2013年6月23日 伝道礼拝(マタイ6:25-34)岡田邦夫
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34新共同訳)
自分もそうですが、高齢者はたいてい、歳をとって衰えてきたことを口にします。自分のことを川柳にしました。「目がかすみ 耳が遠くて 舌もつれ」「物忘れ 足腰痛い 気力なし」「この話 昨日したけど 今日もする」「ゆるんだか 怒って泣いて 頑固者」。これは高齢者の言い分なのかも知れません。衰えてきて、自分でも困ったもんだと思っているけど、愛すべき者として、受け入れてほしい、忘れないでほしいというものかも知れません。年寄りなんだからという言い分です。それぞれの年令もあるでしょうが…。
言い分といえば、神がいるなら、どうして、不幸があるのか、災害があるのか、難病があるのか、戦争があるのか…という、不条理についての人間の言い分あります。それに対して、神の言い分というものが述べられているのがマタイ福音書5~7章にあるイエス・キリストの山上の説教です。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。語順をかえれば、天の御国はその人のもの「だから」心の貧しい者は幸いだという言い分、教えです。この八福がすべてそうです。戒めについて(5:19)、和解について(5:23)、誓いについて(5:37)、完全について(5:48)、祈りについて(6:9)、宝について(6:25、34)、結論として、み言葉を聞くこと(7:24)、「だから」で綴られています。
◇「だから」…守り
今日お話ししたいところは、6:25の「だから」です。自分の宝を地上にではなく、天にたくわえなさい。虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできませんと言われて、「だから」とくるのです。「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか」「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか(6:25、27)。
主は鳥や花を見なさいと説教されます(6:26、28-30)。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」。 数学の幾何の証明などでつかう「∴」(ゆえに、それだから)は結論を述べます。心配し、思い煩って、神よ、どうしてなのですかという私たちの問いに対しての主イエス・キリストの結論はこれなんだということでしょう(6:31-34)。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」。
私たちは空の鳥、野の花を見ようではありませんか。また、それを養い、それを着飾っておられる神を心の目で見ようではありませんか。私はそれ以上に守られ、輝かせていただいているのだ、大丈夫と信じようではありませんか。そして、神の国を求め、天に宝を積んでいこうという生き方をしようではありませんか。
◇「だから」…赦し
野菜の種を蒔いたり、苗を植えたりして、畑をしていると、空の鳥、野の花のことはよくわかりますが、もうひとつ思い知らされることがあります。たとえば、春先、畑を鍬で掘り起こし、耕します。すると、冬眠していたカエルが出てきます。ちょっとごめん、あっちに行っててと言って、逃げるのを止めません。ミミズが出てくれば、ちょっとごめん、良い土にしてちょうだいと言って、また、土の中にもどします。ところが、ネキリ虫が出て来たら、ちょっとごめんと言って、容赦なく踏みつぶします。万事がそうです。ちょっとごめんと言いながら、カマキリは良いが、カメムシはだめ、チョウは良いけどアオムシはだめ…と言った具合で、実に人間の身勝手さを感じます。人が生きていること自体が罪なのではないかと思ったりします。人に対しても、好きな人は受け入れるけれど、嫌いな人は排除するし、神に対しても、自分にとって良いことがあれば感謝し、自分にとって都合の悪いことがあれば、神に文句を言います。何とも自己中心な者でしょうか。
この自己中心な私たち人類がその罪でイエス・キリストを虫けらのように十字架につけて殺してしまったのです。都合が悪いからと…。しかし、主は私たちの罪の罰を代わりに受けて、贖いとなり、とりなして、私たちの罪を赦し、救おうとされたのです。ここに救いの「だから」(ですから)があるのです。「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:14ー16)。
やがてやってくる死も、このお方が共におられるので、心配ない。やがてやって来る神の大審判も、罪の赦しの確信があるから、この大祭司がおられるから、心配ない。「だから」神の国とその義とをまず第一に求めていくのです。ルカ福音書ではこうあります(12:6-7)。「 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」。謙虚になって、思いましょう。「一羽のすずめに目を注ぎたもう…一羽のすずめさえ主は守りたもう」(新聖歌285)。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34新共同訳)
自分もそうですが、高齢者はたいてい、歳をとって衰えてきたことを口にします。自分のことを川柳にしました。「目がかすみ 耳が遠くて 舌もつれ」「物忘れ 足腰痛い 気力なし」「この話 昨日したけど 今日もする」「ゆるんだか 怒って泣いて 頑固者」。これは高齢者の言い分なのかも知れません。衰えてきて、自分でも困ったもんだと思っているけど、愛すべき者として、受け入れてほしい、忘れないでほしいというものかも知れません。年寄りなんだからという言い分です。それぞれの年令もあるでしょうが…。
言い分といえば、神がいるなら、どうして、不幸があるのか、災害があるのか、難病があるのか、戦争があるのか…という、不条理についての人間の言い分あります。それに対して、神の言い分というものが述べられているのがマタイ福音書5~7章にあるイエス・キリストの山上の説教です。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。語順をかえれば、天の御国はその人のもの「だから」心の貧しい者は幸いだという言い分、教えです。この八福がすべてそうです。戒めについて(5:19)、和解について(5:23)、誓いについて(5:37)、完全について(5:48)、祈りについて(6:9)、宝について(6:25、34)、結論として、み言葉を聞くこと(7:24)、「だから」で綴られています。
◇「だから」…守り
今日お話ししたいところは、6:25の「だから」です。自分の宝を地上にではなく、天にたくわえなさい。虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできませんと言われて、「だから」とくるのです。「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか」「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか(6:25、27)。
主は鳥や花を見なさいと説教されます(6:26、28-30)。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」。 数学の幾何の証明などでつかう「∴」(ゆえに、それだから)は結論を述べます。心配し、思い煩って、神よ、どうしてなのですかという私たちの問いに対しての主イエス・キリストの結論はこれなんだということでしょう(6:31-34)。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」。
私たちは空の鳥、野の花を見ようではありませんか。また、それを養い、それを着飾っておられる神を心の目で見ようではありませんか。私はそれ以上に守られ、輝かせていただいているのだ、大丈夫と信じようではありませんか。そして、神の国を求め、天に宝を積んでいこうという生き方をしようではありませんか。
◇「だから」…赦し
野菜の種を蒔いたり、苗を植えたりして、畑をしていると、空の鳥、野の花のことはよくわかりますが、もうひとつ思い知らされることがあります。たとえば、春先、畑を鍬で掘り起こし、耕します。すると、冬眠していたカエルが出てきます。ちょっとごめん、あっちに行っててと言って、逃げるのを止めません。ミミズが出てくれば、ちょっとごめん、良い土にしてちょうだいと言って、また、土の中にもどします。ところが、ネキリ虫が出て来たら、ちょっとごめんと言って、容赦なく踏みつぶします。万事がそうです。ちょっとごめんと言いながら、カマキリは良いが、カメムシはだめ、チョウは良いけどアオムシはだめ…と言った具合で、実に人間の身勝手さを感じます。人が生きていること自体が罪なのではないかと思ったりします。人に対しても、好きな人は受け入れるけれど、嫌いな人は排除するし、神に対しても、自分にとって良いことがあれば感謝し、自分にとって都合の悪いことがあれば、神に文句を言います。何とも自己中心な者でしょうか。
この自己中心な私たち人類がその罪でイエス・キリストを虫けらのように十字架につけて殺してしまったのです。都合が悪いからと…。しかし、主は私たちの罪の罰を代わりに受けて、贖いとなり、とりなして、私たちの罪を赦し、救おうとされたのです。ここに救いの「だから」(ですから)があるのです。「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:14ー16)。
やがてやってくる死も、このお方が共におられるので、心配ない。やがてやって来る神の大審判も、罪の赦しの確信があるから、この大祭司がおられるから、心配ない。「だから」神の国とその義とをまず第一に求めていくのです。ルカ福音書ではこうあります(12:6-7)。「 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」。謙虚になって、思いましょう。「一羽のすずめに目を注ぎたもう…一羽のすずめさえ主は守りたもう」(新聖歌285)。