オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

空の鳥、野のゆりをごらん

2013-06-23 00:00:00 | 礼拝説教
2013年6月23日 伝道礼拝(マタイ6:25-34)岡田邦夫


 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34新共同訳)

 自分もそうですが、高齢者はたいてい、歳をとって衰えてきたことを口にします。自分のことを川柳にしました。「目がかすみ 耳が遠くて 舌もつれ」「物忘れ 足腰痛い 気力なし」「この話 昨日したけど 今日もする」「ゆるんだか 怒って泣いて 頑固者」。これは高齢者の言い分なのかも知れません。衰えてきて、自分でも困ったもんだと思っているけど、愛すべき者として、受け入れてほしい、忘れないでほしいというものかも知れません。年寄りなんだからという言い分です。それぞれの年令もあるでしょうが…。
 言い分といえば、神がいるなら、どうして、不幸があるのか、災害があるのか、難病があるのか、戦争があるのか…という、不条理についての人間の言い分あります。それに対して、神の言い分というものが述べられているのがマタイ福音書5~7章にあるイエス・キリストの山上の説教です。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。語順をかえれば、天の御国はその人のもの「だから」心の貧しい者は幸いだという言い分、教えです。この八福がすべてそうです。戒めについて(5:19)、和解について(5:23)、誓いについて(5:37)、完全について(5:48)、祈りについて(6:9)、宝について(6:25、34)、結論として、み言葉を聞くこと(7:24)、「だから」で綴られています。

◇「だから」…守り
 今日お話ししたいところは、6:25の「だから」です。自分の宝を地上にではなく、天にたくわえなさい。虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできませんと言われて、「だから」とくるのです。「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか」「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか(6:25、27)。
 主は鳥や花を見なさいと説教されます(6:26、28-30)。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」。  数学の幾何の証明などでつかう「∴」(ゆえに、それだから)は結論を述べます。心配し、思い煩って、神よ、どうしてなのですかという私たちの問いに対しての主イエス・キリストの結論はこれなんだということでしょう(6:31-34)。
 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」。
 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。
 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」。
 私たちは空の鳥、野の花を見ようではありませんか。また、それを養い、それを着飾っておられる神を心の目で見ようではありませんか。私はそれ以上に守られ、輝かせていただいているのだ、大丈夫と信じようではありませんか。そして、神の国を求め、天に宝を積んでいこうという生き方をしようではありませんか。

◇「だから」…赦し
 野菜の種を蒔いたり、苗を植えたりして、畑をしていると、空の鳥、野の花のことはよくわかりますが、もうひとつ思い知らされることがあります。たとえば、春先、畑を鍬で掘り起こし、耕します。すると、冬眠していたカエルが出てきます。ちょっとごめん、あっちに行っててと言って、逃げるのを止めません。ミミズが出てくれば、ちょっとごめん、良い土にしてちょうだいと言って、また、土の中にもどします。ところが、ネキリ虫が出て来たら、ちょっとごめんと言って、容赦なく踏みつぶします。万事がそうです。ちょっとごめんと言いながら、カマキリは良いが、カメムシはだめ、チョウは良いけどアオムシはだめ…と言った具合で、実に人間の身勝手さを感じます。人が生きていること自体が罪なのではないかと思ったりします。人に対しても、好きな人は受け入れるけれど、嫌いな人は排除するし、神に対しても、自分にとって良いことがあれば感謝し、自分にとって都合の悪いことがあれば、神に文句を言います。何とも自己中心な者でしょうか。
 この自己中心な私たち人類がその罪でイエス・キリストを虫けらのように十字架につけて殺してしまったのです。都合が悪いからと…。しかし、主は私たちの罪の罰を代わりに受けて、贖いとなり、とりなして、私たちの罪を赦し、救おうとされたのです。ここに救いの「だから」(ですから)があるのです。「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:14ー16)。
 やがてやってくる死も、このお方が共におられるので、心配ない。やがてやって来る神の大審判も、罪の赦しの確信があるから、この大祭司がおられるから、心配ない。「だから」神の国とその義とをまず第一に求めていくのです。ルカ福音書ではこうあります(12:6-7)。「 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」。謙虚になって、思いましょう。「一羽のすずめに目を注ぎたもう…一羽のすずめさえ主は守りたもう」(新聖歌285)。

降 誕

2013-06-16 00:00:00 | 礼拝説教
2013年6月16日 主日礼拝(ルカ1:26-38)岡田邦夫


 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」ルカ1:35

 何か、周囲が変だ、何かわからないがこそこそしてる。部屋に入ろうとドアを開けるとまっくら、電気のスイッチを入れて、明るくなった瞬間、「お誕生日、おめでとう」という声とと共にこそこそしていた連中が笑顔で現れる。テーブルの上にはバースデー・ケーキがあり、部屋は飾り付けがしてある。サプライズ!本人は涙をにじませて言う。「そうか、今日は自分の誕生日だったのか、みんな、ありがとう」。驚きというものは人生を豊かにするものです。
 そして、聖書における救いの物語というものは驚きに満ちているものです。羊飼いたちが野宿をして羊の夜番をしていると御使いが現れ、今日ダビデの町に救い主が生まれたと知らされ、急いでベツレヘムに行きます。マリヤとヨセフと飼い葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当て、「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた」のです(ルカ2:17-18)。

◇垂直線上に
 「主は聖霊によってやどり」、これが驚きです。ガリラヤのナザレという町にマリヤという処女がおり、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけでした。彼女がまだ結婚前だというのに、御使いガブリエルが神から遣わされて、彼女に現れ、こう告げます。「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。…聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」(ルカ31ー:32、35)。
 一方、ヨセフの方にも御使いは現れます。結婚前なのにマリヤが身重になったので、悩んでいた時、御使いが告げます。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:20-21)。
 普通に男女の間に生まれてくるのではなく、おとめに聖霊が臨み、聖霊によって神の御子が宿られ、お生まれになったのです。上から降りて来られたので、降誕といいます。後のも先のもないサプライズの出来事です。しかし、いきなり起こったことではなく、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と預言されていたことでした(マタイ1:23=イザヤ7:14)。神が罪深く、滅びに向かっている私たちを救うために、間接に御使いを遣わすのではなく、直接に御子を遣わされたのです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです」(1ヨハネ4:9)。

◇水平線上に
 主は肉体としてはマリヤの子として、系図としてはダビデの子孫・ヨセフの子として、お生まれになりました。月満ちるまで、マリヤの胎内におり、普通にヨセフの子として、ガリラヤのナザレで育ち、30才にして公生涯に入られました。しかも、家畜小屋で誕生され、飼い葉おけに寝かされ、大工の子として貧しい中に生き、辺境の地で時を過ごされました。
 公生涯に入られても、金持ちになられたのでもなく、立派な地位や名誉を得られたのでもなく、むしろ、貧しい者、病める者、虐げられている者を助け、救い、共に生きられたのです。と言っても、慈善家でもなく、革命家でもなく、ただ、義の人、愛の人として生きられたのです。ヨセフとマリヤの息子、イエスという名の人として、ナザレのイエスとして、歴史の水平線上に足跡を残されたのです。ですから、こう言えるのです。
 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:15 ー16)。
 「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです(ヘブル2:10-11)。

◇十字線上に
 処女降誕など非科学的だから信じられないと、これをやり玉に挙げてキリスト教を批判する人がいます。私は逆に問いたいです。処女降誕はなかったのだということを科学的に証明できますか、あるいは証明できたのですかと。常識的には「なかった」ということを証明するのはきわめて大変なことです。
 私たちには福音書という文書資料があり、「主は聖霊によってやどり、おとめマリヤより生まれ」という2000年にわたる伝承があるのです。パウロもこう記しています。
 「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」(ローマ1:2-4)。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」はこれまで述べたとおり水平線上のことです。後半は垂直線上のことです。聖霊が臨まれたことです。「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」。聖霊による処女降誕だったからこそ、イエス・キリストが死なれた時に復活できたのだと言えるのです。降誕と復活は連動していたのです。
 悔い改めて福音を信じる私たちも罪を赦されて、イエス・キリストの復活にあずかり、朽ちるからだが朽ちないからだに、主と同じ栄光のからだによみがえるのです。実にサプライズではないでしょうか。驚くばかりの恵みなりきです。

イエス・キリスト

2013-06-09 00:00:00 | 礼拝説教
2013年6月9日 主日礼拝(マタイ16:13-17)岡田邦夫・みのお泉教会にて



 私、気に入っている関西弁があります。それが良い、それでも良いという時に使う「ええねん」という言葉、その響きです。三田の教会のその辺り、6月初めには稲が植わり、水の張られた田んぼからいっせいにかえるの合唱が聞こえてきて、つばめが飛び交い、鷺が舞い降りてきます。黒豆の種蒔きをするため、畑を耕していると、すかさずもずが寄ってきます。夜、近くの武庫川に行くと源氏ボタルが光舞っているのが見られます。この季節、これがええねん…。

◇イエス・キリスト
 さらに、主に贖われた聖徒の交わりも良いし、贖い主・イエス・キリストとの交わりが、またええねん。ほんまにええねん。次の八木重吉の三編の詩のように、キリストを思い、名を呼ぶだけで、胸が熱くなってきます(詩人・八木重吉のこころ「わがよろこびの頌歌はきえず」)。

  信ずること
  キリストの名を呼ぶこと
  人をゆるし 出来るかぎり愛すること
  それを私の一番よい仕事としたい
     基督になぜぐんぐん惹かれるのか
     基督自身の気持が貫けているからだ
  きりすとを おもいたい
  いっぽんの木のように
  おもいたい
  ながれのようにおもいたい


 どんな称号よりも、最高に素晴らしい称号が油そそがれた者=キリストです。私たちを罪と死と滅びから救うために、神に立てられたキリスト、王の中の王、祭司の中の祭司、預言者の中の預言者として油そそがれたキリスト、十字架にかかり、その立てられたみこころを全うし、復活し、神の右に上げられたキリスト、それは最高の称号、最高の賛辞です。
 イエスが弟子に「あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねると、ペテロが「あなたこそキリストです。」と答えました(マルコ8:29)。それから、みこころをなし遂げるべく、受難に向かわれました。イエスが聞きたかった信仰告白です。今もそうです。
 イエス、あなたの名はすばらしい(プレイズ&ワーシップ108)。私たちと同じ歴史の上を歩まれた、ナザレのイエスに思いを馳せると、聖歌総合版 198番の「イエスは神であるのに」にような心打つ歌となるでしょう。
 1.イエスは神であるのに/人の子として生まれ/若き日をば大工で過ごしました/このけだかい救い主が/今も生きてわれらを救うのです
 2.イエスのなめた人生/人が思う以上の/貧と汗と涙のつづきでした/このけだかい救い主が/今も生きてわれらを救うのです…

◇神のひとり子
 それにしても、不思議です。「イエスは神であるのに/人の子として生まれ」。「人にして神、神にして人」ということです(a)。それは大事なことなのに、私たちの小さな頭では理解できないことです。けれど、素直な心なら信じることができる不思議なことです。頭で考えると、神が人間になるはずがないので、神が仮に人の姿を取って現れ、帰っていったに違いないとする異端に走ります(b)。また、頭の中で歴史上の人間イエスの実像を抽出しようという批評学も現れます(c)。しかし、そうすると理性の中におさまるイエス像しか浮かんでこないジレンマに陥ります。…a.カルケドン信条b.仮現説、c.史的イエスの探求。パウロはこう言っています。「わたしの主キリスト・イエスを知る絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」(ピリピ3:8)。信仰による復活体験を通して、主キリスト・イエスを知るのです。そこに理性を無視しないが、理性を越えたキリスト・イエスを知る絶大な価値を得るのです。
 神が人とならたのは、神がご自身を現されたことでもあります。それを知ることこそ、絶大な価値なのです。マタイ福音書では「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しています(16:16)。ヨハネははっきり示します。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)。人間の言葉、人間の知性を越えた、神のことば、神の知性があって、世界は創造されました。筆舌しがたいとはまさに神の天地創造のことです。神が人となられたということの真相は神のことばが肉体となられたということなのです。「言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(1:14)。そして、そのめぐみとまこととは「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。これこそ、絶大な価値であり、ほんまにええねんなのです。
 ※参考:初代教会の信仰の証詞のシンボルはさかなでした。「ΙΧΘΥΣ」(イクスース=魚)はギリシア語でΙησουs(イエス)、Χριστοs(キリスト)、Θεου(神の)、Υιοs(息子)、Σοτερ(救い主)のという言葉

◇我らの主
 このような絶大な価値を知った私は、私たちはイエス・キリスト、神のひとり子は主です、すべてですと信仰の応答をします。最も短い信仰告白は「イエスは主である」です(1コリント12:3)。私のすべてです。私たちのすべてです。絶対的所有はあなたのものです。絶対的支配はあなたのものです。絶対的王権はあなたのものです。絶対的神性はあなたのものですと全幅の信頼を寄せるのです。たとえ立派でなくても、たとえ業績をあげなくても、たとえ足りない者であっても、そのキリスト者の信仰の姿こそ、神にとって、ええねん。ほんまにええねん。

受難のイエス

2013-06-06 00:00:00 | 礼拝説教
2013年6月30日 主日礼拝(使徒2:22-24)岡田邦夫


 「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」使徒2:23ー24

 歴史に名を残した対照的な二人の人物、しかも、人類の歴史が終わるまで、必ず名が残るであろう人物の話です。この二人が出会ったのはわずかな時間のことでしたが、それは決定的な事件となりました。一人は栄光の座にいたのですが、後に世で汚名を帰せられ、一人は汚名を帰せられていたのですが、後の世で栄光の座に着いたのです。世界中のクリスチャンが告白朗唱している「主は…ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け十字架につけられ死んで葬られよみにくだり…」がそれです。

 その前に歴史を変えた、有名な決断の話をしましょう。ローマ帝国は紀元前2世紀後半からの100年間というものは内乱につぐ内乱で混乱状態が続いていました。フランスの反乱を静めたカエサルが帰る途中、ルビコン川に差し掛かったときのことです。ローマに入る際には軍隊の武装を解かなければならない決まり。このまま軍を進めてローマを制圧すれば、大きな権力を手にすることができ、混乱した政治を立て直せるはず。その時、武装したまま進軍を決意。この時、カエサルが言った言葉が「賽(さい)は投げられた」でした。彼は暗殺されるものの、すれから(紀元前27年)の約200年間は
安定した時代が続く、ローマ帝国全盛期となりました。その時期で、皇帝ティベリウスの時にユダヤ属州の総督を務めたのがポンテオ・ピラトでした。
 そのピラトのもとにユダヤ人の祭司長、長老、律法学者たち(全議会)が一丸となって、ナザレのイエスが神を冒涜した罪で死刑にしてくれと訴えてきました(マタイ27:1-、マルコ15:1-、ルカ22:66-、ヨハネ18:28-)。尋問して、こう言いました。「この人には何の罪も見つからない」(ルカ23:4、14、ヨハネ19:6)。しかし、ユダヤ当局に先導されて、群衆が「十字架につけろ。」と叫び続けます(マタイ27:22-23他)。「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した」のです(マルコ15:15)。「そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』」(マタイ27:24)。

 ローマ法によれば死罪には当たらないから、不当な裁判、しかし、ここでそれをしなければ暴動が起こり、皇帝の耳に入れば、自分の首が危ない、また帝国の安定も崩れるかも知れない。「賽(さい)は投げられた」。罪のない方を十字架の死刑に結審したのです。これが「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け十字架につけられ」たという史実です。ペテロは最初の説教でこう言いました。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たち(ピラトのこと)の手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです(使徒2:23 新共同訳)。こうして、イエスは国家権力に従われたわけですが、ほんとうは神が国家権力を用いたのです。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」のです(イザヤ53:10)。むち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、つばをかけられ、十字架に釘付けにされ、さらしもにされ、ののしられ、着物をくじびきにされ…。当時の人々がそうしたのですが、それは神が与えたものであり、主のみこころでした。私たちの身代わりに罪の罰として受けられた苦しみでした。それは死の苦しみという苦い杯でしたが、私たちを罪と死から救うために飲み干されたのです。この杯を飲む決断をされたのはゲッセマネでの祈りの時でした。その時、人類救済のための賽(さい)は投げられていたです(マタイ26:42他、ヨハネ12:27)。
 人類の罪をすべて背負ったために神に見捨てられたのです。それは究極の苦しみで、断末魔の叫びをあげたのです。ゴルゴダの丘でのこと。「エリ、エリ、サバクタニ」(「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。それはイエスが人間の代表として罪責を負って、のろわれ、神の義が全うされるためでした。また、人間の代理として、罪責を赦すためにあがないとなられ、神の愛が全うされるためでした。義と愛が交差したのが十字架でした。
 そして「死んで葬られ」ました。永遠で不変の方が人として人生を終結し、生命を消滅されたのです。そこで終わりではなく「よみにくだられた」のです。よみは神との断絶された苦悩の場所でありましょう。神に捨てられた者としてそこまで行かれたのでしょう。そうして、人間の代理として受けた神の審判をよみで確認されたのでしょう。まだ先があります。「あなたは、私のたましいをよみに捨てておかず、…墓の穴をお見せになりません」です(詩篇16:10)。ペテロはこれを引用して言います。「そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』」と(使徒2:31新共同訳)。そうして、主がよみがえられたからこそ、私たちは救われるのです。

 ピラトには言い分があるでしょう。政局安定のためにやむなくしたことだと。結果的には罪のない神の御子を殺害する決定をしてしまったのです。しかし、ピラトは私かも知れない、十字架につけろと叫んだユダヤ人、あざけり呪った人々は私たちかも知れません。「私たち罪人のもとで」苦しみを受けと言い換えた方がいいくらいでしょう。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」。また、イエスの受難の道は罪深い私たちが通らなければならない、裁きの苦悩のドラマなのに違いありません。むち打たれるのは本来なら私なのです。十字架の激痛も呪いの苦悩も、見捨てられる絶望の叫びも私が受ける分だったのです。私の杯だったのです。しかし、イエス・キリストが代わりに飲み干されたのです。
 私たちはただただ感謝して、信じるしかありません。私たちも十字架を前にして、人生を賭けるのです。賽を投じるのです。また、信じた者は自己犠牲を示しなさったイエス・キリストの背を見て、自分の十字架を負って従って行くのです。そういう生き方に人生を賭けるのです。賽を投じるのです。結果は栄光に違いありません。

父なる神

2013-06-02 00:00:00 | 礼拝説教
2013年6月2日 主日礼拝(1コリント8:6、エペソ4:6)岡田邦夫


 「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。」「また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」1コリント8:6、エペソ4:6

◇父である神を信じます
 私の知人の話です。父親が第二次大戦で戦死され、戦後に母親が再婚されたのですが、新しい父親とは折り合いが悪かったようです。そのような状態で、たまたま、伝道大会のチラシをもらって、教会に行きましたら、神は「天のお父さま」だとメッセージを聞き、飛びつきました。すぐ、父なる神の懐に飛び込み、受洗に導かれました。彼は祈る時に、「天のお父さま」と呼ぶだけでも、魂の心地がよかったようです。
 兵庫県御影師範の英語教師をしていました八木重吉というクリスチャンが結核の病の中で、「貧しき信徒」という二作目の詩集を編みました。しかし、39才で召天、出版されたのは翌年の昭和3年でした。その中に父なる神を呼ぶ詩があります。
 てんにいます
 おんちちうえをよびて
 おんちちうえさま
 おんちちうえさまととなえまつる
 いずるいきによび
 入りきたるいきによびたてまつる
 われはみなをよぶばかりのものにてあり
信仰詩集「貧しき信徒」八木重吉より
 私たちが描く父親像は時代で変わります。かつては頑固親父、今はやさしいパパ。それが父なる神への私たちのイメージが影響されるかも知れませんが、それを越えた方であることを覚えましょう。
 御子イエスも聖霊も、源は父なる神です。「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」「父はもうひとりの助け主(聖霊)をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ1:14、14:16)。さらに、「天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る」という源である父なのです(エペソ3:15口語訳)。
 山上の教えに出てきます、隠れた所におられる父ですが、また、父ちゃん「アバ、父」と呼べるような身近におられる父なのです(マタイ6:4、6、18、ローマ8:15)。
 厳格な父で、罪に対しては怒られ、排斥されますが、あわれみ豊かな父で、イエス・キリストの贖いにより、赦され、救われ、引き寄せてくださるのです。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし…、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(エペソ2:3-6)。放蕩息子を赦し迎えた父のたとえはそれをよく物語っています。
 わたしたちは父なる神の子にしていただいたのですから、養子のような者、父の財産の相続権が与えられているのです。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:15-17)。

◇天地の造り主、全能の父である神を信じます。
 神が現れ、「わたしは全能の神である」と宣言され、子のないアブラハムとサラの間にイサクが与えられました(創世記17:1)。「アブラハムは無いものを有るもののようにお呼びになる方」、天地の造り主にして、全能の父なる神を信じたのです。光あれと言葉を発せられると、光があらわれたように、無から有を呼び出され、天地を造られた方は、わたしたちに神の約束の言葉を発せられると、信じる者を通して、救いの業が行われのです。
 出エジプト、カナン入国、アッシリア撃退、エルサレム帰還と旧約の救いの歴史がそれを立派に証詞しています。新約においてはさらに優れたイエス・キリストの贖いによる救いの出来事が起こったのです。先ほどのパウロの言葉がそれです。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし…、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(エペソ2:3-6)。
 全能と言いましても、死ぬこと、罪を犯すこと、自らを変えることはできないのではという議論もあります。それらは能力の欠如からくるものですから、人の勝手な想像でありましょう。しかし、神の御姿であられた方が、そのあり方を変えて、わたしたちと同じ人となられ、十字架にいたるまで、僕として従われ、わたしたちの身代わりとなって、罪人のひとりに数えられ、死なれたのです。そして、よみがえり、神の右に上げられました。上記の論理からはずれてしまいます。それは人を救うための自己犠牲の愛なのです。愛における全能なのです。神に反逆する罪人を救うという、最も不可能を可能とする全能なのです。再び、信仰詩集「神を呼ぼう」八木重吉より、二つの詩を紹介しましょう。
 もったいなし
 おんちちうえ ととのうるばかりに
 ちからなく わざなきもの
 たんたんとして いちじょうのみちをみる
   みんなもよびな
 あかんぼうはなぜにあんなになくんだろう
あん、あん、あん、あん
あん、あん、あん、あん
うるせいな
うるさかないよ
よんでいるんだよ
かみさまをよんでいるんだよ
みんなもよびな
かみさまをよびな
あんなにしつこくよびな