オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

救いを物語る

2015-02-22 00:00:00 | 礼拝説教
2015年2月22日 伝道礼拝(ヨハネ福音書9:25)岡田邦夫


 「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」ヨハネ福音書9:25

 小さな子どもはお話が大好きです。絵本を読んでとせみます。寝る前にお話してとせがみます。気に入ったものは何度でも要求してきます。人は物語によって成長していくのでしょう。物語を通して、大人から子どもへ文化の継承がなされていくのでしょう。子どもだけではなく、大人もそうです。物語は人間や社会を形成していく上で大事な位置をしめているのです。
 広いくくりで言えば、周りは物語りにあふれています。小説、漫画、映画、アニメ、演劇、歌舞伎、TVドラマ、対談と様々。恋愛もの、サスペンスもの、時代もの、風刺もの、ホームドラマもの、戦争もの、スポーツものと色々です。それらが人の心を豊かにし、人の生き方とつながっていくわけです。ですから、良い物語りに出会うことが重要なのです。
 その点で、聖書は全体として、天地創造から、新天新地に至る歴史(預言を含む)なのですが、物語りの形で記されています。史実の羅列ではなく、読む者、聞く者に、「ものを語っている」歴史なのです。パウロは13通の手紙を残していますが、自分は最も小さい者だとか、罪人の頭(かしら)だとか、そのような者がキリストによって救われ、、使徒となったとか、随所で自らを物語っています。

◇これがわたしの物語
 さて、ヨハネ福音書9章の盲人の物語りを見てみましょう。教えられること、我が身にあてはめられるものがある物語です(9:1-7)。
“またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。”
 この話は続きます。肉体の目は見えるようになった奇跡ですが、心の目が開かれていく話です。この日が安息日で、ユダヤの律法では仕事をしてはいけない、医療行為さえも禁じられていました。そうなるとイエスがなさったことは盲人を救ったのですが、律法違反になるとパリサイ人が追求していくわけです(9:14)。しかし、目の開いたこの人は物語ります。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(9:25)。尋問の中で「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」とあの方のことを語ります(9:32ー33)。
 そして、イエス・キリストは再会してくださり、この人は「主よ。私は信じます」と信仰の告白をして、救いの物語を完結するのです。
 私たちは自分の人生を振り返り、それを物語ることが重要です。それが生きてきた証しだからです。それが神に出会って、幸いでした、目が開かれましたという物語であれば、それは傑作なのではないでしょうか。

◇これがわたしの賛美
 救いの物語は神への感謝、神賛美となるのです。「アメイジング・グレイス」はこのごろ、良く聞きます。キリスト教と関係のない歌手も歌いますし、追悼の時にしばしば、この聖歌が歌われます。結婚式でもこの曲が流れます。特にアメリカでは第二の国家と呼ばれるほど親しまれています。
 この作詞者のジョン・ニュートン(John Newton、1725年 - 1807年)は、イギリスの海軍兵士から奴隷商人を経て牧師となった人物です。
 (ネットの文章をそのまま、ここに載せますがご了承下さい。なお、なお詳しい伝記はファイルしたものがあります。また、BSで放映された特集のDVDもあります。お望みの方にお貸しします。歌詞は最後に載せます。)
 船員の父と熱心なクリスチャンの母の間にロンドンで生まれる。1732年6歳で母親を亡くす。1733年に父親が再婚。1742年11歳の時に父と共に地中海に最初の航海に出て、船乗りとなる。1742年に当時14歳のメアリー・キャットリットに初めて会う。1744年に軍艦ハリッジ号に普通船員として強制的に徴募される。1745年に軍艦ハリッジ号から奴隷貿易商船の船員へ交換される。1741年より、奴隷貿易に従事。
 1748年、22歳の時、自分の乗った船が暴風のため難破しかけた。この時、母の死後初めて神に祈り、奇跡的に遭難を免れたことで回心し、生活態度を改める。1750年24歳でメアリー・キャットリットと結婚する。その後、その後6年間アーガイル公爵号(the Duke of Argyle)という奴隷船の船長になり、奴隷をシオラレオネから西インド諸島のアンティグアに運んだ。さらに、アフリカ号(The Africa)で船長として二度目の奴隷貿易に従事する。
 1755年30歳で奴隷貿易の仕事を辞めリヴァプールの関税職員になる。ロンドンでジョージ・ホウィットフィールド、ジョン・ウェスレーと関わり、影響を受け牧師になるための勉強を始める。1758年チェスターの主教がニュートンの英国聖公会の聖職叙任を拒否する。1764年にダートマス伯爵がニュートンの後援者になり、ダートマス伯爵の紹介で1764年38歳でオウルニィの副牧師職になる。1764年39歳で『物語』を発表する。1767年42歳の時にうつ病の静養のために移住してきたウィリアム・クーパーと未亡人のメアリー・アンウィンに出会い友達になる。オウルニィへ引っ越すことを勧める。1769年より、グレートハウスで毎週の祈りの集会を始める。クーパーと共にこの集会のために讃美歌を書き始める。1773年クーパーが精神に異常をきたしニュートン宅に8ヶ月同居する。1779年に『オウルニィの讃美歌集』という讃美歌集を出版した。この中に後に有名になる『アメイジング・グレイス』が収録された。その年、ロンドンのセント・メアリー・ウルノス教会に教区牧師として赴任する。その頃から、奴隷貿易反対運動に関わる。1785年にウィリアム・ウィルバーフォース下院議員の相談に乗る。下院議員を辞めて、聖職者になりたいというウィルバーフォースの希望を断念させ、福音主義の議員の立場から奴隷貿易反対をすべきであると忠告する。 1790年にニュートンの妻メアリー・キャトリットが癌で死去する、姪で養女のベツィ・エリザベス・キャトリットが家事を行う。1801年ベツィが神経失調のために入院する。1802年ベツィが回復する。1807年81歳の時、英国国会法で奴隷貿易の廃止が決定される。1807年82歳でニュートンが死去する。亡骸は、セント・メアリー・ウルノス教会の地下納骨所に妻と共に埋葬される。現在、地下鉄工事のためにオウルニィの町に改葬された。
 ジョン・ニュートンの救いの物語はアメイジング・グレイスに結集されています。私たちも、それと重ねて、この聖歌をもって、神賛美を致しましょう。
新聖歌233番
1.おどろくばかりの めぐみなりき この身のけがれを 知れるわれに
2.めぐみはわが身の おそれを消し まかする心を おこさせたり
3.危険をもわなをも 避けえたるは めぐみのみわざと 言うほかなし
4.御国(みくに)につく朝 いよよ高く めぐみのみ神を たたえまつらん









わたしの民がたくさん

2015-02-15 00:00:00 | 礼拝説教
2015年2月15日 主日礼拝(使徒の働き18:1-11)岡田邦夫


 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」使徒18:9-10

 日本と欧米の文化の違いによくでてくるのはノコギリとカンナです。日本のノコギリもカンナも引いて使いますが、欧米のは押して使います。その例にみるように、日本人はよその文化を自分の方に引いてこようとするが、欧米人は自分の文化をよそに広めようとするのだと比較する文化人類学者がいます。ですから、日本ほど世界中のパンがある国はないというのもそのせいでしょう。
 パウロが小アジアの西の端で、マケドニア人の叫びの幻を見て、エーゲ海を渡って第二次伝道旅行を進めます。マケドニア、アカヤ、ギリシャへと伝道の足をのばしていきます。イエス・キリストの福音を受け入れる人もでてきますが、文化の衝突もありました。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております」(使徒16:20-21)。そういう衝突の中で、渇いていた人たちがおり、ピリピにも、テサロニケにも、コリントにも信者が増え、教会(家の教会)が出来ていきます。

◇知識人にも
 ついにギリシャまでやってきた時、哲学の町アテネ、そして、商業の町コリントに乗り込みます。それぞれの文化にあわせて、パウロたちは福音をのべ伝えます。アテネにはエピクロス派とかストア派とが哲学論争をしていました。どちらも心の平安を求めるのですが、前者は自然的な快楽を肯定し、運命など過剰な不安や恐れを避け、平安を得ようとします。後者は宇宙と個人を結びつけ、その運命を受け入れ、禁欲的に生活し、平安を得ようとします。
 この人たちが「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるのか、知らせていただけませんか」と求められたので、パウロは「アテネの人たち。」と言って、語り出します(17:22-31)。おびただしい偶像の中に「知られない神」と刻まれた祭壇を見つけ、知らずの拝んでいる神こそ、真の神であること、その神が天地を造り、人を造り、国や境を定めたこと、一人の人が神から遣わされ、死んで復活したことを話します。だから、偶像礼拝をただし、悔い改めるようにと勧めます。優れた伝道メッセージでした。しかし、霊魂不滅を信じ、復活など意味がないと思っている人たちだったので、あざ笑われることになりました。しかし、信仰に入った人たちもおりました。
 後にパウロはローマ人への手紙で大いなる確信を持ってこう述べています(1:14、16)。「私は、ギリシヤ人にも未開人(ギリシャ語を話せない人)にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」。

◇放縦人にも
 アテネの次にコリントに行きます。そこは東西貿易の港のあるところで、商業の発達した町でした。そのため、経済的に繁栄し、様々な人種、文化が混じり、大きな神殿とそれにともなう売春がありました。「コリントのように振る舞う」と言うと、放埒(ほうらつ)、放縦、不品行を行うという意味で使われるほど、道徳的に乱れていたのです。まずはパウロ、イタリヤから来た夫婦の家で天幕作りをしながら、伝道します。伝道チームのシラスとテモテがやって来たので、パウロは伝道に専念します。ここでも、ユダヤ人の反抗にあい、会堂管理者の家に引っ越します。会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じます。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けるのです。そのような時でした。ある夜、主は幻によってパウロに告げました。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けたのです。
 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(18:9-10)。
 T夫妻が新居浜から大阪に転勤で越して来ました。T姉が宝塚の社宅で、その庭に落ちた枯れ葉を一所に集め、置いておきました。時が過ぎたある日、その枯れ葉を見ると黒くなっていました。それを見た時に、この町の人々が滅んでいくと思うと胸が熱くなり、涙しました。その時、「この町には、わたしの民がたくさんいる」とのみ言葉が与えられました。お隣にW夫妻も同じように引っ越してこられていたので、宝塚にホーリネスの教会が出来るようにとW姉と祈り会を続けました。家庭集会を開けば、救われる人も起こされていきました。後に今の宝塚泉教会が出来ていったのです。実にお言葉の通りなのでした。この三田においてもそう確信します。「この町には、わたしの民がたくさんいる」。
 ところで、コリントは放縦の文化でしたから、コリントの教会にも、色々な問題が生じました。そこで、後にパウロはそれに対して、コリント人への手紙を書きました。それは単に問題対処なのではなく、分派、不品行、訴訟、結婚、離婚、偶像、賜物等々の問題に対して、キリストの福音の光を当てました。そして、十字架と復活の福音を明らかにし、聖餐などの重要な聖礼典を書き記します。第一と第二を合わせて29章という新約聖書で一番章数の多い、聖書となります。コリントという文化都市に問題が多いからこそ、福音の神髄(しんずい)を語り続けたのだと思います。問題を感じれば感じるほど、私たちもこのみ言葉を聞き、信じて、進んでいきたいと思います。
 「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(18:9-10)。

ヘルプ・アス

2015-02-08 00:00:00 | 礼拝説教
2015年2月8日 主日礼拝(使徒の働き16:1-10)岡田邦夫


 「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」使徒16:9-10

 芭蕉の「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」はよく知られた俳句ですが、事典ではこう説明されています。「春の静けさの中、時折古池にかえるが飛び込む音が聞こえる。その音がいっときの余韻を残し、再びもとの静寂さを取り戻す」。耳を澄まして、静寂を思うのでしょう。さらに、目をそこに向けてみるのも良いでしょう。時を経てそこにある池、そこで育ったおたまじゃくしが蛙となり、岸に上がる。この時、蛙はチャポンと池に飛び込み、泳いでいく。その動きに合わせて波紋が池に広がっていく。そのような営みが目に浮かんできます。
 水面に何かが投げられれば、その波紋が広がっていきます。大きく言えば、こうです。イエス・キリストが人の世に飛び込んでこられ、神の国は近づいたという福音という波がユダヤという国に広がっていきました。そして、私たちを罪と死と滅びの中から救うため、十字架という苦悩の中に、身を投じられ、そして、よみがえられました。その十字架と復活の福音の波紋は全世界へと広まっていき、極東の私たちにも及び、救われたのです。

◇居ても立っても居られぬ心境
 最初、世界にキリスト教が広まっていった歴史が使徒の働きに記されています。地中海沿岸、ぐるりとローマ帝国の支配下にありました。この海が福音が広められていくのに大きな役割を果たしておりました。ヴォーリズという人は一般に建築家として、あるいは実業家として知られていますが、伝道のために来日した宣教師でした。ガリラヤ丸と名付けた伝道船で琵琶湖の周辺を行き巡り、伝道していき成果を上げられました。パウロは同行者と共に地中海を船で三度の伝道旅行をし、最後は囚われの身として、ローマへの船旅をしました。
 キリスト教が広まっていったのは「福音」そのものにありました。ペテロとヨハネは言っています。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4:20)。イエス・キリストによって、罪赦され、義とされ、永遠の命が与えられ、聖霊によって、それにともなう平安や喜びや確信が与えられたのですから、のべ伝えずにはいられなかったのです。パウロは第一回の伝道旅行ではおさまらず、第二回の伝道に行きます。「幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。『先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。』」(15:36)。居ても立っても居られなかったのでしょう。意見が合わず、バルナバはマルコを連れ、キプロス島に向かい、パウロはシラスを連れて、陸づたいに小アジアを西に進んで行きます。仲間割れも福音の前進につながります。伝えずには居られない思いがあるからです。私、若い時に先輩の牧師から「教会の問題はすべて伝道によって解決するのだ」と言われた教訓を思い起こします。
 確かに、突き動かすものはあるのですが、正しい方向に行くように、主の言葉があるのです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」という大いなる命令と使命(マルコ16:15)。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」という約束と保証(使徒1:8)。

◇やむにやまれぬ状況
 パウロは小アジア(今のトルコ)の諸教会を励まし、クリスチャンの人数も増えてはいくのですが、それでは収まらない事態になります。私、勤めていた会社はシリコン樹脂も製造していました。ある状態に作るとガムのように伸びる。丸めれば、天然ゴムより弾む。それを床において、思い切りハンマーで叩くと粉々になって飛び散る。それを集めて丸めれば元に戻る。不思議な性質があるというのを実際やっているのを見ました。キリスト教も、伸びたり、弾んだり、散ったりします。特に迫害にあい、そこにいられなくなり、散らされると散らされた所で、かえって伝道が進んでいったのです(8:1、4、11:19)。
 この章では迫害という阻止ではなく、聖霊の阻止ということが起きたのです。「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、(北の方の)フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、(更に北にある)ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、(最西端の)トロアスに下った」(16:6ー8)。神は私たちに時に思いの中に止めるような働きをすることがあります。後で、神の計らいを知ることがあります。この時は伝道史上、極めて重要な時でした。
 「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである」(16:9 ー10)。ここで、神が直接、エーゲ海の向こうのマケドニアに渡っていけと命じられ訳ではありません。マケドニア人の助け、求めを幻で見て、これを信仰の判断で、渡航の決心をしたのです。
 海という隔て、アジアとヨーロッパの文化の違いという壁を乗り越えさせたのは、求めている人たちの引き寄せでした。宣教命令があり、聖霊保証があるのですけれど、「求めよさらば与えられん」。私たちは求めている人たちの所に行くのです。パウロはヨーロッパ人の求めを感じ取り、信じて確信に立ち、直行したのです。こうして、ヨーロッパ伝道が始まったのです。
 最初はピリピ。祈り場でルデヤという婦人に会います。求めていたのです。「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、『私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。』と言って頼み、強いてそうさせた」(16:14-15)。
 迫害に会います。むち打たれ、獄に入れられます。しかし、「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、…突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった」のです。目をさました看守はこの事態に自殺しようとします。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫びます。看守がふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」ともとめます。ふたり言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(6:31)。看守はふたりを引き取り、その打ち傷を洗ってから、彼とその家の者全部がバプテスマを受けたのです。そして全家族そろって神を信じたことを心から喜んだのです(16:34)。それから、テサロニケ、アテネ、コリントと伝道地を拡大していきます。やがて、ローマ帝国の全域にと福音が宣教の波紋が広がっていき、3世紀をへた頃には帝国がキリスト教国になっていたのはご存じのことと思います。
 波紋は投げ入れたところから始まります。居ても立っても居られぬ心境からでしょうか、やむにやまれぬ状況からでしょうか、今日、私たちは「マケドニアの叫び」の声を聞いて、立ち上がりたいと思います。

縦並びと横並びと…

2015-02-01 00:00:00 | 礼拝説教
2015年2月1日 主日礼拝(使徒15:6-11)岡田邦夫


「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。」使徒15:11、28

 先日、窓から中庭を見るとお隣の猫が通りかかった。彼(彼女)はここを通ってどこかに行き、また帰って行くのが日課のようだ。私は窓越しに“どこ行くの”と声をかけると、右前足を上げたまま立ち止まって、私を見たのである。なお見ていると、こちらを向いてきちっと座った。“道路は危ないから気い付けよ、はよう帰り”と話して、私たちは互いに瞬きして分かれた。
 私、小学校1年の2学期に家が引っ越しして、学校も転校、友達が出来ず、学校に行くのがイヤでたまらなかった。母親に無理に連れられて行くこともあり、その状態のまま2年生になった。図工の時間、母親が八百屋で買い物をしている絵を描いた。担任の先生が「岡田君、ちょっと残って、その絵を大きな画用紙の方に描きなさい」と声をかけられ、放課後、先生の前で描いた。それが荒川区の展覧会に出展され、銅賞だった。朝礼の時、全校生徒の前で賞状が手渡され、私はあっけにとられているだけだった。しかし、それから、不思議なように学校と友達になじんでいけたのです。あの時、私のことを気にかけ、声をかけてくれた先生に感謝しています。

◇神の声かけ
 旧約聖書を見ると、神がアブラハムに声をかけ、そして、モーセに声をかけて、救いの歴史が始まります。そして、神に声をかけられた人たちによって、救いの歴史が綴られていきます。しかし、人間の罪深さのゆえに、終焉を迎えることになり、新しい救いの時代を迎えなければなりませんでした。ついに、神の御子が天から降りてこられ、人となり、顔を合わせて、ペテロをはじめ、12人にお声をかけられ、新しい救いの歴史が始まったのです。そして、イエスはユダヤ人伝道のさなか、侮辱されていたサマリヤ人の町をわざわざ通ります。ヤコブの井戸のところで休んでいると、サマリヤの女性が来たので、イエスは声をかけます。「わたしに水を飲ませてください」(ヨハネ4:7)。そこから、会話が信仰の話に進み、魂が渇いていた女性はこの方によって満たされ、救われます。そこから町の多くの人が救い主を信じたのです。サマリヤ伝道はイエスの声かけから始まったのです。
 その後、選ばれた使徒たちが聖霊に満たされて、エルサレムから始まって、異邦世界に伝道を進めます。エルサレムで迫害がおこるとピリポはサマリヤ伝道に出て行きます(使徒8:5-)。なお、ピリポは道行くエチオピアの宦官(かんがん)を見かけた時に声をかけ、個人伝道をし洗礼を授けます(使徒8:27-)。宦官が祖国に帰り、証ししたのでしょう。やがてエチオピアがキリスト教国になっていきました。
 神が特別な計らいで、二人の人物を会わせます。敬虔なユダヤ教徒、カイザリヤの百人隊長コルネリオにみ使いが現れます。一方、ヨッパにいたペテロにはユダヤ人は食べない汚れた食物の入った風呂敷の幻を見させ、「神がきよめた物をきよくないと言ってはならない」と告げます(使徒10:15)。ユダヤ人は汚れるからと絶対に異邦人の家に入れませんが、コルネリオからの迎えが来た時、画期的なことですが、彼は行きます。そして、ためらいもなく、「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです」と言って福音を告げます(使徒10:34-35)。そこにいたすべての人が信じて洗礼を受けました。ペテロはエルサレム教会に帰ってその異邦人へのみ業を報告。聞いた人たちは神をほめたたえたのです(使徒11:18 )。
 迫害の手が伸びて、ヤコブが殉教。ペテロも投獄。み使いによって獄が開かれ、彼のために熱心に祈っていた教会に帰って行きます。使徒たちがそのような状況におかれている中で、神は一人の人物に声をかけます。ここで、復活のイエスがサウロに声をかけます。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4後にパウロと改名)。彼は迫害者でしたが回心をし、主イエスからは異邦人宣教の使徒としての召命をうけます。
 そして、バルナバがパウロとチームを組んで、アンテオケの異邦人教会から伝道旅行に派遣されていきます。まずは地中海のキプロス島。小アジア(今のトルコ)に渡り、ピシデヤのアンテオケで伝道。「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た」ほど、福音に飛びつくのです(13:44)。これを妬むユダヤ人たちが妨害し、この地方から追い出してしまいます。行く町々で同様なこと(福音の宣教→異邦人の受容→ユダヤ人の妨害)が起こります。「私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます」と宣言したのは個人的な思いではなく、神のみこころを示すものでありました(13:46)。

◇人の声かけ
 そして、第1次伝道旅行はを終えて、アンテオケ教会に帰り、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告しました(14:27)。本部ともいうべきエルサレム教会に行く必要が生じます。報告すると異邦人の改宗を喜ぶ人たちがいる中で、異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守らせるべきだとと異議を申し立てる者があらわれ、この教会会議の議場は混乱してしまいます。そこで、使徒たちが出した判断と決議は実にみごとなもので、この有り様(よう)というものがキリストの福音を全世界に広めることとなるのです。
ペテロは福音を信じるのにユダヤ人も異邦人も差別はない、父祖たちも私たちユダヤ人が負いきれなかったくびきを彼らに負わせるべきではないと意見を述べます。ヤコブも聖書を引用して、異邦人の救いは神のみこころであり、「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです」と主張します(15:20-21)。そこで衆議一決。決議されたことの書状をバルナバとパウロに託し、異邦人教会に届けることになります。文言はヤコブの言葉どうりなのですが、「聖霊と私たちは…決めた」のだと言います。
 イエス・キリストによる救い以外にはない。これは絶対的です。そして、信じる者はだれでも救われる。これは普遍的です。ところが同じ唯一の神を信じるユダヤ人には割礼とか、生活の様々な規定があり、その中で生きています。異邦人となるとそうは生きてこなかったし、別な習慣があります。同じイエス・キリストを信じても、規定や習慣が違うのですが、それは相対的なものです。妨害するユダヤ人たちはその規定(律法)や習慣を絶対視して、他者にも強要したのです。しかし、この会議ではこの絶対的なものと相対的なものとをきっぱりと区別したのです。神に立ち返る異邦人を悩ませないという配慮。偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるよいうユダヤ人に対する配慮が盛り込まれています。相対的にどちらも良いからです。譲り合うものだからです。
 言い方をかえてみましょう。イエス・キリストの神は絶対です。聖霊によって与えられた信仰も絶対といっても良いでしょう。神と私は縦並びです。ところが人と人は神の前には横並びです。信仰を持った者が誤りやすいのは、自分は信じているから、信じない人より上なのだという縦並びになってしまうことです。極端にいえば自己絶対化して、他者を見下し、力で押し切るのです。差別、虐待、侵略、搾取などの悲劇を招くのです。パウロは自己絶対化して、キリスト者たちを見下し、迫害の先方を行っていたのですが、復活の主イエス・キリストに出会い、目から鱗、本当の絶対者、救い主が解ります。自分と生活を相対化して、罪人のかしらだと自然にへりくだり、「神に立ち返る異邦人を悩ませない」という書状をもって、世界宣教の先端を駆け抜けていったのです。エルサレム会議に学び、絶対者の前にたつ、相対者というスタンスに立ちましょう。