オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

→練られた品性→

2016-08-28 08:52:19 | 礼拝説教
2016年8月28日(日)伝道礼拝(ローマ5:3-5)岡田邦夫

 「患難さえ喜んでいます。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。」(ローマ5:3-5)

 この夏はリオデジャネイロ・オリンピックで、全力で競い合う選手の姿は見る者を興奮させました。金、銀、銅とは別にIOCから2人の選手に貴重な賞が贈られました。陸上女子5000メートル予選の時でした。ニュージーランドのニッキ・ハンブリン選手とアメリカのアビー・ダゴスティーノ選手がレース中盤で接触して、ともに転倒しました。すぐに立ち上がれなかったハンブリン選手をダゴスティーノ選手が助けて、2人とも再び走り始めましたが、足首を痛めたダゴスティーノ選手のスピードが落ちると、今度はハンブリン選手が手を差し伸べて励まし、2人は最後まで走りきりました。IOCは2人にフェアプレー賞を贈り、互いに相手を思いやったスポーツマンシップをたたえました。ハンブリン選手は「私が起き上がるのを助けてくれた彼女に感謝しているし、誰だってお返しはすると思います。トラックに立つと、お互いに理解し合えるのではないかと思います」とコメントしています。
 しのぎを削る戦いの場で、人としての麗しい光景が見られました。そのようなことは急にできるわけではなく、日ごろ積み重ねられてきた品性がそうさせたのだと私は思います。品性といえば、聖書には「練られた品性」という言葉がでてきます。それを非常に大切にしている医師がいるのです。

◇希望を生み出す「知」
その医師は病理学が専門ですが、がん患者とその家族の心労に対応できていない現状を憂え、その人たちと向き合い、面談を行うという「がん哲学外来」を無料で始めました。カルテもパソコンもなく、傾聴に終わらず、対話していく中で、言葉の処方箋を差し上げるというものです。しかし、それが悩む彼らに大きな助けになっているのです。逆境を乗り越える言葉には、「がんになることはきめられないが、がんになったあとのことはきめられる」「逆境のときこそ、品性が磨かれる」「本当の希望は、苦しみにあった人にしか生まれない」「小さな苦しみは愚痴を生む。大きな苦しみは知恵を生む。この知恵が希望のエネルギーになる」などがあります(樋野興夫“「今日」という日の花を摘む”より)。
 その著書にはこんな話も載せられています。“外見も知性も、生活水準も完璧な女性がいました。ただし、重い障害のある息子さんがいたのです。同じ施設に子どもを預けている母親が、「あなたは、お子さんに障害がなかったら、完璧な人生なのに」と思わず口走ってしまいました。するとその女性は、「いいえ。この子がいるから、私の人生は完璧になりました」と穏やかに答えたそうです。これを品性といいます。…その苦しみを経て品性が磨かれ、子どもとともにあることに希望を見出したのでしょう。”
 それらは聖書の「患難さえ喜んでいます。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません」から汲出された言葉です(ローマ5:3-5)。
 神を信じることで、神との平和をいただき、自分の人生を俯瞰(ふかん)的に見ることが出来、患難、忍耐、練られた品性、希望という生産的なつながり、経過を予測したり、経験したりして、知ることが出来るのです。それが生きた知恵ですから、「知っているからです」とはっきり言えるのです。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」。

◇希望を生み出す「愛」
 オリンピックで活躍した人のインタビューで、支援してくれた人たちがいて、できたのだというのが大抵の人のコメントでした。特に大逆転を演じた人たちがそうでした。人生における戦い、患難との戦いにおいて、前述のように知恵がいりますが、支えられているという意識がどれほど大切かを知らされます。「…この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(5:5)。その支えが人の支え以上に、神の支えなのです。見えませんが確かなのです。下のほうから神のみ手が支えてくれ、下のほうから神の愛が注がれているのです。鉢植えのシクラメンは上から水をかけるのではなく、下の受け皿から水を染み込ませていきます。そのように優しく神の愛は浸透してくるのです。

 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(5:6-10)。
 私たちは、神の前には不敬虔な者、罪びと、神の敵。そのような者のところに御子が降ってきてくださり、十字架で身代わりに死んでくださり、その不敬虔な罪びとの罪を赦してくださり、さらに、敵対関係を解消し、和解してくださいました。それは信じる者に与えられる最高の栄誉です。さらに神の怒り、すなわち、終わりの日における究極の大患難、それから逃れさせていただき、神との絶対平和という救いに与れるのです。神は私たちを極限にまで愛するゆえに、その究極の希望を与えてくださっているのです。
 神の愛は、十字架にかかり、死んで葬ら、黄泉に降られた、その下のほうから、苦難の中にある者たちにひたひたとしみ渡ってくるのです。以前、大変辛い経験をされた方から、あるテープをお借りしました。難病の進行性筋萎縮症になられた難波紘一さんの講演でした。歩けなくなることから始まり、あらゆる筋肉が萎縮し、最後は内臓が動かなくなっていくという難病。動かなくなっていくのは恐怖ですが、さらに辛いのは褥瘡(じょくそう=とこずれ)です。なりやすて治らない、肉が腐っていくこと大なのです。夜中でも15分おきの寝返りをさせてもらう必要があります。もっと辛いのは何で自分だけがこんな患難に合うのか、神はどうして、まじめな信仰者を試練に合わせるのかという、精神的、霊的苦悩です。現代のヨブだと彼は嘆きました。
 夫婦で様々な聖会、講演会に出ました。そして、遂に十字架のキリストに出会います。信仰による知恵、聖霊による神の愛をリアルにいただく経験をしました。このときのみ言葉は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:28-29)。そのみ言葉どおり、魂の安らぎが来ました。といって体が楽になったわけではないのですが、患難、忍耐、練られた品性、希望を知り、神の愛に浸る秘訣を得たのです。
 彼の手記の中で、このような励ましのくだりがあります。夜中も妻に15分おきに寝返りをしてもらいますが、明るい日差しが差し込んでくると、創造の神を思い、今日も一日ガンバって生きていくぞという思いが高まります。しかし、動ないからだですから、服を着るだけでも全力を振り絞らなけばなりません。それだけで疲れ切ってしまいます。ついどうしてこのような難病にしたのかと神に苦情を言ってしまう。そんなとき、神がおっしゃるのです。「難病の者に選んだのはこうだ。鉱脈から、普通の人はせいぜい銅や銀を掘り出しているが、お前にはどうしても、金やダイヤモンドを掘り出してほしいのだ」。そのようなお声を聴くので、聖書の行間を読み、愛と恵みに満ちた、隠された神の国の宝を探すのです。
 あなたは患難の中にありますか。神の愛の中で品性を磨いていこうではありませんか。望みはありますか。患難、忍耐、練られた品性の過程を進んで行き、神からいただく、金、銀、銅のメダルにまさるフェアプレー賞ならぬ、フェイス(信仰)プレー賞に望みをおいてまいりましょう。



   KIBOU
   A愛を
   NINTAI
   NERARETA・HINSEI
   A明らかに
   Nなおさらのこと


後継者となったエリシャ

2016-08-21 19:11:10 | 礼拝説教
2016年8月21日(日)主日礼拝(2列王記6:15-23)岡田邦夫

 「すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。』と言った。」2列王記6:16

 今日は預言者エリシャの話ですが、一回でメッセージをしたいと思っていますので、故人ではありますので、葬儀説教のようにすることを考えました。それで、まずは故人略歴ですが、「バイブルガイド・目で見てわかる聖書」に記されているものを述べましょう。
 エリシャ(「神は救い」の意味)は裕福な家の出身、神の召しに答えて、すべてをなげ打って従った(1列王19:19-21)。エリシャの生涯における重大な出来事は…
 ○エリヤの後継者になる(2列王2:13-18)。○水を浄化した(2:19-22)。○未亡人に食料を提供した(4:1-7)。死んだ子どもよみがえらせた(4:8-37)。○毒の入った料理から毒を消し、100人の人に食料を提供した(4:38-44)。○思い皮膚病のシリヤの将軍ナアマンを癒した(5:1-27)。○なくなった斧を取り戻した(6:1-7)。○アラムによるサマリヤ包囲が終わるのを預言した(6:8-7:20)。○ハザエルをアラムの王にし(8:7-15)、預言者の一人をエフーのもとに遣わして油を注いで王に任命させた(9:1-13)。エリヤに託された任務を果たした(19:15-16)。

◇見えないものを見せる
 エリシャは預言者として、師のエリヤの跡を継いで、数々の神の御業を人々に表してきました。働きぶりからいうとエリヤにおとらなかったように私は思います。そのように数々ある預言活動の中で、最も預言者エリシャらしい出来事を取り上げて、メッセージとしたいと思っています。
 アラムとイスラエルと戦っている時でした。アラムの王が作戦を立て、イスラエルに向かおうとすると、なぜか、その情報がイスラエルの王に筒抜け、予防線を張られていたのです。このようなことは一度や二度ではなかったので、アラムの王はスパイがいるのではないかと怒るのですが、家来のひとりがこう言います。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです」(6:12)。エリシャに透視の超能力があったとかいうのではなく、神のみ旨、み言葉を聴く賜物が与えられていたからです。この時も神の民を守るために、何度もエリシャに霊の目で見させたのだと思います。
 そこでアラムの王はエリシャを捕まえてしまえば、勝てると思い、馬と戦車と大軍とをエリシャのいるドタンに送り、町を夜のうちに包囲しました。召使が、早朝、外に出ると包囲されているのを見て言います。「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」。ヨシュアは落ち着いて、こう言い切ります。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(6:18)。この言葉は残された私たちがピンチに立たされた時に励まされる言葉です。神の声として聴く時に救いの出来事が起こってきます。エリシャはいい言葉を残してくれました。この後の出来事も不思議というか、面白いというか、神のユーモアが見受けられます(6:17-23)。
 「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」の言葉が真実であることをエリシャは若者に実際見せます。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と主に祈ると若者の目が開かれ、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えたのです。
 今度はアラムの軍勢をあしらいます。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」と主に祈ると、そのとおり彼らを盲目にされます。エリシャは彼らに「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」と言って、何とサマリヤまで連れて行ったのです。そこで「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」と祈ると、彼らの目が開かれ、なんと、サマリヤの真中に来ていたことに驚きます。
 これはチャンスとイスラエルの王はエリシャに「私が打ちましょうか。」というのですが、エリシャは否定します。打ってはならない。パンと水をあてがい、飲み食いさせて、主君のもとに行かせるようにと。盛大なもてなしをして、主君のもとに帰したのです。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかったのです。神はエリシャという器を通して、実に見えないものを見させ、平和的解決をさせたのです。
 エリシャは私たちに見えないものを見させてくれた預言者、神の人であったと思います。「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」とあります(2コリント4:18口語訳)。後代の私たちも見えないものに目を注いで、彼の信仰の跡をたどっていきたいと思います。

◇見えないものを見る
 エリシャの先生はエリヤでした。エリヤが召されるという時に、執拗に食い下がって、二つの分け前をください、後継者にしてくださいと願いました。それこそが、エリシャの生涯を決定づける瞬間でした。エリヤは問います。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない」(2:10)。火の戦車と馬が現れ、竜巻にのって、エリヤが天に昇っていくのをエリシャは見えたのです。見えないものが信仰によって見えたのです。そうして後継者として、バアルの偶像信仰を締め出し、その元凶のアハブ王一族を打倒して、神の民イスラエルを救うという使命を引き継ぎ、成し遂げたのです(19:15-16)。
 エリシャは神への信仰と使命を継承していくモデルでした。継承といえば、モーセからヨシュアへの継承もそうです。神の民をエジプトから脱出させ、荒野の旅をへて、約束の地カナンの前まできて、モーセは天に召されていきます。後継者ヨシュアが残されたカナン入国の使命を果たしました。モーセとヨシュア、エリヤとエリシャ、それぞれ二代にわたって神の民救済の使命を果たしました。救済史における同じ形、類型です。
 救済史における同じ形、類型はもう一つあります。イエスと使徒たちです。イエス・キリストは十字架にかかり、復活されて、人類の救いの御業は完結します。一度限りで完全です。しかし、宣教ということ、救いの歴史からいうと後継者が担っていくよう、イエス・キリストはことを運ばれました。「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白してこそ、使徒として認められました。また、復活されたキリストを見た(に出会った)者こそ、使徒として認められました。エリシャが見えないはずのエリヤの召天を見たのと類似しています。聖霊が天から下ったとき、それを受けた弟子たちが使徒として認められました。エリシャが二つの分(霊)を受けたのと類似しています。霊の継承です。そうして、使徒たちは十字架と復活の福音を世界に向かって宣べ伝える使命を果たしていったのです。今日の私たちはその信仰と使命を引き継いでいるのです。
 継承者として、私たちは「イエスは主である」と生きた信仰の告白をし、聖霊の豊かな賜物をいただき、見えないものを見ていきましょう。エリシャのように…。もう一度言います。「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(2コリント4:18口語訳)。そうすると、エリシャの残した遺言のような言葉が解ってくるのではないでしょうか。
 「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(6:12)。

エリヤの昇天

2016-08-14 16:34:49 | 礼拝説教
2016年8月14日(日)主日礼拝(2列王記2:-)岡田邦夫

 「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」2列王記2:11

 リオ・オリンピックたけなわ。参加することに意義があるとはいえ、メダルを得た人は天にも昇る気持ちでしょうし、敗れた人は奈落の底に落ちたような気分でしょう。しかし、ほんとうに天に上った人の話がきょうのエリヤの昇天です。「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った」(2:11)。神話のような記述ですが、預言者エリヤの生涯を見ていくと、「天へ上って行った」という事はあり得ると思えてきます。大事なことはそれが何かを物語っていること、言い換えれば、神のみ旨が語られている、「旨語っている」ことを聞き取ることです。

◇奈落に向かっていく
 アハブ王が王妃に迎えたイゼベルがイスラエルの真宗教をバアルの偶像宗教にしてしまおうと最悪の強硬策。ナボテ所有のブドウ畑が欲しくなり、言いがかりをつけ、ナバルを殺させ、取り上げてしまうという横暴。預言者エリヤは天からの火を降す「奇跡」でバアルに勝利し、主の預言者たちを守ります。また、アハブ、イゼベルに対し「犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。」と預言(1列王21:19)。その預言通り、アラムとの戦いで、アハブは悲惨な最期をとげ、犬が彼の血をなめたのです(22:38)。
 その子アハズヤも偶像バアルに仕え、邪魔なエリヤを抹殺しようとしますが、神の火がまた下り守られます(1:11-16)。神の怒りを買い、エリヤを通して、死が宣告。たった在位2年でした。こうして、罪深い悪王たちは奈落の底に突き落とされていくのでした。

◇天に向かっていく
 しかし、エリヤは天に上げられたのです。その様まで見せてくれたのです。エリヤがベテルに行くが弟子のエリシャにはついてくるなと言うのに、ついていくのです。ベテルでは預言者集団がきょう、あなたの主人は死ぬと預言。エリヤがエリコに行くがエリシャについてくるなと言うのに、ついていく。エリコの預言者たちも、あなたの主人は死ぬと預言。ヨルダン川を渡るがついてくるなと言うが、ついて行ったのです。ヨルダン川のほとりに二人が立ち、遠く離れて、預言者50人が見守っている。エリヤ、最後の厳粛な時がきたのです。聖書をそのまま読みましょう(2:8-13)。
 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように(後継者、伝承者となること)。」と言った。エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた(悲しみの表現)。それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ(事実であった証拠)、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。
 エリシャは信仰の目、霊の目で見たので、エリヤの天に昇りゆく姿が見えたのです。信仰者は現実をしっかり見るものです。人は死ぬものであること、死で終わりだという事を。同時に、天の現実を、神の国の現実を、超越した世界を信仰の目、霊の目でみる者です。死で終わりではなく、その先がある、イエス・キリストが待ち受けている望みがあるのです。
 人は生きたように死ぬと言われていますが、エリヤはその典型です。火をもって答える神を神として、奇跡を起こす預言の生涯でしたが、死ぬ時も、火の戦車と火の馬が現れ、たつまきに乗って天へ上って行ったのです。エリヤらしく天に昇り、主のみもとに召されていきました。主にある者は信仰に生きたように召されるのです。エリヤは凱旋して天に迎えられたのです。華々しさや、目立ったことがなかったとしても、信仰の戦いをもって生きたキリスト者は天には凱旋者として迎えられるのです。

◇先に向かっていく
 今日歌います黒人霊歌「馬車よ、下りてこい」は信仰者の召天へのあこがれの賛美歌です。一方、エリヤの生涯を音楽にしたメンデレスゾーンのオラトリオがあります。交響曲で独唱、合唱が聖書の言葉とそれに関連しての言葉が中心になります。2時間以上の壮大な作品です。「見よ、火の車と火の馬が現れ、エリヤは嵐の中を天に昇って行った」で終わらず、続きがあります。エリヤの再来のように、ひとりのしもべ、救い主が現れるところまで歌い、アーメンで終わります。
 イエス・キリストが受難に入る前に、山に行き、白く輝く姿に変えられ、そこに、モーセとエリヤが現れ、三者会談となりました。エクソダス、脱出、人類の死の滅びからの救済の話だったようです。三者の共通点は神の民の存亡の危機でした。モーセの時も、エリヤの時も、イエスの時も。だからこそ、奇跡が大変多く、また、壮大でした。三大危機における三大奇跡の時代でした。だからこそ、十字架、復活における救済の奇跡、エクソダス、罪と死からの脱出、人類の滅びからの救済の話が話し合われたのでしょう。
 今頃、夜空を見ますと、夏の大三角形という星座が見えます。私はそれを見るとイエスの姿代わりの三者会談を思い巡らします。エリヤの召天(昇天)とつながってきます。エリヤは現実に死んで終わったけれど、終わってはいない、天において神と共に時を超えて存在していたのだ。神の壮大な物語り、旨語りがそれを証ししているのだなあと思うのです。神はあなたにはあなたにふさわしい信仰生涯をたどらせ、そう生きたように、天に召してくださるのです。地上のはかない現実もこの目で見つめつつ、イエス・キリストのおられる天の愛と恵みと栄光に満ちた現実を信仰の目で見上げながら、地上に遣わされたものとして、生きてまいりましょう。エリヤの神はわが神なり。イエス・キリストの神はわが神なり。

火のあとのかすかな細い声

2016-08-07 17:27:01 | 礼拝説教
2016年8月7日(日)主日礼拝(1列王記19:8-14)岡田邦夫

「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」1列王記19:12

 王アハブは悪王、王妃イゼベルはたいへんな悪女と評されています。人に簡単にレッテルを張ってはいけないのでしょうが、嫁いだところの国を自分の偶像宗教に変えようとしたり、ひとの土地を自分のものにしようとしたり、とにかく、自己中心の王妃でした。カルメル山上で450人のバアル預言者に対し、預言者エリヤ一人が火をもって答える神を神としようと対決。天からの火はエリヤの祭壇に下り、圧倒的勝利をしました。
 その後、その山頂でエリヤが地にひざまずき顔をひざの間にうずめて祈ると、3年降らなかった雨がこの時、激しく降り始めました。火を降し、雨を降らせるという超人的な預言活動をしました。向かうところ敵なしでしょうか。そうではありあせん。恐るべきは、王妃イゼベル、エリヤ抹殺にかかる。エリヤは「恐れて立ち、自分の命を救うため立ち去った」のです(19:3)。

◇神の助けの手
 恐れるエリヤ、それを助けるのも神。それを象徴する言葉が、「主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った」です(18:46)。祭壇の上には主の火を降した方がエリヤの上には主の手が下った、助けのみ手が差し伸べられたのです。
 あまりの恐怖心から「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」と願います(19:4)。そして、えにしだの木の下で眠っていると、御使いが彼にさわって「起きて、食べなさい。」と告げます。彼の頭のところに焼いたパン菓子一つと水のはいったつぼがある。それを食べ飲んで、横になった。主の使いがまた戻って来て、彼にさわり「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言う。また飲み食いし、「力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた」のでした(19:8)。人は死にたくなる時、何か食べると生きる気になることもあるでしょう。しかし、主はエリヤの死にたくなる状況に降りてきて、夢の中にまでも降りてきて、気力を与え、体力を与えられたのです。

◇神の奥の手
 エリヤはホレブ山のほら穴で一夜を過ごします。主が現れ対話します(19:9-11)。
主:「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
エリヤ:「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
主:「外に出て、山の上で主の前に立て。」
 すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかったのです。現象的なもの、周辺的なものには主はおられなかったのです。
 次が極めて重要なことです。「火のあとに、かすかな細い声があった」(19:12)。内なる声です。と言って自分の声ではなく、魂の奥底に語りかける主のお声です。心の琴線に触れるといいますが、まさに神は魂の琴線に触れてくださる。魂と魂が触れ合うというような感じです。困ったことがあってお祈りしたら、神が答えてくださったことは良いことですが、そういう周辺のことではなく、そういうことが起ころうと起こるまいとにかかわらず、神と触れ合う中心のことが極めて重要なのです。何よりも素晴らしいことなのです。
 ここで豆知識。神は三位一体の神といいますが、それをどう説明するか。神学者は考えました。神は唯一の方だが、旧約においては父なる神が前に出て歴史に働かれ、イエスの生涯においては御子が前に出て歴史に働かれ、新約においては聖霊が降り、聖霊が前に出て歴史に働かれておられると説明する、経綸的三位一体論というのがあります。父、御子、聖霊、それぞれ別なご人格、位格。しかし、どうして、一つなのか。父、御子、聖霊は完全な愛においてひとつなのだと説明する内在的三位一体論というのもあります。それでも言語では説明できないのが三位一体の神秘です。
 創造者と被造物が、聖なる神と汚れた人間とが、深いところで接点を持つというのは言語では説明できない神秘なのであります。「火のあとに、かすかな細い声があった」(19:12)。喧騒を離れ、神からの内なる声を、信仰を持って聞きましょう。たとえ、喧騒の中でも神からの内なる声は聞こえます。私自身、通勤時の満員電車の中で、「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」という細き声を聞きました。
 細い声は言語化できない、神のみ思いの詰まった霊の声かもしれません。あなたが祈る時に、深い胸の内が言葉にはならず、うめくしかないことがあるでしょうし、それを主はしっかりと受け止めてくれると愛の神に信頼することがあるでしょう。その逆に神の側の声にならない声があなたにささやきかけてくることでしょう。幸いなるかな、細き御声を聞く人は。

◇神の次の手
 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立ちます。また、主と同じやり取りがなされます。
「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
 しかし、エリヤは使命に生きるようとする者に変えられていました。主は命じます。
ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。
エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
エリヤを励ます言葉が添えられます。後継者や味方があり、今後、大丈夫だと。
「ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である」(19:17-18)。
 ホレブの静かな修道院から、イスラエルの喧騒の現場に遣わされていくような感じだろうなと私は思い巡らします。

 主はあなたのことを心配して「○○よ。ここで何をしているのか。」と問うています。主はあなたを用いたくて「○○よ。ここで何をしているのか。」と問うています。