オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

特別なみどりごの誕生

2018-04-29 00:00:00 | 礼拝説教
2018年4月29日(日)主日礼拝(イザヤ書9:1~7)岡田邦夫


「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ9:6)

三田市では毎年、4月初め「三田さくら回廊ウオーク」といって、武庫川沿いの植えられた桜を見ながら一緒に歩くという催しがあります。教会に割合近いところは上流で、流れは穏やかで、6月になると蛍が見られるほどです。しかし、武庫川の下流に行くと昔は氾濫することも多かったので、「暴れ川」「摂津の人取り川」の異名をもった川でした。しかし、護岸工事が進んで、今は洪水がなくなりました。このようにその地に住む人々にとって、治水というのは死活問題でした。
治水は水を治めると書きます。統治も政治も自治もさんずいの「治める」の字を使いまから、人の社会でも河と同じように治めていくという事なのでしょう。そして、治安、治世ということでしょう。また、みなさんは、職場や家庭や、そして、自分自身の魂が平和に治まることを願っておられるでしょう。

◇神が治めるという約束
 今日、お話しするところはクリスマスでメッセージされるところです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」との預言です(9:6)。ひとりのみどりごが治めるという神の約束です。
 話をさかのぼってみましょう。イスラエルの民はヨシュアの時代にカナンに住むようになったのですが、ヨシュア亡き後、国を治める人がおらず、外国から攻め込まれることがあって、そういう時に国を治めるカリスマ的リーダーが現れ、国は危機を脱出します。しばらくすると民は不信仰になり、リーダー(士師)によって信仰回復、治安の回復にするという事が繰り返され、国は安定していませんでした。そして、サムエルの息子の時代を迎えた時、何と民衆は王国制度の弊害も承知で「私たちをさばく(=治める)王を与えてください」とサムエルに訴え出ます。彼が祈ると主は「彼らのいうことを聞き、ひとりの王を立てよ」と答えられたのです(1サムエル8:22)。
 そこで神に選ばれた王がサウル、次に代わって選ばれた王がダビデ、そのダビデ王に主は約束します。一方的な永久の恵みの契約なのです、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(2サムエル7:16)
 それにもかかわらず、歴代の王が罪を犯したら、神の懲らしめを受けるが、王朝への恵みは失われないとの約束です。事実、王も民も主なる神に従わず、罪を犯したので、国は破れ、王も民もバビロンに捕囚されていきます。それは神の懲らしめ、その期間が終われば、神はペルシャの王を用いて、祖国に帰らせ、王国を再建させるのです。世界から見れば吹けば飛ぶような小民族、神から見れば罪深い背信の民、滅んでしまっても、当然なのですが、神の恵みの約束は変わらず、奇跡的にダビデ王朝は続いていくのです。
 預言者イザヤはバビロン捕囚前にこれらのことを克明に預言しました。そして、その後に起こることも預言しています。救い主・イエス・キリストの現われの預言です。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9:2=ルカ1:79)。真正のダビデの子孫として、ひとりのみどりとなって生まれ、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、それはとこしえまでなのだと告げています(9:6-7)。

◇みどりごが治めるという不思議
 この「みどりご」を漢字でどう書くでしょう。「みどり」は貝を二並べて書き、その下に女を書きます。「ご」は児童の児です。「嬰児」です。えいじとも読みます。生まれて間もない子で3歳ぐらいまでの子供をさします。実に母親の世話を必要とする弱い存在です。「三つ子の魂、百までも」とあるように、ヨセフとマリヤの育児で決定づけられて、育たれたことを意味します。男の子として、ユダヤ人として、よくある人として生まれたのです。しかも、祭司や預言者のような宗教的環境ではなく、貧しい大工の子として、ナザレの田舎で育たれたのです。それは治める者が治められる者たちの全てをわかるためでした。愛は相手と同じところに立つものです。
「わたしたちのために生れ」たのです。私たちの神への反逆、大いなる罪の身代わりとなって、それを肩に背負い、十字架上で、苦しみを全うして、身代わりに死なれたのです。兄弟と呼ばれるためでした。ヘブル2:11に記されています。

◇キリストが治めての平和
主はこの世では肩書をお持ちではありませんでした。しかし、神は復活、昇天されたキリストに実のある肩書を与えられました。その主権はその肩にあり、その名は次のように呼ばれる。
『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』
これを上と下とを分けてつないだら、私にはわかるような気がしました。救い主は不思議な方であり、無限の力ある方であり、永遠にいます方であり真の平和をもたらす方。そして、助言者として、神として、父として、王(君)として、神の国を治められる方なのです。色んな言葉が出てきましたが、イエス・キリストこそ、主権者なのです。人類の敵である死に勝たれた主権者なのです。私たちは自分の肩に背負っている重荷を主権者にゆだねますと平和が来ます。もし、神よりも自分が王になっていていると気づいたら、自己中心を捨てて、イエス・キリストを私の人生の王としましょう。するとすがすがしい平和が来ます。人との間にも平和が来ます。神の国は主権者がおられるので、全き平和があるのです。

ある時、私が牧師をしていても追いかけられる夢をみるけれど、主は平安を与えてくださると説教しましたら、礼拝が終わってから、ひとりの年配の女性から、先生は追いかけられる夢をみるなどというのは修業が足りないのだと指摘されました。なんだか、悔しくなって、寝る前に祈りました。どうか、天国の夢をみさせてください…と。するとそこは天国でした。真っ白に輝いていました。顔ははっきり見えないのですが、真っ白い衣を着たイエス・キリストが立っておられました。その方を見た時に心は今まで経験したことのない平安が訪れました。心はこの上ないほど満たされていました。ああ、天国だ、そう思った瞬間、目が覚め、現実に引き戻されました。
これは夢でしか過ぎないのですが、神のメッセージはそれ以上のはるかに素晴らしいことを告げているのです。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく」なのです。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」御子イエス・キリストが私たちに与えられているのだと信仰の手を広げましょう。信じましょう。

アイ・ハブ・ア・ドリーム

2018-04-22 06:17:31 | 礼拝説教
2018年4月22日(日)主日礼拝(ピリピ2:12~16)岡田邦夫


「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)

「アイ・ハブ・ア・ドリーム(私には夢がある)」は職と自由を求めるワシントン大行進において、キング牧師がリンカーン記念館で人種平等と差別の終りを呼びかけた演説です(1963年8/28)。私は四国におりました時、それをもじって、次のような夢を週報に載せました(1979年12/30)。まだ、未熟な私、牧師が田舎の小さな教会で苦闘しながら、牧会していたころのことでした。
♰私は80年代に夢を描いています。
 クリスチャン・ホームのお父さん、お母さん、子どもたち、また、おじいさん、おばあさんが家族そろって、壬生川教会の礼拝に、何組も、何十組もが集っている、うるわしい日々を!
♰私は80年代に夢を描いています。
 子供から若者、壮年、お年寄りにいたるまで、種々な年齢層の人たちが壬生川教会に来られて、ここちよく、ハンデイ」をもつ人たちと共に喜びを分かち合う姿を!
♰私は80年代に夢を描いています。
 主のため、教会のために命をかけて献身する恵まれた信徒たちが、熱心に祈り、教会のために一心に奉仕し、壬生川教会が力強く前進している日々を!
♰私は80年代に夢を描いています。
 主をたたえる賛美にあふれ、器楽をもって、声をもって、壬生川教会の会堂に天使の声のように響きわたる姿を!
♰私は80年代に夢を描いています。
 集会ごとに神のみ言葉が生きて、力強く語られ、聖礼典が聖霊の感動のうちに行われ、集まるごとに、神のみ業があらわれる充実した日々を!

 この週報を見ても、誰もそれが絵にかいた餅のように思っていたでしょう。しかし、それから39年がたった今、教会は違いますが、四泉教会において、現実味を帯びています。夢を「願い」にさせ、「実現」に至らせたのは神であって、人ではないと聖書が告げています。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)
 教会というところは、クリスチャンというのは「夢見る者」なのです。初めに教会が出来た時にこう告げられているからです。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2:17)
 創世記にヤコブの11番目の息子、ヨセフが「夢見る人」でした。「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」という夢を語るのです(37:9)。これを聞いた兄たちは激怒します。父の寵愛を受けているから、なおさら。兄弟でたくらみ、野で殺そうとするが長男が待ったをかけ、通りかかった商人に売ってしまう。エジプトに売られ、奴隷となったヨセフ、良い仕事もするが事件に巻き込まれ、牢に入れられる。そこに入ってきた囚人の夢をヨセフが解いたことがきっかけで、エジプトの王の夢解きをし、一躍総理大臣になる。そして、飢饉対策をして、エジプトを救済するのである。穀物を買いに来た兄弟をヨセフが発見。ヤコブ一家が再開するのだがなにしろ、エジプトではナンバー2、一同ひれ伏すのです。「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」が現実になった。ヨセフは仕返しはしない。神がヤコブの家族を救うために、私を先にこのちに遣わしたのだと信仰の告白、証しをしたのです。
 四国から豊中に転任になった時に神のみこころは何なのか祈っていると、「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若木、その枝は、かきねを越えるであろう」というみ言葉が響いてきました(創世記49:22)。今、垣根を越えて、四つの泉教会になっています。それは成功物語ではなく、神のみむね実現物語だと私は思います。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」の通り、すべては神のなさったこと、私たちはその目撃者、証人なのです。

 しかし、そんなに調子よくはいかないのではというでしょう。祈り願っても、その通りにはならないことも多いのが現実でしょう。しかし、このみ言葉はご利益ではないし、人の思ったこととは違う実現を見ることもあります。その方が豊かな恵みであることがあります。ニューヨーク大学リハビリテーション病院の壁に書かれた「ある患者の詩」という詩を見ますとそれが言えます。作者は不明ですが、心打つもがあります。

「苦難にある者たちの告白」-ある患者の詩-

大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。

クリスチャンにとって「アイ・ハブ・ア・ドリーム(私には夢がある)」はこのような、逆説の恵みなのではないでしょうか。

切り株が残るように

2018-04-15 06:13:35 | 礼拝説教
2018年4月15日(日)主日礼拝(イザヤ書6:6~13)岡田邦夫


「そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」イザヤ書6:13

 先週、三田泉教会でイザヤ書からの話の中で、ヤコブがみ使いと相撲をとった話をしました。民族としてイスラエルとなった由来の出来事です。イスラエルという言葉の意味は「神と争う」というような意味ですが、由来からですと、神と組み合う、神と向かい合うという「相撲」のイメージです。その時、ヤコブは「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」と言っています。預言者イザヤもこの6章で「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」と言っています(6:1)。イザヤも神と向き合い、真っ向、取り組んだのです。
 ところで、日本の相撲の話ですが、行司が土俵の両力士に「はっけよい のこった」と声をかけています。その言葉はどんな意味なのでしょうか?「はっけよい」の由来は諸説ありますが、多いのは「発気揚々が詰まった言葉で、力士に気を吐けと喝を入れている」と解説されています。立ち合いで両力士が当たってからの行司の最初の掛け声が「はっけよい」で、力士が組み合って動かなくなった時も「はっけよい」と声をかけます。それに対して「のこった」は、その言葉通り「まだ土俵に残っている」という意味で、押されている力士を応援する掛け声です。ですから、両力士が動き回っている時に行司が掛ける言葉は「はっけよい」ではなく、「のこった、のこった」だけとなります。
 イザヤが直面したのは強大なアッシリヤ帝国の軍隊が北からやってきて、次々に小さな国を打ち破り、同胞の北イスラエル国も破れ果てていました。残されたユダ王国は圧倒的な力に対応できるはずもなく、滅亡か!?という危機の時でありました。ユダの民は生き残れるのかという問題でした。解説者や占い師のように、一歩退いてものをいうのではなく、イザヤは預言者として、その時代の土俵に上がり、取り組んだのです。そこで、別の意味で、神の「残った、残った」の声をきたのです。正確に言うと「残りの者」のメッセージをいただいたのです。

◇残るもの…切り株
 テレビで野生動物の生態の番組が良くあります。環境に適応すること、食物を確保すること、敵から身を守ること、縄張りや子孫繁栄のため戦いなど、いかに生き延びるか、命あるものの戦いが映し出されます。人も生き物、同じです。いかに生き延びるかの戦いがあります。社会の中で生き残りをかけた戦いがあります。教会もこの時代の中で、生き残りをかけた戦いがあります。今日、イザヤの言葉を通して、私たちは生き残りの希望を得たいと思います。
 ユダ王国でも信仰的なウジヤ王に信頼していたのですが、亡くなってしまって(BC742年)、イザヤはかなりショックで、神殿で神のみ前に出たのです(6:1)。必死に祈ったからでしょうか、翼をもったみ使いセラフィムが現れ、賛美します(6:5)。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」敷居の土台が動き、神殿は煙でいっぱい。神の顕現です。彼は心底、汚れた者だと罪を告白しますときよめのお言葉をいただきます。そして、神の任命を受けます(6:7)。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」
「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
そして、「行って、この民に言え。」とメッセージを託されます(6:9-13)。心かたくなな民で神の言葉を聞こうとしないけれども、それでも語りなさい、というような言葉です。そして、預言の言葉が告げられたのです。
「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」
やがて現れるバビロン帝国軍を主が遣わし、民は捕囚されていき、エルサレムの町は荒れ果てる。ふるわれて十分の一が残るが、それも切り倒されると言うのです。もはや生き残れないのです。しかし、その後に救いの言葉が告げられています。神に背を向け、散々罪を犯してきたのですから、滅び去って当然でしょうが、神のあわれみで残されるのです。「切り株」が残されるのです。株は残って命があるから、そこから新しい芽が出てくるのです。

◇残るもの…聖なるすえ(裔)
 イスラエルは振るわれて、十分の一が残り、それも振るわれ、ついに切り株になる。その切り株とは最後まで神に忠実な者たちのこと、「聖なるすえ(裔)」です。その切り株から新しい芽を出すのが救い主・イエス・キリストなのです(11:1)。「エッサイ(ダビデの父)の根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
 春になると桜前線が北上して、日本全国一斉に「桜」が咲きます。その桜のほとんどがソメイヨシノだといいます。二種の桜を人が交配させてできた一本の木でした。たいへん美しい花を咲かすのでした。交配させてできたものなので、種では増やせませんが、接ぎ木で増やして、全国に植えていったというわけです。最初は一本の木でしたが、その枝を切って、他の桜の木に接ぎ木するように、私たちの古い人が切られ、イエス・キリストも十字架で切られて、接ぎ木されると、新しい人になるのです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなるのです(2コリント5:17)。そのようにイエス・キリストを信じた私たちは聖なるすえなのです。「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」(ローマ11:5)というように一方的な神の恵みなのです。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」とあったように、十字架の祭壇でなされた贖いが私たちにおよんで「聖なるすえ」とさせていただいたのです。
 イエス・キリストが接ぎ木されているなら、すなわち、キリスト・イエスにあるなら、キリスト・イエスの栄光、神の栄光という聖なる花を咲かすのです。神は聖なるすえを増やし、この聖なる花を世界中に咲かせたいと願っておられます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と訴えています。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と答えていきましょう。復興支援ソング「花は咲く」(作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子)の歌詞、一節後半にこうあります。“花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に 花は 花は 花は咲く 私は何を残しただろう”これをキリスト者として、私たちは信仰復興ソングとして歌いたいです。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(9:7)と信じて…。

雪のごとく白くならん

2018-04-08 00:00:00 | 礼拝説教
2018年4月8日(日)主日礼拝(イザヤ書1:13~20)岡田邦夫


「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。」イザヤ書1:18~19

 今日から、イザヤ書の愛読箇所からメッセージすることになりました。イザヤはBC770頃生まれた預言者で、女性預言者の妻と子どもが二人いたようです。当時、小国ユダは巨大なアッシリヤ帝国に滅ぼされそうな危機にありました。さらに、後になるとそのアッシリヤをバビロン帝国が倒し、バビロンを、ペルシャ帝国が倒すという大きく、世界が動いていく時代を迎えようとしている時でした。イザヤはこのような危機の時代と向き合わなければなりませんでした。そういう状況で、彼が真に向き合ったのは歴史を超越した聖なる神でした。そこで啓示を受けて、大いなる預言が語りだされたのです。ちなみに聖書全体は66書、イザヤ書は66章なので、イザヤ書は聖書の縮図だとさえ、評されています。単なる数合わせだけでなく、内容的にそう言えるでしょう。

◇はじめに関係があった。
イザヤ書の書き出しが壮大です。「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ」(1:2)。この壮大さは前述のように、イザヤが壮大な神に出合っているからです。その顕著なものが6章の「神を見た」という経験です。
ところで、イスラエルという名前の由来が創世記に記されています。ヤコブが家族を引き連れて、メソポタミアからの帰る途中、兄エサウに再開することになりました。復讐されることを恐れ、ヤボクの渡しで祈っていた時、天使が現れ、格闘をしたのです。その時、主は「もうヤコブとは呼ばない。イスラエルだ」と言われ、祝福されました。民族の名となります (32:28)。イスラエルのヘブル語の意味は「神が支配する」「神と争う」「神が勝つ」だと言われています。神と組み合った、正面から向き合った、対峙したと解釈するのがいいと思います。なぜなら、こう記されているからです(32:30)。「そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。『私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。』という意味である」。神の民とは主なる神と向き合って生きる者たちなのです。
対峙という言葉を使いましたが、相対するの「対」に、山辺に寺と組み合わせた「峙」(ジ)と書きます。訓読みでは「そばだつ」。山がじっと動かずに待っているようにそびえていることです。「対峙」は山などが、向かい合ってそびえること、対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいることを意味します。私たちは人間関係で、対峙することは避けたいものですし、適当な距離感をもって付き合いたいものです。人同士が対峙して、信頼関係を深めるのは、互いに敬意や真実や愛が求められるでしょう。
しかし、神が私たち(私)に対峙するようにと求めておられるのです。顔と顔とを合わせて神を見るようにです。それはお母さんが赤ちゃんの顔を見つめ、赤ちゃんもお母さんの顔を見つめる。そういうイメージでしょうか。イエスが言われたように、神のみ前には悔い改めて幼子のようになることです(マタイ18:3)。「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」と、わたしとあなた、一人称と二人称の向き合い方をしてくださるのです(43:1)。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という愛の対峙をしてくださるのです(43:4)。放蕩息子はあるがままの姿で帰っていくと、父は待っていて、走り寄り、(顔と顔を合わせてから)抱きしめました(ルカ15:20)。

◇まことの関係になった。
 イザヤが聖なる神と向き合った時に、汚れた者であることを示されましたが、主によってきよめられました。主は愛する民に向って、背信の罪を指摘します。「『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない』。ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った」(1:3-4)。
 人は関係の中に生活をしています。二つの関係性があります。「わたしとあなた」という人格的な関係、「わたしとそれ」という、利害関係や単なる雇用関係、便宜上の関係などの非人格的な関係があります。ユダの民が主なる神を「それ」にしてしまっているのです。罪を犯しても、形だけのささげ物で赦されると思っているのです。「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日――会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない」(1:13)。
 ですから、「わたしとあなた」という人格関係を取り戻すために、悔い改めを迫ります。「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ」(1:16-17)。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられるのです(1:18)。これこそが、対峙しようではないかということです。
 主と対峙するのはしんどいことですし、悔い改めるのには勇気がいります。しかし、その先にあるのは並外れて素晴らしい福音があるのです。主の御口が語りだすのです。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」(1:18-19)。イエス・キリストの十字架の血によってきよめられるのです。緋は二度染めの赤です。罪がこの身にすっかり染み付いてしまっていても、純白にしてくださるのです。命の洗濯などという言葉がありますが、イエス・キリストの命による洗濯で、洗い落とせないものはないのです。この神の言葉を信じましょう。
 研修会に招かれて、札幌に行ったことがあります。その時は何十年ぶりかの大雪で、道路は両側に雪かきされ、その雪で道は半分の幅になっていました。それが泥で汚れているので、きれいとは言えませんでした。しかし、研修後、スキーのジャンプ場に連れて行ってくれました。ジャンプ台の上の方まで行き、下の方をみると真っ白な雪景色。こんなにも白いのかと感心し、感激しました。その白い輝きで目が痛くなりました。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。イエス・キリストはあなたの魂をまばゆいばかりの雪のように白くしてくださるのです。今、幼子のように素直になって、イエス・キリストの十字架の血潮を信じましょう。
 そして、「わたしとあなた」という関係性を親密にしていただき、「イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」との生ける御声を聞きましょう。

復活の神秘を告げる

2018-04-01 00:00:00 | 礼拝説教
2018年4月1日(日)イースター礼拝(1コリント15:35~49)岡田邦夫
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。…終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」1コリント15:51~52

 まずはキリスト教のジョークです。
 ひとりの純朴なクリスチャン女性が牧師に聞いた。「先生、クリスチャンが召されて天国に行ったら、知恵遅れの人も障害のある人も赤ちゃんも…みな、完全な成人のからだになると聞いていますが、何才ぐらいなのでしょうか?」牧師は答えた。「私にはわからないなあ。何才なのだろう。きっと、天国のことだから、みな天才になるんだよ!」

◇ミニストリー・復活の宣教
これはジョークなのですが、天国はあるのだろなァ、死んだら行けるのだろうなァというような漠然としたものではなく、死んでもよみがえるのだ、復活はあるのだ!というのが福音、救いなのです。神がパウロを通してはっきりと告げています(15:3-4)。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けた(福音の)ことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」です。
そこで、二つの疑問の声があり、それに答えていくのがこの章です。

◇ヒストリー・復活の事実
 「どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか」(15:12)。
 もし、死者の復活がないなら、キリストの復活もなかった。キリストの復活がなかったら、私たちの宣教も信仰も実質がない。そればかりかその宣教は偽証になり、信仰はむなしく、私たちは哀れな者となってしまいます。
 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(15:20)。歴史の経緯としては、死がアダムを通して来たように、復活はキリストを通して来たのです。今後の展開はまず、初穂であるキリストの復活、次にキリスト再臨の時にキリスト者が復活、そして、終わりが来て、御子は最後の敵である死を滅ぼし、神がすべてのすべてとなるのです。
復活は歴史の上に起こった事実であり、歴史を越えて起こっている神の事実なのです。それで、こう勧めます。「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです」(15:34)。

◇ミステリー・復活の神秘(奥義)
 もう一つの疑問です。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」(15:35)。この問いは冒頭では牧師がジョークで答えてしまったのですが、この章ではパウロに啓示された復活体のことが明記されているのです(15:37-49)。
わかりやすく種まきにたとえます。「あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません」。説明がその時代のものですから、今風に解釈してみましょう。例えば、リンゴの種をまくと種が土の中で死んで、リンゴの種自身が再生したりはしないように、死者の復活は生前と同じからだに再生するわけではありません。また、リンゴの種はリンゴの木になるものであって、ナシの木にはならないように、生前とは関係のない別のものになってしまうものではなく、同じ人間でありつつ、天のからだに変えられるのです。死者の復活もこれと同じです(15:42-44、47、52、54)。
「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、
弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、
第二の人は天から出た者です。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
    その時『死は勝利にのまれた』のみことばが実現します」。
 「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(15:57-58)。

 先ほど、「第一の人は地から出て、土で造られた者」と出てきましたが、詩篇ではこう歌われています。「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(139:13)。
 その組み立てられ方が最近の研究でわかってきたことがあります。まず、一つの受精卵から始まる。父親の遺伝子情報をもつ染色体と母親の染色体が合わさる。およそ2時間後には受精卵は分裂を開始する。赤ちゃんの体づくりのプログラム情報は細胞の中にすべて用意されている。その細胞が体づくりに躍動するために、メッセージ物質が放出され、そのメッセージを受けて、臓器などができていく。まず、受精卵が「ここにいるよ!」というメッセージ物質を母親へ向けてだすとそれに答えて母体が子宮に着床させる。それから、細胞から「心臓になって!」というメッセージ物質が出されると心臓が出来ていき、「肝臓になって!」というメッセージが出されると、肝臓が出来ていく。次々とメッセージ物質が出され、ドミノ倒しのようにスイッチが入り、臓器が造られていき、人体となっていくのである。
 神が「私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」生命の神秘です。神が「生きよ!」とメッセージを下さって、私たちは生まれてきたのです。そして生かされているのです。さらに素晴らしいことは、主を信じる者に永遠の命が与えられていて、終わりのラッパのなる時に、神のメッセージ言語が発せられ、一瞬で復活の「栄光のからだ」に再創造されるのです。地上でのからだでさえ神秘なのに、新天地で神と共に永遠に過ごせる「栄光のからだ」というのは私たちの想像をこえたものです。
クリスチャンにとって、彼の世で聞くメッセージをこの世で先に聞けるのです。そこに永遠の命の躍動があるのです。ですから、日々に、主日ごとに神の言葉、救いのメッセージの言葉を聞いて生きることは永遠の命にとって最も重要なことなのです。無駄などないのです。神の言葉に生きることが神の業なのです。それに全力を注いで参りましょう。