいた時、小さい孫が私たちのいる三田に来るのが楽しみでした。ある時、あした三田に行くよと言うと、まだ言葉を覚えたて、「うれしみ!」と答えたのです。その子は楽しみ、悲しみがあるのだから、嬉しみもあると考えて言ったわけです。聖書を通して、祈りを通して、私たちは愛するイエス・キリストの神を知ることは「嬉しみ」です。まだ、永遠の命のお宝を見つけていない方はぜひ、見つけてください。すでに見つけておられる方は、まだまだ、聖書の中に、祈りの中に、永遠のお宝は隠されています。生涯を費やして、買い取っていきましょう。その「嬉しみ」を分かち合っていきましょう。

夢見る人・ヨセフ

2015-06-21 15:15:41 | 礼拝説教
2015年6月21日 主日礼拝(創世記45:1~15)岡田邦夫

夢見る人・ヨセフ
 「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」。創世記45:4-5

 一つの謎があります。イスラエル人が400年もエジプトに定住していて、その奴隷の家から、よくぞ、まとまって脱出できたということです。モーセという優れた器によったのは明らかですが、それにはエジプト時代、何か重要な下地があったからこそ、出来たに違いないと思います。

◇貫くもの
 出エジプトの契機になったのは、まず、こうでした。「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた」(出エジプト2:23-25)。そして、神がモーセに現れます。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と(同3:6)。エジプトで語り部によって、アブラハム、イサク、ヤコブに現れた神を民の間に語り継ぎ、400年、12部族の間でその信仰が貫かれてきたに違いありません。
 アブラハム、イサク、ヤコブの三世代で信仰を確立していきました。ヤコブはベテルで石を枕に野宿した時、神の使いが天に届くはしごを上り下りする夢を見ました。そして、神の啓示を受け、信仰を確立したのです。ヤコブの息子は十二人、ヨセフは下から二番目、愛する妻ラケルの子、父は寵愛します。ヨセフ物語はそこから始まるのですが、創世記は「これはヤコブの歴史である」と書き出しています(37:2)。ヨセフが大きな働きをするのですが、ヤコブの歴史に含まれるということです。兄たちは寵愛を受けるヨセフを憎らしいと思う。更に増長させたのが、ヨセフの夢でした(37:6-7,9)。
 「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました」。「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」。夢で啓示を受けたヤコブの信仰をヨセフは受けついだのでしょう。
 そうとは知らず、激怒した兄たちはヨセフを野に呼び出し、殺そうとします。長男が押しとどめると、そこに商人がやってきたので、銀二十枚で売ってしまいます。ヨセフは商人に売られて、エジプトの侍従長ポティファルの奴隷となります(37:36)。「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た」(39:3)。財産管理までまかされます。ところが、ポティファルの妻が誘惑してきます。それに対し「私は神に罪を犯すことができましょうか。」と拒絶すると、妻はヨセフのせいにしたため、主人は怒って彼を獄に入れてしまいます。
 獄においても「主がヨセフとともにおられたので」監獄長の信頼を得て、管理をゆだねられます。そこへパロに仕える献酌官長と調理官長が入獄してきて、奇妙な夢を見るのです(40章)。ヨセフがその夢解きをします。解き明かされたことが現実になり、献酌官長は召し抱えられ、調理官長は処分されます。
 その二年後、パロ王が奇妙な夢を見ます(41章)。やせた牛7頭が肥えた頭の牛を食い尽くすというもの。同じような夢をもう一つ見る。パロは心が騒ぎ、占い師や知者に解きあかしを命じるが誰も解けません。献酌官長がヨセフを思いだします。ヨセフがパロの前に召し出され、夢解きをします。七年の豊作のあと、七年の飢饉が来る。豊作の間に蓄えておき、飢饉に備えるようにと解き明かします。パロはヨセフに「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない」と言い、宰相(総理)に任じます(41:39)。
 夢は現実になり、七年の豊作の後、飢饉が続き、近隣から、エジプトに穀物を買いに来るようになります。その中にはヨセフの兄たち十人がいました(末の弟ベニヤミンは残して)。宰相ヨセフは気付きますが、兄たちは気付くはずもない。そこで、ヨセフは父や弟の安否や自分を売った兄たちが悔いているか、色々工作をして、確かめます。良くわかった所で、ヨセフはたまらなくなって、泣きます。「私はあなたがたがエジプトに売った弟ヨセフです。」と打ち明けます(45:4)。そうして、和解をし、ベニヤミンの首を抱いて泣き、兄たちに口づけをして抱いて泣いたのです。
 そして、ヤコブの全家をエジプトに呼び、ゴシェンの地に住まわせたのです。こうして、ヨセフは何があろうとアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神への信仰を守り、また、イスラエルの全家族を守ったのです。それを貫き通したのです。そして、そのことが400年、信仰の火は消えず、出エジプトにつながっていったのに違いありません。

◇貫かさせたもの
 ここで、ヨセフが兄弟たちに名乗り出た時の言葉が創世記において極めて重要です。「ヨセフは兄弟たちに言った。『どうか私に近寄ってください。』彼らが近寄ると、ヨセフは言った。『私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです』」(45:4-5)。
 父ヤコブの死後にもこう言っています。「ヨセフは彼らに言った。『恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。』こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた」(50:19- 21)。
 兄たちは憎しみを持って、エジプトに売り飛ばしたのは事実で、恨んで仕返しをしたり、懲らしめるのは当然ですが、これまでの経緯を見れば、そうではない。若い頃に見た、自分に向かってお辞儀をするという夢は神の預言だった。奴隷になったり、囚人になったりしたけれど、神に与えられた夢解きの賜物が生かされ、今はエジプトの宰相になっている。兄たちが頭を下げているではないか。神の預言が今成就したのだ。神の目的が今、はっきり見えた。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」と断言できる。夢見た時も、エジプトで苦労した時も、成功した時も、良くわからなかったけれど、今は、すべては神の摂理だったことがわかった。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は生きておられる。
 ヨセフは歴史を振り返って、このように信仰的再解釈をしたのです。ヨセフにとっては成功物語でもなく、赦しの美談でもないのです。神の民への摂理の物語なのです。それですから、ヨセフは自分の臨終の時に、これで終わりではなく、更に先の救いのこと、希望をを告げるのです(50:24-25)。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。…神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」。三百数十年後の出エジプトの救いの預言です。

 新約に生きる私たちもヨセフの言葉に同調したいものです。「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」「神は必ずあなたがたを顧みて、この地から約束の地へ上らせてくださいます。神は必ずあなたがたを顧みてくださる。」と。

あなたの名はイスラエル(ヤコブ2)

2015-06-14 15:11:51 | 礼拝説教
2015年6月14日 主日礼拝(創世記32:22-31)岡田邦夫


 「その人は言った。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』」創世記32:28

 フローレンス・ナイチンゲールの言葉にこのようなものがあります。「人生とは戦いであり、不正との格闘である」。彼女は看護士が白衣の天使などと呼ばれることをきらい、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と言っていました。教えられる言葉です。
 創世記のヤコブはまさに、人生は格闘であるという生涯でした。兄にいくはず家督の権利と祝福を、策略を巡らし、自らの手に獲得してしまいます。

◇杖一本だけで獲得したもの
 恨む兄の手を逃れ、遠く離れたハランにいる叔父のラバンの元に行きます。そこで、井戸のほとりで、ラバンの娘のラケルに出会い、叔父の元に身を寄せることになります。ヤコブはラケルを好きになり、叔父に七年働くので結婚させてくれと頼み、その通りにします。七年の期間が満了し、いよいよ結婚式です。しかし、結婚してみれば、相手は姉のレアでした。叔父の策略でした。だました人間が、今度はだまされる羽目になったのです。ラケルとも結婚してもいいけれど、もう七年働いてくれというので、そのようにしました。
 妻子を得たのですが、財産がないので、山羊と羊で、少ないぶちとまだらのでいいから報酬にしてもらうことを約束します。繁殖に工夫して、六年働くとヤコブの方が多くの群れを持つようになったのです。また、ラバンと息子にねたまれるようになり、そこにはいられない状態。ヤコブは家族と財産を引き連れて、叔父のところを逃げだし、故郷に向かうのです。もちろん、神の使いがそのように告げられたからです(31:10-13)。神は「脱出の道も備えてくださ」ったのです(1コリント10:13)。当然ながら、ラバンは奪還しようと追ってきます。しかし、神が助け船を出します。途中、神は夜、夢にラバンに現れて言うのです。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気を付けよ」(31:24)。追いついた時、ヤコブの信仰的言い分が聞かれ、ラバンは帰って行きます。「もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなた(ラバン)はきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです(気を付けよのこと)」(31:42)。まさに「悩める時のいと近き助け」があったのです(詩篇46:1口語訳)。
 家族を得、財産を得たのですが、それ以上に、自分についておられ、苦労を顧みてくださる神を体験し、知ったのです。見えない信仰の財産を獲得したのです。
 そうして、二人の妻との間に生まれた男の子、召使いとの間に生まれた男の子はあわせると十一人。帰ってから、一人生まれ、全部で十二人となり、それはやがて十二部族となっていくのです。

◇ひとりだけで確立したもの
 帰るとなれば、兄エサウを避けることは出来ません。使者を送ってみると、兄は400人を連れて迎えに来ると言う。ヤコブは非常に恐れる。群れを二つに分け、襲われてもどちらか一つは助かるよう、手立てする。なお、エサウの手から救われるよう神に祈る(32:9-12)。そして、兄をなだめるために相当量の家畜を贈り物に用意する。ヤボクという所で川の渡しを家族と持ち物を渡らせ、ヤコブは「ひとりだけ」残ったのです(32:24)。
 先ほどの祈りの中に「私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りました」とありました(32:10)。私は恵みとまことを受けるに足りない者ですが、今は二つの宿営を持つようになった。でも、初めは「杖一本だけ」だった。ここで、もう一度「ひとりだけ」になるのです。「すると、ある人(み使い)が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた」のです。あとは台本風に述べましょう。
その人:「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」
ヤコブ:「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
その人:「あなたの名は何というのか。」
ヤコブ:「ヤコブです。」
その人:「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
ヤコブ:「どうかあなたの名を教えてください。」
その人:「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」
 …その人はそう言って、その場で彼を祝福した。
ヤコブ:「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。この所をペヌエルと呼ぼう。」
 …太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。

 私たちはこの光景のように、家族や親戚や友人がおり、家や財産、仕事や学業や地位や名声…を持っていますが、それを脇に置いて、ただひとりの人間として、神の前に出るのです。人の評価も自己評価も下に置いて、一個の人間として、神は会いたいのです。(武者小路実篤:「自分は一個の人間でありたい。誰にも利用されない/誰にも頭を下げない/一個の人間でありたい。他人を利用したり/他人をいびつにしたりしない/そのかわり自分もいびつにされない/一個の人間でありたい。……」)
 イスラエルのエルは神、イスラは戦うで、イスラエルとは神と戦うというの意味です。私たちはイエス・キリストによる新しいイスラエルです。神と正直に向き合い、思いの丈をぶつけたり、神の語りかけに取り組んだり、要するに「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と求めるのがイスラエルなのです(口語訳)。
 私は受洗したクリスマス礼拝のあった夜、祝会があり、友人と二人で寸劇をしました。イエスが弟子たちに言われた、以下の話を脚色して、二人でやっやのです(ルカ11:5ー8)。
 「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」。この「あくまで頼み続けるなら」は塚本訳では「その厚かましさにはかなわず」です。
 私たちにはイエス・キリストの贖いととりなしがあり、聖霊の励ましがあるのですから、時にひとりになり、一個の人間として、厚かましく、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と求めていく、生涯求道者でありましょう。


こここそ神の家(ヤコブ1)

2015-06-07 19:27:20 | 礼拝説教
2015年6月7日 主日礼拝(創世記28:10-19)岡田邦夫


 「彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』」創世記28:17

 聖書には人間味のあふれる人物たちが登場します。その一人が創世記のヤコブです。アブラハムもイサクもそれぞれの人間性が描かれてはいますが、ヤコブに至っては、自分が人に振り回され、自分も人を振り回しながら、その生涯をたどっていく人でした。しかし、その生涯の上に神が見え隠れし、そして、終わってみれば、いかに祝福された人生だったかがわかるのです。私たちの人生にのぞまれる神はヤコブの神に違いないと思い巡らしながら、ヤコブの生涯を見ていきたいと思います。

◇人の、何としてでも
 イサクとリベカの間に双子が生まれます(25:24-26)。出生の時、兄が先に出て来て、弟が兄のかかとをつかんで、生まれてきました。兄は毛皮の意味をもつエサウと、「かかと」あるいは「引っ張る」の意味をもつヤコブと名付けられました。その名前が二人の人生を特徴づけるものとなっていくのでした。
 一瞬、エサウが先に生まれてきたので、一子相伝なら、家督の権利は彼にあり、自分にはない。エサウは野の人、巧みな猟師なので父イサクに愛される。ヤコブは家(テント)の人、穏やかな人なので母リベカに愛される(25:27-28)。どう見ても、逆立ちしても、自分には家督の権利は絶対無いのである。ある日、兄が野から飢え疲れて帰ってきた。ヤコブは赤いレンズ豆の煮物をしていた。兄が欲しいと訴えると、家督の権利(長子の権利)と交換しようと無茶な話を持ちかける。兄は軽率にもその話に乗ってしまうのです(25:29-34)。
 時は流れ、父イサクは視力が衰え、相続の祝福をしようとします(27章)。当然、兄エサウを呼び、主の前で祝福する前に、獲物を捕ってきて、料理して食べさせてくれと頼む。その時、母リベカに入れ知恵で飼ってる子やぎで料理をつくり、ヤコブが兄の晴れ着を着、毛深い兄になりすまし、腕に子やぎの毛皮を手と首に巻き、イサクの前に行く。イサクは少し疑ったものの、エサウと信じて、料理を食べてから、主の前で祝福した。アブラハムから受けた祝福を継承して、祝福したのです。
 そこへエサウが帰ってきた。そこで、イサクもエサウもだまされたことを知る。父はもう祝福してしまったから、取り消せないという。兄は嘆き、恨む。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった」(27:36)。ヤコブは押しのけるという意味でもありますが、前述のように、出生の状況から「引っ張る」の方が意味がつながります。日本語でも「足を引っ張る」という言い方があります。兄の足を引っ張り降ろし、長子の権利(家督に権利)を横取りしてしまったのです。祝福はたぐり寄せたのですが、兄はヤコブを殺そうとしている。家を出て逃げるしかない。イサクはエサウを偏愛していたのですが、ヤコブを祝福し、叔父ラバンの元に行き、そこで妻をめとるようにと言って、送り出したのでした(28:1-5)。
 エサウには大きな問題がありました。カナンの娘たちと異文化間結婚をしたことです。そこには生活習慣、宗教が違うので、両親にとっては悩みの種でした(26:34-35)。ですから、この時、一転してヤコブに期待をし、叔父ラバンの元で結婚するように、また、全能の神がアブラハムの祝福をもって、子孫を祝福し、地の祝福を受け継がせてくださるように祈って送り出すのでした。自分の境遇の中で、エサウは軽率で、あまり考えないで生きましたが、ヤコブは慎重でよく考え、何が重要なことなのかを求めて生きました。学ばせられます。

◇神の、何としてでも
 しかし、今いる所のベエル・シェバから、叔父ラバンのいるハランへの旅は900キロの大変な長旅です(28:10)。しかし、かわいい子には旅をさせろとありますが、ヤコブにはそんな旅でした。「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった」(28:11)。石を枕に寝る。孤独で寂しく、虚しいことだ。過去の悔やみもあれば、将来の不安もある。現在、自分を支えているのは冷たく硬い石だけだ。さまざまな思いが駆け巡るが、体は疲れ、眠ってしまう。そのような孤独の時は神の啓示の時です。夢を見ます。
 「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」(28:12)。何もない荒野で見た夢は天地をつなぐはしご、そころ神々しい神の使いたちが上り下りしているという光景です。私、四国におりました時に、瀬戸内海にはまだ橋もなく、フェリーで渡っていました。その船に避難用の縄ばしごがあると表示されている所に、英文が載っていました。その縄ばしごがジェイコブス・ラダー(Jacob's Ladder)=ヤコブのはしごとなっていました。それこそ、エサウの手を逃れ、脱出し、そこに、神の避難ばしごが下りてきたのでしょう。
 神の啓示とは神の言葉がのぞむことです。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(28:13-15)。
 アブラハム、イサク、ヤコブという三世代にわたる継承なされていたのですが、ここで、直接、「天」から祝福が与えられたのです。信仰は人から人へと受け継いでいくのですが、同時に、天でつながっているのです。修行というものを否定はしませんが、ヤコブの信仰経験、宗教経験というのは、兄の殺意を恐れて、逃亡していくという、何ともみじめな人生の途上でなされたのです。私たちは石を枕にするような状況におかれる、その所こそ、神がおられるのです。ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言いました(28:16)。
 実に殺風景な荒野です。しかし、そこが神の家となったのです。人生の殺伐とした状況にも、いや、そこにこそ、天の門があるのです。ヤコブは恐れおののいて言いました。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家(ベテル)にほかならない。ここは天の門だ」(28:17)。
 イエス・キリストは石を枕にするヤコブのような状況に、天からのはしごを降りてきてくださり、私の今ここにいる所におられるのです。そして、そのはしごは十字架という天に昇っていける救助のはしごなのです。今でいうなら、遭難者を助ける救助ヘリコプターのはしごです。罪と滅びに旅していた私たちのところに、十字架と復活の福音はしごを降ろしてくださったのです。私たちはもう大丈夫なのです。ここは天の門なのです。しがみつくだけで良いのです。そして、喜びの感謝を献げてまいりましょう。
 私の母教会のは会堂の正面の上に「エホバ(主)此処に居ます」という額が掲げられていました。あなたの人生に、ヤコブの神はおられます。「まことに主がおられる」。それに気付きながら、信仰の道をたどっていきましょう。