オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

終わりの日に生きる

2014-12-28 00:00:00 | 礼拝説教
2014年12月28日 年末感謝礼拝(使徒2:14-24)岡田邦夫


 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」使徒2:17

 今年、最後の主日礼拝です。26日に夫婦で買い物に行きました。お目当ては売れ残ったクリスマス用品で半額になっているもので、来年のクリスマスに使うことを考えての買い物です。良い物がありました。教会員の中にはもう、来年はどんなクリスマスにしたいか、考え始めている方々もおられます。終わりは始めなのです。季節や年度はその繰り返しですが、信仰者の人生や聖書の歴史は一度限りの「終わりは始め」なのです。

◇十字架と復活
 イエス・キリストが十字架上で「すべてが終わった」と言われました(口語訳)。それこそが終わりは始まりでした。神殿の幕が裂けて、十字架の福音を信じる者がだれでも救われ、御前に近づけるようになった始まりでした。主が墓に葬られ、これで終わりかのように見えて、三日目に復活されました。「今やキリストは、眠った者(主にあって死んだ者)の初穂として死者の中からよみだえられました」(1コリント1520)。復活の始まりです。

◇初臨と再臨
 復活されたイエス・キリストは40日にわたって使徒たちに現れ、神の国のことを話され、ご自分が生きていることを示されました(使徒1:3)。そして、使徒たちが見ている間に天に昇って行かれました。これこそ、最後のお別れでした。しかし、み使いが告げます。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(使徒1:11)。雲に乗って再び来るという約束です。使徒たちだけでなく、信じるすべての者たちへの約束です。地上の歴史はその再臨の時に決定的に終わるのです。それも終わりであり、初めなのです。古い世界が消滅し、新しい天と新しい地が現れるのです。その時、神に選ばれた者たち、イエス・キリストによって救われた者たちが栄光の体に変えられて、入り、神が人と共に、人が神と共に永遠に住むことになるのです(黙示21:1-3)。有限の世界は終わり無限の世界が始まるのです。私たちはその救いの約束手形をいただいているのです。

◇旧約と新約
 主の昇天の前に、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。……聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と告げられました(1:4、8 )。その通り、使徒たち等は祈って待っていると、約束通り、聖霊が下りました。聖霊の働く時代の始まりですから、そこには大きな衝撃がありました。「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」のです(使徒2:2-4)。
 時は五旬節という祭りでエルサレムには大勢の人が集まっていたので、ペテロと11人の使徒たちが立ち上がり、聖霊によってわき出てくる言葉を語り出したのです(2:14)。聖霊の時代が来たという預言の成就と、イエス・キリストの十字架と復活の福音によって救われるという伝道メッセージをです(2:14-36)。これを聞いた多くの人たちが悔い改めて、信じて、三千人が洗礼を受け、愛と賛美に満ちた教会が始まったのです(2:37-47)。イスラエル中心の旧約の時代は終わり、教会中心の新約の時代が始まったのです。私たちは異邦人でも誰でも救われる、新約の時代に生きているのです。

◇終わりと始め
 ペテロが最初に語り出したのが、聖霊についてのヨエルの預言の成就でした(使徒2:16-21=ヨエル2:28-32)。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」。
 この「終わりの日」は英語ではthe last days(ザ ラスト デイズ)、複数で、終わりの日々です。終わりの時代は始まって、前倒しで、聖霊が下り、臨んでいるのだということです。良い意味で大変なことです。
  終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたがたの息子や娘は預言し、
  青年は幻を見、老人は夢を見る。
  その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
  すると、彼らは預言する。
 年の終わりに、人生の終わりに、時代の終わりに、キリスト者は聖霊に満たされて、幻を見、夢を見、預言をするのです。私はこの頃、ひとり静まっていると、ひとつのメロディが出てくるのです。何十回と思い巡らしたのですが、それがどこで聞いたものなのか判らないのです。それが最近判ったのです。目覚ましようにと内蔵メロディを聞いていたら、ブラームスの子守歌の一部分だったことが判明しました。その曲は全く聞いていませんので、どこで、どうして、私の脳にインプットされたのか、判らないのです。でも、脳がおかしくなったわけでもないし、作曲の才能があるわけでもないし、普通なのだということが解ったのでホッとしました。キリスト者は気づかないでしょうが、聖霊がインプットされているのです。それが普通のキリスト者なのです。聖霊は幻を見させ、夢を見させ、預言(神の言葉を聞き、証詞する)のです。普通でありながら、それはすごいことなのです。

天使の賛美、羊飼いの賛美

2014-12-21 00:00:00 | 礼拝説教
2014年12月21日 クリスマス礼拝(ルカ福音書2:8-20)岡田邦夫

 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」ルカ2:11

 時は二千年前、ローマ皇帝アウグストが自分の町に行って、住民登録をするよう命令を出しました。ヨセフとマリヤはナザレからベツレヘムにやってきました。客が多く宿屋は満室、やむなく身重だったマリヤは家畜小屋で出産。その男の子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。
 一方、ふだん羊の声を注意深く聞いて生活している羊飼い、この日は天から救い主誕生のみ告げを聞いたのです。探しに行ってみると、み告げ通り、事実、飼葉おけに寝ておられる幼子を見出し、救い主に出会えたのです。「あなたがたのために、救い主がお生まれになったという、すばらしい喜びの知らせ」、メッセージは確かでした。最高のグッド・ニュースに感動し、天使たちは神を賛美し、羊飼いたちも神を賛美したのです。

◇女性と母親:信仰
 私、若い時に三鷹の駅を降りて、一人の女性を連れて話ながら教会に行きました。その方は「人は何のために生きるの?」と母親に聞くと、「神さまを賛美するために造られたのヨ。」と答えてくれたと清々しい顔で言っておられました。その言葉をいまも忘れません。

◇ヘレンとサリバン:愛
 ヘレン・ケラーのことを皆さん、ご存じのことと思います。私は「奇跡の人」という1962年の白黒の映画を見に行った時に、号泣してしまいました。ヘレンは生後13ヶ月の時に高熱が続き、目と耳が不自由になり、暗闇に閉じ込められてしまいました。ですから、頭を締め付けられるようで、時々かんしゃくをおこし暴れるのでした。7歳の時、サリバン先生が家庭教師として来られ、しつけをし、指文字を使って言葉を覚えさせようと必死に教えます。しかし、ものに名前があること、言葉というものがあることがどうしても解らないのです。しかし、ある日、もめ事があって庭に飛び出したヘレンが井戸のポンプを押して、水に手が触れた時に、闇に閉ざされる前に覚えた「水」waterを思い出したのです。この冷たいものは「水」=waterという名前なのだということが解ったのです。ヘレンはサリバンとも、両親とも抱き合って喜ぶのです。映画ではここがクライマックス。私は押さえきれず、号泣したのです。そして、言葉を覚え、コミュニケーションがとれるようになり、映画の最後はサリバンの部屋にヘレンが入ってきて抱きつき、指文字で愛=loveと告げるのです。そのバックミュージックが、聖歌196番「たえなるいのちの」でした。またまた、号泣。
  1.たえなるいのちのみ言葉あり そのうるわしさはたぐいあらじ
   いのちに満ち まことに富む 
    おりかえし聖書はたえなる命のふみ 聖書はくすしき命のふみ
  2.み子なる主イエスの み言葉こそ 罪とがきよむる
    力なれや 世人ききて 救い受けよ おりかえし
  3.み言葉頼りに ゆるしを得よ み言葉受け入れ 安きを得よ
  他にあらじ このみ救い おりかえし
 彼女はこの時のことをこう言っています。「冷たい水が手に流れ、先生の指先に全神経を集中させた。すると不思議な感動、そして、意識がわき起こった。まるで忘れていたことを思い出したように、言葉の神秘が私に開かれたのだ。」「学びたくて仕方がなかったのです。心地いい興奮が体を通り抜け、心の中に閉ざされていた甘く不思議なものが歌い始めた。」
 彼女は学ぶ意欲が旺盛で、大学まで行き、四ヶ国語を習得し、主席で卒業し、それから、執筆活動、人権活動、福祉活動などに向かっていき、特に視覚障害者のために働きました。
 人はもっている能力が引き出されると快感を覚え、その世界が開かれていくのです。幼児が言葉を覚える時、言葉というものが面白くて仕方がないから、たくさんの言葉を覚え、使うのです。ヘレンが持っていた言語能力が引き出され、「心地いい興奮が体を通り抜け、心の中に閉ざされていた甘く不思議なものが歌い始めた」のです。彼女は後にもう一つの能力が引き出されました。霊的な世界を感じ取る能力です。神を信じ、聖書を信じ、実に豊かな精神を得たのです。それによって、困難を乗り越える力が与えられました。障害を霊的な魂をもつことで克服しました。奉仕を自分の生きる道だと確信しました。「私は自分のハンディキャップを神に感謝している。そのことによって私は自分自身を、自分の仕事を、自分の神を見出したからである。」救い主に出会い、心の中から出てくる不思議な恵みを歌い続けたのです。
 もし、あなたが吹いたことのないフルートを持っていたとします。吹いても音は出ない。バイオリンと弓を持っていたとしても、やったことのない人が弾いてもうるさいだけです。しかし、音楽家が奏でると、美しい音色が聞けます。人は楽器を持っています。神さまいう音楽家の手にあると、それぞれの音色で賛美が溢れてくるのです。もしかしたら、その楽器は壊れているかも知れません。神に対して不信仰だったり、人に対して悪いことしたり、言ったり、思ったり、そういう罪というものがその楽器を壊しているのです。救い主イエス・キリストはその罪をあがない、赦すために十字架にかかり、その壊れたところを直されるのです。悔い改め、神さまの手の中にあると、恵みと祝福がそれぞれの音色で奏でられるのです。
 天使が賛美するのは当然のことでしょう。しかし、羊飼いたちが救い主に出会って、帰って行く時、賛美しました、その賛美こそ神さまは喜んで聞いておられると思います。私たちの賛美もそうです。

◇歌手とハンセン病:希望
 前にいた教会で特別集会のゲストに胡(こ)美芳(びほう)さんという、「夜来香」、「シナの夜」など歌っていた歌手で、クリスチャンになり、福音歌手となられた方をお呼びしました。その時、こう話しておりました。ハンセン病の施設、長島愛生園に行った時、病気のため、指が無くなっているその手でお茶を出してくれた時、うつることはないと解っていながら、どうしても飲めなかったと言います。その時、自分の偏見と愛のなさに、魂が砕かれ、悔い改めたそうです。そうして、集会で一緒に鼻がもげたお顔や、指がなくなり、つるんとしたみ腕で、賛美するのですが、実に輝いたお顔で、精一杯の手拍子をされている光景が最高だったと言われました。やがて天国では障害が全くない栄光の体に変えられ、そういう希望に溢れて賛美されていた姿に感動しましたと証詞をしていました。今日、私たちも羊飼いたちとともに救い主のところに急いでいきましょう。
  「神(かみ)に栄(さか)えあれかし」と
  み使(つか)いらの声(こえ)すなり
  地(ち)なる人(ひと)も たたえつつ
  急(いそ)ぎゆきて 拝(おが)まずや

降誕:天から

2014-12-14 00:00:00 | 礼拝説教
2014年12月14日 アドベント第3主日礼拝(マタイ1:18ー25)岡田邦夫


 「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです』」。マタイ1:20

 先週の月曜の明け方、私はこんな夢を見ていました。ある集会があって、賛美をしている。なぜか、当教会員の娘さんでドイツの教会でコーラスの指導などをしている方が指揮をしている。賛美は「ジーザス、オー、ジーザス、あなたの愛で、ジーザス、オー、ジーザス、心を満たして」なのだ(スピリットソング)。とても幸せな気分で目が覚めました。この歌は最近、特に歌っているわけではいないし、彼女はクラシックで、この賛美とは結びつかないし、遠方の方だし…。どうして、このような夢を見ただろうか、考えました。前日の夜、寝る前に、最近亡くなられた高倉健さんの映画「遙かなる山の呼び声」のラストシーンだけ見ていました。それがいわくがあっても許して引かれ合っていく、ジーンとくる「愛」の光景でした。もう一つは日本人の女性の指揮者で西本智実さんという方が、バチカンで国際音楽祭を主催する音楽財団より、今年、アジア人で始めて名誉賞を受賞しました。彼女の指揮でかくれキリシタンが弾圧を乗り越え、450年以上守り抜いた歌「オラショ」が歌われたと聞きました。そのニュースが私の脳裏にありました。この「愛」と「指揮」と「ヨーロッパの教会」というのが私の夜の脳で組み合わされて、このような夢になったと、自分で夢分析をしてみました。
 それにしても、「ジーザス、オー、ジーザス」は良い響きです。新聖歌208番は日本語に訳されて、趣が少し違いますが、私にはジーザス、オー、ジーザスのほうが気に入っています。というのは、私がイエス・キリストを信じる決断をさせてくれた説教者のことを思い出すからです。平松実馬という日本キリスト教団の伝道者で、日本人には日本人の説教を主張され、型破りな説教家と呼ばれていました。また、東南アジアに巡回に出かけて行き、英語で説教をされてもいました。私たち夫婦の仲人をして下さった、奥様の方のお父さんでもありました。その先生、その娘(敬子先生)の所に来ると、部屋で日本語と英語のちゃんぽんでひとり祈っておられたと言います。そして、天に召される最後の言葉を敬子先生から手紙で知らされました。「ジーザス、安し」だったと言います。自分もそんな風に言って召されていきたいものと思っております。

◇深い内から
 夢というのは心理学者が言うように深層心理をあらわしているのかも知れません。心の深い所で何かを感じているのでしょう。今回のわたしの夢は特に深い意味はありませんが、聖書では大事な時に夢で神の啓示がなされています。天から心の深い所にみ旨が知らされるという啓示です。創世記に出てくるヨセフは夢見る人であり、夢を解く人でもありました。それは神の家族を救うための夢でした。ダニエル書にも夢と夢解きによって、神の民を救われていく歴史が記されています。
 夢も幻も黙示もない、400年が続いた後、天が開かれ、魂の深い所に、神は語り出したのです。それを受けたのは名もない大工のヨセフという男です。ただ、彼がダビデの家系に属する者だということが重要でした。
 マリヤはみ使いガブリエルのみ告げを受けますが、ヨセフの方は「夢」の中でみ告げを受けます。いいなずけではあったのですが、まだ一緒にならないうちに身重になったというのですから、大変な事態です。ヨセフは大変まじめな人だったので、彼女をさらし者にはしたくないと気遣い、内密に去らせようと決めたのです。そう彼女のことを心配して思い巡らしていた、そのような精神状況の中で、主のみ使いがヨセフの心の深層に臨んだのです。
 「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:20-21)。聖霊によっておとめマリヤから救い主が生まれるとの啓示です。奇跡の誕生なのです。主は救いという名のイエス、英語ならジーザスです。イエス、それは素晴らしい名前です。実を伴う名前です。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる救い主なのです。十字架にかけられ、私たちのすべての罪を背負ってゆかれ、贖いを成し遂げ、信じる者の罪をすべて赦し、救ってくださる、イエス、ジーザスなのです。
 その後の聖書を読んでみましょう(マタイ1:22-25)。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた」。イエスの呼称もいい響きですね。「インマヌエル」。救い主はいつでも、どこでも、今も後も、片時も離れず、私のために命を献げて愛してくださった愛をもって、永遠に共にいてくださるのですから。

◇高い天から
 説教題を「降誕:天から」としました。神は天から、過去の人、預言者にあらかじめ、救い主降誕について知らせました。神は天から、他国の人、東方の博士に救い主降誕について知らせました。神は天から、ヨセフの内なる人に救い主降誕について知らせました。その三方から、御子の降誕の事実を証言させたのです。処女降誕などあり得ないという人がいますが、このようにきわめて確かな、一致した証言があるのです。神の真実が見られるのです。ですから、私たちは使徒信条で「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤより生まれ」と告白するのです。
 この証言一致、処女降誕ということがあり得たのは「聖霊によった」からです。終末の時代が始まったのです。終末は聖霊が臨むのです。聖霊は時を超えさせ、国を超えさせ、夢を超えさせるのです。イエス・キリストは聖霊によって、おとめマリヤに宿られ、歴史の事実として、お生まれになり、イエスと名付けられたのです。そして、聖霊によって、私たちの内に、信仰の事実としてお生まれになったのです。
 先日、サティで買い物をしていましたら、たいへんご高齢の夫婦をお見受けしました。お二人はたぶん、ひ孫さんにクリスマスプレゼントでも買ったのでしょう、それを持ってきた袋に大事そうに入れていました。その二人が寄り添うようにして、いたわりながらされておられ、人生色々あったのでしょうが、長年連れ添ってきて、このようになられたに違いないと想像し、目を細めて見ておりました。もっとも親しい間柄というのは、相手の中に私がおり、私の中に相手がいるという、相互内住だと思います。神に敵対する罪人であった私たちに肉体をとって来られ、私たちに近づいてくださり、私たちの罪を、救い主があの苦難の十字架の贖いによって、取り除いてくださり、わだかまりのない神との親密な間柄にしてくださいました。私たちは救われて、救い主が私の内に生まれ、私は救い主の内に生まれたのです。救い主が私の内におられ、救い主の内に私はいるのです。それがインマヌエル=神我らと共にいますの聖なる親密さなのです。激しくも静かな愛の、誰も切ることのできない、サタンさえも手出しのできない相互内住なのです。夢のような話です。いえ、夢ではないのです。これまで、話しましたように三方から証詞されている絶対的事実なのです。

降誕:東方から

2014-12-07 00:00:00 | 礼拝説教
2014年12月7日 アドベント第2主日礼拝(マタイ福音書2:1-12)岡田邦夫


 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」マタイ福音書2:2 

 「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子(やし)の実一つ 故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月(いくつき) 旧(もと)の木は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる…」は島崎藤村の詩です。波打ち際に一つの椰子の実があるのを見て、名前も知らない遠い島から、長い旅の末、流れ着いたのだろうと思いをはせ、故郷を慕うのです。クリスマスに登場する「東方の博士たち」、聖書には東方のとしか書いてありませんから、いったいどこから来たのだろう、どうやって来たのだろうと、私たちは思いをはせるのです。どこからか記してはいませんが、救い主誕生を知って、黄金、乳香、没薬の贈り物をもってやってきたのです。
 どこからかやってきたと言えば、イギリスからやって来たガーデンデザイナーのポール・スミザーさんのことがNHK「プロフェッショナル・仕事の流儀」で取り上げられていました。彼はイギリスでその仕事をしていたのですが、日本の自然は地域によって違う野草で四季を彩り、世界のどこにもない貴重な草木であふれている。彼はその日本の草木のすばらしさに魅せられて、日本にやってきたのです。長年、日本で、野山にある豊富な草木の研究を重ね、魂を入れ込み、日本の野草を植えて庭造りをしていったのです。
 初めは日本人に見向きもされなかったのですが、今や、その地域に元々ある草木でガーデンデザインをする日本人以上の日本人だとして、ひっぱりだこだといいます。外国人が日本の良さを日本人に教えているのです。

◇拝みに来た
 救い主誕生についてはユダヤの国で、ヨセフとマリヤ、野宿していた羊飼いたち以外はだれも解らなかったのです。全世界の喜びの知らせであるのに、灯台もと暗しです。しかし、東方にいた博士たちはユダヤ人以上に知っていたのです。イエスの降誕の時、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、ヘロデ王に謁見します。王に謁見できるほどの人たちだから、どこかの国の王だったのではないかという説もあります。ヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と述べるのです。これは一大事、国家を揺るがすかも知れない出来事です。王の他に王が生まれたというのですから…。王も国民も恐れ惑うのです。実に衝撃です。
 ユダヤ人の王、すなわち、救い主・キリストはどこで生まれるのか、ヘロデ王は、国民の祭司長たち、学者たちをみな集めて問いただします。彼らは預言書・ミカ書の以下にありますと答えます。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから』(マタイ2:6←ミカ5:2)。王の誕生の場所はユダヤのベツレヘム。そして、博士たちは救い主への礼拝に向かい、ヘロデ王は身の安泰のため、殺害計画に向かいます。
 こうして、博士たちはベツレヘムにいました母マリヤと幼子の救い主にお会いできたのです。家に入り、ひれ伏して拝みます。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのです。最上の捧げ物をして礼拝したのです。(初代教父たちは黄金=キリストの神性、乳香=キリストの聖性、没薬=キリストの十字架の死を示すと解釈し、意味を深めております。)普通の幼子であり、しかし、唯一無二の救い主にお会いできたのです。異邦人の彼らはユダヤ人の誰よりも主の降誕を喜んだでしょう。期待と不安で出発したのですが、救い主礼拝が出来て、喜悦と平安に満ちて、東方の故郷に帰って行ったのです。
 クリスマス、毎年、私たちは幼子としてお生まれになった救い主にお出会いするのです。神が最高の「御子」という贈り物をしてくださった、受ける喜びがあります。そして、私たちのキリストへの最も良きものを献げる礼拝、献げる喜びがあるのもクリスマスです。クリスマスとはキリスト礼拝の意味です。

◇導かれて来た
 博士たちは不思議な星の出現を見て、預言書を調べて、東方の国を出発したのでしょう。博士というのは占星術師だったようです。星の運行を観察し、それと地上のことや人生と結びつけて、思索を深めていたのでしょう。近代の科学では星の運行と人生行路は結びつけませんが、この時の博士たちはそういう何か見えないものに心をはせていたと思います。きっと見えないものに本当のことがあるのでしょう。聖書には「見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」と記されています。(2:9-10)。私たちの外にありながら、内なるものに働いて、「先導」するものがあるのです。お導きというものがあるのです。
 私の母は明治生まれ(1899年)、長野の善光寺の近くの筆屋をいとなむ家で生まれ、なぜか、新聞など活字を読むのが好きでした。ある日、姉と一緒にその善光寺の境内で、何とキリスト教会の先生が来て青空教室といって子供の伝道をしていたのです。「この世界はだれが造ったの?」と聞かれて、母は小さいながら、「神さま!」と答えたと言います。70になっても覚えていたので、よっぽど印象に残っていたのでしょう。その年のクリスマス、煉瓦造りの教会にも行ったとのことです。その後、キリスト教とは関係のない人生が続きました。結婚、最初の子どもを4歳で突然、病いで失い、悲嘆に暮れていた時に、慰めを得ようとお経の本と新約聖書を読んだのです。その聖書、どこで手に入れたのでしょうか、活字好きのため3度も読むことになったのです。
 一年ほどたつと涙も涸れてきて、子どもも二人目、三人目と生まれてきて、聖書も読まない生活が長く続きました。その五人目の子ども、即ち、私がクリスチャンになり、母に教会に行くよう勧めていたころ、父が脳梗塞で倒れ、介護でその心労がピークに達していたのです。息子が世話になっているので、牧師にお礼に行くと言って、教会に行ったことから、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けることになりました。聖書は活字だらけ、読むのが楽しみ、しかし、聖書は命の書、天に召されるまで赤えんぴつをなめては線を引きまくっていました。
 子どもの頃の善光寺境内での子供会と活字好き、子供を失った悲しみの時の聖書、介護疲れの時の息子の教会行き、そこに母きよが救い主に出会い、救われるための、神の「導き」、「先導」があったのだと私は信じています。皆さんにも、それぞれ、外にありながら、内なるものに働いて、「先導」するものがおありでしょう。それらに思いをはせ、このクリスマス、お導きを感謝してまいりましょう。