オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

私たちの会った試練は

2015-07-26 14:55:30 | 礼拝説教
2015年7月26日 伝道礼拝(第1コリント10:13)岡田邦夫


 「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」第1コリント10:13(口語訳)

 テレビ・ドラマで「JIN-仁-」というのがありました(2011年)。要所要所に、印象深い言葉が出て来ました。「神は乗り越えられる試練しか与えない」です。作者は聖書の言葉を意識していたのでしょうか。
 一般大衆の思想形成で、学校教育と共に、芝居やドラマや音楽などが大変大きく関わっていることは知られているところです。昔は義理人情とか忠義など、今は家族愛とか友情などでしょうが、昔も今も変わりないのが「苦しみ」というテーマでしょう。苦しくてたまらない時に、芝居やコンサートで、その一時、忘れさせたり、時には、人生の良き転機にとなったりします。人それぞれです。

◇一瞬の出来事
 しかし、何の言っても、ものを言うのは人の体験から出たものが人を励まし、慰め、勇気を与えます。「シャボン玉とんだ、屋根まで飛んだ。屋根まで飛んで、こわれて消えた。シャボン玉消えた、飛ばずに消えた。産まれてすぐに、こわれて消えた。風、風、吹くな、シャボン玉飛ばそ」は野口雨情の作。二歳になる娘を失った時に書いたものです。一説によると雨情は、娘のはかない命をシャボン玉にたとえたと言われています。
 讃美歌歌手の森祐理さんはこう語ります。「私は22歳の弟を阪神大震災で失いました。昨日まで元気でいきいきと生きていた弟が、今日は冷たくなって、丸太ん棒みたいに動かない…。どんなにがんばって生きていても、シャボン玉のようにはじけてしまったら、おしまいなのだろうかと、人間の無力さを思いました。でも、この詩につけれているメロディが、ある讃美歌をもとにしているのではないかと聞いたとき、私の心に強い希望がわいてきたのです。
  1われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ
  (くりかえし) わが主イェス わが主イェス わが主イェス われを愛す
  2わが罪のため さかえをすてて 天(あめ)よりくだり 十字架につけり
  3みくにの門(かど)を ひらきてわれを 招きまたえり いさみて昇らん
  4わが君イェスよ われをきよめて よき働きを なさしめたまえ
 私たちを、主は愛してくださっている-シャボン玉みたいにすぐこわれてしまうものじゃなく、永遠に輝く宝石のように尊いものなんだ…。この讃美歌を口ずさんでいると、弟のいのちも、神さまのもとでキラキラと輝き、生きているのだという喜びにあふれてきました」。
 まさにこの聖書の言葉通りです。愛する人との死別、耐え難いことですが、ほとんどの人が経験していく辛い試練です。神を見上げる時に越えていけるのです。「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。

◇長いながい出来事
 このシャボン玉の話は私が四国の壬生川教会にいました時(1974年~1981年)、新居浜教会の高橋秀夫牧師から聞きました。先生は胃が悪く長く煩っていました。そして、お子様の一人が目の癌になり、幼くして亡くなられたのです。その時、長老の米田豊牧師に会いました。先生も次々とお子さんを天に送っていた方です。顔を見ただけで、同じ経験をした、それだけで慰められ、泣き崩れたと言っていました。また、その葬儀で米田師は自らの体験から、こうメッセージをしました。「イスラエルの羊飼いは、羊の群れが川を渡るときに、子羊を川の向こうに置いた。水を恐れて川を渡らない羊たちも、子羊の声を聞いて川を渡る母羊について、川を渡り始 める。神は、私たちが間違いなく天国をめざして行くように、愛する者を天に召されるのだ…」。
 そして、こうも言われました。「10年というは長いトンネルでした。いつ出られるかわからない年月でした。でも、トンネルには必ず出口があると思い、希望を持って、祈ってきました」。
 私たち夫婦にはそれが慰められ、励まされる証詞でした。時々、子供を連れて先生宅にお邪魔をしたものです。私たちは東京聖書学院を卒業して、結婚し、副牧師として派遣されました。主任牧師とは同じ屋根の下、壁一枚はさんでの生活。主任牧師は明治生まれの気骨のある、学識のある、優れた方々でした。しかし、私といえば、何とも頼りない、少し常識に外れ、話も権威がないときているものですから、厳しく訓練されました。カラスが白いと言っても、はいそうですと答えなければならない、人に従うことを通して、神に従う訓練です。土手に行って泣いたこともありました。早く人間としてものにしようとしての愛情だったのでしょうが、精神が弱い者だから、私には耐えかねました。私たちには子供が与えられたのですが、主任の夫妻にはお子さんはいない。夜、子供を泣かせられない、壁を汚すのでクレヨンを持たせられないので、絵そのものがかけない。昼間は1畳半の部屋で過ごし、家内は病弱な先生方の食事と私たち健康な者の食事づくりに追われる日々。外部の集会には行けない。私も礼拝説教を若僧にはさせられないと在任中、一度もありませんでした。若い世代の人たちの集会はまかせられてはいましたから、それが生き生きする場でした。しかし、4年間が限界でした。
 四国に転任、今度は主任牧師、自由に出来ると思いきや、名誉牧師が上にいたのです。この牧師は次々と開拓して、いくつもの教会を建てられた人で、非常にスピリットのある婦人伝道者でした。実に元気の良い個性の強い器でした。影響力のある方でした。それから比べれば、私なぞは青二才。結局、ここでも、カラスが白いと言っても、はいそうですと答えなければならないという状況でした。
 経済的には工夫がいりました。なかなか服が買えないので、家内はミシンを習い、2人の子供の服も旅行鞄も作りました。あとはもらい物をうまく利用。魚も野菜も市場に行ってセリで安く手に入れたり、家庭教師もしたりしました。大変でしたが辛くはありませんでした。救われる人、洗礼を受ける人が起こされたり、信徒と共に祈って、明らかに神が答えてくれたとわかることなどがあって、やって来れました。しかし、前述のように、牧師としても、人としても立場のないような状況はトンネルでした。貧しさも長く続けば辛くなってくる。いつこのトンネルを抜け出せるのか、不安な時、高橋牧師の言葉は励ましでした。
 その希望を持ち、次のための準備の時、備えていこう、そう思って、忍耐し、学んでいました。7年が過ぎて、主の導きで、豊中に転任。始めて、主任牧師、これまでの経験、学びが生かされて、今日に至っています。また別の試練があって、トンネル部分もありますが、「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」のお言葉を信じています。
 同じ経験をした人が真の慰めを与えてくれることを私たちは知っています。イエス・キリスト天から降り、全く人となり、私たちと同じ苦しみに、同じ試練に会われました。だからこそ、私たちを救うことが出来るのです。救い主の最大の使命は「苦しむ」ことでした。すべての人の苦しみ、すべての苦しみを担って、十字架にかかられたのでした。最高裁大の苦悩は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びに集約されています。愛児を失った悲しみ、病気などで長いトンネルの中にある状態、あらゆる試練の中にある人を一時的な慰めではなく、永遠の慰めをもって、慰めてくださるのがイエス・キリストの十字架の苦難です。ですから、私たちは十字架を仰ぎ、また、十字架を負って生きるのです。
 その意味で、トンネルの中にあっても、私たちは真実の神を信頼して、生きていきましょう。「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」第1コリント10:13(口語訳)

呼び出されたモーセ

2015-07-19 15:01:45 | 礼拝説教
2015年7月19日 主日礼拝(出エジプト記3:1~12)岡田邦夫


 「神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります。』と答えた。神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』」出エジプト記3:4~5

 何かと自分の話から話始めますが、今日もそうなのでお許しください。小学二年の時、朝礼で、私の名前を呼ばれ、何のことかわからず前に出て行くと賞状を渡されました。母親が八百屋で買い物をしている絵が区の展覧会で銅賞だったからです。いちばん印象的だったのは、出て行く時、あの子だれ、どこの子という声がザワザワと聞こえてきたことです。中学一年の時も一枚の絵が張り出されたのですが、母親がエプロン姿ミシンを踏む絵でした。この二枚の絵に共通するところは手前に大きく母親の背中があって、買い物をしたり、縫い物をしたりしている構図です。子供は親の背中を見て育っていく、その一こまを切り取って描いたことが先生の目にとまったのでしょう。

 ところで、エジプトを逃れ、ミデアンの地で羊を飼っていたモーセの話です。ホレブの山に来た時、柴の中に炎が見える。しかし、炎はあるのに柴は燃えてはいない。不思議に思っていると「モーセ、モーセ」と呼ぶ神の声が聞こえてきました。「はい、ここにおります」と答えますと、「ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。…わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(3:5-6)。モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠したのです。そして、使命が言い渡されます。モーセの召命経験です。
 皆さんは、この光景をどのようにイメージするでしょうか。モーセ、燃える柴、主のみ使い、横から見ますか。モーセを正面から見ますか。それと、彼の背中から見た絵を想像しますか。自分がどの立ち位置にいるかで違ってきます。上から目線か、下から目線か、横から目線か…。私は背中から、見入るのが良いと思います。モーセの身になって、思い巡らすのです。

◇生存への呼び出し
 「モーセ、モーセ」と神に呼ばれたのです。しかし、人からはずっと、モーセと呼ばれてきました。生まれて来た時、エジプト王の政策で男児はナイル川に捨てられることになっていたのに、かごに入れたれた赤児の彼が王女に見出され、生きていけることになりました。水から引き出された意味のモーセと名付けられ、その名がエジプトにおいても、ミデアンにおいても呼ばれてきました。その基にはナイル川からの神の引き出し、生存への神の呼び出しがあったからです。私たちもそうなのです。生まれてきたのは「生きよ」とのこの世への神の呼び出しがあったからです。それは創世記のメッセージであります。相撲ですと高らかな呼び出しの声があって、力士は土俵に上がれます。モーセも私たちも生きるという土俵に天地創造の神に呼び出されているのです。だからこそ、生きる資格があるのです。

◇使命への呼び出し
 新たにモーセは呼び出されました。使命への呼び出しです。わたしの民の奴隷の苦役の悩みを確かに見、叫びを聴き、その痛みを知っている。彼らの叫びはわたしに届いたので、モーセよ、パロのもとに行き、イスラエル人をエジプトから連れ出せ、という命令です。神の民の救済の使命です。
 土俵はエジプト、そこに君臨するのは絶大な権力を誇るパロ王、これに対するのはアブラハムの神(イサクの神、ヤコブの神)です。どう呼び出されるのか、その名は何か。『わたしはある』という名です(3:14)。今風に言えば絶対者です。パロと対決し、勝つのは『わたしはある』という名の神です。モーセはそのしもべ、手足です。
 まず、イスラエル人の長老に、神はエジプトでの悩みから、救い出し、乳と密の流れる地へ上らせると伝え、エジプトの王に会い、荒野へ三日の道のりを旅させ、神へのいけにえを献げさせてくれと言えと命じるのです。しかし、王は頑なだから、行かせはしないだろうから、エジプトにあらゆる不思議な業でエジプトを打つ。そして、民はエジプトの財宝などを得させ脱出させると、約束します(3:15-22)。言い換えれば、神の勝利宣言です。
 そのようなことが出来るのか、モーセは不安です。そこで神はしるしを与えます。まず、根本的に、神ご自身が共にいるというしるしです(3:12)。具体的には、杖です。それが蛇になったり、元に戻ったりというもの(4:3ー)。手を懐に入れるとツァラアト(重い皮膚病)になったり治ったりというしるし(4:6-)。また、わたしは口は重く、言葉の人ではないと言うと、雄弁なアロンを助け手として与えられます(4:10-)。そうして、モーセは使命に呼び出され、神の民、イスラエル人をエジプトの奴隷から解放する神のみ業のために用いられていくのです。かつて、命からがらエジプトを逃げ出した逃亡者モーセを、神はイスラエル人(ヘブル人)の堂々たる救済者にされたのです。

◇救済への呼び出し
 私たちは罪と死と滅びの奴隷でした。サタンの支配下にありました。しかし、イエス・キリストと言われる名の方が自ら十字架の犠牲となり、その奴隷から救い出してくださいました。そして、死人の中から栄光の体によみがえり、サタンに勝利し、永遠の命を与えてくださり、神の国に入れていただきました。それぞれ名が呼ばれ、救いへと呼び出されたのです。救済への呼び出しに与ったのです。やがて、主が再臨する日、「ラザロ、出て来なさい」と呼ばれるように、栄光の体の復活へと呼び出される約束、希望があります。
 今生きている者として、それぞれ、使命へと呼び出されています。意義のある生き方を示しておられます。神が共にいて助けてくださいます。この世に土俵で、救いのみ業をなすのはイエス・キリストです。私たちはその勝利者の手足になるのです。救いへの呼び出しも、使命への呼び出しも、人間からでもなく、人間の手を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを使者の中からよみがえらせた父なる神によったのです(ガラテヤ1:1召命、ヨハネ1:13新生)。父なる神の呼び出しですから、優劣はないのです。
 あなたは調子よくいっていますか。謙虚にお呼びになるお声を聞きましょう。試練の中で苦闘されていますか。大胆にお呼びになるお声を聞きましょう。

モーセの誕生

2015-07-12 15:03:25 | 礼拝説教
2015年7月12日 主日礼拝(出エジプト2:1~12)岡田邦夫


 「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」出エジプト2:24~25

 シリーズ物のドラマでは決まったパターンがあります。有名なのが水戸黄門、色々ハラハラさせて、最後にご老公様が印籠を出して、悪を懲らしめ、落着。「これが目に入らぬか」の台詞が「お約束」。視聴者はそこで安心を得るというもの、心理的効果をねらったものです。
 しかし、聖書においては救いに関わる大変重要なのが神のお約束です。正真正銘の約束です。創世記から出エジプト記にかけて、驚くべき時間の長さの中でお約束が履行(りこう)されていく第一歩が、モーセ誕生です。
 イスラエルの民はエジプトにおいて奴隷でした。ヨセフを知らない新しい王が起こった時、イスラエル人の人口が多すぎて危険だということで、力を弱めるため、「粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた」のです(1:14)。また、王は助産婦に分娩の時に男の子なら殺せと命じました。しかし、助産婦は神を怖れ、王を恐れず、命令に従いませんでした。族長たちの信仰を受け継いでいたのでしょう。そこでパロは生まれた男の子はナイル川に投げ捨てろという厳しい命令を下します。
 レビ家の一夫婦に生まれた男児、かわいいので隠していましたが、3ヶ月たち、隠しきれなくなりました。水の漏れないかごを作り、ナイルの岸の茂みにおきました。身をきよめようと、パロの娘が水浴びにきた時、それを発見。ヘブル人(=イスラエル人)と知りつつ、「引き出す」という意味のモーセと名付け、王女の息子とします。モーセは紙一重で命を拾われ、偶然、王子となったようですが、そこには見えざる神の寸分違わぬご計画があったのです。

◇真実さ
 聖書にはこう記されています。「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった(口語訳:イスラエルの人々を顧み)。神はみこころを留められた」(2:23-25)。その契約とは400年も前のことです。
 「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる」(創世記15:13-14)。
 「自分たちのものでない国」とはエジプトです。ヤコブの子ヨセフがエジプトに売られ、パロの夢解きをして、総理大臣となり、飢饉の時にイスラエルの家族をエジプトのゴシェンに移住させ、保護しました。そこで「寄留の民」となったわけですが、どこからか、「奴隷」となり、苦難を受けることになっていきました。エジプト在住400年という時の長さです。何かも忘れ去られてしまう年月です。しかし、上記のようにアブラハムの時にエジプト脱出は預言されていました。ヤコブも臨終の時、「神は先祖の地に帰してくださる」と告げ、ヨセフも臨終の時、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。その時…わたしの遺体をここから携え上って下さい」と告げていました(創世記48:21、50:25)。
神は彼らの嘆きを聞かれたのですが、何よりも、神の民を顧み、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約=お約束をこの時、成し遂げられることになります。400年経とうと、決して忘れてはいない、お約束だから、民を顧みて出エジプトさせたのです。神の「真実」がここにあります。
 ヨセフの時に移住したのが、70人でした。出エジプトの二年後、人口調査をした時、20歳以上で軍務につける人の総計が約60万人でした(民数記1:46)。レビ族はその数に入っていませんし、その他を入れて、100万人は降らなかったでしょう。単純計算で行くと、50年で3.3倍の人口増です。エジプトのナイル川下流のゴシェンという肥沃の土地だったからこそ、そんな勢いの人口増加を得たのではないかと、私は思います。エジプトにいた400年で、約束通り星の数のようになっていたと言えるでしょう。

◇確実さ
救出劇は確実に行わなければなりません。要(かなめ)の器として、神が立てられたのはモーセでした。自然界で赤ちゃんというのはいちばん弱く、やられやすいので、可愛く造られているといいます。両親は可愛いと思い、隠したのでしょうが、それにしても微妙なところです。パロ王の娘がかごに乗せた赤ちゃんを見つけてくれるか、拾い上げてくれるか、自分の息子にするかどうか、どれをとっても紙一重です。モーセの救出劇はイスラエル民族の救出劇に展開させるという神のご意志があったのです。
 モーセはエジプトで王子として育ちます。エジプトの文化、法律、数学、建築学、地学、帝王学も学んだことでしょう。後にパロ王と対決する時に、また、民を脱出させ、荒野で導く時に、それはどうしても必要で、たいへん重要なことでした。
 モーセは成人した時、自分がヘブル人であることを認識していて、同胞を守るためにエジプト人を殺してしまうという失敗をしてしまいます。そして、パロ王の手を逃れ、ミディアンの地に行きます。祭司のもとに保護され、羊飼いをして、40年が過ぎた時に、神の召しを受けます。同胞の奴隷の民を救出すべき、エジプトに向かいます。神と民の間に立つ祭司である必要がありました。迷いやすい羊のような民を導く、牧者である必要がありました。
 神はこれらをすべて備えた器に育て、用いられたのです。といって、欠点がなかったわけではありません。「言葉の人ではなく(弁の立つ方ではなく)舌が重い」という、大きなマイナスがありました。しかし、神は雄弁な兄、レビ人のアロンを彼の口として立て、補いました。
 しかし、何といっても、モーセは誰よりも多く神のお言葉を聴き、語り、み業を現す、通り良き管でした。そうして、神は奴隷であったイスラエル人をエジプトから脱出させる奇跡の救出劇を準備万端よろしく、「確実に」実行され、成功させていくのです。神の器選びには間違いはなく、確実なのです。
 私たちにとって、出エジプトはイエス・キリストの十字架の贖いによる、罪と死の奴隷からの解放です。そして、自由の民、神の子にしていただくことです。私たちは神を求めて、救われたのですが、実は天地が創造される前から、選ばれていたのです。「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖(きよ)く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1:4-5)。そのように遠大な遙かな昔に私たちを選んでおいて、御子の犠牲、贖いによって、時が来て、神は真実に、確実に救いを実行されたのです。
 ですから、生活の具体的な場でお言葉をいただき、お約束をいただいていきながら、神の永遠の真実さと究極救いの確実さを少しでも知ってまいりましょう。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)。


聖霊の風に吹かれて

2015-07-05 15:06:10 | 礼拝説教
2015年7月5日 60周年四泉教会合同礼拝(使徒行伝2:1~12)
岡田邦夫(於・宝塚泉教会)

 「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。」使徒行伝2:2

 1956年7月8日に「豊中使徒教会」が設立され、その後、四つの泉教会になり、同根の群れとして、協力伝道をし、今日、60周年の合同礼拝が献げられますことはたいへん感謝なことです。私は三田で開拓の途上にあるので、今日の講壇に立つにはしんどさを感じますが、経緯を最も知っている牧師として、お話をさせていただきます。
 では豊中使徒教会の始まりとその後の流れと、すべての教会の出発点であった初代教会の始まりを重ねてみようと思います。

 「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。
 神は実に劇的な出来事を起こされました。耳には響き渡る風のような音を聞かせ、目には舌のような別れた炎を見させ、口には多種の民族にわかる他国の言葉を語らせたのです。それは聖霊が天から降ったしるしです。主イエスの約束、ヨエルの預言が成就して、聖霊の時代が来たのです。
 霊のことは解りにくいもの。ニコデモに主イエスはこう言われました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:8 )。聖霊の風は神の思いのままに吹き、私たちはその響きを聞くけれど、どこへ行くかは知らないという、聖霊の自由さがあるです。
 聖霊の風が吹き出し、ペテロは大胆にイエス・キリストの十字架と復活の福音を語り出しました。集まって聞いていた人たちのうち、約3000人が悔い改め、信じてバプテスマを受け、聖霊の賜物に与りました。この風はおさまらず、次々と救われる人が教会に加えられていくのでした。ユダヤ教では異端だとして、ユダヤ当局がこれを押さえ込もうとします。迫害がエスカレートしていきます。ヤコブやステパノなどの殉教者が出ますが、内側から吹き出てくる聖霊の勢いを止められません。また、散らされていったクリスチャンはそこで証詞をするので、風は拡散していくのです。
 聖霊は迫害者サウロ青年を捕らえます。回心し、パウロと名を改め、異邦人宣教の使徒として召され、3回にわたって、同行者を得て、伝道旅行に送り出されます。帆船(はんせん)を風が推し進めるように、聖霊の風が伝道を推し進めました。第二次伝道旅行の途中では聖霊の風が吹かないことがありました。風向きが変わり、マケドニアに向かわせました。小アジアからヨーロッパへと宣教へと展開していくのです。第三次伝道旅行では途中では聖霊の風は逆方向に吹きます。危険だからと周りが反対するのですが、エルサレムへと押し出します。そこで騒動が起こり、囚人として、ローマ行きの帆船に乗って、船出します。海上でユーラクロンという大嵐にあい、難破しますが、聖霊の風は乗船員を無事にイタリヤに届けました。遂にパウロはローマで軟禁されながら、世界の中心地で聖霊の追い風に身をまかせ、活動していきます。やがて、世界中に聖霊の風が吹いていくのです。

 風にも追い風、向かい風、そよ風とあります。私たちの群れに聖霊の風はどんな風に吹いたのでしょうか。
 私たちの群れに最初の風がまき起ったのはこうです。1955年3/3-4、日本福音連盟総会が開かれ、日本ホーリネス教団の総理、車田秋次師が大阪に来られた時のことでした。そこに松井えき姉が会いに行き、こう頼みました。「私は神田教会で先生から洗礼を授けていただきました。結婚して、豊中にいるのですが、ホーリネスの教会が欲しいのです」。すると翌年の4月に神戸教会の斉藤源八師が来てくださり、松井宅で家庭集会が始まりました(主人の栄太郎兄は日本基督教団豊中教会員だったのだが)。ホーリネスの説教にひかれ、人が集まってくるようになりました。1956年7月8日、仮集会所において「豊中使徒教会」が開設され、その時の受洗者が4名でした。その年の10月に松村悦夫師が初代牧師として派遣された。それはそよ風だったが、だんだんと追い風となっていきました。
 そして、岡上の町の松井栄太郎商店の倉庫の二階が礼拝堂に提供されて、長く使わせていただきました。しかし、借り物、自分たちの会堂を持つことを総会で決議、歩いて10分の所、中桜塚の物件を得て、転居することとなりました。聖霊の風向きが外向きへと変わっているのです。松本三郎牧師をはじめ全員移転するはずでした。ところが、残るという人たちが現れ、教会が分裂の危機にさらされました。人間関係の嵐です。しかし、聖霊がその嵐を静めていきました。その時、教団委員長が初代の松村師だったこともあり、思い入れも強く、委員長の強い執行権を行使し、豊中使徒教会から株分けする形にしました。1980年9月1日、豊中泉教会が設立。81年3月22日、献堂式と事は進みました。泉丸という船は聖霊の強い追い風を受け、加速をつけて進んでいくことになるのです。不満がまだ治まっていなかったので、82年5月5日、正式な株分け作業をし、聖霊の風の通りを良くし、使徒丸の船も泉丸の船も聖霊の風を受け、それぞれ独自の航路を行くことになりました。
 もう一つの風が起こっていました。さかのぼって、1977年10月、宝塚市でホーリネスの二家族が家庭集会を始めました。T姉に「この町にはわたしの民が大ぜいいる」のみ言葉が示されていたからです(使徒18:10)。受洗者、献身者が起こされますが、近くの教会にゆだました。福音的な教会、ホーリネス教会が必要だとずっと祈っていました。時が来ました。聖霊の旋風(せんぷう)が起こるのです。1981年、それを豊中泉教会に願い出ると、82年1月の臨時総会が開かれ、宝塚開拓が決議さます。すぐ2月には宝塚市中筋山手の土地を寄付すると、ある婦人から申し出がありました。3月にはプレハブ仮会堂を設置し、5月には集会開始します。1984年4月1日、株分けし、宝塚泉教会が設立しました。10月には新会堂(一期工事)完成。大変な勢いでした。
 豊中使徒教会にも良い風が吹き、祝され、人も増えていったのですが、やはり、会堂は借りもの、1990年、そこを出る必要に迫られました。逆風が吹いたのです。11月25日の臨時総会を経て、1991年1月1日、豊中使徒教会は豊中泉教会に統合されました。事情でそうなったのではないのです。「見よ、わたしはエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。これらはわたしの手で一つとなる」とのみ言葉が臨んで統合したのです(エゼキエル37:19)。統合記念礼拝には100名が集まり、一同感動しました。ただ、統合に伴う痛みがあったことを忘れてはなりません。
 もう一つの風が起こっていました。10年以上前から、箕面で家庭集会がなされ、箕面開拓が使徒教会のビジョンでした。統合で、時到来ととらえ、統合と開拓をセットの方針を立てました。1991年4月1日、豊中、宝塚から株分けし、みのお泉教会が設立されました。そして、1993年11月、箕面市小野原に新会堂が完成しました。み言葉を示し、聖霊が箕面に向かわせたのです。「シオンの義が朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしは…黙せず…休まない」(イザヤ62:1)。
 聖霊の風はやまないのです。統合、開拓の年の11月には宝塚泉教会の会堂二期工事を着工。翌1992年3月に完成しました。立派な会堂です。宝塚泉教会には最初の献堂式から、三田開拓の祈りがありました。1994年、豊中からT姉が三田に引っ越したのが契機でした。彼女は宝塚泉教会の礼拝に通っていました。しかし、1995年1月17日、阪神・淡路大震災。宝塚泉教会のG姉と義母の方の二人が全壊の家の下敷きになり犠牲になりました。たいへんなショック。姉妹は三田のため祈っていた人でした。その祈りを無駄にしてはならないと、1995年、家庭集会を続けました。聖霊の流れが来ていました。多い時は20名も集まるのです。1996年には祈祷会、会場を借りて月1~2回礼拝を開始しました。何より、「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」とのみ言葉に導かれたからです(エゼキエル47:9)。震災という向かい風を追い風に変えていただいたのです。三田市西相野の中古の農家を購入し、1998年4月1日、宝塚泉教会から株分けされて、三田泉教会が設立したのです。
 まだ、やり残していたことがありました。三泉教会を産み出してきた、もとの豊中泉教会の会堂はすっかり老朽化していました。しかし、主は忘れてはおられませんでした。大きなうねりを起こしたのです。2008年7月31日、蛍池の土地146坪を購入し、そして、驚くべきことに、2011年10月15日、150名収容可能な、見事な新会堂が完成したのです。土地9千万円、会堂1億3千万円、合計2億2千万円の必要が瞬く間に集まり、現在、借入金はないのです。どれほど、強い聖霊の追い風が吹いたでのしょうか。
 泉グループは「ヨセフは…泉のほとりの実を結ぶ若木、その枝はかきねを越える」のみ言葉に導かれているのです(創世49:22)。60年という間、聖霊の風が吹いて、み業がなされてきたのであり、今も、四泉教会に追い風はやまず、吹き続けているのです。私たちは聖霊の風をキャッチしようではありませんか。聖霊の風に帆を広げようではありませんか。よどまないように、聖霊の風通しの良い霊性を持ちましょう。思いのままに吹く聖霊の風に身を任せていこうではありませんか。