オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

イエスの逮捕

2012-03-25 00:00:00 | 礼拝説教
2012年3月25日 主日礼拝(マタイ26:47-27:26みのお泉教会)岡田邦夫


 「だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ26:54)

 良いことにつけ、悪いことにつけ、何かの事件がありますと、人は誰がどういう動機で、どうやってそれを起こしたのかと歓心をもちます。ここに一つの事件が起ころうとしていました。当事者はこれがやがて世界史に最も影響を及ぼす事件となっていくのかは知るよしもありませんでした。そして、そこには台本のようなもの、しかも表の台本と裏の台本のようなものがあり、その台本どおり事がなっていったというものです。
◇第一ステージ
 ナザレ村の田舎出のイエスという人物が新しい教えを教え、奇跡を行って、大衆の人気を得ている。祭司長、長老、律法学者等にとって、自分たちがこれまで作り上げてきたユダヤ教の体制に対して、彼は対立する者で、むしろ自分たちにとって、じゃまな存在であり、危険人物である。抹殺しなければならないと考え、相談した。そのような気運の高まっている所に、ちょうどイエスの弟子の一人ユダが師を裏切って、かけこんできた。これ幸いと、銀三十枚で取引をし、イエスの居場所にユダを先導させ、剣や棒を手にした手下どもを差し向けた。ユダは「先生。お元気で。」と言って、イエスに口づけした。祭司長等、当局の台本通りである。イエスが「友よ。何のために来たのですか。」と言うか言わぬか、即座に手下どもはイエスに手をかけて捕えた。イエスの同行者のひとりが剣を抜き斬りかかるという、台本にないことも起こったが、イエスの方がそれを止めた。
 「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう」(26:52-54)。ここにもう一つの神のみこころという台本があった。聖書の預言を実現するというものである。群衆にもこう言った。「…わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」(26:55-56)。そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまったのだが、それも想定内のこと。
◇第二ステージ
 イエスを大祭司カヤパのところへ連行する。第二ステージである。70人議会が招集されて、いよいよ裁判である。祭司長たちと全議会はイエスを死刑にするために、イエスを訴える大勢の偽証人をたてたが、証拠とはならなかった。思惑がはずれたようだが、最後にふたりの者が進み出て、証言。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました」。それは確かにイエスが言われたこと。当局からすれば神殿を破壊するという危険思想のようだ。しかし、イエスの言われた意味は三日目の復活により霊的に神に近づく道が開かれるという預言。神の台本だったのである。追求されても、イエスはなぜか、沈黙。大祭司はなお、決定的証言を得ようと「あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」と尋問する。イエスの答はこうである。
 「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」(26:64)。人の子とはダニエル書が預言している救い主(キリスト)の意味(13:2)。主イエスは議会という場で、全世界に向けて、ご自分を証しされるのである。歴史に残すメッセージを告げられたのです。
 議長でもあり、裁判長でもある大祭司は激怒し、「これは神への冒涜だ。神をけがすことばだ。彼は死刑に当たる。」と言い、イエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけた。他の者たちも同調し、ののしった。彼らからすれば神への冒涜罪、最大の罪である。イエスを処分する動かぬ証拠を得たのである。次の舞台は総督の法廷である。
 その前に様子を見に来ていたペテロのことである。外の中庭にすわっているとひとりの女中がイエスの仲間ではないかと問われる。ペテロはみなの前で「何を言っているのか、私にはわからない。」と打ち消したのである。他の女中からも、そのあたりの人々からも同じように詰め寄られると、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いたのである。これはイエスの台本にあったのである。「そこでペテロは、『鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。』とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた」(26:75)。ここでペテロが弟子だと言ってしまえば、主と一緒に殉教してしまうので、主はそれをさけさせたのだろう。また、人間の覚悟では殉教できない、ここで人間の弱さを思い知らされて、後に聖霊によって力を受けて何も恐れない証人になるという意図があったようである。
 一方、イエスを売ったユダはみじめである。銀三十枚を得られれば何かを得られると思っていたのか、あるいは正しいことをするのだと思っていたのか、その台本は間違っていたのである。イエス有罪と知らされると後悔し、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言って、銀貨を、祭司長、長老たちに返しに行った。「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」、自己責任だと突っぱねられ、ユダは銀貨を神殿に投げ込み自殺してしまうのである。祭司長たちは血の代価だからと言って、その銀貨で畑を買い、墓地にした。この行為、神の台本だったのである。預言者エレミヤ(マタイ27:9ー10=ゼカリヤ書11:12-13とエレミヤ書32:6-9の組合せ)を通して言われた事が成就したのである。
◇第三ステージ
 そして、最後のステージに進む。死刑にするには総督の裁判が必要。祭司長、長老たちが訴えでると裁判が始まる。総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねるとイエスは「そのとおりです。」と言われた。ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか」。それでも、イエスはどんなに訴えに対しても総督も非常に驚くほど、一言もお答えにならなかったのである。総督は彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づき、これで死罪にする法はローマにはないので、一計を案じた。過ぎ越の祭りには囚人ひとりを恩赦にする慣例があるので、あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」と提言する。
 しかし、祭司長、長老たちの意志は強い。バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけたのである。
 総督:「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」
 彼ら:「バラバだ。」
 総督:「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」
 彼ら:「十字架につけろ。」
 ピラト:「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」
 彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた(27:21-3)。
 総督ピラトは自分では手の下しようがなく、暴動になりそうなので、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って言ったのである。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」(27:24)。民衆はみな答えた。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」(27:25)。「そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。」と聖書は記録している。
 違法な裁判だったが、当局の台本通り、ひとりの邪魔者を処分できたのでです。しかし、救い主は受難というイザヤ書の預言、神の台本の通り、主イエスは十字架の死、贖いの死に向かわれたのです。裁判というのは罪を犯した者の責任を問うものと言えます。裁く者にも責任があります。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」という裁判長としてのピラトの言葉は全くの責任転嫁です。ユダの方は犯した罪のゆえに責任を負って、自死してしまいました。その場の経緯(なりゆき)で「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と言ってしまったユダヤ人たちもいました。それぞれ、御子イエス・キリストを十字架にかけた罪、責任があります。しかし、イエス・キリストは沈黙されていました。裁くべき方、責任を追及すべき方が黙ってののしられ、呪いを受けたのです。
 JR福知山線脱線事故で乗客106人が死亡、562人が負傷した未曾有の事故だったのですが、個人でしたら、責任の所在ははっきりしているのに、企業となると責任を問うても難しい問題があります。ほんとうに「誰か」が責任を負おうとしたら、とても負えることではありません。東日本大震災における福島原子力発電所の放射能漏れの事故もまた、企業の責任、国の責任が問われるます。しかし、具体的に「誰が」責任を負うのかというと、これもまた、負えるものではありません。厳密に追求すれば、子孫のことも考えないで贅沢に電気を使っている私たちにも責任があると言えましょう。
 さらに、私たち人間は神の前に責任があり、御心にそって生きる責任があるのですが、罪を犯し続け、返せない負債となっています。責任をとって滅びなければなりません。しかし、イエス・キリストは「黙って」その私たちの責任を代わってくださり、十字架において、血の代価を払い、審判者である神に裁かれ、神の前に責任を果たしてくださったのです。私たちは悔い改めて、その福音を信じるだけで、罪の責任を果たせていないのに、救われたのです。そして、まるで、責任を果たしたかのように、キリストにあって、はばかることなく、御前に立てるのです。だからこそ、救われた者たちはこの福音を証しする使命、責任があるのです。

ゲッセマネの祈り

2012-03-18 00:00:00 | 礼拝説教
2012年3月18日 主日礼拝(マタイ26:36-46)岡田邦夫

 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)

 ゲッセマネはオリーブ山のふもとにある園で、多くのオリーブの木が茂る、格好の祈りの場でした。名の意味は油絞り。イエス・キリストはペテロとゼベダイの子ふたりを連れて祈りに行かれ、苦闘の祈りをされました。名のように魂を絞り出す祈り、「苦祷」をなさったのです。私たちを救うためにどうしても通らなければならなかった受難の道でした。

◇苦祷・この方だけが
 アスリートにしろ、芸術家にしろ、学者にしろ、何かを産み出す人たちには、気力、体力、知力を限界まで絞り出すところがあります。主イエスは私たち人類を救うみ業をなし遂げるために、楽な道を選ばず、すべてを絞り出す苦難の道を選びました。それを選ぶ決断をなさるにも、悲しみもだえるという激しい、厳しいものでした(26:37)。イエスは三人の弟子に言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」(26:38)。この後、ご自身が逮捕され、不当に裁きを受け、むち打たれ、死刑を宣告され、ゴルゴダの刑場まで十字架を背負い、その十字架に釘付けにされ、人々からののしられ、のろいを受けて、肉体も精神も魂も苦しみ尽くして死んでいくということが見えているのです。しかも、人類の罪の刑罰を身代わりに負うために、父なる神から見捨てられるという地獄の苦しみが待ち受けているのです。人となられたイエスが「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と弱さを露呈されたのです。世界の聖人君子のように、あたかも死を恐れないかのように生きたのではないのです。本来、御子は生死をつかさどる方です。しかし、死を恐れる人間を救うために、私たちと同じ死を恐れるものとなられたのです。
 しかし、ゲッセマネの祈りはそれ以上でした。それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(26:39)。前述しましたように、人の罪のために、羊がいけにえにされるように、罪の赦しのための身代わりに死んでいく死なのですから、私たちの死とは違うのです。それが受難の杯なのです。それを過ぎ去らせて下さい。受難の杯を飲む決断が出来ないのですと祈られたほど、苦闘の祈りでした。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られるのは人類を救おうとされる父なる神の愛がわかり、ご自身も父なる神を愛し、人類を愛するゆえに出てきた言葉です。
 この苦闘の祈りを三度もなさったのです。祈り抜かれたのです。少しも心が揺れることがないまでに徹底して祈られたのです。そうして、苦しみを全うされたからこそ、私たちは罪の裁きの中から救われたのです。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです」(ヘブル2:10 )。
 ゲッセマネの苦闘の祈りを祈り抜かれ、突き抜けられたからこそ、「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」と言われ、すすんで十字架の道に進まれたのです(26:45-46)。

◇苦祷・この方と共に
 なぜ、三人の弟子たちを祈りのそばに呼んだのでしょうか。「ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」というのに(26:38)、弟子たちは眠ってしまいます。「そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」と再度言われても、眠ってしまいます(26:40-41)。三度目の最後まで眠って休んでいたのです(26:45)。
 人となられたイエスにとって祈らずには前に進めなかったのですが、弟子たちはそういう祈らずには前に進めないのだという弱さがわかっていなかったのです。祈らなくてもやれるような錯覚、しいて言えば、高慢だったのです。後にその高慢さが砕かれた時に判るのです。その時のために、たとえそうでもみそばにおらせたのだと思います。
 ゲッセマネの祈りは私たちの祈りでもあります。サタンの誘惑は神のみこころがならないようにすることです。私の生き方、祈り方は「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」なのです。それは御子だけが受ける苦しみは全うされたので、私たちが受ける必要はないのです。しかし、キリスト者として受けるみこころにそった苦難があります。その杯を受ける祈り、主体的な決断が求められます。それは後の栄光のためです。
 ローマ人への手紙8:15-17にこう記されています。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」。
 キリストと栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人だというのです。苦難はひとりで受けるのではありません。主が共に受けてくださるのです。わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってくださいと祈り抜けないような私たちのかたわらに、弱さをさらけ出し、ついに祈り抜いたゲッセマネのイエス・キリストが共におられるのです。その先にキリストとの共同相続人という栄光が待っているのです。


主がお入り用なのです

2012-03-11 00:00:00 | 礼拝説教
2012年3月11日 主日礼拝(マタイ21:1-11)岡田邦夫


 「もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」マタイ21:3

 東日本大震災発生から一年が経ちましたが、まだまだ復興に時間がかかり、助けを必要としています。東日本の救いのため続けてて祈っていきましょう。発生当時、このニュースが世界に流れた時に、日本全体が沈没したと報道された国もありました。誤報、誤解でした。情報は正確さが求められます。

◇神への誤解
 さて、今日の聖書は城壁で囲まれたエルサレムの都にイエス・キリストが入城された時の出来事です。その前の章では、道ばたに座っていたふたりの盲人が通りかかるイエスに「主よ。あわれんでください。ダビデの子よ」と叫び求めた話がでてきます。「主よ。この目を開けていただきたいのです。」と言うものですから、イエスは深く憐れんでいやし、彼らは見えるようになったのです。そして、21:1の「それから…」と話は続くのです。イエスはご意志で、ろばの子に乗って入城されました。弟子が上着をろばの背に掛け、イエスがそれに乗る。群衆は上着やら、しゅろの木の枝を道に敷いて迎える。そして、賛美する。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に」(21:9)。
 盲人も群衆もイエスを「ダビデの子」という救い主の意味で呼びました。盲人は救いを求めていたのであり、肉体の目が開かれたのは、ほんとうに救い主がわかるという、魂の目が開かれたことを象徴としています。しかし、この群衆はユダヤをローマ帝国の属国から解放するところのダビデの子・軍事的救い主(メシヤ)を期待したのです。それは自己中心から出た、神への誤解、曲解でした。今日のおいても、歴史においても、広くは政治のために宗教を利用してきた人間のエゴイズムがあります。私たちの日常でも、勝手な御利益で、神を求め、神を利用したりしているかも知れません。必要は必要ですから、盲人のように求めたいです。そして、救い主のこと、御国のこと、神の真理が見えるようになりたいものです。
 都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言い、群衆が「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言ったというのはあながち間違いではなさそうです。それは神が言わせたのかも知れません。私たちは必要があって、神を求め、必要が満たされるかも知れませんが、もっとも肝心なことはその先にイエス・キリストを迎えいれ、「この方は、どういう方なのか。」という問いとその答えを得ることなのです。

◇人への誤解
 なぜ、イエス・キリストが王として入城されるのに、馬でなく、ろばだったのでしょうか。前述のように軍事的解放者という誤解や期待を回避するためだったこともあります。しかし、聖書では預言の成就のためだったと記しています。「これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである」。「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(21:4ー5)。シオンの娘はエルサレムのこと。イザヤ書62:11、ゼカリヤ書9:9の救い主が王として来られるという預言でした。主は究極的な平和をもたらす王という意味で、軍馬ではなく、荷物運びのろばに乗られたのです。
 主をお乗せした子ろばに対するように、読者は『主がお入用なのです。』の言葉が心に迫ってきます(21:3)。私たちはつい、自分ひとりいなくても世間に影響はない、社会に必要のない人間ではないかと悲観してしまったりします。あるいは職場や学校で、あるいは家族の中で、必要のない人ではないかと誤解したりします。しかし、そうではないのです。創造者なる神はすべてをお造りになり、すべての人を作られたのですから、必要のないものはないのです。その存在が必要なのです。ジグソーパズルの一片でもなければその絵は出来上がらないのです。神にとって必要のないピースはない、それぞれ必要とされている。どの場所か判らない、真ん中も知れないし、端かも知れない、みな必要なものとして、神の手の中にはまっていくように造られているのです。
 また、有名なお祈りにある「平和の道具としてお使いください」とあるように、神は私たち一人一人を平和の道具として用いようとしておられるのです。あなたも神の平和の道具として『主がお入用なのです』。必要としている人のところにイエス・キリストをお乗せして、届けるのです。神の愛を届ける宅急便やさんです。受け取った人は届けた人より、荷物に感心を持ち、発送人に感心がいきます。どういう配送人だったかは不正な人でない限りあまり問題ではありません。関心は誰から、何をくれたかです。私たちは福音の運び屋です。私たちが出来ているかどうかは二の次です。私たちは運ぶだけです。内容が大事です。福音という内容、神の愛というプレゼント、これを運ぶのです。運ぶだけですから、難しいことではないのです。受け取られた方がこれは誰から来たのかに歓心を寄せてくれば、そして、「この方は、どういう方なのか。」と問うてくれば、実に幸いです。
 榎本保郎という先生は子ろばのことを方言でちいろばというので、証詞の著書のタイトルを「ちいろば」にされました。神はちいろばを必要としています。謙虚で目立たない、しかし、主を目立たせようとする人を必要としています。色んなことで必要とされています。教会の中でも目立つ奉仕もあれば、影の奉仕もあります。社会においてもキッとそうでありましょう。「主が」お入り用なのです。自分で自分を要らないと言ってはならないのです。
 私は一つ上の姉とは十才、一番上の姉とは二十才もはなれ、末っ子として生まれていたので、家ではそんなに役に立つ者でもなかったし、期待もされていませんでした。そして、キリスト者となって、また、牧師として召されて、東京聖書学院に入ったのですが、まわりは良い説教をするのに、自分はぱっとしないので悩んでいました。その時、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、…見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする。」のみ言葉が与えられました(イザヤ41:14ー15口語訳)。私は虫にひとしい者です。でも、必要な者としてこの世に存在させてくださって、そればかりではなく、こんな者をお救いくださって、血を流してくださって、命をかけてくださって、復活してくださって、福音の運び屋として、必要だから、召してくださったのです。私たちは虫けらかも知れない、でも、主が変えてくださって、用いられやすいようにしてくださるのです。
 あなたも神の平和の道具として『主がお入用なのです』。

えらくなりたい

2012-03-04 00:00:00 | 礼拝説教
2012年3月4日 主日礼拝(マタイ20:20-28)岡田邦夫


 「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」マタイ20:28

 私が東京聖書学院に入学する時、男子が三人いて、その母親たちが入学式に出席しました。今ではそのようなことは当たり前です。しかし、当時は大学の入学式は親は行かないものでしたし、まして、献身というのは「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」というもので、親が来るなどというのは学院始まって以来だとささやかれました(創世記12:1口語訳)。そんな親馬鹿の話が聖書に出てくるので、しかも、イエスの弟子のことですから、面白いです。
 ゼベダイの子たち、ヤコブとヨハネといっしょに母親がイエスの所に来て、願い出ました。「私のふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい」(20:21)。御国の王の右と左といえば、最高権力者の座です。ほかに弟子たちがいる中で、そのようなことを願い出るのは、親心かも知れませんが、それは身勝手な親馬鹿言動でしょう。そして、この話を聞いた、他の十人の弟子はこのふたりの兄弟のことで当然、腹を立てます。しかし、主イエスはそれに対して、頭から否定したわけではなく、何が良くて、何が悪いのか、一番大事なことは何かを教え、告げました。

◇苦い杯と甘い杯
 主が「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」、苦難の中を通れますかと逆に問いかけます。彼らは「できます。」と答えたので、主はこう言われました。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです」。御国の王の右の座、左の座という最高権力の座は人が競い合って獲得するというものではなく、絶対主権者である父なる神が決めていることなのだと告げられました。杯を飲むということ、すなわち苦難を受けるということはパウロの言葉ですと、こうです。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(ローマ8:16ー18)。昨年、女子サッカーのワールドカップで日本チーム、通称なでしこジャパンが優勝して、その功績に対して、国民栄誉賞が贈られました。個人ではなく、チームに与えられたのは異例です。御国においても、共に苦難を受けたキリスト者たちに栄光、栄冠が共に与えられるのです。
ハンセン病患者(当時は癩者(らいしや)と言っていた)の治療に生涯を捧げた神谷美恵子医師は「うつわの歌」の中でこう書いています。「…何故私たちでなくてあなたが?あなたは代って下さったのだ、代って人としてあらゆるものを奪われ、地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。許して下さい、癩者よ。…」私たちが共同の相続人であるという意識があるなら、神谷姉のような感覚が生まれてくるのではないでしょうか。その先には栄光を「共に」受けられる希望があるのです。その栄光こそが、苦難を共にした者たちに与えられる御国栄誉賞です。

◇使いにくい器と使いやすい器
 さらに主イエスは異邦人の支配者たち、偉い人たちが民の上に権力をふるっているが、あなたがたの間ではそうであってはならないと言います。偉くなりたいという思いを否定されません。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい」(20:26ー27)。逆説です。「少年少女信仰偉人伝」全60巻がおいてある教会があります。それは一般的な意味での偉人ではなく、神に仕えた偉人ととらえたいものです。偉くなりたいという思いは生きる力になるかも知れませんが、自分が王さまになって権力をふるう者になってはならないのです。キリスト者は主のしもべ、人のしもべになって、仕えて生きるのです。そうして仕える者を主が偉人だと認めてくださるはずです。
 子ども向けの伝記で必ずといってよいほど出版されているのが「ヘレン・ケラー」です。聴力と視力を失い、話すこともできなくなった彼女がやがて身体障害者の教育・福祉に尽くしたのですが、彼女はこのような言葉を残しています。「悲しみと苦痛は、やがて『人のために尽くす心』という美しい花を咲かせる土壌だと考えましょう。心を優しく持ち、耐え抜くことを学びましょう。強い心で生きるために」。「人生は興奮に満ちている仕事です。もっとも興奮するのは、他人のために生きるときです」【Life is an exciting business and most exciting when it is lived for others.】。

 最後に、偉人の中の偉人であられたイエス・キリストがこう言われたのです。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(20:28)。新共同訳聖書の言い回しですと。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。
 現実には私たちはなかなか仕えられない者です。神に仕えているようで、無意識のうちに、自分が王さまになってしまって、自分の幸せのために神を利用していたりする高慢さに気づきます。人と比較して自分の方が偉いのだと思いたくて、そんな言動に出たりする罪深さに気づきます。あるいは仕えることなどばからしいと思うような傲慢さに気づきます。そんな罪人のために、人の子イエス・キリストが仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られたのです。事実、十字架において、私たちを罪から救うためにご自分の命を身代金として献げてくださったのです。自分のことしか考えない高慢で、傲慢で、罪深い者を救うために、王の王であるはずのお方が徹底的に奴隷となって、ご自分の命を十字架において献げられ死んでくださったのです。そうして、私たちは信じるだけで救われた身なのですから、仕える生き方ができなくては申し訳ないことです。
 神と人のために生きる者に神はさわやかな気持ちというしるしを与えておられます。主が仕えられたのと私たちが仕えるのとは同じではなく、雲泥の差があるのに、語尾で「~同じように」と言われたのです。ということはイエスと私たちは「しもべ共同体」と言えるのです。御国栄誉賞はこのしもべ共同体に贈られるのです。世の人から馬鹿な人だと言われても、誇りを持って仕えていきましょう。聖霊に満たされて、しもべ馬鹿になって生きましょう。
 1.心から願うのは 主のようになること
  御形に似るために 世の宝 捨てます
  主のように 主のように 聖くしてください
  このこころ 奥深く 御姿をうつして
 3.謙遜と忍耐と 勇気に溢れて
  人々を救うために 苦しみもいとわず
  主のように 主のように 聖くしてください
  このこころ 奥深く 御姿をうつして